『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十二章-02」
指示された椅子に座り、えもいわれぬ緊張の元、ペタペタと頭部にセンサーを貼り付けられる。スチール製の机を挟み、対面にはイリーナ・ピアティフ中尉。机上には長方形のケース。蓋のないそれには白いカードが詰められている。
センサーから伸びるコードは部屋の隅に置かれた測定器へと繋がっていて、その計測データは隣室に備えられたコンピュータ端末へとリアルタイムで送信されるらしい。
投薬開始から四週間。
前回と同様によくわからない問診という名の精神鑑定――だと、武は想像している――を終え、そして、連れられたこの部屋。B19フロアの一室であるそこは、あの脳ミソの部屋とは遠く離れた場所に在り、当然ながら立ち入るのは初めてであった。
白を基調とした、明るい色合いの部屋に、ピアティフと正面から向かい合う。涼しげな表情でセンサーだらけになった武を見つめる彼女に、少々どころか大いに緊張するわけだが、そんな彼の心情など、香月夕呼に届きはしない。
夕呼はセンサーの接続を確認すると、ピアティフに何事か言い含めながらに部屋を出る。恐らく、隣りのコンピュータ端末に送られるというデータを観測するためだろう。……そういえば、昨年もこのように体中にセンサーを付けられ、色々と測定された記憶がある。その時は武の戦術機適性を解明するための初期データを計測するためだったが……果たして、今回のこれは如何なるものか。
去っていく夕呼の背中を無言のまま見送るが、矢張り彼女は振り返りもしなかった。……当然だ。実験動物に見せる感情など、ありはなしない。今の彼女にとって重要なのは、この測定で彼女が求めるデータが得られるかどうか、なのであろう。
この、何が始まるのかさえ知らされない実験……それにおける武の脳波、というものを測定する意味。考えたところで埒もないが、例えば四週間、という区切り。渡された薬は約二ヶ月分……即ち、既に半分に至ったわけだから、これはそれなりの途中経過を確認する意味での測定実験なのではないだろうか。
これまでの日々に、武の身体に目に見える変化は、ない。身体が痛むわけでも、発疹が出るわけでも、或いは体調を崩すわけでもなかった。楽観的に考えれば、身体的には何の副作用もない……ということになるのだろう。そして同時に、矢張りこの薬は肉体に作用するものではないという証明になる。そこまでを昨日の内に整理していたが、ならば、余計にわからないのだ。
科学的な知識は正直に疎い。爆薬や軍事兵器に通じる知識はあらかた修めているのだが、こと生物学的な分野や、心理学のような部類になるとお手上げだ。そしてどうやら、夕呼はそちらの分野における権威ということらしい。……ならば、どこまでいってもわからないものはわからないのだ。
既に二週間前に、「考えても無駄」と自身に結論している。今更頭を悩ませたところで、自分の知識にないことを妄想しようとしてもどうにもならない。
ならば考えるな。武に対して何の指示もないということは、目の前のピアティフが何がしか実験の主導を握るということだろう。
香月夕呼の腹心。秘書官、という位置づけの彼女が夕呼との間に割り入る意味。或いは、この実験は夕呼では行えないという可能性も在るが……多分違う。わざわざリアルタイム転送されるデータを観測するために隣室へ移動したのだ。それは即ち、夕呼には何らかの確信があって、それに基づいたデータを目の当たりに出来ると予想するからだろう。
後からデータを精査すればそれを拾うことは出来るのだろうが……そこは科学者の思考回路である。武には色々と予想のつかない夕呼の性格というものもあるだろう。
どう足掻いたところで結局のところ、武には大人しく座っていることしか出来ないのだ。命令どおりに薬を服用し、今日という日にきちんと夕呼の下に訪れる。任務に忠実な軍人である以上、避けえない道だった。
「……では、実験の説明をします」
耳に優しい声音が響く。ほんの僅かにまろやかな声。かつてはヴァルキリーズの戦域管制をしていたというだけあって、ピアティフの流暢な日本語はとても聴き取りやすく、透る。
彼女の手には以前夕呼が手にしていたバインダーがある。そこに書かれているだろう文面を追うように、ピアティフの声が続く。
「カードの絵柄を当てる……?」
「そうです。ここには100枚のカードがあります。その全てには、丸、三角、四角、の三種類のマークが描かれています。ランダムに並べられたそれを一枚ずつ私が引きますので、白銀少尉はそのマークを当ててください」
意味がわからない。どころか、胡散臭すぎる。――なんだそれは、というのが武の正直な感想である。
超能力でも試そうというのか? 透視能力……とか、そういった何がしかの超常現象でも期待しているのだろうか? 自慢ではないが、武にそんなものはない。裏返しにされたカードの絵柄を、それを見ないままに言い当てるなんて芸当を、出来るわけがないではないか。
しかしピアティフはいたって真面目な表情で……そして、それ以上の説明もまた、ない。
本気で言っているとわかった。本当に本当に、彼女は今からそれをやれと言うのだ。出来るできないではない。“やる”のだ。ピアティフが引いたカードの絵柄を当てる。丸、三角、四角。その三種類。確立は常に三分の一。あてずっぽうで適当に答えても正解率は三割を超える。……これが、実験。夕呼が大真面目にこれだけのセンサーを貼り付けて、器材の接続を確認して、今も既に隣室で計測されたデータを観測している。……その実験の内容が、透視能力?
莫迦莫迦しい、と思うと同時に――ならばなぜ、ここまで大掛かりな装置を用意してまで実行するのか、と考える。
考えろ。よく、考えろ。
相手はあの香月夕呼なのだ。極東最大規模を誇る横浜基地の副司令にしてオルタネイティヴ第四計画の総指揮を執る鬼才が、直々に執り行う実験なのだ。これは、そう、そういう立場に在る彼女が、大真面目にやろうという実験なのである。それを履き違えてはいけないし、忘れてはならない。
彼女には間違いなく、何らかの確信がある。だからこそこの場をピアティフに任せて自身は隣室に移ったのだ。
――ならば、自分には本当に、そんなことをできる能力が?
“ある”、の、だろう。
……………………否。
“備わった”、のか。
ここまでの状況が揃っていて、何を目を逸らす。いい加減、気づいたはずだ。いや、むしろそうとしか思えないし、それ以外には在り得ない。
身体にはなんの影響も及ぼさなかったあの薬。今日までに何粒呑んだ? 九粒。九回。それは多いのか少ないのか。……だが、こうしてこんな実験を行う価値が在るくらいには、既に「発症」しているのだろう。
絵柄を当てろと言う。それを答えろという。それができるはずだと……そう、言う。ならば、あの薬の効果とは……即ち。
それは脳髄を侵食する、劇薬。
冷や汗が、こめかみを伝う。ぐびり、と喉が鳴った。では、とピアティフが口を開く。――質問はないようですね。そう言って、ケースに収められたカードの、一番上を引いた。
白いカード。反対側は見えない。きっとそこには彼女が言ったとおりに三種類のマークの一つが描かれていて、そしてそれを答えなければならない。
……どうしろというのか。透視能力というものが本当に備わっている……或いは備わりつつあるのだとして、それはどうすれば発現できるのだろうか。じっとカードを見つめてみる。意味もなく意識をカードに集中させてみたりする。……カードだ。ただの、白いカード。全然、全く、微塵たりとも反対側の絵柄など見えてこない。
本当に、こんな実験に意味は在るのか? 疑問ばかりが浮かぶ。わからない。わからない。一切合財なにもわからない。夕呼が武に求めるものがなんなのかがわからない。
「……あの、全然、わかんないんですけど……」
「…………そうですか。では、…………そうですね、……私は今、このカードのマークを見ています。私は引いたカードのマークを思い浮かべますので、それを当ててみてください」
「……?」
恐る恐る正直なところを述べる武に、ピアティフは一つ考える風にして、バインダーに綴じられている書類に眼を通しつつ、答える。やり方を変えろ、ということらしい。……どちらにしろ、奇妙なことには変わりない。カードを透視するか、ピアティフの思考を透視するか、という違いは在るのだろうが…………果たして、それでわかるとは到底思えない。
しかし、やれといわれたからにはやるしかない。
くどいようだが、これは夕呼が直々に執り行う実験であり、恐らくはその能力開発のために自身は投薬を続けていたのだ。そういう前提が在るということを、間違えてはいけない。例えピアティフが言うようなやり方でカードの絵柄がわからなかったのだとしても、それはそれでいいのかもしれない。つまり、現段階では夕呼の求める能力が、まだ武には備わっていないという事実が得られるわけだ。――これが、本当にそういう目的の実験なら、ではあるが。
繰り返し浮かんでは消える、考えても無駄、という諦め。無駄と知りつつもつい考えてしまう己の底の浅さに辟易としつつ、指示されたとおりにピアティフの思考を読もうと試みる。
……といっても、なんの予備知識もない武である。彼に出来ることといったら、先ほどのカードの時と同じく、ピアティフの顔を見つめるだけだ。
○
「えっ――?」
ぎょっ、と。心臓が強張ったような感覚。なにか、視えた……ッ?
莫迦な、と頭を振る。見開かれた目を、もう一度ピアティフに向ける。彼女が思い浮かべる絵柄……カードに描かれた図形。――「○」、だ。
「……………………丸、です」
額に汗が浮かぶ。莫迦な莫迦な、と心臓が鼓動を繰り返す。カードがめくられた。武の視界に映る絵柄は……「○」。
――在り得ない。
単なる偶然と、そう思いたい。頬が引き攣った。ピアティフの表情は涼しげなままである。武の困惑など知ったことではないというように、彼女は二枚目のカードを引いた。武の側には白い面を。そしてピアティフは絵柄を見、それを脳裏に描く。……再び、武はピアティフの表情を覗いた。ふ、っと。武の脳裏に現れるものが在る。――「△」、なの、だろうか。
「…………三角、」
喉がカラカラに渇いている。貼り付く舌を引き剥がすように答えた武の目に、めくられたカードの絵柄が映る。「△」。ははは、大正解だ。――在り得ねぇだろ。
最早引き攣った笑みを拭うこともできない。
莫迦な莫迦な、在り得ない在り得ない。たった九回の投薬で。たった九粒のカプセルで。何でどうして一体何故、どういう理屈でこんな芸当が出来る? そんな能力が、備わるっていうんだ?
それは脳髄を侵食する、劇薬。
ならば既に武の脳ミソは通常のそれとは異なった機能を備えているというのか。あの薬は人間の脳を改造してしまうほどの劇薬だとでも言うのか!? 莫迦な莫迦な。それこそ莫迦な、だ。
引かれる三枚目のカード。脳裏に浮かんだ絵柄は「○」。めくられたそれを確認するまでもなく――もはや厳然とした確証があった。――ほら、アタリだ。
気持ち悪い。
怖い。
震える。
吐き気が。
なんだこれ。
なんだよこれ。
どうしたっていうんだ。
なにをしたっていうんだ。
こんなの気持ち悪い。
なんでわかるんだ?
なんであたるんだよ。
見える。
視える。
わかる。
なんで。
どうして。
これが。
これが、あの、クスリの。
副司令の求めるもの。
意味がわからない。
理解できない。
なんで。
なんで、なんで、なんで。
俺の脳ミソ。
狂ってる。
こんなの普通じゃねぇ。
――――なんで、全部、当たるんだよ……。
的中率100パーセント。
100枚のカードの絵柄を全て言い当てて見せて、武は、憔悴に項垂れていた。頭が痛い。気持ちが悪い。吐き気がする。鬱血しているような感覚。ぎりぎりと、心臓が軋む。べっとりとした汗が全身を濡らして、息がまともに行えない。顔面は蒼白。血の気がなく、瞳は澱んでいる。
――狂ってる。
それは自分の脳ミソか。それを実行した夕呼か。……或いは、そんな薬を開発したという誰かか。効果は実証されている、と夕呼は言った。ならばこれはわかりきった結果であり、そして、その結果に到達するために、幾許かの被験者がいたのだろう。
狂ってる狂ってる狂ってる狂ってる。――この、イカレ野郎が……ッ。
脳が茹るように熱い。ぐらぐらと血液が沸騰するような錯覚。椅子に座っているはずなのに、無重力を漂っているような感覚がする。死んでしまいそうだ。
ピアティフは何も言わない。彼女は書類を整理している。たった今終了した透視実験の結果をまとめ、バインダーと一緒に小脇に抱えた。
「お疲れ様でした、白銀少尉。……実験はこれで終了です。すぐに香月博士を呼んできますので、もう暫くお待ちください」
自分より階級の低い武に対して、なんとも礼儀正しい女性である。
能力……そう言ってもいいだろう。それを連続して使い続けた反動なのだろうか。武は返事をする気力もないほどに、かつてない心身の異常に苛まれていた。脳髄が暴れまわっている気がするのだ。神経のひとつひとつ、そして脳内で生成されるという様々な化学物質が氾濫しているような。それが吐き気を始めとする症状を生み出して……。
ドアがスライドする音。ピアティフの気配が消えた。……なのに、彼女のいる場所が、わかる気がする。――莫迦な莫迦な。気のせいだ錯覚だ幻覚だ!
「……副司令が、来る……」
ドアまで二歩、一歩――――ドアが、スライドした。武は口を噤む。両手で頭を押さえつけるようにして、額を机に押し付けて呻いた。
カツカツと夕呼の靴音が響く。武の正面へとまわり、ピアティフが腰掛けていた椅子に座る。言葉はない。武も何も言わない。ただひたすらに、気分が悪い。おぞましい吐き気が纏わりつく。
「……………………俺は、どうなってるんですか…………?」
「さぁ、どうなってるんだと思う?」
――バンッ! と、両手の平を机に叩きつける。スチールの硬い音が室内に響いた。
ゆっくりと顔を上げる。その表情は……多分、怒りに歪んでいた。ズキズキと脳が痛む。喉をえずく吐き気、暴れ回る心臓。――クソッタレ。
けれど、夕呼は……笑っていた。自身に向けられた怒りを感づいていないわけがないのに、まるで気にした風もなく、悠然と佇んでいる。それが、酷く憎らしいと思えた。――ああ、そうだろう。そうだろうとも。
夕呼にしてみればこれはわかりきった結果だったのだ。彼女は最初からこれを目的に武に薬を飲ませていたのである。それに気づけなかったのは武だ。理由を尋ねても教えてくれなかった……当然だ。こんな薬、知っていたら呑むわけがない。一体自身の脳にどれほどの変革が起こっているのかは想像もつかないが、それでも、これは……あんまりだ。
こんなのはニンゲンではない。こんな能力はニンゲンには不要のはずだ。他人の脳ミソの中身が覗けるなんて……そんな、おぞましい能力。100枚のカードの絵柄を、100枚とも完璧に言い当てることの出来る。そんな能力。なんだというのだ。それが、一体、なんだっていうのか。
わからない。わからない。これっぽっちもわからない。
夕呼の考えが理解できない。或いはこの能力を巧く使えばそれを知ることも出来るのだろうか――厭だ、そんなことはしたくない。ニンゲンで居たい。ニンゲンにはそんな真似は出来ない。だから、絶対に、厭だ。武は歯を食いしばった。ぎりぎりと奥歯を鳴らして、爆発しそうな感情を押さえ込む。――夕呼の言葉を、待つんだ。
ここまであからさまに薬の効果を示したのである。これで何の説明もないなんてことはあるまい。夕呼ほどの人物なら武がこういう反応を見せることも想定済みだろう。ならば、武が抱くであろう感情についても想定の内。そして、そんな反感を抱いた武を今後も手駒として活用するための手順を、彼女は用意しているはずである。――女狐め。反吐が出るとは、多分こういうことだ。
「顔色が悪いわね。何か悪いものでも食べたんじゃない? …………はいはい、そんなに睨まない。冗談よ、じょーだん」
肩を竦める夕呼。武は無言のまま、彼女を見る。……睨み据える、と表現するべきなのだろうか。彼我の距離は二メートルもない。沸騰を続ける精神が爆発したならば、恐らく二秒と掛からずに脳天を叩き割ることができる。そんな距離だ。
「……あんたももう気づいてると思うけど、あの薬は、要するに“超能力”を覚醒させるための起爆剤、という代物よ。正式には、リーディング能力、って言うんだけどね」
「……リーディング……?」
そう。頷いて、夕呼は足を組む。不敵に唇の端を吊り上げて、実に愉しげな表情をして見せた。……どうやら、説明することが愉しいらしい。或いは、それを間抜け面に聞き入る武を嘲ってか。
「リーディング能力……端的にいえば、ヒトの思考を、イメージとして読み取る能力。それは単純に絵として、或いは動的な映像として。音声さえもイメージとして読み取り、それを自身の脳内で再生することができる能力。今あんたがこの実験でやってみせたのは、それよ。ピアティフの思い浮かべたカードのマーク。そのイメージを、あんたは読み取った」
「あの薬を呑ませたのは、俺にその能力を与えるため……ですか」
「そうよ。それ以外になにがあるっていうの? ……まぁ、あんたが聞きたいことは大体わかっているから……そうね、順を追って説明しましょう」
ニヤリと嗤って。その微笑は、武にとって悪魔の微笑みと等価だ。――最早、夕呼をヒトと思えない。
夕呼は椅子の背もたれに体重を預けて、艶めかしい瞳を輝かせる。美しい相貌……それが、この上なくおぞましい。この科学者が何を思い、何を考え、何のために武をこんな風に「改造」したのか。それを知り、納得するまでは――納得など、出来るのだろうか――もう、この科学者を信用などできない。
直属の上官だろうが、AL4の責任者だろうが……関係ない。ただの手駒に甘んじるつもりはなかった。既に彼女の掌から逃れられないのだろうが、それでも、意思在るニンゲンとして、抵抗くらいはしてみせる。――すべては、彼女の話を聞いてからだ。
「1958年、火星に到達した探査衛星がBETAを……当時はまだBETAなんて名前がついていないから、単純に地球外生命体の姿を捉えた後、国連の招聘を受けて各界の権威というべき識者が数多集められたわ。目的は、発見された地球外生命体――即ちBETAとのコミュニケーション方法を模索するため。そのプロジェクトの名は、“オルタネイティヴ計画”。1966年にスタートしたオルタネイティヴ1は、諜報活動や和平交渉など、あらゆる目的を達成する必要に迫られた結果召集されたのよ。動物学者、言語学者から数学者、各国情報機関の暗号解読チームまで投入して、BETAの言語、コミュニケーションの手段を解析しようと試みた」
「……!?」
いきなり明かされた事実に、驚愕する。――1966年!? AL1!?? 聞いたこともないその名。BETAとのコミュニケーション方法を模索するため……だって?!
三十五年も前から、それこそ、連中が発見されてから十年も経たぬ内に。1966年といえば、まだBETAによる侵略は始まっていないはずだ。……ならば、それゆえの、未知との遭遇に沸いていた時代。史上初の発見となる地球外生命体とのコミュニケーション……。なるほど、理屈としては、当時の科学者達の気持ちもわからないではない。
太陽系外から飛来した可能性の在るBETA。惑星間航行技術さえ保有しているのではないかと予想され、ならばこそ、それだけの知性を持った相手の意図を探ろうとするのは当たり前のことだろう。夕呼は一科学者としての当然とも言える見解を交えながらに説明する。……そして、AL1は失敗した。
「BETAの言語を解析するどころか、そもそも言語が存在するのかも謎のまま……計画は暗礁に乗り上げて破棄されたわ」
……確かに、未だに連中の情報伝達の仕組みはハッキリしていない。奴らに戦術的思考が在るのか……在るのだとして、それを実際の戦術に反映させる手段はようとして知れない。例えば光線級のレーザー照射にあわせて回避行動を取る……その統制された行動には何らかのシグナルがあって然るべきなのだが……人類は、それを見つけられないでいる。
三十五年が経過した今も変わらずに謎のまま……。当時の科学者達を無能と嘲ることなどできなかった。
「それを受けて1968年にスタートしたAL2は、BETAを捕獲し、その生体を研究・解明することで彼らとの直接的なコミュニケーションを図ろうとする計画だったわ。その生態を調査するために、彼らの肉体に対するありとあらゆる調査と分析が行われたの。……思いつく限りの方法で、ね」
「…………」
淡々と語っているが……その研究の内容は、出来るならば知りたくはない。恐らくは解剖に始まり、或いは様々な環境下での実験。……しかし、この計画もまた、要求に値するだけの成果を得ることは出来なかった。
確認されている数種のBETAには種を特定するための特徴は一切発見できず、各個体には消化器官も生殖器官も発見できなかった。そんなでたらめな数種類の生物が、高度な科学技術を持つ社会を形成して地球圏に侵攻してきたという事実は、人類を戦慄させるに十分だった。天文学的な予算と、サンプル捕獲のために莫大な犠牲を払った結果わかったこと。BETAは、炭素系生命体であるということ。――ただそれだけ。
当時、既に月面でBETAの猛威を目の当たりにした人々にとって……AL2のもたらした事実など、なにひとつ気休めにならなかっただろう。わかったのは、敵に関する情報の一切合財が“わからない”という事実のみ。不理解は恐怖を生む。そして、その恐怖は間違いでもなんでもなく、敵は強大で圧倒的で、絶大だったのだ。
「1973年、BETAの地球来襲をきっかけに、計画は第三段階へ移行。彼らが社会を形成し、人類に対し組織的な行動を取っている以上、そこには必ず、思考や意思があるはずだ――という前提で計画された、半ばやけくそなプラン」
言葉を切り、夕呼が武を見つめる。向けられた視線を訝しく思いながらも……しかし武は険しい表情で見つめ返すだけである。……なんだというのか。なにか、厭な想像が過ぎる。
「BETAの思考リーディングを目的とし、ソビエト科学アカデミーを母胎に開始された人工ESP発現体の研究……それがAL3よ」
「……ッ!!??」
リーディング……だと? まさか、と驚愕に表情が歪む。確かに今、夕呼は言った。リーディング、と。
解剖してもわからない、話も出来ない。だから、奴らの心を読んでしまおう……流暢に謳うように。夕呼はかつての計画を口にする。……気持ちが悪い。なんだ、それは。
人工ESP発現体……。ESP、即ち、超能力者と総称される人々……。人工というからには、生まれつきそのような能力を有している者、という意味ではないだろう。
例えば武のように。
クスリによって「発症」した……そんな、ニンゲン。
「もともとソビエトではそっち方面の研究が国家プロジェクトとして進んでいてね、数世紀に渡って計画的にESP発現体同士を結婚させて、より強力な発現体を発生させてきたのよ。……勿論、それ以外にも様々な手段が考案されたのだけど……。例えば、ESP能力を持たない一般人を対象に、“投薬を重ねて無理矢理にESP能力を付与したり”……なんて、ね。実験に実験を重ね、数え切れない犠牲者を出し、それでも邁進し続けた狂人の執念、とでも言うべきかしらね。ともかくも、ソビエトにはそういう分野を、国家が、本気になって取り組んでいたのよ。そして、だからこそAL3の中心を担うこととなった」
吐き気が、する。なんだそれは。
ESP発現体同士を結婚させて、その子供がより強力なESP能力を発現できるように? 人体実験を重ねて、人工的にESP能力を発現させて?
ソビエト科学アカデミー……。ああ、なるほど。あのバインダー。「Академия」――アカデミー、か。あれはキリル文字。ソビエト語、だ。……本当に、そういうこと、なのか。
それを、人道的ではないと声高に叫べばいいのか。狂人の執念と夕呼は言う。ほんの僅かに忌々しそうに見える表情。それが嘘でないというならば……否。ならば何故、彼女はそれを武に強制したのか。その答えはまだ、口にされていない。
気が狂いそうだ。気が狂って死にそうだ。
でも、まだ、話は続いている。そしてそれは過去の話であり……実際に、人類が刻んだ黒歴史でもある。人類がBETAを知ろうと足掻いてきた軌跡……それを罪深いと呪うならば、全てを知らねばなるまい。
「AL3では、その中でもリーディング特性の高い発現体を選んで…………人工授精で大量生産し、遺伝子操作で特性を強化していったのよ」
「…………な、……に…………ッ、」
表情を殺した貌で、夕呼は言った。
人類が絶滅に瀕している状況で、そこに倫理を求める余裕はなかった。彼らはなんとしてもBETAの意思を知り、思考を読み取り、その目的を、或いは生態系を、情報伝達の術を、直接的な弱点を、有効兵器を、戦う術を、滅ぼす手段を、生き残る方法を……知らねばならなかった。そうしなければ、滅びてしまうのだと。
それは……そのとおりだ。敵を知らずして、その存在を知らずして、どう戦えというのか。だから知らねばならない。知る必要が在る。……そう、オルタネイティヴ計画とは、BETATとのコミュニケーションを…………奴らのことを知るための計画だ。人類の叡智を集結させ、一丸となって臨む一大プロジェクトだ。そこに躊躇はなく、そこに妥協はなく。ありとあらゆる、考え得る全ての方法、その中でも最も確立の高いだろう手段を講じて進められるのだ。
BETAの言語を解明できず、BETAの生態系を解明できず……だから、ならば、その心を読もうという試み。……決して、無謀ではなかったのだ。
既にソビエトで実証されていたのだから。そういう能力を持つESP発現体――数世紀に渡る人体実験の集大成。その存在が、あったのだから。
だから。
そう、だから――だから彼らは、BETAの思考を読もうとしたその時。最大の効果を得るために、彼らを「大量生産」した。それを出来るだけの予算を、得たのだから。だから……そうした。それをすればBETAの思考を読み取れて、奴らの考えていることがわかって――そうして、奴らとの戦争に光明を見出せるのだと、信じて。
反吐が、でる。
本当に、狂いそうだった。……いや、当に、壊れている。
なるほど。正に人類の危機。そういう局面に立たされていて、そうして、AL3の中心を担う連中には、“そんなこと”を極当たり前に実行できる狂人たちが跋扈していたのだ。なにせ国家プロジェクトである。国がそれを求めた。そういう基盤が在るのだから、彼らにとって、ESP発現体を生産することは呼吸するのと同じくらいに必然で当然なものだった。
そして、一般人を薬で改造するよりも、ESP発現体同士の子供を育てるよりも、一度に、大量に、人工授精だろうが人工子宮で培養しようが、遺伝子を弄くって能力を強化しようが――否、むしろそうする方が確立も効率も上がるのだから、それは当然そうするべきだったのだ。
ははははは。
そうかそうか。ニンゲン誰だって無駄なことはしたくないし、少しでも可能性が高まるならその選択をするべきだ。御尤も。軍人なら誰だってそうする。科学者だって勿論そうする。当たり前だ。それが、課せられた使命であるならば。成すべきことならば。ああ、理解しよう。理解してやる。
じゃあなんで、こんなに怒れているのか。狂いそうだと言いながら、既に壊れていると自覚するのか。
ああ、それもまた当然だ。――だって、俺も、そのひとりとなってしまったのだから。
「リーディング能力には弱点があって、目標に一定以上接近しなければ正確に思考を読み取れないの。大勢の発現体が、ハイヴの中枢を目指す突入作戦に投入されたわ。BETAの思考を読み取るためにね……。作戦に投入された発現体の生還率はたった6パーセント」
酷いものだ。……だが、それも当然だろう。むしろ全滅しなかったことを褒めてやりたいくらいである。そして、からがらに生還した発現体は、結果としてリーディングに成功した事実を報告した。
BETAにも、思考が存在する。
「唯一わかったことは……BETAは人類を生命体として認識していないということ」
「…………はっ、――――はははははははっっ!!」
右手で顔面を覆う。――なんだそりゃっ!? なんだなんだなんだそりゃあっ!? ああ知っているさ。任官したそのときに、みちるから教えられているさ! BETAは人類を生命体として認識していない。そんなこと、わかってるよ――ッ!
ああそうか。そうなんだ。そういうことだったのか。
今まで講義や座学を通して知りえたBETAに関する情報、知識。それらは全部、オルタネイティヴ計画の結果、判明した事実を公表していたわけだ。そして、それしかわかっていない。本当にそれだけしかわかっていない。
天文学的予算を食い潰して、莫大な犠牲者を出して――BETAが炭素系生命体だとわかった。
非人道的手段を奨励して、そこに至るまでにも、そして至った後も。数え切れない人体実験の成れの果てに得られたものは――BETAが人類を生命体として認識していない事実のみ。
くそったれ。
くそったれだ、この世界は。そこまでして、そうまでして、それほどのことをやって……結局、わけがわからない、そのまま。
狂っている。狂っている。とっくの昔から、人類は狂っている。いや、狂わされたのか。……BETAによって。
ああ、可笑しい。笑いが止まらない。なんで、こんなに怒れている? 嗤っているのに、ちっとも、スッキリしない。苦しい、熱い、死にそうだ。――いっそ、殺してくれ。
自分もそのひとりとなったのだ。自分もその成れの果てのひとりなのだ。
遺伝子を操作されなかっただけマシだと喜ぶべきだろうか。お望みどおりの能力を宿したことを褒めてもらえるのだろうか。――くくくはははっ。
ふざけんなよ、畜生。
「…………その嗤い、止めなさいよ。頭にくるわ」
「……すいません。つい。……どうぞ、話を進めてください」
睨まれる。感情をむき出しにした夕呼など初めて見た。……だから、というわけではない。もうとっくに壊れている自己を、気づけば晒していた。みっともない。見ていられない。――俺は本当に狂ってしまったらしい。
ESP発現体。リーディング能力者。そうなった自分。そうされた自分。投薬実験。ソビエト科学アカデミーの集大成。人工授精遺伝子操作エトセトラエトセトラ。数知れぬ被験者達の屍の上に、今、自分は立っている。
「……リーディングと対を成す能力に、プロジェクションという能力が在るんだけど……これは簡単に言えば相手に自分の思考や感情を、イメージに変換して投影する能力よ。発現体たちはリーディングと同時に、人類が考え付くありったけの“和平”のメッセージを彼らに投影し続けたんだけど……」
だが、BETAからの反応は無かった。そもそもBETAに“和平”という概念が存在しないのか、人類を生命体と認識できないから無視しているのか。人類のなりふり構わぬ努力にも関わらず、BETAに関してはこの程度のことしかわかっていない。
そして、AL4――だ。
夕呼は88年頃から理論の検証をはじめ、91年にそれを認められ帝国大学へ招聘されたという。さらに94年には国連から求められ……AL3の成果を接収し。1995年、AL4がスタートする。
彼女があのソビエト科学アカデミーの機密文書に該当するだろう、人工ESP発現体を発生させるための資料や、それに必要な薬を持っていたのも、それ故だろう。なるほど、少なからず成果を残した研究である。彼女の提言する計画とやらにも、その能力は有効ということなのだろう。
さて、それならば。夕呼は果たして武になにをさせるつもりなのか。
リーディング能力を行使した成果は既に明らかである。人類を生命体と認識していない。……或いは、それ以上の情報を求めてのことなのか。戦場でBETAと戦闘しながらに、奴らの考えていることを逐一レポートに纏めろとでもいうつもりか。なんとも笑えない冗句である。――ああ、だが、我らが崇高なる副司令殿ならば、もっともっと素晴らしい策をお持ちだろう。狂って壊れたこの自分がどこまで役に立てるかは知らないが、精々、駒としての役割を果たしてやろうじゃないか。
荒んだ思考が空転する。さっきからずっと、脳ミソがおかしい。感情が砕け散っているとでも言えばいいのか。
……なんだこれ。自分で自分の思考を観察する。明らかにされたオルタネイティヴ計画の、あまりにも無為な結果に嘆いているのか。斜に構えて、投げやりになって、自暴自棄に浸っているのか。憤り、怒り、猛っているのか。嘲りを浮かべ、へらへらと狂人を装い、それでどうにかなると思っているのか。
わからない。ただ確信だけが在る。
絶対に、自分は、碌な目に遭わない。死ぬよりも恐ろしい、死んだほうがマシだと百万回も思うくらいの絶望が、口を開けて待っている。糞喰らえだ。――あんたも俺も、地獄に堕ちろ。
「……オルタネイティヴ4の目的は、00ユニットを完成させること」
「ゼロゼロユニット……」
「そ。それについて話せることはないわ。……ちなみに、あたしをリーディングしようとしても、無駄」
バッフワイト素子――というものがあるらしい。それにはリーディング能力に干渉する何がしかの波長が出ていて、夕呼はそれを身に付けているのだとか。なんとも準備のよいことである。それもこれも、武の能力を確信していたためであろう。
さて、こうしてじっくりと親切丁寧に今日に至るまでの足跡を説明してもらったわけだが……結局、武が求める回答はまだ、ない。
即ち、AL4実現のために奮戦する衛士の一人としての武に、リーディング能力を与えた理由。それを以ってして、彼に何をさせようというのか。
澱んだ視線を夕呼に向ける。どうにでもなれ、という思考が、確かに存在した。――ああ、今ならばわかる。
さっきから渦巻いている思考のひとつひとつ。それらが全部、間違いなく自分の思考なのだと。……つまり、錯綜する自己を、その鬩ぎ合う思考を、読んでいる。
自己に対するリーディング能力の行使。それは恐らく無意識の内に。己の思考をイメージとして読み取り、それが脳内で再生されているのだ。だからこそ、気が狂うほどに、精神が崩壊する。
ならば先週、原隊復帰を果たす直前の訓練時に見せた感情の暴走も……そして、目の当たりにしたもう一人の自分も。
それらさえ、無意識に発動していたリーディング能力で自己の思考を読み取った結果だろう。ああ……そうに違いない。思考をイメージで読み取り、あまつさえその声までも再生する。復讐に身を委ねろという誘惑。黒い瞳を闇色に輝かせていたアイツは、間違いなく奥底に眠る“白銀武”の姿を読み取っていたための、幻視だったのだ。
理解したところで、だからどうしたというのか。尚のこと、自身に備わったリーディング能力の精巧さを示すだけではないか。
既にこの脳髄は通常のそれではない。
後天的に与えられた、投薬による化学反応の果ての果て。九回の服用でこれだけの成果を見せるならば、それはそれは凄まじく危険な劇薬なのだろう。技術が確立され、そしてその成果も実証済み。……だからこそ夕呼はそれを手段として用いたのだろうから、今更それを非難するつもりは無い。その思惑は未だ知れないが、結果として武は死んでもいなければ廃人になっている訳でもない。およそニンゲンとはかけ離れた能力を有してしまったものの、まだ、ギリギリでヒトとして存在している。
それが数多在る命を踏み躙った末であるという事実には感情が擦り切れるが……けれど、それを知ってしまったからこそ、踏みとどまる必要が、ある。
如何に狂おうとも。
止まらないと決めたのだ。
突き進むと決めたのだ。
この身には、護りたい人たちが居る。護りたい想いが在る。
救われた命。与えられた生。生き続ける義務。
迷わない。後悔しない。振り返らない。
ただ、前へ。
そうだ。
それは絶対に、揺るがない。――揺るがせて、なるものか。
「……………………副司令、教えてください。……俺に、何をさせようって言うんですか……」
視線は夕呼を捉えたまま。澱んだ瞳は薄っすらと意志の光を宿す。
暫しの沈黙の後に、夕呼は言う。
「00ユニットの完成までにも、やらなければならないことは数多く在る。あんたにはそのうちの一つを手伝ってもらうわ。……オルタネイティヴ計画は、総じてBETAを“知る”ために行われている。それこそが最終目的であり、手段。無論AL4もそれを根底に根ざしているわ。――詳しい任務の内容はまだ言えない。今はまだ、ね。……白銀、あんたは今後そのリーディング能力の訓練を重ねてもらう。幸いなことにあんたには才能が在るわ。それこそ、ソビエトの連中が見たら大はしゃぎして脳解剖の果てに脳ミソをホルマリン漬けにしたくなるくらいの、ね」
何もいえない。……なにも。
リーディング能力の訓練……。他者のアタマの中を覗き見ることの出来る能力。……なるほど、正しい使用方法を知らなければ、或いはその制御法を知らなければ、武は不用意に他人の思考を読んでしまうことになるかもしれない。それを防止するための訓練……。若しくは、たかだか百回程度……時間にして数十分程度の能力行使で心身に異常をきたすようでは使い物にならない、という理由からか。
どちらにせよ、更にニンゲン離れすることには変わりない。
才能が在る――だと? 武はそのことに関しては鼻で笑った。夕呼なりのジョークなのかもしれないが、ちっとも可笑しくはない。むしろ、それは彼の神経を逆撫でした。
「薬の服用は今後も続けてもらうわ……。能力を安定させるためと…………今更だけど、副作用を抑えるためよ」
「……………………」
ああ、それはそうだろう。副作用がないなんて楽観は、矢張り、無理があるのだから。
考えればわかることだ。人工ESP発現体を発生させる手段。たった九回の投薬……自己に対するリーディング能力の片鱗と言う意味では、六回程度の服用で発現させることのできる薬。或いは夕呼が言う武の「才能」というものも少なからず影響していたのかもしれないが……ともかく、それほど劇的な効果を見せる薬を……どうしてAL3では採用しなかったのか。
人工授精による大量生産。人工子宮の中で育った、遺伝子操作で強化された能力者たち。……この、遺伝子操作を兼ねるためにそれを採用したともとれなくはないが……しかし、そうではないだろう。
要するに、無理があるのだ。投薬による後天的人工ESP。恐らくは脳内で発生する化学物質を活性化させ、通常の人間が使用していないとされる脳の機能を呼び覚まし、未使用の神経系を活発に躍動させて――そうして、無理矢理に、能力を「発症」させる。
クスリ。
それは脳髄を侵食する――魔薬。
死にはしないと夕呼は言った。そうだろうとも。だがそれは、“すぐに死にはしない”という意味なのか、或いは“廃人は死人ではない”という意味なのか。
どちらにせよ、……こういうクスリに手を出した者の末路は往々にして決まっている。即ち――襤褸屑のように朽ち果てる。
クッ、と。喉が鳴った。口は歪な笑みを形取り、胡乱な瞳が、夕呼を射抜く。
「服用を止めたら、どうなりますか?」
「……今ならまだ、言語障害程度で済むわね……」
上等。
ならばとことんまで堕ちてやる。――くそったれ。外道め、地獄に堕ちろ。
――俺もお前も、地獄に、オチロ。
===
そこから後の記憶は、曖昧だった。
気づけばいつの間にかPXに居て、水月たちA-01の先任たちと昼食を採っていた。……あのリーディング能力の実証実験が今日の午前中に行われたものなのか、それとも昨日に行われたことなのか……はたまた、遥か以前のことだったのか。そんな記憶が、曖昧だ。
だが、隣りに座る水月が笑っていて、彼女達が楽しげにお喋りをしていて、笑顔を見せるのだから……ああ、だから、別にいいじゃないか。
気にすることはない。気に病むことはない。
自分は軍人であり、軍人とは与えられた任務に忠実であり、そして最善を尽くして最大の結果を得ればよいのだ。――だったら、それでいい。
どちらにせよ、後には引けない。逃げ場所を奪われていた感は否めないが、しかし、それでも夕呼の命令を承諾したのは自分なのだ。ならばそれは、自らの手でその運命を選択したことと同じだ。
いや、それは最初から。五月に夕呼の呼び出しを受けて、単独での転属に同意を示したその時から。
そう。確かにあの時その道を選択した自分が居た。夕呼によって用意されたレールの上を直走るのだと決定した自分が居たのだ。……ならば無論、これもその一つ。夕呼にとっては全て一貫した目論見であろう。だからこそ、執拗に、武を利用する。
極東最大規模の国連軍基地副司令が、AL4の総責任者が、これほどまで執心してくれているのだ。――光栄なことじゃないか。そう心の中で皮肉って、嘲笑う。
だが、その夕呼の思惑がどうであれ。
「ホラホラ武っ、なにぼーっとしてんのよ! さっさと食べなさい。休憩時間なくなるわよっ?!」
「えっ? あ、ほんとだ」
横から、水月の声がする。肩を突かれて、半分以上残っている料理を示される。時計を見れば結構な時間が経過していて……当然ながら、周りの皆は既に自身の食事を終えている。慌てて箸を進めては流し込んでいく。早食いは衛士にとって必須である。訓練兵時代から結構な早食いを誇っていたし、今ではA-01の彼女達に比べても遅れを取ることはない。
澱むような思考に浸っていたために一人取り残されたが、数分もしない内にすべての皿を片付け、合成宇治茶で一服つく。
(――結局、こうして日常に浸かってさえいられるならば……俺は、)
水月は知らない。
彼女に知らせることなんてできない。
機密だから、という意味ではない。みちるにさえその内容を伝えていないという夕呼の言葉の意味は正にそれを示していたが、けれど、武が口外しないのはそんな理由からではない。
無論、水月だけでなく。
今はまだ会えないでいる茜。いずれ再会することもあるだろう真那。かつての仲間達。207部隊の皆。――絶対に、言ってたまるか。
リーディング能力を知られたくないわけじゃない。……もちろん、それもあるにはある。が、それ以上に。
緩やかに、そして確実に。狂って、壊れて、死んでいく。そんな自分など、知られたくはない。優しい彼女達のことだ。もしそれを知ってしまったらどうなる? それとも、これは武の自惚れだろうか……。だが、どちらにせよ、いい気持ちはしないだろう。
――俺は狂っていて、あのクソッタレのクスリを呑み続けないと死んでしまうんです。
今も隣りで笑ってくれる水月に、そう言ったならば……彼女は、一体、どんな表情を見せるだろう。…………どんな感情を、心を、見せるだろう。
そんなもの、見たくない。耐えられない。そっちの方が、万倍も辛い。深く、心を抉る。
だから、言わない。言えない。知られるわけにはいかない。――だから、そう。
仮面を被ろう。
いつかみたいに。いつかのように。精巧で精緻で、誰にも見抜けない仮面を被ろう。
あの時は無意識だったけど、今度は、ちゃんと自分の意思で。
復讐者を隠す仮面は無様に剥がれ落ちて割れたけれど。今度のこれは絶対にひび割れない砕けない。絶対に絶対に。
絶対に絶対に絶対に。
だって決めたのだから。
だって誓ったのだから。
護りたい人がいる。護りたい想いが在る。生きてみせる。生き続けてみせる――例え、終焉が約定された命でも。
外道の果てに立つ、命でも。
地獄に堕ちるその日まで、生きて生きて、精一杯生きて……………………ああ、そして。いつか。せめて、奈落に叩き付けられる、その一瞬前に。
せめて一目、純夏に逢えるならば。
それで、いい。
守護者として、生きて、死ぬ。――そうできれば、それでいい。