『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:九章-02」
死ぬ。
死んでしまう。……というより、コロサレル。
ブリーフィングルーム。壁にはめ込まれたホワイトボード。スクリーンには戦術機の戦略的運用についての考察が映し出され、教鞭を揮うは大尉にして教導官の才女。
机上に積まれた各種資料を次から次に消化し、弾丸の如く繰り出される講義に全神経を傾ける。
一言一句聞き逃すな。一字一句見逃すな。
わかったかと問われればハイと答え、質問はと問われれば疑問を須らく解消しろ。
これは戦争だ。
時刻は既に二十四時を回っている。あのう日付変わってるんですけどなんて思考は折りたたんで捨ててしまえ。
例えコロサレルなんて愚昧が脳裏を巡ったのだとしても、けれどこれも全ては自身のため。
辛いのは彼女も同じはず……だと、思いたい。
十四時間のシミュレーターと実機による戦術機操縦訓練。休憩時間を整備班の佐久間の講義に費やし、ようやく解放されると着替えを済ませてみれば、待っていたのは夜間講義の準備を終えた伊隅みちる。
――鬼だ。
それはもう、武は心底からそう痛感した。
己の行動の結果とはいえ、貴重な休憩時間というものが失われてしまった武にとって、この突然の座学は寝耳に水に等しい。
スケジュールが押しているわけではない……と、武は考えている。以前夕呼に見せられた予定が、そのとおりに進んでいるのなら……ではあるが、しかし、任官まではまだ三週間ほどあるはずだ。戦術機の操縦だけを考えるならば、今のペースでも十分に間に合うのではないかと思われる。
自惚れではなく、これはみちる自身が昨日武に言ったことだった。
……ならば、どうして唐突に……恐らく予定にはなかったはずの座学が組み込まれたのか。――無論、必要だからに決まっている。
武が把握しているのはあくまで任官予定である六月中旬までに戦術機操縦訓練課程を終えることのみ。具体的なその訓練内容については一切承知していないし、それは訓練兵があれこれ考えるものでもない。
担当する教導官こそが必要なカリキュラムを組む。武はそれをこなし、己にとって、そして軍にとって最良の結果を得るために、努力し、精進するのみである。
故に、こうして前触れもなく始まった夜間講義については……正直に言えば、疲労困憊で勘弁して欲しいというふざけた甘えが浮かんでいるわけだが……それでも、みちるが武にとって必要と判断し、実行しているのだ。
武にはそれに応える義務があり……結果を出す責任が在る。
夕呼が推薦し、夕呼が強行し、夕呼が直々に知らしめたのだ。――お前は特別だ。
だからこそ、懸命にみちるの講義を聴く。ハッキリ言って尋常ではないペースで進んでいく座学。これまでの座学とは全く違う……衛士の役割を戦場で十二分に発揮するために必要な諸々の知識。或いは戦術機の各世代における特徴や設計思想……特に第三世代機と呼ばれる機体についての知識等々。ただし、戦術機についての薀蓄は既に昼・晩と佐久間によって、それこそ一方的にではあるが聞かされ、知識として吸収していた。みちるにその旨を伝えると、彼女は少し驚いたような表情をして、ニヤリと意地悪く笑う。
「……ほぅ。なかなか殊勝な心掛けだな。いいだろう。私も技術的な分野においては至らない点もあろう。戦術機の専門家からその知識を享受できるなら、そのほうがいいだろう。……よし、では以後の戦術機における座学は省略する」
ほっ、と。武は無意識に安堵の息をついていた。ぴくりと吊り上がったみちるの眉に気づいて、あたふたと体裁を整えるが、既に遅し。険しい視線を向けてくる教官に冷や汗を浮かべつつ……しかし、みちるの叱責はなかった。
恐る恐る視線を向ければ、どこか苦笑するみちるの顔。壁に掛けられた時計を見て、やれやれと溜息をついていた。
「…………少し熱を入れすぎたな。今日はここまでにしよう」
「はい」
つられて時計を見る。日付変わって深夜二時十二分。朝から晩まで……文字通りに訓練漬けだった一日が終わる。というか、三時間後にはまた始まるのだが……。
「き、教官……ひょっとして、これ、毎日続くんですか……?」
「当たり前だろう。貴様は戦術機操縦訓練にしても、任官後に必要な座学・訓練にしても、与えられた期間があまりにも短いんだ。言ったはずだぞ。泣き言は一切許さん」
莫迦なことを聞いてしまったと、武は反省する。どこまでも真剣なみちるの視線を受けて、彼は姿勢よく敬礼した。
PXに寄って合成宇治茶でも飲もうと、足を向ける。深夜ではあるが、PXは待機任務中の者のために一応開放されている。本来なら既に消灯時刻を過ぎている身であり、あまり基地内をうろつくのはよろしくないのだが……。積み重なった疲労と詰め込まれた知識に氾濫しそうな頭蓋を休ませるために、少し落ち着きたいと思った。
小さく嘆息しながらに、PXを目指す。道中、あまりにも濃密だった今日を振り返り…………整備班の佐久間に聞かされた話を思い出す。
――お前はとにかく脚で動きすぎなんだよ。
機体を整備するにあたり、整備班はその機体を扱う者――即ち衛士の機動を研究するのだそうだ。いや、研究というほど緻密で高尚なものではなく、単純に、その者の癖を知るために戦術機の操縦ログを解析するのだとか。
そして、武の吹雪を整備している佐久間たち班員は口を揃えて言ったのである。脚で動きすぎている、と。
一体どういうことかと頭を捻る。
戦術機が動くためには……というか、ヒトガタが動くためにはどうしても足を動かさなければならないはずだ。そして、武が扱う月詠の剣術もまた、慣性や遠心力を存分に利用するものの、基本となるのは足捌きであり足運びだ。全身をスムーズに捻転、旋回させるためには特に膝の動きは重要で、それによって重心を滑らかに移動させることが可能となる。戦術機においては、まだその巨大さに振り回されている感が否めない。……故の膝関節部の損傷だろうと武は考えていたのだが……。
佐久間は、そして彼の同僚や部下達はニヤニヤと笑みを浮かべた。戦術機に乗ったばかりの新人を相手に、自身らの知識を披露することが楽しいのだろう。
或いは――これほど真剣に“戦術機について”考える新兵の存在が嬉しく、喜ばしいのか……。それは、武には想像もつかない感情だった。
ともかくも、佐久間は言った。
戦術機はそもそも人間と比べて重心が高い位置にくるよう設計されている。戦術機の機動性に直結する機体総重量の多くが肩部装甲シールドが占めているためだが、これはそもそも、敵の攻撃からセンサーや管制ユニット等の最重要部を防護するために分厚い装甲が必要であり、主腕および上半身の運動に対するカウンターウェイト、若しくはバランサーとしての機能として……そして、重心位置を高くすることで機体の静安性を打ち消し、運動性を高めるためである。
つまり、戦術機は高機動を得るために「倒れやすく」設計されているのだ。実際の機動においては、その倒れやすさを電子装備で無理矢理安定させているのである。
佐久間は、その倒れやすさを巧く使えという。初速を得るため、或いは旋回機動において、この倒れやすさは活用できるのではないか、と。
武は手渡された自身の操縦ログを必死に読み取り、確かにどの動作においても、常に両脚部を思い切りに酷使していることに気づいた。機体を旋回させるためには、当然として慣性を、遠心力を利用する。長刀を振り抜いた際に発生したそれらと、機体の高重心を組み合わせれば、格段に膝の負担を減らすことが可能となる。
つまり、こと月詠の剣術を再現する場合においては、武は常に倒れ続けることこそが肝要だということだ。
地面と平行しての平面機動ではなく、若干の傾斜がついた……それこそ独楽のような斜面機動。その際、脚部は進行方向を制御するために地面を蹴るだけでいい。武が必死になって操作していたような、膝を酷使する捻転機動は必要ないということだ。
なるほど、と頷かされるものがあった。そして同時に、戦術機で自分自身を再現することに固執していた武には思いつかない発想だった。
人間と戦術機の重心位置の違い。そのことに気づけなかったことは衛士を目指すものとして少々恥ずかしいものであったが、ここは素直に、アイディアを提示してくれた佐久間たち整備班に礼を述べるべきだろう。
そして、自身の操縦ログを解析するということも、衛士にとっては重要な意味を持つのだと知った。客観的視点で自身の操縦を考察できるのだ。これは非常に有効なツールだと思えた。
また、武が希望し、それが受理されたならば、手に入る範囲……ということにはなるが、他の衛士の操縦ログも参照できるのだという。このとき、真っ先に思い浮かんだのは真那だった。月詠の剣術。それは、元々が戦術機で圧倒的物量のBETAを屠るために考案されたものである。ならば当然、彼女はそれを、「戦術機での月詠の剣術」を体得しているはずだ。
それを知ることが出来たなら――或いは教わることが出来たなら――こうして頭を悩ませることもないのかもしれない。
埒もない。武は頭を振り、ログについてはみちるにお願いしてみようと片隅に留め置く。ともかくは実践だと意識を切り替えて、脳裏に新たな機動方法を描く。基本は変わらない。既にこの身に染み付いたその剣術の螺旋機動をなぞる。
振りぬいて、機体に働いた遠心力を利用して旋回――この時に、遠心力の働くまま進行方向へ機体を限界まで傾ける――捻転を終える寸前に地を蹴り、軸脚を置いて一閃。……軸足を置く時点で、また機体を傾けるべきだろうか。イメージは傾いたまま回転し、突き進む独楽。傾斜は常に進む先を向き……脚部が行う動作は、それこそ地を蹴って跳ねるが如く。倒れ続け、旋回し続け、そして螺旋を描き続ける。回転軸を地面とほぼ平行に置き……跳躍ユニットを併用して推進力にするのも面白いかもしれない。
腕を組んで想像を巡らせる武に、佐久間が手刀を食らわせる。
なにをするのかと非難めいた視線を向ければ、スパナやレンチ、ドライバー等々が収められた工具箱を突き出してくる。更にはよれよれの作業服。一体何事かと顔を顰めれば、整備研修という名のメンテナンス講座が始まった。尚、油まみれになりながらの研修(?)中、ずっと佐久間が戦術機の構造について語り続けていたのは言うまでもない。
「…………あのオッサン……俺を整備班の要員にする気だな……」
PXに着いて、げんなりと呟く。
思い出しただけでも疲労が募る。佐久間たち整備班の人間と話せたことは、確かにメリットの方が多かったのだが……慣れるまでは相当に苦労しそうだった。
取り敢えずはこれからの生活リズムに身体を合わせることこそが重要。
実機の操縦訓練中にバランス制御が巧くいかず転倒しまくったことや、旋回中にあらぬ方向へ突き進んだこと……それら数々の失敗など今は気にしてもしょうがない。
大事なことはその失敗を次に活かすこと。佐久間のアドヴァイスは的を射ていると思える。足りないのは、武の実力だ。そしてそれは繰り返す訓練の中でしか成長しない。
「さて、と」
ともかく、身体を休めよう。これが食事の時間ならおばちゃんに頼めば済むのだが、如何せん時刻が時刻である。無論、食事以外の時間にもPXは開放され、利用が認められているために、合成製品のお茶やコーヒー等は自由に飲むことができる。……唯一の難点は、不慣れな者が自主的に行うと大抵濃すぎるか薄すぎるかのどちらかになるということだろうか。
熱いお茶を飲んで脳をリフレッシュさせたいだけだったので、武は薄めに合成宇治茶を淹れる。あまり濃くして眠れなくなっても困る。たった三時間の睡眠時間だが……徹夜するより遥かにマシだ。
心身の休息は大事だ。休める時に全力で休むことも、優秀な衛士に求められることである。
いつも座る席に着き、一口啜る。全身に染み渡るような温かさに、ほぅ、と息をつき…………椅子の背もたれに体重を預けて眼を閉じる。
「…………」
誰も居ない薄暗いPXに、ただ、小さな寝息だけが響いた。
===
茜は目を覚ました。何の前触れもなく覚醒し、机の上の置時計を見れば深夜の二時前。む、と眉を寄せて布団を手繰り寄せる。起床するにはあまりにも早すぎた。
だが、寝直そうと眼を閉じるものの、どうしてか眠気がやってこない。もぞもぞと寝返りを打ち、落ち着く体勢を探るものの効果なし。ん~~~っ、と唸った後に身を起こし、こんな時間に眠気が失せた自身を呪う。
「ちょっと……まさかこのまま眠れないなんてうそよね……」
かなり洒落にならない。訓練でへとへとだったはずなのに、どうしてこんな時間に目が覚めてしまうのか。事実、身体は若干の疲労を訴えている。床についてまだ数時間しか経っていないのだから当然だ。今日の訓練は厳しかった。
教官であるまりもがB分隊へ提示した一週間という期間。
彼女達の信頼関係を築かせるために一つ部屋に押し込めてから一週間が過ぎ、そして今日、B分隊にとって負けられない模擬戦闘演習が行われた。
一向に眠くならないまま、茜はぼんやりと訓練内容を振り返った。千鶴と慧。B分隊の中にあって一番の問題点であった彼女達のチームワーク。或いはコンビネーション。
「あれは反則よね……」
お互いに誹り合い、足を引っ張り合っていた二人だったが……一体どういうわけか、その彼女達が見事に連携し、茜達を……対峙した多恵と薫を翻弄し、撃退したのである。
呼吸が合っている、なんてものじゃない。
互いに背中を預け――雑言のようなものを叫び合いながらも――それぞれを認め、信じ、相手の心理を、行動を知り尽くしていると言わんばかりの連携を見せたのである。
そう。確かこういっていた。
――あなたは一秒早いのよっ!
――そういうあんたは一秒遅い……っ!
そうやって、双方の感覚から見たお互いのズレを認識して、次の瞬間、その次の瞬間と、挙動の一つ一つで齟齬を修正し……最終的には多恵、薫ともに神懸かったコンビネーションに仕留められた。
薫は「ありゃあ反則だ」と笑い、多恵は慧に太刀打ちできずに落ち込んでいた。なるほど、元々の実力が隊内でずば抜けて高い慧であり、そして亮子をして努力の天才と謳われる千鶴のコンビである。一筋縄ではいかないのは当然だった。
……そして、その二人のコンビネーションが完璧だったからこそ、以前のように互いの足を引っ張り合うようなことがなかったからこそ、薫たちは敵わなかったのである。
二人だけではない。
冥夜も、美琴も、壬姫も……千鶴と慧がA分隊の主力を引き受けている間に、実に巧妙に動いていた。
B分隊における“穴”だったはずの千鶴、慧が予想外の威力を見せたことに茜は驚愕し、作戦を変更せざるを得ない状況に陥った。
多恵も薫も健在だった時点の話だ。苦戦は必至と覚悟していたものの、これほどまでにかつてない戦力に化けるとは想像していなかったのだ。……否。どこかでB分隊の彼女達を侮っていた。
今までただの一度もチームプレイを完成させたことのない彼女達。それぞれがそれなりの努力と歩み寄りを見せてはいたが、それも表面だけに過ぎず身を結んでいなかった彼女達。
まりもはその問題を改善するために共同生活を強いたのだが……どこかで、茜はそれでも駄目なのではないかと考えていたらしい。
らしい、というのは……千鶴と慧の連携を目の当たりにしたその瞬間まで、自身の中にそのような恥知らずな感情があったことに気づかなかったからだが……瞬間、茜は己の卑しさに怒りを覚えた。
知らず知らずの内に彼女達を見下し、卑下していた自分。変わりつつある彼女達を見て、喜ばしいことだと……そう感じていた自分。そのどちらもが己なのだという事実に、吐き気がした。
偽善者め――。
だが、その感情さえ刹那の内に深奥に押し込み、ともかくも茜は行動した。後方に控える晴子に無線で指示を飛ばし、晴子を護衛する亮子には全周警戒を促す。圧倒的実力を誇る慧を無力化すべく晴子が狙撃を行うが……失敗。――瞬間、舌打った茜の耳に銃声が届く。
晴子のものではない。精密射撃に失敗した晴子は動き続ける的に再び照準を合わせている最中のはずだ。少なくとも、あと数秒の時間を要するはず――なのに、その銃声は間髪入れずに響いた。立て続けに、二発。
厭な直感が電撃のように走り抜ける。そして、前方の林の向こうでは、今正に慧と千鶴に倒された薫と多恵……。
茜は転進した。身を翻して逃走した。あのコンビネーションを前に、単身で敵うとは思えない。そして、先の二発の銃声だ。恐らくは壬姫。さっきから呼び出している晴子に亮子。ともに返事がない。狙撃に集中しているというのなら、何故亮子までもが沈黙を貫くのか。……気ばかりが焦る。
なるほど、これが追い詰められた者の感情か。
茜は精神的余裕を失っている自身を自覚した。とにかく身を隠せる場所まで駆け抜ける。乱れた呼吸のリズムを整えることだけに集中し――横合いから飛び込んできた美琴に押さえられ、冥夜の模擬短刀に倒れた。
完敗である。
見事B分隊はA分隊を無力化、勝利をあげた。まりもの提示した条件をクリアしたのである。そして、茜たちが太刀打ちできないほどに、チームとしての成長を見せた。
やられた瞬間に、茜は可笑しくなった。心のどこかでB分隊を見下していた卑しい自分に、ざまぁみろと盛大に笑ってやりたかった。……そして、そんな後ろ暗い感情を吹き飛ばしてしまいたかった。
ああ、彼女達はこんなにも素晴らしい。ああ、彼女達はこんなにも凄まじい。
ならば自分達も負けてはいられない。彼女達がたった一週間でこれほどの成長を遂げたというのなら、自分達だって成長してみせる。今よりももっと、もっともっと高みへ。
それは彼が見せてくれた姿勢だった。
彼が貫いていた意志だった。
常に前へ。前へ前へ突き進み、あらゆる努力を惜しまず、絶えず高みを目指す。手を伸ばし、掴んだなら上り詰めて、踏み越えて、次の高みへと手を伸ばす。その繰り返し。――刺激は、強いほうがいいに決まっている。
茜は、晴子は、多恵は、薫は、亮子は頷いた。皆が皆、茜と同じ気持ちだった。そして、B分隊の彼女達も。
……そして、午後から行われたその日二度目の模擬戦闘演習は……時間一杯まで決着がつかず、結局引き分けに終わった。
訓練終了時のまりもの表情を思い出す。決して言葉には出さなかったが、向けられた優しい眼差しが、彼女の心理をなによりも物語っていた。ならば……そう、ならば、それだけで報われよう。
B分隊の彼女達は本当の意味での仲間の大切さを知り……信頼関係を築くことが出来た。
A分隊の自分達は知らぬ間に自惚れていた自身に気づき……驕ることの愚かさと、絶えず精進することの大切さを思い出すことが出来た。
得るものが多い一日だった。
――だから、というわけではないだろうが。ひょっとすると身体はまだ興奮していて……ゆえに目覚めたのだろうか。
別段、尿意を催しているわけでもなく。ひりつくほどに喉が渇いているわけでもない。第六感的なものかと息を潜めてみたが……これといって警報が鳴ることもなく。では、虫の知らせというやつだろうか?
それこそ、眉唾であろう。
茜はベッドから抜け出る。下着のまま立ち上がり、鏡の前に立った。薄っすらと汗が浮いている。部屋の入口に備えられた常夜灯がほんのりと輪郭を映し出していた。洗面台の蛇口を捻り、顔を洗う。
「…………」
とにかく、気を鎮めよう。リラックスすれば、また自然に眠ることも出来るだろう。
寝よう、寝ようと意識すればするほどに眠れないものである。……ならばいっそのこと、気分転換でもしてやろうかと茜は服を羽織る。
夜の散歩というのも悪くない。無論、警備の兵に見つからなければ、だが……。
普段行かないような場所……別棟の訓練施設や基地の裏側にある丘に登ってみるとか……つらつらと行き先を考えながら、部屋を出る。まるで探検気分だ。万が一まりもの耳に入ったなら、それこそ不眠不休の訓練が強行されるだろうことを理解しながらに……しかし今は、眠れない不満を行動にぶつけるのである。
正直に言って頭が回転していないらしかった。
眠気がこない覚醒状態にありながら、それでも矢張り眠いのだろう。茜は常にない昂揚した精神状態で暗く静まり返った廊下を歩く。
そして、常であれば右に曲がるだけの三叉路を、左に曲がる。訓練のためにグラウンドや教室へ移動するならばここから右に行ったところにあるエレベーターを利用する。PXに行く場合もそうだ。
なので、茜はこの道を左に行く必要がなかった。無論、その先に何があるのかは把握しているが、実際に足を向けたことがないために、あてのない散歩にはもってこいだと、根拠なく頷いて。
既に、彼女の中では「眠れないから気分転換に散歩する」のではなく、「基地内で行ったことのない場所に行ってみよう」に目的が変更されている。勿論、きちんと睡眠をとらないと明日自分がつらいだけだということは承知しているため、一時間もしない内に自室へ戻ろうとは考えていたが。
もっとも、自室に戻ったところで眠れる保証もないのだが……こうしてブラブラと歩くことでほどよく身体が温まり、睡魔を誘ってくれるかもしれない。
思考が支離滅裂だ。自身でそうわかってしまい、茜は苦笑した。――年甲斐もなく、浮かれている。
小等部の学校へ通っていた頃だろうか。よくある話だ。夜の学校には…………出る。
幼い頃に友人達と集まってそんな話をしていたことを思い出す。そして、子供達だけで肝試しを実行しようとしたことも。……無論、計画はあっさりとばれて、茜は姉の遙にしっかりと叱られた。
そんな、幼稚だった頃の感情に近いのかもしれない。消灯された廊下は、壁と床の間に点々と備えられた常夜灯だけが薄く灯り……微かな不気味さと美しさを見せていた。
コツコツと靴が鳴る音だけが響く。辿り着いた先は、自分達の部屋とよく似た景観。――当たり前だ。ここはただ単に、彼女達衛士訓練兵が使うのとは別棟の宿舎である。
同じ造りの部屋が並ぶだけのそのフロア。渡り廊下の役目を果たす先ほどの一本道がここと茜達がいる部屋とを結ぶだけで、同じB4フロアなのだから。
なにをやっているんだか――小さく嘆息しながら、しかし改めて考えるととてつもない地下施設なのだと思い至る。
極東最大の規模を誇る横浜基地。以前いなくなった武を探して走り回った際にも感じたことだが……こうしてのんびり歩いてみても、その広大さには呆れるばかりだ。
しかも、茜はまだ行ったことはないが、この遥か地下にも、基地施設は続いているのだ。セキュリティの問題もあり、当然行くことなど出来ないが……しかし、とても想像がつかない規模である。
「ん、」
そろそろ部屋に戻ろうかと思い直したとき、視界にエレベーターが入る。どうやらこちら側のPXや訓練施設に続いているらしい。
恐らくもなにも、この部屋たちと同様に全く同じ造りをしているのだろうPX。……だが、せっかくここまで来たのだからと最後に覗いてみようとひとり頷く。
上昇するエレベーターの中で、ふと気づく。そういえば、PXは夜間も開放されていたはず。待機任務中の兵士が休息に使っているかもしれない……。
「うゎ、まず……」
もし見つかれば――茜が今着ているのは正規軍でも使用している訓練用の軍装である。ぱっと見ならばれないかも知れないが、部隊章を見られるとまずい。今更にまりもの恐ろしい形相が脳裏に浮かぶ。
思い出すのは、三年前の夜間訓練。アレは晴子と多恵が大いに悪いが、乗せられた茜も茜である。……まして、今回は完全に彼女の単独行動だ。
これで連帯責任など取らされようものなら…………ゾッとする。
A分隊だけで済むならともかく……もしB分隊まで一緒に責任を取らされるようなことになれば――ッッ!?
眼鏡を白く光らせた千鶴、静かに不敵に笑う慧、見たこともない刀を抜き放とうとする冥夜。……想像するに恐ろしい。今日の戦闘振りを見ればその恐怖も増すというものだ。
……美琴と壬姫に脅威を感じないのは何故だろうか……。これも、普段のキャラクターのなせる業か……。
ともあれ、大して意味のない思考とは関係なく、エレベーターが停止する。どうせ、見つかる時は見つかるのだと開き直り、茜はその先にあるだろうPXを目指した。
カウンターだけ明かりのついた、矢張り薄暗いそこ。入口からでは暗闇にしか見えない箇所もあったが、左程不気味と感じることもない。
ひっそりとしているが、PXはPXだ。休憩するために訪れるこの場所で、一々に恐々としていたのでは本末転倒である。
昼間とはまた違う雰囲気でリラックスできそうな、暖色系の灯かりに照らされたカウンターへ向かう。これで洋酒でも並んでいたならば、小洒落たバーにも見えただろう。
――ぁ。
茜は足を止める。ヒトの気配がした。テーブルと椅子が並ぶ、仄暗いその場所に。誰か……居る。
あ、と。
それは驚きの音を発して。――どくん。
心臓が、一つ大きく弾んだ。
「た……け、る…………?」
口にして、どくんどくんと心臓が壊れるくらいに高鳴って……。そして、確信した。
椅子にもたれるように眠る少年。背中しか見えないのに、髪型しかわからないのに――わかる。
全身がまるで金縛りにあったように硬直する。ぎしりと足が膠着して、なのに心臓だけが怖いくらいに鳴り続けている。
ああ、ああッ!
武がいる。武がいる! そこに、すぐそこに武がいるッッ!
たったの一週間だ。
まだそれしか経っていない。……なのに、こんなにも、胸が高鳴る。
「……ぁ、……はっ、」
ごくりと喉が鳴った。頭が茹るように熱い。……きっと、鏡を見れば真っ赤になった自分がいる。脈動する心臓が、全身に熱い血流を送る。
一歩を、踏み出した。
並ぶテーブルの間を抜け、ゆっくりと、一歩一歩慎重に近づいていく。暗さに慣れた目が、次第にハッキリする輪郭を映し出す。
小さな寝息が聞こえてきた。ただそれだけで、飛び上がりたいくらいに嬉しくなる。
(武……っ)
顔が見たい。逸るような気持ちで、残りの歩を進める。
隣りに立って、
冷静になろうと大きく深呼吸、
ドキドキとなる心臓を押さえつけるように胸をなで、
ちらり、と。
「――――――――ッ、」
まずい。これは、いけない。危険だ。
茜の脳内でけたたましく警報が鳴り響く。落ち着け、落ち着け、いいからとにかく落ち着け!
何度も繰り返し脳内で叫び、無理矢理に鼓動を落ち着ける。スーハーと深呼吸を数度。……再度、ごくりと喉を鳴らす。
今度は身を屈めて、すぐ近くから覗き込むように。
穏やかな寝顔だった。
一体どうしてこんな時間にこんな場所で眠っているのか。そんな疑問は微塵も浮かばず……。ただ、茜は狂おしいくらいの愛しさを覚えた。
先ほどまでのような狂喜はなりを潜め、静かに眠る武をそっと見守るように。
音を立てないよう注意しながら、茜は武の隣りの椅子を引いた。……いつもの位置。武の左隣のその場所。毎日、そうやって彼の隣りに座っていた。
「……武……」
柔らかく、小さな声。名を呼ばれても眠ったままの彼に、茜は目を細めた。
テーブルの上に置かれた湯呑みに気づく。どうやら休憩中に眠ってしまったらしい。……消灯時刻を過ぎていて、誰も彼を起こさなかったのだろうか。埒もなく想像しながら、それでも、彼にこうして出逢えたことを喜ばしく感じてしまう。
突然に眠気が失せてくれなければ、こうして彼に再会することはなかったのだ。ならば、よくやった自分、と褒めたたえてあげよう。
ギ、と。僅かに音を立てて、茜は自身の椅子を武へと近づけた。
隣りから、寄り添うような位置に。武の肩が触れるくらい、側に。
「…………」
ひどく穏やかで幸せな気持ちだった。寝息に合わせて上下する胸板に抱きついてしまいたい。……思わず浮かんだ恥ずかしい考えに、茜は頬を染める。
どれだけの時間をそうしていただろうか。……数分のようであり、数時間のようでもあった。
ぼぅ、っとするような温かな感情に満たされて、茜もウトウトとし始める。
――と。小さく、可愛らしい寝息が聞こえて――まるでもたれるように、武の顔が茜の肩に乗る。
「!!」
どきりと。再び茜は全身を硬直させた。まるで……これではまるで恋人同士が互いの体温を確かめ合うようではないか! そんな桃色の思考に一瞬捕らわれ、危うく自己を見失いかける。
顔を真っ赤にしたまま、窺うように。今度はものすごく近い位置に在る彼の顔を見た。
「ぁ、」
小さく。本当に小さく。武は笑みを浮かべていた。――夢を見ているんだ。
それはきっと、幸せな夢。
武の頭を抱くように、茜は自身も更に身を寄せて、眼を閉じる。
おやすみなさい。ほんの僅かに囁いて。
どうか――――――その夢の中に、自分が居ますようにと。
「…………ん、ぅ」
目を開く。柔らかで薄い朝日が、硝子の向こうから差し込んでいる。
自身の部屋は地下四階にあるはず。なのに一体どうして太陽の光が見えるのか……。ぼんやりとした思考のまま、武は首を回し……自身がPXで椅子に座ったまま眠ってしまったのだということに気づく。
「………………阿呆か、俺は……」
がっくりを項垂れる。壁に掛けられた時計を見れば計ったように起床ラッパの五分前。おのれ、全然眠った気がしない。
固まった背骨をばきばきと鳴らし、思い切りに背伸びする。――ふと、左肩に誰かの体温の残り香を感じた気がした。
「……ぇ?」
背伸びしたままにその場所を見るが……誰もいない。一口分しか減っていない湯呑みに、不自然に寄せられた椅子。ただそれだけしかそこには残っていない。
なのに、武は確かに誰かが居たような感覚を感じていた。それは多分、数分前までそこにいたはずで――――。
「……ゆめ、か?」
ぽかんと呟く。短過ぎる睡眠時間と、座ったまま眠っていたことが相乗して頭の働きを悪くしているらしい。
だが、もしそれが夢なのだとしても…………ならばきっと、幸せな夢だったに違いない。
そう。
夢を見た。……ような気がする。
温かで穏やかで、まるで夢のような夢。そこで武は、確かに幸せだった。
ならばよい。
照れくさい心地よさだけが残っている。武は勢いよく立ち上がって、もう一度だけ大きい伸びをして、そして、
「ぃよっしゃ! 今日も気合入れていくぜっっ!!」
「はいはい頑張りなっ! ほら、さっさと顔洗う!!」
――既に朝食の準備に取り掛かっていたおばちゃんに怒鳴られるのだった。