『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十章-04」
「最悪ね…………やってくれるわ」
「……………………」
バサリと、打ち捨てるように投げられた報告書。『伏龍作戦』におけるA-01部隊の戦闘報告、並びに戦死した四名の衛士の死亡報告書……。手にとって、数枚をめくっただけで、ろくに内容を確認しないまま……香月夕呼は内心の不機嫌を少しも隠すことなく、晒している。
眉間に刻まれた皺は深く、眦は鋭い。引き結ばれた唇は忌々しげな舌打ちの後に噤み……腕を組み足を組み、椅子の背もたれに体重を預けるようにして……やってくれる――と、再度、同じことを呟いた。
「………………それで? 暴走して副隊長含め四人も殺したあの莫迦は、今どうしてるわけ?」
「……帰還途上に意識を失ったため、現在は医療施設にて療養中です。腕の負傷ですが……神経系の損傷が著しく、擬似生体へ移植することが医師より勧められていますので、意識が戻り次第左腕の処置について本人の意向を確認します。顔面の裂傷は浅く、網膜には及んでいないそうです。皮膚の縫合を済ませ、一ヶ月もすれば視力も元に戻るだろうとのことです」
夕呼が知らないはずはない事実を、しかしみちるは無感情に報告する。……案外、色々と頭に来すぎていて、秘書官のピアティフに任せきりなのかもしれない。確かに夕呼の立場を思えば、手駒の一人が負傷したところでそれに構っている暇などないし、構う必要もないのだろう。
彼女がイラついている原因は、……使えると思っていた駒が存外に使えず、そのせいで他の手駒をも喪ってしまったことだろう。
部下のことをチェスか将棋の……BETAとの戦争という盤上に乗せられた駒としか見ていないかのような夕呼の仕草には、少しだけ憤慨に近い思いがわく。……無論、彼女が本当に自分達を戦場の駒としてしか見ていないならば……みちるは厳罰を覚悟の上で、夕呼に躍り掛かっていることだろう。
「……原隊復帰はいつ頃?」
「は、擬似生体を移植した場合……リハビリを含め早ければ三週間ほど……眼の治療とあわせても、およそ一ヵ月後には復帰させることができます」
十中八九、擬似生体を移植することになるだろう。その場合は、リハビリの最中や、或いは退院後に、戦術機適性検査を行う必要が在る。神経結合を必要とする擬似生体の移植には、日常生活には支障なくとも、戦術機の操縦に支障が出るケースが見られるのだ。……A-01でいえば、CPの涼宮遙がいい例だ。彼女は訓練中の事故で両脚を失い、擬似生体を移植した。リハビリも終え訓練にも支障なく臨み、しかし、彼女は適性検査で撥ねられた過去を持つ。
元々に高い指揮官適性が見られたために、彼女は自身の進む道を戦域管制に見出し、今では部隊にとって欠かせない優秀なCP将校として成長しているが……。
「…………そ、わかったわ。ご苦労様」
そっけなく言い放ち、視線を机上のモニタに移す夕呼。激しい憤怒を湛えた様子の彼女は……しかし、その激情を振るうこともなく、静かに押し黙っていた。
みちるは顎を引き、一度だけ夕呼を見詰める。『伏龍作戦』。BETAの間引き作戦。……作戦は成功した。しかし、それは彼女達にしてみればあまりにも苦い“成功”だった。
副隊長の木野下をはじめ、志乃、亜季、藍子――実に四名の戦死者。
別に、戦場で衛士が……或いは、如何なる兵科であろうとも、軍人が死ぬことは珍しくない。彼らはある意味で死ぬことこそが職業であり、その覚悟のないまま戦争に臨む者はいない。戦術機を駆り、BETAと相対する衛士。戦場において最も損耗の激しいとされるその者たちは……今このときも、世界中で戦い、そして……散っていく。
彼女達が特別なわけじゃない。彼女達だけが亡くなったわけじゃない。
今回の作戦に参加したその殆どの部隊で、数え切れないほどの衛士が散った。大隊が全滅したという部隊もあると聞く。小隊がまるごと失われた、なんて話は日常茶飯事だ。……ならば、一個中隊で作戦に参加し、失った人員が小隊規模という自分達は恵まれているのかもしれない。
――反吐が出る。
自己の思考に、吐き気がする。
ヒトの生き死にに、差異はない。誰だって死ぬ。誰だって絶対に死ぬ。いつか必ず、確実に。そして――矢張り、喪えば哀しいのだ。
作戦に参加し、戦死した英霊の家族たちには、大東亜連合軍から感謝状が贈られるらしい。……あまりにも莫迦げているが、しかし、遺された者にとってそれは、一体どんな意味を持つのだろうか。
自分の家族を、兄弟を、恋人を……戦場に送り出し、いつか帰ってくることを願いながらも、それが叶わないと知っている彼らは……一体どれ程の悲しみに打ち震え、一体どれ程の理不尽に涙するのだろうか。
……それは、結局のところその本人にしかわからない。ひとりひとり、感じる悲しみも感情も想いも異なるだろうし、或いは納得し、誇らしくも思うかもしれない。
自分はどちらだろう。――決まっている。
彼女達は、立派だった。軍人としての役割や、人としての優しさや……そんな要素に関係なく、彼女達は、その死に際に――自分が出来る最善を精一杯に発揮して、散って絶えたのだ。
その死に様を、忘れない。
その死に様を、胸に刻む。
彼女達の生き様を、忘れない。
彼女達の生き様を、胸に刻む。
……そう。そして、それを胸を張り誇らしげに語ってやることこそ……彼女達にとって最大のはなむけとなる。それが、衛士の流儀だ。
「……失礼します」
呟くように。みちるは踵を返す。スライドする扉を抜け、廊下に一歩を踏み出したそのとき……唐突に、夕呼が口を開いた。
「――は?」
うまく聴き取ることができず、……いや、聞こえていたのにその内容を理解できなかったみちるは、立ち止まり、振り返り、今一度尋ねた。
煩わしそうに視線を眇める夕呼が、思い切りに面倒くさそうに口を開く。――曰く、
「退院なんて待つ必要はないわ。意識が戻り次第、あの莫迦をここに連れてきなさい」
ぐ、とみちるは喉を鳴らした。……厭な、予感がしたのだ。
夕呼はこの作戦で彼の実戦データを得、何らかの研究を進める算段だった。……だが、彼の機体、管制ユニットは戦闘により紛失。出現した重光線級により消滅したという報告も在る。手に入るはずのデータはなく、そして……軍人としてあるまじき暴走行為によって四人の先任を死に追いやり……そんな彼を、夕呼が呼ぶ。
彼女の真意を、みちるは推し量ることさえ出来ない。恐らくは、AL4にも絡んでいるだろう彼の、様々なデータ。そのための研究……或いは、新たな指針を思いついたのだろうか。
ともかくも、みちるに拒否権はなく、同様に彼も拒否することは出来ない。夕呼直属の特殊任務部隊。その役割は、彼女の計画をなんとしてでも成功させるために、常に最大の成果を上げることである。
しかし…………少しだけ、性急過ぎはしないだろうか。みちるは、勿論夕呼の命令に異論を唱えるつもりはないし、そんな権利はない。……だが、今回のことは色々と……自分にとっても、隊の部下達にとっても、何より、白銀武にとって、非常に重い意味を持つ。
初めての戦場で先任四名を死なせた武。そこにいたるまでの、そうなってしまうまでの……彼女達当人の思いというものもあるだろう。彼女達亡き今となっては、それは遺された者が想像するほかないのだが……けれど、そんなことに関係なく、間違いなく武は己を責めるはずだ。
軍人なら、衛士なら……誰だって一度は経験する。――仲間の死。
自分の力が及ばずに目の前で、自分を護るために目の前で、自分が見捨てたために目の前で、自分がミスしたせいで目の前で…………様々な、死。例え目の前でなくとも、例え自身の手の及ばない場所であっても、仲間の死というものは、少なくない影響を残す。
ヒトの生き死にに差異がないとは言うけれど……それでも、喪うことは辛い。理屈ではなく、感情がただ、痛むのだ。
作戦終了から既に一日が経過している。部下達はそれぞれ、自分の中での彼女達の死を整理し、納得し、前を向き始めている。誰もが親しい仲間を喪った経験を持ち、誰もが、その度に強く成長している。喪われた仲間を嘆くのではなく、彼女達の生き様を語り継ぐことこそが手向けになるのだと知って居る彼女達は……きっと、立ち直ってくれるだろう。
だが――武は?
彼の暴走は決して許せるものではない。復讐という感情を推奨はしないが、否定するつもりもない。それは、この世界に生きる者たちにとって……ある意味で当然の感情だからだ。
だが、その感情に振り回され、暴走し、単独行動を取り……あまつさえ、窮地に陥り、仲間を死地に晒したその罪。過ちを犯した事実。――武は、きっと自分を赦さない。
赦す赦さないの問題ではないのだと、みちるは思う。罪の所在を問うこともまた、この戦争の時代においては不毛だ。
新任で、初めての戦場で、己のミスで先任を仲間を死なせた武。……未だ目を覚まさないが、もし、意識が戻った彼が己を責めるような素振りを見せたならば――容赦しない。
だから、みちるは少しだけ時間が欲しかった。……或いは水月、そして彼を生還させた美冴もまた、そう感じているだろう。
殴るのでもいい。諭すのでもいい。だから、その時間を。目を覚ました武が、喪われた彼女達に、或いは生き残った自分達に、どんな感情を精神を在り方を見せるのか。……隊長として、見極めなければならない。そして、腐った性根を見せるようならば容赦なく、叩き直す。
あの四人の死を無駄にはしない。
絶対に無駄になんかさせない。
そうなってしまうまでの過程や、事実や、感情になど関係なく。ただ、彼女達が果たしたことを、その意味を、武には絶対に刻み付けさせなければならないのだ。
「……香月博士、白銀の件ですが…………どうか、暫く時間をいただけませんか。……彼も私の部下の一人です。隊員の管理は隊長の義務……万全とはいかなくとも、時間をいただくことで、白銀を、」
「――あぁもう、わかったわよ好きにしなさい!」
「……っ、」
せめてそのための時間を求めて口を開いたみちるに、夕呼は机の上の書類を投げ散らしながらに叫ぶ。僅かに上擦ったその声は、表情は……一度たりとも見たことのないくらいに、歪んで、いた。
息を呑む。驚愕に目を見開く。そのみちるの様子に気づいたのだろう……夕呼は顰めるように顔を背けて、溜息をつく。
「――――……済まないわね、伊隅。……八つ当たりよ、気にしないで」
「…………は、っ」
驚かずにはいられない。そして、戸惑わずには。
夕呼が謝罪することも稀なら……八つ当たりなど、初めてのことだった。武のことだけでこれほどに憤っているとは思えない。……ひょっとすると、AL4自体に、何か彼女をイラつかせる要因があるのかもしれなかった。
だが、それはみちるが踏み入っていい領分ではなく……。兵士は、ただ与えられた役割を全うするだけでいい。
今度こそ執務室を後にしたみちるは、内心で酷く動揺しながらも、けれど、しっかりと前を向き――愚かしいほどに滑稽で哀れな部下を見舞うため、歩を進めた。
===
目を開ける――その動作に、息を殺すほどの苦痛を覚えた。
左眼に走った痛烈なそれ、びりびりと痺れるような、じりじりと焼けるような、そんな痛みに――強く眼を閉じる。それさえも、苦痛。
反射的に左眼を覆おうとするが、しかし左腕は全くに反応せず、ただ、動かそうとした感覚だけがあって……ひどく、気持ち悪かった。
落ち着いて、右目を開く。白い天井、白い電灯――見覚えのある、病室。……一体何度ここの世話になれば気が済むというのか。呆れるように息を吐き出した瞬間に――彼女の亡骸が脳裏を乱した。
「――っ、ガッッ!!??」
びくり、と心臓が跳ねた。呼吸が一瞬にしてひりついて、見開いた右眼に――天井ではなく、その、光景が――ぁああああああっ!
掛けられた布団を蹴り飛ばすように、身を起こし、ガチガチに固定された左腕に構うことなく、激痛を訴える顔面を無視して、ベッドから降り立つ。ふらり、と身体が流れた。あ、と思った瞬間には無様に床に転がっていて……打ち付けた左腕に絶叫したくなるような痛みが、
「武ッ!?」
「……ぁ、ぁ、ガッ、ぁ…………ッッ!」
強くカーテンを鳴らして、水月がやって来る。どうやら近くにまでやって来ていたらしい。そこに先ほどの叫び声を聞いて、まるで図ったようなタイミングで現れていた。
だが、武はやってきた彼女にまるで気づいた様子はなく、込み上げる激痛を、歯を噛んで食いしばり、ギリギリと右の拳を握り締めて……床に転がったまま、ただ右眼の見せる光景を何度も何度も、反芻しては猛っていた。
白い塊、黒い残骸、赤い水溜り――。
脳が灼熱する。感情が烈火のごとく揺らぐ。砕くほどに噛み締めた歯が、ギシリ、と音を鳴らす。――その様に、水月は……、
「武ッ! あんた、しっかりしなさいッッ!!」
「――ッ、!?」
倒れたまま立ち上がろうとしない武の襟首を掴み、負傷した彼を、しかし水月は躊躇なく引き摺り起こす。胸倉を掴みあげるように、包帯だらけの武を睨み据えた水月に、ようやくにして彼は彼女の存在に気づいた。
「み――」
驚いて、その名を呼ぼうとする。……だが、至近距離から向けられる視線のあまりの鋭さに、武は声をなくした。ゾッ、と全身の温度が下がる。突き刺さるような、射抜かれるようなその瞳に、呑み込まれてしまう。
愕然と表情を歪ませた武を、水月はベッドに放るように手を放した。ぼすん、と音を立てて、武はベッドに座るように落下する。
互いに無言。一方は厳しい表情のまま口を結び、一方は怯むように右眼を彷徨わせて。……やがて、嘆息しながらに、水月が口を開いた。
「…………武、私がわかる?」
「え…………」
その言葉の意味が、わからなかった。恐ろしいくらい真っ直ぐに向けられる視線。厳しい表情、そして口調。まるで目の前の武が敵かなにかと言わんばかりに。……それほどに、水月の表情は凄まじい気配を放っていた。
その彼女が、問う。――私がわかるか、と。
わかるに、決まっている。……水月だ。速瀬水月。武が憧れて、尊敬して、目標として……自身を救ってくれた恩人として、想う……大切な女性。
A-01部隊においては所属する小隊の小隊長を務め、…………真紀や■乃とともに戦う、大切な仲間だ。
――ア、レ?
ザッ、と。ノイズが混じる。なんだろう。武はつい今しがたの思考に混ざったノイズに引っ掛かりを覚えた。――志■。ザリザリザリ――……。
「……ぁ、」
また、右眼に何かが映る。見上げていた水月が消えて、白いきのこみたいなぶよぶよした化け物が、なんだかもぐもぐとギッチリ並んだ歯を蠢かせている。そいつの足元にはよく知った黒い女性用の強化装備がその下の肉が転がって赤色でもぐもぐむしゃむしゃぼたぼたびちゃびちゃ。
吐き気が、した。なにかが、込み上げた。寒い。怖い。震えが、――熱いぁあああ! 足がない! 足がない! 足が足が足がぁぁああ!!!――発狂、シソウ……。
誰かが叫んでいる。鼓膜が破れそうなくらいすぐ近くで。がたがた震えて、みっともなく震えて、目の前で繰り返される記憶に映像に叫び声に絶叫して、喚いている。
――ヤメテヤメテヤメテクレもうたくさんですお願いですからヤメテ下さいごめんなさいごめんなさいもう赦してヤメテ食べないであぁあ足がない溶けてなくなってそんなのって落ちた喰われた畜生くそうやめてくれ逃げて俺のために俺のせいでうわぁあぁああ厭だ駄目だこんなの全部ユメで現実だそんな酷い誰がべーたが俺が俺の――せい、でっっっ!!
「……こっ、の! 大莫迦ァア!!」
「!!」
右頬に、焼けるような衝撃と痛み。吹き飛ぶようにベッドの上を滑って、壁に叩きつけられる。ぐっ、と呻きが漏れた瞬間に、先ほどまで脳髄を焼いていた絶叫が収まっていることを知る。――ああ、アレは己の叫びだったのか。
呆然と項垂れるような武に、今の一撃の衝撃に口内を切り血を滲ませる彼に、水月は躊躇うことなく距離を詰めた。ベッドの上で壁にもたれるような武の胸倉を再びに掴んで……水月はもう一発、今度は縫い終わったばかりの左頬を、殴りつける。
「――ッッッ!!!!!!」
包帯の上から、手加減など一切ない拳の衝撃。びりぃ、という鈍い引き裂けるような音がしたが、そんなものに構っていられないくらいの痛みが熱が――涙が滲みそうなくらいに、――掴まれたままの身体を、更に壁に押し付けられる。後頭部が薄いクリーム色の壁に打ち付けられた。ギリギリと絞るように襟元が締められる。
水月の表情は、憤怒に染まっていた。向けられる瞳は完全なる怒気を孕み。……食らった二発の拳には……………………抉られるくらいの、哀しみが満ちていた。
「武……私がわかる……? ちゃんと今の状況が、わかる?」
「…………」
睨んだまま、胸倉を掴んだまま、水月は問う。自分は誰だ、と。お前は誰だ、と。今の状況――即ち、お前が死なせた志乃の亜季の、彼女達がわかるか、と。
――その罪の重さがわかるか、と――そう……。
「――ッ、ぅ、」
表情を歪める。包帯の下で、頬の傷が裂けて血が流れ出す。いっそ、このまま左眼も抉って欲しかった。右腕が震える。全身が震える。――怖、かった。
水月が、ではない。死にそうになったことが、ではない。
ただ――目の前で喪われた彼女達の死が、――感情を歪ませるくらいに、怖かった。
でも、それは紛れもない事実で過去で現実で。志乃は、亜季は、藍子は、木野下は――皆、武のせいで、死んだのだ。
ぶるりと震えるような感情に、武の右眼がぶれる。水月はそれを見逃さない。ほんの僅かな反応だって見逃さない。水月は……誰よりも武に怒っているのだから。
「……木野下中尉は、上川は、岡野は、篠山は…………死んだわ。皆あんたを助けるために戦って、戦死した。その意味、あんたわかってるの?」
「……お、れ……ッ、こん、な……こんな、つもりじゃ……っ!」
しっかりと言い聞かせるような水月の言葉に、武は殊更に反応した。まるで恐れていた事実を突きつけられて嘆くように、哀れにも思えるくらい、身体を震わせて。
「……俺の、せいでっ……!! でも! 俺は、そんなつもりなかったんだ……ッ! 間違いだったって、気づいてるッ――でもッッ! それでも俺はッ、あいつらを、BETAを、赦せない!! 純夏を殺したあいつらがっ! 純夏を踏み潰したあいつらがっ! 純夏を食い殺したあいつらがっっ!! …………赦せなかっ……た、のに、……こんな、ことって…………ッ」
真っ黒に濁った瞳が、水月の蒼い瞳に映る。ぼろぼろと涙を零す歪みきったその瞳を、己の罪を吐き出すような震えたその声を…………けれど水月は、一切、受け止めてはやらなかった。
「――ッぐぅうう!!」
腹にめり込んだ水月の右拳。切れた口内から血が滴って、濡れた包帯からその赤色が散った。白いシーツを点々と汚す赤色にも、苦悶を浮かべる武にも、水月は全然構うことはない。左手で今一度胸倉を掴み上げ……腹から引き抜いた拳を、一杯に奮わせて……ッ。
「この、莫迦ッッッッ!!」
殴るその瞬間に、左腕を放す。ほんの一瞬だけの浮遊感に似た感覚――瞬間に、左頬を抉るようなストレート。壁にぶっ飛ばされて、ボダボダと引き裂けた頬から血が滴る。ぐらりと脳が揺れて、武はずるずると壁にもたれるように身を沈める。
辛うじて……本当に辛うじて右眼だけを水月に向けて、自身を殴りに殴った彼女の、その――――泣いているような顔を、見る。
「…………ッ、ぅ、あ?」
泣いて、いた。
ような……ではなく。本当に、水月は涙を浮かべていた。厳しい表情のまま、険しい視線のまま、両拳を握り締めて、口からは熱い呼吸を繰り返して……。
憤怒の形相のまま、彼女は。確かに泣いていた。
ギュウウ、と。心臓が締め付けられるように、痛む。啼く。――震えた。
「水月……さ、ん」
呼びかける声は弱々しく。紡がれた声は情けないくらいに。
どうして、泣くのか。
どうして、貴女が泣くのか。
――決まってる。大切な仲間が戦死したんだ。四人も。先任が、部下が、自分の手の届かない場所で亡くなったのだ。……哀しいに、決まっている。
でも、違う。違う気がする。水月が見せるあの涙は、……どうしてか、武に向けられてのものだと、わかった。
理屈はなく、ただ、彼女を知る自身の直感が……そう訴えてくる。
「なっ、なにやってるんですかっっ――!?」
その声は、唐突に。顔面を血に染めた武を見下ろす水月を押しのけるようにして、軍装の上に白いエプロンをつけた衛生兵が駆け寄ってくる。包帯全部に赤色が滲んだ彼を見て、衛生兵の女性は表情を険しくした。
「――中尉っ、貴女は一体何を……っ」
「武――――――。あんたは生きてる。上川が、岡野が……篠山が、そして木野下中尉が、命を懸けてあんたの命を救った。……あんたは生きてる。生きてるのよ」
――だったら、どんなに悲しくて辛くても……生きて生きて、精一杯生きて……、そして、鑑に逢いに逝きなさい
どぐり、と。疼くように、記憶が蘇る。
いつだったか……そう、だ。それは、あの日、水月に救われたあの日……純夏を喪った翌日の。
彼女の胸の中で聞いた……彼女が掛けてくれた、言葉。
光景が、フラッシュバックする。哀しみが、思い出される。あの時に噴き出した憎しみが、あの時に吐き出された哀しみが。嗚咽、涙、…………抱いてくれた水月の体温。
同じ、だ。同じだった。水月の声は、水月の拳は、水月の言葉は……全部、全部、あの時と同じ。道を踏み外そうとする武を叱り、……道を踏み外した武を、叱ってくれる、水月は。
「……白銀少尉、さあこちらへ。傷の手当をしましょう……」
「…………」
衛生兵に手を引かれるままに、呆然と武は水月の横を通り過ぎる。引き裂けた傷をそのままに、ただ、水月だけを見詰めながら……。
水月もまた、無言だった。すぐ横を通り過ぎる武をチラリとも見ず、ただ、真っ直ぐになにかを睨みつけているかのよう。
渦巻く感情があった。逆巻く感情があった。憤りも、悲しみも、痛みも、悔しさも、歯痒さも。――武がこうなることは、わかっていた。病室からいなくなった彼を想い、深く息を吐き出す。
「武……あんたを、このまま終わらせはしない……」
幼馴染の恋人を喪って、ずっと、ずっと……それだけを引き摺ってきた武。一度は立ち直ったかのように見えたのに、それはきっと、水月や茜を安心させるために被った仮面かなにかで。だから……武は全然立ち直ってなんかいなかったし、忘れられてもいなかった。純夏を喪った哀しみを。彼女を奪われた怒りを。BETAへの憎しみを。ずっとずっと、心の奥底に溜め込んでいた。
それが、爆発して。…………その武の感情は、理解できる。想像に想像を重ねるほかないが、しかし、それでもそうやって理解することは、できる。
あまりにも、怖いくらいの一途さに、どうしてだろうか。水月はちくりと胸が痛むのを感じた。……同時に、その結果喪われた部下を思う。
武はミスを犯した。憎悪に、殺意に、復讐に自己を周りを見失い、戦場にあって独り、暴走した。それは軍人としてあるまじき行為であり、ニンゲンとして脆すぎる選択だった。
自身が負った傷。そして、あまりにも痛烈に過ぎる彼女達の死は、間違いなく武を苛むだろう。彼女達にはそれぞれに決意があり、信念があり、それら譲れない何がしかに従っての行動の結果の――死、だということを、きっと武は気づかない。己のミスが彼女達に死を招いたのだと思い込み、絶望し、後悔に身を焦がすだろう。
或いは、自身にもっと力があれば……なんて、傲慢に過ぎる悔恨を吐いてしまうかもしれない。――そうは、させるか。
水月は誰もいない病室で、ただ耐えるように拳を握る。シーツに染みた赤い斑点が、沈黙を以って水月を奮い立たせる。
武は自分の部下だ。大切な、弟のように愛しい存在だ。死なせないと誓ったし、支えるとも誓った。ほかでもない、自身に。傷ついて泣き崩れて狂いそうになって……それでも、一度は、例え嘘に塗り固められた仮面の下であったのだとしても――前に進んだ彼を。今度こそ、本当に。
これが戦争だということ。これが衛士に課せられた役割なのだということ。そして――どんな形であれ、生き残ったものが果たすべき義務を。
泣いている暇などない。後悔している暇などない。恐怖に竦んでいる暇なんてない。
自身の行動が誤りだと悟ったのなら、やるべきことは一つしかない。
……それでもまだ、気づけないというのなら、もう一発。今度はその眼を抉るほどに。
いくらでも殴って、叱りつけて、気づかせてやる。わからせてやる。――だから覚悟しなさい、武。
「あんたには、生き続ける義務が在る」
鑑純夏と、彼女達の分まで。喪われたその命の分まで……生きて、生きて、生き足掻いて見せる義務が在る。
命を救われたと感じるのなら。彼女達の死に涙するというのなら。
無様でもいい。格好悪くたって構わない。滅茶苦茶に我武者羅に、精一杯生きればいい。…………そしていつか、やってくる自身の最期に。
そのときに出来る、精一杯の――最期を。
眼を閉じて、顔を上げる。まるで溢れてしまいそうな何かを堪えるかのように。水月は、静かに一度だけ、彼の名を呟いた。
===
憎いくらいに、晴れ渡った蒼い空を……真紀はぼう、っと見上げていた。施設の屋上は夏の熱気を孕んだ風が、それでも地上に比べては幾許か涼しげに吹いている。浮かんでくる汗を丁度よく乾かすその風に髪を遊ばせながら、矢張り彼女は蒼天を見上げたままだ。
「…………あら驚いた。珍しいじゃない、貴女が屋上にいるなんて……」
きぃ、と開かれた扉から、慶子が現れる。呼びかけられた真紀は、顔は見上げたまま、視線だけをそちらに向けて苦笑する。
「いやぁ~、ほら。シノっち、さ。よく屋上にいたじゃん?」
「……そうね。あの方はよく屋上で空を見上げてましたわ」
ふふっ、と。何処かのお嬢様かと見間違いたくなる黒髪を、慶子は真紀と同じように風に遊ばせた。ただぼんやりと立ち尽くす真紀の横を通り過ぎて、慶子は手摺に手をかける。
抜けるような晴天。風に流れる白い雲。梅雨が明けるには少し早いというのに、憎いくらいの夏空だった。
「アタシは、大丈夫だよ……」
「あら、私別に貴女の心配なんてしていませんわよ」
呟いた真紀に、間髪いれずに答える慶子。背中を向けたまま放たれたその言葉に、真紀はくくっ、と喉を鳴らした。
どうやらこの似非お嬢様は、たいそう素直ではないらしい。…………そんなことは、今日までの四年間で十分すぎるくらい理解していたが。
「……なにが可笑しいんですのっ?! わ、私は別に…………ッ」
「あははははは! ケーコ顔真っ赤じゃん」
むっ、と眉を寄せて振り返る慶子は、確かに頬を染めていた。高らかに笑う真紀に、むぐぐと口元を唸らせている。――その仕草が、スゴイツボに嵌った。
「ぶっ…………あっはははははは! ひぃーっ、その顔ッ、あはっ、あはははっ、お、お腹が、くふっ、ひぃひはははっ!」
「…………なっ! なにを、貴女は笑ってるんですのッッ!! ひとの顔を見て笑い転げるなんて無礼でしょうッ!?」
やめてー。もうだめー。笑いながら、コンクリートの上をごろごろ転がる真紀。目元に涙が滲んで見えるのは多分気のせいではない。よじれそうな腹を抱えて、ばたばたと転がっている。
慶子は……自身が物凄く無駄なことをしているのだと悟った。もはや溜息しか出ない。――でも、これなら安心だ。
ふっ、と。漏れるような可笑しさがあった。
まるでいつも通りの莫迦をやってくれる真紀。ちゃんとそうできている彼女。入隊以前から志乃と同じ予備学校に通い、友人として過ごしてきた彼女を……ともすれば慰めるつもりでやってきてみれば。
(逆に……私が励まされましたわ……)
苦笑するほかない。自然に、口元が緩んだ。あはははっ。噴き出すように笑ってしまった。あんまりにも真紀が可笑しくて。あんまりにも彼女が見せる強さが心地よくて。
慶子は笑う。真紀は笑う。
喪われた彼女達の死に、泣いている暇なんてないのだ。帰還する船の中で皆、それぞれ存分に泣いた。慶子は知っている。それを目撃している。
自身がようやく涙が枯れるくらいに泣きつかれた後。気分を変えようと甲板に上がったそのときに。海に向かって、朝鮮半島へ向けて――叫んでいた、真紀を。知っている。
莫迦野郎と。何で先に逝くのかと。置いていくなんて酷い。畜生。畜生。畜生。畜生ッ。――繰り返される嘆きは、再び、慶子の眦を濡らしていた。
仲間を喪うのは初めてじゃない。初陣で、その後の任務で。……既に五人を喪っている。同じ年齢の、同期の彼女達。その数が、増えただけだ。
でも、そんな風には考えられなかった。
これっぽっちも、慣れた、なんて実感は湧かない。ただ、哀しい。哀しかった。涙が溢れた。喪うことが怖いと思った。こんな戦争、こんな世界。狂ってる狂ってる――でも、これが現実。
もしあの時、自分も彼女達の傍にいたならば。……そう考えてしまうのは傲慢なのか。ありもしないイフに縋り、自身を慰めようと妄想する。……莫迦め。そんなことをしてもなんにもならない。
上官の木野下を想う。友人で戦友の志乃を、亜季を、藍子を……想う。眼を閉じれば鮮明に彼女達と過ごした記憶が蘇る。入隊した時、自己紹介したとき、訓練に疲れたとき、食事の時、笑いあい、励ましあい、……任官して、実戦に出て……ああ、仲間を、喪って。
――お前は、生きているだろう。
かつて、同期を五人亡くしたときに、木野下が言ってくれた言葉だ。喪った彼女達を嘆くばかりだった自分に、小隊長でもあった彼女が笑いながら教えてくれた。
生き残ったものの義務。喪われた彼女達の記憶を、廃れさせないこと。記憶があれば、彼女達は生きていける。そのひとの中で、そのひとと共に。一緒に、在ることが出来る。……そして、そうやって誇らしげに彼女達のことを語ってやることこそが、これ以上ないはなむけとなるのだということ。
衛士の流儀。……慶子は、それをよく覚えている。
そして、目の前でようやく停止した真紀も。晴れやかな笑顔で、抜けるように高い青空を見上げて。その瞳に悲しみはない。その表情に嘆きはない。その心には――彼女達が、確かに存在している。
「なぁケーコ。シノっちもアキも、アイコもさぁ……み~んな、あいつらに逢えたのかなぁ……」
「当たり前でしょう? あんなに賑やかな人たちですもの。向こうが嫌がっても、無理矢理でも混ざって、引っ掻き回すに決まってますわ」
そして多分……その筆頭を行くのは、木野下なのだろう。想像して、笑った。真紀も笑う。嬉しそうに。――そっか、そりゃあ楽しそうだ。
「…………なんか、凄い気持ち悪いよ? てか、なんで真紀は寝てんの?」
「まあ、二人とも。そんなに大きく口を開けて……はしたないですよ。うふふっ」
開かれた扉から、旭と梼子がやって来る。笑い合う真紀と慶子に首を傾げて……けれど、その旭の表情がいい具合に、可笑しくて。
「「あはははははははっ!」」
やっぱり、二人は笑うのだった。
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二度目の縫合を受けた後、医師が勧めるとおりに擬似生体の移植をお願いした。……同意書にサインする時に……左腕を治療して、一体どうするつもりだと――――何を、迷うことがある。
「それと、顔の傷だが……こちらも、君が望むなら完全に消すことも出来る」
「いえ、これは…………このままで、いいです」
思いついたように言う男の医師に、反射的にそう答えていた。
何故? 脳裏に投げかけられる問い。即座に答えることが出来なかったが……確かな、感情が在る。――これは、俺の罪だ。
できれば左腕もそのままにしておいてほしかったのだが、こちらは神経がズタズタに傷ついているらしく、通常生活の用には使えないそうだ。まして衛士となれば、それは事実上の退役に等しい。
その選択を…………選ぶことは、できなかった。
自分が衛士だからとか、高い適性値を持っているからとか、軍人としての義務とか、ひととしての責任とか、BETAが憎いからとか、純夏の仇を取りたいからとか…………多分、そんなことではなく。
ここで逃げたら、終わりだと。
(逃げる……何処に、逃げるっていうんだ…………ッ)
逃げる場所なんてない。故郷は廃墟に沈み、迎え入れてくれる肉親もない。恋しい彼女は既に亡くし、その自分を支えてくれ、導いてくれた彼女達に甘えることなんて出来ない。
第一、何処に行ったって同じだ。どこまでも、絶対についてくる。
管制ユニットから落下した志乃、ディスプレイに映し出された真っ赤な水溜り、無表情に咀嚼する兵士級の面。
耳を焼くほどの亜季の叫び、泣き声、溶けた機体の下半身。
巨大な閃光に消えた藍子、木野下。
なにもかも、ついてくる。
その全てが、呪うようについてくる。例え武を受け入れてくれる場所が、人が、在ったのだとしても……それでも、絶対に振り切ることなんて出来ず、忘れることなんて出来ず、いつまでも、何処までも、彼女達の“死”は。
顔の傷を残すというのも、結局はそのためだろう。……自身の感情を、思考を、十分理解できないでいる。
一体自分は、哀しいのか、恐ろしいのか、悔しいのか、憎いのか、狂っているのか――わからない。
左腕に擬似生体を移植して。
顔の傷を残して。
それで――? それで、一体自分は、何をしようというのか。
傷が治ればまた、衛士として戦場に出る。戦術機適性検査を受ける必要は在るだろうが……例えそれに撥ねられたのだとしても、きっと、何らかの形で戦場に赴くことになるだろう。
そうなったとして、自分は……。そこで、何を?
ついてくる彼女達の死に捕らわれたまま、ついて廻る己の罪を、鏡を見るたびに思い出しながら。それで一体、本当に、何をしようというのだろうか。
――お前を死なせない、絶対に死なせないぞッ! お前は生きて、生きて、生きてっっ
――……あんたは生きてる。生きてるのよ
そうだ。自分は生きている。無様にも、醜態を晒して。己の愚行のせいで、遥かに自分よりも優れた先任を四人……殺した。
そんな自分が、傷を治し、傷を癒し、再び戦場に出て――どうするって?
また復讐に駆られて、また暴走して、また無様を醜態を晒して……そうして、仲間を殺すのか? 自分だけ生き残って? 助けてもらって、救ってもらって、迷惑をかけて、死なせて。
そんなことに何の意味が在る。そんなことにどれだけの意味が在る!?
自分は生きている。助けられて、命を救われて、こんなにも愚かしいほどに呼吸して心臓が脈動して――ッ! 生きているっ……自分だけが、生きている。
――貴方たちには未来がある。貴方たちには未来を勝ち取る権利がある
優しい教官の言葉が、ふっとよぎった。
果たして自分には、そんな権利があるというのか。こんな罪を犯した自分に……それでも生きている自分に、一体……どれだけの未来があるって?
水月に殴られた箇所が痛む。
呻いて、泣いてしまいそうなくらいに、痛む。――ああ、どうして。水月さん。
どうして、貴女が泣くんだ――。
拳を握り締め、武を思い切りに睨んで、熱い呼吸を繰り返していた彼女。
殴って、叱って、抱きしめて支えてくれた彼女。
つい先ほどの水月と、……二年前の、あの雪の日の水月が重なる。――どうして、こんなにも胸が熱い……ッッ!?
「白銀少尉……どうぞ」
「ぇ……」
同意書を持って去って行った医師と入れ替わるように、先ほどの衛生兵がやって来る。両手に持ったそれを、……見て、武は。
受け取った右腕が震えていた。速瀬中尉から少尉へ渡すよう言付かりました。そう言って少し微笑んだ彼女を、しかし彼は見ていない。
漆に塗られた、銀の意匠の施された豪奢な鞘。それを台無しにするくらい鮮烈な黄色のリボンが巻かれて――弧月。真那に託された、彼女の父の、遺品。想いの塊。魂の、遺志の、具現。
「ぅ、ぁ、」
鮮やかで目に映えた黄色が、薄汚い赤色でくすんでしまっている。自分が流した血。それに濡れて、それを吸って。純夏が、彼女が泣いていた。
血涙。或いは――弧月もまた、血を吸って。
責めたてる。
無言のまま、師が、真那が、純夏が。自身の無様を責めたてる。
――……胸を張れ、己を信じろ。限界などない
――だって、タケルちゃんのこと、信じてるもん!
「ぁ……ぁ、ああっ、うぁああああっっ!!!!」
涙が、止まらない。右眼から、閉じた左眼から。溢れる。零れる。
志乃の死に様がはりついて剥がれない。
亜季の泣き声がこびりついて剥がれない。
藍子の木野下の散った姿が、焼きついて消えてくれない。――でも。
生きてる。
生きてる。
生きてる。
生きて、いるんだ……っ!
――安心して! 白銀はあたしたちがちゃんと面倒見るからさっ!!
「!?」
どうして、だろう。
心臓が、温かい。――誰だ?
弧月を握る右腕に、熱い、力が篭る。
ああ――、涼宮。茜。お前が――。
一筋の涙が、頬を伝い、落ちる。
懐かしい。たった二ヶ月しか経っていないのに。それでも、これほどに懐かしい。
助けられた、救われた、命を懸けて。彼女達を死なせて。それでも自分は、生きている。
苦しい、哀しい、なんて罪深い、なんて愚かしい、なんて、なんて、無様で醜い……血濡れで呪われたこの命。
でも、生きているんだ。
そんな自分を想ってくれるひとが、居る。
そんな自分が想うひとたちが、居る。
死んで、たまるか。死なせて、たまるか。これ以上ッ――絶対に。
弧月が――真那が、純夏が、笑ってくれたような気がした。頬に残る熱い痛み。水月の笑顔が見えた気がした。
胸が熱い。心臓が温かい。
きっと今も、いつものように元気に笑って、一生懸命頑張って。賑やか過ぎるくらいに、笑いあって。――ああ、あいつらと共に。
だから。そう。
前に、進め。
這い蹲ってでもいい。どれだけの血と涙に濡れても、汚れても、腕をもがれ足をもがれ心臓を砕かれても。――進め。
自身にはたくさんの想いが詰まっている。この手にはたくさんの想いが託されている。
だから、だからどうか。
喪われた四人に、…………志乃に。頭を下げる。ごめんなさい。ありがとう。――生きることを、赦してください。
――ばーか。
不敵に笑うような、そんな幻視。涙は、乾いていた。目を開ける。弧月を握る。血に汚れた黄色いリボンを――。
その瞳に濁りはなく。
その表情に歪みはなく。
――だから、そう。それは。…………いつだったか、あれは二ヶ月前。あの時もそうだった。本当に唐突に、完全に不意打ちに。
銀色の髪。黒いドレス。いつだって変わらないその姿。小さな、少女。
社霞。
また……お前、か。
ぶるりと震える武の瞳に、苦い感情が――奔る。