『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十二章-03」
リーディング能力の訓練……午前中を使用してのその訓練の間、武はA-01部隊から外れている。有事の際には即時原隊復帰が認められているが、それがない限りはずっと、ESP能力の向上と安定のために時間を費やすことになる。
部隊長であるみちるには、夕呼の「特殊任務」に従事していると説明したところ、既にあらかたの事情は聞いていたらしく……ひどく真剣な表情で「行って来い」と送り出された。
訓練内容までは知らされていないみちるに、いつも通り、敬礼して応える。B19へ続くエレベーターに向かう道中に、水月とすれ違った。どこに行くのかと尋ねる彼女に曖昧に笑って、
「ちょっと、香月副司令に呼ばれてまして……」
「香月博士に? …………ああ、特殊任務、ってやつね。……そう。しっかりやんなさい」
笑顔で。パシ、と肩を叩かれる。言葉も仕草も異なるが、それはみちるとよく似ていた。……なるほど、水月は心からみちるを尊敬しているのだろう。或いは、根っこの部分がよく似ているのか。快活で優しさの滲む微笑に、頷いてみせる。
――仮面は完璧だ。
これ以上ないくらい万全、と。そう評していいだろう。
笑顔を向けてくれる水月に、ほんの少しだけ後ろ暗く感じながら…………エレベーターに乗り込む。独りになった瞬間に、心臓を掻き毟りたくなるくらいの衝動に襲われた。右手で胸を殴るように押さえつけ、左手は、弧月を握り締める。
極度の緊張か。或いは恐怖か。見えたのは水月の心の色。暖色のオレンジ。決して他者の思考など読みたいとは思わないのに――まるで滑り込むように流れ込んできたその色を、拭い去る。
そんなモノは、視ていない。絶対に、視てなんか、いない。覗いたりなんか、してない。
リーディング能力というものを知り、そして、実際に行使した。子供の頃、自転車に乗れるようになったときと同じだ。――一度コツを掴めば、あとは簡単。
100枚もカードを当てて見せれば、その扱い方など脳裏に刻まれて当然だ。月詠の剣術のように、戦術機の操縦技能のように。既に無意識下に刷り込まれた異能を扱う術。
何気ない、ただ一言二言をかわすだけの会話の中でさえ、無意識にリーディングしてしまった。……それを、激しく嫌悪する。
仮面は完璧だった。そのことに、僅かながらに救われる。――握り締めた弧月が、ぶるぶると震えていた。寒い。凍えそうだ。……心が。
不意に脳裏を過ぎるオレンジ色の温かさ。水月の温度。――ああ、くそ。
それに、安堵してしまう自分がいる。
それに、救われる自分がいる。
これほどに彼女の心の一端を覗き見てしまったことをおぞましく感じながら、なのに、それに救われる……。酷い矛盾だ。
「最低だな……俺は」
筐体が停止する。開かれるドアを抜け、夕呼の元へ。……ここに居る間は、仮面を被る必要はない。外道に濡れた己を、隠しだてる必要はない。なにせ、ここに居るのはそれをやって見せた夕呼しかいないのだから。
執務室のドアの前に立つ。ID認証のドアを潜ると、そこに夕呼の姿はなく。おや、と訝しんだ武の視界に、ひっそりと立つ霞の姿があった。銀色の髪、銀色の瞳。いつもと変わらぬ佇まいで、主のいない部屋の隅に、立っている。
「……社、副司令は……」
「香月博士は、席を外しています」
それは、まぁ、見ればわかる。解せないのは、武のリーディング訓練を行うと言っておきながらに居ないという、その理屈である。……確かに多忙に過ぎる様子の夕呼だ。部下の一人二人待たせることになんの感慨も抱くまい。武の能力が彼女の研究に必要なのだとしても、それは今彼女が執行している何がしかの事項より優先されない、ということなのだろう。
ならば待つしかあるまい。執務室の端に置かれているソファへ向かう。腰掛けるとお尻と背中がずぶずぶと沈んでいく。――なんだこの高級感は。今までの人生で一度も感じたことのない高級素材の感触に、少々複雑な感慨を抱く。こんな柔らかいソファにずっと座っていたら腰を痛めるに違いあるまい。埒もなく思考しながら、視線を霞に移す。
相変わらず微動だにせず、立ち尽くす少女。視線だけは武の方を向いているが、……ただそれだけだ。会話があるわけでも、こちらに近づいてくるでもない。
いや。
そう思った瞬間に、霞がやって来た。ゆっくりと歩いて、ソファに座る。丁度武と向かい合う位置だ。立っているときにも感じたが、矢張り小さな女の子である。武と同じようにずぶずぶと柔らかいソファにお尻を沈ませながら、ちょこん、と両脚をそろえていた。
しばし、見詰め合う。表情の変化に乏しい彼女だが、今日はどういうことか……ひどく、毅然とした眼をしている。
それは、覚悟を持つ者の目だった。
それは、覚悟を決めた者の貌だった。
それは、覚悟を負う者の言葉だった。
――わたしも、同じ、です。
なにを言われたのか、わからなかった。
唐突に、意を決したように。真剣な表情で、真剣な口調で。表情を引き締めて、毅然と瞳を光らせて。言った。――同じ、と。
「……え?」
なにを言われたのか、わからない。なにを指してのことなのか、わからない。間抜けにも疑問の音を発したまま、開かれた口。霞の銀色の瞳を見つめる。一体、彼女が何を言っているのか、それを、探ろうと――
「人工ESP発現体。わたしは、第六世代と……そう、呼ばれていました」
「ッ、あ?」
心臓が、どぐり、と。
血流が、ぐにゃり、と。
脳髄を――銀色の少女達が、蹂躙する。
「……ガッ、!!??」
なんだ、今のは。なんだ、今のは。――なんて言ったんだ、お前は。
ジンコウESPハツゲンタイ。
つい最近耳にした言葉だ。つい昨日聞いた単語だ。そしてそれは、自分を示す言葉だ。……そう、だろう?
同じと言った。わたしも同じと。そう言った。人工ESP発現体。第六世代。銀色の少女達。――つまり、社霞、は。
「社……お前、は、」
AL3。ソビエト科学アカデミーを母胎としてスタートした、BETAの思考リーディング計画。ESP発現体の中でも特にリーディング特性の強いものの精子と卵子を人工授精させ、人工子宮の中で育てられた――人工ESP発現体。それを中心として行われた、という。あの。
第六世代。
1973年に始まり、1995年までの、実に二十年を積み重ねた計画。
BETAの思考をリーディングするために前線へと赴き、たったの6パーセントしか生還できなかった……その、創られたイノチの。
「反吐が、出ますか?」
――!?
僅かに視線を逸らせて、霞が呟く。その言葉は、それは、――俺が、抱いた感情だ。
オルタネイティヴ計画を知って、その連綿と続けられた外道を知って、AL3が行ったそれらを知って……ああ、そうだ。……反吐が出ると、そう、感じた。忌々しいと、そう、思った。
「狂って、いますか?」
ああ、狂ってる。狂ってるさ、そんなの。いくら戦争とはいえ、いくら人類が絶滅する瀬戸際だからって、……そんな選択を迫られるほど追い詰められた世界は、狂っている。そう思える。
それをやった科学者も。それを奨励した国家も。
「外道だと、思いますか?」
そう……だろう? ニンゲンをなんだと思ってる。敵はBETAだ。戦うべきは、斃すべきはBETA、だ。BETAと戦って、奴らを殺して、そうしないと多くのヒトが死ぬ。……なのに、そのために、こんな、人体実験の果てに……。
「…………ひとでなしだと、思いますか?」
違うのか? お前は、そう思わないというのか? 創られたイノチ……人工ESP発現体。人工授精で生み出され、遺伝子を操作されて。
それが、ニンゲンのやることか……ッ!
「…………ヒトではないと、思いますか?」
……ああ、やめろ。
「…………ニンゲンではないと、思いますか?」
やめて、くれ。
「わたしは、ニンゲンではないと、そう思いますか?」
やめろ。
「人類を救うためと信じて、狂いながらも外道に身をやつした科学者を、反吐が出ると嘲りますか?」
たのむ。
「そうして創られたわたしたちを、ヒトではない、ニンゲンではないと。そう、思いますか?」
もう、やめろ。
「覚悟を持ち、使命を果たすために戦場に散った姉達を、その生を、無為で無意味と嗤いますか?」
やめて――くれ。
「わたしは、生きています」
「わたしは創られたイノチです。……でも、生きています。ヒトとして。ニンゲンとして」
「そんなわたしを――生きて、死んでいった姉達を、白銀さんは、“反吐が出る”と。“狂っている”と。…………嗤うんですか…………っ」
ああ――なんて、ことだ。
なんて、傲慢。なんて、無恥。そして、なんて……罪深い。――俺、は。
今更に、気づく。今更に、思い知る。
そうだ。彼らは狂っていた。狂って狂って狂い続けて……それでも、人類に希望をもたらすため、BETAとの戦争に打ち克つために、必死に狂って、人工ESP発現体を生み出したのだ。
そして創られたリーディング能力者たちは、大量生産されたイノチは、人工的に創造された己の生の意味を知り、ただ生み出されたこの世界を救うための礎となるべく、戦地に赴いた。
――その懊悩は如何なるものか。
――その覚悟は、どれほどのものか。
知らない、わからない。……想像も、出来ない。――ああ、だからこそ、なんと恥知らずで、おこがましい。
何一つ、見えていなかった。何一つ、理解していなかった。彼らが何を信じ、何のために狂い、どれだけの覚悟と絶望を負って、死んでいったのか。その、なにもかもを。
理不尽な仕打ちに怒り、狂気を嘲笑い、己のみが哀れなのだと……そうやって、嘆いていた。――なんて、無様。なんて、愚かしい。
それは一つの戦争だった。
戦場でBETAと戦うだけが戦争ではない。それは倫理との戦いだった。それは狂気との戦いだった。それは人道との戦いだった。それは生命との戦いだった。それは救われない戦いだった。それは、それは、……それでも、人類を救うための、戦いだった……。
狂おしいほどに狂い果てた科学者達の。
ただそれだけのために創り出されたイノチの。
信じていたに違いない。信じたかったに違いない。自分が行っていることは必ず人類の明日を作り出すのだと。その、狂気に染まった覚悟を。
課せられた使命を果たすためだけの生。親の温もりを知らず、ただリーディングを果たすための人生。たった6パーセントしか生き残れず、死んでいった人工ESP発現体の、その、生きて死ぬ覚悟を。
――俺は、嘲り、そして、嗤ったのか……ッッ。
それはなんという恥知らずな傲慢か。
我が身可愛さに、一元的なものの見方しか出来なかった。そんな自分を、殺したいほどに憎む。
確かに反吐が出る。確かに狂っている。紛れもなく外道であるし、ひとでなしに過ぎるだろう。
だが、それでも、ヒトだ。
ニンゲンだ。
それでも、彼らは、彼らの戦場で、戦って、喪われて、そして……掴んだ。それはあまりにも救われず報われないたった一つの、それだけの情報だったけれど。
それを無意味と、無為であると……嗤っていいはずがない。嘲りは、自身に。そんなことさえ気づけず、理解できず、ただ、狂人のそれであると反吐を吐いた己など。――死ねばいい。目の前の霞に頭を下げて、そのままに腹を割いてしまえ。
――俺は、莫迦だ。どうしようもなく、愚かだった。
「白銀さんは……謝らなくて、いいです」
「…………」
「……でも、白銀さんも、同じだから……知っていて、欲しい、です」
そう言って、哀しげに。銀色の瞳が揺れる。霞の瞳を覗いて――――流れ込んでくるイメージに、魂を震わせる。
人工子宮に縋りついて泣き叫ぶESP発現体。狂気に耐えられず自殺した若い科学者。衛士と共に戦術機に乗り込む幼さの残る少年。帰ってこない兄姉たち。数を減らすキョウダイたち。済まないと、そう頭を下げて戦場へと送り出す老科学者。生まれた子を抱くことさえできず。生みの親の体温さえ知らず。ただ使命を果たす。己の運命を、用意されたそれを、是、と。精一杯に生きて。
そして、死ぬ。
涙が、出た。
それは霞の記憶だけではなかった。彼女が生まれ、見て、聞いて、たくさんの兄や姉たちの記憶を刻み付けて……それは、大切な宝物だったのだ。
どれほどの狂気であろうとも。どれほどの外道であろうとも。
そこに生まれ、そこに生き、己の運命に立ち向かって、死んでいく。――無駄死にであるはずがない。それが無為であるはずがない。そこには確かに、彼らが生きた全てが在るのだ。
それを、嗤うことなんてできない。
哀しくて、悲しくて、酷い話で、救われなくて…………でも、それを、懸命に戦い抜いた者達が居た。それを、知った。
どれほどの美辞麗句で飾ろうとも、それは間違いなく外道であろう。けれど、それは美しいほどの哀惜が満ちた、ひとつの戦争だったのだ。
謝らなくていい、と霞は言う。ただ、知っていて欲しいのだと。彼女は、少女はそう言って首を振る。
だが、それでは武は自分を赦せない。あまりにも思慮が足りなかった。衛士として戦い抜く覚悟がありながら、世界中に存在する人々の全てが“BETAと戦っている”と知っていながら。……ただ、ただ、自分の身に備わった異能に慄いて、感情の暴れるままにさせて。
まるで自分こそが犠牲者だと。悲観ぶって、いた。
謝らなくていい、と霞は言う。
……だったら、これからの生き方で、示せ。この小さな少女に。自分以上に過酷な運命を背負って生まれた彼女に。人類の狂気の申し子に。――示せ。
己の生き様を以って。
己の生き方を以って。
衛士としての、覚悟を以って。
護り抜く者の、覚悟を以って。
――さぁ、白銀武。お前は、彼女の心に、カノジョタチの生と死に、報い、示せ!
それは狂気であって狂気でないと。
それは外道であって外道でないと。
貴女たちのイノチは、美しく、尊いと。同じニンゲンだ。同じイノチだ。生きている。生きている。自分の生を精一杯に生きて、死んだその鮮やかさに、敬意を。
「……社、俺は、この能力を呪わしいと思う」
「……はい」
「知らされないままに後戻りの出来ない状況に追い込まれていて、それを実行した副司令が、憎い」
「…………」
「そんなクスリを開発したソビエトの連中が憎いし、狂っていると思う。――でも、それは、……ただの俺の感情論だ。何で俺がこんな目に遭わされなきゃならない、っていう……ただの我儘だ」
「………………」
「……でも、俺は軍人だ。衛士だ。だから命令には従うし、任務にも忠実にあれる。…………なのに、俺は忘れていたんだな。気づけなかった。……みんな、戦っているんだ。みんな、我武者羅に滅茶苦茶に、足掻いて足掻いて、何度も狂いそうになりながら、それでも前に進んでいたんだ」
吐き出すような感情は、きっと、霞にも届いている。言葉にする必要はないのだと、少女が訴えてくる。
けれど、これは、けじめだ。
愚かだった自分を、気づけなかった自分を……思い至らなかった己を、戒めるために。
「ありがとう、社。……お前が教えてくれなければ、俺は間違ったままだった。悲劇の主人公を演じて、この能力を、この現状を、呪うまま死んでいたかもしれない。……なぁ、聞いてくれるか? 俺には、護りたい人たちが居るんだ。たくさんの、護りたい想いが在るんだ……。もう、元には戻れないけれど、約定された死に縛られているけれど。それでも、精一杯生きて、護りたいんだ。……お前も、そうなんだな。お前のキョウダイも皆、そうだったんだ……。お前たちを生み出した科学者も、この薬を使った副司令も。……皆、同じ、なんだ」
「……はぃ」
だから、ありがとう。
叱ってくれて。教えてくれて。気づかせてくれて。ありがとう。
ちゃんと生きていけるから。どれだけ狂って壊れてしまおうと。どれほどの外道に満ちた生であろうと。
反吐を吐いても、血を吐いても。腕を足をもがれ、例え心臓さえ抉られても。止まらないと、そう決めている。その覚悟は、もう随分と前から出来ている。護ると決めた。そう誓った。
その想いがまた一つ、大きくなった。
きっとこの能力を受け入れることなんて出来ないけれど、ただそれを嘆くだけの自分は必要ない。軍人であり、衛士で在るならば……死者の想いを受け継ぎ、その生き様を誇らしげに語る流儀を抱く「衛士」であるならば。もう二度と、嘲りは、嗤いは、しない。
本当にありがとう。心の底から。
少しだけ――霞が微笑んだような気がして。
武は。流れ落ちた涙を拭った。
===
ブリーフィングルームにはみちると水月、そして神宮司まりもの三人だけが居た。長机を二つくっつけて、みちると水月が並んで座り、まりもは彼女たちと向かい合う形で腰掛けている。
互いに無言。
室内には、みちるが手にする書類がめくられていく音だけが響いていて……緊迫した静寂が流れていた。一枚一枚を隅々まで眼を通し、内容を記憶するみちる。その間、水月はただ正面のまりもを見つめ、決して書類を横から覗き込む、なんて真似はしない。
いやしくも副隊長という立場にある彼女は、好奇心に疼きながらも、当然の義務として姿勢を正し続ける。視線を向ける先……まりもは、この部屋に入ってきて席に着いたその時から一切姿勢を変えず、じ、っとみちるを見つめている。醸し出す雰囲気は軍曹に似つかわしくなく、ともすれば佐官階級にあったとしても何ら不思議はないほどに。
歴戦の猛者――それはきっと、彼女のことを指す言葉だ。
かつての教導官であり、恩師。水月だけでなく、みちるの教導さえを行ったまりもは、いつまで経っても衰えを見せることはない。……むしろ、年を重ねるごとに益々の冴えを見せているように感じるのは、恐らく気のせいではないだろう。
富士の教導隊に属していたこともあるというから、それはある意味で当然なのかもしれなかったが……しかしまりもの凄まじさはそういう部分だけに限定されない。
誰よりも厳しく、そして慈愛に満ちた母のような女性。訓練兵時代を思い出せば、鳥肌も立つし恐怖が蘇りもするが……なによりも、優しくて温かな想いが浮かぶ。――彼女は、海よりも深い愛情を、教え子全員に与えてくれる。
水月が今、中尉として、副隊長として……まっとうに在れるのは、間違いなくまりもの教えがあったからだと。彼女はそう確信している。……きっと、みちるも同じように思っているに違いあるまい。
尊敬し、目標とする二人の偉大なる先達と肩を並べることの出来る自分を、少しだけ褒めてやりたいと……そんな風に、感じた。
「……神宮司軍曹、礼を言う。……貴女が育てた衛士は優秀だ。これで、少しは我々も楽が出来るかな……?」
書類を置き、口端を吊り上げながらにみちるが言う。つい、と寄越された書類を、水月は無言のままに目を通す。耳だけをみちるたちへ向けながら、意識は書類に。そんな器用な真似をする彼女には構わず、まりもは苦笑を浮かべる。
「ありがとうございます。……ですが、彼女たちが優秀であるのは、全て彼女たちの努力と鍛錬の結果です。私がお礼を頂く理由が在りません」
「そうか……では、これは私の独り言だ」
少しだけ嬉しそうに、そして朗らかに笑うまりもに、みちるはくつくつと喉を鳴らし、目を細めた。実に、まりもらしい。教官という立場を貫き通し、そして、教え子に誇りを持っている。――ああ、ならばそれは素晴らしい衛士となるだろう。まりもが手塩にかけて育てた彼女達を、まりもが更に誇りに思えるような衛士に仕立ててみせる。
そういう意味合いを込めた視線を向けると、察したのだろう。まりもは眼を閉じて、優しい笑顔を見せた。
そんな柔らかい空気を感じながら、水月は次々に書類をめくっていく。
八月末に任官を控えた衛士候補生――第207衛士訓練部隊、A分隊。任官の暁にはA-01へ配属される少女達。
涼宮茜、柏木晴子、築地多恵、月岡亮子、立石薫。
元々は武と同期であり、ともに帝国軍横浜基地へと志願入隊した五人の少女。水月もよく知る彼女たちの、その、訓練の成果を把握する。
――特筆すべきは矢張り茜か。水月の親友である遙の妹にして、自身にとっても可愛い妹分である少女。自分を慕ってくれていて、目標にしてくれているという……なんとも面映い心地にさせてくれる元気印の彼女。どうやら勝気な性格そのままに若干の近接戦闘寄りに成長しているらしいが、狙撃や指揮官適性など、まだまだ伸びしろを残しているように思える。
同じ近接戦闘能力なら薫の方が優れているようにも見受けられたが、総合力で茜が一枚上手、という印象を受ける。なかなかの成績だ。贔屓目に見ても、つい頬が緩んでしまう。――いかんいかん。水月は頭を振った。
機動でいえば多恵がダントツに飛びぬけている。ご丁寧に括弧書きで注釈が付けられているあたりに一抹の不安を覚えるが、まりもをしてそのような評価をさせる機動というものには興味を惹かれる。
狙撃のスペシャリストならば晴子だろう。戦況を瞬時に把握し、常に適切な、そして最大効果をもたらす支援砲撃を得意とする……とある。命中率もさることながら、その判断力の高さにはめざましいものがあるようだ。
総合力で茜に並ぶ亮子。特筆すべきスキルはないが、しかしその全てにおいて新任衛士の平均を軒並み上回っているというハイスペックだ。突出したものがないので埋もれがちだが、……下手をすると、こういう人物が最も恐ろしい成長を見せるものである。
最後の一枚をめくり終えて……ふむ、と一息つく。その頬は緩みっぱなしで、途中気を引き締めたことは何の効果もなかったらしい。
満足げに書類を置く水月に、みちるがニヤニヤと笑って言った。
「速瀬、楽しみで仕方がないって顔だな?」
「あははは~! そりゃあもう! 待ちに待った補充要員ですからねぇっ。しかも遙の妹まで居るんですよッ。これが楽しみでなくてなんだって言うんです?!」
実にあけすけに答える水月に、さすがに苦笑するまりもである。みちるもまた、「違いない」と声を上げて笑う。
机に広げられた書類をトントン、と指で叩いて。まるで不敵な視線で、みちるは口を開く。水月も同じような表情をして、彼女と共にまりもを見つめた。
まりもは、その表情に僅かながらの昂揚を隠しつつ、みちるの言葉を待つ。かつての教え子であり、共に戦場を駆け巡った戦友であり、現在では上官となったみちるの成長を、真正面から受け止めてやるという気概が窺えた。
「世界中で衛士が不足している状況で、これほどの優秀な衛士候補生を育ててくれたことに、改めて礼を言う。そしてどうか、安心して任せて欲しい。このわたしが、責任を持って彼女達を優れた衛士に成長させて見せる」
「は! よろしくお願いします、大尉殿!」
敬礼をするまりもの表情は、とても晴れやかで輝いて見えた。みちると水月も敬礼を返し……そして、この会合は解散となる。
颯爽と去っていくまりもを見送って、みちるは書類をまとめて立ち上がる。水月もそれに倣い、彼女について部屋を出る。歩きながらに、二人は今後の方針を話し合った。
新たに補充される衛士は五人。彼女たちの任官まで、およそ一ヶ月近く残っているが、それでも今から準備をしておくことは悪くない。教導官であるまりもより受けた報告書の内容を吟味しつつ、新しい編成の構想程度はまとめて然るべきであろう。
「涼宮を除けば十三人……通常の三小隊編成を組むことが可能、か……。一人余る計算だが、小隊強の編成が組めるなら言うことはないな」
「そうですね。任官後の訓練でポジションを決定するとしても、通常の編成に組み直す方が効率的に運用できると思います」
現在の変則編成を思えば、矢張り規定どおりの編成で部隊を運用することが望ましい。最小戦闘単位である分隊編成の二機連携。その原則を遵守するならば、矢張り一小隊は四名で在るべきなのだ。四機ならば、常に二機連携を組むことが可能となる。
例えばB小隊の三機編成だが、元々が最前線に突出することを本懐とする水月たち突撃前衛は、往々にして単独となり易い。ただでさえ孤立する可能性の高いポジションに居て、今は三機しかいないのである。相互にフォローし合ってこそ、生存確率も上昇するし効率的にBETAを屠ることもできるのだ。まして相手は圧倒的物量で迫る化け物の大群。単独でそれらに囲まれて、生還を果たすことは困難とされた。
だから、みちると水月の判断は当然のものだろう。部隊の効率的運用、という言葉を水月は用いたが、要はそういう意味合いである。
ならば、とみちるは腕を組む。思案しながらも歩みを止めない彼女だが……しかしその表情を見れば、何がしかの方針を既に用意していることが窺えた。水月は黙して待つ。
「C小隊を新規に編成するならば……小隊長は宗像だな」
当然、そうなる。
階級こそ少尉だが、彼女は水月の一期下の任官である。つまりは梼子たちの一期上ということなのだが……序列に関わらず、単純に衛士としての能力を比較した場合でも、美冴以上に適任はいないだろう。
A小隊に所属し、ずっとみちるの下で戦い、生き抜いてきた彼女である。高い戦闘センスを誇り、状況判断も指揮能力も申し分ない。現在五名変則編成で運用しているA小隊の半分は、美冴の采配に任せているという事実もある。――ならば、何も問題ない。
実際にC小隊隊長として任務に就くのは、茜たちが任官を果たし、少なくとも三ヶ月は訓練をこなしてから……となるだろう。
――と、新任少尉となる彼女たちの訓練プランについても簡単に考えを及ばせた時に、そういえば自分の部下にその訓練期間さえすっ飛ばして実戦に出た莫迦者がいたな、と思い出す。
「……速瀬、改めて考えると、お前の恋人はバケモノだな」
「――ちょっ、!? た、大尉ッ、武はそのっ!!??」
わざわざ足を止めて、口端を吊り上げながらの言葉に、水月が狼狽する。一瞬で頬を真っ赤に染めて、あたふたと視線を躍らせている。わかり易いやつだ、とみちるは意地悪く笑い、いいかげん、素直になればいいのにと溜息を一つ。
……が、部下にそう言えるほど自分は素直かといえば……そうではなく。どこまでも自分によく似た性格の水月に、苦笑するほかない。
「……速瀬、後悔だけはするなよ。手の届く場所に居る、顔を合わせることの出来る場所に居る……声をかわすことのできる距離に、触れ合うことの出来る距離に、居る。……それは、きっと尊いことだ」
「大尉…………」
どこか遠くを見つめて言うみちるに、水月は一つ、思い当たることがあった。――恐らく、帝国軍に居るという想い人……。以前、何かの機会に聞いたことのある……みちるの戦う理由。
生きて、逢い続けるために。
A-01部隊に所属するものは、その任務の特殊性故に対外的には秘匿された存在となる。また、常にAL4の達成のために課せられる過酷な任務に従事していれば、休暇の取得など夢のまたユメだ。……それ以上に、属する組織は異なれど、衛士であり、軍人である。全てにおいて優先されるべきは、軍であり、任務だ。
逢いたい人に逢うことのできないみちるを思えば……なるほど、その言葉の重さがよくわかる。――そして、温かさを。
後悔はするな、とみちるは言う。……どうだろうか、自分はいつか、今の関係を後悔する時が来るだろうか……。――ふふっ、そんなことは、絶対にない。
傍にいるだけでいい。支えてあげられるだけでいい。力になって、護ってあげられれば、それでいい。きっと、そのはずだ。
「大尉、私は大丈夫です。今、幸せですから……」
「…………今、なにか凄い殺意に似た感情が芽生えたんだが……」
「ええっ?! た、大尉~、そこは大人っぽく……“そうか……”って笑ってくれるところじゃないんですかぁ?!」
「やかましいっ! 一人だけ幸せそうな顔をしてッ!」
唐突に感情のメーターが振り切れたみちるに驚愕しながら、それが彼女なりの本音だということも理解している。……ああ、しかし。いくら好きな男を思い出して感情的になったとはいえ、いきなり、それはないんじゃないだろうか。
不貞腐れたようなその表情は、いつものみちるのイメージとギャップがありすぎて逆に恐ろしい。偉大なる隊長殿の素は、ほんのちょっぴり攻撃的な乙女、ということらしかった。
水月は苦笑するしかない。みちるも、可笑しそうに笑っている。やれやれ、なにをやっているというのか――みちるは笑いながら、どこか清々しい気持ちを抱いていた。
水月は幸せだと言う。そうか、ならば、それでいい。
では、自分は幸せだろうか……。――ああ、幸せだとも。満ち足りているとも。
たくさんの素晴らしい部下に恵まれて、支えられて、共に戦えて。――ああ、だから、待っていて欲しい。いつか、この戦争が終わって、世界が平和になったその時。
胸を張って、逢いに行こう。
その時はきっと、女としての幸せを手に入れるのだ。絶対に。
「…………あの、通路の真ん中でなにやってんですか?」
「「!!??」」
突然に背後から声を掛けられて、二人はギョッと硬直してしまう。軍人としてあるまじき失態だが、しかしそれほど穏やかに和んでいたという証明でもあり……一瞬にして、平静を取り戻しいつもどおりを繕うみちると水月。その頬が若干の羞恥に染まっているのは愛嬌というものだろう。
要するに、タイミングが悪かった。
そして、そのタイミングの悪い来訪者は誰ぞ、と僅かに剣呑な視線を乗せて振り返れば、そこにいるのは顔の左半分に裂傷を走らせた武。……とても奇妙で珍妙で不思議なものを見ました、という表情で突っ立っている。
瞬間――水月の顔が爆発するかのように真っ赤になった。
「ぅわっ!? ど、どうしたんですか水月さんッ!??」
驚いて駆け寄ろうとする武を、水月は無言のままに拳を繰り出して迎撃する。まさかのボディーブローに内臓を軋ませる武は、そのまま膝をついて崩れ落ちた。
「……なっ、なに、ヲ……っっ、??」
「わっ、やっ、その! ~~~~ッ、武が悪いッッ!! い、いきなり、驚かせないでよっ!」
いきなり殴られて、全く意味がわからないことで怒られている武だが、真剣に痛そうである。恐らく呼吸も出来ていないのでは、と思わせるくらいに、先ほどの拳は正確に横隔膜を突き上げていた。鍛え上げられた腹筋など、水月の拳にかかれば紙に等しいということなのか……改めて彼女の恐ろしさを痛感しながらに、武は助けを求めるようにみちるを見上げる。
……が。
「白銀、女の話を立ち聞きするなど、日本男子の風上にも置けんな……っ」
なぜか、また怒られた。――なんでだっ!? 愕然とする武を、しかし二人は恨めしそうに睨みつけてくる。
本当に理由がわからない。武はただ、夕呼の指示で彼女の執務室へと出向き、そこで霞によるリーディング能力の訓練をしていただけだ。その訓練がつい先ほどようやく終わり、こうして彼女たちのいるフロアまで戻ってきたというのに……。
ブリーフィングルームに行けば誰か居るだろうと思ってやってきてみれば、そこには通路の真ん中でおかしげに笑うみちると水月。普段から明るく楽しく姦しく、というA-01部隊だが、みちるがこれほどに大声で笑うというのは珍しい。というか、武にとっては初めての光景である。……だからこそ、奇妙と感じ、恐ろしいと思ってしまった。
そういう感情を後ろに隠したままおずおずと声を掛けてみれば………………なぜか殴られたわけである。……思い返してみても、殴られる謂れが全然わからなかった。
「ったく、……ほら武。いつまで蹲ってんのよ……」
「誰のせいですか……」
未だ鈍痛が残る腹をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。水月の頬はまだ少し赤いが、先ほどのような取り乱しようは既にない。……そういえば、あんなに慌てた水月を見たのも初めてだった。なにか、今日はそういう珍しいものを見る日なのだろうか。
珍しいといえば霞もそうだった。 まだ彼女とは多くを語ったわけでも、同じ時間を過ごしたわけではないが……それでも、彼女の本質に在る強さの一端を垣間見れたことは、幸運だったように思う。
彼女が自身の強さを見せ付けて、そして諭してくれなければ……武はまだ、呪われた己の運命を嘆くだけだっただろうから。
そんな数刻前のことを思い出しながら、水月に微笑を向ける。む、と眉を寄せる水月。多分、自分のことをからかわれたとか、そんな風に思っているのだろう。――能力は、絶対に、使わない。
視線をみちるに向ければ、彼女は水月を見つめて笑っていた。――しょうのないヤツ。そんな言葉が聞こえてきそうな微笑みだった。
「……ちょっと武。なに笑ってんのよっ」
「いや、さっきの水月さん、可愛かっ――――ぐぁ、ッッ!!」
鼻っ面に衝撃。目から火花が散る。痛い。本気で。ツン、と鼻の奥を酸っぱい痛みが走る。――が、そんな痛みによろめいていられるほど、水月は容赦を知る人間ではなかった。
近接格闘のプロフェッショナル。突撃前衛に選出されるものは、得てしてそういう能力を持つ。そして、その頂点に君臨する水月は即ち――――硬い通路に、背中から叩き付けられた。今度こそ呼吸が止まり、びくびくと指先が痙攣する。
仰向けになった視界に、呆れ顔のみちるが映る。見ていられない……そんな憐れみが僅かに滲んでいるような気がした。
「ばっ、ばっ、ばっ……!! このっ、莫迦ッ!!!」
「ほらほら、いい加減にしておけ速瀬……。これ以上やると白銀を殺しかねん。……まったく、お前はどうしようもないヤツだな」
顔面を林檎のように真っ赤にしたまま、みちるに引っ張られていく水月。目がぐるぐると渦を巻いていて、見送る分には面白い光景なのだが……。
むくりと上体を起こし、ズキズキと痛む鼻をさする。
「…………で、何で俺は殴られたんだ??」
オマケに背負い投げだ。かつてない水月の乱心に首を傾げつつ、――――ふっ、と。笑う。
仮面がどうとか。
人工ESP発現体とか。
薬の副作用とか。
外道に堕ちた自分とか。
そんなことを一切忘れさせるほど。
水月は、軽々と。本当に軽々と……武を引っ張りあげてくれる。忘れさせてくれる。気にする必要はないと、教えてくれる。
――ああ、本当に。敵わない。
強い、と。心底から、想う。
だから、――絶対に、護りたい。
===
薄暗い、けれど、少女にとって何よりも心安らぐこの部屋。
人工的に生み出され、施設の外から出ることを許されず、同じ境遇のキョウダイたちと過ごした……かつての日々。
それが、彼女――霞にとっての記憶。AL3の目指す、BETAの思考リーディング。ただそれを果たすために創られた自らを、当時の霞は嘆くわけでも呪うわけでもなく……ただ、それが当然のことなのだと受け入れていた。
別に、稀有なわけではない。それが、彼女の……彼女たちにとっての、“当然”であり“義務”だったのだから。
生みの親、とでも言うべき科学者達はそうやって霞たちを教育したし、知性を持った瞬間から、それに近しい刷り込みも行われていた。この戦乱の時代において、それでもモラルを唱えるものは言うだろう。――人道に悖る。外道、と。
そういう意味で評するならば、白銀武という名の青年は……真っ直ぐな心をしていたのだろう。だが、彼の憤り……そして嘲笑は、霞の心を抉ったのだ。
自分を、自分の命を、キョウダイたちのイノチを、そんな風に思って欲しくはなかった。それを強制した科学者達を、罵って欲しくはなかった……。
「白銀さんは……ちゃんと、わかってくれました。……優しいですね、白銀さんは」
微笑みを向ける。シリンダー。青白く発光する液体、それに浮かぶ、脳ミソに。霞は、穏やかに笑って見せた。
薄暗い、けれど、ここは……少女にとって何よりも心安らぐ場所。“彼女”の居るこの部屋は……かつての日々にないたくさんの思い出をくれる。
自分にはない人生。自分の知らない外の世界。自分は体験したことのない感情、経験、知識。たくさんのそれらを、“彼女”はくれる。
リーディング能力。
武が、それでも「呪わしい」と沈痛に零すそれ。けれど、霞にとってのその能力は……なくてはならない、生きていくために絶対に必要なものだった。
だって、それがないとわからない。
自分と接する人が何を考え、どんな思いを持っているのか。何の記憶も経験も持たない自分には察することも理解することも出来ない。……だから、この能力は、手放せない。人が歩く時に足が必要なように。物を持つときに腕が必要なように。霞にとって、リーディング能力とは。
ヒトと触れ合うために、絶対に必要だったのだ。
それは最早能力という括りをこえて、彼女そのものと言っても過言ではない。――少なくとも、霞にとっては。
そしてなにより、その能力がなければ“彼女”と会話することもままならない。往々にして霞が一方的にプロジェクションで話しかけるだけなのだが、時折、“彼女”は霞の知らない世界を見せてくれる。応えてくれるのだ。……それを、リーディングで読み取る。
任務、であった。……だが、それ以上に。
霞にとって、それは。自分にはないたくさんの思い出を重ねるための……かけがえのない時間なのだ。
「……もうすぐ、また、話が出来ます…………」
語りかける。……返事は、ない。だが、霞は小さく笑って。
そう遠くないその日に、武は“彼女”と“会話”するだろう。夕呼はそのための準備を着々と進めている。自分もまた、そのために武の能力指導を担当している。
リーディング能力については申し分ない成果を見せているから、残るはプロジェクション能力の開発と訓練だ。
今日の訓練の最後に、武は新しい薬を受け取っている。……もはや、避け得ぬ投薬。それだけが、霞を暗く落ち込ませた。
最初から「そのように」創られた自分には、あのような劇薬は必要ない。……そして、自分がもっと、夕呼の望む成果を出せたなら……彼はそんな魔薬に侵されることはなかったのだ。
“彼女”のことはある程度の情報を手にすることが出来ている。だがそれは、“彼女”自身や“彼女”に近しい人たちの記憶、という程度でしかない。夕呼が求めるのはそんなことではないのだ。もっと深く、もっとあけすけに、彼女が見た何もかもを欲するのである。
だが、霞ではそれを読み取れなかった。拡散し、氾濫する“彼女”の精神の奔流を、掻い潜ることができないでいる。潜り込むことを拒まれているのか……或いは、単純に、リーディングが通用しないほど、記憶が、思考が崩壊しているのか。
だからこそ、夕呼は武に白羽の矢を立てた。
彼ならば或いは……そう思うからこそ、自ら外道と忌まわしく思いながらに、その手段を躊躇なく選択した。その選択は、霞にとって……少しだけ、哀しい。後悔を抱かせるものだった。
夕呼にそれを選択させたのは自分。武が壊れていく原因となったのは自分。
そんな悔恨が、一時霞を苛んでいた。――でも、それは間違い。
武への投薬が開始された時、霞は夕呼に泣き縋ったことがある。自分の力が至らないばかりに、ごめんなさい、と。夕呼に外道を進ませて、武の人生を壊してごめんなさい、と。
頬をぶたれた。視線だけで殺されると思った。――夕呼は、烈火の如く怒ったのだ。思い切り睨まれて、怒鳴られて、ふざけてんじゃないと、舐めるな、と。
――あんたの同情なんて欲しくないわ。これはね、社。あたしが、あたしの意志で、現状考え得る中で最も可能性が高いと判断したことよ。“外道を進ませてごめんなさい”? 莫迦にするんじゃないわよ……。
そのときに、ようやく知ったのだ。自分の愚かさを。知らぬ内に夕呼を侮辱していたのだと。……そして、彼女の高潔さを。
自分を研究所から引き抜いてくれた夕呼。目的のためならばどこまでも非道になれる冷酷な女性。……でも、霞にとっての彼女は……本人に向けて言ったことはないけれど。
まるで、お母さんの、ようで――。
だから、そのことで……投薬実験のせいで、武が夕呼を憎むことが……哀しかった。彼からすれば、自身のあずかり知らぬところで脳を改造されていたのである。しかも、最早投薬の有無に関係なく、絶対に、ヒトとしての機能が壊れて、死ぬ運命に在る。
憎むな、という方が酷だろう。
命在るものは必ず死ぬ。それは万人が避け得ぬ運命であり結末であるが……。
護りたい人が居る。護りたい想いが在る。そう言って、だから、戦うのだと教えてくれた彼は。果たして、その想いを貫けるだろうか。貫いて、逝けるだろうか。
「……逢いたい、ですよね。…………お話、したいですよね。……たくさん、たくさん。白銀さんと、お話……したい、ですよね?」
でも。
きっと。
それは――なによりも。
残酷で。悲惨で。哀しくて。涙が出て。心が引き裂けて。感情が砕け散る。
彼の、武のその、大切な想いさえを粉々に砕くほどの絶望を。
それを、引き起こすだけなのではないか。
…………霞は、泣き笑いのような顔をした。
その後悔は、その悔恨は……夕呼を侮辱するだけだと知りながら。けれど、それでも。――ごめんなさい、白銀さん。
哀しいと。泣いてしまうのだった。