『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:八章-02」
スラリと長い薄碧の髪。腰下で流れるように揺れる毛先のひとつひとつが艶やかに色を魅せ、対照的に過ぎる鮮烈な赤が、その存在をこれ以上なく主張する。
腰に提げた豪奢な刀。丁寧に細工された朱塗りの鞘と、もう一つ。黒塗りに銀であしらった紋様のそれらは凛々しくもあり、繊細な印象さえ抱かせる一級のそれ。
整った相貌は見る者を惹きつけ、エメラルドを連想させる碧の双眸は鋭くもたおやかな輝きに満ちて。
――圧倒的存在感。
何度見ても変わらない。まるで心臓を締め付けられるような圧迫感……ふとした拍子に気づかされるのだ。
そう、月詠真那は美しい――。
「…………ぁ、っ、」
PXの入口に佇む真那。赤い帝国軍服を身にまとい、いつものように完璧なまでの立ち姿。全身から凄まじい存在感を放ちながらに腕を組むその様は、ひとけの少ないPXの中にあって、余計でも際立って見えた。
即ち、
「ちゅ、中尉っ?! なんでここにっ!?」
「……………………」
思わず声が裏返ってしまうほど、武は真那の登場に驚愕していた。言葉通りに。どうして彼女がここに居るのかわからない。
が、その武の驚愕など一瞬に吹き飛ばしてしまうほどに、真那の様相は急変した。
具体的に言うと細く形の整った眉は眉間に皺がよるほど眇められ、宝石のような瞳はギロリと不可視の攻撃的なナニカを放ち、艶やかで柔らかそうな唇はそれはもう見事な「へ」の字を描く。
紛れもなく、……怒っている。それもかなり。むしろかつてないくらい。
「………………ぇ、っと、あの~~、」
「………………………………………………」
(怖ええぇぇぇぇっ!!)
沈黙が痛い。視線が痛い。発せられるオーラが怖い怖い怖い怖いっ!
全身から「怒ってます」と言わんばかりの脅威が立ち上っている。無意識の内に武は一歩退いた。真那の怒り顔は正直に言って恐ろしい。元が端正な顔だけに、歪められたその表情は凄まじい効果を発している。
無条件に土下座して泣きながら謝りたい気分になる。というか、むしろそうしてしまおうかと恐慌に混乱した武の脳は決断を下し――――、真那が、一歩踏み出した。
「ひぃいっ??!!」
「……………………………………………………………………」
情けない声を出して怖気づく武に、真那は無言のままズンズンと迫り来る。ただ歩いているだけでこれ程までに恐怖を感じさせる女性が他にいるだろうか。いや、いない。斯衛の赤、歴戦の烈士、武の中で最強の衛士として認識されていることも相まって、最早武は硬直して立ち尽くすことしか出来なかった。
ぬっ、と。
右手が伸ばされて武の顔面に迫る。目一杯に広げられた真那の掌を揺れる視線で見つめながら、武はぱくぱくと口を開閉させることしかできない。呼吸さえひりついてままならず、金縛りにあったかのような緊張感。そして、彼女の右手に顔面を掴まれて……
「……来い」
「ちょっ、ちょっ! 月詠中尉ぃぃいいい!!??????? ――いだだだだだッッ!?」
真那は歩き出す。武の顔面をギリギリと掴んだまま、半ば引き摺るようにしてズンズカと歩く。
向かう先はつい先ほどまで武が座っていた席。まばらながらも、慎ましやかに夕食を採っていた基地職員の何人かが、突然現れた斯衛の凶行と凄まじいオーラに悲鳴をあげる。ある者は彼女が向かう席から逃げるように離れ、ある者は彼女の進む道を遮ることのないよう後ずさった。
そんな困惑と混乱と恐怖の視線が突き刺さる中、しかし真那は微塵の躊躇もなく――むしろ、それらの視線に気づいているのかさえ怪しいくらい――堂々と突き進み、もがくようについてきた武を椅子に押し付けて、ようやくに掴んでいた手を放す。
「っっだぁ!? な、何するんですか中尉ッ!?」
「――黙れ」
「ハイ!! スイマセンデシタ!!!」
脊髄反射で謝罪する。敬礼付きでビシリと姿勢を正した武は、恐る恐る真那の顔色を窺った。
一体どれ程の力が込められていたと言うのか……。武の顔面にはくっきりと五指の跡がつき、骨にめり込んでいたんじゃないだろうかと、思わず両手で顔を撫で回す。
武を椅子に座らせた真那は自身も椅子に腰掛け、武と向き合う。変わらぬ鋭い視線と怒りの形相に、再び息を呑む。
武は混乱していた。一体何故、真那がここにいるのか。そして、どうしてこれほどに怒っているのか…………考えて、思いつくことは一つしかなかった。
「……あのぅ、ひょっとして中尉…………」
「貴様が特殊な任務についていることは知っている。私が貴様と出逢ってすぐ、貴様がそのための任に就いたこともな」
武の言葉を遮るように、真那は言った。感情を押し殺し、吐き出すような声音のそれは、武をどきりとさせる。
「今思えば……いずれこうなることはわかっていたのかも知れぬ。……貴様が私に黙っていたこと、それは軍と言う組織に属する者として当然だ。機密をべらべらと喋って散らすような者に、軍人は務まらぬ」
真那がいう特殊な任務とは、ひょっとすると昨年の七月に行われた夕呼の実験のことだろうか。流石にその内容までは知らしめていないようだが……そこには斯衛と言う存在の恐ろしさが垣間見えた気がする。武の剣術の師匠としての面を持つ傍ら……否、彼女の本来の任務は御剣冥夜の守護であった。ならば、彼女の近辺に関する情報は常に最新の、そして高度なものを持っていただろう。
武は言葉をなくす。真那にそのことを知られていたと言う事実に……言葉にならない感情がよぎった。
軍人としての義務以前に、自身の根幹を抉るような感情から逃れたいがために語らなかった武。
斯衛の任務として情報を得ていながら、軍人として尋ねることをしなかった真那。
よぎる感情は……師に隠し事をしていたという負い目と、真那が十二分に武のことを考えていてくれたことに気づけなかった後悔。
しかし、ならば真那は何に怒っているのか。これほど感情を顕にした彼女は見たことがない。軍機を報せなかったことは軍人として当然であると言いながら……しかし彼女のその感情の原因は間違いなく、今回の転属が発端だろうと推測できる。
そう。
武は異動に際し、誰にも告げることなく独り密やかに行動した。
207部隊の少女達はもとより、剣術の師匠として尊敬している真那にさえ一言もなく……彼女達にしてみれば、それこそ忽然と姿を消したのだ。
無論、教導官であったまりもには夕呼より通達があっただろうから、誰も彼もが武の行方を知らぬ、というわけではないだろう。が、事実として通常の訓練兵にとって在りえない処遇を受け、訓練に臨むこととなった武の存在は非常に秘匿性の高いものである。だからこそ、誰にも話すことも……別れを告げることも出来ぬままにここまで来たのだ。
強く鋭い視線。ともすればそれだけで四肢を引き裂かれそうなほど強烈な瞳に息を呑む。
理屈ではないのかも知れない。真那の怒りは――軍人としてではなく、武という弟子を案じる師としてのそれだと思えた。
「私個人の感情で腹を立てても仕方ないのだろうが…………いや、いい。口にすまい。貴様を困らせるためにやってきたのではないのだ」
「中尉…………」
眼を閉じ、頭を振る真那に胸が痛む。副司令、ひいては基地司令直々の転属命令とはいえ……現実としてそのことで真那を……そして茜達を傷つけてしまったことに、今更に気づく。
武は申し訳ない気持ちで一杯だった。気を鎮めようと呼吸する真那をまともに見られない。敬愛する剣の師匠。彼女の指南と導きがあったからこそ、今の武が在るのだ。感謝してもし切れないほどに、武は真那を信愛している。
「……ふぅ、……済まないな。本当はこんなつもりはなかったのだが……ふふっ、貴様の顔を見た途端我慢ならなくなった。…………私もまだまだ未熟、か」
冷静で、凛々しくも柔らかな、いつもの真那がそこに居た。武の顔を見て薄く微笑む様は、まるで姉のように温かい印象を受ける。
向けられた視線に武は頬を染める。ぐ、と先ほどとは違う意味で息を詰まらせ、言葉を失う。真那の怒りは、そしてその微笑みは……否応なしに武を赤面させるものだった。師から与えられた愛情と思いやりを知ってしまえば、少年である武は気恥ずかしさで一杯になってしまうのだ。
そわそわと視線を外し、あ~、とか、え~、と言葉を濁し、決して真那を見ないように。赤面してうろたえる武が面白いのだろう。真那は悪戯気に小さく笑う。
「白銀……ともかくも、総戦技評価演習の合格……おめでとう」
「え……っ、月詠、中尉…………」
穏やかな声。温かな視線。小さく笑ったまま祝してくれる真那に……じん、と、胸が熱くなる。面と向かって言われて、少し照れくさい気もしたが……しかし、武は頷いた。
「はい……。ありがとうございます。月詠中尉」
笑顔を向ける。
貴女のお蔭だと。貴女と、そして貴女の父の……月詠の剣術のお蔭だと。
武を強くしてくれた真那と彼女の父に、二人の師に、込み上げるほどの感謝を。晴々とした笑顔を。――きっとそれが、なによりも真那を喜ばせることが出来るだろうから。
礼を述べる武に、真那はほんの僅かにうなずく。それで先ほどの怒りは帳消しだと、真那はおどけるように言った。
「……でも、実際なんで中尉がここにいるんです? ……その、斯衛の情報網っていうのが一体どういうものか知らないわけですけど…………多分、俺の転属先とか、かなり高度に隠されてるんじゃないかと思うんですけど……」
そして、ようやくにして最初の疑問を口にする。あまりにも照れくさい空気をどうにかしたかったと言うのもあるが、事実として気になっていたことでもある。
普通に考えて、真那が武の行方……即ちA-01衛士訓練部隊を知る可能性は低いのではないだろうか。例えば冥夜の守護のために必要な情報を手に入れるのだとしても……今回の武の転属に関して言えば、それは全く冥夜に関係しないことから、真那の耳に入ることはまずないだろう。まして、夕呼が秘密裏に事を運び、十ヶ月近い協議と準備があったとはいえ、それでも十二分に秘匿された計画であったことは想像に難くない。
それ故に、一体如何なる理由から真那が武の転属を知ったのか……そのことに興味が湧いた。
或いは単純に消え失せた武に腹を立て、怒りのあまり調べてしまったら辿り着いた、という可能性もないわけでは、ない……が。
それを想像するに、とてつもなく精神衛生上よろしくない映像が垣間見えたため、武はその考えを削除した。敢えて言うなら先ほどの真那を二割り増しに凶悪にしたような……そんな彼女。おもわず肩が震える。な、なんて恐ろしい……!
「うん? ……ああ、そのことか。なに、神宮司軍曹が教えてくれたまでだ」
「ハ?」
噛み締めるように頷き言う真那に、武はポカンとしてしまう。いや、正直に驚いていた。
「神宮司教官が……ですかっ?」
「そうだ。あの方は……国連軍人でない帝国軍人の私に、わざわざその足で知らせに来てくださったのだ」
莫迦な。それこそ在り得ないだろう。真那自身が言っている。国連軍人であるまりもが、一体どうして帝国軍人の真那に、国連内部の人事について知らせる必要が在る? ――そんなものは、微塵たりとも存在しない。
むしろ、まりもがそれを伝えてしまうこと自体在り得ない。武の知りうる限り、神宮司まりもという女性は衛士として、なにより軍人として果てしなく優秀だったらしい。風聞によれば教導官としての任に就くまでは富士の教導隊に属していたともいう。一年半前の『明星作戦』にも参加し、部隊を率いて戦い抜いたのだと、基地内の誰かが話していたのを聞いたこともある。
そんな……優秀な軍人であるまりもが、どうして真那に? 武は若干の混乱を見せながら、真那の言葉の続きを待つ。
「あの方は素晴らしい方だ。衛士として、軍人として……。なにより、女性として。尊敬に値する、目標とすべき優れた人物だ」
現在の階級こそ真那の方が上だが、まりもが戦線に復帰したと仮定するならば、最低でも大尉階級……或いは佐官クラスでもおかしくないのかもしれない。少なくとも真那の中ではそれに相当するくらいには、まりもの存在は大きいということらしかった。
意外と言えば意外である。武にしてみれば真那とまりもが知り合いだということも驚きだ。無論、顔と名前くらいはお互い承知していただろうが……なにせ、将軍家縁者を守護する警護小隊長と、その守護対象を指導する教導官である。互いに知らぬ存ぜぬでは色々と不都合もあるだろう。
その武の疑問をお見通しと言わんばかりに、真那は懐かしむように微笑んで、
「あの方と初めてお会いしたのは……そうだな。私がこの横浜基地に駐留することになった翌日だ。冥夜様の入隊から一週間遅れて横浜基地入りした私に、あの方は一番に尋ねてきてな、」
――御剣訓練兵の扱いについては、他の訓練兵と同様に扱います。彼女は国連軍に自らの意思によって志願し、入隊した、即ち国連軍人です。そこには如何なる出自も血筋も介在する余地はありません。
――ですが、斯衛としての中尉殿の任務も承知しております。……ですから、どうか中尉殿には御剣訓練兵を温かく見守っていただき、彼女が道を誤ろうとし、かつ私自身が誤った教導を行ってしまったならば……即座に斯衛としての任務を果たしていただきたく存じます。
真那の部屋を訪れたまりもはそのようなことを言ったのだという。
それは、まりもなりの誠意と覚悟の表明だったのだろう。国連軍人としてではなく、一人の衛士を育てる指導者として、或いは人間として……冥夜と接し、教え、鍛え上げる。
それは宣誓であり、真那に対し“斯衛の役割を果たせ”と言うからには……最悪、真那の手に掛かることさえ覚悟の上ということでもあった。
指導者として、教導官としての誇り。そして、己の能力に対する絶対の信頼……それ故の、覚悟だ。真那はそのまりもの言葉に声をなくした。――虚を突かれた、と言ってもいいだろう。
まさか国連軍の教導官が、わざわざ挨拶にやってきたことも驚きなら、面と向かってそのような覚悟を示されようとは思ってもみなかった。彼女の言葉は強く、耳朶を震わせる。言葉の裏の深い想いに、真那は打ち震えた。
ああ――この方ならば、何の心配もない。
だから真那は目礼する。冥夜を任せるに値する人物だという確信が、確かに胸に宿った。
…………それが、彼女とまりもの出逢いであり、その後は例えば基地内ですれ違う度に言葉を交わし、交流を深めたのだという。どちらかといえば、真那が目指す境地の一端を備えているまりもに教えを乞うような邂逅だったそうだが、しかしまりもは厭な顔一つ見せず、一軍人として、そして多くの経験を持つ優秀な衛士として、……母性に満ちた女性として、真那に接した。
「はぁ……なんというか、さすが神宮司教官…………」
「ああ。あの方こそ正に模範とすべき衛士の姿だ。上に立つ人物とは、彼女のような方を指すのだろう」
武にとっての理想像でもある真那がそれほどに心酔しているという事実。直接の教導を受けた身としては、自身の恩師がそのように褒め称えられることはこそばゆくも嬉しい。まして、それを語るのが真那なのだ。面映い感覚に、武はくつくつと笑う。
小さく笑う武に気づいた真那が、目を丸くする。何が可笑しいのかまるでわかっていない表情だったが……何となく、自身が笑われているのだと察して片方の眉を吊り上げる。
「白銀……貴様何を笑っている」
「ぷっ……くっくっ…………ぃ、いぇ、すいません……中尉……くく……ぶはっ……っっ……」
口を手で押さえ、小刻みに肩を震わせる。不貞腐れたように唇を尖らせる真那が、余計でも可笑しかった。耐え切れず笑い出した武に、真那の拳がめり込む。どむんっっ、という鈍い音を立てて、武はテーブルの上に突っ伏す。内臓を抉るようなストマックブロー。ぴくぴくと痙攣する武を見下ろして、真那は不快だと言わんばかりに腕を組み、嘆息した。
「す……すぃ、ません……中尉……」
「わかればいい。……まったく。人が真面目な話をしていると言うのに……ぶつぶつ……」
いや、真面目にまりものことを語る真那の表情が、非常に可愛らしかったからなのだが…………それを言うと次は命がないと悟り、武は口を噤む。
自分が尊敬し、目標とする人物のことを語る時、ひとはそういう……すごく“いい”表情をするのだと知った。……ひょっとすると、かつての自分が水月のことを冥夜たちに語って聞かせたときも同じような顔をしていたのかもしれない。
そう思うと、恥ずかしさが込み上げるが……それでも、なんとも心地よい感情である。
真那もどうやらそれに気づいたらしい。若干の不機嫌を装っているが、薄っすらと頬が染まっている。知られざる師の一面に再び微笑ましく思ってしまったが、同じことを延々繰り返すはめになりそうだったので、改めて問うことにした。
「それで……神宮司教官が、俺の転属のことを……?」
穏やかな表情の裏で真那のことを可愛らしいと思いながらの彼の言葉に、む、と真那は表情を引き締める。どうやら自分達がどういう話をしていたのか忘れていたらしい。
「あ、ああ…………そうだ。知ったのはつい先ほどだがな。訓練を終えた神宮司軍曹が、知らせてくれた」
そう言ってPX内の時計の方へ目を向ける。訓練終了後、というなら……本当についさっきのことだったらしい。……そして、突然に知らされた真那はなんだか色々な感情の縺れ合いに衝き動かされ、こうしてやってきたというわけらしい。
「神宮司軍曹は私が貴様の剣術の指南をしていることを承知されていてな……恐らくはそのことで気を遣ってくれたのだろう。貴様が転属となり、事実として特殊任務に就くというのなら……私との修行も打ち切りということになる。優しい方なのだ、軍曹は……」
「……ぁ、」
そうか。
そういう、ことだったのか。
いくら真那とまりもの間に武の知らない親交があったのだとして、けれどそれでも二人は帝国軍人であり国連軍人だった。例え志す先が同じであろうとも、属する組織が違い、立つべき場所も違うのである。……そこには、私情を差し挟む余地はない。優秀な軍人で在るならば尚更だった。
だが、それでもまりもは真那に伝え、知らせた。武の転属を。武が進む道を。――機密に抵触しない範囲ではあるが、情報を漏らしたのだ。
何故か。………………真那が、武の師匠だから、だ。
それこそ私情、或いは私心と言われてもしょうがないくらいに……深い思いやりだった。よき友人としての真那に。そして……一年半を教え導いた武に対して。
弟子と離れなければならない師に。
師と離れなければならない弟子に。
なんとも、胸が熱くなる……。それが、まりもの優しさか。武はじんわりと滲む涙に気づいて、慌ててそれを拭った。
「……ふ、涙腺の緩い男だ。……だが、貴様のことは言えぬな。……私も、これほどに嬉しいことはなかった」
昨日の夜。武が誰にも何も言わず、姿を消したその夜。……真那は、いつものようにグラウンドに立っていた。ここ数ヶ月で更なる高みに手を届かせようとしていた武に、今日は一体どれほどの成長を見せてくれるのかと人知れず心待ちにしていた。その、夜。
或いは巽、雪乃、美凪もまた。互いに刺激し合い高め合う武との修行をどこか楽しみにしていた。………………その、夜。
武は来なかった。
武は現れなかった。
……別段、時間を定めているわけでも、日を決めているわけでもなかった。けれど、この十ヶ月、それこそ毎日のように続けられていたひとときの剣舞。修行。その、逢瀬にも似た時間――。
どうしてか、真那は動揺した。数十分を待ち、一時間を待ち……ああ、武は来ないのだと理解した時。彼女はかつてなく、動揺し……そうした己に困惑した。
どうしてだろう。
その理由は……わからない。そして、だからこそ不安に思った。或いは、そんなはずはないと打ち消したその思考。
かつて、武の深奥に潜む闇を垣間見たそのとき。彼がそれに潰され、歪まされることのないよう、打ち克てるように……強く在れるよう、鍛え導くと誓ったそのとき。
心乱す動揺は、瞬間によぎった不安は……どうしてかそれを思い起こさせた。
まさか武の身になにか起こったのではないか。…………だが、結局、真那はその感情に蓋をし、浮かんだ不安を打ち消した。
武にも、なにか理由が在るのだ。
月末には総合戦闘技術評価演習を控えた身である。色々と思うところもあるだろう。……それを真那に明かしてくれないというなら、それもまた寂しくもあったが……真那は頭を振り、そんな風に感じてしまう自身を未熟と笑った。――泣いているような、笑顔だった。
そして翌日になり、知る。
訓練に励む207訓練部隊の少女達の中に、武の姿がないことを。昼食になっても、午後からの訓練にも……武はいなかった。そう。前日の晩から。彼は、「居なかった」のだ。
その事実に気づき、動転し、再びに巡った不安――感情に、真那は今度こそ息を呑む。
教え、導くべき愛弟子。父の剣術を受け継いだ、自身以外に唯一、その剣を振るう者。白銀武。――これほどに、大きく……ッ。
気づかなかった己の内面に、困惑する。どくどくと鼓動を打つ心臓が熱を持つ。言葉に出来ない感情に揺れていたそのときに…………まりもがやってきて、そして知らせてくれた。
ああ。
よかった。
そうか。武は転属したのか。
そう、安心できた。涙が出るくらいに。よかった、と。そう、微笑むことが出来るくらいに。
知らせてくれたまりもには感謝しても仕切れないだろう。異なる組織に属していながらに、彼女はどこまでも純粋に、指導者として優しかった。教えることが出来るのはただ転属したという事実のみ。だが、それがどれほどに真那の心を救ってくれたのか、彼女は知りはしないだろう。
……そして、最早衝動を抑え切れなかった。いや、抑えようとは努力した。
A-01という部隊名には覚えが在り、それに見当をつけてやってきたPX。居た。居た。居た。……武が居た。そこに、その場所に。
ああ、安心した。ほっとした。よかった。
だから、だろう。安心した途端、腹が立った。沸々と怒りが込み上げた。軍人としての規範を知りながら、この場所に到る道中に抑え、納得させようとした理屈は吹っ飛んだ。
真那の気など微塵も知らず、勝手にいなくなった莫迦弟子――。自身をこれほどに心乱させた不埒者に、思い知らせてやろうと思った。
その感情を噛み締めるように。
真那は微笑んだ。
武はまりもの心遣いに涙を浮かべた。自分と同じ気持ちを抱いてくれていたのだと知って、真那もまた、胸が熱くなるのを感じた。
涙を拭い、照れくさそうに笑う武に、真那はもう一度微笑む。
「白銀…………貴様は強くなれる。まだまだこれから、誰よりも強くなれるだろう。貴様には類稀なる才能と、それを枯れさせない強い意志が在る。……胸を張れ、己を信じろ。限界などない。――忘れるな。貴様は我が父の遺志を継ぎ、我が剣を継ぐ男だ。私が認めた剣士だ。…………強く在れ、武」
「――――――ッ、」
その声は力強く、温かで、心奮わせた。
微笑を湛えたまま、しっかりと武を見詰めての真那の言葉に……ひとつ、大きく心臓が鳴る。
血が巡る。
熱い血流が巡る。
沸騰するように、それ自体が燃えているように――熱く、滾る。
ぞわりとした感触があった。つい昨日に味わったそれとよく似た感情。足元から上り来るような痺れ。奮え。脳が覚醒するように感情がはち切れる。
「――――…………ッ、は、い……っっ!!!!」
ぎゅう、と眼を閉じた。ぎゅう、と拳を握った。奮える身体を抑えこむように、全身に力を漲らせる。
「――はい…………ッ!」
二度。
強く、頷いた。
真那は静かに眼を閉じて、ふ、と頬を緩める。――ああ、成長したな。どうしてかそう感じられて、真那は立ち上がる。
「ではな……武。次に逢うのは貴様が任官した後か、或いは…………ふふっ。そんな顔をするな莫迦者」
まるでこれが今生の別れとでも言わんばかりの様子の武に、真那は可笑しげに笑った。武もまた椅子から立ち、真那と向き合う。
僅かばかり背の低い真那。切れ長の瞳は少しの迷いもなく。変わらぬ強い眼差しに、武は苦笑する。――ああ、敵わない。
だからこそ、武も強く見詰め返した。彼女は言ったのだ。強く在れ、と。そして、強くなれると。
……胸を張れ、己を信じろ。限界などない。
ああ、そうだ。そうだとも。彼女の父の遺志を継いだのだから。なによりも――彼女の弟子なのだから。
互いに言葉はなく。ともすればほんの数瞬だったのかもしれない時間。
最後に、真那は己の腰に提げた二振りの刀のうち、黒塗りのそれを手に取った。
ん、と武は首を傾げる。いつもの朱塗りの刀とは違う。真那の愛刀に寄り添うように提げられていたその刀は、初めて見るものだった。……それが、武の目の前に差し出される。
「え……中尉、これ、」
「本当は貴様が任官した時に渡すつもりだったのだがな……」
差し出されたそれを、両手に戴く。
黒塗りの鞘には銀の紋様。視線で促され、刀身を引き抜く――――ぴぃん、、と。空気が鳴り、武の精神が、奮えた。
「こ、れ…………っ、」
美しい銀の鋼。水に濡れたように、ひやりと滴った刃に映る雅やかな刃紋。触れただけで何者をも切り裂くだろう鋭利な刃。研ぎ澄まされた、侍の剣。
「私の父が使っていたものだ。…………お前に、もらって欲しい」
「!!」
ど、ぐん。
脳髄を焦がす脈動。心臓を殴りつける鼓動。――真那の言葉が、想いが、響く。
「受け取ってくれるか。武……」
「…………はい!」
うん。
それは今までに見たどんな笑顔よりも眩しく。愛情を抱かせるほどに……美しかった。
だから、武は誓う。
この先どんなことがあろうとも。決して挫けたりはしない。諦めたりしない。
強くなる。何よりも、誰よりも強くなる。
喪った鑑純夏のために。彼女を想う心のために。
支えてくれた茜や水月、彼女達を護るために。
教え、導いてくれた真那を――彼女が、心から託してくれたその想いを、護るために。
刀身を鞘に仕舞う。両手で、強く強く握り締めた。
薄れ掛けた幼い頃の記憶が蘇る。武に剣術を教えてくれたおっさん……師の、想いを。託してくれた真那の想いを。胸に刻む。
「……っ、ハッァ…………ッッ!」
堪えることなんてできなかった。だから、武は涙を流す。ああ、そうだ。そうだった。いつか……真那と出逢ったその日も、同じように。託された想いに涙した。
既に託されていた想い。すでに受け継いでいた遺志。――それでも。
師が愛用していた刀には、それ以上の想いが込められていた。
それは真那の心だった。父親が亡くなる前に聞かせてくれたもう一人の弟子のこと。父の剣術を受け継いだもう一人の存在のこと。きっと……そのときから。真那は決めていた。もしその人物が、真に相応しい人物で在るならば。
この刀を託そう。
父の全てが詰まった、父のあらゆる想いが込められたこの刀を、託そう。
そう決めて、心に秘めて。だからきっと……いつか出逢えるそのときのために。ずっと傍らに置いていたのだ。そして――そのときは来た。
武という弟子に。これほどに大きく、強く、真那の心に存在する彼に。
「…………武。強くなれ。…………もし、それでも迷う時があるならば、きっとその刀がお前を助けてくれるだろう。父が、そして私が……お前を護る。強くなれ。強く在れ」
「はい……」
しっかりと笑って。そしてお別れ。
真那は満足そうに頷くと踵を返し、いつものように凛とした姿勢で去っていく。その背中を、その姿を、目に焼き付ける。
やがて真那の姿が見えなくなっても……それでも武は、もう少しだけ、と刀を握り締めた。そこに真那の残滓を求めるように。強く――。
===
(これでは出歯亀だな……)
赤い帝国軍服を纏った女性がPXから立ち去ったのとは反対側の廊下に、みちるは立っていた。晩からの訓練のために自身も夕食を採るべく足を向けたPXで、彼女は図らずもそれを目撃してしまったのである。
彼女の教え子となった武に刀を託した斯衛の女性。……恐らくは斯衛軍第19独立警護小隊の小隊長。月詠、という名の中尉だったと記憶している。
そんな、ある意味横浜基地では特異な存在である彼女と、一訓練兵に過ぎない――無論、最早“一訓練兵”などと括れぬ存在ではあるが――武との接点が思いつかず。更にはあまりにも二人の雰囲気がただならぬものだったので迂闊に近づくことさえ出来ないまま……。
PXの入口で立ち往生してしまい、さてどうしたものかと思案しているところに彼女が立ち去るべくやってきたのだ。……別に隠れる必要はなかったのかもしれないが、気づけば逃げるように身を隠していたわけである。
何を子供染みた真似をしているのかと自分で呆れもするが、それほどに武とその女性は、他者が立ち入るべきではない空気を孕んでいた。
さて、とみちるは腕を組み思案する。
白銀武。戦術機適性「S」を持ち、夕呼自らが推すほどの類稀な才能を秘めた衛士候補生。午後からの訓練で、既に従来の訓練兵の記録を塗り潰し、在り得ない速度で操縦技術を身に付けている。優秀な軍人だという評価はまりもがまとめたレポートを見てもわかるし、事実、目の当たりにしている。
みちるが現在知り得ている彼の情報とはその程度のものだったが、……まさかそれが斯衛の中尉と「知り合い」という言葉では説明できないほどの仲だったとは素直に驚きである。
「ふむ……これは、些か問題だな…………」
やや表情を顰めながら、思い出すのは自身の部下。
溌剌とし、勝気で強気な様相を呈していながらに、その裏では繊細で優しい心も持ち合わせている突撃前衛長。昨年中尉に昇進し、突撃前衛小隊を任せるに到ったその彼女。
「任務のためとはいえ……しかし、まさか逢えないでいる間にこんなことになっていると知ったら…………」
みちるは真剣に悩む。部下のメンタルケアも隊長である自分の仕事だ。現在のところ、武の訓練が終了するまではA-01部隊を離れているみちるだが、しかし、それでも彼女が中隊長という地位に在ることは変わらない。有事の際には即時原隊復帰するのだから、教導官としての任務の傍ら、副隊長である木野下から逐次報告を受けている。
約一年前、年下の恋人と再会した時の彼女を思い出す。夕呼の実験によって意識を失った武を見て、かつてないほどに取り乱した彼女。それほど、真剣に武を想っていたのだろう。……そしてその日から更に、彼女は強く、厳しく己を律していたように思う。
まるで、再会したことでより想いが強固なものとなったように。或いは、いずれ再び逢うその日のために、自身を鍛え抜こうというかのように。
そんな彼女を見てきたからこそ、今回の逢瀬は厄介だと思えた。
「あれは強敵だぞ、速瀬……」
ヤレヤレと溜息をつく。この場に水月がいなくてよかったと心底に思うみちるだった。