『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:七章-04」
透き通る蒼い海が黄昏に染まる頃、ようやく武は合流ポイントまで辿り着いた。仮想敵であった名も知らぬ女性衛士に投げ飛ばされた場所からここまで、実に三時間半。……六時間以上に渡り広大な無人島を疾走したのと合わせても半日足らず。
結局、それだけの時間しか生き延びることが出来なかった。
十四時間逃げ切ればいい……という実に単純明快なそれは、半分にも満たない時間で捕らえられ…………こうして疲労を引き摺りながらに全力で走り戻ったところで、落ち込んだ感情が浮上するわけもなく。
「戻ったな。――白銀訓練兵、ここへ」
「……はい」
名を呼ばれ、武は小豆色の髪をした女性大尉の正面に向かう。本日0400付けで武の新しい教導官となった伊隅みちる大尉だ。彼女の背後には仮想敵として演習に参加した先任衛士七名の姿も在る。……全員が武に注目し、鋭い緯線を向けていた。
ぐ、と。口を閉じ、拳を握り……武は覚悟を決めた。
作戦は失敗。生還かなわず戦死したのだ。……多分、失格だろうと武は予想し、悔しさと情けなさに拳が震える。
――何が、特別だ。
そう言ったのは夕呼だった。武の特別な才能が秘めた可能性を開花させ、伸ばすためにこのような特例措置を実現してくれた副司令。
彼女は更に、武には常に結果が求められるとも言っていた。――当然だ。特別を許されたものは、それゆえの相応しい結果を出さなければならない。
できると思っていた。
確かに過酷で悲惨な演習内容だったが、それでも逃げ切れると……或いは倒しきれるという自信があった。
だが、結果を見ればわかる。……それは、なんと言う自惚れか。
追い詰められて焦り、我を忘れて逃げ惑い、極限状態に追い込まれて…………「殺された」。
一撃を喰らえば終わり。そういう条件だった。……だが、それでも相手は素手で、こちらには模擬短刀の装備を認められていた。加えて、こちらの攻撃は急所に当たりさえすれば“一撃必殺”に相当する。
……改めて考えると、こちらに有利すぎる条件だ。
七対一。仮想敵には追跡用のレーダー。追撃部隊間の通信端末。必殺の攻撃判定。……BETA小型種を想定して、ということではあったが……しかし、彼女達はニンゲンだ。
同じニンゲン。移動速度も、攻撃速度も、思考も、感情も、身体構造も、精神構造も、呼吸も、鼓動も、同じニンゲンだったのだ――BETAなどではなく。
「……………………」
そのニンゲンに追い詰められ、そして生き残ることが出来なかった。自分には、そんな力さえなかったのだ。
武器を持っていながらに。真那という師の教えがありながらに。
演習が終わって、冷静になった頭で考えればよくわかる。――逃げ切れて当然。或いは、倒せて当然。ならば武は………………。
「それでは、これより本総合戦闘技術評価演習の評価を開始する。――白銀、本作戦の第一優先目標はなんだ?」
「……戦闘区域内で、救助部隊到達までの十四時間以上の生存です」
「そうだ。だが、貴様は作戦開始より七時間十二分でBETA小型種に捕捉されKIAと認定された。つまり、作戦失敗。――失敗の原因はなんだ?」
「……は、……敵の索敵範囲に入ってしまったことと、その追跡を振り切れなかったことです。加えていえば、……最初の二体と遭遇した際に、その両方を無力化せず、片方を仕留めたことに安堵して逃走してしまったことです」
そう。あの時、こちらの姿を捉え追撃してきた二人。「追われる」というプレッシャーに耐え切れずに攻撃を仕掛け、無力化した片方。当然、もう一方も襲ってくると思っていた。……だが、実際はそうならず、その女性衛士は呆然と立ち尽くしていた。
理由は知らない。ただ、チャンスだと思った。……この隙に逃げ切れば、などと考えてしまった。
そもそもそれが間違いだった。――チャンスだったのだ。その場でもう一人を倒してさえいれば……あれほど執拗な追撃を受けずに済み、或いは、残る五人を振り切れていたかもしれない。
己の判断の甘さに反吐が出る。
「なるほど。ならば貴様はその時に二体のBETAを倒すべきだったと、そういうわけだな」
「――はい。あの時逃走してしまったせいで、他の敵への連絡を許してしまい……しかもその追撃を振り切れなかった…………。状況判断を誤り、最も避けるべき最悪の事態に陥りました」
ふむ、とみちるは頷く。武の言うところの最悪――つまり、仮想敵六人に包囲され、乱戦になったことを思い浮かべているのだろう。みちるは島の中での出来事を直接目にしては居ないが、仮想敵である彼女達が持つ無線は、当然みちるも傍受していた。また、先に帰還した彼女達からの報告も受けている。故に、みちるは武がとった一連の行動を承知している。
教導官として総戦技評価演習の作戦評価をしようというのだから当然だ。……そして、その合否判定も教官の仕事なのである。
作戦の目的を考えれば、あまりにも最悪。――見つかったその時点で、武は失敗していたのだ。
「白銀、貴様は今“逃げてしまったことが間違いだった”……そう言ったな? そしてそのために“最悪の事態に陥った”と。……莫迦者、貴様は作戦の意図を全く理解していない」
「……え?」
みちるの言葉に、武は怪訝な表情を向ける。眉を寄せ、厳しい表情のみちる。出来の悪い生徒を叱るように、彼女は言う。
「いいか。本作戦の第一優先目標は救助部隊到達までの生存だ。生存……即ち生き延びることが目的で在る以上、不必要な戦闘は避けるのが道理だ。確かに敵に捕捉され、その追撃を振り切ることがかなわない状況ともなれば応戦に転じることもやむを得まい。……だがな、白銀。貴様は勘違いしているぞ。貴様を追いつめたのは何だ? 貴様が振り切れず攻撃を仕掛けたのは何だ? ――BETA、だ。ニンゲンではない」
「――!!??」
「貴様は運よくも追撃してきたBETAの内一体を撃退することに成功した。そして、理由はさておき、もう一体のBETAは微動だにせず襲ってこない。ならばどうする。どうするのが最良だ? ――考えるまでもない。そもそも、短刀一つでBETAに挑むという選択肢自体在り得ない。何よりもただ生き延びるために、貴様はその場から逃走して当たり前だ。その判断は、正しい」
武は絶句する。そんな莫迦な、という思いと……己の認識との誤差に混乱する。
つまり、……どういうことだ?
みちるは言った。確かに言った。逃げて当然。それが最良。――ならば、あの時点で武は間違っていなかった?
…………だが、それでは話がおかしい。追って来ていたのがあくまでBETA……即ちニンゲンである仮想敵ではないのだと想定するならば……一人目を、一体目を無力化することが出来たこと自体が、矛盾する。
相手がニンゲンだったから倒すことが出来た。相手がBETAだから逃げることが最良だった。
仮想敵の定義があまりにも曖昧だ。みちるの言わんとすることもわかるが……しかし、それでは……つまるところ、一体どういうことになるのか。
「ふふ、混乱しているようだな。……確かに、貴様が戦い、倒した相手は、BETAでもなんでもないただのニンゲンだ。貴様と同じ、生身のそれだ。だからこそ倒すことが出来た。……だがな白銀。私が問うているのは“ニンゲン”か“BETA”かではない。――生き延びるという最大目標を実現するために、如何にその場の状況を判断し、行動するか。ただその一点のみ」
「……ッ!」
そうか、そういうことか! 武は驚きに目を見開く。不敵に笑うみちるの視線に、勘違い甚だしい自分の浅はかさを恥じる。
つまりはこういうことだ。
作戦の第一優先目標は「生存」。追撃してくる敵から生き延びること。
ただひたすらに逃げようとも、果敢にも挑み倒そうとも。
生き延びればそれで作戦は成功。目標は達成されるのだ。――そこにBETA/ニンゲンの区別はない。
ただ、今回の演習に用意された追撃部隊……仮想敵が小型種BETAという設定だっただけで――故に様々な戦闘時の条件が付随したわけだが――例えばそれがニンゲンによる追撃だったとしても同じことだ。
生き延びるためにどうするか。
相手はBETAだという。喰らえばそれだけで戦死する攻撃。こちらの動向を把握するレーダー。意思疎通のための通信端末。……それらを持つ敵を相手に、どうすれば生き延びることが出来るのか。
見つからないように逃げる。攻撃されないように逃げる。――そんなことは、当たり前で当然だった。
いくら隙があったのだとしても。あの時、あの状況で、相手が本当に本物のBETAだったなら――本当に運よく、最初の一体を無力化出来たのだとしても――逃げるべきだ。
二体の追撃を振り切れないためにやむを得ず応戦したことについて、みちるは生き延びる可能性を高めるためとはいえ、半ば自殺行為に等しいと断じた。応戦に転じるのであれば、せめて一対一に持ち込める状況を作り上げる努力をすべきだったと。
そして運よく一体を無力化した後の逃走については、武にその意識はなかったものの、最良の判断だったと評する。
「だが、追跡を振り切れなかった点は痛いな。そもそも小型種というものは80km/hで襲ってくるモノもいるわけだが、出せて20km/hの追撃をかわせなかったことは貴様の未熟さが原因だ。それゆえに貴様が言うところの最悪の事態に陥り、六体の敵に包囲された……」
スラスラと下される評価に、最早言葉がない。みちるの評価は実に明快だ。零か一か。良いか悪いか。その場その場の状況判断、その結果。それら一つずつを評価し、武自身に知らしめる。
そして、最後の評価が下される。
「六体の敵に完全に包囲された状況での転戦……そこまで追い詰められていながらに戦闘の意思を捨てず、生き延びようという姿勢は兵士として高く評価できる。また、六体を同時に相手しながら、内五体を無力化したことは貴様の高い戦闘能力を否応なく示しているだろう。……ただし、最後の最後で気が緩み、貴様はミスを犯した。心身ともに限界だったとはいえ、そのために貴様は生存に失敗した……」
「…………」
沈黙が降りる。みちるは目を閉じて、それ以上を口にしなかった。
ああ……矢張り。武もまた、眼を閉じて……顔を伏せる。
みちるの評価を聞いてわかったことがある。作戦の本質を見抜き、その目標を達成するために最大限可能な限りの手段を用いて任務に就く。その大切さ。重大さ。
ただひたすらに目標達成のための最良を模索し、実行し続けること。――その困難さを、身を以って知ることが出来た。
確かに武は作戦の本質を見抜けず、都度の判断を誤り、最終的に失敗した。
だが、この失敗は……今日の演習で得た経験は、必ず自身にとって力となるだろう。――否、力とするのだ。
より強く在るために。より優秀であるために。衛士として、完成するために。その力を手に入れるために。
ならば、落ち込んでいる暇はない。面伏せ、未熟さを嘆いている暇はない。
武は失敗した。だから、そこから失敗した以上の知識を技能を経験を――力を手に入れる。己のものとする。みちるの言葉を、刻むのだ。
顔を上げる。みちるが強い瞳でこちらを見ていた。……だから、武も負けじと見据える。
自分は、これで折れる男ではないと。そう、教官となった彼女に知らしめたかった。
「……さて、今回の総合戦闘技術評価演習の結果だが…………」
覚悟は出来ている。
作戦失敗。救助部隊の到着まで生存できず、KIAと認定された。評価では良い点も悪い点もあったが、全体的に見ればミスの方が目立つ。……失敗を糧に前へ進むと決めたばかりだが、それでも矢張り緊張してしまう。
だが、それでも覚悟は出来た。……次のチャンスが与えられるのがいつになるのかは知らないが、それが、例え明日であったのだとしても、今日のような失敗は在り得ない。教訓は、活かす。それが武の覚悟だ。
たっぷりと三秒の空白の後。みちるが不敵に口端を吊り上げながらに、――言った。
「合格だ、白銀」
「――――――――――――――――――は?」
なにを言われたのかわからなかった。
間の抜けた表情と声で疑問符を浮かばせた武に、みちるはさも意地悪そうにニヤリと笑う。
「なかなか面白い顔だぞ白銀」
「――ぇ? って、ぇええ!? な、なんでっ、ですかっ!?」
「……なんだ。折角の合格が嬉しくないのか?」
そんなわけがない。が、意味が全くわからない。
武は任務に失敗したのだ。例えその途上でとてつもなく優れた功績を果たそうとも……失敗し、戦死してしまった以上、合格にはなり得ないのではないだろうか。合格する道理がない。……そう、思えるの……だが。
「ふふふっ、貴様が混乱するのも無理はない。……確かに作戦の第一優先目標は十四時間以上の生存だ。しかしな、実は貴様には知らせていなかったのだが……合格可否についてはそれとは全く関係ないところで評価されていたんだよ」
「……え? あ???」
哀れなくらい混乱する武を愉快気に見ながら、みちるは事の次第を説明する。
「つまり、作戦に成功しようが失敗だろうが、それは直接合否判定には関わらないということだ。無論、作戦を成功させた方が高い評価が得られるだろう。……だがな、白銀。こと今回の演習ではどんな手段を使ってでも生存することが作戦の本質だった。或いは、単純に生き延びただけでも作戦は成功ということになる」
「…………ぁ、」
「気づいたか? つまりだ。例えば貴様のように常に移動し続けて追撃部隊を避けようとも、じっと一点に留まって隠れていようとも、作戦成功のみに重点を置けばその評価は変わらないということだ。最悪、運よく敵に遭遇しなかった場合でさえ、合格ということになるな」
なるほど。確かにそのとおりだ。武にとっては「追ってくるから逃げる」という選択も、人によっては「追撃部隊から隠れる」という選択もあり得るということだ。そして、結果として生き残ることが出来たなら、それはどちらも作戦成功と一括りにされるのである。
「だが、総合戦闘技術評価演習とは、訓練兵が衛士として必要な精神・肉体・知識・技術・戦闘能力を身に付けているかを判断するために行われる前期訓練課程の修了試験のようなものだ。その総戦技評価演習の合否を判定する上で、ただじっと隠れて運よく見つからなかっただけの者と、貴様のように追い詰められながらも諦めなかった者とを、一体どうやって一括りにできる? ――つまり、この演習で評価すべき内容に限って言えば、白銀……貴様は十二分に衛士として相応しい能力を有しているということだ」
「…………ッ、」
言葉が、ない。みちるの口から告げられたその言葉に、武は何も言うことが出来なかった。
ただ、感情だけが迸る。疲弊した足先から、悔しさに震えた拳から……ぶるり、と。全身を奮わせた――ッ!
「ぁ、は……っ、」
「白銀。特に貴様の近接格闘能力には目を見張るものが在る。実戦経験のある衛士七人を相手に、六人を打倒した貴様の実力。更には緊張と緊迫に締め付けられ、追い詰められた極限状況にあって、尚強い精神力と諦めない意思。多人数に囲まれながらに着実に一人ずつ仕留める冷静さと優れた判断力。……追撃の手を逃れられず、最終的には気の緩みから敗北したとはいえ、ふふっ、まったくとんでもないヤツだよ貴様は」
ニコリと。みちるは笑って……
「おめでとう、白銀訓練兵。貴様は文句なしに合格だ」
「――は、はははっ、――――――――――ゃった、!! やったぞぉおおお!!! うぅぅぅぉおおおおおおおっっ!!!!」
武は吠えた。嬉しくて奮えて、こみ上げた感情に咆哮した!
合格。総戦技評価演習の合格――ッ。ああ、ならばこれで、ようやくにして、ついに……ッ!
「ふふ、大袈裟なやつめ。まぁいいだろう。今は好きなだけ歓んでおけ」
「はいっ!! ありがとうございます、伊隅教官ッッ!!」
満面に歓喜を貼り付けて、漲る闘志を秘めて、武はみちるに敬礼する。ん、と頷くように答礼して、みちるは七人の女性衛士と共に去っていった。
恐らくは気を遣ってくれたのだろう彼女達の姿が見えなくなってから、武は今一度、天に向かって盛大に叫んだ。
やったのだ。やったのだ。自分はやったのだ!
これで、ついに戦術機操縦課程へと進むことが出来る。戦術機に乗るのだ。衛士として成るために。その力の象徴を手に入れるッ!
湧き上がる強烈な感情があった。
合格した歓喜さえ塗り潰すほどの、彼にとってなにものにも代え難い烈しい感情が立ち上る――。
「俺は……ついに……ッッ」
夕呼にこの道を示された時、これが運命なのだと感じた。
それが己の進むべき道なのだと確信した。
力を手に入れる。特別であるというならば、その特別たる力を持って突き進むのだと決めた。
衛士になる。
彼女を護る。
その力を手に入れる。
その力で――BETAをコ■スッ!!
あああ、ついに。そしてようやく。彼女を喪ってから二年と四ヶ月。――その、永い時間を経て、ようやく。
そのための一歩を、踏み越えた。
戦術機に、乗るのだ。衛士としての真価を発揮する力の象徴を手にするのだ。
喪った彼女への想いを護るために。支え、手を差し伸べてくれた茜や水月たちを護るために。教え、導いてくれた真那を護るために。
「…………純夏、純夏ッ、純夏ァアア! やったぞ、俺は、やってやる!! 俺は衛士になるッ! 衛士になって、お前を……お前をッッッ」
昂ぶった感情に涙が零れる。武はそれを拭いもせずに、ただ……彼女を………………喪ってしまった彼女を想う。
総合戦闘技術評価演習――終了。白銀武訓練兵の合格を認める。
===
総戦技評価演習を実施した南国の無人島から六時間掛け、横浜基地へ帰還したのは深夜三時。
交替制で詰めている部署、或いは待機任務の衛士以外には、誰も起きている者などいないだろうその時間。だが、帰還したばかりのその足で、みちるは夕呼の執務室のドアを叩いていた。
スッ、と小さな音を立ててスライドするドアを潜り、事務机に置かれたコンピューター端末を操作している夕呼の元へ進む。
「香月博士、総戦技評価演習の報告書を持ってまいりました」
「…………はいはい、ご苦労様。……白銀は?」
差し出された報告書をぞんざいに受け取りながら、夕呼は端末からみちるへと目を向ける。やがてゆっくりと椅子に背中を預け、体全体でみちるの方を向いて。
「白銀は休ませました。流石に南の島のジャングルでの持久戦は堪えたようです」
苦笑するみちるに、夕呼は詰まらなそうに唇を尖らせる。……が、そんな子供染みた仕草もすぐになりを潜め、夕呼は割りと真剣な表情で問うた。
「……で、どう? アイツはあんたの目から見て――」 「――彼は優れた衛士となるでしょう。……いえ、私がそうさせてみせます」
夕呼の言葉を遮るように、みちるは自信満々に言い放った。ほ、と夕呼は驚いたように目を丸くする。みちるにしては珍しいその様子に、彼女はふぅん、と目を細めて。
「そう。あんたがそう言うんなら、間違いないんでしょうね……。いいわ。訓練自体はあんたに任せるほかないもの。……なら、伊隅。白銀の戦術機操縦訓練、徹底的にやりなさい」
「無論です。生身では十二分に衛士としての素養を身に付けていますし、なにより、白銀には高い戦術機適性がある。その才能を私に預けていただけるのなら、必ずやご期待に沿って見せます!」
生真面目に、そして挑むように。どこか昂揚したみちるに、夕呼は笑い、苦笑する。――相変わらず、堅いわねぇ。
任官したばかりの彼女を思い出す。
A-01部隊自体が発足してまだ二年目のその時期。まりもの手によって鍛えられ、見事優秀な成績を修めて任官した彼女。その当初から類稀な高い能力の片鱗を伺わせていた……真面目で、堅物で、融通の利かない頑固者。
若くして大尉となり、今やA-01部隊で唯一つの中隊を纏める歴戦の勇士。衛士としての鑑であり、規範。
その彼女が、これほどに昂揚している。
白銀武という存在に。戦術機適性「S」という事実に。その、素晴らしい戦士としての素質に。
ああ――ならば武は強くなるだろう。恐らくは夕呼の睨んだとおりに。ゆくゆくはA-01部隊に任官し、優秀な彼女の部下として成長するだろう。
そうであってくれなければ困る。
だが、内心の夕呼の懸念など、正に懸念でしかない。
なぜならば、武は神宮司まりもの教えを受け、その彼女に鍛え抜かれ、今や生粋の衛士として完成した伊隅みちるの教えを受けるのだ。
それが優秀でないはずがない。
だから何の心配も要らないのだ。みちるに任せておけば問題ない。……現時点では特殊任務部隊であるA-01を動かす必要もないし、そちらは当分の間副隊長の木野下に任せておけばいい。
「わざわざ遅くに悪かったわね。……下がっていいわ。休みなさい」
「はい。……香月博士も、あまり無理なさらないでください……」
目礼して、みちるは背を向ける。掛けられた優しい言葉に、矢張り最後まで苦笑するしかない夕呼だった。
エレベーターの前には霞が立っていた。
みちるは驚いたように立ち止まり……子供がいつまでも起きている時間ではない、と少々的外れな思考を巡らせる。夕呼の研究を補佐している霞のことだ。任務によっては深夜に及ぶこともあるのだろう。
ひとり頷いて、彼女は柔らかな微笑を向ける。一見無表情に見える霞だが、みちるには少女の小さな感情の変化を悟ることが出来た。
「……こんばんは」
「ああ。こんばんは。……どうした社、眠れないのか?」
勿論冗談である。からかうように言ったみちるに、霞は僅かに眉を寄せる。
「……違います。まだ、起きていました……」
「そうか。…………それで? 私に何か用か?」
「………………」
みちるは常日頃から「堅い」と言われている。夕呼を筆頭に、自身の部下からさえそう評される彼女は、本人にそのつもりがなくとも知らぬ間に他人を威圧していることも珍しくない。……ために、できるだけ優しい声になるように心掛けて、目の前の少女に問い掛ける。
「……白銀さんは、…………どうなりましたか?」
「白銀? ……総戦技評価演習のことか? ……ふむ、」
ほんの少し。僅かに。力強く問う霞に、しかしみちるは即答しない。同じ国連軍に所属し、夕呼の直属として存在する霞。ある意味でみちると対等、或いはそれ以上の地位に在る少女。
夕呼自身に「歩く機密」と言わしめるほどの特殊な立場に在る彼女ならば、武が異動になったことや単独で総戦技評価演習に参加したことを知っていて当然なのかもしれない。なにせ、研究という名の、恐らくは人体実験だったのだろう武の戦術機適性検査には彼女も関わっていたのだ。
ならば問題はない。……夕呼に直截尋ねない理由が知れなかったが、しかし彼女にも色々と思うところがあるのだろうと判断して、みちるは武が合格した旨を伝える。
「――――――そう、ですか……」
「?」
それは、なんと言う感情か。
少なくとも、喜びでは――ない。そのような、明るい色合いを持ったものではないと思えた。
ならば、何か。……諦観、後悔、消沈、悲哀、憐憫……なにか、それらに近しい感情。或いはそれら全てか。――何故?
「……おやすみなさい」
無表情を取り繕って、霞はみちるの横を通り過ぎる。無言でその少女を見送ることしか出来ないみちるは……一体何故、彼女がそのような感情を抱いたのかを理解できないまま…………。
===
ほんの一瞬。だが、間違いなく絶句したその表情は……何と言うべきか、愉快だった。
戦術機の操縦マニュアルを受け取った武は、そのあまりにあんまりな分厚さに言葉をなくしたようで……しかし即座に何事もなかったかのように振舞うものの、みちるが含み笑っていることに気づいて、ぐ、と表情を顰める。
「そんな面白い顔をしたところで、マニュアルは薄くならないぞ。……白銀、衛士となる上で最低限必要な知識がそこには記されている。一言一句丸暗記しろとは言わんが、少なくともその内容は常時把握しておけ」
「……はい」
無論そのつもりだとでも言うかのように、武は強い視線をみちるに向けた。確かに一瞬、冗談だろう、と思ってしまったのことは事実だが……戦術機とは言わば人類史上最高峰の技術の結晶である。そんな凄まじい技術と知識の宝庫でありながら、マニュアルが一冊に纏まっていることにむしろ感謝したいくらいだった。
総戦技評価演習に合格し、明けて早朝よりA-01訓練部隊……即ち武は小さなブリーフィングルームを使用しているのだが、今日はそのまま今までの座学の内容をざっと復習することから始まった。一連の、特に戦術機の運用や各機体の特徴、管制ユニット、強化外骨格についてのおさらいを終えた後に渡されたのが先のマニュアルであり……これから更衣室へ移動して99式衛士強化装備の調整に移るのである。
支給された99式衛士強化装備は白を基調とした訓練兵用のもの。任官した暁には正規兵の証とも言うべき黒が与えられるのだが……ともかく武は着替えることにした。
「ぅお…………っ」
思わず、引く。
胸部から腹部、腰部にかけて薄い肌色をしていて……ハッキリ言って裸を晒しているように見えた。みちるの言に依れば、戦場では男も女も関係なく、シャワーもトイレも寝所も箱詰め状態。一々異性の目を意識しているようでは用も足せず、羞恥心を捨て去ることに慣れる意味で、敢えてこのようなデザインとなっている……らしい。
なるほど、これは確かに恥ずかしく……けれどこれに慣れてしまえば、先のような状況でも動じないで済むのだろう。
「む……」
ふと一瞬。馴染み深い彼女達の姿を思い浮かべる。男性用でこれなのだ。女性用だと一体それはどんな………………。
「ぶっ! 莫迦ッ、ナニ考えてんだ俺ッッ!!?」
思わず想像してしまった茜のあられもない姿を振り払う。下腹部を見れば反応寸前で治まっていたことに安堵し、多少ドギマギとしながらも武はロッカーを閉め、みちるの元へ向かった。
「――遅いッ!! たかが着替えになにをやっている!?」
「す、すいませんッッ?!」
怒鳴られた。時間にして数分しか経過していないのだが……一分一秒を争う状況で「数分」を浪費することの意味を考えろと怒鳴られて、武は己の誤りを悟る。
「……まぁ、貴様の気持ちもわからないではない。なに、すぐに慣れる」
「はい」
どうも着替える最中に煩悶とした武の心中はお見通しだったようで、みちるは苦笑するように言った。若干頬を染めながら応える武に、みちるは衛士強化装備の説明を始めた。
強化装備を通して操縦者の意思を統計的に数値化、更新を繰り返すことで戦術機ならびに強化外骨格の基本動作に反映するという。さらには蓄積されたデータは操縦者にフィードバックされ、文字通り体の一部のように扱えるようにもなる……一体どれほどのテクノロジーが詰まっているというのか。しかし、その技術あってこその戦術機であり、だからこそ対BETAの主戦力となり得るのだ。
戦域情報データリンク端末としての機能を持つヘッドセットには網膜投影方式ディスプレイも内蔵されている。管制ユニット内で同時に複数表示される戦域データや各種表示は操縦者の見易いように配置を換えることが可能で、更には表示される映像の透明度を調整することで複数の情報表示を重ねて映し出すことも出来るという。
「……以上が衛士強化装備についての概要だが、なにか質問はあるか?」
「いえ……実際にシミュレーターに乗ってみないことには、現時点ではなんとも…………」
いきなり殴られて耐衝撃性を証明されたりもしたが、概ね理解は出来た。理屈がわかったのなら実践あるのみだ。武の言葉にそれもそうだろうと頷いて、みちるが言う。
「よし。それではこれからシミュレーター訓練を開始する。……本来ならば先に戦術機適性検査を行うところだが、……貴様の場合もともとの適性値が適性値だ。適性検査を省略するわけではないが、今回はそれを兼ねて動作教習課程を行う」
「はい!」
「まず先に言っておくが、従来であれば戦術機操縦課程はおよそ三ヶ月間。貴様の場合、その三分の一の期間で一人前になろうというのだから、並大抵の努力では到底足りない。いいか、貴様が特別扱いを受けていることには理由が在る。そしてそれが許されているからには常に結果が求められている。貴様はスペシャルにならなければならない――泣き言は一切許さん。それを肝に銘じておけ!」
「――はいッッ!!」
向けられた鋭い視線に応えるべく、武自身も強く声高に返事する。覚悟は当に決まっている。誰でもなく、己の意思でその道を行くと決めたのだ。――ならば、そこに、己に対する甘えなどありはしない。
そのために足掻いてきたのだ。そのために鍛えてきたのだ。……そのためだけに、今日まで来たのだ。
ただそれを実現するために。その力を手にするために。衛士となり、彼女を護るそのためだけに――。
故に、武が泣き言を零すことなどありえない。途中で投げ出すことなどありえない。……結果を出せない、なんて無様は晒さない。用意された運命に胡坐をかくだけでは終わらない。
――これは、始まりの一に過ぎないのだから。
そして、この日より。
戦術機史上前例のない「S」ランク適性を持つ武の――狂気と才能は。
少しずつ。
ゆっくりと。
廻り、巡り、開花する。……その時に向けて。