『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十一章-03」
そして、二週間。夕呼に言われたとおりに三日おきに薬を服用し、定期的に顔を見せるようにと申し付かったその第一回目。
包帯の取れた左眼には眼帯が当てられており、頬と額には縦に走る抉れた傷跡。改めて鏡で見たときは想像以上の痛々しさに自身でも思わず呻いてしまったが、それを見た水月の顔は……なんというか言葉にするのも難しいくらいに複雑なものだった。愛惜、同情、それから怒り。……多分、そんな感情が混じり合ったような。
傷を消すつもりはない、という武の言葉には医師も納得してくれているし、それを今更水月がどうこう言ってくることもない。……彼女はちゃんと武の気持ちを承知してくれていた。傷跡を見てあんな表情をしたのは、それでも矢張りそれを見るたびに思い出される彼女達の記憶と、……何より、武の犯した罪が蘇るからだろう。
左腕のリハビリも順調に進み、既に日常生活に支障はない。神経の結合にも取り敢えずの支障はなく、あとは戦術機適性検査に耐えるかどうか、ということらしい。
最初こそ動かすことにも一苦労だったわけだが、流石に最新の医療技術である。世界中で普及していることも理由としては大きいのだろうが、前線で戦う軍人にとって、擬似生体移植という技術は素晴らしく有効であるといえるだろう。
例え負傷したのだとしても、また戦場に復帰することが出来る……。幸いにして武はPTSDに代表される心的障害を負うこともなく、戦場に帰ることができる事実に、小さな喜びさえあるのだ。喪われた彼女達に報いるために、愚かだった自分にけじめをつけるために、なによりも戦場に戻らなければならない。
戦って、戦って、そして生き抜き続ける。
この命の価値を、彼女達に救われたこの命の価値を、世界に示し続けてみせる。皆に示してみせる。その義務が在り……なによりも、それが一番のはなむけとなるのだから。
筋力トレーニングや訓練兵時代の訓練内容をざっとこなしたところ、特にこれも支障はない。弧月を使用しての月詠の剣術も概ね良好というところだ。……施術は完璧だというのに、矢張りこれが元からの自分の腕ではないせいか、若干の違和感が感じられるが……恐らくそう致命的なものではないだろう。どちらかというと、数日間とはいえ固定され続けていて動かすことのなかった、ということの方が影響しているように感じられる。
医師から告げられているリハビリの期間は残り一週間ほど。早ければ眼帯も数日後には取れる。
全てにおいて順調だ。――夕呼に関すること以外、は。
「……失礼します」
プシュン、とスライド式のドアが滑るように開く。カタカタと響くキーボードを叩く音。いつものように白衣を纏い、コンピュータ端末に向かいなにやら忙しそうな夕呼。相変わらずの書類の山が、以前より少しだけ増えているのは気のせいだと思いたい。
一見しただけでこれほどに多忙に過ぎる副司令が、直々に一少尉を呼びつけて行う何がしかの実験。否応にも緊張を強いられ、相当の覚悟を強いられるこの状況。
風邪薬でもなく痛み止めでもなく栄養剤でもなく……ただ「呑め」と言われ押し付けられたカプセル薬。赤色と透明のそれ。中には黄色い顆粒が詰まっているそれ。
この二週間、欠かさずに自身の点検を行い、また、目的は異なるが医師の手によっても毎日の経過を確認している。結果は、共に良好、異常なし。――それが逆に恐ろしい。
或いは、この薬の効果は服用して数日という期間で現れるようなものではなく、もっと長期的に服用を続けることで効果を見せるのかもしれないし、専門知識のない衛士がざっと身体を動かした程度でわかるようなものではないのかもしれない。
そもそも表面的には何の変化も見せず、身体の内奥、という場所で密やかに進行するものなのかもしれない……。
どうも思考が後ろ向きになっていけない。自分でもどうかと思うくらいの怯えようだが、ともかく得体の知れないものほど恐ろしいものはないのである。実証効果がはっきり明確にされ、それを保証するもの――この場合、実際にそれを使用した者の経験談が望ましい――が揃っていなくては、とてもじゃないが扱えないし扱いたくない。……それは実戦投入前の兵器のことだろう、と自身で軽く呆れながら、しかし気持ち的にはそれと対して変わらないというのが本音だ。
既にこの二週間散々考えまい考えまいとして結局厭な想像を膨らませ続けてきたのである。諦めが悪いというかなんというか、それくらいにこの薬が武に与える精神的負荷が大きいというか。
ともあれ、この際だからどんなに凄まじく恐ろしい効果を表す劇薬なのだとしても、本当のところを説明してもらおうと少々意気込んでの来訪だった。
「……あの、副司令……? 白銀少尉であります」
――が。
相変わらずカタカタとキーボードを叩く音だけが続く。完全に無視されている。若しくは、本当に武の来訪に気づいていないのか。……莫迦な。いくら作業に集中しているといっても、ドアを開け人が一人訪れているのである。ともすれば暗殺等の危険性も孕むだろう地位にいる御仁が、これほどに無防備な姿を晒しているというのはいかがなものか。
実は武の存在に気づいていて、取りあえず面倒だから放置している……というのが目下のところ最有力な仮説であるが、これが本当に「誰か来たことにさえ気づいていない」のであれば……夕呼は既に十数回殺されている。……無論、武は暗殺者ではないし、一応は彼女の直属の部下という立場にいるため、もしこの場にそんな輩が現れたのだとすれば即座に弧月で叩き切るが……。
「………………」
実に、居心地が悪い。というか、いい加減本当に気づいてくれてもいいんじゃないかと泣きたくなってくる。
二週間おきに顔を出せと言いつけておきながら、武にこれほどの心的負担を与えておきながら――流石は副司令、部下の都合などお構い無しである。
否、そもそもこの薬を武に服用させることが何らかの実験なのだとしたら、それこそ武の都合など些かも関係しないだろう。
夕呼にとって武は実験体、即ちモルモットと同義であり、薬を服用することで発露する様々な反応を、或いは症状を観察、記録することで更なるデータを収集する。その結果がこれとは異なる新薬の発明なのかどうかは今までと同様に見当もつかないが……どう転んでも、それが武にとっての幸福に繋がるとは思えない。
既に一度彼女の計画を失敗に終わらせている身である。……挽回の余地はまだ在るのかもしれないが、とりあえずこの薬とそれとは直結しないのではないだろうか。
戦場で戦うという行為と、謎の薬を呑むという行為にはどう考えても接点を見つけられない。武の知識が足りないだけなのかもしれないが……矢張り、どう考えたところで夕呼以外にはその理由など知り得ないのだろう。
考えるだけ無駄。
――そんなことは、わかっている。
それでも思考することをやめられないのは……自身で泥沼だと重々承知していながらにやめられないのは。想像でも妄想でもなんでもいいから、とにかく考えていないと不安に押し潰されそうになるからだ。……特に、今はまだリハビリ期間中である。
これがA-01部隊に復帰して、日がな一日過酷で容赦ない訓練に、任務に身を置いているならばこうはなるまい。こんな薬のことを考えている暇などないし、そんなことに頭を悩ませる暇が在るのなら、一秒でも長く機体に触れるべきだ。それが衛士というものであろう。
自身の軟弱な精神に喝を入れる。もう考えるのはやめだ。本当に。これでオシマイ。……後は夕呼に問い質し、答えが得られれば上々。――得られなければ、その時はそのときだ。無用な想像に頭を悩ませることはしない。ともかくも身体を万全にし、戦術機適性検査にも合格する。それが最善だ。
「香月副司令ッ! 白銀少尉、まいりました!!」
「――っ?!」
腹の底から盛大に吠えてやる。文句の付けようのない直立姿勢。踵はキッチリとあわせられ、理想的な「気をつけ」を体現する。……本来なら敬礼すべきなのだろうが、かねてより敬礼は無用と言いつけられているので、それは省略する。
びくり、と一瞬だけ身体を強張らせて、顰め面がこちらに向けられる。……どうやらいきなりの大声に驚いたらしい。その夕呼の反応に逆に驚いてしまいそうになる武だが……取りあえず直立の姿勢は崩さない。
「……でっかい声ね……そんな大声出さなくても聞こえるわよ」
「……」
不貞腐れたような、若干不機嫌そうな表情。多分も何も間違いなく、自分が驚いて、それを武に見られたことが腹立たしいのだろう。そして、取り繕うように放たれた発言については異議を申し立てたい。……申し立てたところで一蹴されてしまうのだろうが。さておき。
武は姿勢を正したまま夕呼の前へ進む。夕呼も片手でキーボードを叩き、その後は身体を武の方へ向けてくれた。どうやら、ようやくにして武にとっての本題に入れそうである。
「ここに来たってことは……ちゃんと、薬は呑んでいるみたいね?」
「はっ……副司令直々のご命令でしたので、三日に一度、欠かさずに服用しております」
「……なにそれ、嫌味? あんた私が堅っ苦しいの嫌いなの知ってて、わざとやってるでしょ?」
氷点下の視線を向けられてしまい、思わず怯む。……伊達に副司令などやっていないということだろう。その眼光はたかだか十七の小僧である自身にはない、迫力と威厳に満ちていた。……それが部下の嫌味に対して発揮されるのはどうかと思うのだが……驚かされた恨みが篭っているのかもしれない。
無言のまま武は顎を引く。肯定も否定もしなかったが、それこそ夕呼にとってはどうでもよいのだろう。彼女もまた何も言うことはなく、いつかのようにキィと椅子を鳴らし立ち上がった。
行く先は前回と同様にあの医療施設。脳ミソの部屋の奥に在るそこは、前者と比較してあまりにも異質に感じられる。……通常の感覚からするならばその脳ミソ部屋こそが異常であり、一見するとただの病室にも見えるこちらの方が全うであるべきなのだが……既にその脳ミソとシリンダーのイメージが刷り込まれている武としては、このフロアはそういう、異常こそが正常に感じられてしまうのだった。
そんな武の内心など気にした風もなく、夕呼はなにやらバインダーを取り出し、ベッドに座るように指示を下す。言われるままに腰を下ろす武。……ふと、これではなんだか医師の問診を受ける患者のようだ、と想像してしまう。なるほど、言いえて妙だ。正しく今から自分は、夕呼という研究者の問診を受け、現時点での薬の効果を記されるのだろう。
「さて、と。今から幾つか質問するから、そのことに対して思ったままを率直に答えて頂戴」
「……その前に、その、この薬のことをもう少し詳しく説明していただきたいんですが……」
自身も椅子に腰掛け、手に取ったバインダーを開きながら言う夕呼。どうやら問診すべき内容がそこに綴られているようだ。バインダーの表紙には……剥がれかけていてよくわからなかったが、「Академия」という文字が見受けられた。これでも座学で英語に代表される公用語はみっちり身に付けているつもりである……が、如何せんその記号のような綴りを読み取ることは出来ずに、首を傾げる。
そして、首を傾げつつも僅かばかりの抵抗を見せる武。先ほど自分の中でも決定したが、これで薬について説明が得られないならば、後はどうとでもなれ、と覚悟を決める。
夕呼は詰まらなそうな、面倒くさそうな表情を隠しもせずに武を睥睨する。その彼女の顔色をみただけで次に続く言葉が容易に想像できてしまったのだが、それでも一抹の希望を込めてじっと見詰めることキッカリ一秒。
「却下。必要な時がくれば、そのときに教えてあげるわ」
むべもない。そして、予想通りでもあった。……ならばそれで納得しよう。武は了解と頷いてみせ、夕呼は一つ鼻を鳴らした。
改めてバインダーに綴じられた何らかの書類に目と落とす夕呼。恐らくそこに記されているのだろう項目を読み上げては、武がそれに答える。主としては身体機構に異常が感じられないか、精神的に圧迫されるようなことはないか……等々。どうにも薬の効果を知るための問診としては奇妙な点も多かったような気がするが、それだって気にしていては仕方がない。或いはこの問診自体、何がしかの検査のための前段階として必要なだけなのかもしれない。
続けられる問いに率直に答え、それが数分も続けられると、次はペンライトを取り出してくる。ライトの動きに合わせて眼球を動かせ、ということだったので……取りあえず右眼だけその動作を繰り返した。
「……ん、いいわ。特に異常なしってところね。……しっかし、一々こんな検査しなきゃならないなんて、結構メンドクサイわねぇ……」
「…………は?」
バインダーに視線を落としながら、夕呼が顰め面をする。眉を顰めながらのその言葉に、武は思わず間の抜けた声を発していた。
「あの……副司令? 聞いてもよろしいですか?」
「あによ……。詰まんない質問だったら容赦しないわよ」
どうしてこの人はこう偉そうなのだろうか。質問する前から質問することを遠まわしに断られているような気がするのはどうしてだろう。しかし武は小さく頭を振って自身を奮い立たせる。
多分、今ここで退いてはいけない気がする。そう。これは物凄く重要なことのような気がするのだ。退いてはいけない、怯んではいけない。……これだけは、ちゃんと確認しておかないと……多分後悔する。
意を決したように、一つ息を吸う。ぐ、と拳を握って……よし。
「この薬…………副司令が作ったんですよね? ……それで、副司令の研究に必要な実験のために、俺が被験者となっている……ん、ですよね?」
「はぁ? なんであたしがこんな薬作んないといけないのよ。大体こんな実験、あたしが率先してやるまでもないわ。実証試験だって散々行われてるんだし。……第一、実験の被験者、って……まぁ、あながち間違っちゃいないけれど…………安心しなさい。言ったでしょ? 死にはしない、って」
――――言葉が、ない。
何に驚けばいいのか。
夕呼が薬を開発したわけではないということ?
実験の必要がないくらいに、成果が証明されているということ?
矢張り何がしかの実験……の、被験者であると明言されたこと?
混乱する。夕呼の真意が益々見えなくなる。あまりにも予想していたこととは異なる事実に、武はぱくぱくと口を開閉させるしかない。
これが夕呼が執り行う計画……AL4に関係するのかどうか、は正直わからない。彼女はそのことについては言及しなかったし、今の発言の中にもそれは含まれていない。ならば必ずしもAL4と無関係、ということではないのかもしれない。
そして、それはともかくとして……この薬物を使用しての実験は、彼女が改めてその効果を検証するために行われているのではなく、既に確立された、その成果を武に適用することで得られる効果を求めてのことだということ……。
ならば武は根底から勘違いしていたことになる。……いや、結果的には“その効果”こそが重要、ということに変わりはない。
単純に一からの実験、研究ではない、というだけのことだ。結果が証明されていて、その結果を武に求める。……ならば矢張り、この薬を服用し続けることでいずれ……夕呼が求める結果とやらが、武の身に現れるのだろう。そしてそれは衛士として戦えなくなるようなものではなく、命に別状が在るようなものでも……ない。
「……ただし、あんたみたいに既に二次性徴を終えた……ほぼ成人体への投薬記録はないから、ひょっとして最悪の最悪……ぽっくり逝っちゃう、なんてこともあるかもしれないけどねぇ……」
「ちょっ!? なんでそこでそんなこと言うんですかっ!!?」
ニヤリ、と唇の端を歪める夕呼。実に愉しげである。たまらずに頬を引き攣らせる武を手で制して、続けるわよ、と……夕呼は再び、武にとってはよくわからない問診を続けていく。
散々不安がらせておいて、更に追い討ちをかけるような……そんな一片の救いもない夕呼のやり方は、最早異議を唱えたところで変わらない。既に二週間。つまり四度、あのカプセルを服用している。ひょっとすると今なら引き返せるのかもしれないが、それを夕呼が許してくれるわけもなく。薬の服用を誤魔化したところで、既に完成された薬品であるならばその効果も明白であろう。……つまり、呑まなければそれはそれで露見する可能性が高いということだ。
どの道、武が逃げる術はない。あの日、半ば以上強制的に呑まされたその時点で、何もかもが手遅れだったということだ。
やがて長いようで短かった問診と簡単な検査が終わる。今日はこれだけ、という夕呼の言葉にベッドから立ち上がり……武は自身の身体を撫で回すように確認した。
「……なにやってんの?」
「はっ? い、いぇ……その、」
何処にも異常がないのはわかっている。自分でも点検しているし、医師も……左眼や擬似生体の経過についてだが、問題ないと言っている。まして、今正に夕呼自らが異常はないと診断しているのだ。そんなもの、在るわけがないのだろう。
……だが、それはそれとしてどうしても気になってしまうのは、それが人間の性だということにしておきたい。決して武の精神が矮小なものである、というわけではなく。
冷ややかな視線を向けられて、しおしおと肩を落とす武。思い切り呆れたように肩を竦める夕呼の仕草が、小心者と嘲られているようで少し痛い。――くそっ。
背を向けて歩き出す夕呼に遅れまいと歩を進めながら、医療施設を出る。見慣れてしまった脳ミソを横目に、ズカズカとあとをついていく。
――ぃた……
「――――あ?」
ぴたり、と。
足が止まった。数歩先で、夕呼もまた足を止めて振り返る。いぶかしむような視線を向けられるが、しかし武はどこかぼんやりとした表情のままに、
「今、何か言いましたか?」
「ハァ? 別に、何も言っていないわよ……?」
「そう……ですよ、ね……」
顰め面を向ける夕呼に、少しだけ周囲を見回すようにしてから、やっぱりなんでもないです、と武は苦笑する。白衣のポケットに両手を突っ込んだ夕呼は、その武の仕草をじぃ、っと見詰めていたが……やがて歩き出す。
何かが、聞こえた気がした……のだ。
歩きながら、武はぼんやりと思う。いや、違う。耳は何の音も拾っていないし、脳にだって何の音声も届いていない。――あれは、“音”じゃない。
では、なんなのか。……気のせいに決まっている。武は頭を振った。色々と考えすぎてナーバスになっているのかもしれない。或いは夕呼が言ったこの薬のもたらす何らかの効果。もう考えないと決めたのに……また繰り返すように要らぬことを考えようとする自分が居る。
ならば、あれはそういう不安に巻かれた自身が見せた幻視……なのだろう。
執務室の前で、夕呼と別れる。次はまた二週間後。同じような問診を行った後に……その結果如何では、また違う内容の検査を行うとのことだ。なんにせよ、二ヶ月の辛抱である。渡された量でこの投薬実験が終わるのなら……だが、それこそ、考えればきりがない。
いい加減にしろ、と自身の頭を小突く。精神的にいらぬ疲労が増えた気がして……武は盛大に溜息をつきながら、医療棟へと戻るのだった。
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手に取った戦闘報告書――『伏龍作戦』における白銀武の戦闘報告書に眼を通す。丁寧に、そして詳細に纏められた字を追いながら、横目でコンピュータ端末のモニタを見る。速瀬機のカメラが捕らえた白銀機の映像が再生されているそれは、途中から画面が切り替わり――上川機のそれへと移る。
戦闘時のカメラが捕らえた映像なので、当然としてその衛士がカメラを向けている方向しか映ってはいない。今再生されているデータは、その中でも、あの戦場の中で最も武と共に戦場を駆け巡った時間の長い二機のカメラのデータから、白銀機が映っている場面を抜き出したものである。
単機で群れるBETAの中に飛び込んでは呆れるくらいの戦闘力で次々に屠っていく姿。音声データは切ってあるので静かなものだが、実際にはこのとき、あの不知火を駆る武は狂ったように嗤い続けていたのだとか。みちるから受け取った報告書の注釈には、武の精神状態について……主に彼が敵を欲し、復讐することに至福を感じていることについてが記されている。
なるほど、と夕呼は唇を吊り上げた。画面には現れた光線級のレーザー照射に白銀機がバラバラにされていく瞬間が映し出されている。……改めて見れば、よくあんな滅茶苦茶なレーザー照射を受けて生きていたものである。志乃の挺身がなければ間違いなく戦死していたのだろうが、それにしても、その前段階……つまりレーザー照射の段階で管制ユニットが無事、という事実に驚愕する。
「……ま、元々A-01に来る連中はそういう素質を潜在的に秘めている可能性が高い子が選ばれてるんだけど…………」
ともすれば、これは異常に過ぎる。戦術機適性「S」。そして、この生還能力の高さ――運、だけではあるまい。“生き残る”という自身の運命を引き寄せる才能……なるほど、おもしろいではないか。
香月夕呼は唇を歪めながらに映像を停止させる。改めて眼を通した戦闘報告書を机の上に投げ、先ほど聴取したばかりの検査記録を手に取る。
二週間前より開始した投薬実験。経過は今のところ良好。目に見える異変はなし。
くっ、と堪えきれぬような小さな笑み。夕呼は思い出していた。十数分前の、武の姿。――まるで何かの声を聞いたような、そんな……。
まさかたった四度の投薬で? それがもし“そう”なのだとしたら、これはいよいよもって天才的な才能だといわざるを得ない。あらゆる可能性に富んだ青年であり、衛士。手駒として、これほど使い勝手のよい者がかつていただろうか。
先の作戦での失敗は確かに痛い。だが、それを不問としてあまりあるこの戦果はどうだ。一体誰がこの武の戦闘映像を見て、初陣の衛士のそれだと思うだろう。後半……特に最後の光線級に撃墜されるあたりは目も当てられないほどお粗末なものだが、それこそ新人としてはありがちな過度の興奮により周りが見えなくなっただけのことだ。その点では矢張り新人、経験の少ない新米衛士と評せざるを得ないのだが、しかし、こと近接戦闘能力だけを見るならば、現在のA-01内でも相当の上位に位置するのではないだろうか。
隊長のみちるをして将来有望と言わしめる器である。このまま腐らせる手はない。移植した擬似生体も順調に快復しているというし、目にも特に異常はない。ならば残る不安要素は戦術機適性検査だが……これこそ、適性値「S」を誇る武である。さして心配は在るまい。
ならば武の実戦データ収集についてはまだまだ機会があるということだ。先任四人を巻き添えにした無様さは頭にくるし、復讐に捕らわれるなんていう陳腐さにも反吐が出る。――が、今日見た限りではどうやらそれらも既に乗り越えたようでもある。さすがにみちる、或いは水月という優秀な先任が傍にいるだけはあった。先任の教えを素直に聞き入れ、己の愚かさを反省した上で前に進む姿には若干の好感が持てる。……というか、衛士という立場に関わらず、人間とは常にそうして前に進み続ける種なのだ。それは出来て当たり前。一々に悩み、苦しむようではまだまだ半端者、というのが夕呼の解釈であったが……。
そして、もうひとつの成果。まだまだ始めたばかりではあるが、既にその片鱗を見せているという……ある意味で規格外の戦術機適性よりも驚異的な成果が見られたそれ。
霞のリーディングに限界を感じていたために半ばやけくそで考案した実験だが、ともすれば想像以上の成果を見せてくれるかもしれない。……もっとも、それがうまくいったとして、得られる情報が一体どのようなものになるかは……正直、判然としない。
わからないから知ろうとしているのであり、そしてそれがどのように些細なことでも「知ること」こそが重要なのだ。連中の情報は少ない。今までに積み重ねられた様々な研究の結果判明していることは連中が炭素生命体であり、なんらかの思考を持ち合わせ……人類を、生命体として認識していないということ。ただそれだけ。あとは連中がある程度の種類に分類され――そもそもその分類を行ったのは人間であるが――現在のところ、それら以外の種は確認されていないこと。ハイヴと呼称される前線基地に潜み、個体数が飽和すると新たなハイヴを建造する……。実にその程度でしかない。
人類の叡智を集結して、三十年以上の年月を費やして、判明していることはたったのそれだけなのだ。ならばそこに情報の優劣はない。連中に関する新たな情報はすべてが貴重で重要なものなのだ。
例えばそれが実際の戦略に活かせるものであるならば尚のこと言うことはない。……が、そうは簡単にことは運ばないだろうという冷静な思考も持ち合わせる必要は、ある。
ともかくも、第四計画が始動されてより今日まで、そして今後も変わらぬ夕呼にとっての最優先はアレを完成させることであり、そのための研究を日夜続けている。……だが、彼女としては大変に遺憾であるのだが、未だに芳しい成果を出せていない現状、もし万一にそれが完成しなかった場合さえを視野に入れて、ありとあらゆる手段を尽くさなければならない。
自身の計画が「失敗」と断ぜられたなら、世界は終わるのだ。後に控える予備計画……第五計画だけは、断じて許すわけにはいかない。だからこそ、僅かばかりの可能性、そして考えうる全ての選択肢をこなす必要が在る。
霞によるあの脳ミソのリーディング然り。
武の戦術機適性「S」の解明然り。
ほんの少しでもいい。ほんの僅かでもいいのだ。それらを行うことによって得られる何らかのデータを、計画に反映し、活かす。
前者はこれまで以上のBETAを研究する手段として。その情報を、得るために。
後者はこれまでにない適性値を持った衛士を育成するため。武という青年の心身の情報を解析し、例えば訓練で鍛えられるものはそのように鍛え、例えば薬品や手術によって肉体改造が可能ならばそのように行う……。実現するためには相当のモラルを乗り越えなければならないだろうが、しかし、適性値「S」がもたらす効果はどれも夕呼を満足させるに値するものだった。
訓練期間の大幅短縮に、初陣であれだけの戦果を上げ……。被験者である武には精神的に色々と問題もあったが、それさえなければ途轍もなく優秀な衛士が完成しているのだ。全部が全部高い適性値のおかげではないだろうが、訓練期間の短縮については相当の効果を表すはずである。
一日に連続して十四時間のシミュレーター・実機訓練が可能。こんな数字は今まで誰も出したことがない。自分が計画し、みちるに実行させたわけだが、実際に行うまでは夕呼自身少しやり過ぎたのではと内心で恐々としていたものだ。それが、蓋を開けてみればどうだろう。確かに不慣れな操縦訓練に疲労は見せていたが、それだけだ。重度の加速度病になることもなく、連続して乗り続けることができるから一度に習得する技術もデータも多い。文句なしに成功といっていい成果を叩き出している。
この成果には基地司令も満足しており、AL4に直接関与しないが、積極的に進めていきたい研究課題である。
……そして、今回の投薬実験。
いつまで経っても大した成果を上げられない脳ミソのリーディング。霞のフォローを行うための準備段階……とでも言っておこう。とにかく、これがうまく行けば、少なくともあの脳ミソから「彼女」が見聞きしたであろうBETAに関する情報が手に入る。それをどう活かすかは手に入れてから考えればいい。今はとにかく、情報が欲しいのだから。
アレが完成しないことには、AL4自体何の意味もないことだが、それでも足掻けるだけ足掻くことは悪いことではないし、一研究者としては当然の在り方だろうと思う。夕呼は目下のところ最優先の三つのそれらについて、今後の運用を瞬時にまとめた。
「白銀……武。ふふふっ、まったく……あんたは最高の素材だわ」
手に持った検査記録をばさりと投げながら。夕呼は静かに、愉しそうに笑うのだった。
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軍人としての立場を考えたとき、真那はその足を止めるしかない。
自身は斯衛軍第19独立警護小隊隊長であり、その最優先は御剣冥夜の守護である。厳しい査定と訓練を潜り抜け、名実共に最精鋭とされる斯衛にあって、その果たすべき任務には私情を挟む余地などないし、あってはならない。
斯衛の衛士として正式に帝国軍に籍を置いてから今日まで、一度たりともその矜持を破ったことはないし、今後も破られることなどないだろう。自分自身、それを誇るからこそ、真那は常に胸を張り、自信に満ち溢れて任務に臨むことができるのである。
……が、しかし。
個人としての……月詠真那としての立場を、在り方を考えた時。真那はその足を進めることに躊躇いを持たない。否、むしろ駆け出してしまいたいくらいだ。
自身は月詠の――父の剣術を継ぐ者であり、そして彼の姉弟子であり、二人目の師でもある。厳しい修行を潜り抜け、正真正銘に後継者となった彼を、真那は誇りに思うし大切に想ってもいる。
父から託された遺志を「弧月」と共にその身に託し、また、自身の想いさえを乗せて託したのだ。それを涙ながらに受けてくれたことは、真那にとって何よりも嬉しく、喜ばしいことだった。己の、そして父の想いを受け継いだ少年は、その時に青年と呼ぶに相応しい成長を見せてくれたのである。
――武。
思わず呟いていた名。はっと気づいて口を噤む。何を莫迦なことを考えているのかと自身を罵り、浮かぶ己の矮小さを振り払うべく、眉間に皺を寄せながらに眼を閉じる。への字に曲げられた口は露骨なまでに不機嫌さを示していて……それらは彼女が内心に向ける苛立ちの程をこれ以上ないくらいに表していた。
……要するに、それは恐ろしい形相をしていたのである。
そして、彼女が立っているのが大勢の衛士や基地職員が往来するPX入口付近の廊下の中央だということ。彼女自身は己に対する憤慨で一杯だが、そんな形相で仁王立ちされていては、食事と団欒のために歩を進めようとする彼らにとって、とてつもなく近寄り難い壁と変わらない。
押し黙り殊更に表情を歪めていく美麗の真那に怖気づき、次から次に人々が足を止める。PXに向かおうとする者、出ようとする者。その全員が須らく足を止め、怯んだように慄いては向きを変えていく。……PXの入口が一つではないということが幸いした。仮にPXに繋がる通路がここ一つだけだったならば、一体どれ程の惨事となっていたのか……。空腹と恐怖に失神し、累々と積み重なる亡者の群れ。想像するだけで目も当てられない。
通りがかる皆が一様に足を止め、目を逸らし、そそくさと道を変えていくことに、しかし真那は気づかない。昼食を採る間中ずっと考え続けていて、結論が出ないままにPXから出るべく歩を進め……そして、何の因果か、この場所で己の思考を揺るがす二つの感情に板ばさみとなり、動けなくなってしまったのだ。
真那にしてみれば正に立ち往生であり、未練がましい矮小な自己を叱責する諸々の葛藤の末なのだが……矢張り、このような場所でそんな風に自己に埋没することこそが、常の彼女からは想像も出来ないくらいに不似合いだった。
否、不似合いという程度の言葉では済まされない。
矢張り彼女はどこまでいっても、如何なる理由が在ろうとも、斯衛の衛士なのだ。将軍家縁者を守護し、そのために全てを懸ける。全身全霊を注ぐのだ。斯衛となった時点で己など捨てているし、そのために優先されるべき事象を見誤ることもない。――赦されない。
では、そのような斯衛の矜持を考える時……ならば何故自身は彼に剣術を教えたのだろうと、煩悶せずにはいられない。
斯衛としての矜持、役割、任務……現在真那が臨むべきは全てが“冥夜の守護”に尽き、それ以外には存在しない。それは単純に彼女の命を護るということに尽きないのだが、そこは幼少の頃より彼女を見守り続けた自身である。それ以上の深い愛情と憧憬、思慕が何の苦も躊躇いもなく、その任務を果たせと魂から奮え立つことができる。
ならばそれほどの想いと意志に溢れていながらに、何故……白銀武という少年に月詠の剣術を教示したというのか。
それは如何なる理由をもっても斯衛としての任務にそぐわないし、斯衛としての在り方にも掠らない。冥夜を守護するという至上命令にして真那の全てと言い切れるそれらを置いて、一体何故、そうしてしまったのか。当時、武に剣を教え、彼と打ち合っている最中には一切感じなかった疑問が次々に浮かんでは泡沫と消える。――わからない、のだ。
何故、と問われれば真那は恥知らずにも口を噤むほかない。
己に課せられた任務を忘却したわけでもなければ、その重大さを理解できていないわけでもない。斯衛としての自身をこれほどに承知していながらに、……本当に、どうして武に剣を教えたのかが、わからない。
父の死を無念に感じる自分が居たことは間違いない。当時既に斯衛としての道を進んでいた自身が、唯一に抱いた感慨でも在る。一族郎党に罵られ酒に溺れた父。病魔に蝕まれたその身を、旅の最中で朽ちさせることを望んだ父。……その無念は如何ばかりか。その悔しさは如何ばかりか。
だが、そんな父を救ってくれた子供がいた。旅先で偶然に出会った幼子。少年。類稀なる才能を秘め、無垢なるままに父の剣を継いでくれた彼。武。
その存在を知った時。彼がこの場所にいるのだと知ったその時――――真那は、自身の本来在るべき姿のほかに、「月詠真那」としての己を生み出してしまったのだ。
父の剣を受け継ぎ、斯衛の道を歩みながらに……けれど確かに残っていた真那の、父親への執着。それが爆発した瞬間でもあった。
……なるほど、ならば、そう考えるならば、確かに理由などわからなくて当然なのかもしれない。少なくともその当時は、真那にそんなことを考えている心的余裕などなかっただろうし、同時に斯衛としての任務を忘却などしないという最低限の矜持も守ることも出来ていたのだから。
つまりは、斯衛の月詠と、個人の真那が両立していたのだ。冥夜を守護する己と、武を教え導く己。そのどちらもが優劣など付けようもないほどに紛うことなく“己”であり、“月詠真那”だったのだから。
今更にそのことについて頭を悩ませている時点で、そのことが確かに証明されている。
当時と現在では決定的に異なっているのだ。
武は己の道を選択し、突き進むことを選んだ。弧月を彼に託した時点で、彼はもう真那の弟子ではなくなっている。後継として認めるに相応しい成長を果たした彼を、己の道を進む彼を、真那が束縛することは出来ない。故の巣立ち。故の別れである。例え共にこの横浜基地に在するのだとしても、そこには最早師弟としての感情が割り込む余地などないのである。
そして、そのことで個人である真那は再びなりを潜めることになった。当然だ。個人としての自分が向き合い、触れ合っていた武がいなくなったのである。ならば、彼のために浮かび上がっていた自己が、斯衛としての自己の裏側に追いやられることに不思議はない。
煩悶とするだけだった思考に、ほんの少しだけ指向性が見え始めた。相変わらずその形相は凄まじいのだが……若干、最初のそれよりは穏やかに近くなっている。具体的に言えば眉間に寄せられた皺が一筋減っている。
……ならば、残る問題は現在の葛藤である。
即ち、進むべきか進まざるべきか。……そもそも、今もって真那が頭を悩ませる事項とは、基地内部の者たちにも極秘ということで内々に処理され秘匿されているはずのある部隊……A-01という名で呼ばれる一個中隊の衛士が負傷して、医療施設に搬送されているということである。名は――言うまでもない。
斯衛の立場から、冥夜が所属する207訓練部隊に関連する情報は常に最新の、そして内容の深いものを把握しておく必要があり……その中には207部隊そのものを影で操る香月夕呼の動向も含まれ、当然の如く、彼女の直属であるA-01部隊に関するそれも耳に入る。
武が訓練を終え秘密裏にその部隊へ任官したことも知っていたし、彼が『伏龍』と呼称される間引き作戦に参加したことも、承知している。……それを知ったそのときこそ、酷く狼狽し、通常であれば在り得ない事態に混乱もしたが……それこそ、紛れもなく彼が自身の選んだ道を突き進んでいる証拠であり、一人立ちした弟子を想うならば、何も言うべきではないのだと自身を納得させている。
だが、その作戦を終え、基地に帰還したA-01部隊は四名の戦死者を出し――彼女達はその特殊な任務から存在を公にすることが許されず、公式には訓練中の事故死として処理され――そして、初陣であった武が重症を負ったのだという。
それを知ったのは、つい先ごろ。……今朝、である。
甲20号目標間引き作戦の終了から早二週間が過ぎた今日。既に治療を終えリハビリに励んでいるというその情報の、なんと遅いこと。それを聞くまで、真那はA-01部隊の戦死者のことも、武の負傷のことも知らなかったのだ。『伏龍作戦』にA-01部隊が参加することは知っていた。それは半年も前から計画されていたことなのだから。だが……流石に夕呼の身辺のセキュリティは相当なものだということだろう。作戦終了から二週間経ってようやく、放たれた密偵はその情報を掴むことが出来たのだから。
そこまでを思考して、果たして自分は一体どうすべきなのか、を改めて黙考する。
或いは、この情報を武が負傷したその時点で聞かされていたならば――自分は一体どうしたのだろうか。
どくん、と高鳴る心臓の音。呼吸が乱れる。――迷うことなく、武の元へ駆けつけている自身を夢想した。
それを莫迦なと罵る斯衛の自分と、当然と受け入れる個としての自分が居た。……堂々巡りである。
結局のところ、どれほどの大義名分を着飾ろうとも、真那は武を案じているのだ。ようやくに、その事実に気づく。呆れるほどの傲慢で、嘆かわしいほどの脆さである。斯衛としての自身は、そんなことで揺れ動くほどに脆いものだったのか。冥夜への忠義は、それを至高とする己の意思は、そんなにも薄弱だったのか。
――否。断じて否だ。
冥夜を想う心は誰にも負けない自負が在る。彼女を守護することは紛れもない至高であり、誉れなのだ。
そして同時に、そんな冥夜を想う心と拮抗するほどに、武を想う心もまた、大きかったのだ。既に己の手を離れている弟子を、傍らに置いておきたいと願ってしまう傲慢。醜いだけの、私欲である。――なんて、浅ましい。
崇高に光り輝く斯衛の道を全うする真那と、感情に爛れた欲情に溺れる真那。二者は紛れもなく己であり、眠りについていた後者は最早完全に覚醒している。
むくむくと肥大化するその感情を押さえ込もうと、軟弱な己に対する怒りを募らせるが……依然、“武に逢いたい”という私欲は衰えを見せない。むしろ、抑圧すればするほどに増大していくようである。
「せめて一目……」
口にして、しまった、と目を見張る。もう駄目だった。言葉は言霊となり、自身の耳から脳髄に響き渡り染み渡る。
我慢など出来ようはずがない。言霊とは、文字通り霊魂に響くからこそコトダマというのだ。葛藤する二つの自己。その天秤が崩れ去る。魂を震わせるほどの感情に、遂に真那は屈服した。
表情には未だに斯衛としての己を前面に出しながら、既に歩き始めている足に迷いはない。諦めの悪い堅物の自身が精一杯に斯衛の立場を叫ぶが、それは内心を誤魔化すために紡がれ続ける独り言に掻き消されていく。
どう理由をつけたところで、言い訳を飾りつけたところで、矢張り斯衛の真那が横浜基地の中枢を握る夕呼直属のA-01部隊の武と接触することは在り得ないし赦されない。下手をすれば帝国と国連の繋がりを断ち切るきっかけとさえなりかねない可能性も孕んでいる。
だが、そうやって浮かんでくる様々なリスクを全て理解しているにも関わらず、それらは空しくも空回り、真那の足を止めるには至らない。
気づけば心拍数は高まり、進める足も幾許か速い。仏頂面だった表情も次第に緩やかで柔らかいそれに変わり……そうして遂に、真那は医療棟にたどり着いていた。
武の病室はわかっている。この時間ならば病室で昼食を食べているだろうか。既に斯衛としての己が心の裏側になりを潜め、表面には個人としての真那が現出している。武と一年間の師弟関係を築いたもう一人の自分。武に、父と自身の想いを託した自分。真那。――一際大きく、鼓動が鳴った。
この角を曲がって二つ目。いつぞやも運ばれていた病室。いつだったろう……そう、それは彼が始めてそこに運ばれた日。まりもから知らせを受け、気づけば駆けるように見舞いに行ったその日。叫びながらに目を覚まし、真那と誰かを勘違いしたままに抱きしめた武。
「――ッ、」
足が、止まった。
息が、止まった。
心臓が、まるで壊れたように鳴り響く。
そうだ。武は名を呼んだ。――スミカ、と。真那の知らぬ少女の名を呼び、抱きしめたのだ。……真那を、ではない。その、スミカという名の彼女、を。
どうして、今更にそれを思い出したのか。どうして、そのことでこんなにも感情が冷たくなっていくのか。
震えるほどに、寒い。何だこれは。なんなのだ、この感情は――!?
先ほどまでの、まるで浮かれていたような己は何処にもいない。武の身を案じていた自分も、武に逢いたいと想ってしまった自分も、斯衛としての立場を執拗に叫んでいた自身さえ……黙りこくり、冷え冷えと凍りついた感情になりを潜めている。
――なんと、愚かしいのだ、私は。
真那は右手で己の顔面を覆った。すぐ側にあった壁にもたれるように背中を預けて、だらしなくもずるずると身を沈める。
認めざるを得ない。真那は、自分は、浮かれていた。なにかともっともらしい意味を考えては葛藤し、斯衛だ個人だと大義名分を振るっては自己さえを誤魔化し、納得させ、騙し騙しやってきたこの場所で。――悟る。
これは矮小な自分が見せた愚かしいまでの欲望。……なんのことはない。真那は、なによりも己の欲望に従って武に逢おうとしていただけだった。
だからこそ、その名を思い出した瞬間に……こうも容易く凍りつく。動けなくなる。浅ましいのだ、この感情は。
スミカ。武の心の奥底に突き刺さる何がしかの呪い。夢にまで見る彼女の名を叫んだ武は……だからこそ、彼女に捕らわれることを望むだろう。
そこに、真那が立ち入る隙などなく。……そして、真那が立ち入っていい道理など存在しない。他の誰でもなく、真那自身がそう結論したのだ。故に、凍りつき、足が止まる。己のこの感情は誤りなのだと、悟り、認めた自身が吠え立てる。――やめろ、引き返せ、こんなことをしても意味はない。
口々に叫び、真那の感情を削いでいく。
――自分は一体、何だ? その疑問にはこう答えよう。
月詠真那は斯衛の赤であり冥夜を守護する存在。それ以外の何者でもなく、それ以外に果たすべき義務はなく、それから逸脱するなにもかもは存在しない。
――自分にとって武は、一体、何だ? ……その疑問には、こう答えよう。
白銀武は真那にとって唯一の弟子であり、父の遺志を継ぎ、想い託す者。それ以外の何者でもなく、それ以外に抱く感情などなく、それから逸脱するなにもかもは存在しない。
彼は、弟子でしかない。
そして彼は、もう自分の足で歩き始めている。己の往く道を選んでいる。――手を差し伸べる必要も、道を示す必要も、ない。もしそれをしてしまったならば、それは一人立ちした彼を愚弄する行為に他ならず、彼を一人前と認めないことになる。
そんなことは出来なかった。真那は武を認めている。月詠の剣術を継ぐに相応しい者だと認めている。だから弧月を託し、想いを託したのだ。――なら、それで十分のはずだ。それで、充たされたはずだろう。
そうだ。それだけで十分だった。充たされた。……だから、逢ってはならない、のだ。
少なくとも今は。このような感情に翻弄されている今は。自分でもわからないくらいに、ぐちゃぐちゃな感情が渦巻いている今は。――武にあわせる顔などない。
深く、息を吐いた。顔面を覆う右手を引き剥がし、壁から身を起こす。屹立し、もう一度だけ……息を吸い、吐く。
「…………、」
その表情には最早葛藤も迷いもなく。
真那は踵を返し、逸るようにやって来た道程を戻る。厳しい視線には自身を戒め、己の性根を叩き直すという絶対の意志が込められていて。
強く、刀の鞘を握る。
真那は知った。己の中に潜む、身勝手に過ぎるその感情の名を。だがそれは、今の彼女には、そして彼にも無用なものであり、不要なものだった。
在るのはただ、信愛だけでいい。弟子を想う自身と、師を想ってくれる彼の心。それだけがあれば、充たされる。
振り返ることなく、真那は進んだ。
去ってゆく彼女の後ろ姿を、武の病室から出てきた水月は目撃した。
一度見たら絶対に忘れられないその姿。鮮烈に過ぎる赤い軍服。腰に提げた刀。――月詠真那。斯衛の赤にして警護小隊の隊長。そして、武の剣術の師。
ギョッとするような感情と、背中を向けて去っていく姿に疑問を抱くような感情と……僅かばかりの優越感が、浮かんでは消えた。
自身でもよくわからないそれら瞬間の逡巡を、水月はぼんやりと反芻し、どうしてそんな風に思ったのかを考える。
ギョッとしたのは……単純に、その姿を目にして驚いたからだ。一体何がどうして、斯衛の赤がこんな場所にいたのか。それを考えると……必然的に答えは一つしかないのだが、そもそもそんな理由にたどり着くよりも先に、まず驚いたのである。
次に疑問に思ったのは……恐らくも何も武の様子を見に来たのだろう彼女が、何故背中を向けて去っていくのかわからなかったからだ。現在このフロアには武以外の入院者はいない。ならば来訪の目的は武以外にはありえず、そのためにやってきたのであろうはずなのに、顔も見せずに去っていく理由がわからない。
そして――その一瞬間に水月は気づいたのである。
真那の行動の意味。そこに潜む葛藤と決意を。……それは、かつて自分が味わった感情とよく似ている。
立場が変わったのだ。
昨年の七月。偶然にも武をこの病室まで運ぶこととなった水月。あれは本当に偶然で、当時の水月と武の立場を思えば、本来在り得ないことだった。片やA-01という特殊任務部隊に所属する自身。片や、訓練兵に過ぎない武。
みちるの計らいがなければ決して実現することのないその時点での邂逅に、……そのときの武の容態等気にかけることはたくさんあったが、事実、水月は胸を躍らせていたように思う。本当なら顔を見せることさえ許可されない立場にありながら、武の側にいられたこと。それを嬉しく感じてしまった自分が、確かにいたのだ。
無論、その後はそのような偶然などなく、また、自身から感情に従って行動することもなかった。その時は、その時点の自分では武に逢っても仕方がないという確信があったし、互いにその必要もなかった。特殊任務に従事する衛士が、たかが訓練兵に逢いに行くことなど在り得ないという、互いの立場が異なるゆえの隔たりもまた、存在していた。
だから水月は武が任官するその日を待った。それまでに自身を鍛え抜き、彼を支えてやれるだけの力を得る。そう決めて、その誓いに従って……武に逢うことはなかった。
去りゆく真那を思う。……彼女もまた、水月と同じような思考に至ったのだろう。
斯衛である自身と、A-01部隊の一員となった武の立場を鑑みた時に……選択できる行動など知れている。
どのようにして武の負傷を知ったのか……はわからないが、例えそれを耳にし、弟子の身を案じたのだとしても……それでも、矢張り彼女は斯衛で在り、武は任官した衛士なのだ。既に手のかかる訓練兵ではなく、世話を焼く弟子ではないのだ。……武が託された刀には、きっとそういう意味も込められているに違いない。
あの黒塗りの拵を託された時点で、武は彼女の弟子を卒業し、一人の剣士として完成したのだと思う。師の下を離れ、己の道を行くならば、最早武は……その心がどう思おうと、事実上、真那が導くべき存在ではなくなったのだ。そしてそこに、斯衛という彼女の立場が重なって……結果、真那は顔も見せずに立ち去ったのであろう。
それに、優越感を覚えた自分が居る。
水月はどきりとした。――なんで、そんなことを?
自身に問いかけるも、返答はない。……当然だ。自分でわかっているならば、問うまでもなく明白であろう。
武に逢うことはできない、という選択をした真那を見て、どうして優越感に浸るというのか。――立場が変わったのだ、という言葉が、再び脳裏を巡る。
なるほど、正にそのとおりだ。今や武は水月と同じA-01の仲間である。そこにはかつてのような立場的な隔たりはなく、何に遠慮することもない。水月が望み、行動を起こすならばいつだって武に逢うことができ、傍で支えてやることが出来るのだ。――今のように。
そして、水月にとってそのように隔たりがなくなったというならば、同様に真那にとっては隔たりが出来てしまったということだ。
武の傍にいられなかった水月が武の傍にいて。
武の傍にいた真那が武の傍にいられない。
その、逆転。――そんなことに、優越を覚える。
「……っ、なんて、浅ましい……ッ」
ぎゅぅ、と拳を握り、唇を噛んだ。最早考えるまでもない。水月は今確かに、真那に対して醜く薄汚い感情を抱いたのである。
弟のような存在と自身からして主張している武を、自分の近くに置いておけること……それを、喜ばしいと感じ、独占しようとする自身がいた。――反吐が出る。
水月は頭を振り、振って湧いた己の醜い感情を払う。同時に、真那に対して心の中で謝罪をし……………………結局、どれほどに自身の心を誤魔化そうとも、矢張りその感情の名は覆せないのだと、知る。
やれやれと苦笑する。そう、水月は苦笑するしかなかった。これではまるで、恋する乙女のそれではないか。
呆れるくらいに溜息をついて。そんな風に心揺るがせる自身の感情を……少しだけ、容認することにした。
どの道、実らせるつもりのない感情だったし、本当にそうなのかは、言い訳がましいがまだ判らないのである。それでも、真那に対して無意味な優越感を抱くよりはマシだろう。ともすれば非常によく似た自身と彼女。その心の有り様に、水月は殊更に苦笑する。
全く、難儀なものだった。
勝てる見込みのない戦い。勝つつもりさえ更々ない戦い。ならばそれは戦いではなく、単純に武を一番近くで支えるためだけの……。
「あ~ぁ、まったく。しょうもない……。…………茜、あんたも苦労するわねぇ」
呟いて、懐かしい少女の名を口にする。自分や、ましてあの斯衛の赤である真那でさえ、こうなのだ。
誰よりも武を想い、傍にいることを望む彼女は、それはもう大変な苦労をするのだろう。いずれ遠くない未来に、彼女もまたA-01へやって来るに違いない。――ああ、その時は一体、どれほどに賑やかで騒がしく、そして切ないくらいの想いが満ち溢れるのだろう。
想像して、なんだか温かくなる感情に気づく。
なるほど、つまり自分は…………。
己の裡にある感情の、最も答えに近しいそれに気づいて。水月は前を向いて歩くのだった。