『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十章-03」
まるで血の海のようだった。
蒸発した鉄の匂い。焼け焦げた樹脂の匂い。どろりと融解したような軟弱な断面は未だに白煙を放ち、てらてらと流れ落ちるよう。
頭部から落着したことが幸いしたのだろうか。砕け割れたメインカメラの破片が粉々に散り、叩きつけられた衝撃に歪曲した機体。主機が爆発炎上しなかったことこそが奇跡といってもいい。
天地が逆転し、或いは斜めに転がる管制ユニットだった部位。喪われたのは頭部、両腕、腰から下。最早それは戦術機とは言わない。砕けへしゃげ熔けて焦げた、……今すぐにでも爆発しそうな鉄の箱。――棺桶。
そう呼ぶに、相応しい。
心臓が動いていることは、わかっていた。
精神も肉体も限りなくフラットに落ちている状態で、ただ、弱々しく脈打つ鼓動。否、意識も覚醒しようとしている。生きているのだ、この状況で。
ならば、レーザーの一斉射をアレだけに受けながら管制ユニットが無事だったことも、高度八十メートル近い上空から墜落して爆発しなかったことも……全部、彼が生きようと足掻いているからこそ与えられた、奇蹟。
「……うっ、」
だが、ここで志乃は己の選択と行動が誤りだったと気づく。
もう駄目だと眼を覆った。乱数回避による無茶苦茶な回避運動の最中に見た、次々に腕を脚をもがれながらに墜ちたコールナンバー12。蒼の不知火。もう駄目だと思ったのに。
心臓が動いていると知った。縋るように確認したバイタルデータは、確かに生存を訴えていた。――だから、
だから志乃は、選択し、行動した。死なせるものかと。助けて見せると。尊敬し、敬愛し、憧れて、目標としている水月のために。彼女をあんなにも傷つけて哀しませた莫迦野郎に一発食らわせてやるために。
だから、生きているなら、死なせないと。
その判断は人間として正しく、軍人として間違っていた。
光線級の一斉射は断続的に続いている。重光線級がいなかったことがとてつもなく救いに思えたが、状況が逼迫していることは変わらない。墜落した不知火の残骸までの距離は遠い。どれだけ頑張っても、あんなにも出鱈目に繰り出されるレーザーを全て回避し、あまつさえその中を変わらぬ速度と物量で駆け抜けるBETA共を掻い潜り、辿りつける訳がなかった。
――そう。単機では。
戦術機をまるで玩具のように粉砕したレーザー照射によって、隊は左右に分断されていた。元々が右翼、左翼に陣形を分けて進撃していたことが、余計にも作用した結果だ。左方に流れるように移動した彼を追いながらの出来事だったことも、理由としては大きいだろう。
つまり、志乃が現在いる位置に最も近い仲間は、同じように左翼に展開していた木野下、美冴、藍子、亜季の四名。……誰よりも即座に駆けつけて救出したいだろう水月は、遥かに遠く離れたポイントに追いやられていた。
志乃がそれを確認したのは、既に救出に向かうための機動をとった後だった。というより、単機で行動を起こした志乃をフォローするように追随してくれた味方の存在に気づいて、慌ててデータリンクで確認したというほうが正しい。
散発的に続く光線級の白い閃光を度々にかわしながら、先陣を切る志乃はとにかくもスロットルをふかし、突撃砲の引き金を引いた。
射線軸を開けるために左右に割れていた戦車級に要撃級が、じわじわと再び壁を構築し、まるで狙ったように彼の機体へと突き進んでいる。ともすれば恐慌に陥りそうになる感情を無理矢理捩じ伏せて、背後の四機の支援に心底感謝しながら、……ようやく、志乃はたどり着いたのである。
「…………本当に、生きてるのか……?」
レーザー照射を受け、四肢をバラバラにされ、頭部から墜落して……僅かに一分足らず。たったそれだけの、ここにたどり着くまでの時間は、悪夢のように長く感じられた。だが、すぐそこまで、というより本当に手を伸ばせば届きそうな距離にまでBETAが迫っている状況で、志乃は一々に時間を確認する余裕などなかったし、志乃の到着と同時に陣形を敷き、手当たり次第に敵を蹴散らしてくれている木野下たちを思えば、彼女はなによりも迅速に行動しなければならなかったのだ。
だが、ここで志乃は己の選択と行動が誤りだったと気づく。
膝をつくように停止した志乃の不知火。鉄の棺桶と化した白銀機の前に跪くようにして、自機のハッチを開く。遠目からでも、その機体の各部が歪んでいたことから、ひょっとすると管制ユニットのハッチの開閉に支障があるかもしれないという危惧は正にそのとおりで……しかし、腰部に受けたレーザーの余波だろうか、熔けたユニットの側面には穴が開いていて、そこからなら人ひとりくらい出入りできそうだったのだ。
高温を放つ金属に歯噛みしながら、衛士強化装備の耐熱限界はどれほどだっただろうとしょうもない思考を巡らせる。滑り込んだ白銀機の管制ユニット内は……殆どの電子機器が死んでいて、薄暗い。むっとするような鉄の匂い。温度。融解した機体が放つそれとは異なる、生暖かでぬめるような臭気。
血の、匂い。
白銀武はそこにいた。
確かにいた。
……ベイルアウトを図ろうとしていたのかもしれない。強化外骨格装備で行動する際に使用するハーネスが、所々の固定金具を引き千切らせながらも、武の身体をシートに繋ぎとめていた。
緊急脱出の際に自動的に着用されるそれが、武の命を救っていた。……もし、あの墜落の中、通常に使用する固定ベルトだけだったならば……武の身体はシートから投げ出され、ユニット内を撥ね回り骨を砕かれて死んでいたかもしれない。
が、楽観は一切出来ない。力なくハーネスに体を預けているだけの武は……顔面から左腕から血を流し、シートにはべったりとした血痕が見られる。ユニット側面を抉り飛ばしたレーザーに撒き散らされた金属片。叩きつけられた衝撃に欠損した部品。……或いはそれら以外の何かによって、武は重傷を負っている。
狭いユニット内で、しかし志乃は並々ならぬ焦燥に駆られながら、武の容態を診る。顔面――左眼から左頬にかけてざっくりと引き裂けている。頬の傷口から口内が覗ける、ということはなかったので、どうやらこれは浅いと思われる。瞳にまで裂傷が及んでいるかどうかはわからない。確かに出血はひどいが……毛細血管が多い顔面に傷を負った場合は、往々にして派手に出血する。無論放っておいていいものでもないが、生憎に手持ちの救急セットでは血を拭い方形の絆創膏を貼るくらいしか出来ない。瞳、或いは瞼の裂傷はどうしようもない。包帯を巻いている暇はないのだ。即座に左腕の裂傷を確認する。――引き千切れたような金属片が、上腕に深々と突き刺さっている。所々ささくれ立ったようなそれが、ずぶりと肉に埋まってしまっていたために、引き抜くことさえ出来ない。最早応急処置で対応可能な範疇を超越している。放置するしかない。
「…………ッ、」
これで、五分。状態を確認し気休めにもならない手当てに五分。――くそっ!
オープンにしている通信機からは耐えることのない悲鳴にも似た絶叫が四つ。志乃が武を救出するその時間を作り出すために奮闘してくれている木野下の美冴の藍子の亜季の、咆哮が、悪態が、雑言が、叫びが、悲鳴が、――くそ、くそっ、くそくそくそくそくそクソォ!!
志乃は、己の選択と行動が、誤りだったと――。
「くっそぉおおお!!!」
武を救うと決めた。武を助けると行動した。それに付き合ってくれた上官に、同僚に、仲間に……感謝してもし切れない。だが、志乃は誤った。間違えた。選択を、行動を。
軍人としての判断を、行動を。
一つは、撃墜され敵の直中に置かれ重傷を負った武を「救おうと」したこと。
一つは、突撃前衛であり近接戦闘に秀でた自身が、この、圧倒数のBETAに接敵されている状況で武の救出に向かったこと。
その判断も誤りならば、それに従ってとった行動もさらに誤り。
だが、今更にそれに気づいたところで、こうして志乃は武の身体を背負うように抱え上げ、いつ爆発するかわからない鉄の棺桶から這い出そうとしているのだ。――やるしかない。やるしかなかった。
一秒でも一瞬でも早く、ここから抜け出して自機に戻らなければならない。負傷した武を簡易式のハーネスに固定して、戦線を離れなければならない。全員で。
そう。全員で。今も尚溢れるように、高波のように迫るBETAと戦ってくれている彼女達も含めて全員で。
武も死なせないし、自分も死なないし、彼女達も誰独り欠けることなく。――じゃないと、駄目だ。そうじゃないと、志乃の取った行動の責任を果たせない。
付き合わせたのは志乃だ。志乃にそうさせたのは武だ。……だが、こと彼女達の生還に関して志乃は、武を責めるつもりはない。武がとった行動は罰せられるべきだし、思い切りに殴りつけて、水月の前に叩き出して、更正してやるという怒りが在る。……だが、そのことと志乃が武を救出するために行動したことは直結しない。そのために彼女たち四人が協力してくれていることは、全て志乃の行動に起因するからだ。
軍人として冷静的確な判断を下せば、あの状況、武ひとりを救うために行動を起こすことは愚行以外のなにものでもない。その愚行さえなければ彼女達は、極めて得意というわけではない近接戦闘を余儀なくされることはなかっただろう。
棺桶のようなこの場所にいる志乃には、現在の戦況というものは全くわからない。わかるのは、届くのは、ただひたすらに叫び続け吠え続け己を鼓舞するように奮い立つ彼女達の魂の咆哮のみ。
だから、絶対に生きて帰る。
みんなで、全員で、生きて帰る!
「……ぅ、あ、…………ッ、ガ、」
「?!」
頭の後ろで、小さな声。足を止めている暇はないというのに、ほんの一瞬だけ、志乃は停止してしまった。――意識が戻った、のか?
そっと窺うように首を捻ると、顔の左半分を血に染めた武の、どろりとした右眼と視線がぶつかる。熱に浮かされるように、まるで判然としない表情。痛いのか苦しいのか寒いのか恐ろしいのか。まるで何の感情も判別できない、神経が鈍磨したような表情。
墜落のショックに、痛覚が麻痺しているのかもしれない。傷のことを思えば失神したままであってくれたほうが都合がよかった。痛みに暴れられては、救出・脱出に手間が掛かる。ゆえに志乃は、再び前を向いて棺桶から抜け出しながらに早口で状況を説明する。
「白銀、お前は今左眼と左の頬、左腕上部に裂傷を負っている。顔面は恐らく軽症……瞳に裂傷が及んでいるかもしれない。さわんなよ? ……左腕はどうしようもない。手術して鉄片を引き抜かなきゃ駄目だ。多分指一本も動かないだろうけど、これも動かすな。悪いな、血止めも包帯もやってやる暇がない。自分で出来るってんなら、それが一番なんだが……」
「ぁ……? ぉ、れ、」
喋るなよ。志乃はずるずると武を引き摺って、融解した穴から抜け出す。自機の不知火の手が差し出されるように拡げられている。そこに右足を掛け、武を座らせる。遠隔操作で機体の右腕を操り、開放されているハッチまで移動しようとしたそのときに――――志乃は、再び過ちを犯した。
呆然とぼんやりと鈍磨した表情のまま現状を飲み込めていない武。相変わらず出血は続いていて、実は血が足りなくて相当に危険な状態なのかもしれない。医者ではない志乃には判断がつかなかったが、しかし、そのときに志乃が思考していたことはそんなことではなく。
刀が、ない。
漆に塗られた黒の拵。鮮烈な黄色に巻かれた、武が大切にしているもの。師の遺品。師に託されたもの。
そんな暇はないとわかっていたのに。そんな余裕などないとわかっていたのに。――そのはずだったのに。
あまりにも、彼女は……哀れにも思えるくらいに、軍人としては失格だった。
多分、きっと、心のどこかで。……武の意識が戻ったことに安堵した。死んでいるのではと怯んでしまった己を、眼を覚ましてくれた武は安心させてくれた。
自分の行動が無駄で愚かなそれではなかったのだと、恥知らずにも思考してしまい、――在り得ないことだが――気を緩めてしまった。
すぐそこにBETAが居て。すぐそこで仲間が死闘を繰り広げていて。
それを知っていてそれを理解していて、だから一秒でも一瞬でも早くここから逃げ出さないといけないはずだったのに。
「待ってろ、すぐに――」
言い終わるよりも早く、志乃は再び棺桶の中へと戻る。薄暗いその中でも、血濡れのシートに固定された日本刀の、その黄色がよく目立った。探すのに一秒も掛かっていない。下緒で括られていたそれを二秒で解き、武の元に戻る。――時間にして、僅か五秒。
微塵の焦りもなく躊躇もなく。彼女は自身でも驚くほど迅速に行動を終え、武の右腕に刀を渡す。不知火を遠隔操作して、武を管制ユニット内に押し込ん、――――――で、
『ィィィいっぃあああアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??』
――――え?
振動。衝撃。身体が宙に浮くように。
視界が斜めに流れていく。跪く不知火が横に流れていく。ゆっくりと。緩慢に。視界の上下が入れ替わって、落――――――――――――、
===
『亜季ィいい!!』 『岡野ォオッ!!』
全身が凍りつくようだった。
よくわからない。状況が、何が起こったのか。今、自分がどうしてここにいるのか。
『いやぁあああ!! 熱い、熱い熱い熱いアツイアツイアツイよぉおおおおおっっ!!!! ぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁ!!!!!!』
発狂しそうな絶叫が、耳を劈く。女のヒトの声だ。知っている声だ。
でも、それが一体誰の声なのかとか、何が起きたのかとか、どうして視界が傾いているのかとか、じくじくと顔の左半分が痛いとか、壁に押し付けられた左腕が千切れたように痛いとか。
そんなものの一切が、凍り付いて考えられなくて理解できない。
「かみ、かわ…………しょう、ぃ……………………?」
ここは戦術機の管制ユニットだ。自分は撃墜されて負傷して助けられたのだ。視界が斜めなのは機体が少し傾いているからで。機体が傾いているのはつい一瞬前に物凄い衝撃を受けたからだ。だからだから、だからだからだから――?
目の前に誰も居ないのはなんでだ?
ついさっきまでそこに立っていたはずの彼女が居ないのはどうしてだ?
助けてくれて運んでくれて弧月を渡してくれたあの人が居ないのは何故だ?
いない。
いないいない。どこにもいない。――だから、なんでだよ?
ここは戦術機の管制ユニットで、自分は撃墜されて負傷して助けられて、視界が斜めなのは機体が少し傾いているからで、傾いたのはつい一瞬前に物凄い衝撃を受けたからだ。――だから、だから!?
だったら……なんで、どうして、何故、居ない、のか。
そこに立っていたはずだ。自分を管制ユニットに押し込むようにして。ハッチの上に立っていたんだ。そうさそうだそうだろう!?
「上川、少尉……??」
一体何処に? 隠れている? 莫迦な。こんな狭い管制ユニットの中に、一体どうやって隠れるっていうんだ? いや、そもそも、隠れる必要なんてないだろう。そんな行動に何の意味がある。ああくそ思考が纏まらない眼が痛い顔が痛い腕が痛い痛い痛い痛いッ! 視界が半分しかないからよく見えないんだそうだそうに違いない。右手で左眼の血をぬぐう。痛い痛い。畜生いてぇ眼が痛い開けられないざけんな開けろ確かめろッ! 両方の目でちゃんと探さなきゃ。ちゃんと両目で見つけなきゃ。
真っ赤に染まった左の視界。どろりと流れる血に滲んで全然見えない痛いくそう畜生ッ!! 居ない居ないッ、――何処にも居ないッッ!!
なんで機体が傾いているんだ!? どうしてあんな衝撃が起こったんだよっ!! あああこれじゃあまるで、くそうくそうくそうくそう信じられない信じたくないそんな莫迦なことがあるわけがない!!
落ちた墜ちたオチタおちた――あぁぁあぁぁあああぁぁあああああっっ!!??
「上川少尉ぃいい!!」
腕が痛いとか左眼が痛いとか、そんなものを完全に超越して、喉が焼けるような絶望が全身を覆う。――助けなければ、と思考する反面、一体どうやって助ければいいのかわからなくなる。状況がわからない。全然把握できない。
志乃の姿はない。呼んでも叫んでも返事がない。落ちた。落ちた。落ちた落ちた落ちた――ッ!
「俺のせい、だ……ッ」
呼吸が出来ない。思考が回らない。脳がパニックを起こしている。気づいたそのときにはもう何もかもが起こった後で、ああくそ、一体この現実を理解するのに何秒を費やすつもりなんだこの莫迦はッ!
武は絶望に脅かされながら、縋るようにコクピットのシートに座った。落ちたというなら、助けなければ。負傷した左腕は動きそうもない。その痛みが、武の精神を苛んで行く。
最早状況は明白だった。何が起こっているのかなんて、わかり易いくらいにわかっていた。
単独で突出し過ぎた自分。BETAのある意味で定石の戦術に嵌められた自分。光線級のレーザー照射に機体をバラバラにされ墜落した自分。砕けた機体の破片に腕を顔を負傷した自分。意識をなくして、けれど恥知らずに生きていた自分。
それを志乃は助けてくれたのだ。
光線級が居るその戦場で。超至近距離に居たはずの戦車級や要撃級の群れの中で。危険を顧みず、彼女は武を救ってくれたのだ。
――なのに、彼女は、
気づいたそのときにはもう、視界に居なかった。どうしてそんなことになったのか。彼女が居なくなるその瞬間に、機体を襲った衝撃。そして、絶叫。ヒメイ。
ああそうだ。それだってわかってる。
糞のようなBETA共に包囲された状況で、どうすれば戦術機を降りて負傷兵の救出など出来るというのか。志乃はひとりじゃなかった。仲間が居た。同じA-01の、彼女達がいたに決まってる。
聞こえている。わかっている。ただ、目の前で起きた事象に精神を呑まれていて聞こえなくなっただけだ。――今もまだ、泣き叫ぶように引き攣れるように、悲鳴が。
『ぁああああ足が! わたしの足ぃイイアァァアッ!? なぃよぉ! 熱いぁあああ! 足がない! 足がない! 足が足が足がぁぁああ!!!』
熱いと。
狂ったように。何度も。
そう。BETAは戦車級に要撃級だけじゃない。連中に包囲されているのなら光線級は当面の間、手を出さないだろう。……でも。
そうだ。確かに居た。少なくとも三体はいた。十本の多脚を持つそれが。ニードルのような鋭い先端の脚を持つそれが。
まるで変幻自在の鞭のように。尾節から伸びる全長50メートルもある触手。先端にかぎ爪状の衝角を持つそれ。衝角には何かに激突した際に分泌される強酸性溶解液がたっぷりと含まれていて――――ッ。
――着座調整の終了。操縦者が志乃から武へと変更される。ヴァルキリー7。その機体。映し出される網膜投影ディスプレイ。データリンクは正常。
サブカメラが、その光景を映し出す。志乃機の背面にもたれかかるような蒼い機体。不知火。肩には06のナンバー。岡野亜季。彼女の機体――その、下半分が、ない。
「ぅォおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!!」
絶叫する。吐き気がする。角度的にその管制ユニットがどのような状況になっているのかは全くに窺えなかったが、しかし、先ほどから止むことのない彼女の絶叫が鳴き声が悲痛なまでの叫びがその惨状を厭というほどに知らしめるッ!!
アアア駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だッ! こんなのはっ、駄目だ!!
志乃を探せ。志乃を探せ。志乃を探せ志乃を探せ探せ探せ探せ探せ――!
落ちた彼女を探せ。すぐ下に居るはずだッ! 衝撃は機体の背面から前面に掛けてのものだった。下半身を失って吹き飛ばされた亜季の不知火がこの機体にぶつかってのものだった。なら、志乃の身体は、ハッチに立っていた彼女の身体は、きっと、ふらりと後ろに倒れるような衝撃に――
「ッッ!!!!」
なんだ、あの白いのは。
なんだ、あの黒いのは。
なんだ、あの赤いのは。
なんだ、なんだ、なんだなんだなんだなんだ何なんだよぉおおおお!!??
「かっ、み、…………か、わ、」
――少尉、が。
白い塊。ぶよぶよとした塊。二匹、三匹。……塊を、“匹”と数えるのはおかしいんじゃないのか?
黒い棒。先端が更に細く小さく分かれていて……それは五本ある。びくびくと揺れて、…………動かなくなっ……、
びしゃっ、と。赤色が散った。さっきの黒い棒も放り投げられるみたいに。転がって、点々と赤色が地面に。白色がもごもごと蠢いている。そいつはなんだか腕みたいなものがあって、二本あって、下半身がぶよぶよで。
歯が。
並んでいた。
――ああそうだ。アレを初めて見たときは、そう。夢に出そうなくらい強烈な感情に見舞われたんだ。吐き気が、する。胸がむかつく。何だお前なにやってんだ? ぎっちり並んだ歯が、上下に蠢いている。まるで人間が食べ物を咀嚼するように。
気のせいだ。気のせいに決まってる。あんな小さなヤツ。見間違いだ。なんで、くそ、なん、で、――赤色の水溜り。ぐちゃぐちゃの黒色の姿。よく知ってる。よく見慣れている。あれは強化装備だ。衛士の身体を熱から冷気から衝撃から刃から護ってくれる優れものだ。
こみ上げるものを堪えられなかった。零れ落ちる涙を止められなかった。血涙。左眼からそれをダラダラ流して、沸騰するような脳ミソが、武をただ絶叫するだけの壊れた機械に貶めていた。
亜季の悲鳴は止まらない。目の前で起きた惨状を覆せない。左眼を負傷して左腕を負傷して。片腕だけでも機体は動く。だったら、だから、さっさと――立てよ、このっ、ぁあああああああっ!!
「あああああああああああああああああああ!!」
ヴァルキリー7が、武の乗った志乃の機体が立ち上がる。反動に、亜季の不知火がずるりと滑るように倒れて。通信機越しに中尉や少尉たちの声が顔が見える聞こえる。まるで気のせいみたいに、亜季の声がぱたりと止んだ。
視界が、脳が、ただ叫んで痛んで汚物を撒き散らし涙を垂れ流し血濡れのままに、不知火の右腕に長刀を装備させる。――やれる、やる、殺してやるッ!
こんなはずじゃなかったのに。
こんなことあっていいはずないのに。
BETAが憎かった。BETAが憎かった。BETAを殺して殺して、純夏の仇を取りたかった。あいつを殺したBETAを。あいつの命を奪ったBETAを。全部全部殺して、ぶっ殺してやるはずだったのに!
そのために戦った。一生懸命戦った。我を忘れて、自分を仲間を見失って。ああそうだ。莫迦だった。間違えた。たったひとりであいつらに敵うはずがないって、散々に教え込まれていたのに!
どうしてこんなことになった? ――俺の、せいだ。
どうしてこんなことになった!? ――全部全部、俺のせいだろうがっ!!
赦せない。赦せない。自分が、BETAが、ここで起きた全部が! 赦せない赦せない赦せない!
狂いそうだ。狂ってしまう。狂いたい。――いっそ、見捨ててくれていれば――っ!!
「ぅぅぅぉおおああああああっ!!」
莫迦野郎。それでも、志乃は助けてくれた。彼女は助けてくれた。自分の危険も顧みず、こんな莫迦みたいに暴走した自分を助けてくれたのだ。そこに一体どんな感情が思いがあったのかなんてわからない。でも、それでも彼女は命を救ってくれた。
莫迦野郎。それでも、亜季は助けてくれた。彼女は助けてくれた。自分の危険も顧みず、こんな莫迦みたいに暴走した自分を助けるために行動してくれた、志乃のために。
眼前には三体の要撃級。十数体の戦車級。ゴミのような兵士級。――触手を振り回し、藍子の不知火を執拗に追いまわす要塞級。
散乱するBETA共の屍骸。融解して転がった不知火の下半身。血溜まりに転がる志乃だったもの。泣き叫んでいた亜季の声が聞こえない。血濡れの左眼で見たバイタルは、哀しいくらいに平坦だった。
これが夢なら、覚めてくれ――――。縋るような祈り。自嘲するように歪んだ笑み。
ああ、こんな悪夢――これが現実。
もう、駄目だった。戻らない。
これが――武の罪だ。
===
藍子は必死になって震える腕を押さえ込んだ。ガチガチと歯の根が震えている。死んだ。死んだ。志乃が亜季が死んでしまった。
執拗に追ってきた要塞級。巨大過ぎるその圧倒的存在に翻弄され、壮絶に蠢く十本の赤い脚に踏まれないように、懸命に関節部を狙い撃つ。当たらない、硬い装甲に弾かれる。
それは隣りで戦っていた亜季も同じだった。強襲掃討の彼女も制圧支援の自分も、そもそも長刀を装備していない。両手に構える120mm砲を我武者羅に狙い、滅茶苦茶に撃つ。命中、だが、大したダメージには至らない。
ぐ、と。喉が唸る音を聞いた。要塞級は止まらない。ぞろぞろと流れるように、槍みたいな脚が迫ってくる。後方では武を助け出すために、志乃が頑張っている。その時間を稼ぐのだ。自分が、亜季が、志乃の直援のために要撃級・戦車級を相手にしている木野下が美冴が。
だから止める。この要塞級を止める。ただでさえ混戦にもつれ込んでいる木野下たち先任に、これ以上の負担を強いるわけにはいかない。何よりも何よりも、友人で同期の仲間で、気が強くて格闘が強くて一緒になって水月をからかって――そんな風に、ずっと過ごしていた志乃がいるのだ。
武を死なせられないと言っていた。水月のために彼を死なせないと約束した。ああ、そうだ。だから今、こうして自分は、志乃は、戦っている。
この状況を作ったのは武であり、志乃だ。――だが、藍子は自らの意思でここに居る。自らの意思で、判断で、志乃を護るのだと決めていた。
亜季だってそうだ。副隊長の木野下も、先任の美冴も、それぞれに自分の意思で決めてここにいるはずだ。――誰が悪いとか、何のせいだとか――そんなのは、生きて帰ってから怒ったり怒られたり、反省したりすればいい。全ては、生きていなければ意味がない。
過ちも、責任も、全て。
生きて帰って、命があって――怪我をしても、傷ついても、絶望しても、悔し涙を流しても、それでも、生きていさえすれば、また頑張れる。
武を死なせない。武を助け出そうとする志乃を死なせない。彼女を護ると決めた自分だって死なないし、同じように戦っている亜季も木野下も美冴も、誰だって死なない。みんなで生きて揃って帰る。
右翼に展開しているみちるたちだって、じりじりとだがこちらへ向かってきてくれている。さっきから光線級の攻撃がないのは、水月や真紀が蹴散らしてくれたからだ。三体居た要塞級も、二体がそちらに流れている。――だから、
あとちょっと。もう少し。それだけを乗り切れば――――――ガヅン、という、酷い音を聞いた。
思わず、眼で追ってしまった。
そんな光景、見たくなかったのに…………ッッ!
しなるように、豪速で繰り出された触手。一体いつの間に。全然、全く、これっぽっちも気づかない内に。だから回避なんて出来なかったに違いない。或いは節を狙うことに意識が行き過ぎて、低空をおぞましくも迫るそれの存在を忘れていたのか。
管制ユニットと腰部の丁度中間辺り。抉るように炸裂した先端のかぎ爪。炸裂するように散った液体を見た。まるで冗談みたいに、亜季の機体の上と下が分かれて――衝撃に吹っ飛んで。
『ィィィいっぃあああアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??』
耳を塞ぎたくなるような絶叫だった。ディスプレイ下部に映る亜季の表情は、一度も見たことのないくらいに、凄まじい形相だった。
眼を見開いて、涙が滲んで零れて、蒼白になった顔面に、胸を掻き毟るように――。
足がないと。熱いと。何度も何度も、本当に狂ったように。そして同時に、もう一つの絶叫。全身が痺れた。嘘だ、と。そう叫びたかった。
『上川少尉ぃいい!!』
少年の声。痛烈に叫ぶその声。ああ、助けられたのだ。生きていたのだ。そんな安堵はどこにもない。ちっとも湧いてこない。白銀武は叫んだのだ。志乃の名を。そして、呟くように――俺のせいだ、と。
仲間を喪うことには慣れた、と。
心のどこかでそう、勘違いしていた。或いは、思い込んでいただけなのか。――既に亡くした五人の仲間。帝国軍の訓練校に入隊し、出逢い、苦しみも喜びも、全部全部一緒に分け合ってきた彼女達。
全然、慣れてなんかなかった。全然、平気なんかじゃなかった。
07のコールナンバーを持つ不知火が立ち上がった。志乃のバイタルはフラット。……ああ、死んでしまった。
武が操縦しているのだろう。立ち上がった衝撃に、亜季の機体がずり落ちるように倒れる。そのせいなのかどうかは……わからない。でも、丁度そのときに、亜季のバイタルもまた、フラットに……。
藍子は必死になって震える腕を押さえ込んだ。ガチガチと歯の根が震えている。
眼前の要塞級。うねるような触手は健在。踏んだだけで戦術機など串刺しにできる十本の脚もまるで無傷。何処から湧いてきたのか……戦車級の影が増してきて。
吶喊するような武の咆哮が聞こえる。07の表示で映し出される彼の顔面は血に濡れて恐ろしかった。木野下の声が聞こえる。珍しく感情を剥き出しにした美冴の表情が見える。
――ああ、そんなに傷だらけで、何も出来るわけないでしょう?
怖かった。大事な友人が、いつもふざけあっていたトモダチが。戦友が、仲間が。死んでしまって。二人とも、凄くいい子だったのに。……あんなに無残な死に方をしていいような、そんな子ではなかったのに。
『ぅぅぅおおおおおおおおおお!!!』
『止まれ白銀ェ!!』 『――上川の死を無駄にするなッ、莫迦野郎ッッ!!』
震えている暇なんてない。
怖気づいている暇なんてない。
涙なんて、流している暇はない。
今は――生きる時だ。
無様でも滑稽でも、悔しくて哀しくて憤っても。――生きて生きて、生き延びることこそが先決ッ。
志乃が救った武を死なせない。亜季が護った武を死なせない。彼女達の死を、無駄にしない。彼女達が命を懸けて助けた彼を、絶対に絶対に何があろうとも死なせはしない。
血まみれの青年がやってくる。道中、戦車級を、要撃級を斬り刻みながら。旋風のように回転して、螺旋の機動を描き来る。
でも、それは、どこかおかしくて無理矢理で滅茶苦茶で。まるで出鱈目。訓練で見せたような、今日の戦闘で見せたような、強烈で正確無比で惨忍で凄惨で……そんな機動は、どこにもなかった。
禍々しい殺気だけが迸る。血だらけのまま、呼吸だってろくに出来ていないまま。そんな状態で戦術機を操縦できるわけがない。あんな動き続ける機動に耐えられるわけがない。
表情を蒼白にして、ぶるぶると血を失った寒気に震えて。それでも、武は止まろうとはしなかった。喚いて、叫んで、泣いて泣いて咆哮していた。
美冴の不知火が、吹き飛ばすように武の機体にぶち当たる。怪我人相手に容赦がない。だが、そうでもしないと武は止まらなかったに違いない。呼びかけに一切応じず、ただ感情のままに暴走するだけ。
(……もう少し、大人に成りなさい……白銀少尉)
負傷した傷が痛むのだろう。悶絶するように息をひりつかせる彼の機体を、美冴が無理矢理抱え込んで跳躍ユニットを噴かす。
『篠山ァ! 来いっ、撤退するッッ!!』
後退する美冴を尻目に、木野下が猛烈な勢いでやって来る。三度襲い来る触手をどうにか避けることに成功して、了解と心の中で呟いた瞬間に――――――――一体いままでどこにいたのか。
一つ目の巨体が、のっそりと、水平線の向こう、巨大な地表構造物のそこに。
「あ、」
『――っ』
心臓が縮み上がるのがわかった。ぴかっ、と眩しいものを見た気がした。わかったのは、それだけだった。
(志乃……亜、季……)
涙が、一筋。目元のほくろを濡らすように、流れて、
「なん、だ、とぉおお!!??」
爆裂する大気に驚愕する。重傷の癖に暴れまくった莫迦が乗る不知火を丸ごと抱えての匍匐飛行では、大した速度が出せない。一刻も早く戦場から離脱して、或いは右翼に散った隊長たちに合流しなければならないのに。
志乃と亜季を喪って、それでも二人が命がけで護ったこの莫迦だけは死なせるわけには行かない。もしこいつが死ねば、二人の死が無駄になる無意味になる。だからそんなことは絶対に赦せなかった。
故に美冴は逃げる。目一杯に表情を歪ませて、貧血に息を絶え絶えにする武を抱えたまま。
――なのに、
レーザー照射警報。更新されたデータリンクには重光線級を示す光点があり、それはいきなり横坑の門から顔を出して、各地で一斉に、盛大に、その巨大な照射膜から――放たれたレーザーが、自機から数十メートルも離れていないその場所を、焼く。
不知火を一機抱えたままに、乱数回避を取ろうとする機体が悲鳴をあげる。アラートが鳴り響く。武機を掴んでいたマニピュレーターが損壊し、肘関節に過負荷が発生する。たちまちにイエローに染まる機体情報。クソッタレという悪態は、果たして無意識の内に。
振り向いている暇はない。どうやら重光線級の数はそう多くないようだった。連携してレーザー照射を行う素振りもなく……たちどころに、空をALM弾頭が往く。木野下の支援砲撃要請を無視したくせに、こういうことには惜しまないのか。――中国め!
或いは韓国か、はたまた大東亜連合軍か――。
考えても詮無いことだ。そして無意味すぎる。自分達は国連軍。『G弾』を使用した米国の息が強く掛かっている国連軍。美冴自身、そしてA-01部隊を指揮する夕呼は米国を痛烈に嫌悪しているが……そんな事情を、彼らが知るはずもない。
瞬間に思考を切り替えて……気づく。追随してきているはずの二機の反応が、ない。
「…………っ、あ、?」
02、08。灼熱の閃光が奔り抜ける直前までは確かにあったはずの、その、マーカーが。
ぞォッ、と。美冴は血液が逆流する感覚を覚えた。なんてことだ。こんなことで、こんな場所で、こんな戦場で、こんな戦闘で。
間引き作戦。その総数を減らすことで一時的にBETAの侵攻を止める……時間稼ぎのこの作戦。
「中尉ッ……篠山ッ………………くそぉっっ!!」
吐き捨てるように。拳をコンソールに叩き付ける。――クソッタレ!
その美冴の小さな嗚咽が聞こえたのだろうか。或いは、彼もまた自機の戦域情報で確認したのか……だとしたら、重傷を負った身で、大したものだ。――ああ、大したヤツだよ、この大莫迦野郎。
『ぅ、あっ……、ああ、あっ、』
みっともなく震えるなよ。後悔しているのか? 怖いのか? 莫迦め。この大莫迦め。
「泣くな白銀ッ、震えるな、怯えるな! 目を開けろッ! その目で見ろッッ!! お前独りの暴走が招いたこの現実を受け入れろォ!! お前を死なせない、絶対に死なせないぞッ! お前は生きて、生きて、生きてっっ――!!」
こんなにも感情が昂ぶったのはいつ以来だろう。初陣で同期の仲間をいっぺんに喪った時以来だろうか。
枯れた桜の木の下で。
優しい水月の計らいで、たった独り、遺された悲しみに泣いた。あの時。
狂おしいほどに。哀しかった――今も、同じように。
『ぅ、あっ、ッッ!! うぁああああああああああああああ!!!!』
血だらけで傷だらけで、それでも生きている。
ならば、生きて生きて、生きて生きて生きて生きて生きて、あの四人の分まで生き抜いて、――示せ。お前にはそれだけの価値が在るのだと。木野下が志乃が亜季が藍子が、その命を差し出してまで救ったお前に、その価値が在るのだとッ!!
「生きろっ、白銀ぇえええ!!!!」
作戦名『伏龍』。戦闘開始より三時間二十九分。目標BETA撃破数達成を確認。現時刻を以って本作戦は第三段階に移行する。各部隊は所定のポイントへ帰還せよ。
作戦は成功――諸君らの尽力に感謝する――。