『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:七章-02」
部屋のドアをノックする音で眼が覚める。半覚醒の意識のまま机に置いた時計を見れば、既に夕食の時間を指していた。む、と眉根を寄せて身を起こす。
冥夜と別れた後自室に戻り、シャワーを浴びた。
千鶴と慧の不和。冥夜に問われた「護りたいもの」。それら――暗澹たる想いを吐き出しそうになる感情に辟易して、少し頭を冷やそうと横になったのが四十分程前。
「……ふぅ、」
たかが四十分の睡眠だが、少しはマシになったようだった。相変わらず千鶴と慧に対して苛立ちは残るが……それこそ、いつまでも引き摺るものじゃない。かなり最悪なことをしでかした気もするが、アレは紛れもなく自身の本心だった。……ならば、後は当人の問題だ。武は自分の想いを伝えた。怒りという形を通してだが、それは彼女達にも届いたはずである。
ならば――あの二人を信じよう。
今日まで、これまで共に厳しい訓練を過ごしてきた仲間だ。絶え間ない努力と揺ぎ無い強い意志の元に自身を鍛えぬいた彼女達だから……そう信じようと思える。
「失望させてくれるなよ…………」
呟いて、既に失望したと言ってしまっていることに気づく。ぐぁ、と顔面を手で覆い、あまりの短絡な行動に嫌気が差した。
「何やってんだ俺…………情けねぇ……」
感情に支配されて暴走したのはどっちだ――あまりにも餓鬼のような己の行動に、武は恥ずかしくなる。……だが、同じように餓鬼だったのだ。千鶴も、慧も。それを止められなかった美琴も。二人の不和を承知していながらに静観していた冥夜も、壬姫も。
皆が皆、餓鬼だった。幼稚だった。
「それで俺だけ頭にきて……はぁああぁあ、ほんと、何やってんだ俺は……」
溜息しか出ない。が、いいかげん後悔はしない。如何に感情の暴走ゆえの激怒とはいえ、それはもう覆せないし戻らない。武は問うた。ふざけているのかと。…………ならば、それに対する返答はいずれあるだろう。それが言葉によるものか、或いは今後の行動を以ってかはそうなってみないとわからない。
けれど、心のどこかで確信している。
――あいつらは、ちゃんと向かい合える。
仲間として、友人として。背中を預ける戦友として。きっと。
「――――――、」
そう結論付け、自身の胸の内を整理すると……途端に浮き上がったのは冥夜の顔だった。当面の問題である千鶴と慧について整理がついたなら、それは当然の繰り上がりだろう。――むしろ、そちらの方が重要で重大で重圧だった。
だからこそ後回しにして先に彼女達の問題を片付けたかったというのもある。
これは、こればかりは……簡単には片付けられる問題じゃない。そして、完全に自分自身にしか解決できないものであるがために……。
「ごめん、涼宮……水月さん……」
手を差し伸べてくれた。傍で支えてくれた。大切なひとたち。彼女達を想えば胸が熱くなる。痛いくらいに胸が締め付けられて……気を抜けば、縋りついてしまいたい衝動に駆られる。
あの時のように、傍にいて欲しいと望んでしまう。啼きついて、慰めて欲しいと望んでしまう。――駄目だ、それはできない。
ずっと騙していた。
彼女達を、そして自分自身さえ。
1999年1月。鑑純夏を喪ったそのとき。札幌基地で見た横浜の戦域情報。悪夢のような赤いBETAのマーキングが飲み乾した小さな黄色いマーカー。避難民を護送していただろう歩兵大隊。……そこにいたはずの彼女。最愛の、彼女。
護りたかった。この手で。
護るための力が欲しかった。この手に。
だから、――だから自分は、衛士になると決めたのに。
……あれから既に二年以上が過ぎた。今月末には総戦技評価演習が行われるだろう。それに合格し、戦術機操縦過程を修了しさえすれば…………遂に自分は、衛士となる。護るための力を手に入れる。これで、ようやく――彼女を、純夏を護ることができる。………………の、にッッ!
「ッッッ、ハ、ァァアアッッ……」
やめろ。
その考えはやめろ。
呪わしい――ヤメロ。
憎らしい――ヤメロ。
おぞましい――ヤメロヤメロ。
BETA――ヤメロヤメロヤメロ。
殺してやるッッッッ――ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロッッ!!?
「…………………………ッッッ!!!!!!」
ベッドの上に立ち上がる。乱れた呼吸を必死に整える。狂いそうな感情に蓋をする。――駄目だ。やめろ。この感情は、駄目だ。
――コンコン、
「!!?」
小さく、そして控えめなその音。……そうだ、誰かがドアをノックしている。その音で眼が覚めたというのに、一体自分は何をやっているのだろう。最早溜息しか出ない。これほどまでに簡単に狂いそうになる己の精神力の弱さに憔悴しながらも、しかし……決して茜には見せてたまるものかと喝を入れる。
彼女には、見せられない。
誰よりも傍にいてくれて、誰よりも支えてくれた彼女には……同じように、この数年を支えてくれたA分隊の少女達には……こんな姿、見られたくはなかった。
もし、彼女達が今の武を見たらどう思うだろう?
水月に、そして茜に……彼女達に支えられて、ようやく立ち直り、前へ進み始めた自分。
それが、それこそが、己さえ知らぬ間に用意された仮面だったなどと…………。
打ちのめされたりはしない。
呑まれたりはしない。
かつて熊谷教官が言った。――お前はどっちだ?
その答えは、まだ……でない。わからない。だが……。
「俺は、護りたい…………」
復讐に濡れる悪鬼にはなりたくないと思った。純夏を想う心こそを、護りたいと思った。傍で支えてくれた水月を、茜を、彼女達を護りたいと思った。そして、導いてくれる真那を。
ふ、と小さく息をついて。
ようやく武はドアノブに手をかけ、開ける。――――呼吸が出来なくなった。
「な……ん、で……ッ」
そこには、確かにいた。
小さく控えめにドアをノックして、ずっとドアが開かれるのを待っていた。
少女。
銀色の髪。銀色の瞳。ドレスのような軍服。肩章に「ALTERNATIVE」と記された……。
社霞が、そこにいた。
===
冥夜は当惑していた。夕食のためにPXを訪れてみれば、その場にいたのはA分隊の皆と、美琴と壬姫の二人だけ。千鶴に慧がいないだろうことは半ば予想していたが、何故にそこに武が居ないのか。
その彼女の様子を見て悟ったのだろう。晴子が苦笑しながらに首を振る。……つまり、この場に居る全員が、武が不在の理由を知らないということだった。
――茜さえも。
「…………涼宮、その……」
「……なにやってんのよ、御剣。はやく座れば?」
つい数十分前のやり取りを思い出して口ごもる冥夜に、しかし茜は普段と何も変わらぬ様子で笑う。トレイを手にしたまま立ち竦んでいた冥夜に座るよう促して…………ほんの僅かだけ、視線を外した。
ああ、これは相当に嫌われたようだ。
冥夜は内面でそう嘆いた。自らが招いた行動の結果とはいえ……この一年間を共に過ごし、よき仲間と感じていた彼女の信頼を喪ってしまったことは、相当に辛い。誤解を解くことはできる。……だが、それでは冥夜の気が済まなかった。己の好奇心を優先して大切な仲間達の心を抉ったのだ。それしきで赦されようとは思わない。そのことは、その場にいた真那にもしっかりと伝えている。
己の不始末は己でつける。これは人間として当然の責任だ。だから、いくら彼女の身を護るために在る斯衛とはいえ、手を借りることはない。第一、国連軍に身を置いたその時点で、既に自分は一兵士。そこには将軍家の恩恵もなにも関係ない。冥夜は、ただ冥夜として在るのだから。
三人を除き勢ぞろいしていた面々に遅れたことをゆるりと謝罪しながら、そして夕食は始められた。話題は専ら今日の訓練について。千鶴と慧のことは今更彼女達が言い合ってもしようがないことなので、その話題を避けつつ、少女達は各々に評価を口にする。
既にA分隊内では評価会は済んでいたようで、ならばとB分隊から見たA分隊の、そしてA分隊から見たB分隊の評価へと移っていった。
茜は、自身でも驚くくらいに平静を保てていることに、内心で安堵する。遅れてきた冥夜を見たとき、確かに心にざわざわとした波が起こった。……だが、その波はひっそりとなりを潜め、今は落ち着いている。
あれから部屋へ戻り……かつてないほどに荒れ狂った感情を必死になって鎮めた。熱いシャワーを浴びて、込み上げる悔しさに涙して。どうしてこんなにも悔しいと、哀しいと感じてしまうのかをただ考えた。
御剣冥夜。将軍家縁の存在。城内省に所属する斯衛の警護小隊を侍らせる特殊な少女。……だが、彼女はいつだって、誰に対しても「冥夜」という一個の人間だった。
確かに月詠真那という斯衛の中尉は冥夜に忠義を尽くし、いつも側に控えているような印象を受ける。だが、それは四六時中べったりと貼りついている訳でもなければ、冥夜が訓練兵として自身を磨いている様を暖かく見守っているような、そういうどこか間接的なものだ。
国連軍への所属は、恐らくは冥夜自身の望みだろう。守護される立場に甘んじるのではなく、自らの意思で、自らの理想のために立ち上がる。……きっと、冥夜はそういうことが出来る人物だ。だから、真那もそれを止めはしない。ただ、斯衛の役割として、そして真那自身の忠義として……彼女は冥夜を傷つける者を断じて赦さない。
……ならば、そんな冥夜が、真那が…………例え城内省のデータベースから調べることの出来る立場に在ったとしても、果たしてそれをするだろうか。
したとして、それは一体何のために?
武のことを知りたいと思うのならば、……いくらかの決意と配慮が必要だろうが、本人に聞けばいい。なにせ、同じ訓練兵、同じ部隊なのだから。
それをしない理由は何か。――或いは、出来ない理由とは?
例えば、要人警護に当たっての身辺調査。……確かに可能性は高い。むしろ、真那の立場からすれば当然だろう。恐らくは当人の素性から家族構成等、瑣末なことから個人情報のありとあらゆる情報を把握していると予想できる。
……だが、それを冥夜が知っている、という可能性は……ない、と、そう思える。そういう情報は、守護する側が承知していればいい。つまり真那が、彼女の部下が承知していれば事足りる情報を、冥夜が知る必要はない。そこには真那が冥夜に教える、という式も成り立たない。
ならば一体どういうことだろう。
冥夜自身が、真那に命じて城内省のデータを調べさせた…………理由が見つからない以上、なんだかそれこそが誤りのようにも思える。
だが、それでも、冥夜はその名を口にしたのだ。
逢ったことなどあるはずもない彼女の名を。武の全てとも言ってもいい彼女の名を。――何らかの確信を以って、零すように呟いたのだ。
それが何故なのかがわからない。
冥夜が真那に命じたのか。真那が冥夜に教えたのか。……いや、そもそも真那は彼女のことを知っているのだろうか。
わからない。わからない。なにひとつ、わからない。
…………だから、わからないままに冥夜を嫌うのは間違っているような気がした。
だが、謝りはしない。それは、本当の理由がわかってから判断すればいいことだ。
そして、あのとき冥夜に……吐き捨てるように言った言葉は、紛れもない己の本心で在るから。
知ってくれていればいいと思った。だから、無意味に……少なくとも今の時点で、冥夜を嫌うことはやめようと頷いて。
そして茜は長いシャワーを終える。少しだけスッキリした。昂ぶっていた感情はどうにか収まり――こんなにも武のことを想っている自身に赤面する。
冥夜に言ったことは間違いない茜の本心だったのだが……いかんせん、それは聞きようによっては自身の想いを暴露しているようなものだった。
そのことに気づいた茜はバスタオルで顔面をくるんでベッドの上で身悶える。恥ずかしいにも程があった。
だから、こして冥夜と面を合わせても落ち着いていられたことに安堵する。
彼女を傷つけたことは間違いないだろう。普段からは想像もつかないくらい動揺した表情を向ける冥夜に、茜は少しだけ申し訳なく思い……目をそらしてしまう。
多分、それがまた一層に冥夜を傷つけただろうことを自覚しながらに。
そして夕食は開始された。互いにそれぞれを評価し合う中、けれど茜の心中は揺れている。
冥夜のことではない。
……誰も口に出さないけれど、皆が思っているだろうこと。――武がいない。
如何していない? 何で誰も知らない? その答えを知る者は、矢張り誰も居なかった。……だから、誰も口にしない。気にかけつつも、声に出さない。
少しだけ、いつもよりもほんの少しだけ騒がしく。少女達は話を続ける。
千鶴と慧。茜と冥夜。――そして武。
いつもとは違うそれらを極力意識しないように。……意識してしまわないように。
===
連れて行かれたそこは、矢張りというか当然の如くに、香月夕呼の執務室だった。
武は自身の心臓がひりひりと締め付けられる感覚を覚える。――今更、何の用だ。
痺れるような緊張感が、彼の全身を包む。かつて、夕呼自らの研究のためにこの場所に呼び出されたこともあった。その研究……或いは実験は、しかし一ヶ月も経たずに突然に終了した。
夕呼は必要なデータを収集し終えたからだと説明してくれたが……しかし武にはたかが十数回の検査(夕呼はそう言っていた)で取り得るデータなど知れているのではないかと思う。だが、彼は研究者ではなく、そして専門的な知識も持たないために……結局のところは物理学の権威でもあるという天才の言葉に頷くほかなく。
そしてそれから十ヶ月が過ぎた今。武は霞に連れられて再びこの場所に居る。
――一体何故。何のために。
だが、それを口にすることは許されないだろう。かつての研究が有無を言わさぬ物であったように。だから武は覚悟を決めた。碌な印象のないその執務室の中で、未だ姿を見せぬ副司令のあの厭らしい笑みを想像して。
そして、部屋の片隅にあったドアが開かれる。現れたのは、言うまでもなく当基地の副司令である夕呼。いつもの白衣姿で、相変わらずの颯爽とした振る舞い。愉しげにこちらの表情をねめつけながら、夕呼は自身の椅子に腰掛けた。
「わざわざ来てもらって済まないわね」
「いえ、副司令が御気になさる必要はございません」
微塵もそう思っていないだろう夕呼の言に、彼女が嫌がることを承知でわざと堅苦しく返答する。武の予想通りに眉を寄せて詰まらなそうな顔をする夕呼だが、それこそ武の知ったことではない。
夕呼が一体何を企み、或いは目論んでいるのかは知らないが……武にとっての彼女、そして霞、……あの「脳ミソ」の部屋は一貫して敬遠したい存在だった。出来得るならば、もう二度と関わりたいとは思えない。そういう類の存在。
隣りの霞が少しだけ寂しげに俯くのが見えた。……だが、武は視線を夕呼に真っ直ぐ向けて、それは見ようによっては睨みつけているようにもとれるほど、烈しい感情が込められている。
夕呼はさも面白くないと鼻を鳴らし、しかし次の瞬間には悠然と笑みを浮かべる。どうやら武の態度の真意を悟ったようだった。その、なにもかもお見通しといった副司令の艶然とした微笑に、最早自分が彼女の手の平から逃れることなど出来ないのだと、知る。
「社、ご苦労様。下がっていいわよ」
武から視線を外した夕呼は、霞に向けて優しく言う。少女は小さく返答すると、やがて執務室から去っていった。
少女の後姿さえ見送ることなく、武は夕呼をじっと見つめる。特段、彼女を嫌っているということではない。……が、武の脳裏には彼女の問いかけがいつまでもこだましているのだ。――どうして、衛士になろうと思ったのか。
己が仮面を被った道化であることを気づかせ、自分の中の純夏が未だに生き続けていることを知らしめるきっかけとなったあの問い。そして、その後十数回繰り返された研究。気を失い、医療室へ運ばれて。……恐らくは、感情が焼ききれるほどに発狂したのだろう。かつてのように。
霞は、彼女は……どうしてもそれを思い起こさせる。
霞自身になんら非はないというのに。なのに、それがわかっていて尚……武は彼女を受け入れることが出来なかった。
同様に、夕呼も。そしてあの部屋も。
純夏を振り切ることの出来ない己の未熟さ、或いは愚かさ……そうと知りながら、純夏を手放すことなんて絶対に出来ない狂おしいまでの感情。
水月や茜、支えてくれた彼女達の全てを無駄の一言で押し流してしまいそうな、紛れもない武の深層意識に気づかせたその全て。
憎いとは思わない。恨めしいとは思わない。――ただ、疎ましかった。
だが、同時に少しだけ感謝もしている。
もし霞のあの問いかけがなければ……自身はまだ、「俺は大丈夫」などという薄っぺらな仮面を貼り付けたままだったのだから。
だから、そのことだけは――感謝している。
その結果が、どうあろうとも。
「……さて、白銀。あんたを呼んだ用件なんだけど」
武は姿勢を正す。微塵も乱れていなかったのだが、雑念を振り払うという意味で、改めて背筋を伸ばした。向けられる夕呼の視線は鋭く……しかし、どこか愉快気な色を見せる。いつものことだ。香月夕呼という人物は常にどこか娯楽性を求めている節があるらしい。天才といわれる所以など知りはしないが、そういうどこか科学者らしからぬ一面は……ある意味では好ましいと言えるのかもしれない。
これが完全なる鉄面皮、或いは機械の如きクールさだけの人物だったならば、武は間違いなく彼女を嫌悪していただろう。副司令という立場とは関係なく、人間としてその存在を受け入れ難いと思ってしまうだろうことは想像に難くない。
時折見せる霞への優しげな表情と、子供染みた一面が、辛うじて武に「夕呼」という人物を良心的に見せていた。
もっとも、だから平気と言うこともなく。――許されるならば二度と関わりたくないという感情は、本当に心の底からの本心で在るが故に。
「あんたには明日から、総合戦闘技術評価演習を受けてもらうわ」
「――――――――は?」
言い切った夕呼に、頭が真っ白になる。
一言一句淀みなく。いともあっさりと夕呼は言った。総合戦闘技術評価演習――衛士訓練校の前期訓練課程の修了試験であり、後期訓練課程……即ち戦術機操縦課程へと進むための、訓練兵にとって最も大きな意味を持つそれ。
それを、なんだって?
明日から? 受けてもらう……? ――誰が。
「なに呆けた顔してんのよ。面白いわね」
「――えっ?! って、ハァア?!!」
副司令相手だというのに、大層な狼狽ぶりである。だが無理もない。教官であるまりもからはそのような通達は一切なく、今度は一体どんな得体の知れない研究につき合わされるのかと緊張していた矢先に。
総戦技評価演習への参加。莫迦な。在り得ない。武はどうにか混乱する頭を落ち着けようと息を整えるが、しかし思考は空回るばかりで一向に収まらない。――これはなにかの冗談だろうか。
否。
確かにこの副司令はなにかと物事を面白おかしく捉えている面があるようだが、こと「副司令」としての彼女にはそういう虚偽やからかいは一切ない。かつての研究においても――その結果得られたデータがどう使われたのだとしても――彼女は微塵の妥協も見せずに臨んでいたように思う。
ならば、今彼女が言い放ったそれは冗談でも在り得ないことでもなんでもなく。ただ言葉通りに……武は明日から総戦技評価演習を受けるのだ。
「……なぜ、と聞いてもよろしいでしょうか」
「どっち道説明するつもりだったし。いいわよ」
ニヤリと口端を吊り上げる夕呼。とても愉快気で満足げなその表情に、武はげんなりとする。こういう人だよ……内心で様々な感情が織り交ざった溜息をついて、しかし武は真剣に向き直る。
「まず、本来ならあんたは今月末に予定されていた総戦技評価演習に207部隊の連中と参加するはずだった。ま、これまでの訓練の成果を見ればそれは順当で、むしろこの段階でまだそこまでに達していなければそっちの方が問題なんだけどね。……それはいいとして。白銀。前にあんたの戦術機適性値について検査したことは覚えてるわよね?」
「はい。昨年の七月から八月にかけて十数回にかけて行われた検査・研究のことです」
「堅いわね……まぁいいわ。そう。正確には十六回なんだけど、その検査の結果を元に基地司令が下した判断が、これ」
言って、ぴらりと一枚の紙を差し出す。矢鱈上質なその紙を受け取り……その内容に、愕然とする。
「基地司令が決定した正式な書面よ。ま、推薦は私ってことになってるけど。要するにあんたみたいな才能を持ってるヤツをこのまま呑気に訓練させてるのは勿体無い、って話。どう? たかが訓練兵に大した懸想じゃない?」
在り得ない。――それこそ、在り得ない話だった。
こんな特別扱いがまかり通っていいわけがない。否。軍隊という組織において、そんな横暴が許されていいわけがない。
たかが一介の訓練兵。月末に総戦技評価演習を控えている身でありながら、ここに来てこんな待遇……或いは処遇とでも言うべき事態は、ハッキリ言って無意味とさえ思える。
「こ、こんなこと……なんなんですかっ?! この、総戦技評価演習合格後の訓練課程…………ッ!! 任官は通常なら八月でしょう?! な、なのに、なんで……こんなっ、」
「ハイハイ落ち着きなさいよ。言ったでしょ、あんたには恐ろしい才能があって、基地司令はそれに期待した。無論、私も。悪い話じゃないでしょ~? ま、自分が特別扱いされることに謙虚なのはいいけど、あんたやあんたの周りの人間の感情を慮ってられるほど、今の人類に余裕はないのよ」
――!?
愉快気に。どこまでも愉快気に。しかし夕呼は言ってのける。感情を慮る余裕などない。
一訓練兵を副司令、そして基地司令までもが特別な待遇を以って受け入れようとしている事実。それは……恐らくは相当な機密によって隠されることなのだろうが、しかし周囲に居る身近な者は気づくだろう。そして、今の今まで同じ条件、同じ待遇の下訓練にいそしんでいた中で、たった一人だけが格別な待遇を受けたという事実を知ったとき、そこにはどんな波紋が起こるだろう。
単純に言えば、嫉妬。207隊の彼女達がそんな感情に駆られることはないと思いたいが、しかし人間の内面は知れない。かつての亮子を思い出す。あれほど温和で優しい少女さえ、かつては周囲の者の才能を羨み、嫉妬した。
ならば、一概に何事も起きないとは言えないのではないだろうか。
そして、それ以上に。
こうして面と向かって「お前は特別だ」とそう言われて……果たして武自身が増長しないとは言い切れない。戦術機適性「S」。史上例を見ない破格の適性値を持った特別な人間。かつてまりもは戦術機に乗るために生まれてきたようなものだと笑い、そして夕呼はその謎を解くべく研究を行った。
確かに、これまでにも度々自分の才能……というものを突きつけられてきたわけだが、しかし幸いなことに武は己に傲慢になることはなかった。……だが、それがこれから先に起きないとはいえない。
手渡された書面を見つめる。そこに記された今後の武の訓練課程、或いは任官スケジュールは……全て、何事においても順当に進めば、という前提はつくものの、早ければ六月中旬には任官することになる。戦術機操縦訓練がおよそ一ヶ月しかない日程だ。
そのあまりにも迅速なスケジュールも在り得なければ、それを当の本人に知らしめるということ自体が在り得ないッ。
通常、訓練兵が軍人として相応しい技術・知識・能力・肉体・精神を身に付けたかどうかは教官、最終的には基地司令の判断によって決定され、その後任官という運びになる。
無論、訓練兵にはそのことは知らされず、彼らはその決定がなされた後に自らの任官を知るのである。
それが、だ。
こともあろうに、その訓練兵で在る自分に。こうして任官までのスケジュールを突きつけるという事実。
つまり、これは――
「理解できたようね? あんたに拒否権は一切ない。そして、あんたにはそこに書かれていること以上のものが期待されている。ま、報告されてるあんたの訓練成果を見ても申し分ないし、むしろ優秀な部類に入るわね。……そして、極めつけに“S”ランクの適性値。ハッキリ言って今までに例を見ない待遇なのは承知しているわ。そして、それが正式な手段を経て決定されているということは……あんたには、常に結果が求められる」
「――ッッ!」
「当たり前でしょ? あんたには才能があって皆それに期待した。だからあんたは今ここでその書類に眼を通している。本来ならあんたに見せるべきものじゃないんだけど、それで餓鬼みたいな勘違いされても困るでしょう?」
ニタリ、という表現が相応しい笑みだった。
なるほど、そういう効果も狙っていたのかと武は眼を閉じる。確かに、こんなものを見せられては気を引き締めないわけにも行かず、そして、そこに込められた「期待」という重圧に潰されそうにもなる。
衛士独りが出来ることなどたかが知れている。けれど、夕呼は、そして横浜基地司令パウル・ラダビノッド准将は、その“たかが”こそを欲したのだ。
ぶるり、と全身が奮えた。
言い知れぬ感情が込み上げる。――ああ、俺は……。
戦え、という啓示だと思えた。
純夏のために戦え。誰かが、そう叫んでいるのだと感じた。
だから、運命は廻るのだ。その道を指し示すのだ。武の前に、その運命が用意されたのだ。
戦え。
力を手に入れろ。
衛士となって戦え。
BETAと戦え。
お前は、お前は、お前は、お前は――特別なのだから。
その特別な力を才能を以って。
「……いい顔するじゃない。ま、精々頑張りなさい」
そう言って夕呼は手を払う。退出を促されているのだと気づいて、武は書類を返却し、踵を返す。
書類の文末にはこう記されていた。
――7)前項一の総合戦闘技術評価演習の実施に伴い白銀武訓練兵の所属を第207衛士訓練部隊よりA-01衛士訓練部隊へ異動するものとする。
―― 補足として、A-01衛士訓練部隊の所属は上訓練兵のみであり、教導官にはA-01第9中隊長伊隅みちる大尉が同隊長職と兼任することを記す。