『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:六章-05」
社霞には、他者にはない『能力』が在る。
それは生来のものであり、ある意味「そうできるように」組み込まれた『能力』。或いは『異能』とでも言うべきそれ。
人類の希望というお題目で飾られた美辞麗句の末の果て。それが霞であり、彼女の『能力』。故に、彼女の持つそれは格別に優秀で有能で、だからこそこうして、香月夕呼の下に就いていられる。
霞自身はこの『能力』を疎ましいとも望ましいとも感じていない。産まれたその瞬間から既に身に備わっていたのだ。最早それは彼女にとっての当然であり、自然であり…………だからこそ、それが他者にとっての不自然で脅威で畏怖の対象となり得るのだと知ったとき。彼女は初めて己の『能力』を呪った。
だが、いくら「呪わしい」と嘆いたところで、ではそれ以外に自分に何か他者より秀でているモノが在るかといえばそんなモノは無く……。
そして、今尚その『能力』こそを必要とされこの場に居る自分……ああ、それが運命なのだと自身を納得させても……それでも、矢張り胸が痛む。苦しく、哀しい。
「白銀さん…………」
思い出すのは二日前。夕呼の研究のために呼び出された少年。あの人にとっての特別な存在。「S」ランクの戦術機適性を持つ、衛士訓練兵。――白銀武。
彼を思うと、ズキリと心臓の横が啼く。あの人を思うと、ズキリズキリと心臓の横が啼く。
どうしてだろう。ただ、哀しいと感じてしまう。あの人の心を覗くたび……彼の心を覗いたとき。その深い暗黒に、ただ、涙が零れてしまう。
できるならば、もう二度とそんなことはしたくない。だが、それが夕呼の命令であり、そしてそれを実行するのが霞の存在意義である以上、……彼女は拒むことなど出来ないし、実行しないという選択肢など消失する。
霞は目の前のシリンダーをじっと見つめた。
青白い光を放つ円筒形のシリンダー。こぽこぽと小さな音を立てて循環する液体の輝きに照らされて、銀と黒を纏う少女は静かに口を開いた。
「今日も、また、会えますね……。今日は、たくさん、お話……したいです」
話しかける。シリンダーに。そこに浮かぶ「脳ミソ」に。脊髄がくっついているだけのそれに。まるで標本のようなそれに――話しかける。
まるで、ソレが「生きている」とでも言うかのように。
何度も、繰り返し、話しかける。……無表情に、けれど、どこか哀しげに。
「…………会いたいですか……? 会えますよ。もうすぐです。……今は、香月博士のところです。すぐ、ここにやって来ます……」
話しかける。「脳ミソ」に話しかける。霞はじっと見つめたまま、何度も何度も。
無論、「脳ミソ」から返事が在るはずが無い。当たり前だ。それは「脳ミソ」であって口ではなく、舌も喉も無い。もし仮に、例えばその「脳ミソ」が「生きている」のだとしても……霞の声が聞こえるわけでも、それに対して返答できるわけでもない。或いは、目の前に立つ霞すら見えることもない。「脳ミソ」と脊髄。ただそれだけなのだ。
見えず、聞こえず、喋れず……。そんな「脳ミソ」に。けれど霞は話しかける。その声を聴く。――会話するように。何度も。何度も。
――それこそが、霞の『能力』だ。
与えられた『能力』は二つ。リーディングとプロジェクション。それは相手の思考を読み取り或いは投影する『異能』。
霞はソレを使う。使うことを義務付けられている。他者の思考を「イメージ」として、感情を「色」として読み取る『能力』――リーディング――に依って「脳ミソ」の思考を読み取り、理解する。それが彼女に与えられた任務であり、至上命令。彼女がここに居る理由。
つまり。
そう、つまり。この「脳ミソ」は比喩でもなんでもなく……「生きている」、のだ。
思考を持ち、感情を持ち……。生きて、「会いたい」と願っている。
霞が読み取れていることはただそれだけ。この「脳ミソ」と出逢ってからもうすぐ一年が経過する。……毎日、それこそ四六時中傍にいて、話しかけて声を聴いて……わかったのはその願いと名前だけ。それ以外の感情は、思考は、全てがぐちゃぐちゃで混沌と混じり合っていて、ひどく寒気のする哀しい暗黒。意味在る言葉は拾うことが出来ず、ただ混沌の渦が巻いている。
埒が明かない。夕呼はそう言った。「脳ミソ」の記憶が欲しい。この「脳ミソ」の持ち主が見て、聴いて、体験したことを知りたいのに……それを、それ以外の事象すら、読み取ることが出来ていない。だから、――埒が明かない。
そんな折だ。この横浜基地に彼が現れた。――否、それは最初から仕組まれていたことだ。その仕組まれたレールの上に、偶々、本当に偶然に、彼がいたのだ。夕呼は驚喜しただろう。こんな偶然、恐らく他にない。
そして霞には新たな任務が与えられた。
彼の記憶に在るあの人のイメージをリーディングで読み取り、それを「脳ミソ」にプロジェクションで投影する。「脳ミソ」は与えられたイメージを認識し、恐らくは自身という存在を認識し、思い出し……そこから記憶を読み取る。
やることは変わらない。
ただ、そのための手段が一つ増えたというだけだ。
霞は他者にない『能力』を以って武の記憶を覗き見る。
霞は他者にない『異能』を以って「脳ミソ」の記憶を覗き見る。
――それが、哀しい。
自分にしか出来ず、そしてそれは人類にとってとても有益で必要で重要なことなのだとわかっていても。それでも、矢張り心が痛む。心臓の横が啼き声を上げるのだ。――痛い/哀しい。
「……わたしは、とても酷いことをしていますね……白銀さんを、あんな風に苦しめてしまって…………」
眼前で発狂した武。
自分の『能力』が引き起こしたそれに、霞は自責の念に駆られている。
リーディングという『能力』は、その者の表層意識に在るものこそを読み取りやすい。対象のその時の感情や思考、そういったものほどより明確に、そして簡単に読み取り、理解することができるのだ。
故に霞は、武の記憶からあの人のイメージを読み取るために、色々な質問をした。彼があの人のことを思い浮かべるような話題を探して、話して……聞いて。そして、霞自身が知りうるあの人のイメージをプロジェクションによって投影し、強制的にその記憶を読み取ろうとした。――してしまった。
結果は酷いものだった。
確かに彼は、あの人のことを思い浮かべた。否、それは明確にはあの人のことだけでなく、信じられないほどの黒い感情に塗り潰された自身の慟哭。己に対する罵倒と嘲笑、諦めと絶望の坩堝の端々に、あの人の姿が見えた。
霞はその小さな断片のイメージを即座にリーディングし、リアルタイムに「脳ミソ」へプロジェクションした。……それによって、「脳ミソ」に何らかの反応があると期待して、確信して、そう願って。
結果は、酷いものだった。
…………とても、酷いものだったのだ。
あの人は、「脳ミソ」は。劇的な反応を見せた。ただの一瞬。刹那の時間。武と霞と「脳ミソ」と。リアルタイムに情報のやり取りをするために接続していた意識の束。それが直結されていたその瞬間の、本当に、ただそれだけの時間。
――タケルちゃん!!!!!!!
その思考が、イメージが、叫びが、懇願が、絶叫が、悲鳴が、歓喜が、恐怖が、祈りが、願いが、絶望が、怒りが、嗚咽が、憎悪が、涙が、悦びが――――全部全部、ぐちゃぐちゃの滅茶苦茶の、そんなものが。
霞自身、意識を持っていかれそうになった。全くに予想していないその超反応に、彼女は心身が一瞬だけ凍結してしまって……故に、それを投影してしまっていた。武に。繋いだままの彼に。
霞の『能力』を介して、「脳ミソ」と武は繋がった。繋がってしまった。――イメージが奔流する。
武の精神は砕けた。
それは一時的なものだったけれど。もし、もしも……あの人の思考がそれに留まらず更なる混沌を吐き出していたなら。或いは、彼の精神構造がほんの少しでも脆かったならば。
それを考えると恐ろしい。恐怖が、霞を襲う。縛る。もう嫌だと弱音を吐かせる。
結果は、酷いものだった。
あの人はまた意味のない混沌の思考を繰り返し。その中で矢張り「会いたい」とだけ願い続けている。
武は……幸いにして精神や肉体に支障はないものの……この実験を続ける限り、いつ精神崩壊を起こし、狂い死ぬかわからない。
だが、夕呼は言った。言ってのけた。
成果は上々――例え発狂しようが精神崩壊しようが――そう、言ったのだ。
確かにそうなのかもしれない。ただの一瞬とはいえ、あの人は反応を見せたのだ。これまでにない反応を。壊れんばかりの想いを。叫びに叫んだのだ。
ならば、この実験は続ける価値が在る。否、続ける以外に選択肢はない。
そのために武という存在が必要で、霞にしかそれが出来ないというなら。……矢張り、少女はそれを成す以外に道を知らない。それしかない。
プシュゥ、と軽い音を立ててドアが開く。見ればそこには白衣を着た夕呼と、青いジャケット姿の武。
――さぁ、始めましょう。
結果は見えている。多分、きっと。今日も。
ごめんなさい。ごめんなさい。わたしはきっと、とても酷い女です。だから、ごめんなさい。…………でも、決してわたしを赦さないでください。
霞は眼を閉じて、まるでおまじないを唱えるように心中で謝罪する。
目を開き、まっすぐに武を見る。――貴方を、あの人に会わせてあげます。
それが、自分に課せられた運命というのなら。
===
二度目の呼び出しを伊隅みちるは受けていた。前回も、そして今回も。偶々隊内の訓練が終わり、自由な時間を過ごしていたからいいものの、これが例えば訓練の最中であったり任務の最中であったりしたならば…………いや、矢張りそういう類に依らず、みちるは溜息を吐かずにはいられない。
自分は便利な運搬屋か――?
ふと思いついた揶揄に皮肉な笑みが漏れそうになるが、しかしみちるは表面上はいつもの彼女のとおりに通信を終える。こんなことを、ピアティフに言っても仕方がないし、意味がない。なにより、直属の上司である夕呼からの呼び出しなのだ。本来ならば何をおいてもそれを優先するのが当然であり軍人としての義務である。訓練中だろうが任務中だろうが、夕呼がそれが必要と判断し、来いと命じるならば、行かねばならない。
自機の不知火の調整について整備班長と打ち合わせていたがそれを打ち切り、班長には後日改めて、と謝罪する。いかにも技術者といった風体の老人は快活に笑い、あんたみたいな美人ならいつだって歓迎だと軽口を吐く。みちるはそんな彼に苦笑して、格納庫を後にした。
向かう先はB19フロアに直結するエレベーター。居住フロアやブリーフィングルームの連なる階層へと繋がる通常のエレベーターとは異なる、高度なセキュリティで守られたそれ。入口にあるID認証機に慣れた手つきで自身のカードを通す。
コォォ、というごく小さなワイヤの擦過音を聞きながら、みちるはさて、と考える。
今回の呼び出しはどういう内容だろうか。恐らくは前と同様に、あの部屋で少年が倒れているのではないか。否、そうに決まっていた。
呼び出し方も同じなら呼び出す場所も同じ。夕呼の執務室の隣りに在る「脳ミソ」シリンダーのあの部屋。……ならば、またそこで特殊な検査、或いは実験・研究というべきものが行われ…………検体である「S」ランク適性を持つ彼の訓練兵が意識を失って倒れているのだろう。
正直に言って、みちるにはいい迷惑だ。
夕呼の下に就いて既に四年。その間に天才と名高い夕呼の性格は十分に承知しているつもりだ。基本的に傍若無人。不遜で尊大で圧倒的。みちるの中で、夕呼という存在を端的に表すならばそういう人物になる。あながち間違ってはいないだろう。みちるは二度目の溜息をつく。
要するに、彼女は他人を振り回すのが好きなのだ。自分の手の平の上で他者を転がすのが何よりも楽しく愉快で、それに多くの者を巻き込むことを望む。
無論、単なる娯楽家というわけではない。
まがりなりにも副司令。物理学者、科学者として大成し、軍人でないにも関わらず極東最大の国連軍基地の副司令を任されている。それは、この基地の存在そのものが彼女の研究のために用意されたに等しいという裏の事情によるところも大きいが、それ以上に、香月夕呼という存在は、矢張り凄まじいほどに優秀なのだという証明だ。
仕えるに相応しい。少なくともみちるにとってはそう思わせる人物なのである。
だからこそ、こうして溜息を吐きつつも、命令だからと納得しながらも、それでもやっぱり今後もちょくちょく呼び出されるようなことになれば……遣り切れない感情にがくりと肩を落としたくもなる。
これが例えば部下の木野下や速瀬あたりに任せられるなら、みちるの苦労もなくなるのだが。
そんなことを思いつくも、そもそも「S」ランク適性を持つ衛士の存在自体が現状においてかなり高位な機密情報であるために、矢張り自分が行くしかないという結論にたどり着く。実に不毛な思考だった。
そうこうしている内にエレベーターは停止し、ドアがスライドする。歩きなれた廊下を行き、そしてみちるは、再びその光景を目にした。
青いジャケットを着た訓練兵が、少年が、うつぶせに倒れている。前と同じだ。一体どれ程過酷な実験が行われたというのだろう。みちるは少しだけ眉を寄せて、自分が考えることではないと首を振る――振った先に、前回とは違う光景を見つけた。
倒れている。
白銀武訓練兵ではない。――少女だ。社霞。夕呼の下で彼女の研究をサポートする……夕呼をして「特別な存在」と言わしめる少女。
「社ッ?!」
思わず、声に出して駆け寄っていた。蹲るように倒れている少女に寄り、ざっと全身に眼を通す。主だった外傷はない。頭部を強く打ったのか、軽い脳震盪を起こしているらしい。呼吸は正常。脈拍にも異常は見られない……みちるはほっと息をつく。さて、一体これはどういうことだろうか。
疑問に思ったみちるは周囲を観察する。部屋の中央辺りに倒れている訓練兵。壁際に倒れていた霞。……どうやら検査に使っていたと思しき機器からは火花が散っている。夕呼の姿がない。それに気づいた時、みちるの脳裏にテロリズムによる暗殺という想像が巡る。
まさか! そう思い立ち上がった瞬間に、ドアがスライドする。鍛え上げてきた衛士としての本能が脊髄反射を起こし、そこから現れた人影に飛び掛る――銃を持ってこなかった――己の怠慢に毒づきながら、しかし彼女は獰猛な黒豹の如き俊敏さで人影の腕を取り、捩じ伏せようと――、
「ぇっ?! ちょ、伊隅ッッ!!??」 「――――はぁああ! …………ぁ?!」
ぐるん。
掴んだ腕を支点に、人影が回転する。完全に極まっていた。だが、その寸前にみちるは見た。そして聞いた。
現れた人物は香月夕呼その人であり、彼女は暗殺されたわけでもなければテロリストが侵入したわけでもなく――ッ。
「も、申し訳ありませんっ、香月博士ッッ!!」
「…………べつにぃ、もう全然気にしてないんだけどねぇ……まぁ、生まれて初めて世界が回転する気分を味わったわけだし。これはこれで貴重な体験よねぇ…………」
執務室、いつもの椅子に腰掛けた夕呼はとてつもなく不機嫌そうな顔で、しかし如何にも「気にしていない」と言いたげな口調で言う。事務机を挟んで夕呼と対峙するのはひたすらに頭を下げるしかないみちる。彼女らしからぬ早合点の結果だった。
「……ま、それだけあんたが私のことを気に掛けてくれてるってことよね。でもまぁ、らしくないわね伊隅。いくらなんでも、いきなりテロはないんじゃない?」
「は、返す言葉もありません。香月博士……本当に、申し訳ありませんでした」
一転、からかうように頬を歪める夕呼に、しかしみちるはどこまでも真面目な顔だ。当たり前である。勘違いの挙句に副司令を投げ飛ばしたのだ。技をかける瞬間にそれが夕呼だと気づいたからこそ威力を殺すことも出来たが、これが例えば全くに気づかなかったならば、恐らく夕呼は今頃ベッドの上だ。
熟練衛士の手加減無しの一撃を受けて、無事でいられるほど夕呼は鍛えてなどいない。今彼女がこうして自身の椅子に座り、部下であるみちるを弄くることができるのも、みちるの手加減があったこそだ。もっとも、だからどうしたということでもなく。
事実として副司令を投げ飛ばしてしまったみちるは、今日ほど己の迂闊さを恥じたことはない。普段の彼女ならばこんな短絡的な思考に到ることはないだろう。状況をろくに確認しないまま、ごく僅かな情報でことを判断するなど愚の骨頂。――ならば、何ゆえにみちるは愚かしくもその行動に到ったか。
理由としては、恐らくはあの部屋だ。
内容も何も知らされていない実験。倒れていた訓練兵。傷ついていた霞。姿のない夕呼。――ただそこに在る、「脳ミソ」。
いつもとは異なる条件が揃っていた。得体の知れないもの、理解の及ばないもの、というものは得てして混乱を、そして恐怖を呼び起こす。今回のみちるにとってのそれらはつまり武であり知らされない実験内容であり「脳ミソ」だ。だが、それだけならば彼女も狼狽しないだろう。前に一度見ている。前はこんなことにはなっていない。
ならば、それに付随する条件として気を失った霞と、姿のない夕呼――が大きく影響していた。
夕呼自身、そんなみちるの心情は理解している。部下の思考など読めて当然。夕呼はそういう面でも天才的だ。……だからこそ、わかっていて敢えて弄くるのが愉しいのである。また、堅物で通っているみちるのこのような失態は珍しい。これはいい話の種になるだろう。今度みちるの部下にも聞かせてやろう。夕呼は益々口端を吊り上げた。
そんな夕呼の暗黒的思考に気づいているみちるは、苦々しい表情をしながらも全面的に自分が悪いので何も言えない。人間、諦めが肝心とは誰の言葉か。今日このときほどその言葉の重みを感じたことはあるまい。みちるは盛大に溜息を吐いた。
「ま、それはもういいわ。……で、伊隅」
「ハッ! 白銀訓練兵を上へ運んでまいります」
そうして頂戴。夕呼は言い、椅子から立ち上がる。直立不動のみちるの横を通り過ぎ、奥に通じるドアを開け――そこは寝室になっている――ぱたりと閉じるドアの音がして、夕呼は見えなくなった。
霞の様子を看るのだろう。軽い脳震盪を起こしていた彼女は、現在夕呼の寝室で休んでいる。別段これといった怪我もなかったためだが……頭部を強く打っているのだ、みちるとしては彼女も医療棟へ運んだ方がいいように思えるのだが……。
「……それが出来れば苦労はしない、か」
言ってしまえば、彼女は「歩く機密」だった。そんな存在を連れて基地内を歩き回るわけにも行かず……それに、夕呼も少なからず医療の心得があるとか。確か姉が医者なのだと言っていたような気もする。
そんな取りとめもない思考を一旦中断し、己に与えられた任務を果たすべく部屋の端に置かれたソファを見やる。
気絶した少年。前回はまるで寝ているように穏やかな様子だったが……今回は少々事情が違うようだった。時折苦しそうに呻き、全身から冷たい汗を流している。――まるで悪夢にうなされているよう。右の拳には包帯が巻かれ、そこから赤色が滲んでいる。損壊した機器の火花は、つまりそういうことだった。
みちるは真剣な表情で少年の身体を抱える。両腕を身体の前に回して、背負うように。
両肩に、ずっしりとした重さを感じて。背中に、鍛え上げられた逞しい筋肉の感触を感じて。――これほどの者が、こんなにも。
以前にも感じた、戦慄に似た思考がみちるの体内を巡る。
知ることなど許されていないと承知しながらに……けれど矢張り、その思考は止められない。「S」ランクの適性値。その驚異的な数値の正体。秘められた可能性。興味は尽きない。……そして、その尽きることのない興味こそが、恐らく彼をこれほどに苦しめている。
ひょっとすると自分は、そして夕呼は……。検査と称する人体実験の果てに、この有望なる衛士候補生の光を潰してしまうのではないか。
その想像を、振り払う。――そんなわけがない。夕呼がそのような無体をするはずがない。これは、人類の希望を、悲願を達成するための任務なのだ。その一つなのだ。みちるは自身に言い聞かせるようにして、執務室を出る。
向かう先は医療棟。先日と同様に医療班へ引き渡し、その後に彼の教導官である神宮司まりもに連絡を入れる。
まりものことを思い浮かべて、またもみちるは苦々しい思いを抱く。夕呼が武に対して何らかの実験を行っていることはまりもも無論承知している。だが、それは恐らくただ「承知している」だけで、本心から納得しているわけではないだろう。まりもをよく知るみちるだからこそ、彼女の優しさを知る自分だからこそ、それが容易に想像できる。
かつての教官であり同じ戦場を共に駆けた戦友である彼女に……みちるは申し訳ない思いとそうせざるを得ない自分達の立場を、少しだけ、哀しいと感じてしまった。
「莫迦なことを……ッ」
くだらない感傷だ。つまらない同情だ。これは戦争で、戦争を終わらせるためにはどんな小さな可能性でも拾い上げ、磨きぬかねばならない。武の持つ異常なまでの戦術機適性の真実が解明されたならば、きっと人類にとって、衛士にとってプラスになるだろう。
顔を上げ、前を向く。
そこには戦士の顔があった。
速瀬水月は走っていた。それは息を切らせるような疾走というわけではなかったが、どこか様子がおかしい。まろぶように足を出し、目はどこか踊っている。混乱と困惑と、微かな焦燥が、そこにはあった。
水月はみちるを探している。
格納庫で整備班長と話していたはずだとそこへ向かえば、腕も良ければ口も巧い初老の男に副司令からの呼び出しで出て行ったと言われた。ならばとこうしてエレベーターへと向かっているのだが……。
水月の所属するA-01部隊は副司令直轄。夕呼お抱えの特殊任務部隊で在るがために、部隊員は全員がB19へのセキュリティ権限を付与されている。無論、だからといって気軽にB19フロアへ行っていいというわけではなく、あくまで緊急を要する事態に備えての処置である。
それを重々承知していながらに、しかし水月は初めて、自らの意思でそのエレベーターの前に立った。隊長であるみちるに付き従ってB19フロアを訪れたことは何度かある。しかし自分独りで、となるとどういうわけかこれが緊張してしまう。IDカードを握る手に汗までかいていた。
「――っ、なっさけないわねぇ私も」
うへぇ、と小心者の自分に辟易しながら、認証機へカードを通す――までもなく、ポン、と電子音がしてエレベーターがこの階に到着したことを知らせる。
なんとタイミングのいいことか。水月は一旦入口から離れ、恐らくは出てくるだろうみちるを待ち構えるように姿勢を正した。できるだけ平静を装う。みちるは驚くかもしれないが、しかしこっちだって相当の覚悟を持っている。
そもそも、どうして水月がみちるを探しているかといえば、これは十数分ほど時間を遡るのだが……要するに、木野下中尉が思わず零した軽口に起因する。
来月には補充される新任衛士たち。今現在当横浜基地で戦術機操縦訓練課程をこなしている十二名の訓練兵。例によって水月たち同様に元は帝国軍横浜基地衛士訓練校、つまるところのA-01部隊専門の養成部隊に所属していた少女達。彼女達が訓練校を卒業し、任官するのはいい。そしてその先がA-01部隊だということも承知している。
だが、問題はそこではなく。
――たしか次の小隊長はお前だって言ってたぜ。頑張れよ、“中尉”殿。
木野下はそう言った。まだ少尉階級の自分に、あろうことか副隊長の彼女が、笑いながらそう言ったのだ。
水月にはそれが信じられなかった。またいつもの木野下の冗談だと思っていた。――なのに、口調こそいつもの軽口だが、その瞳は真剣なものだった。
ならば、水月は中尉へと昇進し、配属された新任衛士共をまとめる小隊隊長となるのだろうか。……かつての相原のように、突撃前衛長という栄誉ある一角を任されるのだろうか。
……それを誇らしく思うよりも先に、水月は不安を覚えた。
もし、それが本当なのだとして……ならば自分は、果たして相原のように、彼女のように在ることが出来るのか。
知らぬ間に、水月は駆けていた。
いつもの自分とはどこかズレている感覚を感じながら、まろぶように駆けていた。
そして、目の前には今まさに開こうとしているエレベーターのドア。みちるが出てくる。スライドしたドアの向こうに、彼女の顔を見た。
――どぐん。
水月は息を詰まらせる。
言いようのない焦燥と混乱が彼女を縛り付けた。――あれ? なんで自分はここにいるんだ?
そんな空隙が水月を襲い、それ故に混乱は拡大し、不安だけが増長した。
「ん? 速瀬か。なにをしている?」
「た、大尉……ッ、わ、たし、はっ……」
声が上ずる。果たして、何を言えばいいのか。――本当に自分が小隊長に?
みちるの口から聞いたわけでもないそれを、口に出来るわけがない。否、それを聞いたみちるが是と答えるのが怖いのだ。――怖い? どうして?
(だって…………相原中尉はッ…………!!)
ギチリ、と水月は心臓が鳴るのを感じた。全身に緊張が走る。不自然なまでに揺れる瞳はみちるを見ておらず、ただ内面に向けられて。
ここに来てようやく、水月は自身が一体どんな衝動に駆られていたのかを知る。
かつての自分の上官。A-01部隊の副隊長。突撃前衛長にしてB小隊の小隊長。自身の憧れであり尊敬する先達であり……目標だったその人。水月の想い人であった鳴海孝之を導き、彼の死に誰よりも己の無力さを嘆いていた彼女。絶対に部下を死なせはしないと壮絶なまでの覚悟の果てに散った、英霊。
その最期を、その背中を、思い出した。
思い出して、怒涛に迫るBETAの群れに消えたその姿を思い出して、通信が切れた瞬間の音を、反応が消えた瞬間の冷たい感覚を、込み上げた恐怖を、哀しみを、――思い出していた。
もうあんなことはごめんだ
最期に聴いた相原の声。まるで泣いているように叫んでいたその声。
思い出す。思い出して、理解する。
ああ……自分は、怖いのだ。相原のように死ぬことが。彼女のように絶えることが。誰かを護り、誰かのために逝くことが。
否、そうじゃない。
自分の手の平から、指先から……誰かが零れて喪われることが、怖い。
小隊長になってしまえば必ず部下がつく。その部下を、自分は果たして護りきることができるのか。喪ったそのとき、一体自分はどうなってしまうのか。――孝之は死んだ。なら、相原はどう思った?
自分の部下の死に、その幻影を払うことが出来ず……相原は彼女の心情に従って部下諸共に散った。その決断が、自分に出来るのか。
「……? 速瀬?」
「――ッ、ぅ」
心臓が大きく跳ねる。目の前にはみちる。心配そうにこちらを見つめている。――ああ、大尉っ。
怖い。恐ろしい。想像するだけでこんなにも辛い。
実戦を経験して、そして生き延びたからこそわかる。――これが、戦場の恐怖なのだ。
自分が戦って死ぬことよりも何倍も何十倍も、自分の目の前で誰かが喪われることの方が怖い! しかもそれが、自分の部下だとしたら? それは、果たしてソレは一体どんな恐怖と絶望だというのだ。
「ぁ、ぁ、」
言葉に出来ない恐怖が、水月の喉を震わせる。救いを求めるようにみちるの目を見て、けれどそんな弱い自分を晒すことが怖くて……逸らした視線の先に、それを、見た。
「――――――ッ」
思考が白熱する。木野下から聞かされた話も、全身を縛っていた恐怖も、瞬間に何もかも掻き消えてなくなった。
驚愕。
その感情のみが、水月を支配する。
「たけ……るッ」
「なに?」
当惑するみちるなどまるで意識に入っていない。水月は弾けるようにみちるに背負われた少年を奪い取り、自身の腕に抱いた。
「武ッ、武ゥッッ!!??」
「なっ、おい、速瀬っ」
混乱する。困惑する。なんで、どうして、そんな思いが水月の思考を凍らせる。
意識を失っている。こんなにもたくさん汗をかいて……苦しそうに、うなされている。何があった? 何があった? 一体武に、何が――?!
「ぉ、落ち着け速瀬! この、何だというんだまったくっ!」
耳元で叫んだみちるの声に、ハッと我に返る。見ればどこか不機嫌そうな表情の隊長殿。少し赤くなった手の甲をさすり、じっとりと水月を睨んでいる。――ぇ?
「わっ、わぁ! 大尉、どうしたんですかその手!!?」
「…………貴様が引っ掻いたんだろうが。まったく……」
嘆息しながら水月の正面へと座るみちる。水月の腕に抱かれた武を見下ろして、じぃ~~っと水月を見据えている。
その視線には「どういうことか説明しろコラァ」とか、なんだかそういう類のねちっこい意思が込められていた。
「ぁ、ぁは、あはははは~! すいません、大尉……。…………って、そうじゃなくてっ!!??」
「なっ、なんだ今度はっ」
「なんだじゃないですよっ、大尉! なんで武がここにいるんです!? しかも、こんな……気を失って……このエレベーター、大尉に背負われて、なんて……」
問い詰める口調は次第に小さくなり、まるで泣いてしまいそうなのを堪えるように沈んだものとなる。そのあまりにも儚げな様子に、みちるは一つのことに思い至った。
水月は少年の名を呼んだ。武――と。そうか、彼が、そうなのだ。
「そうか……貴様に年下の恋人が居るとは聞いていたが……そうか、この者が……」
「――――は?」
「済まない。私にも詳しいことは聞かされていないんだ。ただ、香月博士の研究のために、彼が必要なのだとしか言うことができない」
「え、いや、ちょっと大尉?」
「……まさかこんな形で恋人と再会することになるとはな。……まったく、これも運命の皮肉というヤツか。……しかし速瀬、案ずることはないぞ。この程度の困難があった方が、愛情も燃え上がるものだ」
「愛情って……ちょっとちょっと待ってくださいよ大尉ィ!!?」
「…………なんださっきから喧しいヤツだな。……ふむ、そうだな。折角の再会を邪魔するのも悪い。速瀬、白銀を医療棟まで運んでやれ。どうせならそのまま看病してやってもいいぞ。今日の訓練はもう終わりだからな」
そう言って、みちるはスタスタと去っていく。後にはどこか放心した様子の水月が、あれぇ、とか、ちょっとー、とか。何事か呟いていたが……みちるにはそれは聞こえない。
「……ぇ? あれ? 結局どういうわけ?」
呆然と。ただ腕の中でうなされる武を抱いたまま。
小隊長となる不安も、部下を喪ってしまうのではという恐怖も、どうして武がここに居て気絶しているのかも、そもそも年下の恋人って誰に聞いたんだとか……諸々の疑問は一切解消されることなく。
けれど武を早いところ医者に診せた方がいいというのもまた事実。混乱する頭と迷走する感情をそのままに、水月は、実に一年ぶりに感じる武の体温に、胸が熱くなるのを感じていた。
容態は落ち着いている。ただ、眠るように気を失い、悪夢にうなされるように苦しんでいるだけだ。
外傷は右拳に裂傷と軽度の火傷が見られたのみ。なにか鉄のようなものを殴りつけたような跡もあったが、骨にも異常はないということで、処置はあっという間に済んだ。
今は、ベッドに寝かされている。武をベッドまで運んでくれた女性の衛生兵は、彼を見てぎょっとしたようだった。不審に思い尋ねたところ、つい二日前にも同じように気を失って運ばれたのだという。――みちるの手によって。
水月はその言葉に息を呑む。二日前。みちるの手で。気を失って?
香月博士の研究のため――みちるの言葉が思い出される。ああ、ならばそういうことだ。武は、何らかの思惑によって……訓練兵でありながら、既にA-01部隊の一員としての任務に就いている。夕呼の研究。その全貌を水月は知りはしないが、任官したその時に聞かされていることでも在る。
人類の希望、悲願の達成。この研究は、その計画は、ただそれだけのために遂行され、実行される。そしてA-01部隊は、それを提唱し、研究する夕呼のためにある。
「武……あんた一体、何やってんのよ……」
うなされて、時折身悶える少年を見る。額に浮かぶ汗を拭いながら、そんな風に苦しむ彼を見たくないと思った。
眼が覚めたならば、彼が一体どんな研究――恐らくは人体実験だろうか――を受けているのかを問い質してやろうか。……できるわけもないことを夢想しながら、けれど胸にわだかまりを残す感情に、水月は奥歯を噛む。
どのような悪夢を見ているのか。
武は一向に眼を覚まさない。ただ、苦しげに呻き、喘ぐように呼吸を繰り返し、悶える。その様子が、その様が、……まるであの時のようで、水月は哀しくなった。
折角立ち直ったのに。やっと前を向いて歩き出せたのに。自分が任官するそのとき、あんなにも嬉しそうに笑ってくれていたのに。――孝之の死に打ちひしがれたそのとき、優しく肩を抱いてくれて…………ッ!
「武……ッ、武、眼を、覚ましなさいよ……武ぅぅう、」
ぎゅう、と。武の左手を握る。握った彼の腕に顔を埋めるように。水月は静かに震えて泣いた。
思い出してしまう。
思い出してしまった。
彼女を喪ったその時を。その時の武を。
叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで――泣いて、狂って、壊れようとしていた姿を。
周り全てが敵だと。何よりも護りたかった彼女を喪って、ただ崩壊していくだけの姿を。憎しみに捕らわれ、転がり落ちようとする様を。
雪の積もった朝。
柔らかな新雪の白い平原の中で。
初めて抱いた、抱きしめた、あの震えていた身体を。
――もう、そんな風にはさせない。
こんな風に泣かせたりしない。こんな風に歪ませたりしない。自分が武を支えるのだと決めたそのとき。それが己の運命だと感じたそのとき。
思い出して、泣いてしまう。
差し伸べた手を掴み、立ち上がった武。
照れたように笑って、拗ねたように唇を尖らせる年下の少年。――まるで弟のよう。愛しい、愛しい弟。
「貴様――何をしている」
「…………?」
ほんの一瞬、眠っていたらしい。気配も何もなく唐突に、背後に誰かが立っていた。かけられた声はお世辞にも穏やかとは言い難く、故に水月は身構えるように振り向いた。
背後を取られている時点で既に決着はついていたようなものだが、しかし、その人物は厳しい視線を向けるだけで――腰に提げている豪奢な刀を抜くことはなかった。もっとも、今から抜かないという保証はないが。
「斯衛の……ッ、どうして……」
「立て。質問をしたのは私が先だ。答えてもらおう、貴様は何者でここで何をしている?」
威圧的な視線と存在感。赤い帝国軍の軍服を纏った長髪の女性は、有無を言わさぬ様子で水月に命令する。思わず目をやってしまった階級章には中尉のそれ。逆らう道理もなく、水月は困惑を表情に浮かべたまま椅子から立ち上がる。
「速瀬水月少尉であります。所属は…………A-01部隊です」
「A-01だと? ……そうか、そういうことか。……ッ、」
横浜基地内においてもその存在はある程度秘匿されているA-01部隊。故に、水月は目の前の斯衛に対して所属を言うのを躊躇った。が、よくよく思い出してみれば現在横浜基地に駐留している斯衛軍といえば斯衛軍第19独立警護小隊のみ。要人警護の任に就く彼女達は帝国城内省から逐次情報を収集し、下手をすれば水月よりも遥かにこの基地の情勢に詳しいかもしれない。
そういう考えから、結局水月は所属を名乗り、そしてA-01の名を聞いた斯衛の女性士官は想像通りになにがしかの納得を見せた。
だが、その表情は酷く苦々しい。――と、女性は先ほどよりも更に鋭い視線を向ける。その突き刺さるような視線に思わず怯みそうになるが、こちらも実戦を乗り越えてきた衛士である。如何に上官でしかも帝国軍のエリートとはいえ、視線如きで負けてやるつもりもなかった。――なにより、その高圧的な態度が気に喰わない。まして武の様子が気がかりなこの時に、まるで因縁でも吹っかけるかのような詰問だ。
「私は彼の看病をしています……。機密に触れますので詳細は申し上げることは出来ませんが……任務中に倒れ、意識を失った彼をここに運び、傷の手当ほか必要な処置を済ませたところです」
「…………怪我、だと」
ハッ、と。女性は武の右拳に目をやり……包帯の巻かれたそこをじっと見て、チラリと水月に視線を送る。
「右拳に軽度の裂傷と火傷が見られましたが、現在は異常ありません。傷も既に塞がっています……ほかに何か聞きたいことはありますか?」
「…………」
挑むような水月の言葉に、斯衛の女性は黙って彼女を睨みつける。一体なんなのだ。水月は次第にムカムカと膨れ上がる苛立ちを抑えきれなくなっていた。
この目の前に立つ斯衛の赤はなんだ? 偉そうに高圧的な態度を取って、しかも自分はまだ名乗ってすらいない! こっちは今それどころじゃないというのに!!
「……事情はわかった。ご苦労だったな。後は私に任せて、貴様は任務に戻るがいい」
「――――ハァ?!」
何かが、切れる音を聞いた。
突然現れて、突然因縁染みた視線を投げてきて、そして突然、何を言うのかっ。誰が聞いても露骨にわかるほどの苛立ちが、そこにはあった。
「……A-01部隊の特殊性は私とて承知している。故に任務の内容まで問おうとは思わん。だから、貴様もその特殊部隊の一員なら、ここで時間を潰している暇もないだろう。後は私に任せて、部署に戻れ。…………何か言いたそうな目だな?」
「ご心配ありがとうございます中尉殿。しかし、中尉殿に気をかけていただかなくとも、本日の任務は終了しており、既に中隊は待機命令が下されています。……中尉こそ、斯衛としての大変重要な任務がおありなのではないでしょうか? このような些事、私に任せてくれて結構ですので、どうぞお戻りください」
眼を閉じ、含み聞かせるような斯衛の赤の言葉に、しかし水月は引きつった笑みを浮かべて、それはもう恐ろしい殺気染みた気配を醸し出しながらに反論する。
「ほほぅ? 貴様なかなか面白いことを言うな。些事、か。成程、確かに些事だな。たかが訓練兵がひとり倒れた程度。貴様にとっては些事やも知れぬ。だが――」
「ええええ些事でございますとも。そもそもですね、このような場所に斯衛の、しかも赤服を召していらっしゃる中尉殿ともあろう御方が、一体どうして訓練兵ひとりのためにこんな場所までわざわざやってきてこれみよがしに私に喧嘩を吹っかけてくるのかまったく理解できませんねぇっ」
ぴきり。
びきり。
それは如何なる幻想か。この場に果たして第三者が存在したならば、そのものは見たであろう。
こめかみに青筋を浮かべた美女二人が、それでも表面上は笑顔を取り繕いにこやかに睨みあうその背後に……水月の背後にはその獰猛な牙をこれでもかと見せびらかす黄色に黒の縞模様。対する斯衛の女性の背後にはうねる荒波を幾条も立ち上らせた空を舞う赤い鱗。
竜虎相見える――。
冗談でもなんでもなく、そこには伝説上の光景が描かれていた。
「ふ、ふふふふふ」 「あはははははは」
ゴゴゴゴゴゴ……まるで地を震わせるような恐ろしいまでの闘気、そして怒気。一触即発なその空気を霧散させたのは――傍らに眠る少年が漏らした、掠れ声だった。
「すみ、か……ぁ、ァ、がっ、すみか、ぁ、」
「!!??」 「白銀……?」
バッ、と。水月は弾けるように武へ振り向く。斯衛の女性はその武の様子に、そして何よりも水月の動きに困惑しているようだ。
「武? 武……っ」
「ぁ、あぁぁっ、が、ぁ、ぁあああ! やめ、ろ、やめろ、やめてくれっ、ぅっぁ、ぁあ、すみか、すみかがっ、ぁぁあああああ、おや、じ、かぁ、さんっ、ああ、あああ、うぅああああ、――――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ、うぅうおオアアアアアアアアアアアあっッッ!? 純夏ッ、純夏ァァアア!! やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめてくれぇぇぇぇえええええッッ!!」
バタバタと、ベッドの上で武はのた打ち回る。眼を閉じたまま、口角に泡を撒き散らしながら。腕を、脚を振り回し、酷い汗を浮かべて、絶叫し、身悶える。
「武ッ! 武、武ゥッ、武、武!! 大丈夫だから、私がいるからっ、もう大丈夫だから、何も怖くなんかない。怖いことなんてない! 大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫だから……私が、いるからッッ、武ッッ!!」
暴れ狂う武を、その身体を、殴られ、蹴られながらも。水月は強く抱きしめる。尚も叫び狂ったように絶叫する武。どうしてこれで眼を覚まさないのかと恐ろしく思えるほどの狂気がそこにあった。
水月は武を抱きしめる。強く強く抱きしめる。
いくら殴られてもいい。どれだけ蹴られたっていい。武は、自分が護るのだ。自分が支えて、傍にいるのだ。――だから、どうなってもいい。
ああ、武。武。武。お願いだから、眼を開けて。落ち着いて。大丈夫だよ。大丈夫だから。だって、あんたはちゃんと立ち直ったじゃない。あんたはちゃんと前を向いて歩けたじゃない。……ね、そうでしょう武。
「っ、ぅ、あ、あっ、……ぁ、……………………」
「武…………」
やがて、まるで嵐のような狂乱は鎮まった。水月は安堵する。相変わらず武は眼を覚まさないが、それでも……浮かんでいた汗は止まり、穏やかな寝息が聞こえてきた。もう、大丈夫だろう。
ふ、と小さく笑って……その笑みが、どうしてか涙を堪えているように見えて……斯衛の女性――真那は、口を開く。
「貴様は、白銀を知っているのか……」
「…………ええ。多分、中尉よりは」
「……どこまでも張り合う気か貴様は。まぁいい。……そうか。しかし、ならばいい。…………そういえばまだ名乗っていなかったな。私は月詠真那。――白銀は私の大事な弟子だ。くれぐれも頼むぞ」
え? 水月が振り向いた時には、既に真那はいなかった。ただ、ゆらりと揺れるカーテンの端が、彼女の名残を知らせてくれる。
「――は、あははっ。弟子、ね。あははははっ」
成程。そういうことならわかる。要するに、彼女と自分は同じだったのだ。
大切に思う少年を案じて、ここまでやってきたのだ。ははは、悪くない。こんな気分も、悪くなかった。
「武……あんた、しっかりしなさいよね。いつまでも昔のこと、ウジウジ引き摺ってんじゃないわよ……」
囁いて、もう一度だけ武の身体を抱きしめて。
そして水月は決意する。もう一度、かつてよりも強い想いを胸に秘めて。
白銀武を、支えてみせる。折れそうになる彼を、その心を、誰よりも傍で。誰よりも近い場所で。――そう、誓う。
「スミカ、か。…………確か、前にも同じ名を呼んでいたな……」
病室を出て、白い天井を見上げて呟く。耳に残る絶叫。狂ったように、叫んでいた。やめろ、と。もうやめてくれ、と。繰り返し叫び、呼んだその名。スミカ。
「貴様の心は、まだまだ見えぬ……か。私も未熟だな」
真那は眼を閉じて――そして、誓う。
深く息を吸い、ゆっくりと目を開いて。宣誓する。それは彼女の魂からの声だった。
「白銀。貴様を強くしてやる。何よりも、誰よりも。貴様を強く、鍛え上げてみせる。……貴様がどれほどの業を抱え、どれほどの過去を抱えていようとも、それに潰され、歪まされることのないくらい……私の全てを以って、貴様を導いてみせる」
強い、瞳だった。
真那は自身の言葉を噛み締めるように胸に仕舞い……近づいてくる気配に視線をやる。そこには先日のように慌てふためいた様子の207訓練部隊の少女達。敬愛する冥夜の姿もそこに在る。――だが、
「そこで止まれ」
「「「!??」」」 「月詠ッ……中尉、」
毅然と言われ、怯んだような少女達。当惑する冥夜の視線が心苦しい。けれど。今、中には水月がいる。……恐らくは、自分と同じ想いを抱いているだろう彼女。それを邪魔するつもりはなかった。
困ったような笑顔を浮かべる真那に、茜たちはどきりとする。大人の魅力の中に浮かんだ子供のような、どこか嬉しがっている様子。その微笑みに、そこに秘められた想いに……誰も声を発することが出来なかった。
2000年7月7日――
その日、彼女達の運命が、巡る。