『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十二章-01」
上官命令と言われてしまえば、逆らうことなど出来ないのが軍隊である。そこには一切の拒絶も疑義も抵抗も許されず存在しない。
ひどく剣呑な表情で、わざわざその文言をつけての命令に、武は了解と首肯するほかない。みちるに連れられて医療棟の一室へ。既に話をつけていたのだろう、衛生兵に案内されるままに武はさらに別室へ通され、そこで待っていた医師の指示に従ってベッドに横になり、眼を閉じた。
催眠暗示――。それを聞いた時は半信半疑だったが、みちるの言葉、そして医師からの説明を聞く限り、精神に傷を負った者に対してはある程度の効果を見せるらしい。即ち、精神にストレスを与えるフラッシュバックの軽減、或いはトラウマの引き金となるキーワードや映像のブロック等々。脳内で発生し、精神・肉体にまで影響を及ぼすそれらを「暗示」によって封殺してしまおうというわけだ。
武の精神状態をみちるが案じていることは承知している。彼女はどこまでも部下思いで優しく、そして、軍人として優秀である。
隊の運用に支障をきたす恐れの在る武をこのまま何の処置もせずに放置しておくなど愚の骨頂。故にみちるは有無を言わさず、この催眠暗示による治療を敢行するのである。……無論、これによって完全に武の精神が元通りになるかといえば、恐らくはそうではあるまい。催眠はあくまで一時的な処置に過ぎない。最終的には、それを受けた本人の意思、気力……そういった、人としての生きる力がものを言うことには変わりない。
即ち、如何にして乗り越えるか。
絶対に諦めたりはしないと決意している武だが、それをみちるに伝えたところで隊長としての彼女の判断は覆らないだろう。
みちるは武の意志を買うだろう。その誓いを果たせ、と肩を叩いてくれるだろう。……だが、新米衛士ひとりの誓いなど……果たせるかどうかもわからないそんな言葉に全てを懸けるわけにはいかない。みちるは、ヴァルキリーズ全員の命を預かるものとして、そしてAL4を成功に導くための一つの駒として、己に課せられた役割を果たすだけなのだ。
「さあ、目を開けて」
男の医師の言葉に、目を開く。……特に、これといって変化はない。治療は終わったのだろうか。
視線だけを医師に向ける。彼は一度頷いて、視線で治療室の出口を示した。ただ単に眼を閉じて、僅かながらの睡眠をしていたようにしか思えない武だが、医師がそうというならば“そう”なのだろう。これで治療は終了。あとは訓練、或いは実戦の場でその効果を確認するのみである。
「……」
が、武は一つの危惧を抱いていた。
この催眠暗示――治療は、何の意味ももたないのではないだろうか。
みちるは恐らく、武の精神状態が不安定な理由を、志乃たち先任の死に所以するものだと考えているはずだ。確かにそのことが武の脳髄を抉ることは間違いなく、自身に罪科を、そして敵への憎悪を膨張させる一因であることもまた、真実だ。
若しくは――そもそもの武の暴走の原因。復讐に走らせるその発端となった、あの横浜襲撃で喪われた彼女のことを知っているならば、それについてもブロックを掛けたに違いない。
つまりは、みちるは武の復讐を抑制しようと暗示を掛けた……ということ。当然だ。BETAに対する憎しみこそが先の戦闘での武の暴走の原因であり、そして精神を苛む根本なのだから。生きる、生き続ける、という武の、護りたい人たちを守り抜くという誓いを揺るがすもう一つの彼を封殺することが出来たなら、それはきっと……みちるの思惑どおりの結果をもたらすだろう。
――それが原因、ならば。
「…………」
腰に提げた弧月を握り締める。廊下に出れば、わざわざ待っていたらしいみちると目が合う。無表情にこちらを見つめるみちるに、武は苦笑を浮かべた。
ここまで心配を掛けておいて……これで何の効果も成長も見せないようならば、武は首を括って死ぬべきだ。或いは弧月で腹を割いてもいい。
果たしてこの催眠暗示が効果を表さなかったのだとしても、それとは違う、武本人の精神力で以って、克服し、成長を見せてみせる。――でなければ、武は自分を赦せない。
みちるに対する配慮だけではない。既に自身の魂に誓ったことでもある。
護るのだ。絶対に。大切で愛しい人たちを。心から想う彼女達を。
例えもう一人の自分を幻覚に見ようとも、例え自己が幾多に分裂しようとも、例え精神がほつれて異常なまでに暴走しようとも。
もう絶対に、武は負けない。負けられない。
たった昨日の出来事。シミュレーター訓練の最中に発現した異常な精神状態。みちるが懸念するそれ。だがそれは、決してみちるが想像したような要因に起因するものではなく……もっと別の、白銀武というニンゲンが壊れていこうとすることに原因が在るのだ。
崩壊の理由はわからない。
復讐に身を委ねようとする“白銀武”。
大切なひとを護り抜くと誓う“白銀武”。
その両者の鬩ぎ合いを傍観する“白銀武”。
それさえを無視して戦闘に没頭する機械のような“白銀武”。
或いは――もっともっと、自分は分裂しているのかもしれない。そして、同時に、並列に、そんな「自分達」が脳内に肉体に精神に存在する。その存在を認識できる自分が居る。
狂ってしまいそうだ。
誓いは揺るがない。彼女を護る。彼女達を護る。その決意は、絶対に揺れない。覆らない。もう二度と復讐に濡れることはない。その黒い炎に魂を委ねることなどないのだ。
なのに。必死になってそれを押し通そうとすればするほど……狂っていく自分をより明確に認識する。
崩壊の理由はわからない。
武は静かに、けれど速やかに壊れ始めている。根拠のない実感が、ただ、彼の脳裏に根付いていた。
そしてそれを知らないみちるは――武が知らせていないので当然だが――彼の精神を圧迫するであろう要因のそれぞれにブロックを掛け、取りあえずの安心を得ていることだろう。それを、武は恨めしいとは思わない。
彼女は隊長として、軍人としての役割を全うした。そして武は部下として、軍人として与えられた任を果たしたのだ。そこにそれ以上のなにものも存在しない。
あえて言うならば、全て武が悪いのだ。
部下として、軍人として、自身に何らかの欠陥があるというならば、それは速やかに須らく上官であり隊長であるみちるに報告すべきことである。なのに武はそれをしなかった。狂っていることを公言したくないという塵芥のプライドと羞恥が、武にそれをさせなかった。同時に、こんな自身の崩壊程度で揺るがされてたまるかという意地もあった。
だから武は、絶対に負けるつもりはない。みちるにこれ以上の負担をかけることも、ない。絶対に。絶対に。
茜の顔を見て気づいたのだ。久しぶりに彼女を見て、これ以上ないくらいに思い知らされたのだ。
この三年以上を、ずっと傍で支えてくれていた彼女のために。彼女の想いに、そして自身の想いに気づいたのだから。
だから、理由なんてわからなくても、そして本当に確実に壊れて狂っているのだとしても。――それでも、もう、止まることなどありはしない。
「白銀、気分はどうだ?」
「……悪くはありません。むしろ眠っていただけみたいで、頭が少しぼんやりしますが……」
苦笑しながら答える武に、みちるは少しだけ微笑みを見せてくれた。言葉なく踵を返す彼女について歩く。
さあ、訓練の始まりだ。
弧月を握り締めていた手を放す。
一際大きな鼓動を打った心臓に一筋の汗を浮かべながら…………武は、それでも、前に進む。
===
水月の機動は痛烈なまでに激しかった。僅か三週間。されどそれは歴戦を潜り抜けた衛士にとっては驚愕するほどの成長を可能とする期間であったらしい。――即ち、ついていくのが精一杯。
正直、呆れてしまう。こちらもつい昨日のシミュレーター訓練で自己最大のBETA撃破数を叩き出したというのに、その戦闘機動を以ってしても、水月の機動に食いついてくのがやっとという有り様。一体どれ程の修練を積めば、これほどの成長を果たせるというのだろう。
前を行く凄まじい小隊長の機動に振り回されながら唸る武だが、それならば自身もそこに到達すべく修練を重ねればいいだけの話だ。恍惚にも似た冷や汗を流しながら、自身は自身の役割を果たす。
現在B小隊は水月、真紀、武の三名編成であり、彼は真紀との二機連携を基本に、時には三人での変則連携をとりながらに戦場を駆け回っている。B小隊だけでなく、A小隊もまた五名一小隊という変則体制を組んでいた。これは、志乃をはじめ、喪われた彼女達の穴を埋める衛士の補充がないための苦肉の策であった。
武がA-01部隊へ復帰して早々に行われているこのシミュレーター訓練では、主として改めて三機編成となったB小隊の慣熟を図るためと、武の連携機動を万全とするために行われている。つまりは、武以外の面々については、この三週間で新たな編成での連携は万全に行えるということである。水月の、武からすれば呆れるほかない戦闘機動が示しているとおりに、彼女達は遥か高みに手を伸ばしているように思えた。
無論、三週間のブランクがあり、ましてまだ一度の実戦経験しかない武の視点であるため、彼女達の成長度合い……錬度が、どれ程に上達しているのかは、各々の主観により異なることだろう。つまりは、素人――というには語弊があるが、経験の少ない武から見てわかる程度には、彼女達はその腕を磨けているということである。
月詠の螺旋機動で敵の首をぶった切りながら、武は秘めやかに決意する。今日一日。それだけで、彼女達の三週間分に追いついてみせる。
可能不可能という問題ではない。それは、やらなければならないことだと思う。怪我の治療とリハビリのために費やした三週間。仕方のないこととはいえ、しかしそれは結局のところ武自身が撒いた種である。己の不手際は己で挽回する。ならば、無為に費やした三週間、そしてその間に開いた隊の仲間達との差は――出来得る限りの最短で、縮め、並ばなくてはならない。
二日も三日も、まして彼女達が積み重ねた三週間丸々を、安穏と重ねていいはずがない。
いつまた前線へと出撃するかもわからず、まして次は敵から攻めてこないとも限らないのだ。常に最悪を想定し、そしてそれに対応できるだけの最善を、自身の中に用意しておかなくてはならない。軍人とはそういうものだ。だからこそ、今日一日なのである。
手当たり次第にBETAを斬りつけて刎ね飛ばしながら、それでも武は攻める手を休めない。
両手に一振りずつ握った長刀で、斬りつけて斬りつけて斬りつけて殺す。その一刀ごとに己を高めよ。その一刀ごとに己を超えよ。一刀前の自身は次の一刀で超越し、そしてまた次の一刀で高みへのぼる。
その意志を込めて、剣を振るう。敵を殺す。これはただ、ひたすらに追いすがるための訓練だ。背中を見せ付ける水月に、真紀やほかの仲間達に、追いつき、肩を並べるための修練だ。
……だから、だろうか。
武の意志が、思考が、ただ他のなにものも考える余裕も猶予もなく、己を高めることだけに集中していたために。彼は昨日のシミュレーター訓練で見せたような感情の暴走に振り回されていない。復讐を吠えるもう一人の自身は現れず、冷徹に敵を惨殺する機械のような自身は現れず……。武は、純粋に白銀武としてそこに在った。
彼がそのことに気づくのは午前中の訓練が終わり、喧しくもけたたましい昼食を終えた後であり、水月に連れられて基地外へと通じる門までの道程を緩やかに進んでいたときのことだ。
前を歩く水月の、歩調に合わせて揺れるポニーテールを見つめながらに、ふと、気づいたのである。
それは、武にとっては喜ばしい事実であった。訓練前にみちるが行った催眠暗示も効果を見せていたのかもしれない。だがそれ以上に、ただ追い縋ること以外に考える暇がなかったことが大きいのだろう。――なるほど。武は苦笑した。
昨日にも気づいたことだった。武は、独りでは容易く壊れてしまうのである。誰か傍にいてくれて、或いは、人々と触れ合うことの出来る距離にいてようやく、まともな自分を保つことが出来るのだ。そうすれば、その人たちとの時間を、会話を、触れ合いを大切にして、大事にして、……あんな、どす黒く薄気味の悪い“自己”はなりを潜めてくれる。
問題は何も解決していないのかもしれないが、しかし、これで一つ頭を悩ませる種が減った。
自分が壊れ、或いは狂い始めていることは間違いないだろう。今は、そして午前中の訓練では現れなかったが、きっと、この身体の中には別の自身が存在している。
だが、それはこうして水月たちA-01部隊の彼女達と過ごしている限り、表に浮かび上がってこれないのだ。ならばと頭を振る。
ならば――この思考も、止めにしよう。
折角、体中が凍りつくほどの狂気がなりを潜めているのである。それを自身から掬い上げて表面に晒す必要はないだろう。
みちるにさえ隠し立てているのだ。当然、水月や他の仲間達にも明かすつもりはないし、悟らせる必要さえない。彼女達と共に在り、戦う限り――自身は、もうあの狂気に侵されることはないのだ。そう結論して、前を向く。
女性ながらに少々歩幅の大きいらしい水月の歩みは、長身の武が何の苦痛もなく歩いていける速度を保っている。まさか武に気を遣ってのことではあるまいが、それにしても、緩やかに大股で歩く水月は……なんというか、男らしい。軍人に男も女も関係ないのだろうが、こうして背後から眺める分には、彼女は十二分に“女らしい”。くびれた腰や、形のよいお尻など、少々目のやり所に困るくらいだ。にも関わらず歩く姿が男らしいとはこれ如何に。そんなどうでもいいことをつらつらと思い浮かべては消していく。
我ながら何を莫迦なことを考えているのかと苦笑するが、しかしそんな武の思考に気づくはずもなく、水月は門衛の詰め所へと近づいていった。
「A-01部隊所属、速瀬中尉だ」
進み出た門衛へと名乗りながら、自身の認識票を提示する。それに倣って、武もまた自身の認識票を提示した。門衛がそれらを確認するのと同時に、水月が外出許可証を提示する。みちるの名で承認されているそれを見て、アジア系らしい門衛が敬礼しながらに道を譲る。
「どうぞお進みください。お気をつけて」
「ありがとう」
水月と一緒に答礼する。堅苦しいことこの上ないが、これも規則だ。まして門衛の階級は伍長。中尉相手に手続きを省略するわけにもいかない。
門を抜けながら、そういえば基地から出るのはこれが二度目なのだと唐突に思い出す。正確には帝国軍時代に一度、そして今回が二度目、ということになる。
一度目は確か……そうだ、茜の姉である遙が両脚を負傷し、軍病院に入院した時である。見舞いに行った茜の迎えにと、こうして水月と門を抜けた。――あれから三年。当時訓練兵だった自分達は、中尉と少尉という立場にあり、それでも……なに一つ変わらないままに歩いている。
(ああ、そっか)
ふ、と当時の出来事を思い出す。病院の廊下で倒れていた茜。貧血を起こした彼女を前に何も出来なかった自分。あんまりな情けなさに笑うしかないが、それでも、随分と成長できたつもりではある。――色々と、精神的にイカレてしまったようだが……。
そういえばあの時は軍車輌を爆走させていた水月だが、彼女は変わらずに徒歩のまま坂道を下っている。行き先も目的も知らされぬままに、ただ連れられている武だが、少々もなにも、迂闊過ぎである。水月と二人きりという事実と、壊れた自分が現れなかったことに浮かれていたのかもしれない。ヤレヤレと小さく溜息をつきながら、視線を……枯れはてた桜の木々にむける。
かつては、眩しいくらいの花びらを散らせていた風景。夏だというのに、緑の芽吹きさえない。『G弾』の影響で、この都市の植生の回復は絶望的だということを、みちるの講義により教えられている。まさか人類初のハイヴ攻略の決定打となった超兵器にそのような事実が潜んでいたということは、少なからず武の心理を揺さぶった。生まれ故郷をBETAに破壊しつくされただけでなく、これほどの荒野を生み出した最大の原因……そして、それが及ぼす重力異常。反吐が出るくらいに、忌まわしい。
今年の春には心震わせるほどの満開を見せてくれた桜たち。絶望的といわれていた植生の僅かながらの回復……或いは植物の持つ生命力の偉大さに、みちるは大層感動したとのことだったが…………今、眼前に並び立つ木々には、生命の神秘は感じられない。痩せ細り、枯れたように佇む老骨のそれである。
と、水月が立ち止まった。
彼女は一本の桜の木の前に立ち、じ、っとそれを見つめている。武は水月の横に並び立ち、同じように木を見つめた。……ここに、なにかあるのだろうか。
そう思い、水月に視線を向けたとき、彼女は口を開いた。
「武……ここにね、木野下中尉たちが眠ってる」
「――ッ?!」
どぐん、と心臓が跳ねた。なんだって――その驚愕が、奔る。
視線を桜の木へ。何の変哲もない、枯れた桜。基地へと続く坂の中腹に在るそれ。その木。ここに……木野下たちが眠っている? 武は、なんとも不思議な表情をしていた。
それは一つの疑問からである。
彼女達は戦死した。そしてその遺骸は残っていない。志乃は兵士級にその肉を食まれ、亜季は亡骸を回収する間もなく、藍子と木野下は……レーザーに蒸発してしまっている。そのために、彼女達の葬儀は遺体のないままに行われ、基地の敷地内に存在する合同の慰霊所へと祀られているのだ。
であるはずなのに、水月はここに彼女達が眠るという。これはどういうことだろう。首を傾げてしまった武に、苦笑しながら水月が説明してくれる。
「この桜の木々はね、横浜基地建設に際して植えられたものなんだけど……それには、一つの謂れが在るの。即ち、“明星作戦”で散った英霊達への弔い」
「!」
ぎょっとする。その話は初耳だった。そして、同時に理解する。なるほど、この横浜の地に存在したハイヴを攻略し、日本の危機を救うために戦って散った数多くの英霊――彼らの魂を弔うための、桜。そしてそれは……彼らの墓標でもある。
桜の花には人を魅了する類稀な美しさが在る。そして、それは死者の魂を慰め、英霊となった彼らを祀るに相応しいのだろう。
改めて桜並木を見渡す。痛々しいほどに枯れた、夏の桜。――ああ、このひとつひとつが、この地を取り戻し、平和を勝ち取るために戦い抜いた先達を祀る、神木……。
武は己の迂闊さを恥じた。事情を知らなかったとはいえ、あまりにも夢のない情感を抱いたものだと、数瞬前の己を反省する。そして改めて目の前の桜の木を見つめ……その表面に、触れた。
水月は何も言わない。武もまた、口を閉ざしていた。
触れた指先にはかさついた木肌の感触。ただそれだけ。だが、ここに、彼女達が眠るという。――彼女達の魂が。そして、武の知らぬ先達もまた、この場所に在るのだ。
胸が熱くなった。じんわりと、込み上げる感情があった。指先を離す。触れていたその場所を、ただじっと見つめる。
「上川少尉……岡野少尉、木野下中尉、篠山少尉………………俺は、生きていきます。貴女たちに救われたこの命の、最後の最期まで……生き抜いて、戦い抜きます。貴女たちに救われたこの命は絶対に無駄にしません。絶対に、絶対に。――俺には、護りたい人たちがいます。護りたい想いがあります。だから、ちゃんとそれを護れるように……強く、前に進んで見せます」
弧月の下緒を解き、右手に鞘を掴んだ。桜に掲げるように弧月を突き出して、そして、
「俺はもう間違えません。俺はもう迷いません。俺は、絶対に、後悔しない。進むと決めたこの道を、護ると決めたこの心を。最後まで、やり遂げて見せます」
そして誓いは成った。眼を閉じていた水月は満足そうに頷いて――バシン! と武の背中を盛大に叩いた。正直に痛い。息を詰まらせて、涙混じりに水月を睨む武に、彼女は、それは晴々とした笑顔を見せてくれたのだった。
===
「しっかし、シロガネよー。お前のあの二刀流、何あれ?」
午後からの訓練の合間、二十分の休憩という貴重な時間の早々に、真紀が拳を突き出しながらに問う。問われた武は彼女の攻撃をひらひらとかわしながら、え、と首を傾げた。二人とも歩きながらの攻防である。タラップを降りながらのその芸当を見れば、互いに実に器用なものだった。
前を進む美冴が振り返る。ああ、それは私もきいてみたい――そういいながら唇を吊り上げるニヒルな彼女に、そして尚も続く真紀の攻撃に思わず怯む武。
「いや、何、って……ただ、長刀二本使ってるだけですけど……」
「そういう意味じゃねーよスカタンっ」
とぁ、とアッパーが繰り出される。が、哀しいかな、小柄な真紀の拳が届くよりも早く、武の手の平が防ぐ。怪訝そうに更に首を傾げた武に、美冴が肩を竦める。彼女の隣りを歩いてた梼子が曖昧に笑って、真紀の質問に補足をしてくれる。
「白銀少尉、真紀さんは、あなたの剣術のことを聞いているんですよ。……あの螺旋を描く機動、そして旋回の剣術。同じ部隊で戦うものとしては、多少の興味を惹かれます」
丁寧なその言葉に、ああ、と納得する。チラリと真紀を見れば、梼子の言葉にそうだその通りと頷いている。……自分の言葉足らずを棚に上げて、いい身分だと思った。
タラップを降り、揃ってブリーフィングルームへ。そこでは既に簡単なデブリーフィング終えたみちると水月がくつろいでいた。旭と慶子の姿はない。二人はまだシミュレーターに残り連携について話し合っている。
「……それで? どうなんだ白銀。お前のあの剣術は、そもそもどういうものなんだ? ……今日の訓練でお前は常に二刀を操っていたな。それであの戦績だ。是非ともその極意とやらを聞かせて欲しいねぇ」
「極意って……」
椅子に腰掛けながら、美冴がさも面白そうに問いかける。その場にみちると水月が居ることを確認して、わざわざ改めての問いだ。その周到さには感服するが、そもそも、美冴たちが期待しているような説明をできる自信がない。
なにごとかと興味深そうにこちらを見るみちると水月。その好奇の視線が武に向いていることは確かめるまでもないのだが……美女五人の注目を浴びて、少々気恥ずかしい。厭な緊張に汗を浮かべながら、溜息を一つ。全員が先任で、しかも武より優れた衛士なのである。逆らえるはずがなかった。
半ば諦めるようにしながら、武は弧月を机の上に置く。黄色いリボンの巻かれたそれについては、既に皆知っている。
武の剣術の師匠。幼い頃に剣術を教えてくれた今は亡きその人物の形見。彼の娘であり、斯衛の警護小隊長である真那から託された、師と彼女の想いの具現。それを簡単にさらいながら月詠の剣術について説明しようとしたのだが、その最初の時点で躓いた。
水月の視線が怖いのである。
なんというかもう、これ以上ないくらいに冷たい視線が突き刺さる。武は美冴や梼子、真紀が座る方向へ顔を向けているのだが……右方向からグサグサと刺さる鋭利なそれは、紛れもなく水月の視線と何らかの重圧だ。そしてそれは以前にも覚えのあるプレッシャーだった。
任官した当初、腰に提げる弧月について質問された時と同じだ。あの時も真那の名を出した瞬間に空気が凍った。武には知る由もないのだが……どうやら真那と水月は知り合いらしい。それも、決して友好的なそれではないと思われる。
そんな記憶に新しいプレッシャーを再び感じながら、けれど水月がそこまで険悪な雰囲気を醸し出す理由に思い至らない武は、恐々としながらも話を続ける。
その間、美冴と真紀が……そしてみちるまでもが、ずっとニヤニヤと頬を緩めていたことを、武は、水月は知らない。水月の想いをよく知っている……と自負している彼女達は、嫉妬にやきもきとする水月を微笑ましく、意地悪く見守っていたのである。梼子一人だけがそんな彼女達を「しょうがないひと」と嘆息するのだが、それで止めさせる梼子ではない。
「……と、いうわけでして。そもそもこの剣術の始まりがBETAとの戦闘の中だったんです」
「なるほど。理不尽とも思える多対一にあって、常に一対一の状況を作り出す、か。正論だな」
「常に動き続けることで囲まれることを避け、そして一個の敵に執着しない……というのは基本的な戦略でしょうけれど。白銀少尉の機動は、それを攻撃・回避を両立させるまでに昇華させている……ということですね」
頷くのは美冴と梼子。しどろもどろな説明に理解を示してくれたようでほっとする。腕を組んで難しい顔をする真紀が、天井を見上げながらに口を開いた。
「じゃあ、なんでいきなり二刀流なんだよ。前は長刀と突撃砲を装備してたよな」
確かにそうだ。水月や志乃に倣い、武は長刀と突撃砲を同時装備するというスタイルを採っていた。そもそもは先任の装備を真似ただけであるが、実際に訓練を重ねる上で、その兵装が実に効率のよい戦闘スタイルだということは理解している。遠近両用、とでも言うべきか。敵に囲まれ、近接戦闘を余儀なくされた状況下でも、更に遠方より迫ろうとする個体を屠ることもでき……なによりも、兵装を交換する手間が省ける。
どうせ乱戦になれば必然的に装備を迫られる近接武器なのだから、最初から装備しておけばよい、というわけである。水月は今も右腕に突撃砲を、左腕に長刀を装備して戦っている。真紀などは長刀の扱いに渋い表情を見せるため、常に構えるのは突撃砲のみであるが……。
そして、そんな経緯もあるからだろう。真紀からすれば余計にも武の二刀流が理解できないのだ。武が剣術を身に付け、そしてその剣術は対BETAに際立って有効である事は理解した。
わからないのは、何故それ以前にも効果のあった長刀・突撃砲の組み合わせを長刀・長刀に変更したのか、という点である。
「ん~~……実は、これは昨日のことなんですけど、」
武はA-01復帰前のシミュレーター訓練の話をした。結局は弾切れで突撃砲を手放すほかなかったわけであるが、その際に両手それぞれに長刀を装備させて以降の撃破数が鰻上りであったことを簡単に説明する。どうしてか、という理由を求められても……結果、そうであったとしか言いようがない。そもそもが訓練兵時代に突撃銃の狙撃訓練をかったるいと感じていた男である。……無論、公言していたわけではないが、心のどこかで銃よりも剣に信頼を置いているのは間違いない。そういう武の表立たない剣術よりの近接格闘能力が開花したのだと、自身は考えている。
或いは、感情の暴走が引き起こした爆発的戦果かとも思ったが、本日の訓練でその可能性は覆されている。
明らかに、武は長刀を用いた二刀流に切り換えたほうが「強い」のだ。動きのひとつひとつが引き締まっていて、鋭いのである。
三週間のブランクがありながら、突然に、以前よりも機動に冴えが見られたのだから……先任たちには見逃せない変化であった。ベースとなっているだろう剣術、その機動は変わらないのに、兵装を変更しただけでこの変わりようである。気にするな、という方が無理だ。
当然、これには武自身も驚いているし、呆れてもいる。水月や志乃が選択しているスタイルだからそれでいいのだと、そこで思考を停止させていたことは事実であり、それが自身にとっての最善かどうかを吟味しなかったのは怠慢だ。そういう己の甘さを自省するとともに、この戦法について更に高みを目指すこと、そしてより効率のよい戦闘方法を考案することも大切であると認識する。
とりあえずの説明を終えての武に、水月が口を挟んだ。
「……今の話聞いてると、あんたの師匠は、戦術機でのその剣術を教えなかったってことよね?」
「……そう、です。正確には、教わる暇がなかったと言うか……」
恐らく、ではあるが。真那はきっと、武が戦術機操縦訓練課程に至った時点で、戦術機での月詠の剣術を教えるつもりだったのではないだろうか。無論、シミュレーターを使用して、というようなことはないだろう。口頭で、或いは日々の修行の延長として、その機動概念や長刀を使用しての戦闘について、様々なことを教わることが出来たのではないかと思う。
今更だが、それを教われなかったことは残念以外のなにものでもない。……だが、それでも武は自分なりに試行錯誤を続け、現在の形にまで至っている。例え自身の力で考案したそれが本来の月詠の剣術と異なるモノだったとしても、それを悔やむことはないし、無駄だとは思わない。これは紛れもなく、武が自分で積み上げた修練の結果である。
思い返せば、幼少の頃に教わった剣術に似ている。基礎の基礎しか教わることのなかったそれを十年以上も続け、そして、自分なりの工夫を織り交ぜて昇華させた剣術である。真那との出逢いによって更に高みに至ることが出来たわけだから……もし、今また真那と過ごす時間が手に入ったなら、武は存分に教えを請おうと思う。そして、そこから得られたものを今の自分の機動に組み込み、更に進化・昇華させるのだ。
そういう思いを水月に語れば、なんとも奇妙な表情をされる。武の成長を喜ぶようであり、なにか面白くないというようでもある。水月の隣りではみちるが肩を震わせていた。
「なるほど、白銀がその月詠中尉とやらを信頼していることはよくわかった。私たちからすれば、お前が強くなってくれることは歓迎だ」
「だからって調子に乗るなよーっ! アタシの本気には遠くおよばねぇぜーっ」
至極真面目な表情で頷く美冴に、きしゃぁ、と牙を剥く真紀。明らかに後者の行動は意味不明である。とりあえず気にしないことにして、武は弧月を手に取った。
チラリと水月を窺うように目を向ければ、こちらを見ていた水月の視線とぶつかる。む、と眉を寄せた水月に苦笑して……。
武は、仲間と在れることの喜びを噛み締めていた。
生きていると実感できる。生きていられて嬉しいという感情が沸き起こる。これほどに。温かく。
そして、この空気に包まれていられるならば、武は狂うことはないのだ。
暴走する感情はなく、どす黒い復讐の念はなく、身を凍らせる狂気も、ない。
だから大丈夫。
もしまた、あんな感情の爆発と暴走があったのだとしても、絶対に。彼女たちといる限り、ともに戦う限り。
狂いはしない。
===
一日の訓練を終え、夕食を終え。そしてなぜか、その場所に立っている。
基地の裏手にある小高い丘。柊町を一望できるその場所に立ち、宵闇に沈む廃墟を見つめる。かつては人々に溢れ、夜でも明かりに満ちていた風景は……最早ない。この町が廃墟となって既に三年が経過している。太陽が沈んでしまえば、そこに在るのはただ茫漠とした、闇。
どうして唐突にここへやってきたのだろうか。武は内心で捻りながらも、恐らくは昼間に志乃たち英霊を祀る桜の前に立ったからだろうと理解している。
彼女達がBETAの手から奪い返したこの土地を、もう一度目に焼き付けておこうと思ったのだろう。……もっとも、目に映るのは闇ばかりだが。苦笑する。感傷的になっているのだと、わかった。
今日一日を振り返れば、それは久方ぶりの平穏だった。
志乃たちの死による感情の揺り返しもなく、復讐に憑かれた妄執もなく、まして夕呼の実験に絡むなにがしかもなかった。武の精神を苛むそれらが一つとしてなかったことが、今日を平穏と感じさせている。さらには、水月の計らいであった。彼女達の墓前――あの桜を参れたことは、武の中に鬱積していた見えない枷を解き放ってくれたようにも思えるからだ。
己の心に誓うだけでなく、彼女達の魂に宣誓することが出来た。その事実が、武の心を軽くしてくれているのだ。
そういった諸々が積み重なって、こうして武は丘の上に立っている。闇に沈む廃墟。見えないそれらを、決して忘れはしない。自分が生まれ育ったこの町を。BETAに蹂躙されたこの町を。多くの犠牲者を出し、その彼らの命と引き換えにもたらされた今を。
忘れない。胸に刻む。
自分は、自分ひとりのために生きているのではないということ。
自分の戦いは、決して自分だけのためにあるのではないということ。
武にとっての戦いとは、既に自身の心に誓っている通り、護りたい人を護るための戦いだ。彼は己に、そしてみちるに、志乃たち英霊に誓ったそれを果たすべく、全力を以って戦い続ける覚悟を決めた。だからこそ、そのために戦うのである。……が、それは、決して彼一人の戦場ではない。
武がその自身の誓いを果たすためには彼と共に戦う人々の協力は不可欠であるし、また、仲間である水月たちの護りたいものを護るためにも、武の力が必要であるに違いない。それは自惚れではなく、厳然たる事実であろう。
護りたいものを護る。それを護れるかどうかは個人の意志と力量だけでなく、共に戦うものたちの自覚と結束にかかっているからだ。独りで出来ることには限界が在る。まして、相手は無尽蔵に湧くBETAである。例えその護るべきものが己の命だとしても、自分ひとりでは到底、護ることなどできないのだ。
その、ともすれば当然と思える事項を、改めて認識する。
基地へと続く坂道に植えられたたくさんの桜の木。そこに眠るとされるたくさんの英霊たち。御霊。彼らが護りたかったものは、なんだったのだろう。……果たして、この地を取り戻すためだけに散ったわけではないだろう。それを、夢想する。
その想いを受け継いで、皆と共に生きて、戦い抜くこと。それが、武にとってとても重要なことだと思える。多分それは、どれだけの狂気に晒されようとも、決して忘れてはならないことだろう。水月は……武の狂気など知りはしないはずの水月は、それを、武に教えてくれたのだ。
「……本当に、水月さんには救われてばかりだ」
ぼんやりと呟く。今日のことについては、恐らくも何も、彼女は無意識だっただろう。水月はきっと、武に志乃たちを参って欲しいという、そんな単純な理由から連れ出したに違いない。……結果として、武の進むべき道を、その道を進むという意味を気づかせてくれた。そのことを、嬉しいと思う。
そうして小一時間ほど夜の廃墟を眺めていただろうか。昼間の熱気の冷めた空気を思い切り吸って、武は丘を下っていった。
腰に提げた弧月の鞘を握る。
そこに込められた想いを、今一度、噛み締めながら。
息を弾ませながらに、走る。毎晩行っているとはいえ、一時間も走り続けていれば汗もかくし疲れもする。ただ走っているだけだが、自己鍛錬としてのそれを始めてから、一日たりとも欠かしたことがないのが彼女の生真面目さをよく表していた。
ゆっくりと速度を落とし、歩く。息を整えながら、火照った身体を冷ますように。見上げれば夜空には星が瞬き――皮肉なことだが、街が廃墟と化して以降、星がよく見える――冥夜は、その美しさにしばし見惚れた。
額を流れる汗を拭い、ふぅ、と息をつく。夜になって気温も下がっているとはいえ、さすがに夏である。これから八月にむけてまだまだ暑くなるのだろう。身体を動かすことが辛く感じる時期だ。が、そんな弱音など吐いている暇はなく。……今はただ、己を鍛え続けるのみ。
五月末に行われた総戦技評価演習を思い出す。熱帯のジャングルで行われたあの過酷な演習。あの、纏わりつくような熱気に比べれば日本の夏など大したことはなく……。
「……」
頭を振る。今更思い出したところで、結果は変わらない。冥夜が属するB分隊は失格したのだ。二重三重に張られた罠に陥り、進退窮まってしまった。尋常ならざる念の入りよう……ということなのだろうが、それに気づけなかった自身たちの未熟さが原因である。決して、そこに何らかの意志が介入していたとは思いたくない。
――この考えはよくない。沈鬱になりそうな思考を溜息と共に吐き出し、冥夜は顔を洗うべく屋外の水呑み場へと向かう。蛇口を捻れば冷たい水が溢れ出し、両手に掬って、思い切り顔にぶつけた。
スッとする。意識が引き締まる。本当なら氷水でも全身に浴びたいところだが、ここにそんなものがあるわけもなく。数度冷たい水で顔を洗って、手持ちのタオルで拭う。前髪が少し濡れてしまったが、どうせすぐにシャワーを浴びるのだから、気にする必要もない。ふわ、っと吹いた夜風に涼しげな空気を感じながら、眼を閉じる。
心地よい疲労と、躍動する筋肉を感じる。心身の状態は万全。いつ如何なるときでも、この状態を保ち続けることが出来るように、まだまだ鍛えなければならない。……とはいえ、じきに就寝時間であるし、なにより、自己鍛錬で限界まで鍛えてもしょうがない。明日も変わらず訓練があるのだし、あくまでもそちらに本腰をいれるべきだ。それを重々承知しているために、冥夜は部屋へ戻ろうと上着に袖を通す。
と。
基地の方へと進む人影を見つけた。どうやら裏手から回ってきたらしい。その人影が進んできた方向を見つめて何とはなしに想像する。
――ん、と。冥夜の感覚が違和感を訴えていた。その人影……男性のものらしいが、それに、なんだか見覚えが在るような気がしたのだ。遠目で、しかも薄暗いためによく見えないが、しかし、その背格好には見覚えが在る。はて、と首を傾げながらに自身も歩を進め――そこで気づく。横浜基地内にいて、背格好に見覚えのある男性など、一人しかいないのだと。
「白銀ッ」
気づけば、声に出していた。まだ若干の距離のある人影に向けて、冥夜は、自身でも驚くほどの声量で呼びかけていた。静寂に包まれた夜のグラウンドに、彼女の声はよく透る。……否、それが例え昼日中の喧騒にあったとしても、矢張りその声は透っただろう。御剣冥夜の声とは、そういったものである。
名を呼ばれ、人影が立ち止まった。振り向くような所作。間違いない、それは白銀武だった。表情まではよく見えないが、驚いたような気配が伝わってくる。冥夜は走った。どうしてか、動悸が激しくなっている。――疲労のせいか? 内心で首を傾げる彼女だが、その答えを持つものはいなかった。
「……御剣」
果たしてそれは白銀武であり――だが、冥夜は息を呑む。
目の当たりにした彼は、間違いなく彼だったのだが……その顔には、一筋の痛々しい傷跡が走っていた。顔の左に、縦に走るそれ。額から頬までを抉るように。縫合の跡さえが引き攣れているように見えて――驚愕に、言葉をなくす。
そんな彼女に気づいたのだろう、武は苦笑しながらに言った。
「悪い。気持ちいいもんじゃないよな、これ」
「……ぃ、いや……」
一体何があったというのか。彼がいなくなってから二ヶ月が過ぎた。その間。冥夜たちの知らない彼の二ヶ月の間に、何が? 思わずそのままに問いかけてしまいそうになった冥夜だが、そもそも、それを尋ねてもいいものかどうか、迷う。酷い怪我であることは間違いない。そして、そんな怪我を負うほどの状況に追いやられた武。現在の医療技術ならば傷跡を消すこともそう難しくはないはずなのに、あえてそれを晒している理由。
瞬時に様々な疑問が脳裏を巡ったが、結局、冥夜は何も言えなかった。ただ、苦笑する武を見つめるだけである。
それに息苦しさを感じたのか、武は一つ息をついて、久しぶり、と言った。――うん、久しぶりだ。冥夜は、自身でもどうかと思うくらい、鸚鵡返しにそう言ってしまった。完全に心ここにあらず、である。だが、しまったと思ったときはもう遅い。そんな彼女の失態に気づいた武は噴きだして小さく笑い、冥夜は羞恥に頬を染めることとなった。
「なっ、なにが可笑しいッ?!」
「くっはははは! いや、悪い……くくっ」
可笑しげに笑う武に、やがて冥夜もつられて笑ってしまう。まったく、らしくない。自身でそう感じながら、けれど、どこか心地よさを感じている己を自覚していた。
ともあれ、目の前にいる男は間違いなく武だった。久しい、という感情が……本当に、大きい。誰にも、茜にさえそのことを告げずに異動していった武。その彼が、目の前にいる。くつくつと綻ぶように笑う自身をどうにか落ち着かせて、改めて向かい合う。
武もまた笑い止み、冥夜を見ていた。どうしても目に付いてしまう傷跡は痛々しいが、敢えてそれを晒しているからには、矢張り相応の理由が在るのだろう。――なにがあったのか。なにをしていたのか。それを、問うてしまいたい。自身の気持ちを抑えられないと自覚して、冥夜は口を開――く、その途中で、武が纏う訓練用の軍装の襟に、見慣れないそれを見つけた。
即ち、階級章。
冥夜の表情が驚愕に強張り――――瞬間、彼女は姿勢を正して敬礼していた。
「し、失礼しましたッ、少尉殿……ッ?!?」
「あ?」
多少の混乱が混じった声音。そして唐突なその所作に、武は目を丸くする。が、すぐに冥夜の挙動の理由に思い至った武は、しまったという顔をして……一応、形式どおりに答礼する。
「あー……その、御剣、」
「はいっ、少尉殿!」
「……………………頼むから、それ、やめてくれ」
がっくりと肩を落として、武は言う。なにやら酷く落ち込んでいるらしいのだが、しかし未だ混乱している冥夜はそれに気づけない。というより、彼女の脳裏は凄まじいほどの思考が錯綜していた。
少尉階級のそれが示すことは唯一つ。武が任官していたという事実。この二ヶ月の間に、人知れず姿を消したその間に、彼は、たった独りで任官を果たし、衛士となっていたのだ。その事実に、驚嘆する。混乱する。
総戦技評価演習に合格したA分隊の皆でさえ、未だ訓練期間に在る。恐らくは来月末には任官するだろうと予想されるが、しかし、現在はまだ冥夜たちと同じ訓練兵である。そして、そんな彼女達と同期であった武も、通常で考えるならば……最短でも任官は来月末。決して、現時点で少尉階級にあるはずがないのだ。まして、……そう、まして。
戦場に出た、などと。
「……白銀、そな、た」
「……ああ。俺は任官してる。衛士として、任務についている」
はっきりと、きっぱりと、武はそう言った。ならば、それが真実。彼の異動とは即ち、任官するための何らかの措置だったのだろう。……どこか他者と比較してずば抜けていた武。まさかそれが、このような結果を呼ぶものだったとは、流石に冥夜の想像を超えていた。またしても息を呑む。武の両の瞳からは、底知れぬ深い決意が感じられた。
改めて武の全身を見る。見慣れぬのは顔の傷や襟首の階級章だけではなかった。腰に提げている日本刀。漆塗りの豪奢な拵に、鮮やかな黄色い布が巻かれている。視線に気づいたのか、武はその刀を手にとって、
「ああ、これは……月詠中尉に託されたんだ」
では、それは矢張り。冥夜は頷く。彼女を守護するため、その任務を果たすために滅私で臨む真那の朱い刀を思い出す。武が提げるそれは、彼女のものとよく似ていた。――それが、月詠の父君の形見か。内心で呟いた彼女に応えるように、武の手の中で、弧月が鳴った。
「……その、黄色い布は?」
「…………」
冥夜の記憶にはないその鮮やかに過ぎる黄色を示して、尋ねる。一瞬、武の表情に翳がさしたような気がしたが……けれど、武は至極真剣な表情をして。
――すまない、御剣。
そう言って、頭を下げていた。冥夜は狼狽する。どうして武が謝罪するのかがわからない。慌てて頭を上げるよう願い出ると、渋々といった感じで、元の姿勢に戻る。とにかくも、ほっと胸を撫で下ろす。突然に謝られても、正直対応に困るのだ。
しかも、相手はまがりなりにも少尉である。いくら武が敬語その他の上官に対する姿勢を厭ったのだとしても、その位置関係は覆らない。たった二ヶ月前までは同じ場所に立っていた彼だが、そこを履き違えてしまえば、軍隊という組織は成り立たないのである。
「いきなり謝られても困る。……むしろ、謝るのはこちらの方ではないのか? そなたにとって、聞き辛いことを聞いてしまったのではないかと……」
「いや、違う。……本当は、二ヶ月前にちゃんと答えなきゃいけなかったんだ。それを、今更思い出した。すまない」
え、と冥夜は目を丸くする。二ヶ月前。武がいなくなったその時。……答えなくてはならなかった、と武は言う。果たして、何のことだろうと首を捻り……ああ、と。苦々しさと共に思い出した。
そう、それは冥夜にとって忘れられるはずもない。彼女の不用意な一言で、武の心を抉ってしまった……その、問い。
武の、戦う理由。護るために戦うという彼の、護りたいもの。
きっと、武はそのことを言っている。答えられなくて済まない。答えるのが遅くなって済まない、と。――だが、冥夜はもう、そのことを無理に知りたいとは思っていない。むしろ、それが武の心を傷つけるものならば、知りたいとは思わない。そう言おうとして口を開くが……それ以上に早く、武は言っていた。
「俺には、護りたいものが在るんだ。それを、そいつを護るために……その力を得るために、俺は衛士を目指した」
シュルシュルと黄色い布を解きながら、武は言う。所々錆色に褪せているそれを右手に握り締めて、まるで愛しいものを見るかのように、それを見つめる。
ぐ、と。冥夜の心臓が締め付けられる。その武の表情を見ているだけで、胸が苦しい。――熱い。
「そいつは、幼馴染で、隣の家に住んでて……窓を挟んでお互いの部屋がすぐそこにあって。ずっとずっと、一緒に居たんだ。ずっと、傍にいた。ガキの頃に師匠に出逢って、剣術を教えてもらって……そう、それからだ。強くなって、純夏を護ってやる、って。そう、決めていた」
「スミカ……」
その名を、遂に、耳にする。
武の心の奥底にいたであろう少女の名。カガミ・スミカ。武だけではない。茜にとっても禁忌に等しいその名を……遂に、武自身が口にする。
「俺は、純夏を護りたかった。あいつがくれたこのリボンを御守りにして、いつでも、あいつを近くに感じていて……だから、どれだけ辛い訓練でも耐えられたし、頑張れた。そのひとつひとつが、純夏を護るための力になるんだと、信じていた」
「…………好いていたのだな、そなたは」
――ああ、今でも純夏を愛している。
迷いもなく、躊躇いもなく。
武はそう言った。はっきりと。しっかりと。少しの危うさも悔恨も見せずに。それが、冥夜には痛い。
「98年にBETAが京都を落とした時……やばい、って思った。俺達は北海道に転属することになって、益々焦ってしまって……俺は、………………」
沈黙が続く。きっと、それは武にとって未だに赦すことのできないなにかなのだろう。冥夜はただ黙って、武が語るのを待っていた。
「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった。純夏のことはなんだってわかっていたはずなのに、あいつが、“そうしてしまう”ことなんてわかっていたのに。…………逃げなかったんだ。俺を信じて、俺が護ってくれるって信じて……純夏は……死んでしまった。その時俺は北海道で、あいつが、この柊町と一緒に消えるのを……ただ、黙って見ていたんだ……ッ」
ぎり、と。武の拳が鳴る。握り締められたリボンが儚いくらいに風に揺れている。息を詰まらせるほどの、感情。武の激情はいかばかりだろう。冥夜には、想像さえ出来ない。
自身が護りたいと願った想い人を、その喪われる瞬間を、手の届かない遥か遠方より傍観するしかない。それ以外に、出来ることのない事実。もし自分がそんな状況に立たされたなら、果たして正気でいられるだろうか。底知れぬ寒気が、肩を震わせる。――そうか、これが、これが白銀武の――ッ。
「純夏を喪って、自分を見失った俺を、水月さんが支えてくれた。壊れそうになる俺を救ってくれた。……涼宮もずっと傍にいてくれて、一番近くで支えてくれて……そして、なんとか前を向くことが出来た。それから、お前たちに会って、月詠中尉と出逢って…………中尉は、俺が進むべき道を示してくれて、導いてくれて、そして、たくさんの想いを託してくれた」
水月、という名には覚えが在る。武が、そして茜が尊敬し、憧れる先任の名だ。速瀬水月。なるほど、武にとっての彼女は憧れ以上に大きく、情の深い存在なのだろう。
さっきからずっと、胸が熱い。鼓動が早くなり、眦が滲んでいる。
「それで、やっと、本当に、俺は……たくさんの人に支えられて、取り返しのつかない過ちを犯して、でも、それでも、護りたいひとたちが居て…………あぁ、俺、なに言ってるんだろうな。滅茶苦茶だ。はは……っ」
「……よい。気にするでない。……わたしには、ちゃんと届いている。そなたの護りたいもの。戦う理由。……しかと、胸に刻んだ」
「そ……か。ありがとうな、御剣……」
礼を言うのはこちらの方だ。冥夜は笑う。涙を浮かべて微笑む武に、負けじと、笑う。
わかったことがある。武が語った中で、明らかにされたことがある。――純夏。その少女。鑑純夏。武にとっての全て。愛しい人。護りたい人。喪われた、恋人。絶望に苛まれ、ともすれば発狂してもおかしくない状況で、それでも、手を差し伸べて支えてくれた人々。
きっと、武が今、護りたいと願う人たち。水月、茜、真那――或いは、出逢い、触れ合った全ての人々か。
辛かっただろう。哀しかっただろう。苦しかっただろう。憎らしかっただろう。様々な感情に、翻弄されたのだろう。――でも、それでも武はそれを乗り越えて、立っている。護りたい人たちを護ると、戦う、戦えるのだと、拳を握っている。
その姿を、誇らしいと思う。
その在り方を、尊敬する。
「そなたは強いな……白銀」
「そう、かな……。自分じゃ、そうなりたいと願っているんだが……」
強いさ。冥夜はただ頷いて、眼を閉じる。不思議な感覚があった。かつて知りたいと思った武の全てを知った。彼の哀しみの過去を、心震える今を。全て。
満たされたように思う自分がいる。まだまだ知りたいと願う自分がいる。どちらも間違いなく自分の心で――ああ、そうか。冥夜は、知る。自分はもっと、武と共にいたいのだと。……だが、それは叶うまい。武の心には今も幼馴染の彼女がいて、そしてそれと同じくらいに大きく、茜達がいるのだ。
そこに、冥夜が座る椅子はないのだと思う。彼が護りたいと想う人たちの中に、自分もいればいいなどと願うことは、きっと、傲慢に過ぎる思いだろう。だから、口にはしない。
「……すまん、なんか、変な空気になっちゃったな。……あ~、と、その」
「よい。そなたが気を遣う必要はない。二ヶ月前ではあるが……それを聞かせて欲しいと願い出たのはこちらなのだ。突き放すことも出来たその願いを聞いてくれたことに感謝する。――そして、そなたの武運を祈らせて欲しい」
頬を掻く武に、冥夜は朗らかに微笑んだ。目礼し、武がこれから進むであろう過酷な道を、その未来を、せめて支える一つになれと。祈る。
「そなたに感謝を。白銀」
「…………」
目を開けて笑う冥夜に、少しだけ照れくさそうに。武も笑う。
そして二人は基地内に戻り、それぞれの部屋へ続く道で別れる。別れ際に、今更だが、と付け加えての武の忠告を、冥夜は素直に聞き入れることにした。
彼の任官が機密扱いであろうことは何となく予想がついていたことである。だから、今夜武と会ったことは秘密にしなければならない。――じゃあな。そう言って背中を向ける武を、冥夜はじっと見送った。
恐らくは、月初めに行われたという朝鮮での間引き作戦。それに参加したのだろう武。あの顔の傷は、その戦場で負ったものなのではないか。……だが、それさえ、冥夜には知ることは許されない。
既に立場を違えている二人だ。極秘裏に任官し、何がしかの任務に就く武と、未だ総戦技評価演習さえ合格できていない訓練兵の自分。そこに隔たる壁は、高く、分厚い。
いつか自分も彼に追いつく時が来るのだろうかと想像し……必ず、追いついてみせると。そして、その傷ついた背中を支えることができたなら、それはどれだけ自身の心を満たしてくれるだろうか、と。
「……涼宮には間違っても話せんな…………」
無論、機密であるならば誰にも話すわけにはいかない。そもそも冥夜さえ武と出遭ってはいけなかったわけであるが……ともかく。誰よりも武のことを想っているだろう茜が知らない武の任官を知れて、ほんの少しだけ優越に浸る自分がいる。
それを浅ましいとは思わない。むしろ、自分にもそんな可愛らしいところがあったのかと驚いてさえいる。
そんな、気を抜けば込み上げてくる微笑をどうにか誤魔化しながら……冥夜は部屋に戻る。自己鍛錬で汗を掻いた服を脱ぎ、浴室へ。
シャワーを浴びながら……どうしてか、鼻歌を歌ってしまう彼女が、そこにいた。