『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「守護者編:一章-01」
――運命を、呪いなどしない。
彼女の身に降り掛かった凄惨に過ぎる悲劇も。
この身に課せられた、宿業も。
一度は灼熱するような烈火に感情を焦がし、呪わしいと罵ったそれを。
……だって、生きているから。
彼女も、自分も。
護りたいから。――彼女を。
だから、取り戻そう。拾い上げよう。……思い出そう。
たくさんのことを忘れていた。今日までの日々に得た、与えられた、たくさんの、大切なことを。見失っていた。
感情に振り回されて、自分を、周りを見失う……。その恐ろしさを、愚かしさを、身を以って知っていたはずなのに。けれど、また、自分はそれさえを忘れていて、取り返しのつかないことをしてしまって。
でも、それでも。
ようやくにして。気づけたから。思い知ったから。「それが自分」なのだと。そして、そんな醜悪で最悪な自身を、今度こそ本当に、変えたいと願うから。
強くなろう。
強く在ろう。
足掻いて、必死に、我武者羅に。
どれだけの苦痛だろうと、困難だろうと、足掻いて、足掻きぬいて……そうして、この奈落の底から。
這い上がってみせる。
――俺は、もう一度、やり直す。
たくさんのことを、教えられていたんだ。
たくさんの想いを、与えられていたんだ。
この胸に響く温かな感情が、決して嘘でないと言うのなら……。この胸を締め付ける後悔が、決して嘘でないと言うのなら……。
見失った、全てを。手放した、なにもかもを。
ひとつひとつ、丁寧に。拾い上げていこう。
武の両親は、彼が幼い頃から、この世界の現状――BETAという地球外生命体に侵略されている世界の、在りのままを話して聞かせていた。
父、影行は退役した衛士だった。戦闘中に機体脚部を破壊され、機体を捨てて戦線を離脱する際に重症を負ってしまった。当時、擬似生体の技術がめざましい進歩を遂げつつあった頃……しかし、彼に移植された擬似生体は神経の一部に拒絶反応を示し、衛士としてはおろか、軍役につくことさえ出来なくなってしまった。
ただ一人、無様にも戦場を退かざるを得なくなった青年は……けれど、どこか胸の内でホッとしていた。
衛士として任官する以前に婚約を交わした女性。遠い戦場で戦いに明け暮れる影行に、彼女は欠かすことなく手紙を送ってくれていた。……その一通に付されていた、一枚の写真。
小さな赤ん坊を抱いた、愛しい人。写真の向こうで眩しいくらいに笑う彼女と、その胸に抱かれて眠る赤子。
影行は、安堵していた。
戦場を去らねばならない悔しさと無力さに苛まれながらも、……「還れる」のだと。愛する女性と、彼女との間に授かった息子の下へ。生きて、還ることが出来るのだと。
…………だから、彼は。
生まれて間もない我が子に。やんちゃに育つ息子に。お隣に住む同い年の可愛らしい女の子を気にしているらしい武に。
話して、聞かせた。
この世界の現状を。この世界の恐ろしさを。……愛する人が暮らす、この世界の尊さを。美しさを。大切さを。
――その、一言一言を、思い出す。
純夏を護るのだという、明確な意思が刻まれたのはその頃だった。まだ、小等学校に通う以前。曖昧であやふやなそれらの記憶を……リーディングによって、読み取る。
自分自身に対する能力行使を、既に武は万全のものとしていた。……人の記憶が喪われることはないという。けれど、繰り返し、積み重ねた日々の全てを記憶することは脳に多大なる負荷を与え、機能障害を起こすために……普段使用しない、閲覧しない「記憶」は、忘却という機能によって、意識の下層へと押し込められる。
それら、自身でさえ思い出すことの出来ない記憶の再生を、しかし、リーディング能力は可能としてくれていた。
武は今、「自分」を見失っている。すべては自身の精神力の脆弱さ、或いは胆力のなさが原因だが、“そうなのだ”と気づいた現在でも、彼は己というものを見失ったままだった。
感情に狂い、外道をひた走り、人斬りへと堕ちた自分。
眩いばかりの想いを与えられ、支えられていた……そのことさえを見失って、崩壊した自己。――それを、最早信じることなど出来ない、と。
だからこそ、見つめ直す必要があった。もう一度、知る必要があった。
白銀武という男の全てを。自分自身という存在の全てを。成り立ちを。積み重ねてきた何もかもを。最初から、順を追って、ひとつひとつ、丁寧に。丁寧に。
思い出して、理解して、今を――真正面から、見据えなければならない。そして、これからを。
父は、たくさんのことを教えてくれていた。愛する人こそを護りたかったのだと、だから自分は戦ったのだと。軍役を退いた後も、彼は、たくさんの努力を積み重ねて……精一杯、武と、武の母を護っていた。……その、与えられた深い愛情を、思い出す。
だから……。そう、だから。純夏と遊ぶ時も、一緒に学校に通う時も、ずっと。いつも傍にいて、護ってやるんだと。自分が、この少女を護るのだと。そう思うようになった。
そして、公園で、出逢う。
数人の友達と、木の枝でちゃんばら遊びをしているときだった。純夏も一緒になって、喧々と暴れていたその時に……ベンチで眠っていたおっさんが、目を見開いて立ち上がった。胸に抱いていた瓢箪作りの徳利を地に落とし、酒臭さを残したまま、まっすぐに武の方へとやって来たのだ。
友達は驚いて喚きながら逃げ出して、純夏は武の背に隠れるように縮こまった。武もまた、驚きに硬直して……けれど、背中に伝わってくる小さな震えが、精一杯の強がりを保たせてくれていて。――なんだよ、おっさん!
喚くように問うた武に、……彼は。――師匠は、
剣術をやる気はないか、小僧。
真剣な双眸で、小さな武の両肩を抱いて、……そう、言った。――ああ、そうだ。そうだった。それが、出逢い。それが……始まり。
当時の自分には知る由もないが、既にこのときおっさん――師匠は、病魔に蝕まれていた。まして、彼が父と同じく戦場を退いた衛士であること。斯衛の赤を賜るほどの武家の出身であること。対BETAに於ける究極の剣術を編み出した、豪傑であること……。それら全てを知らず、知る間もなく……ただ、与えられた木刀で、教えられた型を繰り返す……それだけの、日々。
たったの数日。こうして記憶をリーディングすると、それは、僅かに四日だった。一週間にも満たない、それだけの日々。出逢った公園で、朝から夕方まで、ずっと。一緒に遊ぼうと声を掛けてくれる友達の言葉も、心配そうにこちらを見つめている純夏の視線も、何もかも忘れて、没頭した。
始めの内は半ば無理矢理に。でも、三日を過ぎた頃から、むしろ待ち遠しく感じてしまうほどに。
――そうだ。思い出した。
五日目の朝。本当に、心の底から、思っていた。きっと、この剣術をもっと上手に使えるようになったなら。きっと、きっと……純夏を護ることができるのだと。
初めて自分自身から、やる気に満ちて公園に向かった。昨日までは“おっさん”と呼んでいた彼を、……照れくさいけれど、“師匠”、と。そう呼んでみようと決めたその日の朝。
公園には誰もいなかった。この四日間、ずっと、公園の真ん中に仁王立ちして、木刀を構えていた彼は……姿形もなく、まるで幻のように消えてしまった。
その時の戸惑いを、思い出す。
どうしてか、悔しいくらいの、たくさんの感情が溢れたのを……思い出した。
捨てられたのだと感じた。見捨てられたのだと知った。それが悔しくて哀しくて……でも、この剣術は、きっと純夏を護る力になるから。だから、ずっと……続けていた。いつかきっとこの公園に、おっさんが帰ってくるのだと信じて。期待して。そのときに、成長した自分を見せてやろうと。この力で、純夏を護って見せると。
純粋だった。
真っ直ぐに、それだけを信じていた。迷いなく。躊躇なく。――俺が純夏を護るのだ、と。ただそれだけを、見ていた。それが総てだった。
記憶という名のアルバムを、捲る。師匠との出逢いから以降、予備学校に進むまでの六年間は……ずっと、そのための日々だった。身体を鍛え、剣術の腕を磨き、純夏の傍にいて、彼女への想いを強くしていって。
あの頃の真っ直ぐさが……どうしてか、武にはひどく眩しく感じられた。あまりにも今の自分とかけ離れている、輝かしい白銀武。その瞳はただ前だけを見据え、高みを目指し続け、自身の信じる道がハッキリと示されている。
中等学校へと進学し、帝国軍が志願兵の受け入れ対象を十五歳にまで引き下げるという話を、教師から聞かされた。
武は迷うことなく、自身の進路を決定した。純夏にも、両親にも、教師にも。誰にも相談せずに、けれど、絶対に――衛士になって、純夏を護るのだと――そう決めて。我武者羅になって勉強した。滅茶苦茶なくらいに、自身を鍛えた。何をそんなに頑張っているの、と心配してくれる純夏に微笑んで、けれど、訓練学校の試験に合格するまでは黙っていようと。
衛士訓練学校の試験に合格したその日。まず、両親に打ち明けた。届けられた合格通知を見たときの父親の表情は……リーディングなど用いずとも、今も鮮明に残っている。嬉しいような、寂しいような……でも、泣きそうな。しっかりと頷いて、肩を抱いてくれて。頑張れ、と。ただ一言。その声を、掌を通じて伝えられた万感の想いを。思い出す。
その日の晩、純夏に打ち明けて。告白して、彼女も同じ想いを抱いてくれていたのだと知って。嬉しくて、こそばゆいほど幸せを感じて。
だから自分は、衛士になる。絶対に衛士になって、強くなって、彼女を、両親を、この町を、この国を、世界を――護るのだと。
輝かしい、想いを。抱いていたのだ。
ともに同じ道を往く仲間と出逢い、颯爽として、力強くて、優しい先達に出逢い。
――すべてが狂ったのは――
ここから、だ。
自身には、輝かしい想いがあった。両親から与えられた想いが、師匠から与えられた力が、純夏から与えられた愛情が、確かにあった。存在した。
だからどんなに辛い訓練にも耐えられたし、微塵たりとも己の道を疑わなかった。積み重ねるひとつひとつの日々が、すべて、彼女を護るための力となるのだと。
でも。
それは間に合わなかった。
記憶にノイズが混じる。雑音が、脳髄を支配する。そうだ。すべてはここから、この日から。
これこそが、すべての元凶。或いは、堕ち始めたきっかけか。
横浜襲撃。壊滅した柊町。喪った純夏。両親。護りたかった――全部。
なにもかもを。
ただ、それだけを目指していた。ただ、護るのだと。護りたいと。それだけを、抱いていた。だからこそ、なによりもそのために。そう出来るように、衛士を目指したというのに。
――故に、捩れ、狂う。
これが、すべての始まりだ。あの時確かに、自身にとってのなにもかもが、音を立てて崩れ去った。粉々に罅割れて、塵と化し、芥と消えた。武は自身を見失う。喪って。幼少の頃より抱き続けてきた総てを亡くして…………その精神は、「死んだ」のだ。
自我が崩壊して、ただBETAへの憎しみに感情が奔流しそうになった武を、けれど水月が支えてくれた。思い切り殴り、蹴り、投げ飛ばし。生きているのだと。お前は生きているのだからと。何もなくとも、「生きているから前へ進め」と。胸を打つ言葉をくれた。温かい想いをくれた。涙に濡れる自身を抱き締めてくれた……あの、切ないまでの感情。
それに縋ることで、武は今一度の生を掴む。けれどそれは酷く脆くて薄っぺらで、武自身、危ういと承知していながらにただ足掻き続けた。……そして、その武を、いつも、いつでも、傍で支えてくれた茜。当時は自分自身にそんな余裕がなくて、全く気づけなかったその想い……。ただ自分だけを支えてくれた、彼女の存在。
――でも、きっと。どこか無意識に、甘えていた。傍にいてくれる茜に、支えてくれる彼女に。ほっとして、嬉しくて、甘えて……。気づかぬ内に、少しずつ。
戻ってきた横浜の地で、出逢う剣士。たった四日間の、幻のような日々……その、再来。二人目の師匠。武にとって、真那という女性の存在は、涙が溢れるほどに……大きくて、憧れて、なによりも、嬉しいと思えた。彼女から伝えられた師の想い。彼女に託された想い。月詠の剣術を――継ぐ。そうすることが、今、生きている自分を真っ直ぐ導いてくれるのだと。そう思うようになった。
――これほどに、たくさんの想いを与えられていて。
――それでも、捨て切れなかった純夏への執着は。
仮面を纏った道化だったのだと、知った。銀色の髪の少女。人類を救う科学者。……この横浜の地に唯一“生き残った”、脳ミソ。
今思えば、あの時の感情の暴走は、抉られるような記憶の奔流は……きっと、霞のプロジェクションによるものだろうとわかる。あの脳ミソが鑑純夏なのだと知り、彼女の記憶の中に武がいたことを知った夕呼の、紛れもない、計略。
武の戦術機適性の謎を解明する傍らで、本命とも言える、純夏の脳のリーディングは行われていたのだろう。純夏のイメージを投影され、そして表層に浮かび上がった彼女のイメージを、霞は脳ミソにプロジェクションすると同時にリーディングする。……あの時の自分にはまだ、何もわかっていなかった。発狂するくらいの“ソレ”は、霞を通じて自身へと逆流したのだろう。
その、意味するところを、知りはしなかった。気づくことさえ、想像することさえ、出来なかった。
……ただ、深層意識の最下層に封じ込めていたドス黒い憎悪が怨讐が、鎌首をもたげ、覚醒した。――これが、更に捩れるきっかけとなった。
純夏を喪って、両親を亡くして…………その憎しみを、復讐を、決して拭い去れるものではないと気づかせた出来事。
己の紛れもない本心を仮面の下に覆い隠し、傍にいてくれる茜には絶対に悟らせることはなかった。彼女の哀しむ顔を見たくなかったから、懸命に、いつも通りの白銀武を演じた。――否。
そうじゃ、ないだろう?
怖かった。支えてくれる茜を喪うことが、怖かったんだ。……ああ、今だからこそわかる。あの時自分は確かに、茜や、周りにいてくれる彼女達を騙して、平穏を装った。
そうしないと、彼女たちが離れていってしまうと……怖かった。
純夏を捨てきれない自分。彼女を忘れられない自分。いつまでも、その死を受け入れることの出来ない……情けない自分。そんな、浅ましく醜い本心を知られれば、きっと――見放される。……そんな、甘ったれた感情を。
それが、白銀武。それが、自分だ。――認めよう。これが、こんなにも情けなくて女々しい男が、自身であると。
結果として、そうやって仮面の下に押し込まれた負の感情は、それゆえに加速度的に増幅されていったのだろう。抑圧された感情は、いつか、限界を超える。
限界まで酷使された仮面を呆気なくぶち割った原因は、矢張り、夕呼が直々に執り行った、単独での任官だった。
目の前に敷かれ、用意され、そこを突き進む以外の道を遮断されていたとはいえ、けれど武は、紛れもない自分自身の意思で、決定で、覚悟で、その道を往くことを選択した。
別れることとなった剣術の師――真那に、師匠の形見の「弧月」を託され、彼女自身の、涙が溢れるくらいの温かい想いを託された。――なぜ、このときに。託されたその本質を刻み付けることが出来なかったのか。どうして、その想いに涙しながらに、あの忌まわしい憎悪を晴らすことが出来なかったのか。
託された刀に込められた真那の想いと。手を差し伸べてくれた水月の想いと。ずっと傍で支え続けてくれた茜の想いと。
純夏を殺された哀しみと憎しみとが。
――別物である、などと。
原因は、単純だ。捨て切れなかっただけ。捨てるのが怖かっただけ。彼女を喪った哀しみを、奪い去ったBETAへの憎しみを。……忘れられなかった理由は、ただ一つだけ。
自分には、そんな強さはなかったのだ。
哀しみに縋り、憎悪に身を焦がし……そうでもしなければ、そうやって自分の感情を常に滾らせていなければ。永劫に、純夏を喪ってしまうと。そう、思い込んでいた。
脆弱であると断ぜられて当然。これが、紛れもない自分自身の精神である。かつて熊谷に諭されたような、憎しみさえを想いに換えるほどの“強い力”は、自分には、なかったのだ……。
憎しみさえを想いに換えるということは……それを、ありのままに受け入れるということだ。
BETAに殺された彼女を。BETAに蹂躙された彼女を。
もう、どこにも鑑純夏が居ないのだと。それを、受け入れるということだ。――それが、自分には出来なかった。
だって、受け入れてしまえば、それで終わりだ。もう純夏は居ない。……そんなことは、出来なかった。だから、憎む。怨む。その感情を、沸々と滾らせる。……そうすれば、BETAが存在する限り、彼女が消えてしまうことはない。BETAへの復讐が続く限り、永劫に、純夏は自分の中から消えたりはしない。
――そうやって、歪んだ思考に捕らわれて。歪んでいることに気づかずに、誤っていることに気づかずに。……気づこうとさえしないで、何一つ誤魔化しの中で。
だからこそ、選択を迫られたそのときに。
純夏という存在が自分の中から消えてしまうのがただ怖かったから。――選んだ。復讐を。脆弱で恐怖に縮み上がった精神は、ソレを選択した。
故に、呆気なく。
仮面は砕け散る。否。自らの意思で、手放したのだ。
復讐を、遂げる。
そうすれば、そうしている間は――鑑純夏は、“生き返る”のだ。
BETAを殺すたびに、その醜悪な肉を断ち切るたびに、自身の感情の中で……確かに、純夏の息吹を感じていた。故に酔いしれる。故にソレだけを求める。戦場に在るのは自分とBETAだけ。連中を殺す自分と、そんな自分にコロサレルだけの、BETA。斬るたびに、返り血を浴びるたびに――恍惚と。
外道。
道を、踏み外した。迷いなく。躊躇なく。それが誤りと気づかぬまま。人道を見失ったまま。正道を失くしたまま。ただ、悦びに歓声をあげ、喜色さえ浮かべながら、奈落への道を駆け堕ちたのだ。
その代償は、あまりにも大きい。
喪われた四人の先達。復讐に狂い、それこそを是と暴走した武を救うために犠牲となった彼女達。光線級に撃墜され、重症を負った己を、ただ、ニンゲンで在るがための優しさで。志乃は、救ってくれた。命を懸けて。弧月さえを手渡してくれて……でも、そんな優しさをくれた彼女は、BETAに喰われて死んだ。
彼女と共に救出の時間を稼いでくれていた亜季は要塞級の攻撃に下半身を失って、絶叫の果てに息絶えた。木野下は、藍子は、逃げる間もないほどのレーザー照射に蒸発して逝った。
全ては、武の暴走が引き起こした凄惨なる地獄絵図。……これ以上ないくらいの、最悪な、代償だった。
故に思い知る。如何に己が間違えていたのかを。いつまでも復讐に捕らわれ続けることこそが、喪われた彼女達を貶め、或いは……これまでに与えられた数え切れないほどの想いを裏切ることになるのだと。思い、知った。
――水月には、永遠に頭が上がらない。あの時、彼女が泣きながらに殴ってくれなければ、また、間違えていただろう。過ちに気づかぬまま、復讐という名の泥沼に捕らわれたまま、溺れ……死んでいたに違いない。だから、感謝を。
だから。
だから、純夏への想いを……胸に抱くと。復讐さえを彼女への想いへと換えて、守護者として。護るものとして。戦えるように……そう在れるように。
――そう出来たなら、本当によかった。いや、違う。今だって、そう思うのだ。そうなりたい。絶対に、成ってみせる。
なのに、また。
道を踏み外して、奈落へと転落してしまったのは……。
脳を改造され、いずれ訪れる死を約定され。
それでも、心底からに気づいた想いがあった。鬩ぎあう自身の「復讐」と「守護」の感情に自我が崩壊しそうになったその時に、知った。
茜。
彼女のことを、想う自身を。彼女への想いの、大きさを。
だから、それだけで十分だった。純夏への想いと、茜への想い。それらを抱いて、守護者としての道を突き進むことが出来たなら……それだけで、満足だと。そう決めることが出来たのに。
――その覚悟と、宿業を知って・・・尚、それでも、俺は、香月夕呼を赦せない。
クスリによって無理矢理に開かれたリーディング能力。その行使。対象は脳ミソ。
喪ったと、思っていた。
亡くしてしまったのだと、そう思っていた。
だからこそ自分は復讐に捕らわれて、哀しみに縛られて……でも、それでも、茜への想いを自分自身の支えと出来るようになったのに。
生きていた、純夏。BETAの暴虐に変わり果てた姿となって。ずっとずっと、シリンダーの中に浮かんでいた、彼女。
その事実を知り、その存在を知り、その非道を知り、その恐怖を知り、その絶望を知り、その悲哀を知り、その怒りを知り、その叫びを知り。――そして、その運命を、知った。
00ユニット。ひとではない、擬似生命体。BETAの思考を読み、奴らを打ち倒す術を諜報するための……素体。ヒトとしての姿を、生を奪われ……いずれ、“ひとでなし”の存在となることが決定された、その、運命を。
赦せないと。どうして、と。……けれど、それが夕呼の覚悟と宿業で在ると知ったから。だから――苦しくて哀しくて気が触れて吐き気がして、憎くて憎くて憎くて憎くて――殺したくて。
…………なぜ、あのとき、夕呼は。
あんな言葉を、吐いたのか……………………。
きっと、その言葉さえなければ、自分は……いや、違う。夕呼が悪いわけじゃない。それでも尚、自身を抑え切れなかった自分が……弱かった、だけだ。……………………。
夕呼を斬ったその感触は、生々しくこの手に残っている。浴びた血飛沫の生温さを、この身はまだ憶えている。
それはきっと、その行動はきっと……シロガネタケルとしては正しくて、白銀武としては間違っていた。
自身の不遇を受け止めることが出来て、茜への想いに気づくことが出来て……全ては再び、ここから、と。――どうして、そんなタイミングで、こんな、こんなにも、残酷な。
運命というものは唾棄すべき呪いのようなものだと……知った。いや、そう思いたかった。そうでなければ、あまりにも、酷い。
振り切れた感情の、ほんの僅かに残った理性は。確かにその音を聞いていた。
崩壊の音。崩落する音。道を踏み外し外道へと堕ちた自身が、再び正道へと歩き始めたその道が…………粉々に壊れて、ただ、奈落という名の暗闇に変貌する。
底無しの闇の、奈落の底。
そこに堕ちた。
二度と這い上がることなど出来ないその場所に転がり堕ちて。――ああ、でも。それでも。
捨てきれない想いがあったのだ。捨てたくない、想いが、こんなにもたくさん、存在したのだ。
――父の、母の、愛情が。
――剣術を教えてくれた師匠の遺志が。
――刀を託してくれた真那の信愛が。
――手を差し伸べてくれた水月の情愛が。
――いつも傍で支え続けてくれた茜の想いが。
――あんな姿になってまで、自身を求め続けてくれた純夏の愛が。
己の無道を、赦しはしない。
このまま、奈落に捕らわれることを、認めなどしない。
これほどの想いを裏切ったままなんて無様、晒せるわけがない。――生きろ。そして、足掻け。
見失った自分自身。信じることなど出来ない己の心。
けれど。思い出したから。たくさんの、温かい気持ちを。
だからもう一度。そして今度こそ。強くなる。強くなって、ひとつひとつ、取り戻す。どれだけの永い時が過ぎようと、どれだけの醜い姿を晒そうと。――俺は這い上がる。
喪いたくないから。捨てたりなんて、出来ないから。だから、手放してしまったそれらを、踏み外してしまった道を。
再び、この胸に、抱く。
運命を、呪いなどしない。
生きている。純夏も、自分も。
生きてまた、巡り逢うことが出来た――ならば、それはきっと、泣きたいくらいに嬉しいことだろうから。
どんな姿になっていても。どんな残酷で惨たらしい陵辱を受けたのだとしても。それでも、白銀武は。
鑑純夏を愛しているから。
「…………でも、俺は、」
武は、自身の両手の平を見下ろす。
廃墟と化した柊町を一望できる丘の上で、雨の湿り気を孕んだ風が、頬をなぶる。訓練用の軍装、ジャケットの前をだらしなく開いたまま、風の吹くままに遊ばせて。
手の平を、見つめる。
いつも、そこには彼女がいて……そして、自分は、くしゃくしゃと、この手で、彼女の頭を撫でて……。そうするのが、心地よいと思えた。そうしていると、心が落ち着くと思えた。顔を真っ赤にして、慌てたような声を発して……でも、本当に、嬉しそうに笑ってくれるから。
だから。
いつも傍にいてくれた。いつもそこにいてくれた。気狂いに支配されそうになったときに、彼女の声が、笑顔が、ギリギリのところで支えてくれた。――気づかせてくれた。
白銀武は、涼宮茜を――――――――――――――愛している。
それは、もう、間違いない。
偽りでも、気のせいでもありえない。自分の気持ちを誤魔化せるほど、武は器用でもなければ達観もしていなかった。
そもそも、己の感情を、情動をコントロールできるのであれば、復讐に狂うような愚かさも、夕呼の右腕を斬り落とすような無道もなかったに違いない。猛る感情こそが己の本性であり、それを抑える術がないのが自身だと知った。……ならば、この、茜への感情も。
嘘偽りなく、心の底からの。
故に、武は葛藤する。
護りたい。護りたい。絶対に、護りたいと。そう想う。愛するが故に、愛していると気づいた故に。――好きだ、茜。
でも。
それでも。
鑑純夏が居る。彼女が存在している。彼女への執着を捨てきれず、ここまできた自分。彼女の運命を知ってしまった自分。己の原点にして、性根の部分。――純夏を、護りたい。その、幼少の頃からの念が……。縛る。心を。茜への感情を。
もし――もし、純夏の生存を、運命を……知らぬままだったなら?
ひょっとすると武は、そう遠くないいつかに、茜と結ばれるようなことに……なったのかもしれない。
純夏への想いを胸に抱きつつ、それでも、茜を心底から愛し、護り、幸せにすることも出来たかもしれない。
でも、知ってしまった。その事実を、その存在を、その非道を、その恐怖を、その絶望を、その悲哀を、その怒りを、その叫びを。――そして、その運命を。
――どうすれば、いい。
純夏が悪いわけじゃない。彼女が悪いなんてことがあるはずない。悪いのは、元凶は――BETAだ。一点の曇りなく、紛れもなく、奴らが。そして…………それが夕呼にとって、AL4という人類の希望を賭けた計画にとって、最も適しているというだけ。純夏は、それら運命に翻弄されただけの被害者だ。
それを知ってしまって……感情に、火がついた。胸に抱いた感情が、そう在れればいいとさえ願った感情が――また、目を醒ました。
鑑純夏を愛している。
涼宮茜を愛している。
――ならば俺は、どうすればいい……。
大切なものを、大切な人を、大切な想いを……護りたい。「護る」という意志の中には、全てが含まれているように思う。純夏も、茜も、水月も、真那も、師の遺志も、両親の愛も、仲間達も……なにもかも。
でも。その中でも、愛するが故に護りたいと、喪いたくないと……想うのは、純夏、茜……彼女達。
どうすれば、いいんだ――?
自分がこんなにも不実であるとは想像もしなかった。純夏を愛し、彼女を護りたいからこそ衛士を目指したというのに……彼女を喪い、支えてくれた茜を愛するようになって……なのに、純夏の生存を知り、またも気持ちが揺らいでいる。――こんな、ことって……。
紛れもない本心だった。純夏への気持ちも、茜への想いも。どちらもが、武の本当の感情であり……愛情。だが、武という青年の倫理観において、それは赦されざる不義理だった。己の心に二心が存在するなどという事実。
きっと、このままではどちらも傷つける。茜の想いを確かめたことはないが……でも、多分、間違いない。ならば、武自身紛れもない本心に気づいたのなら、彼女の想いに応えることもできるだろう。だが、それは……茜を選ぶということは、純夏を切り捨てるということだ。
執着。
まさに……そのとおりだ。
今の武に在るのは、ただ、純夏への執着という名を借りた愛情。己の人生のほぼ全てを共に過ごし、だからこそ愛し、護りたいと願った少女。その存在は自身の半身とさえ言っていいほどに、大きく、愛しい。
かつて、茜への感情に気づいた際にも……決めていたのではなかったか。その気持ちを胸にしまうと。胸に抱いて、生きると。
ならば何故、今更に葛藤するのか。純夏への想いと、茜への想いに板挟みになり……これほど無様な、醜態を晒すのか。決まっている。
――純夏が、生きていたからだ。
「莫迦か…………ッ、俺は………………ッッ!!!!!」
最悪だ。どうしようもなく。
うんざりするくらいの、情けなさ……そして、精神の弱さであろう。愛し抜くと決めた純夏の存在を、茜の温かさに薄れさせ、彼女への愛に生きると決めた矢先に、……純夏の生存を知り、揺らいでいる。目の前の事象に揺らぐだけの、惰弱なる精神。――それこそを、変えたいと……だからこそ強くなると誓ったんじゃないのかよッッ!!
なのに、どれほど自身を罵倒しようとも。決められない、選べない。どちらも。
喪ったと思っていた純夏が、今、手の届くその場所に居て……。
愛していると思える茜が、今、手の届くその場所に居て……。
そのどちらも、絶対に喪いたくない。失くしたくない……。それは、如何なる傲慢か。
守護者として生きていく。手放してしまったもの、裏切ってしまったもの、そのひとつひとつを、取り戻す。そのために強くなり、そのために強く在り……だからこそ、護りたい。
そう、願うならば。
それを、誓うならば。
――男として、選べ。
衛士としての、月詠の剣術を継ぐ者としての決意を固めたならば。二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うならば。どれだけ醜悪で滑稽で無様な姿を晒そうとも。
その生き方に殉じると決めたならば。
――愛する者を。
純夏への愛が、彼女への執着であるというならば。
茜への愛が、一時の気の迷いでないというならば。
「う…………ぅぅぅうぅうううっっ、純夏ッ、純夏ァア!! 俺はっ、おれは――ッッッ!!」
生きていてくれて嬉しい。
どんな姿になっていても、どれ程の宿業に捕らわれていたのだとしても。
生きていてくれて。また、逢えて。
嬉しい。愛しい。お前を護りたい。
――それを、「執着」というならば。
喪った哀しみが、滾る怨讐が、BETAへの憎悪が……生きていた喜びが、運命への悲哀が、夕呼への怒りが、全て、その言葉に括られるものならば。
涼宮茜。
いつも傍にいてくれて、いつでも支えてくれていて。感情の裏表がなくて、すぐに何でも顔に出て。眩しいくらいに笑って、はにかんで、たくさん泣いてくれて、たくさんの時間を、一緒に居てくれて。護りたくて、挫けそうになる心を、――お前との思い出が、支えてくれて。
どこか、純夏と重ねてしまっていた。傍にいてくれた彼女を、喪った幼馴染に重ねていた。――でも、例えそれがきっかけなのだとしても、それでも。
――この感情が、偽りでないと吠えるなら。
「俺は……ッ、純夏……お前を………………ッ、」
茜には、笑っていて欲しい。
傍にいてくれる彼女には、いつだって笑っていて欲しい。
その笑顔を、護りたい。その想いを、護りたい。……だって、白銀武は、涼宮茜を、、、で、も、――。
心臓が張り裂けそうになる。心が引き裂けそうになる。それは、数時間前に味わった夕呼への憤怒やBETAへの憎悪とも異なり、或いは純夏に用意された非業なる宿命に気狂いしたそれとも異なって……。ただ、痛む。
人斬りの外道に堕ちたことを痛むそれとは、全く別の……けれど、間違いなく武の精神を形作るもう一つの根幹とも言うべき心が。
純夏だけを想い、純夏だけを愛し、純夏だけを見て、純夏だけを求めていた――その、もう一つの自身が、裂ける。罅割れて、血を噴き出して、絶叫しながらに、痛い、と。
叫ぶ。
裂ける。
心が、血を流して、――選択する。
一つだけ、気がついた。
血だらけになった心を見下ろして、その選択を下した己を睥睨して。どくどくと痛いほどに脈動する、血塗れの心臓の、その横に在る傷に、啼いて。
気がついたことが、ある。
例えどちらを選んだのだとしても。自分には――俺には、それを受け取る資格は、矢張り、ないのだということを。
二心を抱いた自分には。彼女達を天秤にかけた自分には。例え……そのどちらこそを「愛する」のだと決めたとしても。彼女の幸せを願うことはあれ、それを享受することなど出来やしないのだと。これは、自分勝手なエゴだ。彼女達を愛しいと想い、護りたいと願う……己の傲慢だ。茜が武のことをどれ程に想ってくれようとも、純夏が武のことをどれ程に想ってくれようとも、それを受け止める資格は――きっと、ない。
どちらを選んでも、武の心は死ぬ。男としての、青年としての、女性を愛する者としての自身は……血に濡れて、反吐を吐いて、死に絶える。心の半分を喪って、片割れたそれだけで、選んだ彼女を幸せに出来るはずがない。それはきっと、あんまりにも……不義理だろうから。
愛しているという囁きも、己の心の半分だけ。選んだ彼女へ与えられるのは……半分だけ。残りのそれは血に濡れて、心の奥底にいつまでも沈んでいて。
だから、武には……茜の、純夏の、想いを受ける資格はない。
ただ、幸せであれ、と。エゴだろうが傲慢だろうが……或いは、単純に自己を満たすだけのちっぽけな満足感だろうとも。――護る。護り抜く。
選択したこの心こそを根幹として。
秤にかけて選択した彼女への愛情こそを胸に抱いて。
「俺は……最低だ」
十数年を共に生き、いつまでも護ってやりたいと願ったはずの純夏。
この数年を共に過ごし、いつしか愛しいと感じるようになった茜。
真っ二つに割れたそれぞれへの愛情を…………その片方を、今、自分は。……紛れもなく、
===
「それで茜、これからどうするの?」
午後の講義の合間、二十分の休憩の早々に、晴子が隣の席から身を乗り出すように寄って来る。それを片手で押さえつつ、茜は一体何のことかと思案しながらも、適当と思われる答えを返した。
「そりゃ、当然……速瀬中尉たちに迷惑をかけないように一刻も早く……」
「あー、あー、あー、そっちじゃなくて」
顔面を押さえつけられたままの晴子が、ニヤニヤと口を綻ばせながら、「違う違う」と手を振る。きょとん、としてしまう茜の背後から薫がにょきっと顔を出して。
「晴子が言ってんのはさ、白銀のことだろ?」
「そうそれっ! ね~、茜、白銀君とは何か進展あったの~?」
絶句する。ニタリ、と口端を吊り上げて、晴子と薫が同じ表情で笑う。その内容になにかを嗅ぎ取ったらしい多恵が猫のようなしなやかさでやってきて、亮子までもがその輪に加わるべく椅子を近づける。四人の同期にぐるりと囲まれて、茜は狼狽した。いつの間にか出来上がっている包囲網、これも長年の付き合いが成せる業かと嘆きつつも、けれど晴子の発した不穏当な質問に答えるわけにもいかず……ッ。
「なっ、なっ、なにをイキナリ言い出すのよっ?!」
「いやー、いい加減じれったいというか」
「そうだぜ。白銀だってあれだけハッキリ言っちゃったんだからさ」
瞬時に顔を真っ赤にさせた茜に、しかし晴子と薫は頓着しない。共に茜の想いを知り、それが報われればいいと願っている親友として。或いは、単純にお前らいい加減くっつけよ、と少々どころが大いにじれったく思う悪友として。……自分たちが任官を果たしたその日、武が茜に言った言葉を思い出せば、なにがしか進展があったはずだと睨んでの問いだった。
が。
茜はそれに応える術を持たない。確かに武がああいってくれたことは嬉しく、幸せになるくらい感情がときめいたりもした。
けれど、今の自分は一人前の衛士を目指す身であり、まして武は数ヶ月とはいえ、先任であるのだ。恋愛に階級など関係ないのかもしれなかったが、……茜は、現状に不満を抱いているわけではない。武が茜を必要としてくれたことを知り、自身の存在が彼の支えとなっていたことを知れば……それだけで満たされるのである。
無論、晴子や薫……まだ口を挟んでいないが、多恵や亮子とてその茜の気持ちは承知しているだろう。
報われることのない恋。愛情。――それを、哀しいとは思わない。
茜は自身の感情に誇りを持っている。それが武の支えとなれたことを、心底から嬉しいと笑うことが出来る。……だから、そう、だから。
晴子や薫の表情を見ればわかるとおりに、この問いは単純に娯楽に餓え始めた彼女達が、茜を弄ることでその餓えを満たそうとしているだけに過ぎない。……の、だろう。
「んののっ、そんな茜ちゃんっっ! 白銀くんといつのまにそんなことにっっ!!??」
「あんたはナニを想像してるのよッッ?!」
顔を真っ赤にしてくねくねと抱きついてくる多恵に、チョップを喰らわせる。にゃあっ、とよくわからない悲鳴をあげた多恵はよろよろと尻餅をついた。
「え? なに? 茜ってばまさか――」
「そっか……お前いつの間にか、オトナになってたんだな……」
「茜さん不潔ですッッ!」
最早何を突っ込めばいいのやら。茜はげんなりと肩を落として溜息をついた。その様子に晴子や薫がからかうような笑顔を見せるが、けれど茜の表情は変わらない。両手で顔を覆ったまま耳まで真っ赤にしている亮子をとりあえず無視して、
「あのねぇ……あんたたちが何を想像してるのか知らないけど、……あたしと武はその、別に、」
「ん~~~~、茜。それはさ、まあわかるんだけど」
少々の怒りを込めた茜の声を、どこか真剣さを帯びた晴子の声が遮る。ぇ、と驚いたように茜が彼女を向けば、入隊以来の親友は――これまでに一度も見せたことのないような真面目な表情で。
「茜、さ。…………茜の気持ちは知ってるし、理解しているつもり。でもさ。もう、いいんじゃないかな? 白銀君だって茜の気持ちに気づいているみたいだし、なにより……茜のこと、本当に真剣に考えてくれてると思う。私はね、茜。……茜には、幸せになってもらいたいんだ……。いきなり何を、って思うかもしれないけど、さ」
晴子はそこで一度言葉を切り、戸惑うような茜を見て、笑った。――その笑顔は、いつかどこかで見た、微笑みで。
「私たち、衛士になったんだよ。念願かなって、この国を、世界を護るための力を手に入れた。……でも、まだまだ実戦の経験も無くて、今だってBETAの知識や部隊の一員として必要な知識を習ってるだけの半人前で…………でも、さ。もう、私たちは訓練兵じゃない。無力だったあの頃とは違う。戦争に、出るんだ。…………私、さ。怖かったよ。あの映像を見て、白銀君がBETAと戦うのを見て……光線級に、撃ち墜とされるのを、見て。怖かった。――死んじゃうんだって、思った」
「晴子……」
静寂が、室内を包んだ。微笑みながら、なにか底知れぬ決意を語るような晴子に、茜も、薫も、多恵も、亮子も……皆、言葉を失った。
怖かった、という。気が違ったかのような殺戮を繰り広げる武を見て。その武が、レーザーに撃墜されるのを見て。
死んでしまう。
その恐怖を。
「でも、それが衛士としての使命で……戦争というなら、私は絶対に、最後まで誇りをもってやり遂げることが出来る。……茜もそうだよね。……うん、だから、さ。だから……いつ死んでしまうかわからない、そんな戦場だから。やっぱり、茜には幸せになって欲しいよ。好きな人がいて、好きな人の傍にいて……茜はそれで満足だ、って。そう言うかもしれないけど。でも…………やっぱりさ、女の子なんだもん。好きな人とは、結ばれたいって、思わない?」
「――!?」
不意を、突かれた。悪戯気に細められた瞳が、茜を貫いていた。
一瞬前までのシリアスな雰囲気はどこに消えたというのか。再びニヤリとかたどられた唇が艶やかに、晴子、という名に相応しい、実に晴々とした笑顔で。
「というわけでさっ、今夜あたり白銀君とセッk――――」 「ふんっっ!!」
右手の親指を人差し指と中指の間に潜り込ませた晴子に、間髪居れず抉るようなアッパー・カット。椅子ごと仰け反るようにしてぶっ倒れた晴子は、ぐるぐると眼を回していた。
「ばっ、ばかじゃないのっ!!!??」
「……茜、少しは手加減してやれよ……」
とても椅子に座った状態から繰り出されたとは思えない、身震いするほどのアッパーを目の当たりにして、このメンバーの中では随一の近接格闘能力を持つ薫は戦慄した。……が、まぁ、晴子の自業自得ともいえるので彼女に対するフォローはしない。むしろ、晴子が最後まで言うことの出来なかったそれこそを継いで伝えることが、自分の使命であろう。たとえ、その後に自分もまた晴子同様に打ちのめされるのだと知っていても……! ――ああ、我ながらこの性分が恨めしい。内心で苦笑しながら、けれどそれが性分というものであろうと知っている薫は、
「ま、アレだ。ちゃんと避妊しろよ?」
机と椅子が並ぶこの室内で、だからどうすればそんな鮮やかな回し蹴りが放てるというのか。こめかみを抉るように決まった爪先に意識を刈り取られながら、薫は床と接吻するのだった。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」
二つのできたての屍を見下ろしながら、まるで闘神のような在り様で、茜は荒く息をつく。見るからに興奮状態にあり、けれど羞恥に頬を染めたその目は血走っていて……まるで視界に映った全ての者を血に染めなければ収まらないかのような姿は、伝説に謳われる狂戦士を彷彿とさせた。その錯乱に近い状態にある茜が、ギヌロ、と多恵と亮子を振り向く。
「んののののっっ!!? あ、あ、茜ちゃんっ! お、おち、おちつ、おちちゅいてっっ!!??」
「はゎゎゎわわわ、茜さん、ど、どどど、どうか、冷静にっ」
「多~~恵~~」
「ひいいいいいっ!? いやぁーだめぇーっ、こんなところでーー! あ~~れ~~っ」
「気持ち悪い声出してんじゃないっ!!」
すぱーん。と小気味よい音を立てて、再び多恵にチョップを喰らわせる。びくびくと震えていた亮子が涙目でこちらを見つめていた。……本気で怯えていたらしい。なるほど、彼女達の間で自分がどのように思われていたかがよくわかる。やれやれと苦笑しながら、茜は椅子に座った。
「あの……茜さん」
「な~に? あ、別に怒ってるわけじゃないからね?」
上目遣いに呼びかける亮子に、困ったように笑いながら。けれど亮子は、小さく首を振って。……ついさっきの、晴子と同じような眼をして。表情で。
「わたしも、茜さんには幸せになって欲しいです……。軍人であろうとすることは、大事なことだと思います。衛士として在るためには、それも仕方ないのかもしれません……。でも、でも……やっぱり、それでも」
誰よりも、人の心の機微に聡い亮子のことだ。きっと、彼女もまた、茜の本心を理解しているに違いない。小柄な身体の全部を使って、自身の気持ちを伝えようとする亮子の姿は、同性から見てもとても愛らしいと思えるものだった。
「白銀くんには、きっと、茜さんが必要なんだと……思います。例えそれが精神的なものでも、肉体的な繋がりを求めないものでも……でも、きっと、白銀くんは、茜さんを求めていると思います。茜さんが、白銀くんを求めるように……」
「べっ、別に、あたしは――――!!」
本当に、そうだろうか。
続く言葉を、茜は持たなかった。
晴子は言った。戦争が怖いと。いつ死ぬかわからないそれが怖いと。だからせめて、いつその時が来てもいいように。後悔しないように。――愛する人と、結ばれたい。
それはきっと……生きて、恋をして、誰かを愛したことの在る人ならば……きっと、誰もが想うこと。
亮子は言った。武は茜を求めていると。精神的な面で、肉的な繋がりを不要としていたとしても。それでも、茜を求めるだろう、と。そして、茜もまた……。
どうなのだろう。茜は自問する。自分の感情に問いかける。果たして自分は、そんな風に、武を求めているのだろうか……?
傍にいたいと願った。支えてあげたいと願った。そのために自身を磨き、そうできるように鍛えた。いつしかそれは、淡い恋心となって……むしろ、彼が居なくてはぼろぼろになってしまうくらいの愛執に育ち……今はただ、傍に在れるだけで満たされる、愛情へと変化した。
武が自分を選ばないだろうことは、わかっている。彼の心の中にはいつだって幼馴染の少女が居て。……だからこそ、武はあれほどに猛り、狂い、道を踏み外したのだろう。けれど、その武を……過ちを犯したのだと独白した彼を、自分という存在が支えてあげられたのならば。そうすることが出来ていたならば……。
――ありがとう…………茜。お前が居てくれたから、俺は、また前を向いて進むことが出来る。
そう言って、微笑んでくれるなら。
ああ、きっと、それだけで満たされる。……それ以上を望み、求めるなど…………、
「鑑さんに、遠慮してるんですか?」
「!?」
なにを、と。茜は亮子を見る。今にも泣きそうな表情をして、亮子は……気づけば、晴子も、薫も、多恵さえも。みんな、同じような顔をして。
「……まぁ、わからんでは……ないけどさ」
薫が頷く。亮子の頭をぽんぽんと撫でながら、苦笑するように。
「ん~~、でも、白銀くんだってああ言ってたんだし!」
こめかみに指を当てて真剣に考えるような多恵に、晴子が笑って。
「ま、今無理に結論を出すことでもないかも知れないけどさ……茜、でも、これだけは覚えといて」
四人が、大切でかけがえのない仲間達が。
同じような表情をして、咲かんばかりの笑顔を浮かべて。
「皆、茜の味方だからさっ! 頑張れっ、茜!!」
「っ、ぁ、」
じんわりと、胸に響く。なんだかどうしようもないくらいの切なさが、胸を締め付ける。
わかったことがある。気づいたことがある。……きっと、彼女たちも、同じなのだ。それはいつからだったのだろう。――きっと、あたしと同じ。
同じ気持ちを抱き、同じように想うからこそ……彼女たちは、茜に託そうとしているのではないか。……そう、思える。
茜は、零れ落ちた涙を拭って、困ったような、恥ずかしいような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。晴子たちも同じように笑って……暫くの間、柔らかで温かい空気に浸っていた。やがて茜が眼を閉じて、口を開く。誰一人としてそれを遮るものはなく。皆が皆、最高の仲間たちで在ると自負する彼女たちは。
「ぁ、りがと。みんな……。…………あたし、絶対に幸せになるから。それは、皆が願ってくれるような形とは違うかもしれないけど、でも、一生懸命、頑張るから」
――武と一緒に。
最後に飲み込んだその言葉は…………けれど、確かに皆に届いていて。
「んじゃっ、やっぱり今夜早速!」
「しょうがない、あたしの勝負下着貸してやるよ」
「のののぉお!? し、白銀くんの逞しいものがっっっ、あ、茜ちゃんをおおお!!!??」
「だっ、だめですっ、そっちは違うんですーーっっ!!」
肩透かしを食らったように、茜は椅子から滑り落ちる。……なんだというのだ、この移り身の速さは……っ。
「…………あんたたち、いい加減にしなさいよ……!?」
がっくりと肩を落とす。もはや、乾いた笑いしか出なかった。
……ただ、もうどうでもいいと思いながらも、一つだけ。……………………誰か、多恵と亮子の暴走を止めてください。