『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:七章-03」
それは混乱。そして惑い。
茜はただひた走る。その姿を求めて。その影を求めて。――彼を求めて。ただ。走る。
最初に気づいたのは壬姫だった。
起床ラッパはとうに過ぎ、常ならば点呼の五分前には自室の前に立っているはずの武の姿が、しかし今日に限って見られない。彼の部屋の斜め前に位置する壬姫だからこそ、気づけたともいえる。だから、ひょっとして寝過ごしているのかもと心配になった彼女は武の部屋をノックし……何の返事もないことに少々気後れしながらも、控えめにドアを押し開いたのだ。
――無人。
そこにあったのはただがらんとした部屋。スチール製のベッドには丁寧に畳まれた寝具。備え付けの時計が置かれただけの机。灯かりなど点いているわけもなく、ただ空洞と化した室内には、微塵にもヒトの気配がなかった。
故に無人。
その部屋に、昨日までそこに居たはずの彼の姿はどこにも無く。
壬姫は、その後自分がどのような行動を取ったのかよく覚えていない。ただ、気づけば我武者羅に基地内を走り、武の姿を探していた。
あらかじめ決めていた合流ポイントに向かえばそこには美琴、慧、亮子の姿。同じように武を探して駆け回っていた彼女達の表情は一様に暗く、焦燥を浮かべている。……ならば、彼女達もまた自分と同じく、彼を見つけられなかったのだ。
「壬姫さんっ、タケル、居た?!」
「――ううん。どこにも。……白銀さん、どこに行っちゃったんだろう……?」
弱々しく首を振る壬姫に、亮子が寄り添う。
「……大丈夫です。すぐに見つかりますよ。……きっと、ちょっとだけ散歩に出かけたくなったとか、そんな理由です、よ」
まるで自身に言い聞かせるような亮子の言葉に、壬姫は、美琴は頷いた。
「…………もう一度、探してくる」
「慧さんっ」
神妙な表情で呟いて身を翻す慧。止める間もなく駆け出した彼女は……しかし、正面からやってきた千鶴に足を止める。慧の後方で三人もまた、ごくりと喉を鳴らす。向けられた四対の視線に弱々しく笑って、千鶴は……
「駄目。こっちも居なかったわ…………」
零すように、そう言った。
一体、何が起こっているのか。
それは混乱。そして惑い。
茜は走っていた。目指す先はグラウンド。どこか懇願に近い感情を抱きながら、ただその姿を求めて走る。
――武がいない。
呆然と皆にそのことを告げた壬姫は哀れなほどに狼狽していた。あまりの壬姫の様子に誰もが困惑し、そして少女達は見た。壬姫が見たのと同じそれを。もぬけとなったその部屋。武が、確かに昨日まで居たはずだったその部屋を。
次の瞬間、茜は……そしてA分隊の少女達は駆け出していた。
あまりにも、酷似していた。
かつてのあの時。雪の舞う札幌の早朝。狂乱の一夜を明けたその日。――部屋からいなくなった彼。
確かあの時は……晴子が走り去った彼を目撃したのだったか。そしてその彼が向かったのはグラウンド。基地の外へ通じる門にも繋がっているその場所。ならば、今回も同じように……そこにいるのではないか。いや、きっと居る。そこにいる。――いて、お願いッ!!
「ッ、はっ、はぁっ、ハ、ァッ…………!」
普段の彼女ならば決して息が上がることなどないはずの距離。全速力で疾走し、たどり着いたその場所は……早朝の涼やかな空気と朝日に照らされるだけで、何も無く、誰も居なかった。
「しろ、がね……」
足の力が抜ける。愕然と膝をつく。――居ない。どうして、という疑問が巡る。何故、という困惑が巡る。
一体如何なる理由が在って、武は居なくなってしまったのか?
思い当たる事象がない。思いつく理由が無い。
茜が知る限り、およそ彼が基地内から居なくなる道理はなかった。……ならば、自分が探しにやってきたこのグラウンド以外の場所に居るのだろうか。
きっと、そうだ。
ぐ、と拳を握る。眼を閉じて、気を抜けば暴れ狂いそうな感情を抑制して……茜はやってきた道を駆け戻る。
そこにはきっと……誰かに連れ戻されて、例えば千鶴や冥夜の小言に苦笑し、晴子や多恵のからかいに憮然としている彼がいるに違いない。
心配かけてごめん。
そう言って微笑んでくれる彼がいるに違いない。
そう。
きっとそのはずだ。
自分が少し見当違いの場所を探しに来たというだけで。…………彼がいなくなったなんてことが、自分の知らぬ間に、自分の知らないところへ行ってしまったなんてことが……あるはずが、ないのだから。
だが、皆のところに戻ってきた茜が目にしたものは……暗く沈んだ表情の彼女達。懸命に表情を取り繕い、心配はない、きっと大丈夫だと励ましあうその姿。
――きっと茜が見つけてくるから。
そう言って笑って。泣き出しそうな亮子を慰める晴子の言葉が、妙に鋭く突き刺さる。――嘘だ。
「あっ、………………茜?」
近づいてくる気配に、晴子は弾かれたように、心からの期待を込めて振り向いた。茜が戻ってきた……! ならばきっと、その隣りには武がいるはずで…………そう思って、彼女の名を、呼ぼうとした。
だが、その姿に、弾むようだった声は引き攣って凍りつく。――そんなばかな。
茜は一人だった。隣りには、或いは背後には……誰もいなかった。
そしてそんな晴子の……先に戻っていた彼女達の心を代弁するかのように、茜もまた、呟いていたのだ。
なぜ、と。
ぐらり。茜が崩れ落ちる。壁にもたれるように倒れた彼女はそのままずるずると膝をついてリノリウムの床に座り込んだ。全身の力が抜けて、呆然と視線が揺れている。晴子は駆け出した。
「茜ッ、茜、しっかりしてっ!」
「ぁ、ぁ、うそ……よ。だって、しろがね……っ」
「茜ちゃんっ!!」
脱力した茜の肩を揺する。何度も名を呼び、気を確かに持てと叫ぶ晴子に、多恵に、しかし茜は反応らしい反応を見せない。ある種のショック状態に陥っているのだと気づき、しかし呼びかける以外に方法を知らぬ彼女達を押しのけて、薫が茜の頬を張った。
「……ッッ?!」
「しっかりしろっ、莫迦ッッ!」
あまりにも強引な薫の手段に顔を引きつらせた晴子と多恵、そして亮子だったが……しかしその荒療治は功を奏し、茜の視線は真っ直ぐに薫を向いていた。
「…………落ち着きましたか? 茜さん……」
「ぇ、ぁ、うん」
薄っすらと涙を浮かべたまま、しかし亮子は小さく微笑む。茜は少しだけ冷静さを取り戻した頭で薫に視線で礼を言い、立ち上がる。
見れば、B分隊の彼女達も皆が茜を案じているようだった。……武を探してこれだけの人数が奔走していたというのに、自分だけ呆けてしまったのではあまりにも情けない。恥ずかしげに苦笑する彼女の姿に、千鶴は、冥夜はほっと息をついた。
……だが、問題は何も解決していない。
確認するまでもなく、茜は武を見つけられなかったのだ。自分達と同じく。つまり、この場に居る十人全員が……それこそPXや座学で使用する訓練棟の教室から校舎裏の丘まで。それぞれに手分けして駆け回ったわけだが、武の姿を見つけることは出来なかった。
横浜基地は広い。極東最大の規模を誇るというのは伊達ではない。だから、厳密にはまだ探していない部分は多々存在するのだが、訓練兵である彼女達が行動できる範囲をくまなく探して見つけられなかったのなら……武は、彼女達の手の及ばないところにいるのではないだろうか。
「香月副司令……」
呟いたのは冥夜だった。全員の表情に緊張が走る。
まさか、という思いと……それならばあり得るという確信が戦慄のように駆け巡る。
かつて……そう、それは昨年の夏。なんらかの特別な任務のために、武は副司令直々に呼び出しを受けたのだ。一度や二度ではない。約二ヶ月に渡り十数回。……その理由や任務の詳細などは全く知らされず知ることさえ許されなかったわけだが、しかし彼女達は知っている。
彼は、その特殊任務の度に気を失い、倒れ、医療棟のベッドの上で眠っていたのだ。
心労や疲労のためではないという。……ただ、何の症状もなく眠るように意識を失って……。
教官であるまりもの元へ連絡が入るたび、彼女の口から武が倒れたことを知らされるたびに……彼女達は不安を募らせた。当然だ。当時の彼は日頃の訓練に加えて斯衛の真那から剣術の修行を受け、全身に酷い怪我と疲労を抱えていた。そこに副司令からの特殊任務が加わって、突然に意識を失ったと知らされれば……そしてそれが十数回も繰り返されたならば。
だから、彼が呼び出されることがなくなってからは、口には出さずとも誰もが安堵していた。
ああ、これでもう彼が倒れることはないのだと、本当に安心していた。……任務の内容なんて関係なかった。ただ、知ることが許されない任務に打ちのめされるように倒れる彼を見なくて済むのだという安堵だけがあった。
故に、その冥夜の呟きはまるで稲妻の如き衝撃をもたらした。彼女自身半信半疑なのだろう。……だが、前例があり、彼女たちにとって突然で唐突に過ぎる今回の事態は……正にそのことを示しているように思えてならない。
そして、それを裏付けるかのように……或いはただ点呼のために、神宮司まりもがやってきた。……そこには武の姿などなく、少女達は最後の望みさえ潰えたことを知る。
「……小隊整列っ」
反射的に、千鶴が号令を掛ける。内心で激しい動揺と狼狽、相変わらずの困惑を抱いたままに、十人の少女達は整列する。一糸乱れぬ敬礼を受けて、まりももまた答礼し……そして彼女は言った。
「全員揃っているな……」
「――ッ、」
皆が、息を呑む。――全員? 武がいないのに? 全員、だって?!
だが、誰もそのことを口にはしなかった。まりもは「全員」と言った。揃っていると言った。……ならば彼女は知っているのだ。武がいないことを。その理由を。
だから、それを待つ。説明を待つ。自分達が知ることの出来る……知ることを許された限りの、その、理由を。
二十の視線を受けて、しかしまりもは微塵も怯むことなく。むしろそんな少女達の感情を嘲笑うかのように平然と口を開いた。
「貴様達に伝えておくことが在る」
――。
しん、と静寂が更に静まり返る。全員が呼吸さえ潜め、紡がれるまりもの声に耳を澄ませる。
「本日0400を以って白銀武訓練兵はA-01衛士訓練部隊へ転属となった。これを受けて貴様達第207衛士訓練部隊B分隊は白銀訓練兵を除く五人編成に変更、総勢で十名へ変更された」
誰も、何も、言えなかった。
否。
誰も、理解できなかったのだ。――その言葉を。
転属? 異動? 誰が。武が。……莫迦な。なんだ、それは……っっ。
驚愕、そして動転。まりもの言葉が繰り返し脳内で再生されるが、その意味するところを理解できない。
皆一様に目を見開き、愕然と口を開く。
脳内で理解できずとも、彼女達の身体は……理解し、感情に忠実に反応していた。
白銀武はもういない。
どこにもいない。――いない、のだ。
それは果たして夕呼の指示なのか否か。まりもはそれ以上のことを言わない。ただじっと黙って、厳しい表情のままに茜たちを見つめいていた。
……だから。茜は問うてしまった。
点呼を終え通達を終え……なのに彼女達の前から立ち去ろうともしないまりもに、尊敬する教官に、優しい彼女に。問うてしまう。縋ってしまう。口に、してしまう――。
「どう、して……、どうして、なんですかっ……白銀、は、っ」
「茜……」 「茜ちゃん……っ」
か細く震える茜の肩を、晴子と多恵が抱きとめる。半歩踏み出してまりもに詰め寄ろうとする彼女を、今にも泣きそうな表情の彼女を、全く同じように泣き崩れそうな二人が抑える。
「教官ッッ! 神宮司教官ッッ!! 白銀はっ、武はッッ?! なんで、どうしてっっ!! ――何処に行ったんですかァッッッ!!??」
絶叫に近しいほどの嗚咽。茜のその慟哭は、その場にいた少女達の心を震わせた。
武がいない。彼がいない。側にいない、隣りにいない、触れられない、声が聞こえない――ッッ!
茜は盛大に涙を零す。両目をしっかりと開いたまま、彼女は泣いていた。泣いて、問うていた。……だが、まりもは応えない。
「…………っ、ぅ!!」
唇を噛む。視線を落とす。がくりと全身の力が抜けて……肩を抱いて支えてくれる晴子と多恵に甘えるように。茜は打ちひしがれて項垂れた。
――茜。囁く晴子が抱いてくれる。多恵もまた、しっかりと彼女の身体を抱きとめた。
言いようのない沈黙がその場を支配する。誰もが茜を見た。困惑と哀愁と疑問。……そして、大きな驚きを。
冥夜は、千鶴は、慧は、美琴は、壬姫は…………B分隊の少女達は、そうしてようやく本当に、知った。
茜の心底からの想いを。
その想いの本質を。強さを。――愛執に近しいほどの、情を。
冥夜は戦慄する。茜の想いに背筋を怖気させる。昨日の彼女。武の心を揺るがすキーワード。「カガミ・スミカ」――ああ、それは、その名は。
武にとって深い傷を抉る女性の名であると同時に……茜の愛執を強固にする呪いのようなものだったのだ。
涼宮茜は白銀武を愛している。
狂おしいほどに。彼がなくては生きていけないほどに。
想い、焦がれ、愛している――。
憧憬や尊敬、好意。そんなものとはまるで異なる次元で、魂の奥底から――彼を求め、彼を愛し……彼の愛を欲していたのだ。
否。
それは報われない想いだと知っている。誰あろう、茜自身がそのことを深く理解し、承知している。
彼からの愛を与えられなくともいい。彼の愛情を受けなくとも構わない。この身は、ただ彼の側で彼の支えとなれるだけで満たされるのだから。――なのに、武はいなくなってしまった。
側にいたいと願う茜を置いて。
支えとなりたいと願う茜を置いて。
彼を愛している。それだけで満たされて充たされる茜を置いて。告げられない彼女の想いを置いて。ただ、独り……手の届かない場所に行ってしまった、のだ。
「涼宮……」
呼びかけたのはまりも。涙を零し続ける茜に、静かに……少しだけの慈愛を込めた声で。
「安心しなさい。確かに白銀はいなくなってしまったけれど……別に貴女たちの手の届かないところに行ってしまったわけではないわ。所属する部隊こそ違ってしまったけれど、彼だって横浜基地に所属する同じ仲間よ。……今の貴女たちには教えることは出来ないけれど、でもね、白銀は今、彼にしか出来ないことを懸命に頑張ろうとしているの。その力の全てを以って、人類のため、なにより彼自身の願いのために挑んでいる。……勿論、貴女たちのためにも、ね」
穏やかに、小さな微笑さえ浮かべて。まるで優しい姉のように。
「ほら、そんなに泣かないの。……今の貴女を見たら、白銀はどう思うかしら? そんな風に泣かれたら……きっと彼は進むことを躊躇ってしまう。貴女の、貴女たちの涙は、彼の行く道を狭めてしまうかもしれない。彼の可能性を閉じてしまうかもしれない。……それは貴女の望むことではないでしょう? ――だったら、顔を上げて、胸を張りなさい。彼が安心して行けるように。新しい道を選び取ろうとしている彼を、祝福してあげなさい」
「――――、」
まるで聖母のように。にっこりと微笑むまりもに、茜は強く心打たれる。――ああ、なんて……なんて凄い。
この人は、彼女は、まりもという女性は。なんて、なんて強くて大きいのだろう。
そうだ。そうだった……。忘れていたのだ。自分は。
かつて、横浜を離れることになったその日。生きろと言ってくれた彼女の言葉を思い出す。立派な衛士になれと言ってくれた、その言葉を思い出す。
そうだ。まりもはいつだって、優しかった。誰よりも教え子たちの、その心を慮ってくれた。……だから、彼女の言葉は、こんなにも胸に染み渡る。
茜は涙を拭った。顔を上げて、胸を張って――笑顔を見せた。
武を困らせるようなことだけは、しない。彼が前へ進むと決めたのなら、その足手まといになんて絶対にならない。……彼が自分を置いていくことを選択したことは哀しいが、でも、それが何よりも彼のためになるというのなら。
「取り乱してしまって申し訳ありません、教官。――あたしは、大丈夫です」
恥ずかしそうに笑う茜を見て、まりもは頷く。最後まで優しげに微笑んだまま、彼女は背を向ける。
「――全員、顔を洗って来い。酷い顔だぞ、まったく……ふふっ」
背中を向けたままそう言って。まりもは去っていった。
その彼女の言葉に、少女達は互いの顔を見合わせ――皆が皆、同じように目元を腫らしていた。
「ぅゎ、皆涙もろいのね……」
「……うーん。茜に言われたくはないよね」
「茜ちゃ~んっ、寂しかったらいつでも私が慰めてあげるからねぇ~っ」
「べ、別にあたしは泣いてなんか……って、亮子、なんだよその顔はっ」
「えへへへ。薫さん照れてます」
「……うぅぅ……神宮司教官、優しいですぅ……」
「うん。あんな優しい笑顔、初めてだね」
「ああ……叶うならばあのような女性になりたいものだ」
「……いいね、それ」
「まぁ、それはともかく。本当に皆酷い顔ね……」
照れくさそうに、頬を染める。
あまりにも突然で唐突な武の異動。彼がいなくなってしまったという事実に矢張り、拭いようのない寂しさと哀しみが込み上げてくる。……だが、もう茜は涙を流さない。
少なくとも、彼が側にいないという理由で泣くようなことは、しない。
だってそれは、彼を喪ったわけではないのだから。彼は生きて、同じ横浜基地にいる。これから先の日々、任官してから後……彼に再会できるかどうかはわからないが、それでも、彼は「いる」。
まりもは言った。武は武にしか出来ないことをするのだと。そのための道を進むのだと。――だったら、誰よりも彼を愛している茜は。
「さ! 皆顔洗って食事食事ッ。総戦技評価演習まで二週間しかないのよっ? さっさと気合入れて、今日も訓練頑張るわよ~っ!」
「あははは。一番落ち込んでたくせになんか言ってる」
「そこォ! 細かいことはいいのっ!!」
じゃれ合うような茜と晴子。そこに多恵が加わって、薫が混ぜ返し亮子がついて歩く。いつもの風景。いつもの彼女達。武と共に歩み、武と共に成長してきた彼女達。
その結束は、強く、堅く、なによりも深い絆で繋がっている。
それを、羨ましいと。
だから、敵わないと。
故に、そう在りたいと。
「――我々も、行こう」
冥夜が柔らかな声で促す。武を傷つけてしまったままに別れることとなった彼女だが、しかし、その心は晴々と清々しい風が吹いている。
彼女は今、嬉しくて仕方がなかったのだ。
武の心の裡の片鱗を知れたこと。茜の想いの強さを知れたこと。武と共に在り、強い絆で結ばれた彼女達の強さを知れたこと。
そんな彼女達と同じ時を過ごせていることを。
そんな彼女達と仲間となれたことを。
誇らしく思うと同時、その事実が――嬉しい。
だから、もう迷うことはない。誰に遠慮することもない。羨ましいと想い、敵わないと想い、そう在りたいと想うのならば――そうすればいい。
彼女達のように、独り進んだ武のように。
強く、深い絆を育めばいい。自分達も。誰でもない、自分自身の手で。
壬姫を見る。美琴を見る。千鶴を、慧を。
まだどこかに遠慮や躊躇いがある彼女達との関係を。今まで何度となく想い、そのように在れたらいいと夢想していたそのことを、今度こそ本当に。
「ええ、白銀だって頑張っているんだもの。……私も、前へ進むわ」
強く。本心からの想いを。
千鶴は微笑む。
己の不甲斐なさを知らしめてくれた武。己に足りない物を気づかせてくれた武。その彼の、真剣な思いに。――応えてみせる。
昨日一晩考えて考えて、だからこそ思い知った甘ったれな自分。子供染みた諍いはもうしない。慧の考えが、行動が理解できず、受け入れられないのなら……どれだけの時間を掛けようとも、彼女を理解してみせる。
皆にも護りたいものが在る。それを護れるかどうかは、皆の自覚と結束にかかっている。
自分と慧の仲違いによって任務が失敗して……そして失うものは自分ひとりのものだけじゃない。…………それを、ようやくに気づくことが出来たのだ。
だから、本当は今日、武に正面から謝罪したかったのだけれど……でも、それでも千鶴は決意する。
前へ進む。もっと前へ。怒り、諭してくれた彼に応えるべく。
その意思を込めて慧を見れば、少しだけ頬を染めた彼女が不敵に笑っていた。
――あんただけに格好つけさせないよ。
そんな言葉が聞こえた気がした。――ふふ、言っていればいい。
苦笑したつもりの千鶴だったが、笑いあう彼女と慧は……どこか、柔らかく見えた。
壬姫は、美琴は、そんな彼女達の姿に、咲いたように笑う。
「ねぇねぇっ! ボクたちも行こうよ!」
「そうですよ~っ、今日こそ涼宮さんたちをギャフンと言わせちゃいましょう!」
冥夜が頷き、千鶴と慧が首肯する。
五人揃って歩き出して……少しだけ先にいるA分隊の彼女達を見つめる。今はまだ追いつけない彼女達。……だが、いつか必ず、それは例えば今日にでも。
追いついて、追い越して――彼女達に振り返ってみせる。
自分達だって負けていないのだと。そう、示してみせる。……武のためにも。あんなにも真剣な感情を見せてくれた、彼のためにも。
そして、十人の少女達は歩き出す。
それぞれの思いを胸に。それぞれの決意を確かに抱いて。
「どうでもいいけど。珠瀬、古いね」
「ギャフン!」
===
風間梼子は恐怖に凍りついた。
茹だるような熱気。粘りつくような湿気。濃密な緑に覆われた密林のその中で――まるで獣のように迫り来るアレはなんだ。
総合戦闘技術評価演習。
たった一人の訓練兵のために行われているそれ。
戦術機からの離脱を余儀なくされ、強化外骨格さえ使用不可能という状況で、小型種BETAの蔓延る戦場をただ逃げ惑うことしか許されない……そんな条件を与えられた彼は。しかし、仮想的として追撃を開始した梼子を、或いは梼子と同じく追撃していた彼女を――。
確かに、彼は、「可能ならば」という前置きをされた上で追撃部隊の無力化……即ち仮想敵である自分達への攻撃を許可されていはいた。
だが、仮にもこちらは小型種BETAを想定して追跡している。優れた対人探知能力を有する小型種は、ある程度の接近が必要とはいえ、物陰に潜むニンゲンさえ感知して襲い掛かってくる。故に、その脅威ともいえる探知能力の代わりに用意されたレーダー。半径十メートルという制限は在るものの、しかしその存在は、追われる彼にとって致命的となる。
更に言えば、彼には小型種からの攻撃判定に途轍もない制約を課せられていた。具体的なBETAの種類や特徴を知らされていない彼だが、兵士級と呼称される個体が持つ「腕」から繰り出される攻撃は、容易く人間の骨を砕き肉を抉るのである。故に、仮想的の攻撃はそれと同等の破壊力を有する物として扱われ――一撃を喰らえば戦死するものとされた。
つまるところ、彼には“逃げる”以外の選択肢などありはしないのである。
交戦は許されているが、その戦闘では模擬短刀以外の装備を許されていない彼にとってそれはあまりにも無謀。レーダーを持つ七人の追っ手から、ただひたすらに逃げ続けるほかないはずなのだ。
その、はずなのに。
目の前で、梼子と同じ追撃部隊の一人が崩れ落ちる。
追撃を振り切れず応戦に転じた彼の……得体の知れない身のこなしに翻弄され、攻撃という攻撃をかわされ、死角から死角へと移ろうように舞い踊るその挙動に――全身を捻る旋回運動、螺旋を描く攻撃軌道、その、短刀を振るう剣閃に。
息を呑んだ。
今、彼は何をしたのだ? ――模擬短刀を振るった。一撃を喉に。二撃を胸に。腕を掴み脚を払いトドメとばかりに腹に突き立てて。
凍り付いてしまった梼子に構わず、再び彼は逃走を開始した。――莫迦な!
「いっっったぁあ…………ッ」
「――亜季さんっ、大丈夫ですか?!」
ゲホゴホと喉をさすりながら身を起こす亜季に、我に返った梼子は駆け寄る。強かに打ちつけられたのだろう。喉には細く赤い筋が残っていて、更には胸、腹と涙目でさする彼女の様子に狼狽する。
「くっそう……あいつめ、本気で殴りやがってぇ……」
骨に異常はないようだったが、相当な痛みらしく、亜季はひぃひぃと転げる。些か大げさなその仕草に、いつもの彼女なりの冗談なのだと気づいて……梼子は少し唇を尖らせる。
「亜季さん。私とても心配したんですけど」
「いやぁ悪い。――でも、あいつ強いよ。わたしにゃ手に負えない」
両肩を竦めて降参と手を挙げる彼女に、梼子は溜息をつきながらも――概ねにおいて同意する。
元々が接近戦を不得手とする亜季に、狙撃に比べると矢張り芳しい実力を持たない自分にとって……彼の、あの戦闘能力は驚異的だ。
無論、こちらの攻撃が一度でも当たれば彼は戦死扱いとなるわけだが……現実に亜季の攻撃は当たらず、そして自分も同様の結果となるだろう。――あの動きには、追随できない。
「なんだっけ、シロガネとか言ったっけ? 香月博士が特別扱いする理由、ちょっとわかった気がする」
「……そうですね。今回の総戦技評価演習……、こんな条件で合格できるわけないと思ってたんですけど」
追撃部隊、仮想的として本演習に参加することを命じられたのは、夕呼直属の特殊任務部隊に属する任官二年目の衛士七名。昨年の四月に帝国軍札幌基地より国連軍横浜基地へと転属した――ある意味で彼と同じ境遇の梼子たち。
既に数度の実戦を経験し……その度に同期だった仲間を喪い……。十二人いた彼女達の中で生き残ったのはたったの七人。「死の八分」を乗り越え、実戦を潜り抜けた梼子には、そして当然亜季にも、その自負が在る。
にも関わらず、未だ訓練兵でしかない彼に敵わなかったという事実。あまりにも獰猛な戦闘術に呑まれ、亜季の援護をすることさえ出来なかった己の未熟さに、梼子は悔しげに拳を握り締めた。
「私、彼を追います――」
「うん。わたしは動けないから、行ってらっしゃい」
ぴらぴらと力なく手を振る亜季を置いて、梼子は追撃を開始する。演習終了まで残り八時間二十七分――。追撃部隊に用意された無線機で、彼の逃走経路を伝達する。
追撃部隊は残り六。八時間も必要ない。一切の手加減なく、微塵の容赦もなく。今はただ先任としての意地を賭けて。或いは、先に逝った仲間達に笑われないように。
梼子は走る。
彼のために用意された彼女達は走る。
その、特別とされる訓練兵の、特別たる所以を知るために。――全力で。
===
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ…………!!」
叩きつけられた地面に転がったまま、彼は荒い呼吸を繰り返す。相変わらずな熱気と湿気に汗が噴き出す。――ついに、決着はついた。
梼子は己の首筋に手を当てる。鈍い痛みが残るそこを撫で付けて……亜季は冗談でもなんでもなく、本当に痛かったのだとぼんやりと思う。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハッ……くそっ、畜生ッッッ!!!」
倒れたまま、空に向かって咆哮するその声。悔しげな、苛立たしげな少年のその叫び。その彼の鋭い双眸は、立ち尽くし肩で息を切らす一人の女性に向けられていた。
「はっ、ぁ、くそっ……やったぞ! この野郎ッッ!!」
ぜぇぜぇと喘ぐように呼気を乱す彼女は、引き攣った笑みを浮かべながら負けじと叫んだ。上川志乃。仮想敵の一人であり――彼女達の最後の生き残りである。
結局、七人いた仮想敵は……志乃を除き全滅。梼子の執拗な追撃が功を奏し、最初に無力化された亜季以外の六人がかりで彼を追い詰めたのが三十分前。完全なる詰みだと確信した。どう逃げようと足掻いても無駄。先任衛士六人の包囲を突破できるはずもなく、彼は即座に敗北するだろうと思われた。
――なのに。
梼子は愕然とした。或いは彼女だけではなかったかもしれない。彼と相対した六人全員が、その在り得ないまでの挙動に舌を巻いた。攻撃が当たらない……だけでなく、多数に囲まれているというのに気づけば一人ひとりを相手にしている彼。独特の旋回運動、対する相手の死角へと潜り込む螺旋軌道。正面から側面へ、側面から背面へ……そして次の相手へ。ひたすらに回避のためだけに繰り返されるその動きは、梼子たちを大いに困惑させ、翻弄した。
これでは亜季の二の舞だ。息を吐く間もない連続攻撃を仕掛けたかと思えば、短刀を振り抜いた慣性そのままに旋回し……繰り出される攻撃をかわしたかと思えばその回避こそが違う相手への攻撃となっていて。
彼の戦術は、とにかく常識から外れていた。一撃を喰らえば「死ぬ」という条件下にありながら、ただの一撃も受けることなく。囲む六人を翻弄するその挙動。
まるで“多数を相手にすることに特化している”かのような彼の戦闘術。こちらの攻撃は当たらず、彼もこちらを無力化するに値するダメージを与えられない。戦闘は膠着した。その場にいる全員が絶え間なく動き続けていたというのに、拮抗し、膠着したのである。
六対一でありながら。
圧倒的戦力差でありながら。
包囲する梼子たちを相手に、彼は単独で逃げ続け……そして、最初に梼子が打ち倒された。
次第に見慣れ始めた螺旋軌道。そのパターンというべきものを見極めたと思った瞬間に、背中を向けたままこちらへバックステップしてきた彼の姿が掻き消えた。――否。バックステップの最中に既に半身を捻り、軸足が地に着いた瞬間、まるで回転する独楽のように――梼子の身体を中心にぐるりと回りこんで――彼女は延髄に強烈な一撃を受け、膝をついた。彼に対するハンディキャップとして、急所に攻撃を受けた場合は行動不能、つまるところ無力化されたとみなされる。
一瞬にしてやられてしまった梼子は、そのまま愕然と戦況を見守って……自分と同じように次々と倒されていく仲間の姿を目の当たりにした。
そんな莫迦な。
たった独り。単独で。模擬短刀ひとつだけしか武器はなく。六人に追われ、追い詰められて……どうしてそんなことができる?
確かにその顔を見れば精神的にも肉体的にも極限まで疲弊していることがわかる。必殺に等しい攻撃はかわす以外に方法はなく、逃げようと走っても一度補足された以上レーダーから逃げ切ることは困難で。
文字通り追い詰められている。完全に詰み。――だからこそ、抗うほかに術はなく。戦いを挑む以外に道はなく。
そして、彼にはそれができる技術が存在したのだ。
梼子は知らない。彼女達は知らない。
――実(げ)に恐ろしきはその物量、故に我が剣はそれに対する究極と知れ――
彼に師が在ったことを。名も無きそれこそ、圧倒的多数で迫り来るBETAを駆逐するために編み出された剣術であることを。
彼が、その後継で在ることを。
極限まで追い詰められ……形振り構ってなどいられない状況に追い詰められ……そうして爆発した彼の才能に。ひとり、またひとりと倒れていく。――そして志乃だけが残った。
彼にとって不運だったのは、梼子たちの中で最も優れた近接格闘能力を有する彼女を最後の最後に残してしまった点だろう。……否、優れているからこそ、志乃は残ったのだ。ならば、それは必然というべきかも知れない。
対して、演習開始から六時間以上を逃げ続け、常に追われ続けているという状況に精神をすり減らし、あまつさえ今この瞬間まで六人と対峙し、内五人を連続で仕留めたのである。――最早、彼は限界を超えていた。
彼を追い詰めてからの三十分。六人の間を駆け抜け続け一秒たりとも静止することなく動き続けていた彼のスタミナは当に切れていたらしい。……志乃の正面に立つ彼は、微動だにしない。或いは、その瞬間だけ……立ったまま気を失っていたのかもしれない。
あと一人。どこか頭の片隅でそれを認識した瞬間に、全身の緊張の糸が切れて……消耗した精神と肉体が活動を停止してしまったのか。
志乃はそれを見逃さなかった。刹那に意識を取り戻したらしい彼だったが、回避しようとした瞬間に腕をとられ――ぐるん、と縦に回転した。
そして決着はついた。
彼――白銀武訓練兵は仮想敵六人を無力化するも敗北。「死んだ」のである。
「……こちら上川……目標を制圧。繰り返す、……ッ、目標を制圧」
『…………伊隅だ。現時刻をもって総戦技評価演習を終了する。各自、所定のポイントへ集合せよ――』
志乃が絶え絶えに報告する。彼女達の指揮官であり、武の教導官を兼任することとなったみちるによって終了が告げられる。
「……ほら、立てよ。シロガネ」
倒れたまま起き上がらない武に、志乃が苦笑を浮かべて手を差し伸べる。悔しげな表情の武は……しかしその手を掴むことはなかった。
「俺、負けたんですよね……」
「そうだな。……ま、だからといって失格かどうかはまだわかんないけどな。ホラ、急げよ」
眼を閉じて吐き出すように武は言う。そんな彼に益々志乃は苦笑して……転がる彼を置いたまま、他の仲間達と共に移動を開始する。
去っていった彼女達の姿が見えなくなったのを確認して、武は起き上がった。
「俺……負けたんだな………………すいません、月詠中尉。…………まだまだみたいです、俺、」
最後の最後で気を抜いてしまった己の未熟さを噛み締める。
たかが六人を相手に敗北した自身の弱さを噛み締める。
きっと真那ならば、こんな無様を晒しはしない。……或いは、彼女の部下である巽、雪乃、美凪とて。
――落ち込んでばかりもいられない。今は、立ち止まる時ではないのだ。
武は極度の疲労で震える脚を叱咤しながら、集合ポイントへと向かう。総合戦闘技術評価演習は終了した。果たして合格か否か。現時点での己を全て出し切った。ならば……今はただ、審判を待つ。