『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十一章-01」
見舞いに来たのだと……まるで、怯えるような声音で……。少女は、霞は、呟いた。
その声に、仕草に。自分が彼女をキツク睨みすえていることに気づく。――何故。突然に湧いた苦い感情を、武は理解できないでいた。
別に、霞が彼に対して何かしたというわけではない。……単に、武が、彼女を…………彼女によって気づかされることになった自身の、まるで腐った泥のような黒い感情を、恐れているだけだ。
そのことで理解した、己のおぞましい感情。
BETAに対する復讐心に駆り立てられ、今回のような無様を晒した原因。震えるような、悪寒があった。
どうしてだろう。彼女に罪はない。彼女が悪いなんてことはあるわけがない。ただ、苦い。ニガクて吐き出したい感情が、口の中に転がっている。
……落ち着け。
噛み締めながらに、眼を閉じる。
弧月を握った右手がアツイ。……大丈夫。大丈夫。大丈夫だ。水月が気づかせてくれた。まりもの言葉が前へ進めと言ってくれた。真那が、自分を信じろと。純夏が、自分を信じていると。
そして、茜が――彼女が、支えてくれると。
だから、大丈夫だ。まだ辛いけど、まだ哀しいけど、でも、きっと。前に進める。
生きている自分を、死んでいった彼女達を、これ以上……無様にはさせない。
ああ……大丈夫だ。武は、霞を見たことで再びに思い出した黒い感情を押さえ込む。けれど、その感情を抑圧しようというわけではない。――この感情も、己だ。
鑑純夏を想い、彼女を愛し、捕らわれるが故の……憎悪。それは多分、どうやっても拭えない。心の奥の更に奥。武という青年の深層心理を形成するにあたり、十五歳の時に経験したその哀しみは強烈に染み付いてしまっている。
だから、それはある意味で武自身を表す心であり……彼の半身、と。そう言っても過言ではないものだった。
武は深く息を吐く。目を開けて、怯えたように病室の入口に佇む少女を見た。
「……ごめんな。折角お見舞いに来てくれたのに。怖がらせちまって……」
酷い声だと思った。……何が大丈夫、だ。この腹の底から込み上げてくるような黒い呪わしい感情を、お前はこれからも抱えて生きてくのか? 死なせてしまった彼女達の死を引き摺って、それでもお前は生きていけるつもりか?
――うるさい黙れ。もう、決めたんだ。
己の中の悪性を理解した。己の中の醜悪な本性を目の当たりにした。それが撒き散らす災厄を。愚かしいくらいの無様さを。
己の中の温かい想いを理解した。己の中の大切な想いを目の当たりにした。それが与えてくれる安らぎを。涙が出るくらいの優しさを。
その二つを抱えて、生きていく。
だから、きっと大丈夫。辛いだけじゃないとわかったから。苦しいだけじゃないとわかったから。だから、進もう。前へ。
支えてくれた彼女のために。救ってくれた彼女のために。導いてくれた彼女のために。
それでも、愛している彼女のために。
「……そんな所に突っ立ってないで、さ」
「………………はい」
出来るだけ柔らかく微笑みながら。左の頬が引き攣れるように痛んだが、それは我慢する。小さな歩幅で近づいてくる霞。ベッドの脇まで来て、銀色の瞳がすぐそこで武を見ていた。
「…………」
無言。
その表情は少しだけ哀しそうで、その睫は少しだけ震えていた。……まだ、武を怖がっているのかもしれない。武は、少しおどけるように唇を歪めて見せた。
……思えば、霞との記憶はろくなものがない。夕呼に呼び出しを受けたあの時。実験、或いは研究と称した何らかの企みに、彼女も関わっていた。
当時交わした会話を思い出しながら……そうだ、と思い出す。
お互いろくに知らないもの同士。だからだろう。武はその当時誰にも話さなかったようなことを、霞に語って聞かせたのだった。
そして気づかされた、自身の暗黒。――そのことは、もういいんだ。
緩く頭を振り、武も霞の瞳を覗きこむ。作り物染みた相貌。硝子のような無機質な瞳。……だが、矢張り彼女は人間だ。年相応の少女だ。
些か表情に乏しいが、けれど。……ちゃんと、感情は在る。
「けが……痛みますか?」
「えっ…………ああ、いや。……そうだな。すげぇ痛い。痛いけど……でも、生きてるから」
――助けられたから。
笑うことは、できているだろうか。ちゃんと、笑って言えただろうか。
チキ……と。弧月が鳴った。うん、大丈夫。ちゃんと、生きていけるから。だから笑えている。どんなに格好悪い不器用な笑みでも――ちゃんと。
「白銀さんは……生きてます。ちゃんと、生きています」
「――ッ!」
そうか。そうか。…………。
「ありがとう、社……。その一言だけで、十分だ」
薄っすらと、涙が浮かんできた。情けない。格好悪い。この、泣き虫野郎……。ああ、でも。どうしてだろうか。どうしてこんなにも、この涙は温かい。
それ以上の言葉はなく。それ以上の会話はなく。
銀色の少女は、傷ついて尚立ち上がろうとする青年とのひと時を。静かでどこか温かで……そんな時間を、過ごした。
===
昼食、である。
見慣れたいつものメンバーしか居ないPX。他の部隊員や基地職員は例の如く彼女達とはその時間がずれているために、広大なその空間に対して、一層彼女達の存在感は際立っている。
その数、僅かに八。
だが、テーブルの上に並べられた食事の数は彼女達の人数とそぐわない。実に三十二食。一人が座る椅子に対して四種類の食事。おかずではない。食事、だ。
皿に、或いは丼に盛られた実に色とりどりの食事。この戦争の時代において、一度の食事にこれだけの量を食することのできるものが、果たして何人いるのか。……如何に軍人が食事において優先されているとしても、些かその量は多すぎるし、なによりも大盛り過ぎる。
……だが、これこそが当横浜基地食料班班長にして曹長、食堂のおばちゃん名物。弔いの食事だ。
彼女はこの基地に居る全職員、衛士、戦場で後方でそれぞれに戦う彼らの「好きなもの」を委細承知し、その彼らが任務の果てに見事散ろうものならば、残された、生き延びた彼らと同じ部隊の仲間に、その「好きだった物」を存分に振舞うという一種の儀式的なものを続けてきた。
そう。だから今こうして目の前に並ぶ四人分の食事は……それぞれに、木野下の、志乃の、亜季の、そして藍子の大好きだった食事、なのである。
全員の顔には咲かんばかりの微笑みと、その裏に隠れた若干の焦り。
食堂のおばちゃんの気遣いは有難いし嬉しい。彼女達も、英霊となったあの四人を悼み、偲んでくれているのだとわかる。ああ……だから安心してくれ。お前たちは皆、こうして我々と共に生きている。感慨深く眼を閉じるみちるだが、しかし彼女は一向に目を開ける様子はなく、そしてまた箸を取る様子もない。
「大尉ー……そんなことしててもなくなりませんよ」
「やれやれ、大尉ともあろう方が諦めの悪い。……ほら梼子。遠慮せずに食べな」
「みっ、美冴さん!? まるで私が大食いのような扱いはやめてくださいっ……」
ははははは。はしゃぐような笑い声。正面に座る水月からの視線がいい加減耐えられなくなってきたので、がっくしと肩を落としながらみちるは目を開ける。
でん、と並んだ四人分の料理。――くっ、と。みちるはニヒルに唇を吊り上げる。
「くくく、真昼間から如何にも強敵だな」
「かっこつける場面じゃないですよね……」
「いや、全然かっこよくないですよ」
不敵に笑うみちるに、旭があきれ、真紀が突っ込む。その二人の言葉に、さすがにカチンときたらしいみちるは……しかし正にそのとおりだったので諦めて箸を握る。
「ほらほら、温かい内に食べなっ! みちるちゃんも隊長なんだからっ、あんたが真っ先に食べないで、誰が食べるって言うんだいっ!?」
「…………曹長、その呼び方は……」
つべこべ言うんじゃないよ! ご立腹らしいおばちゃんに小さく溜息をつきながら、しかしみちるは困ったように笑う。ああ、困った。こんなにたくさんの料理。こんなにたくさんの想いが込められた食事。食べないわけがない。食べきれないわけがない。……これは、彼女達の生きた証。彼女達の好物を食し、語り合うことで……喪われた彼女達を弔う。
水月と目が合った。同じように、からかうような顰め面。……ついさっきまで武のことで憤りを見せていたくせに、切り換えの早いことだ。みちるは今一度苦笑するように。
「さて、それじゃあ頂くとしよう。……みんな、曹長のお心遣いに感謝しよう。――京塚曹長、ありがとうございます」
「いいんだよっ! あたしゃみちるちゃんたちが生きて帰ってきてくれただけで、嬉しいんだからっ」
快活に笑うおばちゃんに、心の底から感謝しつつ…………せめて二人分ずつ昼と晩に分けて欲しかったなぁと思わずにいられないみちるだった。
その二人のやり取りを、どこかそわそわとした様子で梼子が見ている。目の前の料理とみちるの顔を行ったり来たり。落ち着かない視線が、無言のままにみちるを責めているようにも見えた……。
お前はお預けを喰らった犬か何かか……。呆れたようにみちるは思い、その心を読んだかのように美冴が梼子をからかっている。――まったく。
「さあ、冷めてしまわない内に頂こう。……わかっているとは思うが、食べ切れなかったやつは午後から特別メニューだぞ?」
ニヤリ、と悪戯気にみちるが言う。しかし、それを受けて水月がおどけるように言った。
「あっははは、大尉ぃ。それって大尉が食べ切れなくてもやるんですかぁ?」
「なにっ?! ……速瀬、いい度胸だな」
「あはは、水月ったら。……あれ、でも、それってやっぱり私も入ってるのかな??」
「それは当然でしょう。涼宮中尉もヴァルキリーズの一員。木野下中尉が言ってましたよ、涼宮中尉は我々にとって戦場における母親のようだと」
「あら、素敵ですね。それでしたら是非、中尉も特別メニューに加わっていただかないと」
「うぉおお……人参が、オレンジ色がぁ、……シノっちぃい、なんでお前“八宝菜”なんて好きなんだよぉー」
「あからさまに話しの流れを無視しましたわね……。ほら、唸ってないで食べてしまいなさいな」
「真紀は相変わらずだねぇ。…………んー、でさぁ、梼子? なんでもう中華丼が半分くらいになってんの?」
実に、賑やかなことこの上ない。
それぞれが箸を進めながら、笑いあい語り合い、切なくも楽しく、寂しくも温かい、そんな食事が続けられた。普段から食べられる時に喰えるだけ喰う、という軍人としての矜持を守ってきた猛者たちである。
が、些かに……矢張りというかなんというか、その。要するに量が多い。
一度に胃の中に詰められる量というのは個々人で異なるが、それぞれに限界値が決まっている。それを超える量はどう足掻いても入らず……けれど彼女達は、各々のプライドと特別メニューなんて受けてたまるかという意地と……何より、それでも彼女達を悼む気持ちが強いから。
思い出話に花を咲かせ、部下達の知らない木野下の新人時代の話や、上官の知らない志乃や亜季や藍子の訓練兵時代の話……等々。いつまでも笑いの絶えないそんな空気が続いて。ゆっくりと料理は減っていって。
お腹が苦しくても、笑いに混じって涙が滲んでいても、それでも。
笑って。命在る限り、こうやって語り継いでいこう。大切な仲間達。誇らしい仲間達。素晴らしい彼女達。
その生き様を負い。胸を張って――生きていく。
「泣いてたねぇ……」
「ええ、泣いてました」
格納庫の手摺にもたれるように、旭はポツリと呟いた。足元では整備班が忙しなく動いている。彼らが整備に勤しむのは我らがヴァルキリーズの愛機、不知火。十二機あったそれはその数を減らし、現在で八機。
無くなったナンバーは02、06、08、……そして、12。旭は、07のナンバーを持つ機体を見上げて、ふぅ、と儚げに息を吐いた。
「……真紀、大丈夫かな?」
その言葉には、一体どれ程の思いやりが溢れているのだろうか。梼子は少しだけ目を伏せて、旭の言葉を噛み締める。
「大丈夫ですよ。真紀さんはちゃんと、前を向いています。……慶子さんが傍にいてくれるから、……二人とも、大丈夫です」
「そ、か」
そっかぁ……。二度、旭は呟いた。手摺の上で組んだ腕に顔を乗せて、志乃が使っていた機体を見上げながらはにかんだ。その表情に、仕草に、梼子は少しだけ見惚れる。ショートヘアの、色素の薄い髪。毛先が内巻きに癖がついていて、どこか猫科の動物を連想させる愛らしい顔。
とろけるような。心底に安心したような、そんな表情は……同じ女性の梼子から見てもとても好ましい。
「…………旭さん、貴女も、…………いいえ、やっぱりいいです」
「? なんだよ、気になるじゃん……って、梼子、なにさその“なんでもわかってますから”みたいな顔は……」
むぅ、っと唇を尖らせる旭。姿勢は変わらず、表情だけが器用に変わって面白い。梼子はくすくすと堪えきれないように笑ってしまった。ちぇっ、と不貞腐れたように。旭は視線を再び不知火へ戻す。整備班の中には塗装用のペンキ缶を持っている者も見られる。
――ああ……。旭は、そして同じように彼らに視線を向けていた梼子は、理解する。
間の欠けたナンバー。
部隊のナンバーツー……副隊長の木野下が亡くなったこと、そして藍子が亡くなったことで、C小隊は旭と慶子の二人だけとなってしまった。同じくA小隊からは亜季、B小隊からは志乃が喪われたが、こちらはまだ三人での変則運用も可能だ。
だが、あの怒涛のBETAとの戦闘で、打撃支援に強襲前衛という慶子と自分の二機連携……それだけで一小隊として機能するかどうかは甚だ疑問であるし、現実的ではなかった。
つい先ほどのみちるの言葉を思い出す。食事前のブリーフィングで、彼女はC小隊の解隊と、旭と慶子のA小隊編入を決定した。
水月を副隊長のポストに置き、A小隊を五人、B小隊を三人とする変則二小隊編成。例えば比較的近接戦闘にも秀でている美冴をB小隊へ……という案もあったそうだが、総合的な戦力バランスを鑑みた場合に、どう繕っても二小隊しか編成できないならば、多少変則的であろうとも現在抽出し得る最良のポジションを採った、ということだった。
隊長であるみちるの決定に、旭も慶子も異論を唱えることなどない。むしろ自分達だけでC小隊を運用しろ、なんて無理難題を吹っかけられるよりは遥かに願ったり叶ったりだった。……無論、みちるがそんな無茶を強要するはずもないのだが。さておき。
整備班員は整備用のリフトに乗って不知火の肩まで移動する。隊内の編成を改めると同時に、コールナンバーも一新したための処置だった。副隊長となった水月がいつまでもヴァルキリー3では対外的にも成り立たないし、自分達にとってもスッキリしない。……ぽっかりと間の空いた06、07、08の……彼女達のナンバーを、生き残った旭たちが受け継ぐことで、本当に。これで自分達はたった八人の部隊となってしまったのだと。
国連軍仕様の蒼色に塗り潰されていく07のナンバー。その機体は、新たな08として……つまり、白銀機として運用される。自機を戦場で大破……どころか跡形もなく失った彼は、帰還にあたり使用することとなった志乃の不知火を引き継ぐ。元々が同じ突撃前衛装備であり、過度の機動にも耐えられるようチューニングをされている近接戦闘仕様の機体だ。後衛に回る他の者の機体をいじるより格段に効率がよいし……なにより、矢張り、皆それぞれに自分の機体には愛着というものがある。
梼子は04と打たれた自身の不知火を見詰めた。
取り付いた戦車級を払うためにナイフで刻んだ脚部が、少しだけ痛々しい。それでも関節にも異常はなく、最後までちゃんと戦い抜いてくれた機体。……一歩間違えれば、自分もまた、ここには居なかっただろう。こうして大切な仲間達と食事を採ることも、大切な友人と語らうことも……死んでしまえば、できないのだ。
気を抜けば暗く落ち込んでいきそうな思考を振り払う。大丈夫。何を哀しむことがある。彼女達は確かにいなくなってしまったけれど、それでも自分は生きているし、生きていく。
先に逝った彼女達を安心させるように。先に逝った彼女達が、迷って出てこないように。――ふふふっ、藍子さんは心配性だったもの。泣きほくろの似合う友人の、艶やかな笑顔を思い出して、微笑む。
「……時間、だね。行こうか」
「ええ。行きましょう」
身を起こしながらに旭が言う。いつしか、毅然とした軍人の表情に戻っている旭。まるで眩しいものを見るように、梼子は薄っすらと微笑んだ。
弾むように、駆け足。シミュレータールームへと続く回廊を、残された彼女達は、走る。
===
みちるが病室にやってくるのと入れ違いに、小さな少女が出てきた。あまりに予期せぬタイミングの遭遇だったために、みちるも霞も、互いに踏み出した足を止めることが出来ず……結果、小さな彼女はみちるのお腹に顔を埋めることとなった。
「ぐっ……」
ぽょん、という張りのある感触。驚いた表情で霞は慌てて身体を離すが……何分、過食に過ぎる昼食を終えたばかりのみちるにとって、その一撃は強烈だった。
思わず口に手をやり、のぼって来そうなそれを堪える。ぐ、む、ぅ。脂汗を浮かべ悶絶する年上の大尉の姿に、霞は困ったように狼狽している。眉尻をハの字に下げて、ごめんなさい、と小さく呟いていた。
「ぃ、いや……社が悪いわけじゃない」
「……ごめんなさい」
苦い表情でみちるが取り繕うが、それでも霞は落ち込んだように目を伏せる。……迷うように視線を上げて、苦笑するほかないみちると視線を合わせると、少女は……
「お腹、いっぱいです……」
「?」
と、よくわからないことを口にした。時計を見る。……確かに昼食の時刻は過ぎている。自分はついさっきまで部下と共に食事を採っていたわけだが……或いはこの少女も、ここに来る前に昼食を済ませていたのかもしれない。
ぺこりと、無表情のままに頭を下げて、去っていく霞。いまいち情感の掴みにくい少女ではあるが、みちるは彼女を嫌っていない。
香月夕呼の懐刀である自分。腹心のイリーナ・ピアティフ。そして、社霞。常に夕呼の傍らに控える、という点で共通している自分達だが、実際のところそれほど深い交流がある訳でもない。遙がCPとして任官するまではA-01の戦域管制を行ってくれていたピアティフとは交友関係にあるが、些か年齢が離れすぎている霞とは、いい意味での付き合いが薄い。
ふむ、とみちるは顎に手を添えて、去っていく少女の背中を見た。ここに居たということは……当然、武の見舞いにやってきたのだろう。或いは夕呼から何がしかの指示を受けてのことかもしれないが……。
ふと――思い出す。武が総戦技評価演習を終えたその日。深夜の横浜基地で出逢った、その時の少女。
武の合格を伝えた際の……その、表情。
諦観、後悔、消沈、悲哀、憐憫……なにか、それらに近しい感情。或いはそれら全て……。
それを、思い出した。……今思えば、あれは、あの時点で既に霞は…………武の身に起こる何がしかの悲劇に気づいていたのかもしれない……。
「ふ、何を莫迦な」
予知能力でもあるまい。浮かんだ想像に、莫迦莫迦しいと笑う。或いは、あの時点で武の心の奥底に潜んでいた黒い憎悪に気づいていたというなら……その予想は、出来たのかもしれない。
けれど、矢張りそれもあるまいと。みちるは思う。ただでさえ霞は夕呼をして「歩く機密」とまで言わしめている存在だ。基地内を気ままに闊歩している姿も見るには見るが、その彼女を目撃するであろう誰もが、決して彼女の素性も任務も知らないように。……そもそもにして、霞は他人と触れ合う機会が少ないのだ。
もしかすると昨年武が受けていたあの実験の中で、武と触れ合う機会があったのだとして……武が、霞に己の内心の憎悪を語って聞かせたとは思えない。ならば普段の彼を見てその危うさに気づいていたというのは……これもまた、在り得ないだろう。
本当に武は――思い出すのもゾッとするが――頑強で滅茶苦茶な仮面を纏っていたのだ。敵を目の前にしたそのときだけに剥がれ落ちる仮面。憎悪に塗られた素顔を覆う……水月や、あの斯衛の衛士や……彼を支える誰かの目を誤魔化すための精緻な仮面。
BETAとの戦いで、その仮面を無意識に捨て去り、醜悪で滑稽なほど愚かしい様を見せ付けた武だが……それまで一切、こと“日常”と呼ばれるその中で、武は一切の亀裂さえ感づかせなかったのだ。……水月にさえ。
その武の深層意識を、どうして霞が気づけていたというのだろう。所詮想像でしかないし、……偶々、あの時の霞の表情が今回の惨劇に繋がって見えたと言うだけのことだ。
ひょっとすると、単純に。あの時は武という年齢の近い少年が戦場へ近づいていることが哀しく、怖かっただけなのかもしれない。――きっと、そうだ。
なんとも不可思議な想像をめぐらせたものだ、と。みちるは今一度苦笑する。ベルトを一杯にまで緩めたズボンを一度整えながら、水月にしこたま殴られたという部下を笑いにいってやろうと。或いは……それでも愚かな悔恨を見せるようならば今度は自分が殴ってやると。
ドアを開ける。カーテンを開く。そこに武は居た。顔の半分を包帯で覆われ、左腕をガチガチに固められて。ベッドの脇に折り畳める台の上には食事が乗せられている。――ぐ。思わず、それを見て吐きそうになるみちるである。
もどしてなどたまるかと無理矢理に飲み込んで、呆けた表情でこちらを見上げる莫迦者に、不敵な笑みを浮かべてやった。
「大尉……っ」
驚いて、敬礼する武。……右手にスプーンを持ったままだと気づいて慌てて敬礼しなおしている。……すごく、可笑しかった。
「ぶっ、ははははっ! まったく、……思ったより元気そうじゃないか、白銀」
「…………」
恥ずかしいのだろう。バツが悪そうに視線をそらす武。そこにはあの戦場で見せたような危険さはなく……木野下達を喪ったことによるメンタルの傷も、また、見受けられなかった。
(そうか、速瀬……矢張りお前は凄いヤツだ)
午前中に武を見舞ったという水月。顔面に腹に、と思い切り手加減抜きで殴ってやったと笑っていた。軽快にいつも通りに笑っていながら、どこか、それでも少しだけの涙を見せていた。――ああ、安心しろ、速瀬。お前の恋人はちゃんと……前を向けている。
今更隠すこともないだろうに、しかし水月は殊更に武との仲を誤魔化そうとする。弟のような存在だと頑なに主張する水月を、木野下はよくからかっていたものだ。情報源である美冴も、遙から聞いたから間違いないと断言しているし、その遙からして武と水月の恋仲を確信しているという。……ならば、いくら本人が違うと言っても――そもそも、そういう水月の顔は面白いくらい真っ赤なのだが――説得力がないというものだ。
……そんな無為なことを思い出しながら、そういえばこの青年はちゃんと水月のことを恋人として想っているのだろうか。などという余計なお世話がむくむくと沸き起こる。
どうやらその恋人である水月のおかげでまともな精神状態にあるらしい武に、みちるはニヤリと意地悪く笑って見せた。
「――っっ、」
怯んだように、武が固まる。昼食の乗ったトレイを備え付けのテーブルに移し、台を畳んでみちるに向き合っていた彼の表情が、何がしかの直感に強張っていた。
武は気づく。あのみちるの表情はヤバイ。
或いは先ほどの水月のように気合を入れられるのかと内心で身構えていただけに、その、獲物を狙うような鷹の目に血の気が引く。あれは――ろくでもないことを考える人間のそれだっ!
可能ならば全速力で逃げ出したい衝動に駆られるが、如何せんここは狭い病室であり、唯一の出入り口はみちるによって阻まれている。まして片目が見えず左手も使えない状態で、歴戦の猛者であるみちるを突破できるはずもなく。窓でもあればまだ可能性はあっただろうが、地下施設であるここにそもそもそんなモノはなく。
「どうした白銀ぇ。なにをそんなに怯えているんだ?」
「ぃ、いえっ、そのっ! あっ、俺、そうだトイレにっ――――ひっ!!」
焦るように視線を彷徨わせて立ち上がろうとする武の両肩を、みちるの両腕が掴んで抑える。にっこりと形作られた微笑が、武の動きを完全に封じていた。……ごくり、と喉を鳴らす音。逃げられない。
観念したように項垂れる武。その様子に満足したように、みちるは手近な丸椅子を引っ張って座る。
「……さて、冗談はさておき。…………聞いたぞ、擬似生体を移植するそうだな」
「――はっ? あ、え、ええ、はい」
唐突に真面目な話をされて、武は虚を突かれる。……というか、矢張りあれも冗談だったのか。武は今度こそ本当にげんなりと肩を落とした。上官の目の前でありながら、恨めしそうな視線を露骨に投げる武に、みちるは尚意地悪く唇を吊り上げて見せる。――勝てる気がしない。
武は困ったように笑って、右腕で、ギプスで固められた左腕を撫ぜる。
「……神経が駄目になっていると、言われました。……それから、血が流れすぎていて、指先が壊死しかけていた、と」
「そうか……。これも既に聞いているかもしれんが、擬似生体への移植は、明日にでも行う。手術が成功し、リハビリも順調に進んだなら……早ければ三週間後には原隊復帰できるだろう。無論、その左眼が完治してから、だが……。医師によれば、そちらも同じ頃には治るそうだ」
はい。しっかりとそう答える武の瞳は……もう、あの黒々とした光を放ってはいなかった。表情や仕草の端々に、喪われた彼女達への嘆きや哀しみが窺えたが……こればかりは、たった一日や二日でどうにかできるものではないだろう。まして、初めての実戦で、原因はともかく、目の前でたて続けに四人も喪ったのだ。その傷は、衝撃は……深く、重いものだろう。
武一人が傷つき、哀しみに濡れているわけではない。どうやらそのことはちゃんと理解できているようだったし、そのことに引き摺られ過ぎてもいないようにも見える。これも全て水月のおかげだろう。本当に強い。本当に、頼りになる。新しい副隊長となった彼女の、強気で勝気な性格をありがたく感じる。
「白銀……速瀬を大事にしろよ……」
「え!?」
それこそ、武にとっては不意打ちのようなタイミングだった。ぎょっとして表情を凍りつかせる武に、おや、とみちるは眉を顰めた。
どうしてそこで驚かれなければならないのだろう。そこは男として「はい」と強く逞しく決意に満ちた表情で首を縦に振るところだろうに。しょうのないやつだ、とみちるは溜息をつき、成程、水月も苦労するはずだと少しばかり同情する。
「なんだなんだ情けないっ。……いいか白銀、男子たるもの、自分の大事なものは全力で護りきれ。いつまでも女に支えられ手を引かれているようでは、男として情けなさ過ぎるぞ?」
「――っ、ぁ、はいっ! 俺は、もう絶対に死なせませんっ!! ……絶対に、水月さんを護れる男になります」
そして、真那を。
――茜、を。
強く。心からの本気を、武はみちるにぶつけた。そう。そうだ。それは、もう、絶対だ。
水月に救われたのは、これで一体何度目だろう。純夏を亡くしたその時……前に進もうと足掻いていた時……そして、今日。感謝しても仕切れない。でも、水月は礼など求めないだろう。正面きって「ありがとう」なんて言おうものなら、強情な彼女のことだ。きっと、言葉よりも行動で示せ、とニヤリと笑いながら言うに決まっている。
だから、もっと、強くあろう。強く生きよう。護れるように。あんな醜い復讐心に捕らわれないように。もう一つの自分に、塗り潰されないように。
そして、護る。
救ってくれた彼女達の死を無駄にはしない。助けられたこの命を無駄にはしない。
底無しの泥沼に沈もうとする自分を救い上げてくれた水月。
師の想いを託してくれ、自身の想いさえ託し、導いてくれた真那。
いつだって傍にいて、どんな時でも笑顔で支えてくれた茜。
――永遠に想う、既に喪われた純夏。――愛している。心の底から。だから。
護る。
もう迷わない。もう間違えない。
「俺は、この手で、大事なものを……大切な人を、護って見せます……」
「――ふふっ、一丁前のことを言う。……いいだろう、白銀。そこまで言うからには絶対にやって見せろ。……そうだな、もしお前がその誓いを守れなかったら……或いはまた道を間違えるようなことがあったら、」
そこまでを言って、みちるは一層意地悪く笑う。このひとは何処までが本気で何処までが冗談なんだろう、と武は早々に呆れ返るが、しかしみちるは一向に気にした風はなく。
「そうだな。その時は87式突撃砲の銃口に逆さまに吊るして、BETAと戦わせてやる。――ああ、安心しろ。無論機体は本田の不知火だ。あいつの操縦は激しいぞ?」
「 (絶句) 」
あんぐりと口を開けて、信じられないという表情をする武。そのあんまりにも間抜けな面に、みちるはくっくっ、と噛み締めるように笑った。
「ああ――そうだ、白銀」
「……はい、なんですか?」
あの後、昼の休憩時間を一杯に使って、みちるは思い出話に花を咲かせていた。新任である武に、亡くなった彼女達のことを語ってやり…………武は、その話を聞いて、笑い、生き様に学び、少しだけ……泣いていた。
そんな武を、恥ずかしいヤツとか、情けないヤツとは思わない。いつまでもウジウジと女々しく泣いているようなら話は別だが、既に己の進むべき道をしっかりと見据えることができたらしい武は、懸命に、みちるの声に耳を傾けてくれた。
きっとこいつは強くなる。満たされるような思いに、みちるは微笑んだ。――これで、あいつらも安心するだろう。
武を救うために死地に飛び込んだ四人。本当に、素晴らしい部下達だった。だからどうか、知っていて欲しい。……忘れないで欲しい。武を助け、救った彼女達が、こんなにも素晴らしい人々だったことを。
そしていつか、自身にも部下が出来たなら。その者たちに語ってやって欲しい。この世界には……自分の命を顧みず、己を救ってくれた素晴らしい衛士たちがいたことを。
そのみちるの思いを、武は真正面から受け止めた。今だって眼を閉じれば思い浮かぶ、志乃の、亜季の、藍子の、木野下の顔。耳に響く、その声。
自分の知らない彼女達の話を、本当に楽しそうに、みちるは聞かせてくれる。ああ――自分はなんて、愚かだったのだろう。そして、なんて恵まれている。
このひとが隊長でよかった。このひとの部下になれてよかった。……彼女達と出逢えて……本当に、よかった。涙が零れる。微笑が漏れる。
だって、こんなにも彼女達のことを誇らしげに、嬉しげに語ることの出来る上官なんて……きっと、そう多くない。こんなにも部下のことを愛し、大切に想ってくれる上官なんて……きっと、そう多くない。
だから、幸せだ。自分も、彼女達も。
伊隅みちるというひとの部下で在れて……幸せだ。
そうして、長い昔語りを終えたみちるが、立ち上がりながらに、思い出したように言う。
「…………痛み止めはまだ効いているな? ……ならば、少々無茶かも知れんが………………香月博士が呼んでいる」
「――っ、副司令が、ですか?」
ほんの少しだけ困ったような顔をして、みちるは頷く。直属の上司が呼んでいるのだ……無茶でも何でも、行くしかない。みちるもそれは当然そうする予定だったらしく、立ち上がる武に頷いただけで、それ以上の言葉はなかった。
優しい上官から、いつもの毅然とした表情に戻るみちる。……強い人だ、と。武は内心で唸らせられる。いつか自分も、みちるのような軍人になりたいものだと……漠然と思う。
途中、衛生兵に見つかって怒鳴られたりもしたが、痛み止めが切れるのは夜半ということだったので、安心して夕呼の執務室へ移動する。というか、みちるの有無を言わせぬ剣幕に、衛生兵が小さく悲鳴をあげて退散したというのが正しいのだが……。一体どんな凄みを利かせたというのだろう。恐ろしいひとだと呆れながら、無言のままエレベーターへ。
背中を見せるみちるも、一切口を開かない。先ほどまでの温かで優しい空気など最早何処にもなく。……武もまた、無言のままに思考を巡らせていた。
ここで、このタイミングで……夕呼の呼び出しを受ける意味。思いつくのは……今回の作戦で隊内に甚大な被害をもたらした武への何らかのペナルティ。或いは、ありがたいお説教か。
――莫迦な。
武は夕呼をよく知り、理解しているわけではない。……だが、あの副司令がそんな無駄とも思えることをわざわざ行うだろうか。
夕呼が直々に行わずとも、A-01内の権限はみちるの支配下にあり、隊員の管理はそもそもが隊長の仕事である。武に何らかの罰則が適用されるとしても、それはみちるの権限で執行が可能なのだ。まして、説教などと。
だとするならば……なんだろう。残された可能性は……戦術機適性「S」という、己の特異性、か。
そもそも、この武の任官は夕呼の用意したシナリオに沿ってのものだった。恐らくは武を実戦に投入することで……何らかのデータを収集し、何がしかの研究に活かす、というような筋書きだったのだろう。……それが一体何か、ということは本当に一切の想像も出来ないのだが。
そういう仮定で考えるならば、成程、夕呼のシナリオは失敗に終わったということに、なる。
武を単なる駒としてしか見ていないだろう夕呼ならば――大層ご立腹のはずだ。わざわざ基地司令を説き伏せてまで無茶を押し通したこの一件。それが結果として失敗したのであれば…………最悪、ことの張本人である武は処分されてもおかしくない。まして、志乃たち四人の先任を巻き添えにしているのだ。
ただで済むはずがない――。
ごくり、と。無意識の内に喉が鳴っていた。唾を飲み込んでも、全く潤う気がしない。粘つくような汗が額に浮かんでいた。
エレベーターのドアがスライドする。先に降りたみちるに続いて、武も筐体から出る。
或いは――あの、脳ミソのように。
「!」
足が、震えて……止まった。
みちるは気づかない。ぴたりと強張って動かない武に、みちるは全く気づかずに先へ進んでいく。
どうして、と。
武は己の思考をせせら笑った。――莫迦な。そんなことが。
ない、とは言い切れない。ついさっきだって、自分で想像したはずだろう? ――処分されるかも、しれない…………?
「――っ、はっ、ァ」
ぜっ、と。喉が渇く。引き攣りそうな口内に反して、とめどなく汗が噴き出して落ちる。脳裏には、シリンダー。青白い光を放つそれ。
その中に浮かんだ……誰かの、脳、ミ、ソ――――――。
「どうした白銀?」
「!!!!!!」
びくりと顔を上げる。いつの間にか、至近距離でみちるがこちらを覗き込んでいた。ばくばくと心臓が鳴る。痙攣しそうな呼吸を繕い、汗に濡れた額を拭う。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ――ッ! 荒い。息が荒い。心臓が、狂ったように鳴り響く。……落ち着け。落ち着け。まだ決まったわけじゃない。自分の莫迦みたいな想像で、何を怖がっている――ッ!!
「…………傷が痛むのか? ならば、博士には私から……」
真剣に案じてくれるみちるに、強張った笑みを向ける。いつも水月が見せるような、唇の端を吊り上げるそれ。……うまくできただろうか。武は、精一杯に強がって、笑う。
「ははっ、大丈夫、ですよ……すいません。少し立ち眩みを」
自分はなんて嘘が下手なんだろう。ほら、みちるが訝しげにこっちを見ている。それでも、こんな妄想に怖気づいたなんて知られたくはない。本当に、何の根拠も確証もない、単なる妄想なのだ。
歩き出した武に、みちるは少々の違和感を覚えつつ。上官の前を歩くとは何事かと、武の後頭部を小突く。
そしてやってきた執務室。夕呼に武を連れてきたことを告げて……みちるは、矢張りというか、これは予想していたことでもあったのだが……追いやられるように門前払いを喰らう。
今朝の夕呼の機嫌の悪さを思えば、些か心配は残るが……しかし。
「後は、お前次第だ……」
果たして夕呼が武に何を求め、何をさせようというのか。――知らされない以上、踏み入ることは許されない。それが軍隊だ。だが、どうか。折角に立ち直り前を向き始めた武を……これ以上、歪ませることの無いように、と。
施錠された扉を眺めて、みちるは息をつく。……さあ、訓練の時間だ。頭を切り換えろ、思考を切り換えろ。ここからは、A-01の隊長としての時間だ。
新たに編成し直した、最初の訓練である。今日の訓練でその問題点や改善策を洗い出し、正式なポジションを決定する。やることは山積みで、一つとして楽な作業はない。
だから、行こう。部下達の待つその場所へ。そしていつか、……三週間後、武が復帰してきたそのときに。
彼を、笑顔で迎え入れてやろう。
「……白銀、お前が立ち止まっている暇なんてないくらいに、私たちは先へ行って待っているぞ」
呟いたその一言を、開くことのない扉に向けて。
みちるは、来たばかりのその道を戻る。様々な思いを抱いて。たくさんの決意を抱いて。
===
最早見慣れた……書類の山。乱雑に散らばったそれらのおかげで、十分に広い面積を持ちながら、足の置き場もないというその有り様。
横浜基地副司令、香月夕呼の執務室。
A-01部隊の一士官としてこの部屋を訪れるのはこれが初めてだった。いや、そもそも任官して以降、夕呼と顔を合わせることなどなかったのだから、当然だ。部屋の奥。国連旗の飾られた壁の前に、尊大に振舞う夕呼が居る。皮製の椅子に深く腰掛け、腕を組み、足を組み、不機嫌さをちっとも隠そうとしない表情で。
「――いつまでそんな所で突っ立ってるわけ? さっさと来なさいよ」
「……はい」
未練がましくも扉の前に立ち尽くしていた武を、殊更に冷たい視線と声が射抜く。震えそうになる両足を叱咤しながら、武は懸命に歩を進めた。……たかが歩くだけにも関わらず、大層な労力である。
――くそっ、こんなこと、で。
思い浮かべたイメージが悪すぎた。まだ夕呼は何も言っていないというのに、どうしてそんな妄想を抱くのか。……だが、そんな風に表情を強張らせてしまうほど、或いは、歩を進めることを躊躇わせるほどに……あの脳ミソは強烈に過ぎる。
脳と脊髄。ただそれだけ。シリンダーに浸かって、まるで標本のように。誰かの、脳。作り物であるわけがない。青白い光を放つ液体に浮かんだ脳ミソ。初めてアレを目撃した時のような苦い恐怖が込み上げる。――莫迦な。
吐き捨てるように。そして武はようやくにたどり着く。時間にしてほんの数秒だったのだが……扉から事務机までのその距離は、断頭台にのぼる囚人のように重く、長く感じられていた。
夕呼と目が合う。もう、怯んでなんかいられない。この、得体の知れない副司令は……一筋縄ではいかない。そもそも逆らう権利もないのだが、それでも、せめて、向けられる視線に呑まれることのないように。腹に力を込めて、右拳を握り締めた。
両手が使えなかったので、弧月は腰に提げていない。……病室に置いてきてしまったことを、今更に後悔する。あれがこの手にあったなら、どんな恐怖にも負けはしないのに。だから、より一層に。武は平静を装った。
「……怖い顔ねぇ。流石に四人も殺せば、軍人らしい凄みも出せるってことかしら?」
「――っ?!」
な、ん……だと? ぶるりと右手が震える。今、この人はなんと言ったのか。まるで白々しいくらいの……どうでも良さそうな、口調。表情。
視線を鋭いものへと変える武に、しかし夕呼は嘲るような笑みを見せて。
「なによ怒ったの? めんどくさい男ねぇ。どんな言い方したって、それは事実でしょう? あんたがあんな莫迦なことしでかさなきゃ、木野下たちは死ななかった。……なら、死なせたあんたはあの子達を殺したも同じでしょう?」
「――、ぐっ、」
ぎりりと歯を噛み鳴らした武を、夕呼は一笑に伏す。……言い方の問題では、ない。それは確かだ。……だが、それでは、あまりにも。
どうやら夕呼は夕呼なりに彼女達の死を悼み、哀しんではいるらしい。……だが、その言葉は……あまりにも武の心を抉る。
大丈夫だと、ちゃんと生きていけると。そう覚悟を決めたはずなのに……こうも簡単に乱されてしまう。落ち着け……落ち着けよ、白銀武。自身に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。
みちるに誓ったのだ。護る、と。そのために強くなると。――水月を、真那を、茜を。純夏の心を、護る。
それは最初から変わらない……武にとっての、大切なもの。戦う理由。護りたいもの。
ほんの少し道を間違えて……そのために亡くしてしまった彼女達。本当に申し訳ないと思う。本当に、自分は愚かだったと思う。――だから。だから自分は、前に進まなければならない。
ああ、夕呼の言うことはもっともだ。どんな言い方をしたってそれはかわらない。紛れもない事実だ。武は、それを受け入れて、進むと決めた。ならば……怯むな。呑まれるな。
「…………ふん。……………………まぁいいわ。時間が勿体ないものね」
面白くなさそうに言う夕呼。彼女は立ち上がり、事務机を回って武の横へ移動する。無言のまま、しかし既に微塵の怒りも感情もなく。夕呼は無表情に見据えてきて……歩き出す。何処へ、とは聞く必要はない。そう。ここに来るまでに莫迦みたいな想像を巡らせていたのだ。予想はついている。
果たして、予想通りにやってきたその部屋。執務室の隣りに設けられた薄暗い回廊。その先にある、ケーブルだらけのその部屋。中央に置かれたシリンダー。青白い光の中には、時間の経過を思わせない脳ミソが浮かんでいて……。
じわりと。汗が浮かぶ。包帯の下の眼球が怯むように揺れた。……ふと、向けられる視線に気づく。そこを見れば、先ほど病室で話した霞がいた。ほんの少しだけ寂しそうな視線を向けてくる少女に、僅かな疑問を抱く。――と、夕呼がこちらを見ていた。
「何してんのよ、早く来なさい」
「え…………」
彼女は、部屋の奥に居た。そこには別室に続いているらしい扉があって、スライド式のそれはとっくに開いている。そういえばと改めて室内を見渡せば、夕呼が立っているそれともう一つ、何処かへ通じているらしい扉に気づく。今までこのシリンダーの放つ強烈な存在感に眩まされて気づかなかったが、確かにそれは扉だった。
少しだけ驚いて……夕呼の元へ。まさかこの先にも脳ミソがあるわけではあるまい。脳裏に浮かんだ厭な想像を追い払いながら、その室内に踏み入る。……霞はついて来なかった。ただじっと、武の背中を見詰めるだけだ。声を掛けるでもなければ、何らかの感情を見せるわけでもない。
その部屋は……薄暗いシリンダーの部屋と比べて、全うな明るさに満たされていた。医療棟の手術室を思わせる造り。置かれたベッドと、何らかの器材。……或いは、本当に医療器具まで揃っている。そしてそれらの前に立つのが白衣を纏った夕呼。怪しさ倍増である。
間違っても口には出来ない想像に、再び緊張を強いられる。さっきから厭な予感が止まらない。なんだ。何をしようとしているんだ。心臓だけが、ただ、脈動する。
そこに座れ、という夕呼の指示に従って、ベッドに腰掛ける。続けて差し出されたコップには水が注がれていて……受け取ろうとしたところで、夕呼は何かに気づいたように手を止める。
「……そっか、左腕が使えないんだったわね。……だったらハイ。これを先に口に入れなさい」
「……はぁ」
下げられたコップに代わり、手の平に落とされたのは一つのカプセル。半分が赤色で、半分が無色透明。中には黄色い顆粒が一杯に詰められている。
――薬、だ。
紛れもなく。見慣れたフォルム。これぞカプセル薬といわんばかりの存在感。いや、そんなことはどうでもいい。
問題は、これが何の薬か、ということである。痛み止め……は既に投薬されているし、そもそもこんな怪しいカプセルではなかった。風邪薬……というわけでもあるまい。というか在り得ない。ならばビタミン剤とか栄養剤という線も薄いだろう。
ともかくも、カプセル。右手の平に乗った一粒のそれをじっと見詰めて、武は恐々と口を開いた。
口に入れろ、と言われたのだ。……ひょっとすると命令ではないのかもしれない、などという願いは空しいだけだ。夕呼の手には水の入ったコップが用意されている。――呑む、しかない。
果たしてこれがなんなのか。武が知るべきならば当に夕呼は説明しているだろう。だから、それがないということは…………もう、呑むこと以外に選択肢などない。或いは質問すれば教えてくれるのだろうか。ただ命令を鵜呑みにするだけの無能にはなるな、とまりもは教えてくれた。だから、聞くだけ聞いてみよう。
「あの……これ、何の薬ですか……?」
「ほんとに知りたいの……?」
ニヤリと。これ以上ないくらい気分を最悪にしてくれた。聞くんじゃなかったという激しい後悔に苛まれながら、これは実は毒薬で、彼女は自身の手を汚さずに武を処分しようとしているのだという想像が、妙に説得力を持って浮かぶ。
カプセルを口に含み、水を受け取る。注がれた水を全部飲んで……胃の中に流し込んだ。……別に、味もしないし、気分が悪くなるということもない。身体にも目立った変化は…………というか、何処の世界に呑んだ瞬間効果を発揮するカプセル薬が存在するのか。
不必要に怯え過ぎだ。今更、遅い。呑んでしまった以上、後はその効果とやらを覚悟するだけである。
「なによ怖い顔ねぇ……。安心しなさい、別に死にはしないわよ」
「…………」
じゃあせめて薬の説明をしてくれ、と。恨みがましい視線を向ける武に、夕呼は肩を竦めるだけで何も言わない。それから、小さな紙の袋を渡してくる。なんとなく予想がついたが、一応中身を確認する。――矢張り、同じカプセル薬。
「これから、三日に一度、今と同じくらいの時間に一粒呑みなさい。いい? 期間を間違えても、投薬数を間違えても駄目。それから、二週間おきに私のところに顔を出しなさい」
「……?」
突然に、何を言い出すのだろうか。そう疑問に思ったところで……まさか、という疑惑が浮かんだ。
そう、まさか。これは何らかの新薬で、武はその効果を実証するための被験者、ということではないのか。――否。そうとしか思えない。
ずしり、と。手に持った小さな紙袋が重さを増す。莫迦な、気のせいだ。ざっと二ヶ月分。およそ二十粒ほどのカプセル。武は、酷く冴えない声で了解を示し……………………病室に、戻った。
これから三週間を過ごすベッドの上で、武は神妙な顔つきで、天井を睨む。
何らかの新薬。その効果さえ知らされず……或いは、その効果こそを知りたいのだろうか。わからない。わからない。全くもって、謎のままだ。
ただ……それでも。
去り際の霞の表情が、妙に脳裏にこびりつく。まるで武が呑んだ薬がもたらす効果を知っていて……それを嘆くような哀しい瞳。
気分が晴れない。厭な予感だけがひたすらに。募る。ああ……こんな気分を抱えたまま、これから短くとも二ヶ月。手渡されたその量を全て飲み終えるまでは。
一日一日の、自身の点検を怠らないようにしよう。そう決めて、眼を閉じる。気分が、重い……瞼が……重、く…………。