『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「守護者編:一章-02」
白銀武に対する如何なる尋問も懲罰も許可しない、と言われてしまえば、A-01部隊の隊長として、彼の上官として、伊隅みちるが採ることのできる行動は限られている。
眼前に立つ青年はどこか虚ろな表情をしたまま、けれど、幾許かの覚悟を滲ませた瞳で、こちらを見ている。いつも提げている刀はなく、無手のままに直立する姿は……端的に言うならば“抜け殻”、だろう。魂のどこか重要な部分が欠落している……とでも言い表せばよいのか。ともかく、そういう一種の危うさを感じさせていた。
が、その瞳。ひたとみちるに向けられる漆黒の瞳だけが――殊更に、彼の意志を訴えかけてくる。
みちるは一つ息を吐く。目を瞑り、不動のまま口を閉ざす武に、言った。
「白銀、貴様には一ヶ月の療養を命じる。……専門の精神科医にカウンセリングを依頼してある」
「……」
武は、無言のままだ。その反応の無さに、彼がある程度そうなることを予測していたのだろうことが窺えたが、しかし、いまいちみちるには面白くない。夕呼には悪いが、みちるは矢張り、全てを納得しているわけではなかった。
武が夕呼の右腕を斬った理由さえ知らされず、それを本人に問うことさえ許されず……そして、その彼を罰することさえ出来ない。
最悪で銃殺刑……或いはA-01部隊からの除隊等も考えられる重罪だが、夕呼はそんな罰則さえ不要と言い切った。自業自得のようなもの。そう言って笑った彼女の表情には、本当にそれ以上の感情はなく。……だからこそ、みちるもその言葉に従うほかないのだったが……軍人として生きてきたこれまでの在り方が、武の犯した罪を決して許すことなど出来ないと猛っているのも事実。
反面。これほどまでに“どうしようもない”状態に陥った武を、再び戦場に立てるようにして見せるのも、矢張り隊長たる自分の責務であろうと理解している。夕呼が彼への断罪を許可しなかったのならば、みちるは隊長として、彼を更正させる義務と責任がある。
武が何に追い詰められ、夕呼を斬ったのか……。
理由を知ることさえ出来ないのならば、想像するしかないが……そうして思いつくことは、かつての武が見せたBETAへの復讐心だった。何がどう転じれば、BETAに向ける怨讐が夕呼へと矛先を変えるのか知れなかったが、けれど、そういう――喪われたという恋人への執着が彼を縛っているというのなら、何がしか、精神的に逼迫する事象があったのだろう。
追い詰められた獣。
今、目の前に居る武は、多分そういう状態に近いのではないか……。
刀を持つ武人が人を斬るという心情を、みちるには理解することが出来ない。近接格闘の訓練で刀を振ることもあるが、けれど彼女は武家の出身でもなければ、武人でもない。だが、同じ日本人として、或いは軍人として……「人を殺す」という行為について、ある程度の覚悟と理解を持っている。今回の件が、例えばそれが拳銃であったか刀であったか、という程度の差異しかないというならば、みちるにも、武の行動の理由がわかるのかもしれなかった。
……が、何処まで考えたとしても、結論からしてみちるが夕呼を傷つける要因は思いつけなかったし、そもそも在り得なかった。……だから、みちるには武の心情が計り知れない。読み取れない。ただ、何処かそういった精神の面で脆弱に過ぎるきらいがある武だから……夕呼からの特殊任務というプレッシャーに追い詰められ、圧迫され、爆発してしまったとも考えられる。
同情の余地はない。例えそれがどれ程に困難と苦難を伴うものであったとしても……与えられた任務を、その信頼を投げ打ってまで上官を斬りつけた武は狂人としか思えない。そしてその狂人の手綱を本来握るべきはみちるであり…………だからこそ、カウンセリングという手段を採用するに至ったわけだが。
「……なにか、言いたいことはあるか?」
「…………大尉は、知っているんですよね」
何処まで、とは聞かれなかったので――ああ、と頷いておく。戸惑いがちに発せられる声から推測するならば、カウンセリングの類については予想していたが、処罰について何も触れられないことに疑問を感じている、という具合だろうか。
「貴様が仕出かしたことのあらましは知っているつもりだ。……今貴様があの刀を所持していないのも、それが理由だろう?」
「――ッ、」
ぎり、と。奥歯を噛み締める音が響く。強く強く、砕くほどに。握られた両の拳が、ぶるぶると震えている。それは、自身への恐怖か、怒りか。真剣な表情で、みちるは武を見据えた。武もまた、一切の躊躇もなく、彼女を見つめる。しばしの沈黙の後に、再び武が口を開いた。
「自分は、罰を受けないのでしょうか……」
「その件に関しては、一切の咎めはないそうだ。……香月博士の寛大なお心に感謝することだな。でなければ、貴様はとっくに銃殺刑だ」
半信半疑、という表情で呟いた武に、少々の苛立ちを込めて答えてやる。苦虫を噛み潰したような表情を見せた武だが、小さく――それも当然、か――と漏らしていたのを聞き逃さない。
そう。――それも当然だ。
どうやらその程度を理解できるくらいにはマトモな精神が残っているらしい。現在刀を所持していないこともそうだが、どうやら辛うじて人としての理性や軍人としての常識は存在しているようだった。ならば、いくらでも改善の余地は在る。いつまでも武への怒りを滾らせていては時間の無駄だ。彼への如何なる処罰も許されず、そして今後もA-01の一員として在るというなら、みちるは速やかに、あらゆる手段を用いて、この脆弱な精神構造を持つ少尉を、真っ直ぐ全うな道に立ち返らせなければならないのだから。
「他に質問がなければ、早速にでも医師に引き合わせるが?」
「…………はい、お願いします」
戦場の空気に中てられ、或いはBETAとの戦闘に、仲間の死に、恐怖を植えつけられ……そういった様々な理由から、精神に傷を負う者は珍しくない。代表的な精神障害にPTSDがあるが、それ以外にも症状は様々、それこそ精神に疾患を認められたものの数だけ存在する。特に新兵に於いて多く見られる事象だが、歴戦を潜り抜けた古参でさえ、時には重度なそれに罹るというから、存外に度し難い疾患でもある。
ならば武の身に起こった何がしかの暴走……も、きっとそこに原因が在るに違いない。所詮想像だが、みちるはそれこそが最も高い可能性だろうと判断し、そして、武もまたそうなるだろうことを予想していた。つまり、本人が、自分は精神に問題が在ると頷いたわけだ。
そこまで考えをめぐらせて……では、武を追い詰める精神的な問題とはなんだろうか、と想像する。真っ先に思いつくのは、BETAの襲撃により喪うこととなった恋人の存在。彼を復讐に駆り立て、四人の犠牲者を出した……あの泥沼に似た戦闘。けれど、武はそのことを乗り越えたのではなかったのか。或いは、それとは別の、なにか、彼の根幹に関わるような出来事でも起こったか…………所詮、想像は想像に過ぎず、確証も何もない。溜息混じりに、みちるは考えるのを止めた。
すれ違う者のない廊下を、みちると武の二人だけが歩く。そうやって靴音だけを響かせながら医療棟へ向かう道中……みちるはこれまでの「白銀武」というものを反芻していた。
単独で総戦技評価演習を受け、見事合格に相応しい成果を見せ、戦術機操縦訓練課程では目覚しい成長を見せた。己の才能と手に入れた力に浮かれ、少年期にありがちな傲慢さも見せたが……それを乗り越えて任官もして見せた。BETAへの憎しみが引き起こした暴走、単機で要撃級の群れに突っ込み、敵の術中に陥って撃墜され……。水月の叱咤に衛士としての生き様を学び、立ち直り……今日まで来た。
そうだ。
そういえばその時……武とこんな話をしたはずだ。
「白銀、憶えているか?」
「ぇ……」
「貴様は言ったな。もう絶対に死なせない……速瀬を護れる男になる、と」
「……ッッ??!!」
背後で大いに慌てる気配がした。どうやら狼狽しているらしいが、“夕呼の右腕を斬り落とす”という気狂いを見せておきながら、なんとも歳相応な反応である。思わず、みちるは笑ってしまった。――ああ、そんな風に慌てることができるなら、きっと、大丈夫だ。内心で思って、故にみちるは……何処までも真剣に、本気で。
「いいか、白銀……。もう貴様には後がない。既に貴様は一度、BETAへの復讐などという衛士にあるまじき衝動で四人を死なせている。…………そして、今回の件もまた、一歩間違えば…………。わかるか、白銀。貴様は今、瀬戸際にいる。いや、香月博士の温情がなければ、とっくの昔に死んでいておかしくない。――これが、最後のチャンスだ。まだ貴様に衛士としての戦う意思と、誇りが在ると言うなら……その手で、大切なものを護りたいと願うなら…………足掻け。どれだけみっともなくても構わない。例えどれ程の傷をその心に負っているのだとしても。どんな手段を使ってもいい。足掻いて足掻いて、這い上がって見せろ」
それが、貴様の贖罪だ――。
言葉にはしなかった最後の一言が、武の脳裏に流れ込んでくる。みちるの声に注意を傾ける際、どうやら無意識に能力を発動させていたらしい……が。
武は俯いて、必死に涙を堪えていた。零れそうになる嗚咽を懸命に堪えて、ただ、ぎりぎりと歯を、拳を鳴らす。
「……は、い……っっ」
頷くことしかできず。前を行くみちるの背中さえ見ることも出来ず。
それでも。見捨てずに居てくれる彼女に……進むべき道を示そうとしてくれるみちるに。感謝を。謝罪を。敬愛を。
そして同時に、武とて“これが最後”であることは理解している。夕呼の温情、という点には些かの異議を唱えたいが、例えそれがどのような理由からにせよ、あの科学者のことだ。次に武が己の精神の惰弱さに潰れるようなことがあれば、即刻のうちに処刑するだろう。そもそも、それ以前の問題として……次に、今回のような感情の暴走があったならば……多分、もうオシマイだという確信が在る。底のない底辺。奈落の底。そういう場所に転がっている自分が、最早まっとうな精神をしてないことは明白。ズタボロに亀裂が走り、襤褸屑同然に横たわった精神に、これ以上の負荷が掛かろうものなら、それは一瞬にして砕け散るに違いなかった。
純夏が脳ミソとして生きている。……これ以上の精神的負荷など想像も出来ないが……なにか、それに匹敵するような事象が起きたならば、それに耐えられなかったならば……それが、武の終わりだ。精神が砕け散ったならば自殺することもかなうまい。気が触れた狂人として彷徨い……夕呼の手によって処断される。そんなところだろう。
断じて、そうなるわけにはいかない。
足掻け、とみちるは言ってくれた。それが贖罪だと――捨ててしまった、手放してしまった、裏切ってしまった、全ての者への、贖罪であると。
そうだ。それが、自身でも選び取ったこれから進むべき、道だ。
外道から這い上がり、正道へと戻るために。無道から這い上がり、人道へと戻るために。もう一度全てをやり直す、最後のチャンス……。
「それからな、……これは正直、余計なお世話なのかも知れんが……」
「……?」
「なにかに追い詰められた時……というのは、往々にして間違った判断をしてしまうことが多い。或いは、鬱積したその感情を暴走させたり、な。……白銀、これからは周りの者にも頼ってみろ。速瀬でもいい。涼宮でもいい。……無論、私だっていいんだ。……誰でもいい、信頼できる人に、相談してみろ。自分独りで抱え込む必要はない。むしろ、誰にも相談せずに自分を追い詰めることこそが愚かな行為だぞ」
どこかしら、その口調は。
自身の無力を嘆くような、独りで感情を暴走させた武を戒めるような、けれど何処か優しい……暖かな響きを持っていて。
武は、何も言えなかった。頷くことさえできずに……ただ、愚かしいほどに間違えた自分を、悔しく思う。投薬により脳を改造され、次第に追い詰められていった自分。幼馴染の彼女に降り掛かった理不尽で非業なる運命。誰にも相談できるはずのないそれらを……そうとはわかっていながら、けれど、誰にも相談出来ず……。
みちるが、嘆くことなどない。これは単純に……そのことに耐え切れなかった自分のせいだから。
――大尉、ありがとうございます。
それでも、彼女の気遣いは優しく、嬉しく感じられる。こんなにも愚かな自分を、こんなにも弱い自分を、それでも、みちるは見捨てないでいてくれる。心底から部下を想い、愛する、尊敬すべき隊長の姿を……滲む網膜の向こうに、焼き付けた。
===
速瀬水月は少々……どころか大いに困っていた。
普段の彼女を知る者ならば、そんな誰から見ても“困っている”姿は珍しいを通り越して戦慄すら覚えるほど奇妙に映るに違いない。水月の水月たる所以は、矢張り豪放にして豪胆、豪快な、これぞ正に突撃前衛長と言わんばかりの溢れるアクティブさだろう。
そんな彼女が今、目の前に身を乗り出さんばかりに陣取って座る二人の部下に冷や汗をかかされている。何処までも真剣に、そしてほんの僅かに小さな企みを覗かせて……眼前に座る晴子と薫の両名は、水月が口を開くのを待っていた。
困惑した様子で水月が黙してから既に数分。熱かった合成宇治茶も緩やかにぬるくなり、立ち上っていた湯気は最早ない。数百秒にも満たない沈黙ではあったが、けれどその沈黙こそが“らしくない”ということは、誰あろう水月が一番よくわかっている。じっと見つめてくる二対の瞳から逃れるように視線を湯飲みへと落とし、気まずさを紛らわすように一口啜った。――美味くは、ない。
冷めてしまった合成宇治茶の苦味に一際眉を寄せながら、やれやれと溜息をつく。――まいった。
現在の率直な感情を言葉にするならば、それが最も適している。じきに就寝時間となるが、それまでとぼけ続けるわけにもいくまい。すっかり宵闇に染まった窓の外をちらりと見やってから、改めて二人へと向き直る。……かつて、一年と少しの時間を共に過ごした後輩たちが、今こうして目の前に部下として座っている。――随分とまぁ、成長したもんねぇ。そんな一瞬の感傷が、ふっと、困惑に強張っていた感情を弛緩させてくれた。
水月は苦笑しながらもう一口だけ湯呑みを鳴らし……そして、
「武のことは……好きよ」
静かに。コトリ、と小さな音を立てて湯呑みを置く。それを見届けた後に正面を見れば……殊更に苦笑したような、困りきったような……「あっちゃぁ」……というような表情をした晴子と薫が、互いの顔を見合わせて――まいった、と。そう呟くように漏らしていた。
「はぁ~……やっぱり、そうなんですよねぇ……」
「うわっちゃぁ~~~~っ、ああもうっ、こんなの勝ち目ないじゃん! どうすんだよハルー……!」
「いやいや私に振られても。ていうかハルーってなに? いきなり? まぁそういう綽名も嫌いじゃないけどね」
溜息に苦笑を乗せてがっくりと肩を落とした晴子に、薫が大げさなリアクションを混ぜながらに嘆く。その際にどうやら唐突に晴子の綽名が決まったらしいが、どうして今までの会話の流れからそういう展開になるのかが、水月には理解できない。この独特な空気を持つのが彼女達元207分隊の特徴であり美点……なのだとは水月も思っているが、放っておくといつまでも無軌道に話が逸れ続けるため、呆れながらも釘を刺す。
「こらこら~。人がせっかく真面目に答えたってのに、あんたたちがふざけてんじゃないわよ」
「「あ、すいません」」
そもそも、どうして水月がこの二人に“困らせられて”いたのかといえば、晴子と薫が、水月に相談したいことがあるから……という口実を借りた、……要するに、武のことをどう想っているか、という実に明快で単刀直入な質問のためだった。
水月にしてみれば口実に騙されたわけであるが……、副隊長としての処務を片付け、いざ悩める部下の相談に乗ってやろうと意気込んできたためにその反動も大きく、且つ、予想だにしていなかった問いに、困惑させられたのである。
無論、そう問うた晴子と薫の真剣さがわからない水月ではないし、そしてなによりも……その問い自体が、自身にとって妹のように可愛いと思う彼女のためというならば、こちらも真面目に応じねばなるまい、と。そう考えて……けれど、矢張り改めて自身の感情を吐露することに気恥ずかしさも重なって……数分、という長いのか短いのか微妙な沈黙を要したわけで……。
「強敵だなーっ。……ん~、速瀬中尉、手を引いてくれません?」
「ぉおっ!? 直球だな晴子。あ、速瀬中尉! あたしからもお願いしまっす!」
心底困り果てた表情で、けれど全く怖気づいた様子もなく。晴子がこちらに戦線離脱を要求してくる。その尻馬に乗っかるのが薫だが、矢張りその目は……二人共に、些かも揺らいでいない。真剣そのもの。口調や態度こそいつも通りにふざけているが、向けられる瞳には若干の怖れと不安、僅かの期待が混ざり、複雑な色を放っていた。
再びの沈黙が場を満たす。周囲に人がいないことが幸いしていた。……こんな話、赤の他人に聞かれたくはない。
さて、と水月は腕を組む。
ここまでくれば最早彼女達の意思は明白だ。つまりは……茜。渦中の人物である白銀武に恋する乙女。誰が見たってバレバレな、可愛いくらいの熱情は、当然ながら水月とて承知している。任官してきたその日にピンと来ていた彼女は、わかり易すぎる茜の想いを微笑ましく見守っていたものである。無論、彼女を愛してやまない実姉にして水月の親友、遙も同様に。……もっとも、遙は水月と茜の両方を応援していたような気もするが、それはさておき。
茜ではなく、晴子と薫がこうして水月に問い質すというのなら、どうやら近々茜が何らかのアプローチをかけるらしいと予想できる。或いは、この二人が茜にそうけしかけるのか。
どちらにしても、目下のところの対抗馬候補――と予想したのだろう――水月の動向を探ることこそが先決。そういう思考が流れ着いたというなら、この問答の意味もわかる。……一体どうして自分が“対抗馬”として目を付けられたのかは……イマイチよくわからない……それが的外れということもなかったのだが。
水月は腕を組んだまま、背中を椅子の背もたれに預け、天井を見る。何の柄もないベージュ色のそこに答えが書かれているはずもなく……さて、どうしたものかと内心で首を捻る。
「ははは、考えるまでもない……か」
「速瀬中尉?」
あはははは、と笑いながら、水月は肩を竦めるようにして、二人を見た。戸惑ったように視線を交し合う晴子と薫。やがて微笑を湛えた水月が悪戯気に唇を吊り上げれば、彼女たちも何かを悟ったのだろう、ほっとしたように息をついた。つまりは――
「安心しなさい。別に、武のことをどうこうしようなんて、思ってないわ……。武のことは好き。でも……それは多分、弟として……、ということなんだと思う」
それは今までに何度も口にしてきた言葉だった。遙にからかわれ、美冴に弄くられ、時にはみちるや真紀たちにまで弄ばれた――曰く、「年下の恋人説」に対する定型句となっていた単語だが……それが紛れもない己の本心なのだということは、二ヶ月ほど以前に気づいている。
それは、武が顔と腕に重症を負い……そして、彼を見舞うためにすぐ近くまで訪れていながら、背を向けて去って行ったあの斯衛の衛士――月詠真那を見たときに。
勝てる見込みのない戦い。勝つつもりさえ更々ない戦い。……そして、茜が彼を想うというならば、その背中を押してやりたいと……それこそを望んでいる自分を、既に自覚していた。真那に抱いた優越感によって気づかされた、或いは思い知らされたというべき感情。けれどそれは、気づいたその瞬間に白旗を振っていて……所詮、自分は武にとっての憧れでしかいられないのだと理解し、そして、――それでいいと、思えた。
武の心には鑑純夏が存在している。かつて見せた復讐への衝動は紛れもなくそれが原因であろうし、それは水月がどう諭したところで永劫に拭えぬ傷だろう。そんな武に対して自分が出来ることといえば……傍で支え、或いは、手を引いてやるくらいのもの。ならばそれは恋心ではなく……道を誤ろうとする弟を叱咤し、その背中を支える姉のような情愛だろう。血の繋がりなど一切ないが、それでも、かつては彼を支え導くことこそ自身の運命とすら感じた身である。ならばそのくらいの傲慢は許されてもいいのではないか。水月は今、そう思っている。
自分は白銀武の姉であり、最愛の弟が道を過たぬようにその手を引き、支える。
――そう。それで、いい。
かつて、鳴海孝之という青年を喪って以降……ずっと、水月を支えてくれていたあの言葉を、思い出す。
――水月さんは独りじゃないです。……遙さんだって、独りじゃない。けど、二人だけでもないんです……っ。俺がいます。俺達がいます。…………水月さんは、泣いていいですよ。
生意気に、そう言って……抱き締めてくれた武。水月に救われた、と微笑み。だから今度は自分の番だと決意に満ちて……笑って。
(ばーか。あんただって、全然振り切れてなかったくせに……背伸びしてんじゃないわよ……)
記憶の中の武にそう呟いて。でも、胸に広がる温かな感情が心地よくて……。だから、想う。好きなのだと。見守りたいと、願う。でも、それは――姉として。恋に浮かれるような歳じゃない。求め、求められるだけが愛じゃない。そのことに気づいたから。
「……私は武を好きだけれど、茜のライバルに名乗りを挙げるつもりはないわ。……アイツ、目を離すと危なっかしくてしょうがないじゃない? ……だから、ずっと傍で見守ってたい…………っていうのが、本音。でも、それは恋じゃないから……」
微笑のまま告げる水月に、どうしてか、晴子も薫も赤面していた。そんな二人の様子にきょとん、とする水月だったが……やがて、呻くように「参りました」と机に額を擦り付ける彼女達の姿が可笑しくて、鈴を鳴らすように笑った。
「――ところでさぁ、」
「「ぇ?」」
一転、それまでの柔らかな雰囲気がなりを潜め、急激に場の空気が冷えていく。そのあまりにも落差の激しい水月の声音に眉を顰めたのも束の間、続けられる水月の言葉と、その視線が向いている先を見て……晴子は、薫は、――これがA-01のA-01たる所以か、と思い知ることになる。
「な・ん・で、宗像はそこにさも当然のように座ってるわけぇ?」
「おや、速瀬中尉は自分の部下がPXで休憩することも認めてくださらないという。……実に嘆かわしい。狭量に過ぎますよ、中尉」
「だれがんなことを聞いたァア!? っていうかあんた、いつから居たのよッッ!!?」
「いえいえ、私はただ梼子とお茶をしに来ただけですので。別に中尉が白銀を好きだとか愛してるだなんてこれっぽっちも聞いてませんよ」
――聞いてんじゃん。思わず突っ込みそうになった薫だが、そこは敢えて口を閉ざす。流石の晴子もこの展開には引き攣った笑いを浮かべるしかなく、二人揃ってチラリと見やった水月の表情は………………多分、般若というものが実在したならば、ああいう貌をしているのだと悟った。
「むぅぅなぁぁかぁあたぁあああああ!!!!?」
「――って、本田が言ってました」
怒り心頭の水月に対し、何処までもクールにコーヒーモドキを啜る美冴。彼女の対面に腰掛けていた本田真紀を指差しながら、ニタリと微笑んでいる。その横では風間梼子が、懲りないですね、と言いたげな溜息をつき……憐れみを込めた目で向いた先には、ガチャガチャとコーヒーカップを震わせる真紀が居て……。
「ほ~ん~だ~ぁああ??!!」
「ち、ちちち、違いますよッッ! アタシなんにも聞いてないって言うか今来たばっかりっていうか!? そもそもアタシをここに呼んだのはムナカタ中尉でありましてーーーーッッ!!?」
「問答無用――ッ!」
まるでそこに座っていることこそが罪、といわんばかりの理不尽なアッパーが炸裂する。ぎにゃー、とよくわからない悲鳴をあげながら星と化した真紀を、哀れと偲べばいいのか、或いはそう仕向けた美冴に戦慄を覚えればいいのか。まだまだ新任の晴子たちにはわかりかねる問題である。
――が。一つだけわかったこと。
宗像美冴が水月をからかうそのときに、彼女の傍にいてはいけない。
……多分、傍にいても標的にされないのは梼子とみちる、遙ぐらいなものだろう。
最早自分たちが何をしにきたのかさえ忘れてしまいそうな喧騒が続く。これが先任。これがA-01。呆れるくらいの底抜けの明るさ。……ああ、そんな彼女達と同じ部隊になれて、嬉しいと思える。なにより……突然の自分たちの問いに、誠実に向き合い、真剣に答えてくれた水月の想いに……胸が満たされる。
彼女は言った。それは恋ではないのだと。武を想い、支え、手を差し伸べて……。それはまるで、姉が弟に抱く情にも似て。
「ん~、つまり、まとめると……」
「一番の強敵が参戦を辞退した……ってことだろ?」
「って、ことに……なるね。うん。よしよしっ」
――よかったね、茜。
思わずそんな言葉を漏らしていた晴子に、――こいつは、本当に茜が好きなんだよなぁ――と思わず感心させられる薫だった。多恵といい晴子といい、そして自分も亮子も。まったく――どうしようもないくらい、メロメロなのだ。
武と茜。
この二人に。
だからどうか……二人には、明るく素敵で、幸せな未来を。きっと、そのためになら命だって懸けられる。
日本のため、世界のため……人類を護るため。そんな大義名分に拘らなくてもいいんじゃないか、と。そう思わせてくれる。――なによりも、二人のために。故に薫は、これからの訓練の日々、そして、実戦に出てからも、ずっと。
自分の大好きな仲間達のために、戦うと。そう、決めた。
===
「あれ? 白銀くんいないねぇ……」
何度ノックしても部屋の主が現れないので、どれどれと声に出しながらドアを開く。ひょっこり顔を覗かせれば、そこは照明もつけられないままで、誰もいなかった。スチール製の簡素なベッドには今朝畳まれたままの寝具一式。視線を転じた先にある机には備え付けのスタンドライトとカレンダー付の置時計に筆記用具。奥にあるシャワールームも当然消灯されていて、……改めて確認するまでもなく、見事なまでに無人だった。
「た、多恵さん……あんまりひとの部屋を眺め回すのは……」
一応の確認のつもりで部屋の隅々まで見回した多恵だったのだが、どうやら背後に控える亮子には“覗き見”或いは“盗み見”しているように見えたらしい。それは心外だという感情がにわかに過ぎったものの、机にもたれ掛けるように置かれたそれを見つけて、んむ、と首を捻る。
「ちょっと多恵! あんたいい加減に――」
一心不乱に室内を見回していた多恵の背後、亮子の更に後ろに控えていた茜が、怒声混じりに首根っこを掴もうと手を伸ばす……が、それよりも一瞬早く身を引いて振り向いた多恵が口を開く。
「茜ちゃん茜ちゃん茜ちゃんっ!」 「わぁっ、な、なによ!?」
背の低い亮子の頭上で、唾を散らすように喚く多恵。その両手は慌てたようにバタバタと上下に動き、瞳は室内と茜といったり来たり。実に落ち着きがない。その突然の奇態に困惑せずにはいられないが、ある意味でそれが“築地多恵”という少女の常態でもあると理解している茜は、とりあえず落ち着けと顔面にチョップを叩き込む。手刀がめり込む瞬間に、亮子が小さく可愛らしい悲鳴をあげたのはナイショだ。
「ぃたぁ~ぃい~~っ! 茜ちゃんがぶったぁあああ~~!!」
「ハイハイ。痛いの痛いの飛んでいけーっと。それで? 一体どうしたってのよ?」
「そ、そそそ、そうだ! あ、茜ちゃんっ! あれっ、あれーーーっ!」
ぐわっ、と目を見開きながらに、右手で室内を指差す。薄暗いのと、立ち位置の関係からよくは見えないが、どうやら机の辺りを示しているらしい。入口に陣取った多恵の身体の隙間から覗き込むようにした亮子が、あっ、と小さな驚きの声を漏らす。……どうでもいいが、つい先ほどまで多恵の動向を“よくない”と諭そうとしていた割りに、あっさりと覗いている。そんな歳相応の好奇心を見せられては、茜とて興味を惹かれてしまう。むむむ、と閉口しながら唸るものの、矢張り自身もそこに在るものが気になってしまい、既に多恵と亮子が覗いていることを免罪符に、どれどれと室内を覗き込む。
白銀武の自室。言うまでもなく室内に置かれている備品の数々はどれも規格品であり彼女達の部屋に備えられているものと全く同一だ。個人の所有物や消耗品、例えば女性ならば生理用品等の違いはあるだろうが、ベッドと机の配置までもが同じであれば、大概どの部屋も個性というものを持ちにくい。人によっては壁に家族や恋人の写真を貼り付けたり飾ったり、私物に溢れていたりということもあるのだろうが、殊更、武の部屋は入居した時そのままの景観を保っているように見える。
要するに――なにも、ない。
生活している以上、匂いや空気中に漂う気配というものが残るのは当然だが、それ以外の何も……武を示すものが置かれていない、殺風景な部屋だった。
勿論、武とて私物の一つもない、と言うことは在り得ない。だがそれは机の引き出しの中であったり、ベッドの下に備えられた引き出しの中に収められているために、今彼女たちが目にしている中にそれらが認められないのである。……が、当然ながらそういう事実を想像できるはずの茜は、思わず――寂しい、と。そんな感傷を抱いてしまっていた。
正に、寝るためだけの部屋。
そんな硬質な気配……。そこには生活、或いは安息の場所としての柔らかな息吹が感じられず、そう思えてしまうことが、茜の心をちくちくと痛ませた。
「ほらっ、茜ちゃん! あれっ!」
「――ぇ? あ、」
そんな一瞬の感慨を、多恵の声が吹き飛ばす。一体何を考えているのかと緩く頭を振り、彼女の指差す先に目を凝らす。……そこには、一振りの刀が置かれていた。
「あれは……――」
確か、弧月……と。そういう銘の日本刀。武の剣術の師の形見であり、斯衛の月詠真那中尉に託された彼女自身の想いの具現。月詠の剣術の後継であることを示す黒い拵が、まるでこの部屋同様に、ぽつん、と。寂しそうに佇んでいる。薄暗い中でよくも漆黒の鞘に包まれた刀を見つけたものだが……しかし、そこに鮮烈に過ぎる黄色いリボンが巻かれていれば、誰だって気づいただろう。
そう、それは――彼女の御守りだったはず。
茜の脳裏を、切ない記憶が過ぎる。あれはまだ、この横浜の地が戦乱に慄く以前。白銀武と鑑純夏を初めて見た、その日。基地へと続く桜並木の坂道で、向き合い、別れを惜しんでいた二人……。胸が張り裂けそうな切ない声で武を呼び、自身の髪を纏めていたリボンを手渡した純夏……。
その情景を、幻視する。
「どうして、」
無意識について出たのは、疑問を表す言葉だった。多恵も、亮子も、何も言わない。恐らくは自分と同じ疑問を抱いたからこそ、多恵はあんなにも喚いて茜を呼んだのだろう。そして、続くようにそれを見つけた亮子の驚きも。――どうして、あの刀がここに?
別に、四六時中刀を傍に置いておかなければならないわけではない。如何に大切な師の形見であろうとも、さすがに用を足すときやシャワーの最中はその身から離して当然だろうし、それが普通だ。……だが、少なくとも茜達の知る限り、この数週間の間で、武が弧月を手放しているのを見たことがない。食事の時や休憩時間の時もそうだし、水月たちとの話を聞く限りでは、どうやら戦術機訓練の最中にも傍らに置いているらしい。
それほどに思い入れが強く、固執する刀が……けれど、まるで忘れられたかのように室内に取り残されている。――鑑純夏の形見を置いたまま。なにか言いようの知れない感覚が胸の裡を巡り、茜は眉を顰めてしまっていた。その表情を見て、多恵が気遣うように名を呼ぶ。はっと振り返れば、彼女も亮子も、心配そうな眼をしていて……。
「あっ、いや、別にほら、武だっていつも刀と一緒って……わけじゃ……」
「茜ちゃん……」 「茜さん……」
取り繕うように口を開くが、思考の働かないまま発せられた言葉は自分自身全く信じていない薄っぺらなもので……。向けられる二対の視線がいたたまれない。こんなちょっとしたことで揺さぶられてしまう自分は、なんと弱いのだろうか。――武の身になにかあったのではないか……。そんな根拠のない不安に駆られて、大切な友人を心配させてしまった。そんな自身の弱さに少しの失望を抱きつつ、苦笑する。――ごめん、ありがと。
そういう感情を込めた苦笑を、多恵と亮子はどうやら察してくれたらしかった。なにか見てはいけないものを見てしまったような気がして、茜は部屋の入口から身を離す。そのすぐ後に亮子が続き、多恵が……ドアを閉めてこちらに来るはずが、けれど…………なにやら腕を組んで考え込んでいる。
(なんか……ヤな予感……)
う~~ん、と唸りながら眼を閉じる多恵。そんな彼女が多分ろくでもないことを考えているのだと理解できてしまうのも、長い付き合いの成せる業だった。なにを考えているのかは知らないが、ここは無視してこの場を去ったほうがいいような気がする。ある意味で酷く淡白な思考を回転させた茜だが、そんな冷酷な感情を抱けないのが亮子だった。
「多恵さん……?」
――ああ、聞かなくていいのに……。思わずがっくりと俯いてしまう茜。けれど思いやりに溢れ、何よりも他人に優しい亮子だからこそ、声を掛けてしまうのだった。が、名を呼ばれたにも関わらず、熟考している多恵はブツブツと声を漏らすだけで反応らしい反応を見せない。傍目には全くもって意味不明の怪しい姿だが、どうやら彼女の中ではかつてない高速思考が駆け巡り、沸々と蒸気を発しているらしかった。
「そ、そそそそうかああーーっっ!!」
「うゎぁっ!?」 「きゃっ?!」
唐突に、くわっ、と目を見開いて。腕を組んだまま、閃いた、という具合に咆哮する多恵。あまりにいきなりすぎて驚いてしまった茜と亮子だが、共に表情が引き攣っているのはいたしかたあるまい。ここで無視することも出来たが、それもなんだか可哀想な気がしたので、躊躇いながら声を掛ける。その時の茜の顔は、心底から「いやだなぁ~……」というオーラが発せられていたのだが……さておき。
「た、多恵……? あんた、大丈夫?」
恐る恐る、まるで気が触れてしまったような多恵に呼びかける。くわっ、と目を見開いたままの多恵は、そのままにぐるりと首をこちらに向けて――正直に、かなり怖い――何か余程のことに気がついたのか、ごくりと喉を鳴らしていた。
「あ、あかねちゃん……」
「な、なによ……」
緊張した面持ちで硬く口を開く多恵。そのただならぬ雰囲気にほんの少し怯んでしまう茜。亮子は言葉もなく成り行きを見守っている。
「私、気づいちゃったよ……」
だからなにに――。恐らくは茜を気遣っているつもりなのだろうが、焦らされているようにしか思えない。と同時に、やっぱり先に部屋へ戻っておくべきだったかと薄情な思考も過ぎる。勿体つけるような多恵がもどかしく、さっさと吐け、と小さく睨んでやるが、どうやら自分の世界に入り込んでいるらしい多恵はそれに気づかない。
「もうすぐ消灯時間……なのに部屋に白銀くんがいなくて、そして……弧月くんも置きっぱなし……。これが意味することはただ一つ……ッ」
「………………」
亮子は多分、今の茜の表情を一生忘れないと思う。その、見るからに「なにいってんのコイツ」的な、心底から憐れむような表情。向けられている多恵はそれに気づかずに、ぐぐぐ、と拳を握り締めて益々自分の世界に浸っていく。……この絶妙な二人の温度差も、いつもなら晴子や薫が引っ掻き回して丁度よい温かさになるのだが、残念ながら二人は今水月のところへ行っていて、居ない。故に多恵の暴走を抑えるものがなく――そもそも亮子は常に傍観者の立場を徹しているし、茜も大体似たようなポジションにいる――だからこそ彼女の一人舞台は続いていて……。
「そう、それはつまり……ッッ! 白銀くんはいまっ! たぶん誰か他の女の子とあんなことやこんなことをおおおおおっ!! いやっ、だめっ、そんなとこぉぉおおお~~~っ??!!」
「「阿呆かーーっっ!!」」
ズビバシ、と。軽快な手刀が多恵の顔面と後頭部に炸裂する。わっ、と目を覆った亮子だったが、その瞬間に聞こえていた声が二種類あったことと、それが茜だけでなく男性のものが重なっていたことに気づいて、ハッとする。
見れば、茜もきょとん、と多恵の背後に立つ人物を見つめていて――言わずもがな、武がそこに立っていた。
「わっわっ、武!?」 「白銀くんっ」
「おう、お疲れ」
多恵の後頭部に右手の手刀をめり込ませたまま、ニッ、と微笑む武に、茜は慌てて多恵から離れる。驚いた表情のままの亮子もその隣りに並び……ずるずると、多恵が崩れ落ちた。はらひれ……とよく意味のわからない珍妙な声を漏らして、ぐるぐると目を回している彼女をそれはもう見事に無視して、
「ひとの部屋の前で何やってんだ?」
僅かに首を傾げながら、それは当然な問いを口にする。しかも、よく見るまでもなくドアも全開だ。わーっ、と何やら慌てた様子の茜がばたばたを身を動かして何事か説明しようとするが、どうやら混乱して言葉が出ないらしい。顔を真っ赤にして、一生懸命誤魔化そうとしている姿は……正直に大変可愛らしい。思わず口元が緩んでしまう武だったが――でも、それ以上は……。
「あーっ、そのっ、武! ご、ごめん……。ノックしても返事がないから、居ないのかな……って」
「確認しようと思って、開けたのか?」
ぅん。しょぼん、と頷く茜。そんな彼女を、不意に、抱き締めてしまいたい衝動に駆られ――――駄目だ。武は理性を総動員して、目の前に居る彼女に縋ってしまいそうな己を戒めた。降って湧いたような衝動を誤魔化すつもりで開かれたドアの向こう側……自室を見やる。無意識の内に、視線はそれを捉えていた。……ならば、彼女たちが気づかない道理がない。
ふ、っと。武の表情に翳が差したのを、茜も、そして亮子も見逃しはしなかった。その視線が見つめる先には弧月があって……矢張り、それを手放すに至る理由が存在するのだと悟り…………きっとそれは、武にとって何か途轍もない出来事の果てなのだと想像できた。
彼になにかあったのではないのか。奇しくもその不安が的中したことを知った茜は、気づけば武の左腕を握っていた。――茜? 小さく、驚いたように。呟かれた言葉はどこか薄っぺらで、彼の本当の心がここにないのだと、わかる。それを寂しい、哀しいと感じると同時に……でも、だからこそ自分が彼の支えとなるのだと頷いて。
「ね、武……。今夜、一緒に居ていい?」
「――――――――――――――――――――――――――――――は?」
多分、全くの予想外だったのだろう。背後では亮子が声のない悲鳴をあげている。眼前の武も面白いくらい間の抜けた顔をして固まっている。
それはそうだろう。――だって、自分でもそんな言葉が出るなんて思っていなかったのだから。
聞きようによっては……というか、誰が聞いても“そういう意味”にしか聞こえないだろう発言だったわけだが、しかし茜は、そういう俗物的な思考からその言葉を紡いだわけではない。男女の契りを交わしたい……という欲求がないと言えば嘘になる……のだろう。その辺り、まだ漠然として茜自身確信を抱いているわけではないが、こと、現在においてそういう欲求は皆無だ。純粋に、傍にいたい。いや……きっと、傍にいなくては、武が潰れてしまうのではないか。そういう直感に似た不安を払拭するためにも、それが最善なのだと信じている。
その真剣な瞳に気づいたのだろう。武は暫しの逡巡を見せた後、一度だけ弧月を見て――振り切るように、茜の手を解いた。
「武……っ」
「だ、駄目だ――ッ! そんなこと、駄目だ……茜。俺は……今、、、」
何を、言おうとしているのか。武は自身の心臓が痛いくらいに動揺しているのを感じていた。
みちるからの呼び出しで医師のカウンセリングを受けた後、八つ当たりに似たシミュレータ訓練を延々と続け、今の今まで脳裏を占めていた茜と純夏への愛情の、その引き裂けて血塗れた感情をどうにか落ち着かせることが出来たばかりだというのに。
それを、こんな……まだ自身の立ち位置にさえ戻れていない状態の、そして愛する人への裏切りを孕んだままの自身に――――どうして茜は、こんなにも温かく接してくれるのか。今はただ、その優しさが……向けられる想いが、痛い。苦しい。――その気持ちに、応える資格がない。
縋ることなんて出来ない。それを望むことなんてできやしない。
茜を愛している。彼女を求めている。……でも、それはこんな風に、一途な彼女の想いを受け取るに相応しいものでは……ないから。
だから、手を振りほどく。傷ついたように目を伏せた茜。――ごめん。ごめん。ごめん!
なにをやっているのか……。誰よりも護りたい彼女を、傷つけたくないはずの茜を、こんなにも傷つけて……。――俺は、なんて……最低なことをしているんだろう。酷く苦い感情が、舌の上を転がって喉に落ちる。もたれるように部屋のドアに手を掛け、茜に背を向けて……、
「もう、消灯時間だぜ……。部屋に、戻――――」
吐き捨てるように零した言葉の途中で……背中に、温かい体温が触れる。身体の前に腕を回されて……茜が、抱き締めてくれていた。
「あ、かね…………、」
「武……大丈夫、だから。あたしが、いるから……だから今夜は……一緒に居よう?」
痛いくらいに心臓が拍動する。熱を持った血液が脳を沸騰させて……最早武は、正常な思考を失ってしまう。こんな不安定な状態で茜に逢ってしまえば、縋ってしまってどうにもならないと自覚していたはずなのに……。それでも、己の犯した罪の重さと、既に一度、人道を踏み外し外道の底にまで堕ちた己というものを痛感しているからこそ。――駄目なんだ、茜。
けれど、その言葉が喉を震わせることなく…………回された腕に、自らの手の平を重ねてしまう。
――俺は、なんて醜くて、弱い。
自身に対する罵倒が、熱に浮かされていた脳に冷や水をブチマケル。幾許かの冷静さを取り戻し、夕呼の右腕を斬ってからまだ一日と経っていないという事実を思い出しながら、
「茜、頼む……今は放っておいてくれ……」
「…………」
「――茜ッ、お願いだ……手を、放してくれ」
「…………」
緩やかに、回されていた腕が離れていく。背中に感じていた体温も薄れて……そのことにどうしようもない寂謬を覚えてしまったが、それこそが自身の弱さ、何よりも不誠実さを指し示すようで――苦々しい怒りが、臓腑を焦がす。
茜に何の罪が在るだろう。何もない。彼女はただ、常とは違う様子を見せた武を心から案じてくれただけだ。出来るならば、許されるならば、その気持ちの全てを受け止めてしまいたい。でも、それは……二心を抱く自分にはあまりにも赦されざる罪科ゆえに。
「……おやすみ、茜……」
「おやすみ…………武」
キィ、と。物悲しい音を立ててドアが閉まる。極力静かに閉められたドアの向こうを、茜は暫くの間じっと見つめていた。――抱き締めた両腕を、見る。手を重ねてくれた、その場所を見る。ぼんやりとした思考で己の行動を反芻しながら……どうしてあんなことをしてしまったのか、言ってしまったのかを……。
「ああ、あたし……やっぱり……」
「茜さん――?」
呼びかける亮子に振り返り、ニッコリと笑ってみせる。
「!」
どきりと。亮子は心臓を締め付けられる思いだった。泣いているのだと思ったのだ。武に何かがあったのは間違いないだろう。だからこそ、その力に、支えになろうとした茜は……彼に拒まれたことにショックを受けて、傷つき、涙してしまうのではないかと……そう思っていた。それが、どうだ。今、茜は笑っている。ニッコリと、咲かんばかりの笑顔で。
――強い。
そう、思い知らされる。どきどきと心臓が鳴る。こんなに輝かしい茜は、今まで見たことがなかった。
一体どういう心境の変化なのだろうか。確かに以前までの茜ならば、武の感情に引き摺られ、彼の苦悩に涙し、彼の笑顔にこそ眩い光を放っていたというのに。その想いを拒まれ、何故、こうも笑っていられるのか……。そんな強い姿を見せることが出来るのか。
「今日、晴子に言われてわかったんだ――」
廊下にしゃがみ、目を回したままの多恵を介抱するように。にこやかな笑顔を見せたまま、茜は亮子を見上げて言う。
「やっぱりあたし、どうしようもないくらい……武が好き。どれだけ拒まれても、傷つけられても……例え嫌われちゃっても……。あたしは、武の傍にいたい」
よっ、と。多恵の体を背負うように立ち上がって、ふふん、と勝ち誇ったような笑みを見せる。そうして、その強気な表情そのままに、更にとんでもないことを口にした。
――亮子は、今の茜の表情を一生忘れないだろう。
「それに、わかったんだ。……武が、あたしを好きだ――って。手を重ねてくれた時に、伝わったの。……嬉しかったぁ……えへへ」
だから大丈夫。そう笑って。照れたように頬を染めて。思い上がりかな? そう言って目を細める茜を、亮子は見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに、真っ赤になってしまって……。
「茜さん……大胆です……」
「あははははっ! うん、あたしもそう思うっ」
二人して、可笑しくて恥ずかしくて、こそばゆい感情に、笑った。だから。
――だから、ね、武。
例えどれ程の闇が貴方を支配しているのだとしても、いつかきっと、晴らして見せるから――。