『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:九章-01」
右手には黄色いリボン。
軍隊に入隊し、衛士となると決めたその日。彼女が託してくれた物……。
“御守り”
いつもはズボンの右ポケットに入れていたそれを、丁寧に取り出す。片時も離したことのない御守り。彼女の髪を結っていた鮮やかな黄色。まるで太陽のように笑う彼女の、その笑顔を思い出す。
衛士強化装備を身に纏う際は、どうしようもなかったので軍装と共にロッカーに収めていたのだが、矢張りいつも傍らに置いておきたいし、触れられる場所にあって欲しい。
だってそれは彼女がくれた大切な御守りで…………武が持つ、唯一の形見なのだから。
「……純夏……」
その名を呟いて、僅かにしんみりとしてしまう。どぐん、とブレるように心臓が蠢いたが……今は、そんな感情に揺さぶられている時ではない。
今はただ、訓練に打ち込む時。己を鍛え抜き、衛士として完成する時である。
或いは……BETAを斃す力を手に入れるための……。
チキ、と。左の腰に提げた『弧月』が鳴る。剣術を教えてくれた師匠の、その遺志が込められた名刀。姉弟子でありもう一人の師である真那が託してくれた、彼女と彼女の父の想い。その具現。
「………………ッ、」
まるで武の葛藤を察してくれているかのようだと思えた。
道を踏み外そうとする彼を、まるで手を伸ばして引き止めてくれるかのよう……。ああ、それは、“彼女達”の温かさを思い出させる。
腰に巻いた下緒を解き、ぐ、と弧月を握る。傍らから離したくないという意味では、これも同様に。
故に武は一つ頷くと、漆塗りに鮮やかな銀の意匠が施された鞘に、躊躇なく鮮烈な黄色を巻きつけた。ぐるぐるぐるぐる。下緒に重ならないように、丁寧に巻きつけて、結ぶ。
「ん。これでよし」
目の前に掲げて、うんと頷く。豪奢な装飾の施された拵が、見事なまでにアンバランスな色合いを見せているが、当の本人は全く気にした様子もなく。むしろ鼻歌混じりに服を脱ぎ捨て、強化装備に着替えるのだった。
(……なんだ? 鞘が変わって……?)
シミュレーターの前に駆け足で向かってきた武を見て、みちるは思わず首を傾げる。
強化装備の上に日本刀を提げるという大層ふざけた格好の武を初めて見たときは、それはもう怒ることさえ億劫に感じるくらい呆れたものだった。今から一週間前の夜のことである。月詠という名の斯衛から一振りの刀を託された武を目撃していた彼女は、彼が腰に提げる刀こそ、それなのだと気づいていた。
……なるほど。確かに衛士の中でも、特に武家出身の者では肌身離さず刀を持ち歩く者も存在する。件の斯衛の衛士がそうであるし、その他にも、みちるは帝国軍衛士の中で数人、見掛けたことがある。
得てしてその者たちは、傍らに置く刀に“自己”を見出しており、己の分身、命とさえ考えている場合が多いのだと、みちるは聞き知っていた。或いは……武のように何者かに託された想いを貫き通すために。受け継いだ遺志を貫き通すために。
そのような人々のことを見知っていたから、武が刀を身に付けること自体には呆れこそすれ、特に指摘しなかった。無論、管制ユニットの中で刀を提げたまま、ということにはいかないため、ユニット内に持ち込むのならきちんと固定し、操縦の邪魔にならないようにする等の指示は出した。
常時身に付け、或いは傍らに置いておきたいと想うほどの刀なのだ。それが例えば戦闘中に管制ユニット内を転がったり、或いは衝撃でぶつかったりすれば、……考えたくはないが、そちらに気をとられてしまい、そのことで命を落としかねない。
無論、武がその程度の器だとは思っていないが……それでも、こと、刀に想いを寄せる者というのは度し難いのである。
その刀に込められた様々な想い、感情、歴史……そしてそれを想う自身の心、精神、魂。――それらは、一切の他者を廃絶する。彼らが刀に込める想いは、それこそ他者の立ち入る隙などなく。
だからこそ、例えばみちるが想像するような事態に陥る可能性もある。そんな莫迦なことがあるか、と一笑に伏すこともできたが……その他者の思考が及ばない可能性もまた、確かに存在しているのだった。
そして、そんな思考を巡らせたその時より一週間。既に見慣れた武の白い衛士装備に、黒塗りに銀色の意匠が施されたその刀。当初こそ呆れの方が強かったが、それでも、思わず感嘆の声を上げたくなるほどに、武にその刀は似合っていた。
国連軍でなく、そのまま帝国軍に進んでいた方が彼には合っていたのではないかと、埒もなく夢想しながら……その、あまりにも眼を引く鮮烈な黄色にぎょっとする。
一見して相当に名高い名刀なのだろうと知れる拵が、それはもうその黄色い帯のおかげで台無しだった。あまりにも場違い。刀に関する知識を多く持ち合わせないみちるにさえ妙だと感じさせるほどのアンバランス。
首を傾げ、顰め面をするみちるに、しかし武は気づいた様子もなく。さっさとシミュレーターに乗り込んでは着座調整を終了する。
「…………わからん」
別に武の全てを知っているわけではない。例えば彼が衛士を目指した動機、戦う理由、思惑、感情、過去……。それら白銀武を構成する諸々を、みちるは何一つとして知りはしない。
故に、例えばあの黄色い帯――まるで少女がつけるリボンのようだ――が、武という存在を形作る上で必要不可欠な物であるというのなら、……それはそれでいいのだと納得する。
みちるに与えられた任務は唯一つ。
武を衛士として成長させること。A-01部隊における優秀な人材として育て上げること。香月夕呼が唱える第四計画を達成するための、有能な手駒の一つとして鍛え上げること。
そしてまた、自身もそれを望むがために。
「――よぅし、白銀。今日は昨日に引き続き、小隊単位での作戦行動を行う。制限時間内に仮想敵を無力化することが最大目標だ」
通信画面に向かい、みちるは指示を飛ばす。モニタの向こうで了解と首肯する武は、いつになく覇気に満ちて見えた。……それが、あの鞘に巻かれた黄色いリボンの効果なのかどうかは……矢張り、みちるにはわからなかった。
===
――これが、自分の身体なのだと。
例えば、人間が歩くとき、走るとき、立ち上がるとき、座るとき、手を伸ばすとき、腕を曲げるとき。
それら、肉体を動かそうとする際に、そのプロセスを一々手順を追って思考するものはいない。
足を踏み出す方法を、加速のために地面を蹴る方法を、膝を曲げる方法を、腕を上げる方法を……一々に考え、模索し、実行に移すものはいない。
なぜか。
それは知っているからだ。身体に染み付いているからだ。行動しようとしたその瞬間に、無意識下で既にそれらのプロセスは実行されている。
考える間などないし、考える必要もない。
だから誰も自分が行動するために必要なありとあらゆるプロセスを苦とも感じず、またそのためのシーケンスに混乱は生じない。無駄な処理は一切なく、蓄積された自身の経験に則り、行動として刹那に反映される。
……ならば、戦術機を操縦するということは……どうか。
操縦者、衛士の意思を統計的に数値化し、更新を繰り返し……データを蓄積する。蓄積され、更新されたデータは戦術機の基本動作に反映され、操縦者へもフィードバックされる。
その意味するところは一体何か。
伊隅みちるは武にこう説明した。
――文字通り体の一部のように扱えるようになる。
その意味するところ。行動するため、操縦するために必要なプロセスの一端を、戦術機は担うことができるということ。
ならばそれは、人間と同じということ。この巨大なヒトガタは、搭乗する衛士そのものということになる。
衛士は戦術機を操縦する。当然だ。機械は操作なくして動かない。
だから衛士は操縦するための知識を得、身に付け、腕を磨く。歩く方法を、走る方法を、立ち上がる方法を、座る方法を、手を伸ばす方法を、腕を曲げる方法を……思考し、操作し、実行に移す。
戦術機は機械だから。
搭乗する衛士がそのプロセスを順を追って思考し、操作する。――戦術機が機械だから。
否。
それでは体の一部とは呼ばないし、言えない。
人間が自身の体を動かす際、一体誰がその方法を、プロセスを、思考し、制御するというのか。そんな者はいない。そんな思考は必要ない。意識して行う必要がないのだから。
そのために必要なものすべてが、無意識の中に詰まっている。経験により積み重ねられた膨大莫大なデータを元に、無意識が制御を行うのだから。
……ならば。その意思を読み取り、データを蓄積し、基本動作に反映し、更には衛士にフィードバックするそのシステム。
戦術機を操縦するという行程。
衛士が思考し、操作するというその行程。それが無意識下に収まってはじめて。戦術機は己の一部となる。
即ち――これが、自分の身体なのだと。
そう認識し、操縦するためのありとあらゆる知識を肉体に刻み、無意識に支配すること。考える間もなく、考える必要さえなく、それが既に無意識で実行されていること。
それが実現できてようやく、戦術機は自身となる……自身とすることが出来る。
自分の体のように。自分の体を動かすように。そしてそれ以上に。決して生身では実現できない機動さえ、己そのものとして扱うことが出来るのだ。
戦術機操縦訓練とは、つまりそのためにある。
戦術機を操縦するための方法を、肉体に脳に刻み込み、反復して実行することでデータを蓄積し、操縦そのものを無意識のものとする。
自身が歩く方法を考えないように、戦術機を歩かせる方法を考えない。考えるまでもなく既に歩いている。そうできるように。
繰り返し、繰り返し、繰り返して……これが自分の身体なのだと、そう認識し、そしてその通りとする。
武がそのことに気づき、そして実現できたのは、操縦訓練を開始してから、実に六日後のことだった。
一日に十四時間の訓練を重ね……八十時間以上を費やして、ようやくそれを実感することができたのだ。
これが、自分の身体なのだと。
そして、戦術機もまた、その蓄積されたデータを以って衛士に応えるのである。無意識に発せられた脳からの指令を、矢張り無意識の内に応動する肉体の如く。
そのために必要な処理――重心移動、バランス制御、予備動作、筋組織の収縮、関節の稼動――を、衛士の思考と統計的データから推測し、瞬時に行うのである。
衛士の無意識下の操縦に、最も適した応動によって機動を実現する。繰り返され、積み重ねられることでその齟齬は限りなく小さなものとなり……やがては、本当にもう一人の自分と成ることが出来るのだ。
そして、戦術機を自身と成すことが出来たなら。
当然の如く、自身が体得している技術・技能もまた、戦術機に反映できるのである。
無論、そこには基本動作と同様に膨大なデータの蓄積が必要となるだろう。だが、既に戦術機を自身として扱えるならば、そこに左程の困難さはない。
己の身に刻まれたそれを、もう一人の己に刻み込むだけでいい。
動かすために必要なプロセスは全て無意識の内に。或いは、それを実現するために必要な、新たに加わる操作さえ無意識に行えるよう。
繰り返す。
繰り返して、そしてまた戦術機と自身をひとつとする。これは自分の身体なのだ。自身が出来ることで戦術機に出来ないことはないのだから。
それが実現できるだけのシステムが、この巨大なヒトガタには与えられている。
何よりも人間として在るために。
従来兵器の悉くを粉砕し撃砕し蹂躙したBETAと戦うために。想定されるあらゆる状況に対応するために。
戦術機は人間でなければならないのだ。
振り払う剣戟が生み出す慣性に従って、旋回。軸足を中心に捻転しながらに、一閃。地を踏みしめた脚は次なる機動のための軸に。地を蹴った脚は更なる回転を生み出す動力に。制動はなく、停止はなく、ただひたすらに、螺旋を描く。
旋回するたびに長刀は翻り。翻すたびに回転し。滑るように弧をかたちどる脚は絶え間なくその螺旋を続け、振るわれる長刀は絶え間なく剣閃の帯を引く。
手にするは一刀。
武は、今正に戦術機を己自身として扱って見せていた。
脳裏に描くとおりの機動。十年以上を積み重ね、真那の教えにより昇華された究極の技を。
戦術機を操縦するのではなく。身に付けたそれを、刻まれたそれを、ただ、繰り返す。
……いや、それは未だに完全ではない。確かに基本動作は完全に己のモノとした。肉体に脳に刻みつけ、無意識の内に操縦を行い、戦術機もまた応じてくれるようになった。六日間……八十時間以上の積み重ねと繰り返しが、それを実現させた。
だが、その下地があって尚、新しい動作……月詠の名もなき剣術を実現するには、まだ些かに不足している。
蓄積されたデータ。独特な動きを強要する操作手順。人間よりも遥かに巨大な機体に働く慣性に遠心力。筋肉に支えられていない関節。
己の肉体でさえ反吐が出るほどに繰り返し積み重ねたそれを、機械の身体で行おうというのだ。一朝一夕で実現できるとはそもそも思っていないし、相応の時間を要するだろうとは想像していた。
けれどそれも、いずれは己と同等、同様に扱えるようになるはずだ。今はまだデータの蓄積が十分でないだけ。或いは、武自身が戦術機の巨大さを掌握し切れていないだけ。
「……、……っ?! くそっ、またかッッ……!!」
アラート。
機体の損傷をその部位ごとに色分けして表示する画面が、警報と共に表示される。網膜投影の片隅に映し出されたそれは、膝関節に過度の負荷が生じていることを示していた。コードイエロー。繰り返される遠心運動に、機械の関節が磨耗し、金属疲労を起こしている。
武は盛大に顔を顰めた。口をつく悪態は、否応なしに戦術機と自身の差を自覚させる。
なぜだ、という苛立ちに、臍を噛む。……それこそ、武がまだ完全に戦術機を御することが出来ていない証明だった。
如何に己の身体として扱うことが出来ようとも、矢張り機械は機械でしかない。稼動する構造・部品というものは、酷使するごとに疲労を重ね、耐久度が低下し、いずれ破損する。特に各関節を構成するパーツはその消耗が速い。
自身の肉体では起こり得ないような弊害が、機械では当たり前のように発生する。
熟練の衛士は、機体にかける負荷を限りなく殺しているという。機械はどうしても消耗するのだということを踏まえ、繰り返す訓練の中、潜り抜けた実戦の中、最も効率的で負担の少ない操縦方法を身に付ける。感覚として、或いは実態として。
ならば武にはそれらが足りていないということになるだろう。
月詠の剣術を再現しようとして膝関節にアラートが出るということは、完全に己自身として扱えるようでいて、実際のところ基本動作においても各関節に少なからず負担を強いているということを示唆している。
その事実が、武を苛立たせ……そして落胆させ。同時に、更なる衝動を生み出させた。
己はまだまだ未熟であることをまざまざと見せ付けてくれる機体損傷の表示に、ならばこそ、絶対にそんな表示を出させない動きを実現させてやる。
イメージは真那。武にとっての究極であり、目指すべき理想。
彼女の動きを、そして彼女と共に鍛えぬいた己の動きを――戦術機でなぞる。
機体に負荷が掛かるのは得てして膝。そして長刀を振り回す腕だ。一体どうすれば生じる負荷を最小限に抑えられるのか。……とにかく今は動きまくるしかない。動いて、動いて、それを繰り返すことで機体が訴える疲労を感覚として掴む。
だが、我武者羅に機体を振り回して得られたものは……とにかく、今のままでは到底実戦に活かすことなど出来はしないという現実だった。
『白銀、いいかげんにしろ。明日もあるんだ……今日はこのくらいにしておけ』
「…………了解」
教導官のみちるの顰め面が表示される。通信機越しの彼女は、口に出さないが“しょうのないやつだ”と呆れているらしかった。
己の未熟さを噛み締めながらに、機体を格納庫へ移動させる。消沈したまま管制ユニットから這い出ると、足がもつれた。夢中になっていて気づかなかったが、どうやら肉体には相当な疲労が蓄積されていたらしい。身体は警報を表示しない……莫迦な話だと、武は苦笑した。
「まったく……実機訓練に移って早々、無茶をして……」
「すいません。伊隅教官……」
一昨日の朝に搬入された練習機、吹雪。機体の整備・調整を終えた本日の午後から、武は実機を使用しての操縦訓練課程に移っていた。シミュレーターで身に付けた諸動作、応用課程までを実機で行い、本物の戦術機でも問題なく機動が実現できることを確認。そして……以降、武はひたすら剣を振っていた。
とにかく自由に動かしてみろ、というみちるの言葉に従い……武はその剣術を戦術機で行った。対BETA専用の剣技。圧倒的物量で迫り来るBETA群を相手に、真っ向から立ち向かうそれ。
師匠が、真那が体得し、そして武に託した究極の技。
いずれは戦場に立つ身。ならば、それを扱えずしてなにが月詠の後継か。故に武は訓練終了までの数時間を、ひたすらに繰り返した。
結果は……なんとも言えない。
実機を通してわかったこともあるし、シミュレーターで再現できないGも幾分か味わった。繰り返すたびに機動は肉体との相違をなくし、反応も速く、正確になった。……そして、己の力量の未熟さを、知らしめてくれた。
シミュレーター訓練でもわかっていたことだ。
機体の膝に負担が掛かっていること。あの回転機動、螺旋の剣閃を実現するためには過度の負荷が生じること。……けれど、武が武自身の肉体を以ってその軌道を描く際、彼の膝にそれほど深刻な異常が発生するかというとそうではない。
己の肉体に出来て戦術機に出来ないことはない。
その事実がありながらに、機体に損傷が出ているという結果。……結局のところ、経験を重ねるほかにそれを解決する手段はないのだった。
「わかっちゃいるが……クソ、」
落ち込んでしまう。たかが数時間。たったそれだけの実機訓練でイエローの警報が出る。シミュレーター訓練でもそうだった。ならば、こと月詠の剣術において武は、微塵たりとも成長を見せていないことになる。
戦術機操縦の中で、最も昇華すべきそれが、現段階では最も劣っている。その結果に、武は辟易としてしまう。
わかっている。わかっているのだ。いきなりに何もかもが巧くいくはずがない。
そもそもの最初は、シミュレーターでさえまともに動けなかったのだ。……それが、八十時間をかけて、ようやく無意識でも行えるようになった。
ならばこれも同じこと。機体に負荷をかけない操縦法というものを研究する必要性はあるだろうが、時間を重ね、回数をこなすことでクリアできるはずなのだ。
ネガティブな方向に転がり始めた思考を、強制的に排除する。左手で『弧月』の鞘……そこに巻かれた黄色のリボンを握り締める。ギュゥ、と。求めるように。
言葉を発することのないそれらが、まるで武を励ますかのように確かな存在感を返してくれる。
武は静かに息を吐いた。時刻は二十三時。夕食のための休憩を除き、六時間近く剣を振っていたことになる。なるほど、疲れるはずだ。指折り数えた時間によって、全身を包む倦怠感が増した気がする。
更に言えば出鱈目に発生した遠心力と慣性で、相当気分が悪い。強化装備にもそれなりにデータが蓄積されていたため、当初に比較すると随分とマシだったが、それでも横荷重と縦荷重の入り乱れた機動によって内臓が悲鳴を上げている。
「ぐ……ヤバ、飯が…………」
思わず口を押さえる。衝動的にこみあげた吐き気を飲み込んで、早々に横になることを決める。
明日は朝一番に整備班の下へ行き、機体の……特に膝関節の構造について尋ねてみようと指針を定めて。武はロッカーへと向かった。
そして翌日。起床ラッパの五分前に目を覚まし、手早く洗顔、着替えを終わらせる。純夏のリボンを巻いた弧月を手に取り、スラリと鞘から引き抜いた。
緩やかに弧を描く刀身。美しい刃紋が電灯の光に泳ぐ。両手で柄を握り、全身の筋肉を覚醒させる。ぎし、と骨が軋む。全神経を鋭敏にし、精神を引き絞るように高める。
一閃。
ヒュ、というかすかな音を残して。
「――ふ、ぅ」
ほ、と息を吐く。真那にこの弧月を託された翌日からはじまった日課のようなもの。戦術機操縦訓練が始まってからというもの、まともに剣を振る時間がなくなってしまった。刀を振る感覚を忘れないように、せめて一閃だけでもと行うようになったそれ。
儀式といっても過言ではないのかもしれない。
ただの一振り。……だが、それにはこの十年と十ヶ月が収斂されている。いわば、己が剣術の集大成。
その一閃に全てを賭け、だからこそ一振りで足りる。
毎日のように繰り返し研鑽した技の全てをその一刀に凝縮し、全身全霊を以って臨む。……本当は思う存分に弧月を振り回し、月詠の剣術を体現したいのだが……如何せん、既に点呼の時間である。
「やべ、やべっ」
慌てて鞘に戻し、下緒を結わう。ただの一閃でじわりと汗の浮かんだ額を拭いながら、武は部屋から飛び出した。
朝食を終え、昨夜寝る前に決めたとおりに格納庫へ走る。ハンガーにずらりと並べられた戦術機たちは、それはもう壮観であったし、今でも思わず見惚れてしまうほどに凄まじい圧迫感を与えてくれる。
自身の練習機が運び込まれたときなどは朝食も採らない内から格納庫に駆けつけて、興奮に身を焦がしていたのだ。――これが、自分の力となる。
任官すれば練習機の吹雪ではなく、不知火という機体が宛がわれるとのことだったが……それでも、これから自分が乗ることになる機体なのだ。興奮しないほうがどうかしている。
当時の感情を思い出しながらに、通い慣れた道を駆ける。自身の吹雪が格納されているハンガーに到着し、昨日と変わりなくそこに存在する「もう一人の自分」を見上げて、知らず、拳を握っていた。タラップを駆け下りる。吹雪一体のほかにはがらんと空いているハンガー。……恐らくは、いずれ207訓練部隊の吹雪たちが納められるのだろうそのスペース。
武は、吹雪の足元で作業していた整備班の人間に声を掛ける。二十代後半といったところだろう。顎に生えた無精ひげがいい具合に技術者としての趣を出していた。
「よぉ、白銀訓練兵殿。おはよーさん」
「おはようございます」
だらしない口調とは裏腹に、ビシリとした敬礼を向けられる。武は苦笑しながら答礼し、機械油に汚れた作業服姿の彼に並ぶ。どうやら昨日の訓練が終了した後に整備作業は行われていたらしく、既に機体はピカピカだった。武の未熟な操縦で損耗した関節部も交換されているらしく、驚きが隠せない。
「これ……ひょっとして、」
「お? わかるか? まぁ、普通はさ、訓練兵が使う練習機なんてのは大抵実戦で損傷した機体の使い回しだったりするもんだが……。どうもお前さんは待遇が違う。回ってきた機体が新品なら、パーツ交換まで一晩の内だ。ありえねぇだろ」
わははは、と肩を揺らして笑う彼だが、武は到底笑うことなど出来ない。
確かに昨日の訓練……初めての実機訓練の内に膝関節にイエローの警報が出た。装甲の損傷と違い、関節部の損傷は機体の挙動にダイレクトに影響するために、毎回の点検は欠かせないし、軽度ならば即修理、重度のものは交換することが基本だという。
だが、それはあくまで前線で戦う衛士の機体に関して……だ。たかが一介の訓練兵が扱う練習機。操縦技能も未熟で、機体を傷つけて当たり前の訓練兵のために回される修理交換用のパーツなどたかが知れているし、なにより、一々に修理していたのではとてもではないが物資が足りない。
優先されるべきはあくまで前線である。無論、練習機の整備や修理を怠っているわけではない。戦術機は機械で在るがために、矢張り定期的に整備しなくては機能しなくなる。……ただ、その頻度や修理の程度が、前線で戦う衛士たちと比較して優先されないというだけだ。
「……副司令の、指示、ですか……?」
だからこそ、これは異例だろう。確かに機体の膝関節部を損耗させたのは武だ。己の未熟な操縦が機体に無理を強い、過度の負荷によって軋みを上げさせた。
戦術機の機動において最も重要な部位である脚部の要の損傷を放っておけるほど日和見ではないということかもしれなかったが……しかし、現に彼はこう言っている。――ありえねぇだろ。
まさにそのとおり。あり得ていいわけがない。
一晩の内に膝関節部が新品に交換されている。損耗したパーツは当然修理され、交換パーツとして保管されるとのことだが……しかしそれは、どう考えても前線に出る衛士に対する待遇だった。
ただ機体を動かし、操縦訓練するだけならば、まだまだ昨日のままの状態でも数日は耐えられるはずなのだ。武がもっと巧く操縦すれば、その技能を磨けば、パーツの寿命は延びるのである。……それを、一晩の内に。
「さぁな。偉い人の指示があったのかどうか、んなことは知らん。チーフがやれというから俺達はやった。それだけだな。まぁ、ありえんけど」
「………………」
ふふん、とどこか意地悪く腕を組んで笑う。自分の仕事に誇りを持っていることは確からしい。そして、今回のことは交換が必要だから交換した。それ以上でもなければそれ以下でもないのだと……軍人としての納得も混じっているようだ。武は頷く。そう。例えこのことに香月夕呼の思惑が絡んでいるのだとしても、どうせ既に彼女の手の平の上で踊っているのだ。ならば精々、望むとおりに踊りきってやろう。……それこそが、己が進むと決めた道なのだから。
「んで? 朝っぱらから何しに来たんだ? まさか自分の機体が気になって眠れなかったわけじゃねぇだろう?」
そうだった。尋ねられるまで失念していた。……まったくどうかしている。そのために、訓練が始まる前の僅かな時間を縫ってここまでやってきたというのに。
「ええ、教えて欲しいことがあって……。戦術機の構造……特に、関節部の構造と稼動原理なんですけど……」
武は、自分が行おうとしている機動について説明し、それを戦術機で行うにあたり、膝関節に多大な負荷が発生している旨を伝えた。それをどうにか解消する手段を構築するために、手始めに戦術機そのものを知ろうと思ったのである。ものの造りがわかれば、そこから自身の肉体との違いを導き出せる。単純に大きさや各部の重量の問題もあるのかもしれなかったが、それらも含めて、まずは情報収集が肝要だ。
身振りを交えた武の説明と質問に、男はふむと腕を組み、
「……やっぱ、お前変わってるな」
「ハ?」
「いや、なんでもねぇ。……いい心掛けだぜ、訓練兵殿。まずは機体のことを知る。ああ、実にいい心掛けだッ! 安心しな、この佐久間修一、膝関節といわず機体構成から制御システム、OSにOBL、副腕の構造から突撃砲パイロンの応用法、果てはメンテナンスまでなんでもござれだっ! バッチリみっちりあますことなく伝授してやるぜッ!!」
びっしぃいい! と人差し指を突きつけられ、武は呆然とする。――今、このひとなんて言った?
「ぃゃ、ぁの、」
引き攣ってしまう頬をそのままに、おずおずと口を開く。が、
「オーケーオーケー皆まで言うなっ! 我が弟子よッッ!」
「誰が弟子ッッ?!」
最早何を言っても無駄。偶々尋ねた相手が悪かったのか……それとも整備班とはこういう人物が集まっているのか……。ともあれ、このことで武の唯一といっていい食事後の休憩時間は、佐久間センセイの戦術機講座に挿げ替えられたのだった。
===
「甲20号目標間引き作戦の正式な日程が決まったわ。作戦名は“伏龍”……三国志からの引用ね。別に大した意味があるわけでもないでしょうけど。作戦開始は6月30日のヒトキューゼロゼロ……、って言うんだっけ? ともかく、19時に大東亜連合より作戦開始が宣言され、各隊は前線基地、および洋上に順次集結。翌7月1日0900に甲20号目標への攻撃を開始。陽動部隊を前面に押し出して、一定数を引きずり出したら艦砲射撃による面制圧。以後は光線級を最優先に逐次撃破……。大体はこんなところね」
「……一ヶ月先のこととはいえ、随分と大雑把ですね」
「別に、詳細は後でもいいでしょ? 今知らなくて問題ないことを知って、脳のキャパシティを消費することはないわ。時期が来たら、いずれ伝えるわよ」
ハ、と。みちるは姿勢を正す。
この一週間の武の訓練結果をまとめ、報告を終えた後に、夕呼から来月の作戦についての簡単な説明を受けた。『伏龍作戦』と銘打たれたそれは、数十万のBETAを内包する甲20号ハイヴより一定数以上のBETAを殲滅することを目的に行われる。
BETAは、その個体数がある一定量を超えるとハイヴより進出し、新たなハイヴを構築するといわれている。ために、定期的に間引きを行い、BETAの前線基地であるハイヴをこれ以上増殖させないよう、対処しなくてはならない。
大東亜連合を中心に、中国・韓国の混成部隊によって敢行され……そして、みちる率いるA-01部隊も、この作戦に参加することが決まっていた。
目的は、BETAの間引き。……当然といえば当然である。作戦自体が間引きを目的としているのだから、それはそのとおりだった。
だが、それは名目だった。夕呼は、A-01の参戦を大東亜連合ではなく、中国へ直接交渉……ごり押ししている。
その意図は何か。みちるにさえその真意を話そうとしない夕呼には、問うだけ無駄だろう。彼女が何も言わないというならば、少なくとも今は、みちるは何も知らなくてよいのだ。
脳のキャパシティ……か。なるほど、夕呼らしい言い回しだと、みちるは小さく苦笑する。
「ああそうそう。白銀だけど……ま、この報告書を見る限り問題なそうね」
「……はい。このままいけば、当初の計画通りに任官させられるかと。自分も多くの衛士を見てきましたが……ハッキリ言って、彼の成長振りは驚異的です。凄絶に過ぎます」
率直なみちるの言葉に、夕呼はニヤリと唇を吊り上げる。どうやら、自分の思惑通りにことが運び、ご満悦と言ったところだろうか。
彼女がここまで感情を表すのも珍しい。……そもそも、副司令という立場柄、或いはオルタネイティブ計画の責任者という役柄、彼女はとてつもない発言力と権力を有し、そしてみちるなど想像も及ばぬ世界での戦いを強いられている。
人を化かす狐がいるが、香月夕呼とはそういう類の化生ではないだろうか。故に、彼女の真意は読みにくく、その感情もまた、安直に解釈していいものではない。
……だが、今目の前で愉快そうに笑う彼女はどうだ。見るからに愉悦に唇を歪めている。
それが白銀武という手駒を得ることが出来ることに依るものなのかどうかはわからないし、きっと、みちるが知る必要はないのだろう。今はただ、A-01の隊長として、そして武の教導官としての任務を全うするのみである。
そして、これは完全にみちるの推測だが……しかし、全くに的外れというものではあるまい。
その作戦……『伏龍作戦』に、白銀武を動員する。
すべてはそのために仕組まれているのではないだろうか。武の異動に始まった総戦技評価演習の繰上げ実施。戦術機操縦訓練期間の短縮。図ったような任官時期。一日に十四時間という過密スケジュールを強制し、まがりなりにも前線でいくつもの死地を潜り抜けてきた中隊長直々に教導するという破格の待遇。
基地司令の承認を得るために十ヶ月という時間を要したとは言うが、実のところ、今回の間引き作戦の実行に間に合わせるために押し通したのではないか。
つまり、一刻も早く武を前線に出し、実戦を経験させる。ただそのために。
或いは……みちるには想像もつかないが、この作戦にA-01が参加することで得られるメリットが在るのかもしれない。
なんにせよ、全ては夕呼の思惑の内。考えても詮無いことには違いない。
みちるは無意味な思考を打ち払い、夕呼の部屋から退出すべく背を向ける。……と、その背中に、
「伊隅。私はね、たかが衛士一人で戦場がひっくり返るとは思わない」
足を止めて、振り返る。そこには、椅子にもたれたままどこか遠くを見ているような夕呼の姿。ぼんやりとしているようで……どこかしら、儚い。
眼を閉じるように、夕呼は続ける。
「数百、数千という衛士の中でたった一人。数千、数万と迫るBETAの中でたった一人。……そんなヤツ独りに、一体何ができるのかしらねぇ……」
「香月博士……?」
まるで独り言のようだ。夕呼はみちるを呼び止めてはいたが、実際、単に思いつくままを零しているだけに見える。
だが、みちるの目を悪戯気に、からかうように見詰めてくるその視線は……雄弁に物語っていた。
戦術機適性「S」。
脅威の成長を見せる武。凄絶なまでの機動を見せる武。未完成ながら、粗が目立ちながらに……それでも驚愕するほかないあの剣術。
「……一騎当千、って知ってる?」
「――博士、お言葉ながら、それは……」
思わず口を開いたみちるに、しかし夕呼は薄く笑い。――単なる例え話よ。
そう言って、彼女はコンピュータに向かった。キーボードを叩く音がする。みちるはどこか噛み合わない思考を弄びながらに、執務室を後にする。
プシッ、と閉まるドアに背を預け……眉を寄せたままに呟く。
「一騎当千…………莫迦な」
そんなものが現実に在り得るはずがない。それとも、何かの喩えなのだろうか……。が、夕呼の真意はどうあれ、これで確定した。
矢張り、武は『伏龍作戦』までに任官し、みちるの部下としてA-01に配属されるだろう。
正式にそう通達されたわけではないが……最早明言したも同然である。ならば、明日からの訓練はそれを見越したものとしたほうがよいだろう。六月に任官して、作戦までに訓練に参加できるのは多く見積もっても一週間と数日だろう。
そんな短い期間で隊員との連携など取れるはずもない。とすれば、武は任官直後から即訓練に参加させることが望ましい。
通常、任官したばかりの新任衛士は、少なくとも三ヶ月程度の座学と訓練を経て実戦に出る。いくら任官したとはいえ、そこは矢張り成りたての新人である。いきなりに戦場に出して、それで生き残れるものなど…………居たのだとしたら、それは相当の化け物だろう。
要するに、その三ヶ月という期間は敵を知るための期間として必要なのだ。任官するまでは情報開示されないBETAについての知識を……武には詰め込まねばならない。
時間がない。期間が短い。あまりにも、過密すぎるスケジュール。……そもそも、それに応えられる力量を持つものなどそうはいまい。
だが、夕呼はそれを当然とばかりに要求し。そしてまた、武もそれに応えられる才能と実力を秘めていた。
みちるはそれを知った。――だから、やる。
決心して……すぐに苦笑する。
ああ、これでまた、眠る時間が減るな――。戦術機の操縦訓練を十四時間。その後に、座学である。ハード過ぎることは目に見えていた。……果たして、先に音をあげるのはどちらが先か。
他愛なく想像しながら、みちるは自室へ戻っていった。