『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:十三章-02」
「任務を説明するわ――」
香月夕呼は表情を消したまま、その艶やかな唇を開く。向けられる両の瞳は、かつてないほどに真剣で深刻で、そして昏い。
射抜くような深淵が、武の身を竦ませる。……それだけで、今から彼女の語ろうとしていることが途轍もない重大事項であり、恐らくは高位の機密にさえ抵触するだろうと予想できる。
今更ながら……自身が置かれている状況というものを認識した。
戦術機適性「S」。その特異性ゆえの特例措置。そんなものが霞むほどに、与えられたリーディング能力と、それを用いての“特殊任務”は……AL4において、重要なのだ。
己の能力を超越した範疇。一衛士が手を伸ばしても届かない領域。最高位のリーディング能力を有する霞ではなく、夕呼の片腕として奮闘するみちるではなく、側近として仕えるピアティフではなく。
――この、俺。
白銀武という自身。ただ、その者にしか出来ない任務。夕呼の瞳が語る。言葉を紡ごうと蠢く唇が示す。――お前にしか、出来ない。
自惚れるつもりは、ない。そのために払った代償は自分の命……。むしろ、命を捨てて任務に挑め、と最初からそう言われていたならば……恐らくは軍人として、躊躇も後悔も憎悪もなく、臨めていたのではないかと思う自分が居る。
恐らくはそこが、その……本人にしてみれば気を回したつもりのない“遠慮”が、一見鉄面皮の冷酷マッド・サイエンティストを想像させる夕呼の、捨てきれない感傷なのだろう。
結果、それが武の精神を追い詰めることになったが……彼女自身、そして武自身、それは既に過去のことと割り切っている。
この身体はもう助からない。あのクスリだってあとどれだけの分量が残っているのか知れない。開発・作成の技術は残っているのだから精製は可能だろう。しかし、AL3を進めていた段階よりも、更に人類は追い詰められている。……如何に武が延命を望み、或いは夕呼が段取りを付けてくれたのだとしても……そう長くはもつまい。
つまり、使い捨て。
多分も何も、この任務が終了したならば……衛士としての使い道が残されていない限りは、武は投薬を中断させられるのではないか。そんな、最悪の想像が脳裏を過ぎる。
まだ任務の内容も、そしてそれが成功するか否かさえ判然としていないのに、随分時の早いことだ、と。内心で苦笑する。……だが、相手は香月夕呼であり、そして感傷を捨てきれないながらも、そうすることが出来る女である。彼女の行動は一貫して、AL4達成のためにある。そのための最善を、躊躇なく取捨選択できる強靭な精神力を持つ彼女ならば……武が不要と断じた瞬間に、処刑なりの処置を施すだろう。
機密を知る、ということはそういうことだ。
それを明かすということは、――任務遂行のために知らせなければならないということもあるが――相手がそれを知るに相応しいと判断するからだ。言うならば、例えその内容を知ったとしても、そいつが裏切ることはないと、達成してくれると信用するからである。
夕呼の瞳が言っている。ならば自分は、彼女のその信用に……どこまでのものだかは知れないが、けれど、衛士として、軍人として、応えなければならない。――成否如何で、死ぬことになろうとも。
「まず、あんたにリーディングしてもらう相手だけれど、ソレについてある程度の情報は、既に社のリーディングによって解析できている。……それは、説明したわよね?」
「は。……しかし、それだけでは不十分なため、自分がそのフォローをする、というお話でした」
部屋中に充満する緊張に満ちた空気に、武は夕呼が厭がることを承知で、軍人としての態度を示す。直立で姿勢を正したまま、特殊任務を受ける彼女の部下としての武を表面に押し出した。
単なる気構えの問題だが、これが出来るのと出来ないのでは、随分と違う。かつて自身にリーディング能力があると知ったときのような、腑抜けた性根は見せられない。……恐らくは、それ以上に過酷で辛い内容なのだろう。だからこそ、せめて外面だけでも気丈に振舞っていなければ、容易く崩折れてしまう……。それだけは、自分のためにも、機密を明かそうとする夕呼のためにも出来なかった。
「あんたがリーディングするのは、…………“脳”よ」
「…………は?」
空間が、僅かに冷える。
執務机を挟んで相対する夕呼と武。両者から少し離れた位置に佇む霞。たった三人だけの、後は雑然と積まれた書類だけのこの部屋の、温度が下がったような錯覚。
夕呼の言った言葉を反芻する。――なんと、言った?
脳。脳ミソ。を。
リーディングする。
……………………えっ?
「あの、脳ミソを、です、…………か、?」
喉が一瞬で乾涸びていた。部屋の空気は冷えているのに、体内は灼熱を通り越して砂漠のように熱砂に埋もれている。心臓が狂ったように脈動し、酸素を求めて喘ぐかのよう。
夕呼の瞳は、一度たりとも逸らされず、真っ直ぐに、武の瞳を映している。質問する武に、夕呼は椅子から立ち上がるようにして、両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
「あんたがアレをどう思っていたかは知らないけれど……あの脳ミソは生きている。脳と脊髄だけになり、けれど、あのシリンダーの中で、今も尚、生き続けている……」
「ちょ、っと……待ってください。……アレが、生きてる? あんなっ、あんなッッ!? だって、……アレは、」
サンプルじゃあ、なかったのか――?
心臓の音が喧しい。全身を巡る血流の音さえ聞こえているよう。室内の空気はどんどん冷えて凍えるくらい薄ら寒くて。……けれど、夕呼はそんな武の混乱を一蹴する。
射竦められたような視線に、ぐびり、と湿気のない唾を飲み込む。まるで凝り固まった石を呑んだように。カラカラの喉が痛みを訴えてくる。
「アレは、紛れもなく人間の脳で、そして、生きている。サンプルでもなければ標本でもない。……アレはね、白銀。れっきとしたニンゲンなのよ」
「!!」
思考が停止する。ニンゲン。ニンゲン。アレが、生きた人間……。何度も何度も、その言葉だけがグルグルと脳内を巡って、……知らず、武はこめかみを押さえるように、額に浮かんだ汗を拭う。左手は彷徨うように弧月を求め、指先が触れた瞬間に、ガシッ、と強く握り締めた。
――落ち着け。
信じられないことだが、しかし、夕呼がそう言うのだから、そうなのだ。あの脳ミソは生きている。サンプルでも標本でもなく、れっきとした、生きた人間。……よし、と。一つ息を吸う。湿り気を取り戻した唾液を呑み込んで、汗を拭った右手を払う。
何とか、落ち着いた。その様子をわざわざ待っていてくれたらしい夕呼が、小さく鼻を鳴らす。“甘ちゃんの白銀”、とでも思われているのだろう。……悔しいが、その通りだ。純夏の復讐に憑かれた自分。AL3という狂気に取り乱した自分。そんな前科があれば、誰だって武の精神構造が常人のソレよりも脆いことに気づくだろう。まして相手はAL4の最高責任者であり、天才科学者なのだ。察する以前に、見透かされているに違いない。
これしきでパニックになっているようでは、彼女の任務を果たすことは出来ない。だから、落ち着け。落ち着いて、今は夕呼の声に耳を傾ける。
自分が今後も生きていくためには、彼女から提供されるクスリが絶対に必要だ。同時に、AL4を成功させ、人類を救うには……きっと、この任務の成果が役に立つはずだ。
ならば、明かされる真実にどれ程の衝撃を受け、混乱し、理解できずとも……それを、事実として受け止めるだけの胆力を。
まずはありのままを受け入れる。「そんな莫迦な」と否定するのではなく、「そうなのだ」と自身に頷かせる。……自分がどれだけ現実から目を逸らそうと、香月夕呼が言う以上、それこそが真実なのだから。だから、無駄な感情に時間を費やすことは許されない。
武にプロジェクション能力はなく、そして最低限リーディング能力の行使は可能。
ならば、これ以上の訓練は必要なく、故に今、こうして任務の詳細を告げられようとしている。……夕呼は恐らく、今すぐにでも武にソレをさせたいはずだ。だから、自分の甘ったれた精神なぞ、いくら踏み躙られようと関係あるまい。衛士として、軍人として、そして……香月夕呼の部下として。リーディング能力者としての、任務を果たす。
「あの脳ミソについて説明しておきましょう。いくらなんでも、イキナリ“あの脳ミソはニンゲンです”なんて言われても、心理的に理解し難いでしょ?」
小莫迦にするような言い方が少しだけ癇に障るが、実際そのとおりなので何も言わない。……任務に余計な感情を持ち込まないためにも、疑問は解消しておいたほうがいい。夕呼が説明してくれなければ、自分から尋ねるつもりだった。
「順を追って説明しましょう……。1998年の夏、日本にBETAが上陸。破竹の勢いで京都さえ突破した連中は、翌一月にここ、横浜を壊滅させた……。その後、連中は既に佐渡島に甲21号ハイヴを建設しながら、ほぼ同時にこの横浜にもハイヴを創り始めた」
知っている。苦い思い出が込み上げてくるが……それは、よく、知っている。
鑑純夏がBETAに殺されたその日。その時。その場所。それが横浜であり、この基地がある柊町だ。
やられっぱなしだった人類は、けれど諦めることはしなかった。大東亜連合と国連が協力体制をとり、本州奪還作戦……『明星作戦』が開始される。――1999年8月。米軍が秘密裏に運用した二発の『G弾』によってハイヴは壊滅。人類は、BETAに対し初の大々的勝利を収めたのである。
まるで戦史どおりの内容を説明してくれる夕呼を、武は黙って見つめた。そんなものは座学で習っているが……順を追って説明するといった以上、その経緯も、矢張り重要なのだろう。
そして、そこまでを語り終えた夕呼は……突然、表向きには公表されていない、裏の事情を語り出した。武は眼を剥く。耳を疑う。……だが、それが、真実。
夕呼の語ることこそが、この世界の真実なのだ。
「この『明星作戦』には、二つの目的があった。……一つは、あんたもよく知っている“本州奪還作戦の第一弾”として。首都に直近する脅威を取り除き、それを皮切りに日本中に蔓延る連中を一掃すること。……そして、もう一つが、」
余談だが、これはかつて夕呼が『明星作戦』に参加するA-01部隊と、衛士として前線に復帰していた神宮司まりもの部隊に作戦を説明する上で、敢えて彼らに伏せた情報でもある。矢面に立ってBETAと死闘を繰り広げる衛士が知っていたところで、それは戦闘の邪魔でしかない情報。或いは、99年の2月時点で既にその形を出現させていたハイヴを半年も放っておいた本来の理由を知れば、彼らの戦闘意欲の幾許かが低減すると予想されたからだ。
そして……その当時は明かさなかった事実を、目の前に居る武に明かす。
夕呼は認めないだろうが、これが――彼女の感傷だ。武には知る権利が在る。自身さえ気づかぬうちに、彼女はそう考えていた。
「甲22号目標を半年も放置しておいたのは……表向きにはかつてない大規模作戦を万全の常態で行うために必要な期間、ということになっているけど、そんなもの、本気になれば一週間と掛からずに準備できるわ。……では、なぜ国連は半年も待ったのか」
武には、わからない。ハイヴの成長は最初の一年余りで急激に行われる。すべてのハイヴが一様ではないらしいが、平均として半年から一年でフェイズ2へと成長する、と言われている。或いは、一年目の段階でフェイズ3にまで成長した例もあるし……そう、佐渡島ハイヴなどは二年半あまりで既にフェイズ4へと至っている。
ハイヴの規模に比例して増加するのがBETAだ。連中はハイヴ内で製造……誕生するという説が在る。つまり、内包できる容量がでかければでかいほど、その中を跋扈するBETAの数も増えるという考えだ。
そして、恐らくも何もそれは的を射ている。実際にその物量を目の当たりにした今だから実感として理解できるが……如何に間引き作戦とはいえ、フェイズ4の甲20号目標に今後挑むとなれば……戦慄に似た感情が隅々まで這い回るだろう。
つまり、放っておけば放っておくほどにハイヴは成長し、内包するBETAは増え、リスクは膨張するのである。それを知らぬ国連ではないだろうし、軍人ではないだろう。……では、何故それほどのリスクを犯してまで、一週間で準備できるものを半年も掛けて……放置して……。
「まさ、か……」
「そう。まさかよ」
待った、のだ。ハイヴが成長するのを。二月の時点でその存在は確認されていた。ならば、その時既に然るべき対策が練られたはずだ……。
そして、その対策さえ……何がしかの目的を持った“方向”に流れていったのだとしたら。ハイヴの成長を待つことによって、得られるメリット……。それが、なにか、わからない。
「『明星作戦』は、ハイヴがある程度成長するのを待ち、ハイヴ内で精製されるであろう『G元素』を採取するために半年の期間が必要だった」
「ジー、元素……」
「そ。かつてカナダに落ちたBETAユニットを調査していたロスアラモス研究所のウィリアム・グレイ博士が発見した、BETA由来の人類未発見元素。発見者の名前を取って、『G元素』……と、呼んでいるわ」
人類未発見元素。そんなモノが存在していることに驚きだが……ハイヴというリスクが成長するのを敢えて待ち、それを手に入れるために本州奪還作戦という壮大なカモフラージュを被ってみせる……。これが、世界の情勢を未来的に見据えることの出来るものの視線、か。
とてもではないが、武には想像も出来ない論理だった。だが、夕呼の説明を聞けば、成るほどを唸らざるを得ないのも確かだ。
そんな手段を用いてまで、人類にとって、その『G元素』は貴重で有益なのだ。続けて夕呼が『G弾』もその『G元素』から製造されていると聞かされれば、余計にも納得してしまう。
BETA由来の、けれど人類の戦力に転化するならば、これ以上ないほどの破壊兵器を生み出すことの出来る元素。どうやら、グレイ・イレブンと称される『G弾』の原料以外にも数種類発見されているらしいが……そんなものを手に入れられるならば、ハイヴ一つが成長するのを待つ程度、問題でもなんでもなかったのだろう。
事実として、米軍は『G弾』を使用している。彼らには確信があったのだ。フェイズ2程度のハイヴなど、自分たちが抱える『G弾』を使用すれば必ず攻略できるのだと。だからこそ、悠々と半年も待った。
それは米軍の意志か、或いは国連の総意か……はたまた、目の前に居るAL4最高責任者の思惑か……。いずれにせよ、『明星作戦』は日本の窮地を救い、人類に希望を与える作戦であると同時に……人類の技術では決して得ることの出来ない“恩恵”を――これが恩恵とは皮肉以外のなんでもないが――手にするため。
それを、感情的になじっていいわけがない。
それでも、彼らは戦ったのだ。この横浜を取り戻すために。東京に直近する脅威を排除するために。日本を救うために。人類はBETAに対抗できるのだと世界中に示すために。
例え、その背景にどれほどの思惑が渦巻き、その最後に米軍が利己的な手段を投じたのだとしても。それらは、過程はどうあれ……日本を救ったのだから。
散った英霊は横浜基地の桜に眠り、今もこの町を見守ってくれている。その想いを、感情によって踏み躙るわけにはいかない。
「でも、予想した量の『G元素』は発見できなくてね……予想が外れて肩透かしを食らったような状況の中、ハイヴ内に残存するBETAを殲滅するために、最深部を目指して突入した部隊が……ある物を発見した」
「……………………それが、あの、脳ミソ……」
察しがいいわね。夕呼はほんの僅かに唇を歪め……しかし、すぐに元の無表情に戻る。殊更に武の眼を射抜いて……ふい、と顔を壁の方へ向けた。そちらは、例の脳ミソが収められたシリンダーがある部屋の方向で……彼女が、壁を通してソレを見ているのだと理解する。
「突入部隊が発見したのはBETAの捕虜になっていた人間たち……正確に言えば、ニンゲンだったもの。彼らが見たのは、青白く光る無数の柱。その中には……恐らく捕虜になっていたと思われる人間たちの、脳と脊髄が収められていた……」
「……ッ、ぐ、……。BETAの、捕虜……」
脳が、わんわんと唸る。眼球が捻じ切れそうに歪んで、夕呼の顔をまともに見ることが出来ない。
BETAが、人間を捕虜にする。それも、わざわざ脳と脊髄だけを抜き取って……? 光る柱、というのは、多分あのシリンダーのような装置のことなのだろう。
胃の下辺りがざわざわとする。喉元まで競り上がってきた不快感が、指先を震わせる。――なにか、いやな、予感がする。
ざらついた舌を無意味に口内で蠢かせて、引き攣りそうな息を懸命に繰り返して、夕呼を見つめる。顔を横に向けたまま、視線だけがこちらを見た。
「何百とあった脳髄で“生きていた”のはたったひとつだけだった。……それが、あの脳ミソ。……BETAの捕虜になって、唯一生還した存在」
「唯一……生還……」
そうだ。夕呼はあの脳が生きていると言った。紛れもなく、生きた人間の脳だと。そう言ったのだ。それがBETAの捕虜として攫われた人間の物で、“生きている”のなら……それは、生還だろう。生きて、還ってきたのだ。
得体の知れない怖気が走る。さっきから……妙だ。なにか、物凄く気持ち悪い。
あの脳ミソは何処に在ったって? 甲22号目標、横浜ハイヴ。それって……それって、
「この基地はね、あの脳ミソを生かすためだけに、この場所に設立されたと言っても過言ではないの。伊隅から聞いてるかしら、かつて、横浜ハイヴと称されたそれは、この基地の真下に存在していた」
「なっ…………ッ!?」
「あら、知らなかった? ……まぁいいわ。確かに知らなくても任務に支障はないもの。ともかくも、私たちは捕虜となり、生還した脳を手に入れたけれど、……今の人類に、ニンゲンを脳と脊髄だけの状態で生かしたままにしておく技術はない。だから、この基地はBETAが作った施設を稼動状態のまま維持されている……」
そうしなければ、折角救出した“生還者”を、生かし続けることが出来ないから。
さらりととんでもないことを言ってのけた夕呼に戦慄するが……しかし、それについては後ほど改めて質問したのでもいいだろう。恐らく、この基地が横浜ハイヴをそのまま流用したのだと言うような話は、武の任務に関係在るまい。それが重要なら、とっくに明かされていて然るべきだろう。
ともかくも、BETAの技術の恩恵……により、今もあの脳ミソは生き続けている。成程、という納得が、脳裏に浮かんだ。
あんなものが、B19フロアに、しかも、二重のロックの向こうに安置されている理由。否、夕呼の執務室がそれに隣接する形で据えられている理由、というべきか。
つまり、あの脳ミソは正に最高機密の塊。BETAが人類を捕虜にしていたことも機密なら、それが脳と脊髄だけになって存命していることも機密。……当たり前だ。そんなことを知ったら、あまりにもおぞましすぎて、戦えない。民間人に知れれば、たちまちの内にパニックが起こるに決まっていた。
これは、絶対に外部に漏れてはいけない情報だ。恐らくは発見したという突入部隊にも箝口令が布かれたのだろう。関係する組織、機関のすべても……脅威と言っていいこの発見を、表沙汰にはしたくないはずだ。
あまりにも、絶望に過ぎる。これがBETAのやること……。日の光の下を歩く、世界の表側に生きる人々にとっては、知るだけで恐怖のどん底に落とされるようなものだ。
ならば、裏側に生きるものにとっては?
例えば、現実にBETAと戦い、その醜悪さと恐ろしさを前にして、尚戦い続ける衛士たちは?
或いは、今目の前に居て、あの脳ミソの存在を委細承知し、そしてその思考を読もうと企てる天才科学者は?
「私たちもその時初めて知ったのよ。BETAがそんなことをしてたんだ、ってね。……社の集めたイメージから推測できるのは、人間の何かを研究していたらしいってことだけ」
「しかし……あいつらは、人類を生物だと認識していないはずでは……」
「ニンゲンだって、生命体でない岩石や金属の研究をするでしょ?」
言葉がない。つまり、BETAは、生きた人間を……連中にとっては“生命体でない”ニンゲンを、そこらに転がる石ころを研究するのと同じに、弄くって、バラバラにして、脳と脊髄だけにして……生かして、研究していた……。
――なんだ、そりゃ。
くそっ。感情が沸騰する。落ち着け。落ち着け落ち着け! こうやって簡単に感情が振り切れるのが、未だ精神的に未熟だと言うことだ。けれど、理解しているのに、早々簡単には修正できないのがヒトの性というものだろう。
両脚に思い切り力を込めて、ぶれそうになる身体を支える。左手は白くなるくらいに弧月の鞘を握り締め、右拳は、爪が肉にめり込むほどに。
呼吸が、荒い。心臓が熱い。脳が、熔けてしまいそうだ。――それでも、今は、落ち着け。
ぐっ、と顎を引く。何度目かわからない生唾を飲み込んで、しっかりと夕呼を見据えた。こちらを正面から見ていた夕呼は、しかし武の感情には無関係に、続きを語る。
「BETAがニンゲンに興味を持ち始めている。それは紛れもない事実。そして、あの脳はBETAと直接コンタクトしていながら生存した人間……その存在は、私たちを驚喜させた」
そう語る夕呼の表情は、一瞬だけ、色めき立ったように見えた。……それは武が忌み嫌う科学者としての貌で、狂気に憑かれたニンゲンのソレだとわかった。
――かつては、俺もあの貌をしていた。
身に迫るような恐怖を感じる。ほんの瞬間的な夕呼の狂気はすぐに消え去り……その呆気なさが、逆に武には恐ろしく感じられる。感情をコントロールするとは言うが、あれほどの狂気を瞬時に隠してしまえるのだから、夕呼という女性は相当に、ニンゲンの精神力を超越しているのではないか、と。そう想像させた。
「驚喜……ですか?」
「そうよ。……そういえば、これはまだ話していなかったけれど……そうね、一緒に説明しておくわ。AL4は、BETAに生命体と認識される擬似人類――00ユニットを創成することが目的なの。それに最も適した素体候補が手に入ったんだから、喜んで当然でしょう?」
「え……?」
00ユニットを完成させること。それが、AL4の目的。目指すべき場所。計画の終着点。……そう、聞いていた。
そして、00ユニットとは、BETAに生命体と認識される擬似人類……。つまりは、人間に似た、けれどニンゲンでない……存在。なんだ、それは。BETAに生命体と認識される……ということは、どういうことだ? 奴らが何を以って生命体と判断するか、それがわかったとでも言うのだろうか。……00ユニットがそうなのだとして、……ああ、そうか。
だから、その脳ミソなのだ。
BETAが何をして生命を判断するのかが判明していなくとも、少なくとも夕呼にはそれが00ユニットならば可能だという確信があり、そして国連がソレを認めたからこそ、今が在る。ならば夕呼の研究とはそのまま00ユニット、擬似人類を創成するためのものであり……その核となるべき素体を、彼女は求めていた。
そしてそれは……BETAの捕虜となり、尚生き延びて生還した、あの脳ミソこそが相応しい。そういう、理屈だ。
素体候補と夕呼は言った。ならば、その脳ミソ以外にも00ユニットの核となるべき何がしかが存在すると言うことだろう。――が、ニンゲンの脳ミソが核となるということは、イコール、残る素体候補とやらもまた、ニンゲンであり……その、脳ミソだ。
知らず、奥歯が軋むほどに噛み締めていた。それが、人類を救う計画の、裏側、か。
AL3と何も変わらない。人類の未来のため、世界の平和のため、BETAを駆逐するため。そうだ。そうしなければ人類は滅ぶ。目前に迫る脅威を、ただ指を咥えて黙って見ているなんてことは、出来るはずがない!
だから、だからだ。
どれ程の狂気に塗れようと、どれ程の妄執に憑かれようと、ソレを目指すほかに道はない。非人道的と罵られようが、外道と蔑まれようが、その道を往くことを躊躇うことは許されず、失敗さえ認められない。
突き進むほかないのだ。人類は、とっくの昔にその領域に立っている。そうする以外に道を喪っている。ただひたすらに前だけを見据えて、その後ろに連なる屍の数も、背中にぶつけられる謗りも、外道と吠える亡者の声さえも無視して、切り捨てて、未来を掴む以外にない。
そして、夕呼はその先頭を堂々と歩き。自分は、その背後に追随する。――その位置に、足を踏み入れたのだ。
今、この、瞬間に。
「……残念ながら、未だ00ユニットを完成させるまでには至っていないけれど、それでも、やれることは残っているし、それはやらなくてはならない。……あんたには、それをやってもらう」
「…………」
脳ミソのリーディング。00ユニットとなることを前提に、AL4へ徴収された唯一の生還者。この場所にハイヴが在ったと言うのなら……恐らくは、自分と同じ、柊町に暮らしていた一般人。故郷を同じくするものの脳を、BETAに想像を絶するだろう恐怖を味わわされたその精神を、……武に侵せという。覗き見て、霞を経由して、自分に伝えろと言う。
そう。それが任務。
衛士として、軍人として、上官の命令には従わなければならない。自分の生が夕呼の手駒としての期間しか得られないのなら、これは必ずやり遂げなければならない。否、自分のためとか、そういうことはどうでもいい……そのはずだ。
夕呼は紛れもなくBETAを嫌悪し、その存在を駆逐することを目的としている。人類の未来を勝ち取り、希望を取り戻し、世界を平和に導くために戦っている。
どれ程の狂気に塗れようと、どれ程の妄執に憑かれようと。その道を違えることはない。
本物だ。この女は、本物だ。――だからこそ、やり遂げろ。
香月夕呼を信じることは出来ない。彼女を赦せるほど自分は寛大な心を持ち合わせていない。……だが、それは武個人の問題であって、それを、世界を背負って立つ彼女にぶつけていい道理はない。
正直に恐ろしい。あんな脳ミソと脊髄だけになるまでに、一体何があったのかなんて考えたくもない。だが、それが……彼女の研究の助けとなり、ひいては人類の未来に繋がると言うのなら。
何を躊躇うことがある。この身は既に外道に濡れている。頭の天辺から爪先まで、全身外道の集大成じゃないか。――ならば、やる。やって、やる。見事夕呼の手駒として、その役割を果たして見せよう。
でも、その前に一つだけ。
――地獄に堕ちろ、外道――
言われるまでもない、と。武の心中の声が聞こえたとでも言うように、夕呼は鋭い視線を向けてくる。
そうか、と武は理解した。そう……武なんかに言われるまでもなく。彼女は、誰よりも彼女自身が、それを一番理解している。
決して楽に死ねるはずがない。この身は当に冥界に身を置いている。ならば行きつく先は地獄であり、魔窟であり、怨恨と贖罪の坩堝。それ以外に、堕ちる場所などなく。
夕呼の声なき視線が、雄弁にソレを物語っていた。……呆れるほどの覚悟と胆力に、武は敵わないと俯いた。何処までいっても、自分は夕呼の境地に至れない。衛士としての覚悟を一時とはいえ見失い、世界のおかれた状況を理解しながらにAL3を外道と嗤い、今も尚、ぶれそうになる決意しか抱けていない自分には。夕呼の立つ位置には到底届かない。
だが、それでいい。
彼女は天才であり、孤高であり、そして、たった独りでAL4のために喪われた多くの者の罪科を背負う気でいる。武は、そして霞は……或いはA-01部隊の全員は、そのための駒でしかなく、切り捨てることに躊躇もない。
だからこそ、武が彼女を哀れむ必要など微塵たりとも存在しない。それは最大の侮辱だろうから。故に、罵り、謗れ。恨み言をぶつけて、それで自身の脆弱な精神が楽になるのなら、存分に吐き捨てるがいい。――外道と。――地獄に堕ちろと。
それを夕呼は望んでいる。
何もかもを全部やり遂げて、そして、死ぬ。多分、それが彼女の最期の願いなのだと…………わかったような、気がした。
「一つだけ……まだ教えてもらっていないことがあります」
「なによ?」
「何故……自分、なのですか? ……社の方が能力に優れていて、その彼女が読みきれなかった脳ミソの思考を、自分が読み取れるとは思いません」
それだけが、気に掛かる。
臓腑を抉るような怖気が、膝をかすかに震わせていた。さっきから、ずっと、あの脳ミソがBETAの捕虜となった人間のものだと知ったときから、ずっと。厭な、予感が拭えない。
夕呼の目的は理解した。その覚悟も、知った。……だが、ソレとは無関係に、ずっと、武の脳髄を焼く予感が在った。
その答えが、そこに在る。霞でなく、自分。霞が踏み入ることの出来なかった領域に、自分ならば踏み込めるという……その道理を、知りたい。そうすれば、この厭な、ろくでもない予感の正体がわかる気がする。
「…………そう、ね。気になるわよね。……ま、どうせリーディングすればわかることだし、…………安心しなさい。ちゃんと説明してあげるつもりだったから」
眼を伏せる夕呼が、妙に引っ掛かった。つい先ほどに見せた外道の謗りさえ誇らしいと胸を張っていた姿は何処にも無い。いや、それは見間違いかと錯覚するほどに一瞬で、次の瞬間には、数瞬前の彼女がそこにいた。
「白銀。あんたには、知る権利が在る…………。例えどれ程の理不尽と不理解が錯綜した結果の、運命の悪戯なのだとしても、それでも、私はあんたにソレをやらせる。……そうする以上、あんたには全部を知る権利が在ると、そう考える」
らしくない。なんだ、これは。向けられる瞳は、視線は、地獄の果てに堕ちることさえ許諾している強者のソレなのに……リーディング出来なくともわかるほどに、夕呼から発せられる感情は……それは、
「あの脳ミソはね、あんたと同じ、この街に暮らしていた一人の少女のもの。当時十五歳だった……、
その後に続いた言葉を、よく、覚えていない。
「ぁああああああああああっっ!!」
なんだかよくわからないままに、執務室を飛び出して、すぐ横にあるドアのロックを解除して、
「嘘だァアああああ!!」
走って、走って、すぐそこの距離を、懸命に、足をもつれさせながら走って、
「っぁあああっ、嘘だ、嘘だッ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だァア!!!」
二つ目のドアがスライドして。
薄暗い部屋はコードがたくさん敷かれていて、中央に青白く光り輝くシリンダーがあって、
「……ぁ、ぁああ、ア、」
脳ミソが浮かんでいる。脊髄がひっついているだけの、脳ミソが。
生きていて、BETAの技術で生かされていて。でも、そもそもがBETAの捕虜として捕まって研究されてバラバラにされて。
00ユニットの素体候補で。
人類の希望を一身に背負って。
擬似人類なんていう、ヒトじゃないものに、なることが決定されていて。
――俺が、リーディングする対象で。
BETAが一体何を考えて人間を捕虜にしたのかを、脳ミソだけで生かし続ける技術を、どういう個体が、どんな風にバラバラにしたのかを、そして奴らが何を得たのかを。
知るために。
敵を知るために。
ただそれだけのために。
霞では拒絶されて手の届かなかった、精神の奥の奥、その深奥に、手を伸ばす。
脳ミソ自身が発狂して壊れて死なないようにブロックしているその領域を、こじ開けるために。
――だから、なんで、俺になら……出来るって、……そんな、道理が、
あった。
納得してしまった。
理解できてしまった。
ああ、そりゃあ、そうさ。――アイツのことは、俺が一番知ってるんだ。
霞なんか逢ったこともないだろう? 声を聞いたこともないだろう? でも、違う。
自分なら、わかる。白銀武なら、絶対に、わかる。
拒絶されるわけがない。
だって、だって、これは……この脳ミソは、
「純、夏…………ッ、」
シリンダーに両手をついて、額を押し付ける。両目からあふれ出す涙が、“彼女”の姿を曇らせる。――ぅぅォおおおおおおあおああああああっっ!!!!
「嘘だッ! そんなっ、そんなことっ……ッッ!! ぁぁああああ純夏ァアアアアアアアア!!!」
叫ぶ。意味もなく、わけもなく。叫んで、叫んで、変わり果てた“彼女”に縋りつく。
どうして気づかなかった!? / 気づけるわけねぇだろうが!!
なんでわからなかった!? / ならお前はわかってたとでもいうのかよッ!!
これで生きてるって!? / 莫迦な莫迦な莫迦な莫迦な!!
でも、これが真実。
だってそうだろう? 香月夕呼の言うこと。それが、この世界のホントウなんだから。
「――――――――――――――――――――――ッッッ!!!!!!!」
シリンダーを掴む指先が、狂ったように震える。これが、ホントウに、純夏。あいつが、あんなに笑顔の素敵な、太陽みたいに笑う、あいつが……ッ。
気持ち悪いと感じた。おぞましいと思った。二度と見たくないと。恐怖を。
どうしてッ!
どうしてそんな風に思ってしまった、感じてしまったんだ!!!!! ――俺はッ!
世界でたった一人の。この世でたった一人の。
産まれた時からずっと一緒で、隣の家に暮らしていて、お互いの部屋は窓を隔てたすぐそこにあって。好きだった。愛していた。だから、護ると。決めた、のに。
「純夏……ッ、純夏、すみ、かぁ、ぁああっ、ああああ」
喪ったと思った。手の届かない場所で、永遠に喪ったのだと、絶望した。感情が壊れて、狂いそうになって。ずっとずっと引き摺って、今だって全然忘れられなくて。
それでも、茜がいてくれて。傍にいてくれて。支えていてくれて。だから、ようやく、――俺は、お前を、――
ワスレラレルワケガナイ。
「畜生ッ畜生ッッ畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生ォオオオオオオ!!!」
咆哮が、感情が、能力を発動させる。リーディング能力。お前の全てを、お前が見た全てを、お前が感じた全てを、――全部全部、俺が、一緒に背負ってやる。
お前をこんなにしたBETAを殺す。
お前を利用しようとする香月夕呼を殺す。
殺すコロス! 全部全部殺してやるッ!! あああ、だから純夏。見せろ。お前をこんな眼に遭わせたヤツを、俺の敵を!!
「ァァアああああああああアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ」
もう、駄目だ。
遠慮なんて必要ない。
壊れろ。イカレろ。狂ってしまえ。
元より死ぬ身。こうなった時から、わかっていたことじゃないか。捨ててしまえ。何もかも。全部かなぐり捨てて、そして、「復讐」を。
鑑純夏を弄んだBETAを。彼女を利用する香月夕呼を。そう使われた自分を。そう成ってしまう彼女を。
全部、殺してしまえばいい。
狂ってる。こんな世界狂ってる。――そうだ、だから、今更正気に未練はないだろう?
発狂しろ。絶叫しろ。お前は呪われた存在だ。お前が進む道は外道のソレだ。逝きつく先は奈落の底の、地獄の果て。堕ちろ。白銀武。もう、駄目だってわかってるだろう?
「 !!!」
ぶちんっ、! と。何かが、キレた。千切れた。それは多分、白銀武の仮面を縫い付けていた糸。罅さえ入らない頑強な仮面が、壊れることなく外れた音。
垣間見えたのは一瞬。
押し寄せる怒涛のように、純夏が見たそれらが脳を侵略する。それは恐怖。純然たる恐怖。助けてと乞い願う声。助けてと泣き叫ぶ声。何度も何度もシロガネタケルの名を呼んで、何度も何度もシロガネタケルに助けを求めて。
そして、壊された、バラバラにされた、小さな少女の、十五歳の彼女の、
『あたし、疎開なんてしないよっ! だって、タケルちゃんのこと、信じてるもん! タケルちゃんが軍にいて、同じ軍人さんが護ってくれるんだもん。心配なんてないよっ!!』
『おじさんとおばさんもタケルちゃんを信じるって、納得してくれたんだっ。せっかくもらった切符だけど……無駄になっちゃうかな?』
『あ、でも安心して! おじさんが、切符はお向かいの佐藤さんにあげようって、昨日持って行って……佐藤さん、凄く喜んでたよ。うん。お腹の中の子も、旦那さんも凄く喜んでた。ありがとう、って、何度もお礼言われちゃった。えへへ』
『……今は、なんだか日本中が大変なことになってるけど、でも、大丈夫。あたしはタケルちゃんを信じてる! タケルちゃん、昔から悪戯ばっかりであたしのことからかってたけど……でも、今でも思い出すよ。あの日、タケルちゃんが衛士になるって決めた日のこと』
『タケルちゃんがあたしのこと、大好きだって言ってくれた日だもん。護ってくれるって、そう約束してくれた日だもん……。忘れないよ。……だから、信じてる! タケルちゃん、あえなくて寂しいけど、でも、頑張ってね!! 応援してるから! そして、いつかタケルちゃんが立派な衛士になって、あたしを護ってくれて……ちゃんと、帰ってきてくれたら……』
『えっへへ~、それは、そのときのお楽しみだよっっ!』
『じゃあね! タケルちゃん!! ――――大好きだよ!』
俺は、絶対に、俺を赦さない。
「……どうやら、リーディングには成功したみたいね……」
「白銀、さん……」
掛けられた声に振り向く。部屋の入口付近に、腕を組んだ香月夕呼と、泣きそうな顔で見つめる社霞がいた。
膝をついて崩れ落ちる武に向けて、数歩、夕呼が歩み寄る。霞もそれに倣うように続き、きゅ、と唇を噤んでいた。
「俺の……思考は、読んだのか?」
尋ねる。自分でも信じられないくらいに平然とした声音だった。それに驚いたのだろうか、霞が、びくりと肩を震わせて、……けれど、しっかりと頷いた。
ならばいい。後は、彼女の仕事だ。自分の任務は完了。後は、A-01の一員として、衛士として、その領分を果たせばいい。
「…………白銀……、」
どこか躊躇するように、夕呼が口を開く。やめてくれ、と願った。今、夕呼に何か言われると、我慢なんて出来そうになかった。どうか、それを察してくれ。優秀で天才で、冷酷で非情な科学者様なら、それがわかるはずだろう?
……なのに、一体どうしたというのか。
夕呼は。そうやって常日頃から努めて怜悧な素振りを取る彼女は。
視線を伏せるようにして、注視しなければ気づかないくらいに指先を震わせて。
言ってしまった。
「あんたには、済まないと思ってるわ…………」
「――――――ッッ!!!!!!!!!!!!」
感情が爆発した。もう駄目だった。止められるわけがなかった。
オマエガ、ソレヲ、イウノカ!!
香月夕呼、貴様が、お前が、――――ッッ。
頬に掛かる粘液に、振り抜いた剣先から滴る赤色に。まるで、弧を描く月のように――白い袖ごと宙に舞った細腕を、見る。
右手は何のためらいも無く弧月を引き抜き、鞘走った刃が、居合いの軌道上に存在した夕呼の右腕を切断する。
手には肉を断つ感触が。柔らかで、重みの在るその感触が。水を打ったような刃紋には鮮血が糸を引き、肺腑のすべてから、どす黒い感情が吐き出される。
「ッ、アッッ?!!」
腕を飛ばされ、何が起こったのか理解できない表情で、バランスを崩した夕呼が尻を床に落とす。――その様を、隙を、見逃すわけがない。
「駄目ですっ!!」
黒いドレスが立ち塞がる。銀色の髪をした、銀色の瞳をした、少女が。霞が。夕呼を母と慕い、心の拠り所としている小さな女の子が。
「駄目です! 殺さないでッ!! 殺さないでぇええええ!!!!」
「や、しろっ、どきなさい……ッ!」
「嫌です! 厭です! いやです!! 絶対にどきません! 絶対に駄目ですッッ! ――殺さないで!!!!」
大きな瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちる。何度も同じ言葉を繰り返して、一生懸命に叫んで、プロジェクションでその意志を投影して。
そのすべてが、武の狂気を、憎悪を、膨れ上がってどうしようもなくて――――コロス以外にないじゃないかよっ! なんでだよっ!? じゃあなんでっ、コイツはッ! 謝ったりするんだよ!!!!??
「謝るな……謝るなよ……ッ、あんた、その覚悟が在るんだろう? 地獄に堕ちて、外道に果てる覚悟が、在るんだろう!? ――じゃあ、謝るな! 俺に頭を下げるな! 純夏を哀れと思うなッッ! お前はっ、アンタはっ!!」
傲岸不遜に、お前たち全部が駒だと。
どんな運命にあろうが、どんな非道に陥ろうが、そこでのた打ち回って死ねと。そうするのが役割だと。
冷酷に、無慈悲に、見下して、笑って…………その果てに、人類を救ってくれるなら。
それだけで、いい。――俺は、それを受け入れる。
純夏を助けられず、純夏に気づけず、純夏の運命を知った自分なら……同じように、人でなしの外道に濡れて死ぬ自分なら。
そうするのが道理だろうから。それを受け入れられるから。
だから……赦せない。
夕呼がそんな自分たちに「済まない」というなら、じゃあ、一体……そんな目に遭わされた自分は、純夏は、一体どうすればいいっていうんだ?!
惨めなだけだ。可哀想なだけだ。ふざけんな。ふざけんなよ……。どうして、そんな、優しさを見せるんだ。どうして!!?
「なんでっ、俺達が死ぬ最期までッッ! 笑って、偉ぶって、堂々と……自分は外道だと、それがどうしたって…………ぁぁあ! なんでだよぉおおおおお!! クソォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!??」
「白銀さん、白銀さんっ……全部、全部、届きました。博士も、博士にも、ちゃんと、届きましたから……っ!!」
お願い、どうか、殺さないで。
霞の泣き叫ぶ悲鳴が、脳髄に木霊する。気づけば弧月を取り落としていて、武は再び床に膝を落としていた。両手をついた床に、ぼたぼたと涙の跡が染みる。泣いている。泣いている。――俺が、純夏が、泣いている。
自分たちをこんな目に遭わせたBETAが赦せない。
こんな運命を決定した神様が赦せない。
そしてなにより、いずれ自分と純夏を殺す夕呼が、赦せない。
「――香月夕呼、絶対に、アンタを殺す」
でも、それは……すべてが終わった後だ。何もかもが終わったその後だ。
00ユニットが完成して、AL4が成功して、人類に未来が約束されて、BETAが駆逐されて、世界が平和になって。
その、後だ。
そうするために、自分は改造されて、純夏が利用されるというなら。今、ここで夕呼を殺せるはずがない。――畜生、くそう、クソッタレ!!
だから謝るな。お前は、アンタは、その最後の最期に、全部全部成し遂げた果てに、――俺に殺されろ。
そうして死ぬ間際に、それでも不敵に笑って……勝手に満足して、死ねばいい。すぐに後を追ってやる。自分も、純夏も。そうやって外道に頭の先まで浸かった全部を、亡くしてやる。
「…………白、銀、ッ、ぁ、…………約束、するゎ、」
右腕のない夕呼が、痛みを堪えたような、喘ぐような声で、言う。弾かれたように霞が傍に寄り、ドレスの裾を引き千切って断面に押し当てていた。
武は、俯いたまま、真っ黒な感情を逆巻かせたまま、血色に充血した瞳を、夕呼へと向ける。
「――00ユニットは、完成させて見せる。…………そうすれば、あんたは…………鑑に、逢える……」
「博士っ、はかせ……ッ、ああ、血が、……」
俯いていた顔を、上げる。出血に顔面を青白く染めた夕呼が、右腕のない彼女が、偉そうに、不敵に、笑っていた。
泣きじゃくる霞の髪の毛を、残った左手で優しく撫でながら……このまま放っておけば失血死するとわかっていて、それでも、挑むように武を見ていた。
涙が、止まる。――ああ、このひとは、やる。
やると言ったら、絶対にやる。ならばそれは確定された未来で、約束された事項で。だから、絶対に、純夏は……00ユニットとして、完成する。
それがどういう意味かは、わからない。人類の手で創成される、擬似人類。人に似て、ヒトでないもの。“ひとでなし”。ならばそれは、ひょっとするとニンゲンとして死ぬということなのかもしれない。……だが、どちらがいいというのか。
ヒトの肉体を喪って、脳ミソと脊髄だけで「生きている」純夏。
ヒトに似た肉体を取り戻して、けれどヒトとして「死んでいる」純夏。
――そんなもの、選べるはずがない。
どちらにせよ、純夏は00ユニットとなる。それは絶対だ。例えそれを武が拒んだのだとしても、既に決定されていることだから。最高の素体候補。BETAとのコミュニケーションを図る、唯一の希望。
ならば、いい。それは、もう、覚悟の上だ。どの道、壊された人生である。――せめて、その生を、00ユニットとしての純夏を、傍で支えられたなら。
護ることが出来るなら。
BETAを赦せない。夕呼を赦せない。こんな狂った世界を、呪いたい。
でも、それでも、世界にはたくさんの人が生きていて、その人たちを護りたいと戦う人がいて。
護りたい人が、いるんだ――純夏。
「俺は……俺は、純夏、お前を護りたかった……だから、お前を護るよ。今度こそ……絶対に……ッ、」
そして茜を。水月を。真那を。みんなを。
捨てられるわけ、ない。何もかも、全部、かなぐり捨てるなんて……無理だ。
純夏が全てだった。彼女が全部だった。……でも、今は、もう。これまでにたくさん、もらったから。大切なものを。想いを。支えてくれた人たちがいるから。
捨てられない。手を放せない。なんて、無様。なんて女々しい、“甘ったれ”……。欲張りで、怖がりで。
床に転がった弧月を拾う。それと一緒に、剥がれ落ちた仮面も拾う。
刀身を拭い、鞘に収める。それと一緒に、鋼鉄の仮面を丁寧に被る。
武は立ち上がった。見上げる夕呼と目が合う。互いに無言。数瞬で視線を引き剥がし、口を閉じたまま部屋を後にする。
スライドするドアが閉まる瞬間……夕呼が、霞にピアティフを呼び出すようにお願いしているのが聞こえた。……何の感情も、わかなかった。
ただ、恐ろしいくらいの茫漠が。
何もかも空っぽになったような哀しみが。
進む足を、震わせていた。