『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十三章-01」
207A分隊が任官した……その事実を、素直に受け入れられている自分を認識する。
先に行った彼女たちを羨む気持ちがないと言えば嘘になるが、それ以上に誇らしく、嬉しいという感情がある。――おめでとう、茜。
残暑の厳しい太陽を見上げながらに、そう心中で呟く。千鶴は、額から零れ落ちる汗を拭った。
「……榊、気分悪い?」
「えっ……?」
唐突に呼びかけられ、驚いてしまう。振り向けばそこには同じように汗でアンダーシャツをぐしょぐしょにした慧が立っていて……不審げにこちらを見つめている。
案じてくれたらしいのに不審げな視線を寄越すとは何事か……と眉を寄せつつ、以前では考えられなかった彼女の気遣いに苦笑する。……相変わらず慧と衝突することは多いが、それでも、現在では彼女との関係も良好……と、いっていいだろう。
それもこれもまりもの発案によって行われたあの奇妙な共同生活のおかげだが、今ではそれに感謝している。
慧だけではない。冥夜、美琴、壬姫。そして自分。互いに深く干渉しあわないことをどこか美徳と感じていた自分の、……そして、同じように考えていただろう彼女たちの、凝り固まった常識をぶち壊してくれたまりもには感謝してもしきれない。
知られたくない、知って欲しくないことは確かに存在するし、それを無理に聞きだそうとは今でも思わないが、でも、個々人の考えや意見、生き方。そういうものを目の当たりにして、自分たちは全く別の人間なのだということを理解して、そして、だからこそ互いをよく知り、相互理解が必要なのだと知った。
かつて、武が自分たちに向けた怒り。あれは的外れでもなんでもなく、真実、自分たちを諭してくれていたのだろう。……言葉足らずで感情的なものだったけれど、千鶴は、それにさえ感謝している。
苦笑しながら振り返った千鶴に、慧は益々不審げな表情を見せる。ちらり、と視線を太陽に向けて、また、千鶴を見る。
「…………日射病?」
「なんですって!?」
目を線のように細めて、ぼそりと呟く慧。思わず大声を出してしまったが、今ではこういうやりとりもどこか柔らかく感じてしまう。……人間、変われば変わるものだと実感する。
飄々とした態度を崩さぬまま去っていく慧を、しかし千鶴は追わなかった。時刻はじきに正午。食事の前にシャワーでも浴びるのだろう。グラウンドに一人残されて、けれど千鶴はまた空を見上げた。足早な雲が太陽を隠し、またすぐに流れていく……。心地よい風が、硬質な毛先を揺らしていた。
思い出す。
総合戦闘技術評価演習。その、最後を。
千鶴率いるB分隊は失格した。それは、単純に言ってしまえば仕掛けられた罠に気づかず、退くも進むもかなわぬ状況に陥ったからだ。サバイバル能力に秀でた美琴が居ながら、彼女が気づいたときには既に泥沼に嵌っていた……。そのことで美琴を責める者はなかったが、彼女は今でもそのことを気にしている。――自分がもっと早く気づけていれば。そう言って涙を零していた彼女の姿は、声は、今でも鮮明に残っている。
……が、それを言うなら皆同じだ。或いは、その針路を決定したのは千鶴なのだから、自分が責められるべきであろう。……まして、曲がりなりにも分隊長である。部隊の責任は隊長の責任。順調に任務をこなせていたことによる慢心――と、そう評価したまりもを恨むつもりは毛頭ない。
悔しいと思う。情けないとも思った。……だが、まだチャンスは残されている。十一月に行われる後期の総戦技評価演習。これを落とせば全てが終わる。――絶対に、合格してみせる。
けれど、一つだけ……脳裏を過ぎる疑念が在る。
絶対に、そんなことはないと信じたいのに……ほんの薄っぺらな感情が、その可能性を示唆してくる。
――お前は、戦場に立つことなんて出来ない。
拳を握った。奥歯を噛み締めた。……やめろ。この考えは、やめろっ。
父の顔が、浮かぶ。榊是親。内閣総理大臣という日本の上位職に位置づく存在。
考えたくはない。そんなことがあってたまるかという鬱屈が、腹の底を這い回る。
家出当然で飛び出して、国連軍の門戸を叩いた。……帝国軍は、父の影響が強過ぎて絶対に入隊できないから。だから、千鶴は国連軍に入隊したのだ。この手で、BETAを葬るために。この世界に、平和を取り戻すために。――なのに、なぜ。
自分が軍属になったとしても、父の手から逃げられるとは思っていない。スンナリと国連軍に入隊できた時は内心で驚愕していたのだが、今考えれば、あれは“人質”として送り出されたような形となっていたのではないだろうか。
戦国の世では珍しくもない手段。その相手とは戦う意思がないという証明として自身の血縁を人質として送り出す。千鶴の父、是親は、彼女をそのようにするべく、国連軍側に手を回したのだろう。
或いは、娘の意志を尊重しただけなのかもしれないが……政治家である是親には、そのような感傷は皆無だっただろう。我儘娘が莫迦をやったが、それはそれで利用できる……という打算を働かせたに違いあるまい。
この考えはやめろ、と。そんな風に考えたくはない、と。千鶴がいくら思ったところで、それが晴れることはない。もう何回も繰り返して……最早、自分たちが失格した理由はそのためなのだという屈曲した思考が空転しそうになる。
……だが、人質については定かではないが……総戦技評価演習での失格は、きっと、まりもが言ったとおりのことでしかないのだ。
そこには榊是親の思惑も、千鶴が人質として在ることも関係なく。単純に、自らの力量不足によるもの……。そういうことだ。絶対に。――それ以外の理由なんて、あってたまるか。
もし、もしも……そんなものがあったのだとして、それが「お前は帝国軍からの大事な人質なのだから」と説明されたなら……では一体、自分は、自分たちはなんのために死に物狂いで訓練に明け暮れているというのか。なんのために、これほど必死になって自身を鍛えているというのか。
だから、絶対に、そんなことはない。
そう信じたい。……でなければ、前を向くことなんて出来ず、先を目指すことなんて出来ない。
「……榊、なにをしている。あまりにも遅いので、皆心配しているぞ?」
呆れたような声。視線を向けたそこには腕を組んで溜息をついている冥夜。着替えを済ませたらしい彼女は、ぼんやりとする千鶴を見て、やれやれと小さく苦笑した。
「……そう。すぐに行くわ」
「そうしてくれ。……そなたの分の食事は取っておく。早々に着替えを済ませるがよい」
済まなそうに答えた千鶴に、冥夜は快活な笑顔を見せた。一々言葉遣いが堅苦しいのも、彼女の魅力の一つだろう。
一瞬だけ、先ほどの“人質”についての疑念が浮かんだが……冥夜の向ける緩やかな視線に、そんなものはスゥ、っと引いていった。
涼やかな風が吹く。汗に火照った身体を撫ぜるそれに頬を綻ばせながら、千鶴は基地へと歩を進めた。
===
最初の一週間は座学が主となる。任官し、正規軍の一員となったことで開示される情報は、訓練兵のそれと比べるまでもない。部隊の任務内容や、軍規、或いはBETAの詳細について等々の知識を片っ端から詰め込んでいくのである。
特にBETA個々の特徴・能力や、ハイヴの構造、その分類などは否が応でも頭に叩き込んでもらわなくては困る。敵を知らずして戦うことなど出来ない。その点を言えば実際のところ連中についてはめぼしい情報を得られていないのだが、長きに渡る闘争の末に、それぞれに対する有効兵器や戦略は、ある程度整理されているのも事実。
ならばこそ、しっかりとそれを抑え、把握することで実戦におけるパニックを軽減し、冷静な対処が行えるようにするのだ。無論、座学で教えられる知識が全てではないだろう。だが、新任の彼女たちにはそれらの情報ひとつひとつが、己を生かし、仲間を生かすために必要な拠り所となる。
故にみちるは一切の妥協を許さず、また、受講する五人の少女達も己に甘えを許さない。
モニターに映し出される醜悪なBETAの異形に、息を呑み、眉を顰めたとしても。……眼を逸らす者など、いないのだ。
真摯な態度で座学に臨む新兵たちを見て、みちるは内心で「さてどうしたものか」と頭を悩ませていた。口では光線級について、こいつが如何に厄介で煮え湯を飲まされた相手かを説明しながらも、脳裏では全く別の思考を展開させている。我ながら器用なものだと感心するが、不真面目ともとれないこともない。
が、幸いなことに……というか、当然なのだが、茜達新任少尉はそんなみちるの内心の思考など気づくはずもなく。みちる自身も、教授する立場として本腰を入れるために、早々に思考を纏めるよう務めた。
つまりは、
――茜達新任を、いつまで訓練期間に充てるか……
である。
無論のこと、任官したからといって訓練がないわけではない。当たり前だ。実戦に出ずっぱりならいざ知らず、現在の横浜は前線に位置するとはいえ、佐渡島にある甲21号ハイヴからの直接侵攻でもない限り、早々、戦場になることはない。
だからこそ日頃の訓練は至極大切であり、これを怠ることなど許されない。
また、A-01部隊は特殊任務部隊であり、香月夕呼の命令でいつ何時出撃が掛かるかわからない部隊だ。横浜基地防衛だけのために存在しているのでは、ない。そして、その任務が容易であったためしはなく、死人が出ない戦闘など殆どない。
至近の作戦では四人が戦死し、それ以前にも多くの上官、同僚、部下を喪っている。……日々、厳しい訓練を積み重ねておいて、尚……だ。敵はそれだけ強大で恐ろしく、圧倒的なのである。だからこそ、それらに対抗するためにも訓練は欠かせない。
だが、こと新任の者については……それ以前に、部隊として機能するために必要な訓練期間というものが在る。
例えばそれは現在のような座学であったり……先任との連携を万全とするための訓練であったり……シミュレーターによる、BETAとの戦闘であったりする。
いつ何時出撃となるかわからないのだが、ろくにBETAと戦えない状態で戦場に連れ出すわけにも行かない。往々にして新人は死に易い。シミュレーターでBETAとどれだけ戦っていても、初陣で感じる生の空気というヤツにとり憑かれて死んでいくものは多いのだ。
“死の八分”――どれだけ準備万端で挑もうとも、それに飲み込まれるものはいるし……逆に、ろくに訓練を積めないまま、それを乗り越えるものも居る。
要するに、人は計れないのである。……或いは、みちる自身にもう少し慧眼があればそれさえも把握できるのかもしれないが……。
通常であれば、とみちるは思考を回転させる。
通常であれば、三ヶ月。座学に一週間、部隊内の連携習得に二週間。シミュレーターおよびJIVES(統合仮想情報演習システム)を使用した実機演習に二ヶ月。……恐らくは、それが一番望ましい訓練期間だろう。
余裕が在るならば、それを選択すべきだ。……現在、新任五名を除き部隊は九名。内一名はCP将校であるため、実際に戦場でBETAと相対するのは八名となる。
本来三個小隊で一個中隊と成るべきところを二個小隊での変則運用を強いられている現状……矢張り、余裕が在るとは言い辛い。だからこそ、このたびの補充は正直に喜ばしい。報告書で見た限り、彼女達の成績は申し分なく、すぐにその実力を開花させてくれるだろう。
だが、それはあくまで紙面での評価でしかない。みちるはまだ彼女達の、現時点での実力というものを見ていないし、これからの才能についても未知数である。
……結局のところ、当面の予定通りに訓練を続け、それを見て訓練期間を変更或いは修正する、という方向で進めるしかあるまい。
最終的にそう結論して、……ならばそもそも何故、こんな思考に耽ってしまったのかを思い出した。
――白銀武。
茜達の同期であり、類稀なる才能を期待され、単身で任官した男。アレは夕呼の指示というのが大きいが、しかし、経緯はどうあれ、武は僅か二週間ばかりの訓練で実戦を経験し、……矢張り、経緯はどうあれ、生還した。
つまり、彼がたった二週間……通常ならば三ヶ月、少なくとも二ヶ月は欲しい訓練期間をすっ飛ばして実戦に出たのだから、その同期である茜達もそうするべきか、と。単純に、そういう思い付きだった。
だが、既に結論したとおり、彼女たちは通常通りに訓練すべきだろう。……正直に言って、武のそれは常軌を逸しているのだから。
そもそもの発端は戦術機適性「S」ランクなどという桁外れな数値を叩き出した彼の特異性だ。夕呼の研究によって明らかになった、発達した三半規管、強靭な内臓器官。それらがあったからこそ、十四時間連続のシミュレーター・実機訓練が実現できたわけだから、矢張り短期間での彼女達の錬成は現実的ではない。
まして、今回は『伏龍作戦』のように目前に迫った作戦もなく、また、それに彼女達を出撃させてデータを採る……といった裏事情もないために、敢えて急ぐ必要もない。
勿論、一日でも早く一人前に、実戦に出ても生きて帰ってこれるくらいに成長して欲しいとは思うが、急いてはことを仕損じるの諺もある。ここは、武と彼女達を引き合いに考えるべきではあるまい。特例は特例。彼のような特異な身体構造をしていない彼女達を、それと同じレールに乗せるべきではない。
兵士級までの説明を終え、質問を受ける。そのときには既に、先ほどまでの思考は脳の片隅に追いやられていて……。
みちるは、新たな部下となった五人の少女達の質問に、丁寧に答えるのだった。
初めて見たBETAの姿は、おぞましく、最悪だった。――……これが、こんな姿をしたものが、人類の敵……っ。
モニターに映し出されるBETAの姿。濃紺の背景に、その構造だけが描かれた戦車級、という敵のシルエットを凝視する。これまでにも光線級や要撃級など、十分おぞましい容姿をした連中がいたが、……一体何の冗談かと疑いたくなるような奇怪な姿。
腹の下……と表現していいものか甚だ疑問だが、そこにズラリと並ぶ歯は、戦術機の装甲さえ噛み砕くという。そして続く闘士級に兵士級……というそれらも、反吐を吐きたくなるほどに醜悪だった。
室内に設置された時計をチラリと盗み見る。……午前十一時四十分。食事の直前にこんなものを見せられて、ほんの僅かに食欲が失せるのがわかった。
「……今説明したのは、脅威度の高い順だ。もっとも、その順位付けに漫然と拘っていてはそのために足元を掬われる可能性もある。そのことは十分に注意しておけ。――なにか、質問はあるか?」
確認されているBETAについての説明を終え、みちるがこちらを見回す。瞬間に脳裏に浮かんだ戯けた想像を払いのけ、茜は「はい」と手を挙げる。
「BETAとの戦闘……戦術機のカメラが捕らえた記録映像等を閲覧することは可能ですか?」
「可能だ。……が、資料として保管して在るものはどれも映像が酷くてな。教材用に撮影されたわけではないから、あくまで参考にしか…………」
と、そこまでを答えてみちるはふむ、と顎に指を当てる。質問した茜はきょとん、とするしかないが、なにやら思案顔で頷いたみちるは、
「先月の戦闘記録のデータを編集したものが在る。……それでいいなら、昼休憩中に渡してやろう」
「はいっ! ありがとうございます!」
硬い表情で言うみちるに、茜は元気よく返事を返す。一つ頷いて、みちるはちらりと時計を見た。少し早いが、休憩にしよう。そう言って、部屋を出て行く。残り二十分少々では中途半端な所で講義が中断されると考えたのか、はたまた早速そのデータを取りに行ってくれたのか、茜には判断がつかない。
と、唐突に多恵が圧し掛かってきた。へろへろと力なくもたれ掛かってくる多恵に困惑しながらも、えい、と柔らかい頬を押しやる。
「ぃたーぃ。茜ちゃんが冷たいよう~」
「いきなり意味わかんないわよっ?! ……って、なによその顔は」
「んーん。茜ちゃんは、怖くないのかな、って」
多恵の頬をもにもにとつねりながら、けれど冴えない表情の彼女に首を傾げる。――怖くないのか、と尋ねた多恵の本心を探ろうとしたところに、晴子が苦笑しながらやってきた。
ぽん、と多恵の頭に手を置いて、
「多恵はさ、多分、BETAが気持ち悪いって言いたいんだよ」
「……だって、あんなバケモノみたいなの……」
ああ、そういうことか。見れば、薫も亮子も同じような表情を浮かべて……けれど、晴子のように苦笑している。
多恵のその感覚は、理解できる。自分だって、まさかBETAがあれほどにおぞましい姿形をしているなんて思わなかった。外見だけでかくも不快な感情を抱かせる敵。そしてそれは醜悪にして最悪の脅威。BETAとの三十年に渡る戦争で、人類が優勢だったことは一度もない。……だが、その事実が証明するのはBETAの圧倒的な強さであって、その醜悪な外見によるおぞましさ、ではない。
連中がおぞましいことは重々承知しているし、それが恐ろしいほどの物量によるものだということも理解している。……確かに、その見た目の奇怪さも十分恐ろしいが、それが直接戦闘に影響するかというと……………………。
どうだろう、と思ってしまった。
多恵はその姿を見て怯えている。或いはこれは一時的なもので、慣れてしまえばどうということのない話なのかもしれないが……。実際、戦うとなったらどうだろう。人間大のもの、戦術機大のもの、それよりも遥かに巨大なもの。往々にして、巨大なものはそれだけで畏怖を呼び起こし、醜悪なものは精神に干渉する。
慣れの問題なのだろう。実際は。
けれど、例えば先ほどの戦車級などが自身の機体に取り付いて、その強靭な顎にガリガリと装甲を削られて……管制ユニットのハッチさえ食い破られ、開けた視界にその醜悪な面があったならば――それは、一体どれ程の恐怖、なのか。
ぶるりと。身体が震えた。そうか、それを多恵は恐れているのだ。――自身が死ぬ様を想像してしまって、恐怖に憑かれている。
「大丈夫だって! あんなの、全然大したことないじゃないっ!」
声を張り上げるような茜に、多恵はびっくりしたように目を丸くする。晴子たちも呆気にとられたように茜を見やった。
「それに、あれくらい気持ち悪いほうが、思いっきりぶっ倒せるじゃない」
にっこりと笑って、少々乱暴な言い方をしてしまう茜に、晴子はたまらずに噴き出した。――あっはははは! 可笑しげに笑う晴子に、薫がつられて笑う。くすくすと亮子も笑って、多恵だけが驚いた顔のままだ。
茜は別に、強がりを言ったわけではない。敵は、敵らしい姿をしてくれていたほうがいい。そう思うのは、当然の心理だろう。
まして、相手は長年に渡り人類を苦しめ続ける天敵。異形の化け物は、そうあってくれた方が、より戦闘意欲も増す、というものだ。……恐怖はある。あの醜悪な姿が怒涛のように攻めてきたとき、果たして正気を保てるかという疑問もある。
だからこそ、そのために訓練を積むのだ。その異形に慣れ、その醜悪さに慣れ、それらが催すおぞけを、戦う意思へと変換する。そうできるように、訓練を重ねる。
――そうでしょ? という意志を込めて多恵に微笑めば、彼女は困ったような、照れくさいような笑顔を浮かべた。どうやら一人だけ子供のような怖がりに憑かれていて、そういう自分を知られたことを恥じているらしかった。
だが、茜はそういう多恵の純真さを貴重だと思う。同じように思っているのだろうか、晴子と薫も、多分自分と同じような表情を浮かべている。
「でもさぁ茜」
「? なによ、晴子」
――ぶっ倒せる、はないよねぇ。
薫が爆笑した。亮子もぷるぷると震えている。……乱暴な言葉遣いだとは自覚していたが、そんなに笑わなくてもいいだろう……不満げに唇を尖らせて、茜は晴子をじっとりと睨んでおいた。
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「ハッキリ言って、あんたにプロジェクションの才能はないみたいね……」
「それは、自分でもそう思います」
八月に入ってから続けられていた午前中の「能力強化」のための訓練。投薬によって得られたリーディング能力こそ安定したものの、もう一つの能力であるところのプロジェクションについては、針先ほどの成果も上げられていない。
ソビエト科学アカデミーが独自に研究を続け、数多もの人体実験の果てに開発した魔薬。ESP能力のないものに後天的に能力を付与するためのクスリは、現在も定量を服用している。……劇薬であるために、その副作用も計り知れず、既にこの身は投薬を続けるほかに生き続ける術がなくなっているためとはいえ、自身をこのような目に遭わせたクスリに頼らざるを得ない現実に眩暈がする。
……が、それとは関係なく。矢張り後天的な能力付与、というものはESP発現体同士を人工授精させ、“そうなるように”遺伝子操作を施した人工ESP発現体よりは不安定である、ということだった。
実際にその効果が実証され、投薬を続けることでESP能力を付与することに成功したという事実が在るからこそ、夕呼はそれを武に使用したのだし、現実に武はリーディング能力を手に入れていた。……が、夕呼が求めたのはそれだけではなく、武自身の意思を他者に投影するプロジェクション能力。つまりは、武に何がしかの存在の思考をリーディングさせ、それを夕呼自身にプロジェクションさせる。そういう算段だった、ということだ。そして、それは見事に崩れ落ちた。
しかし、これについてはさほど問題が在るわけではない。武がプロジェクション出来なくとも、その武が読み取ったイメージを、霞がさらにリーディングし、夕呼にプロジェクションすればいい。……手間ではあるが、現状を打開する手段でもある。
それをわかっているからだろう。武がプロジェクション能力を覚醒させる可能性がないと断じた夕呼は、それ以降、無駄な時間を浪費することはなかった。霞を見やり、少女もまた、夕呼を見上げる。どうやらそれだけで意志の疎通が出来たらしい両者を、武はなんとはなしに見つめていた。
(しかし……すっかり人間離れしちまったな……)
以前ほどの嫌悪感はないとはいえ――慣れというものは、本当に恐ろしい――矢張り、この能力は本来ニンゲンに備わるべきものではない。産まれた時からそう在るべしと教えられてきた霞にとっては、この能力こそが自身の拠り所となっているらしいが、武にその感慨は無縁である。
能力の制御方法を学び、一ヶ月あまり訓練を続けたことで、もう無意識に他者の思考を読んでしまうことはない。以前は水月やみちるたちの表層意識を感じ取ってしまって、相当な自己嫌悪に陥ったものだが、もうそのことに頭を悩ませる必要はないだろう。夕呼が身に付けているというバッフワイト素子を自分にも装備させて欲しいと願い出たこともあったが……なんでも相当に高価で貴重なものらしく、無下に断られた。ならば、能力を完全に己のものとする以外に道はなく……。そうして、リーディング能力を安定させることが出来た。
能力の及ぶ範囲や、正確さ……そして、一番重要なイメージ翻訳、という点……そのどれをとっても、霞には遠く及ばないという。
純然たるESP発現体として「製造」「調整」された彼女と――どうやら先天的な才能もあったらしいのだが――自分では、その性能差は当然だと、夕呼は言う。……自分や霞をまるで機械かなにかのように評する彼女には苛立ちを覚えたこともあったが、それも過ぎたことだ。
香月夕呼という女性について、ハッキリとわかったことが在る。
彼女は、自分にとって絶対に赦せない女であると同時に、矢張り、天才で、そして、この基地に……否、世界に、なくてはならない存在なのだ。
オルタネイティヴ4。その全貌を、自分はまだ知らない。00ユニットを完成させること。その明確なる目的を教えてはくれたが、具体的にどう自分がそれに絡んでいくのかは未だ見えない。そして、そんな途方もない計画を、ただ独り、たった独りで……一切の妥協もなく、後退もなく、後悔も、恐怖さえもなく。ただそれらの感情を呑み込んで飲み乾して突き進む科学者。――それが、香月夕呼だ。
彼女は自分の唱える計画が世界を、人類を救うと言った。言い切った。00ユニットが完成すれば、人類に未来は残される。そして、それを信じ、協賛するからこそ、彼女は国連軍でも極東最大と謳われるこの基地の副司令というポストに在ることができている。そのために用意されたバックボーンは“世界”そのもの。
比喩でもなんでもなく、彼女の双肩に、世界の未来が掛かっている。
……それは、想像を絶するプレッシャーだろう。凡人である武には、その重圧の万分の一でさえ、押し潰されてしまうかもしれない。だが、香月夕呼にそれは赦されない。
プレッシャーに潰されることも、研究に挫折することも、未来を諦めることも、趣味に逃避することも、感傷に流されることも、好機を見過ごすことも、――計画に、失敗することも。
何一つ赦されない。
だからこそ。
そう、だからこそ、彼女は誰よりも冷酷で、誰よりも非情で、誰よりも狡猾で、誰よりも異端で、誰よりも孤独なのだ。――だから、たった独りで戦っている。
彼女が武を駒としてしか見ないのは道理だ。霞の能力を「性能がいい」と評するのは当然だ。
端から、夕呼はそれらをヒトとして認識していない。……でなければ、ニンゲンとしての感傷など、振り払えるものではないのだから。
鑑純夏という少女についてを、夕呼に根掘り葉掘り聞かれた際に言われた言葉が在る。……恐らくは霞のリーディングによって夕呼に伝えられたのだろう彼女の存在だが、しかし、当時は相当に深奥の傷を抉られたものだった。
だが、それ以上に。夕呼の言葉は、彼女の一言は、痛烈で、厳しかった。
――この、甘ったれが。
まるで吐き捨てるように。ただ一言。苦痛に顔を歪めて純夏の最期を語った武に掛けた言葉。
なにを言われたのか、理解できなかった。最愛の少女を亡くして、喪って、哀しい。……それのどこが、甘えていると? ……いや、確かに、甘えている。幼かったとはいえ、衛士を志す者が、“ヒトが死んだくらいで”壊れているようでは…………話にならない。
夕呼の吐いた言葉は何処までも正論で、冷静な、客観的な、ヒトをヒトと認識しない科学者のそれだった。……だが、言葉の終わりに、彼女は言った。――それが、あんたの復讐の根底、か。
僅かに遠い目をして、呟いた夕呼。或いは、それは無意識のことだったのかもしれない。故に、理解した。零した呟きに込められた体温に、ぎくりとした。
この女は……心底からニンゲンなのではないか、と。
純夏を忘れられない武を「甘い」と吐き捨て、けれど、そのことを憂うように呟いた夕呼。あまりにも両極端に在る二者の、果たしてどちらが本当なのか。
香月夕呼という女性について、ハッキリとわかったことが在る。
彼女は、自分にとって絶対に赦せない女であると同時に、矢張り、天才で、そして、この基地に……否、世界に、なくてはならない存在なのだ。
そして、きっと、誰よりも……ニンゲンだ。
その日から、僅かに気づいたこと。霞と接する夕呼を見て、本当に小さな、それに気づいた。
……まるで母のように。決して表には出さず、決して仕草には表さず。けれど、それは温かで仲のよい母娘のようで……。だから、武は目を逸らした。
夕呼を赦すことはできない。その背景に、どれほどの理想と、それを実現するために切り捨ててきたものがあろうとも、それは絶対に覆らない。……だが、ただそれだけで、彼女を恨むのはやめようと。そう、考えるようにした。
「能力の訓練は……どうしますか?」
「少なくともリーディングはちゃんと使えるんだから、問題ないわ。……少々手間が増えたってだけで、大筋に影響はないもの」
夕呼と直接話したことは少ない。言葉を交わすのも、今のように任務について指示を仰ぎ、或いは下され……それに対する応答のみである。
武が彼女についての多くを知ったのは、全て霞からだ。訓練の内容が内容だけに、武の能力を鍛えてくれた教師は霞である。ことESP能力において、彼女の能力は現存する人工ESP発現体の平均を上回っているらしく、だからこそ夕呼は彼女を引き抜いたのだというが……要するに、指導を仰ぐにはこれ以上ない人物というわけだ。
すると必定、霞と言葉を交わす機会が増える。或いは、訓練を通して彼女の思考をリーディングする内に、そういった夕呼のイメージに触れたのである。
一元的な見方は、事実を歪ませる。そのことを、以前霞によって気づかされていながら……それでも全然自身に反映できていなかったことを恥ずかしく思いながらも、残虐で怜悧な科学者――という夕呼への憎悪が拭い去られていくのを感じてもいた。
要するに、前ほど鬱屈した気持ちで夕呼に接することはなくなった、ということである。
そして実感として理解し、軽く凹んでもいる。
自分は、とことんまで独りでは前に進めないらしい――。
かつて純夏を喪った時然り、立ち直ろうと足掻いていた時然り、復讐に狂い取り返しのつかない失態を犯した時然り、振り切れそうな感情に侵された時然り、自身に降り掛かった運命を呪った時然り、――そして、今回もまた。
“甘ったれ”と。そう夕呼に言われても仕方がない。
どこまでも、白銀武は誰かに助けられなければ一歩を踏み出せず、前に進めず、己の過ちに気づけないらしい。――いいかげん、大人になれ。
護るのだと。そう誓ったのだから。
水月に手を引かれ、真那に背中を押され、茜に支えられ……そして、霞に諭され、夕呼に気づかされ……。
ほんの少しずつ、成長できたのなら。もう、後は独りでもやって見せろ。そうだろう? そうじゃなきゃ、あまりにも格好悪い。情けない。向ける顔がないし、感謝の言葉も言えやしない。
護る。絶対に、護る。だから、今までの幼稚で甘ったれな、そんな自分は切り捨てろ。純夏を忘れない。支え、手を差し伸べてくれた彼女達を忘れない。その想いを、胸に刻んで。――だからこそ、独りで進め。
茜を護る。大切で大事で、切ないほどに感情が溢れる……彼女を、護る。
そのために、戦う。そのために、生き残る。例え死が約定されていたとしても。……そういう意志を込めて夕呼を見つめていると、彼女が唐突に表情を消した。
なにか、と口を開こうとした瞬間に、夕呼が無表情のままに言った。
「任務を説明するわ――」
「!?」
任務。リーディング能力を行使して、武が何がしかの思考を読み取る。霞をしてイメージを読みきれず、彼女より数段能力の劣る自分になら読むことが出来るというソレ。
その理屈は頭に引っかかっていることでもあった。通常の考えをするならば、彼女がリーディングできないものを、武が出来る道理がない。その疑問すらを説明してやるとばかりに、夕呼は無遠慮で、何処かしら物憂げな視線を投げて寄越したのだった。
===
さて、昼食……という段になって、遙とPXへ向かう水月を、美冴が呼び止める。先月に昇進試験を受け、見事合格した宗像美冴中尉は、水月よりもほんの僅かばかり背が高い。中性的な顔のつくり、そしてその雰囲気もあり、基地内ではちょっとした麗しの君となっている。
そんな彼女がA-01部隊に属していることを知っているのは、彼女と同じ部隊に属する者たちだけだが……いや、そういうことはさておき。
「なによ宗像、あんた先にいったんじゃなかったの?」
「梼子に袖にされてしまいまして。それで仕方ないので速瀬中尉にお供しようかと」
涼しげに言ってみせる美冴に、水月は僅かにこめかみをひくつかせ、遙はニコニコと微笑む。――今の会話のどこに、微笑ましい内容があったというのか。親友の感性を疑いながら、けれど水月は何も言わない。……言ってどうにかなるなら、とっくに遙の感性は改善されているはずなのだった。
ともあれと美冴に向き直り、好きにすればいいと視線で応じる。臆面もなく水月の隣りに並んだ美冴は、歩きながらに、ぽつぽつと漏らすように呟いた。
――部下を持つとは、どういう気持ちか。
ああ、と。水月は苦笑した。遙もほんの少しだけ、驚いている。いつものように穏やかでややハスキーな声ながら、けれど、美冴の表情は真剣だった。決して水月の顔を見ず、ただ前だけを見つめて。
彼女はわかっている。十二分に理解している。
中尉へと昇進した意味。やってきた補充の衛士。ならば必定、考え得る可能性は唯一つ。――美冴は新しい部隊を纏める、小隊長と成る。
それは、かつてみちるの意見に水月が賛成したものである。A・B両小隊を、現状どおりにみちると水月が指揮するならば、新たにC小隊を設ける場合、当然として新しい小隊長が必要だ。
軍歴や実力を鑑みれば美冴以外に適任は居らず、故に立った白羽の矢であるが……恐らくもなにも、それを理解しているらしい美冴が、こうして先任のアドバイスを受けようと思うほど熱心な姿勢を見せてくれるなら、推薦した甲斐があるというものだ。
既に梼子たちに武と、多くの後輩を持つ美冴だが、実際に自分の指揮下に就く部下を持ったことはない。その美冴の不安に、どこか懐かしい感情を抱きながら――ああ、自分と同じだ――水月は彼女と同じように前だけを見つめた。
「宗像……確かに、部下を持つってことは色々と不安も在るし、自分の指示ひとつでそいつが死ぬかもしれない、って思ったら、物凄く怖いわ」
遙は、何も言わない。ただ静かに、水月の隣りを歩くだけである。戦場に出ないCP将校。……だが、指示一つで他者の生死を左右するという点では、彼女も同様の恐怖を感じているだろう。或いは、直接戦場に出向かない分、彼女が感じる苦痛と恐怖は大きいのかもしれない。
……が、遙には悪いが、それとこれはまた別な話だ。CPにはCPの、衛士には衛士の戦場がそれぞれに存在する。共に同じ部隊でありながら、置かれた戦場が異なるというのもおかしな話だが、これは指揮官としての心得の問題だ。故に、遙は何も言わない。
「でもね、そんなことを恐れて、BETAとは戦えない。正しい判断を下し、正しい指示を下したとしても……それでも、人は死ぬこともある。それは本人の錬度の問題かもしれないし、部隊全体としての問題かもしれない。或いは、間違った指示を下したために無碍に死なせてしまうことも……。でも、それを恐れていては誰も戦えない。指示を下すことを恐れる隊長がいて、そいつが指示を出さなければ……それだけで、部下が死ぬ」
判断の遅れは一人を殺す。感情に迷えばまた一人を殺す。実行を躊躇えばさらに一人を殺す。
それは、かつて水月がみちるに教えられた言葉だった。そして……彼女自身、戦場でまりもに教えられたことなのだと、そう言っていた。
部下を喪うことは恐ろしい。自分の手の届かない場所で、志乃を死なせた自分。武を止められなかった自分。……もし、あの戦場で武との二機連携を取り続けていたなら…………そんな後悔を、抱いたこともあった。
だが、それはもうどうしようもなく。そして、それを恐れていては指揮官たる資格はないのだ。
戦場では、多くの人が死ぬ。衛士だろうが、砲兵科、機械化部隊の兵士達だろうが。多くの人々が戦い、そして死んでいく。ただ、その尖兵として我武者羅に戦って死ぬか、部下にそれを命じる立場になるか……ただそれだけの違いしかない。そして、それは決定的な違いでもあるのだが……。
指揮官とは、部下の命を護るものである。
任務達成のために、時に非情に、時に冷酷にならざるを得ない立場だが……それでも、そこに立つ者たちは、部下を死なせまいと足掻く。全力を尽くす。何故か――問うまでもない。
一人でも多く生き延びることが出来たなら、それは任務達成の可能性を高め、貴重な戦力を喪わずに済み、その者を育成するために要した金と時間を無駄にせず…………なによりも、「よかった」と。生きる喜びを分かち合うことが出来るのだから。
指揮官は機械ではない。感情を殺すために務めてそうする状況もあるかもしれないが……だが、矢張りニンゲンだ。部下を喪いたくないと思うのは当然であるし、それを恐怖するのは当たり前だろう。
そして、それを恐れるだけでは部下を生き残らせることは出来ない。死なせてしまうかも知れない恐怖を乗り越えて、死なせないために指揮を執るのだ。
殆どがみちるの受け売りだが、それは水月の中にしっかりと根付いている。
まりもからみちるへ、みちるから水月へ……そして、美冴へと受け継がれるその意志。歩く姿勢はそのままに、微笑を湛えて水月を見つめた美冴に、彼女は不敵に笑って見せた。
「……らしくないとは自分でも思ったんですが……。こうも真面目に答えていただけると、むず痒いです」
「そんなこと言うのが、既にらしくないわねぇ。……っていうかなによ。私が真面目に答えないと思ってたわけ?」
「…………さ、涼宮中尉、早くPXへ行きましょう。梼子たちが準備してくれているはずですから」
「うん、そうだね」
「――無視すんなッ!!? ていうか遙っ! なについて行ってんのよッッ!!」
そそくさと早歩きになった美冴に、遙がくすくす笑いながら続く。僅かに取り残された形になった水月だが、即座に走って追いつき、美冴もまた全力で逃げた。
その一瞬。見えた横顔。
まるで照れたように頬を染めて。振り返りもせず走っていく美冴に……水月は、堪えきれないような柔らかい笑みを浮かべていた。それを見て、遙が微笑む。どこまでも優しい笑顔は昔からそのままで…………。
「さぁって、私たちも行こっか、遙」
「うん。水月」
二人は頷き合うようにして、のんびりと歩き出した。大切な部下達――仲間達が待つだろう、その場所へ。
水月と遙がPXに到着したそのときには、既にテーブルの上には料理の載ったトレイが置かれ、更には合成宇治茶まで用意されていた。ぎょっとして驚いた目を向ければ、素知らぬ顔の美冴が、ニタリと唇を吊り上げる。半分以上呆れたようなみちるに促されて、そそくさと席に着いた。
「……速瀬、お前がこんな横暴を働くようになるとはな…………」
「まったくです。私の才能に嫉妬してか、中尉に昇進してからというものどうも風当たりが強くて……」
「適当なこと言ってんじゃないっ!! 大尉も信じないでくださいよっ!」
溜息混じりに深刻そうな表情で言うみちるに、美冴がしれっと乗っかる。頬を引き攣らせながら吠える水月だが、当然みちるとてそれが美冴の冗談であることは理解している。……更に言えば、水月たちの食事は美冴が率先して取りに行き、並べたのだ。手伝おうと席を立った梼子や茜達をわざわざに制して、自ら行ったからには、何らかの意味があるのだろうと想像していた。
水月と美冴の応酬を眺めながら、ちらりと遙に目をやれば……事情を知っているのだろう彼女が、柔らかな視線を向けてくれた。――ならば、何も問題はない。
一人頷き、全員揃ったわけだからと食事を開始する。別に、揃って食べなければならない道理はないのだが……これもある種の習慣というものだ。チームとしての意識作りというか、輪を大切に、というか。……要するに、食事は、大勢で採ったほうが美味いという論理である。
「……あれ? 武は?」
だが、今日は少々事情が違う。席に着きながら、PXをきょろきょろと見回しながらに呟く水月に、空席を挟んで隣りにいる茜がぴくりと肩を揺らした。
水月の左隣。そして茜の右隣。ぽっかりと空いた空間には、誰も座っていない椅子があり……正面には、料理のトレイも、合成宇治茶も置かれていない。A-01に於ける唯一の男性衛士、白銀武。彼が、まだその姿を見せていない。
「白銀はまだ戻っていない……」
合成味噌汁を啜りながら、みちるは静かにそう答えた。一瞬だけ、シンと静まった面々だが……それを、水月の快活な声が掻き回す。夕呼の特殊任務ならば仕方ないと笑う彼女が、素直に強いと感じさせられる瞬間だろう。茜は目を丸くして、そして同じように笑い……彼女同様に武の不在を気にして――むしろ、彼が居ないことを気に掛ける茜を案じていたようだが――晴子たちも朗らかに笑う。同様に、武の不在に瞬間的に見せた水月の情動を察知した真紀たちも、ほっと胸を撫で下ろすように会話を始める。
水月とて、気にならないはずがないだろう。……だが、それを知ることは許されない。みちるにさえ、その詳細は知らされていない。……ならば、それはきっと武にしか出来ない任務なのだろうし、その機密を彼から聞き出すことも認められない。隊長としては僅かに寂しくもあるが、それだけの実力を秘めているらしい部下を、誇りにも思う。
恐らくは水月も同じように考えているはずだ。だからこそ彼女はあんなにもあっけらかんと「仕方ない」と言い切ったし――それは軍人として当然の判断なのだが――周囲の者にもそうだろう、と促すことが出来る。実に頼りになる副隊長だ。
そんな水月と比較するのは酷かも知れないが……矢張り茜達はまだまだ新兵ということだろう。精神的な幼さはまだまだ拭えていないらしい……。こればかりは、恐らく実戦を経験しなければ無理だろう。生と死の狭間に叩き込まれ、そこで死に物狂いで戦い、生き残った時には、一回りも二回りも精神的に熟達するだろう。
むしろ、今の段階からそんな境地に至っていたのでは、それこそ恐ろしい。武のように狂気に憑かれていない分、幼さを見せる彼女たちは微笑ましいものがある。水月のような機転が利く性格は有り難いし心強い。……それを少しでも感じ取れたなら、そうなれるように頑張ってほしいものだと思う。
「それで茜、座学はどうなのよ?」
「えっ? あー……その、…………BETAが気持ち悪いなぁ、って」
「ぶっ」
唐突に話題を投げた水月に、思案するように茜が返す。その彼女の答えに何故か噴き出した薫だが、その隣りでは晴子が肩を震わせていた。
不審に思ったらしい旭が正面に座る二人を見つめれば、薫と晴子はヒィヒィと腹を抱えて悶えている。なにかそんなに可笑しいことを言っただろうかと茜を見つめ……確かにまぁ、気持ちのよいシルエットではない、と旭は頷く。
「なによ? 立石たちはなんで笑ってるわけ?」
「……気にしないでください……っ」
語尾が怒りに震えている茜の言葉に、ふぅむ、と水月は首を傾げる。ちらっと多恵を見ればビクッ、と身を竦められてしまう。そのまま隣りに座る亮子を見れば、困ったような苦笑が返ってきた。……なんだというのか。
けれど、すぐにそれを気にしないことに出来るのも、水月の美点だろう。「気持ち悪い、ねぇ……」呟いて、合成焼きアジの身を摘む。もぐもぐと咀嚼しながら、自分が新任の時――初めてBETAを見たときの記憶を探って、危うく喉を詰まらせそうになった。
「成程……納得。確かにあいつら、まともな“見てくれ”してないもんねぇ……」
「速瀬中尉……そんなしみじみ言わないでくださいよ……」
うんうんと頷く水月に、旭が困ったように呟く。隣りでは慶子が呆れたような表情をして、梼子も苦笑している。皆が皆微妙な表情を浮かべる中、真紀だけが懸命に食事を続けている。……水月の隣りにいて、全然その声が聞こえていない、というのも恐ろしいものがあるが……。
ともあれ、これは自分の質問が悪かった、と水月は素直に反省する。では、と次の話題を考えた丁度その時、武がやって来た。
既に食事を開始している自分たちを見て、慌てたようにカウンターへ向かっている。それに気づいたのだろう、茜がサッと立ち上がり、おばちゃんから合成宇治茶を受け取っていた。そして二人並んで二、三の言葉を交わしながら、こちらへやってくる。
なんとも……仲睦まじい光景を見せ付けてくれるではないか。思わず、にやけてしまう水月だが、実のところ、それは彼女だけではない。同じようにニヤニヤと笑みを浮かべるのは晴子たち同期の少女であり、実の姉の遙……というか、隊の全員だった。
初々しい様を見せてくれる武と茜を微笑ましく、それでいて無遠慮に眺め回す彼女達の視線と、緩んだ表情に気づいて、茜が顔を真っ赤に染める。それに対して武が苦笑を浮かべるだけというのが実に面白くなかったが、まぁ、男としてはそれくらいが丁度よいのかもしれない。
と、にこやかに微笑んでいる水月に、美冴が声を掛けた。無論、席に着こうとする武と茜にも、この場に居る全員にも聞こえる声量で、だ。
「しかし速瀬中尉、いいんですか? このままでは白銀を取られてしまいますよ」
「――――ぐっ!!?」
ゴホッ、と口に入れたご飯粒が詰まる。慌てて合成宇治茶で押し流し事なきを得たが、しかし既に遅い。水月が見せた動揺は明らかだし、それは美冴だけでなくみちるや真紀たちをニヤリとさせるに十分だったらしい。晴子たち四人が“ぉおおお”、と色めきだち、茜が慌てたように皆を見渡している。
そこでどうして武が首を傾げるのかが、美冴には理解できない。彼女の隣りで、梼子が呆れた、と溜息をついている。……その溜息は、果たして武に宛てたものか……それとも自分にか。ちらりと梼子を見れば、しょうがないひと、と見返されてしまった。
ともあれ、期待したとおりの展開を一応は見せてくれているらしい。ようやく席に着いた武が狼狽するような水月を心配しているが、それを彼女は犬を追い払うようにあしらっていた。その、どうしようもない鈍感ぶりに、茜までもがげんなりと溜息をついている。あれでは彼女も相当苦労したに違いない、と勝手に同情して、美冴は自身が作り出したこの微妙な空気をどうにもしないまま食事を再開した。
――が、そんな風に無関係を装えるほど水月は優しくもなく。
「むぅ~なぁ~かぁ~たぁ~っ! あんた、後で憶えてなさいよ……」
「おや? どうしてそこでいつものように切り返さないんですか? ……まさか、本人を前にしては言えない、なんて……」
「だぁああ! 黙れッつってんのよ!!」
「速瀬、宗像、いい加減にしろ……」
水月が絡んでくれるなら願ったりだというように、美冴が更に油を注ぐ。頬を紅潮させた水月はいい具合に火がついたらしく、あわや注がれた油に引火するかと思われたタイミングで、みちるの声が割って入る。……実に的確な思考予測と行動予測であろう。流石は隊長。曲者揃いのヴァルキリーズを纏めているだけはある。
喉を唸らせるような水月も、終始変わらず涼しげな表情のままだった美冴も、取り敢えず口を閉じる。が、相変わらず視線で応酬を続ける二人を、みちるはヤレヤレと嘆息しながらに苦笑する。
そんな皆を見回して、武は最後に茜を見る。目が合った途端、慌てて逸らす彼女に苦笑しながら――ふ、――と。誰にも気づかれない笑みを漏らす。
武は震えそうになる指を懸命に動かして、決して聡い彼女達に気づかれないように、精一杯努力して……そしてようやく、一口目を咀嚼する。
味が全然わからない。熱いのか冷めているのか。それさえも感じない。耳に届く皆の声は、どこか皮膜に覆われたように遠くに聞こえて。ただ、視界だけが明確に現実を映している。
薬の副作用、というわけではない。
そもそも、副作用を抑えるために今も尚あのクスリを飲み続けているのだから、それは在り得ない。……では、一体如何なる症状か。
単純に、武の精神状態が通常のそれとは異なっているせいである。そしてそれは絶対に茜達には知られてはならないし、気づかせるわけにはいかないものだった。優しい彼女達ならば、気づいた途端、見ているこちらが胸を締め付けられるほどの心配を、感情を、くれるだろうから。
それに甘んじるわけにはいかない。
夕呼に“甘ったれ”と称され、正にそのとおりだった自分。大人になれ、と。そして精神的に自立して、彼女達を護るのだと。そう決めたのだから。だから、気づかれるわけにはいかない。
しかし、そう決意しながらに……早々に膝を屈してしまいそうな自分が居る。
つい、十数分前だ。
その時そこに、自分はいた。
香月夕呼の執務室。社霞がそこに居て、そうして、告げられた任務の内容。――俺が、リーディングすべき相手。
碗を持った左手が震えている。気を抜けば、箸を取り落としてしまいそうになる。
でも、それを悟られてはいけない。なにかあった? そんな風に尋ねられてはいけない。――そうなれば、脆く崩れ去る。頼ってしまう。縋ってしまう。甘えて、泣きついて、差し出される手を……求めてしまう。だから、駄目だ。
水月が話しかけてくる。茜が笑顔を向けてくる。美冴がからかい混じりに適当なことを言い、晴子がそれに便乗する。真紀が紛れ込んでいた人参に悲鳴をあげて、慶子がそれを呆れたように嗜めて、旭と梼子が無理矢理に食べさせて。多恵が笑い、薫と亮子も笑って……。
そしてみちると、目が合った。
――なにかあったのか、白銀。
声に出さないその言葉を……武はリーディングしてしまっていた。
ピキリ、仮面に、小さな亀裂が走る。全身の血液が逆流するような感覚。爆発するように脈動する心臓とは対比的に、瞬時に凍えていく体温。感情のベクトルが、瞬間的に振り切れる――駄目、だ!
静かに、碗を置く。何食わぬ顔で合成宇治茶を取り、啜る。……いかにも、熱いお茶を啜ってほっと一息をついた。そんな光景を、身に纏う。
みちるは何も言わなかった。……その観察眼、慧眼には、正直に戦慄する。アレが、過酷な戦歴を持つヴァルキリーズの最古参。連隊で運用されていた時代を知り、生き延び続けた強者の、眼か。
誤魔化しはきくまい。だが、みちるは何も言わなかったのだ。恐らくは機密に抵触するために。武の不調が、彼に与えられた特殊任務に関することだろうと察したために。
その気遣いが――心底から有り難い。
素晴らしい上官。尊敬すべき、目標とすべき衛士。虚勢を張る部下に気づいて、尚、虚勢を張り続けることを黙認してくれる……。そんなみちるに、感謝する。
思い出す。
表面では平静を装いつつ、きちんと会話を成立させて。莫迦話に笑顔を浮かべ、茜と一緒に多恵をからかって。
思い出す。
この手に残る、感触を。
肉を断つ、柔らかで重みの在る、その感触を。
無意識に掴んだ弧月の鞘が――初めて、肉を斬った感触を明確に伝えてくる。
吸った血は鮮烈な赤。衝き動かした感情は憎悪。
きっと霞は泣いていた。真っ黒に染まった武の感情をリーディングして、そして立ち塞がった小さな少女は、泣いていた。
思い、出す。
震える自分に向けられた、夕呼の言葉を。――00ユニットは、完成させて見せる。
思い、出す。
自身が吐いた、その、言葉を。
――香月夕呼、絶対に、アンタを殺す。
それは僅かに十数分前。返り血に汚れた自身が、右腕のない彼女に吐いた言葉。