『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「守護者編:二章-03」
興味が湧いた、というのが本音だ。
人間、なにごとも好奇心が成長を促す最大の起爆剤とはよく言ったものである。香月夕呼は誰が言ったのか知れないそんな言葉を思い出しながら、硝子越しのシミュレータを眺めた。通信機械室のモニターに映る映像は現在シミュレータに搭乗している人物の網膜投影に投射されているものと同じ映像。その横のサブモニターには仮想フィールド全体が映し出され、更には各種レーダー、センサー類の情報が逐一更新されている。本来ならば戦域管制官が座り、部隊へ指示を飛ばすのだが、現在この場所に居るのは夕呼と霞の二人だけ。更に言えばシミュレータルームの出入り口も完全に閉鎖し、監視カメラもその全てが電源を落とされている。
最重要機密、とまではいかないが、かなり高レベルなセキュリティで守られたこの区画内で、夕呼はひとり唇を歪めていた。背後に控える霞はどこか複雑な表情をして、けれど、決してモニターから目を逸らそうとはしない。奇妙な沈黙がそこにあった。二人ともモニターを見つめているのに、お互いに、それを見ていない。メインモニターに小さなウィンドウが表示される。バストアップで搭乗者が映し出され、“着座調整終了”のメッセージが表示される。それを確認して、夕呼は通信用のマイクのスイッチを入れた。
「いい? これから適性検査に使用する判定プログラムを起動するわ。あんたはそこに座ってただひたすら耐えるだけ。簡単でしょ?」
『――――』
イヤホンから、どこかしら興奮したような声が聞こえてくる。どうも、早くやってくれと急かしているらしい。……まったく、現金なものだと夕呼は眉を顰めた。つい昨日まで泣き喚いて喧しく夢だ嘘だと叫んでいたのに、戦術機の話をした途端に目の色を変えた。もう少し閉じ込めておけばそれはそれで面白いものが見られそうだったが、これもまたよし。本人がやりたいというのだから、まぁ試してみるのも悪くないだろう。丁度いい息抜き、というわけではなかったが、どう転んだところで興味深いことには変わらない。……まして、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないのだから。試すには十分過ぎる。
無造作にプログラムを始動させる夕呼。ゆっくりと歩を進める戦術機――吹雪に、搭乗者は興奮を隠せないらしい。次第に速度を上げ、遂には最大戦闘速度で突進する吹雪。管制ユニット内は相当の揺れが起きているはずだが、相変わらず、搭乗者は興奮しっぱなしだ。まるで子供のようにはしゃぎ、初めて触れるテクノロジーに酔いしれている。衛士を目指すものの大半がかなり酷い乗り物酔いになるという統計結果がある適性検査プログラムなのだが……どうやら、この搭乗者はそれに当て嵌まらないらしい。モニターを見ているだけで画面酔いしてしまいそうな振動も、まるで問題外。もっともっと――そうやって更に激しい機動を求めるように、その瞳はどんどん輝きを増していく。
まるで、どころか。本当に。――玩具を与えられてはしゃぐ餓鬼、ね。
最大戦闘速度からの急停止。シミュレータ内の吹雪が制止する。戦術適性検査はこれで終了。バイタルを見れば……信じがたいことだが、全くもって平常そのもの。著しい昂奮が見られたが、そんなもの、その他のデータが示す異常さに比べれば可愛いものだ。
――戦術機適性「S」――
かつて白銀武という少年が叩き出した人類史上初の異常なまでの適性値。その二人目。まさかが“まさか”になった瞬間だった。
夕呼は殊更に口端を歪める。霞は益々に深刻そうな表情を濃くする。――さぁ、どうしてくれようか。そんな底知れぬ衝動が、夕呼を覆い尽くしていった。
===
とにかく重要なのはスピード。怒涛の群れで迫るBETAを極力相手にしないこと。蹴散らすべきは着地点に群れるソレであり、或いは侵攻方向に壁となるソレら。……ハイヴ攻略の基本戦術としてマニュアルにも記載されているその戦法を、真剣に吟味し、噛み砕いて――実践する。全員が任官後の座学でそれを理解したつもりになっていて……実は誰一人本当の意味でのそれを実現できていなかった。ともかくも、“止まらない”こと。止まらないということはつまり、機体に働く慣性をそのまま次の機動に繋げるということ。機体自体に働く運動エネルギーを流用できるので、推進剤の消費を抑えることが出来る。が、それを実現するためには、着地点を常に確保することと、前方の障害を可能な限り除くことが必要となる。弾薬の無用な消費は避けなければならないから、必要最小限の狙撃、或いはそもそも、敵のいない空間を狙って機体を移動させなければならない。
進行方向が直線的であればあるほど、操作は単純だし推進剤も機体にかかる負荷も軽減できる。ハイヴ坑内は相当な広さがあり、また、どういうわけかハイヴ内部には光線級などのレーザー属が出現しないため――これはBETAが味方誤射をしないという法則……つまり、ハイヴも一種のBETAではないのかという推論があり――かなりの高度を取ることが可能となる。要するに足下に群がる連中を飛び越えていけば、少なくとも跳躍中はBETAに襲われる心配はなく、着地点の確保、或いは次の侵攻に障害となる個体の排除が可能となるわけだが……言葉で言うほど簡単でないことは、先程からずっと繰り返している自分たちが一番よくわかっている。
A-01部隊の中でこのハイヴ攻略プログラムの経験が一番多いのは、みちるだ。衛士としての実績が最も長いのが彼女なのだからそれは当然だが、実際のところ、みちるでさえ本当にハイヴ突入を果たしたことはない。というより、そもそもハイヴ攻略戦など積極的に行われる作戦ではないのだ。ハイヴとはいわば敵の巣窟。総本山。現在地球上に存在するハイヴの殆どがフェイズ3を越え、フェイズ4、フェイズ5……と、反応炉までの深度に比例して、内包するBETAの総数も万単位で跳ね上がっている。そんな魔の巣窟が、26箇所も存在するのだ。単純に計算しても……現状のままでは、人類に勝ち目はない。
が、そんなことは誰にだってわかっているし、だからこそ自分たちは、香月夕呼は、AL4完遂のために命懸けで戦っているのである。確率なんて知ったことではない。必ず成功させる――そう断言した夕呼だからこそ、みちるは尊敬し、忠誠を誓っている。
そうして、最近になって夕呼からハイヴ攻略に於けるヴァルキリーズの戦績について示唆されてしまえば、近々、いずれかのハイヴへ突入する算段なのだろうことは想像に難くない。実戦経験の少ない白銀武、その経験すらない新任たち。自身と同じくハイヴ攻略戦など体験したことのない全員……けれど、横浜基地最強の名誉を与えられている彼女達ならば、未体験だろうが無理難題だろうが、絶対にやり遂げなければならない。
反応炉さえ破壊できればいい、なんていう甘えは、“明日のない世界”ならば許されるのかもしれない。だが、A-01部隊はその“明日”のためにこそ戦い、生き残り、次なる任務に臨む使命がある。夕呼が何らかの思惑でハイヴ攻略を命ずるならば――ハイヴ攻略は当然、更に全員生還してこそ作戦成功、と。そうでなければならないのだ。
発足当初連隊規模だったA-01部隊。一人、また一人とまるで冗談のように死んで逝った仲間達。残すところ僅か一個中隊強にまで激減した特務部隊。先日夕呼から聞かされた指針では、現在訓練中の第207衛士訓練部隊B分隊の任官が成った暁には、専属教導官であった神宮司まりも軍曹を前線に復帰させる腹積もりらしい。――つまり、それ以上の補充などない。そんな時間を割いている余裕がない、ということだ。大尉風情にそんな情報を漏らしてもよいのかと、みちるは耳を疑ったが……だからこそ、求められる責任は重い。最早完全に抜き差しならない状況――いや、BETA大戦の当初より、人類はその窮地に立たされていたのだが――それを再認識して、みちる自身、訓練に没頭するのである。
止まらない戦闘機動、というならば、一角抜きん出ているのが武だ。
この世に唯一の螺旋剣術、帝国の武家である月詠の剣術の一派だというそれを受け継いだ彼は、殊更“止まらない”ことに長けている。乱戦、混戦となる近接戦闘こそを独壇場とし、常人には窮地以外のなにものでもないその状況でこそ羅刹の如き暴虐さを発揮する。……だが、彼の機動には欠点がある。或いは、その剣術は、機動は、ハイヴ攻略には全く向いていないというべきか。元々帝国斯衛軍の将が、その実戦の中で編み出したという「守護するための剣術」であるからなのだろう。警護対象の身を護るため、率先して敵中へ身を投じ、敵を暴殺する。警護対象に敵を近づけぬよう、敢えて敵に突っ込み、引き付けるのである。自身を最も危険な領域に置き、そしてその状況こそを利用して乱戦に持ち込み、打倒する。弧を描く旋回機動とは即ち360度全てに接近する敵を一度に葬り去るために昇華された戦法なのだろう。
つまり、その剣術が求める“静止しないこと”と、ハイヴ攻略において必要な“停止しないこと”は全くベクトルが違う、ということだ。
その事実に誰よりも驚愕してショックを受けていたのは武本人だったが、彼の機動を参考にしようと考えていた水月たちB小隊にしても、考えが足りなかったと自省するほか無い。だが、常に長刀を振るう武の戦闘スタイルは、ある側面では効果的でもあった。武は突撃砲よりも長刀を使ったほうが「強い」。本田真紀や築地多恵は、長刀よりも突撃砲を使った方がより効果的に戦線を維持できる。突撃前衛の標準装備は突撃砲1に長刀2、予備弾倉に短刀となるのだが、それぞれが突撃砲を使用せず、長刀を使用しなかったならば、補給が望めないハイヴ坑内でもある程度生き長らえる時間と可能性が上向くのである。勿論、全く使用しない、などという事態は在り得ないので多少の消費は仕方ないが、自身の残弾或いは長刀の耐久度だけに気を遣わなくてもいい状況というのは……割と隊員たちに――といってもB小隊に限った話だが――効果的に働いているらしい。
戦闘機動中に装備の交換を行うなんていう光景は最早珍しくない。ならば最初から長刀3や突撃砲3という装備にすればよさそうなものだが、そんな一方面だけに特化した装備で生き残れるほど、矢張りBETAも甘くはない。ポジションごとに装備が異なるのは出来る限り汎用性に富みながらも、確実に敵を蹴散らし、自分たちが生き残る確率を僅かでも上昇させる策の一つなのである。もっとも、みちるが今更言うまでもなく、それは隊員全員がよく理解しているのだが。
ハイヴ内にレーザー属が存在せず、上方の空間を利用して跳躍噴射が可能といっても、これがなかなか巧くいかない。頭でわかっているつもりでも、気づけば体の方が高度を取ることを忌避しているなんてことはざらだ。刷り込みに近い光線級、重光線級の脅威が、ここにきて戦果を上げられない一因となっているのは間違いない。また、ハイヴがBETAの一種で、だから連中が出現しない、なんてことはあくまでも推測に過ぎない。ヴォールクデータや間引き作戦等でハイヴ内にまで侵入した部隊の持ち帰ったデータから、かなりの確率でそれは“確からしい”のだが、絶対にないと言い切れない以上、どうしても警戒心が先に立つのである。それに、レーザー属は存在しないのではない。地表構造物から反応炉までは一直線の縦坑で繋がっているのだが、そこから突入しようとした部隊がレーザーに焼き尽くされた事実は決して冗談ではないのだ。上空は狙い放題。だからレーザー属はそこに配置されているのだろう。
慣れの問題なのかもしれない。シミュレータ訓練を繰り返すうちにハイヴ内部での戦闘にも慣れ、レーザー属の脅威も振り払えるかもしれない。……だが、連中が脅威ということは間違いなく、逆に慣れ過ぎてしまえば地上での戦闘で莫迦みたいな過ちを犯す可能性も否めない。……今後はハイヴ攻略戦と地上掃討戦を交互に繰り返し、そのどちらも錬度を上げていかなくてはならないだろう。
新任たちの成長は著しい。既に武との差も埋まりつつあるし、他の隊員たちとの連携も問題ない。まだ実戦に参加させられるレベルではないが、だからといっていつまでもお荷物扱いしておくのは勿体ない。通常であれば三ヶ月間は実機訓練までに留めておきたいところだが、これまでの成長具合と、元同期である武が既に実戦を経験している経緯から、その期間を繰り上げることも考慮しておく必要はある。いや……むしろそうすべきなのかもしれない。どちらにせよ、いずれ実戦に身を投じるのだ。それをいつにするかは見極めなければならないだろうが、夕呼がハイヴ攻略を画策しているというなら、それまでに少なくとも一回以上の実戦経験が欲しい。
(佐渡島か光州か……さて、)
夕呼の性格から、そしてAL4が日本主体という裏事情を鑑みれば、そのいずれかであろうことは想像に易い。七月に光州ハイヴの間引き作戦を敢行したことを思えば、次に狙うは佐渡島の甲21号目標……だろうか。いや、総数が減っている甲20号目標という可能性も捨てきれない。いずれにせよ、ハイヴ攻略ともなれば大作戦となることは変わりない。水面下では既にその準備が進められているのかもしれないし、実際にはまだ先のことなのかもしれない。情報が開示されない以上みちるにわかることはなく、ならば――一割でも高い達成率を求めて、訓練に奮起するべきだろう。
「いいか聞けぇ! 次の突入作戦で生き残れなかったヤツは食事抜きに腕立て二百回だ!! 気合入れていけよっ!!」
『『『――了解』』』
オープンチャンネルで部下達に咆える。それぞれ、挑むような気迫に満ちた返事を受けて、この日六回目のハイヴ攻略プログラムは始動した。
「あんたってば本当に乱闘向きねぇ……」
「いや、そういう水月さんもどっちかというそうでしょう?」
シミュレータから出るなり、水月にそう呆れられてしまう武。先程のシミュレータ訓練で反応炉まで到達しながらも生還を果たせなかった武は、S-11という高性能爆弾を反応炉に設置するための時間稼ぎのために単身囮を買って出たのだった。それに付き合ってくれたのが茜、晴子、薫の三人。薫との二機連携で敵陣を掻き乱し、茜と晴子の支援砲撃で敵を引きつけつつ数を減らしていく。主広場とも呼ばれるその空間は広大で、武たち以外にも時間稼ぎのために水月、美冴、梼子の編成で別方面の敵を相手にしていたのだが、一見出鱈目なそれぞれの編成には止むを得ない理由というものがあった。要するに……通常の小隊編成を組めるほど生き残っては居なかったのだ。S-11設置部隊はみちると慶子の二人だけ。たった二人で巨大な反応炉に爆弾を設置するのだから、必定、ある程度の時間が必要となる。
最深部に到達するまでに消費した武器弾薬は著しく、これで失敗すれば全員飯抜きの腕立て二百回。そんな無様を晒してたまるかという冗談めいた気概と、どこまでも真剣な“成功させて見せる”という意志。とにかく前に進むためだけの戦闘機動で遅れを取っていた武は、その囮役を果たすにあたって、巧くいかなかった先の機動に対する鬱憤を晴らすかの如く、手当たり次第に斬りまくった。二機連携でありながら単身で敵のど真ん中に突入し、上空から、或いは近接戦闘で薫が援護する。その戦法は最早B小隊ではお馴染みのものだったので、今更誰も驚かないし困惑しない。ともかくも近接戦闘、乱戦、混戦でこそ真価を発揮する剣術というのなら、武は気兼ねなく暴れまわるだけでいい。
そういう経緯もあっての水月の発言だったのだが、それは武自身もそう思う。水月がどちらかというと乱闘向きだと思うのも、そうだ。先の時間稼ぎにしても、武には他の戦況を把握する余裕などなかったのだが、戦闘後の美冴や梼子、或いはS-11を設置しながらに全体を見通していたみちるの言から、水月も武同様に敵中に身を躍らせて無茶をやっていたらしいことがわかる。もっとも、そこはさすがに突撃前衛長だ。武のような単独で多勢を相手取る剣術を習得していなくとも、その戦闘力は凄まじい。圧巻の一言に尽きる、そう言っていい程の卓絶した技を魅せたのである。
最終的には敵の数に呑まれ撃墜された武だが、訓練終了の号令がCPの遙から下され、各々自身の戦闘を反芻しながらに整列する。みちるの傍に向かう途中、水月が武の背中を叩いた。その手の平からは、もっと色々な技術を身に付けろ、と。そういう励ましが感じられた。――敵わない。本当に。小隊長、ということを除いても、武の何もかもを水月はお見通しなのだろう。ハイヴ突入後では月詠の剣術は役に立たない。それこそ、囮役として前線に躍り出て、他のメンバーが進む道を開き、或いは時間を稼ぐ程度にしか使えない。みちるから指摘されたとおりに、そもそものルーツが警護対象の守護だというなら、なるほど、直線的に突き進むことが求められるハイヴ内では無用の長物となるのは自明の理だったのだろう。それに気づけなかった武は未熟だったのだろうし、疎かにしたつもりはないが、その他の技能が茜達と横並びというのは痛い。早い段階でそれに気づけたことはよかったのかもしれないが、裏を返せば、ハイヴ内での戦闘を全く考慮していなかった自分の迂闊さに赤面するほかない。
武は整列し、みちるに敬礼を向けながら、その傍に控える水月へ、“やって見せる”という強い視線を向けていた。水月もまた、それを受けて頷いてくれる。要は、戦場・戦況によって使い分けろ、ということだ。掃討戦や防衛戦では、月詠の剣術は有効。今までのシミュレータ訓練でもその成果は出ているし、武自身、この剣術こそが対BETAの究極の一つだという自負がある。ならば、ハイヴ内戦闘での究極を身に付ければいい。みちるを中心に小隊長たちが色々と考案しては訓練に反映しているし、個々人もそれぞれで試行錯誤を繰り返している。ともかくも、今までの観点に捕らわれない新しい機動、戦術の構築が最優先。A-01にとっても、武自身にとっても、重要な課題が明確となったところで、この場は解散となった。
===
数日後、夕呼からの呼び出しを受けてみちるはシミュレータルームへ向かっていた。連日行っているハイヴ攻略戦の戦闘記録を分析して、よりよい戦術の構築を念頭に水月たちとミーティングを重ねていたのだが、ピアティフからの通信を受け、単身でやってきたのである。普段A-01部隊が使用するシミュレータとは別のその部屋には、白衣を纏った夕呼と、まりもが並んで立っていた。自分を呼び出した夕呼が居るのはともかく、どうしてまりもまで……と驚いたみちるだったが、彼女が居るならば、なにか訓練部隊にも関係のある内容……例えば、任官スケジュール等に関する調整だろうか、と想像する。けれど、それならば何故シミュレータルームに呼び出されたのか説明がつかないし……結局、夕呼の考えていることなど凡人には理解できないのだと頷く。ここは素直に二人の前へと歩を進めるべきだろう。
「伊隅大尉、参りました」
ついいつもの癖で敬礼しそうになるみちるを、夕呼が視線で遮った。が、そんな彼女にお構いなくみちるへ敬礼するのがまりもであり、苦笑しながら、みちるもまりもへ答礼する。それを詰まらなそうに見つめた夕呼には申し訳ないが、これが軍隊というものである。そうして、完全に施錠されたシミュレータルームの広大な空間に、副司令、大尉、軍曹という、なんだかよくわからない組み合わせが完成したわけだが……さて、一体夕呼は如何なる用件でみちるたちを呼び出したのか。
「忙しいところ悪いわね」
「はっ、いえ……副司令の命以上に優先すべき事項はありません」
空々しく呟く夕呼に、みちるは苦笑するしかない。誰よりも多忙であるはずの彼女が、冗談でもそんなことを言うとは……相当に笑えない。夕呼とは十年近い友人だというまりもも、流石に困ったように含み笑っている。が、すぐさまに表情を引き締め、鋭い視線をみちるへ向けてくる。どうやら彼女もまだここに呼ばれた理由を知らされていないらしい。まりもと夕呼の二人だけならば彼女自身が問いかけているのだろうが、何せこの場では大尉階級のみちるがいる。上官を差し置いて発言するわけにも行かないまりもは、だからみちるに視線を寄越したのだった。
「……副司令、それで、一体どのようなご用件でしょうか……」
みちるもそんなまりもの立場は理解しているので、夕呼に向き直ると同時に尋ねる。すると夕呼は悪戯に唇を歪めて――それは、かつて白銀武という少年が手駒になった際に見せた表情と酷似していて――思わず、身構えてしまう。
「シミュレータルームに呼び出して、やることなんて一つしかないでしょう? ……まぁ待ちなさい。あと一人、揃ってから説明するわ」
「あと一人……?」
ちらりと夕呼が見やったのは待機中のランプが点灯している一台のシミュレータ。どうやら既に衛士の搭乗は完了しているらしいが、ではあと一人というのはその衛士のことだろうか。――と、誰が乗っているのか知らないそれを見上げていると、施錠されたはずの入口が開き、こちらへやって来る足音が響く。何事かと振り向けば、そこには霞に連れられた武が居た。現在は小隊長を除いたメンバーで座学に勤しんでいるはずの彼が、どうしてか強化装備を着用してやって来たのだ。驚くなという方が無理である。
「白銀……?! 貴様、何をやっている……!」
「はっ! 香月副司令から強化装備着用の上、シミュレータルームへ直行するよう指示を受けました!」
その返答に、む、と口を噤む満ちる。どうやら霞が伝令を請け負ったらしいが……ならば、どういうことかと思考をめぐらせる。既に待機状態にある一台のシミュレータ。恐らくは誰かが搭乗しているのだろうが、それについての説明はまだない。さらに、武が強化装備を着用しているというなら……恐らくは彼もシミュレータに搭乗するのだろう。――模擬戦? 脳裏に浮かんだそれが、一番可能性が高そうだという結論に至る。どうやらまりもも似たような思考にたどり着いたらしい。
上官と恩師の二人が揃って夕呼へ視線を向ける様を、若干離れた場所から武は眺めていた。二ヶ月ぶりに見る夕呼の姿は、以前と全く変わらない。白衣の下で右腕はちゃんと機能していたし、服を脱がせて縫合の跡を見ない限り、誰も右腕を喪ったとは思わないだろう。武の腰には弧月が提げられている。夕呼からの呼び出しを霞を通じて受けたとき、一瞬だが、弧月を身に付けることを躊躇った。もう二度とこの刀で夕呼を斬ることなど在り得なかったが、夕呼自身がいい気分がしないのではないかと想像した。――いや、違う。この期に及んで、まだ怖いのだ。初めて斬った肉の感触。その人物。彼女を目の当たりにして、彼女を斬った弧月を身に付けていて……ひょっとすると、罪科に押し潰されてしまうのではないかという恐怖があった。
だが、ここで弧月をいっときでも手放したならば、もう二度と、この刀を手にする資格はなくなってしまうような気もした。己の罪を恐れるな。自身で気づいたその意志。真那が教えてくれたその意志。弧月はいつも傍に在る。それを本当の意味で理解したならば、その恐怖さえ己のモノにしなければならない。夕呼と顔を合わせることを畏れては何も始まらない。己の罪が露見することを恐れては何の成長もない。まして……武は示して見せねばならないのだ。バッフワイト素子に改良品の新薬。それらを賜るに相応しい、せめてそれだけの気概は、認めてくれた彼女に示す義務がある。
「じゃ、早速だけど始めましょう。……白銀は三番機に搭乗、着座調整終了後にこちらから指示を出すわ」
「――はっ!!」
まるでかつてのことなど気に留めていない表情と声音で、夕呼が武に命令する。反射的に敬礼してしまったが、彼女がそれに眉を顰める以前に、武は自機へと走り出していた。武が搭乗する三番機の正面……通路を挟んで対面に鎮座する九番機が既に待機状態にあることは気づいていた。強化装備着用でシミュレータルーム、と聞いた時点で何らかの……例えば新兵器等の運用試験だろうかと予想していたのだが、どうやらこれから模擬戦、ということになるらしい。手早く着座調整を終えると、通信機械室から通信が入る。状況から想像したとおりに、これから武は九番機――ドッペル1――と戦闘するらしい。戦闘中に限らず、相手との通信は一切が遮断され、こちらの通信内容もドッペル1には届かないらしい。……模擬戦で戦う相手なのだからそれは当然だろうが、聞けばみちるやまりもも、ドッペル1の映像や音声を見聞きすることは許可されていないらしい。
一体どれ程の重要人物が乗っているというのか。些か緊張しながら、どうして自分がそんな相手と模擬戦闘を繰り広げなければならないのかと反目するが――それが命令なのだから、やるしかない。フィールドはお馴染みの荒廃したビル群。市街地戦だ。操縦桿を握り、フットペダルを踏み込む。索敵に意識を向けた瞬間に、夕呼から通信が入る。
『いいこと、白銀。一切の手加減もお遊びも許可しないわ。あんたはあんたのもてる最高の技術をぶつけなさい。向こうにも同じことを伝えてあるわ』
当然だ。言われるまでもない。これまで一度として訓練で手を抜いたことはないし、まして最近はハイヴ攻略において行き詰った感のある武だ。こういう好きなだけ暴れていい状況を用意して貰えたのなら――その真意はともかく、我武者羅にやるだけである。言葉尻がからかうように笑っていたのが気になったが……恐らくは、相当腕の立つ衛士が乗っているのだろう。ドッペル1――ドッペルゲンガーからの引用だろうか? ――大層不吉なコールナンバーだが、簡単に負けるつもりも、惜敗するつもりもない。なにせ、隊長はともかくとして、まりもが見ているのだ。少年だった自分を鍛え上げてくれた恩師を前に、無様な姿は見せられない。
状況から推測して、武が噛ませ犬なのだろうことは明らかだが、夕呼自身がああ言う以上、ともかくもやるしかない。レーダーが敵機を捕らえる。それは向こうも同じだろう。直線的に放たれた36mmを回避しながら、一気に距離を詰める。とにかく接近戦に持ち込んだなら武の勝ちだ。一対一というなら、支援砲撃で足を止められることもない。中々の反応速度を見せるドッペル1だが、水月や真紀の牽制に比べれば大したことはない。恐らく実力の半分も出していないのだろうが、そういう余裕を見せるというなら、――容赦しない!
「ぉぁああああ!!」
両腕にそれぞれ長刀を装備し、肉薄する。ドッペル1は未だ突撃砲を構えたまま、装備を変更する様子も、回避行動を取る様子もない。舐められている? 瞬間的に意識が沸騰しかけたが、それもいい。この間合いなら一刀を外すことなど在り得ないし、それを回避してみせる程の腕を持つというなら、自分が選ばれた甲斐があるというものだろう。ドッペル1。何者か知らないが、あの夕呼が手ずからお膳立てをする程の人物。例え噛ませ犬なのだとしても、その相手に選ばれたのが武というなら、それは誇りを持っていいはずなのだ。……いや、ここは噛ませ犬として抜擢されたことを怒るべきだろうか。ともあれ、武は本当に手加減なしの剣閃を放つ。右腕に握った長刀の一閃。脚部は既に回避された後の状況を想定して旋回機動のための準備を整え、左腕の長刀が横凪の軌道を描き…………武は、自分の目を疑った。
――居ない。
目の前に居たはずの標的が、ドッペル1の姿が――ない。右の長刀が空振り、旋回する機体は慣性のままに横凪の一刀を放ち、当然これも空振り。莫迦な、と驚愕に目を見開くのも束の間、戦慄が全身を直走り、咄嗟にフットペダルを踏み抜いていた。前方へ突撃するように全開噴射。一瞬遅れて地面に弾痕が穿たれ、煙を上げる。サブカメラが捕らえたその映像に、武は引き攣れたように息を呑んだ。――そんな、莫迦な!? そこに映った光景を俄かには信じられなかった。跳んでいる。噴射跳躍。ユニットから気焔を吐き出して、ドッペル1は上空に浮かんでいた。
「っ!?」
驚愕に衝かれたのも刹那、ビルの壁を蹴って更に跳躍した敵機が、信じられないような空中軌道で迫ってくる。ひとつひとつの動きは無駄も多く大袈裟な印象を受けるものの、とにかくも予測がつかないし、なにより、空を翔る――その機動が理解できない。咄嗟に背部パイロンに装着したままの突撃砲を、あたかも遠隔操縦のように、マウントしたままの状態で撃ちまくる。背中から三本目の腕が生えたようなものだが、かつて教えを乞うた整備士の“裏技”の中にあったそれを、反射的に選択していた。両腕に長刀を装備したまま、肩の上から銃口を向けて火を噴く突撃砲。36mmが牽制にばらまかれ――そこで、ドッペル1は更に信じがたい機動をとって見せる。噴射跳躍の軌道上に狙いを定めたつもりだったのだが、あろうことか、ドッペル1は空中で急制動をかけ、いきなり地面に降下したのである。――どういう理屈だっ!? 盛大に粟を食った武は、けれど直線的に迫る標的に、ならばと36mmを放ちながら肉薄する。
とにかくも、機動力が桁違いだった。或いは、その発想の次元が違うといえばいいのか。同じB小隊の多恵が見せる独特な機動とも違う、一線を画すそれ。本能のままに動きまくる多恵とは違い、ドッペル1には何がしかの意志というものが感じられるのだが――読んでみるか? ――瞬間的に湧いた衝動を、何を莫迦な、と抑えつける。外部との通信を遮断しているというなら、あのドッペル1に搭乗する衛士は相当な重要人物の筈だ。まして、武のリーディング能力の程度を知り尽くしている夕呼が、リーディングされることを予想しないわけがない。当然何がしかの対策がとられていて然るべきであり、そもそも、武自身がその能力を忌むべきと認識しているのだから、絶対に行使するわけにはいかなかった。
再びの接敵。どういうわけか今度は長刀を振り抜いた標的に、言い知れぬ反発心が過ぎる。どうやら武が接近戦に秀でていることを悟ったらしいが、ならば、先程のように距離をとって戦うべきだろうに。何となくではあるが、武はこのドッペル1が“遊んでいる”――と、そう思えてしまった。相手が長刀を使うからこちらも長刀。或いはその変則的な機動で翻弄して、驚くこちらを見て笑っている。そんな想像が巡り、ぎしり、と操縦桿を握る腕が鳴った。完全に舐められている。得体の知れない相手であることは間違いなかったが、だからといって長刀――剣術の戦いで、武は負けるわけにはいかなかった。
「ぅぉおおおおおおおお!!!!!」
咆哮一閃。一刀を受けて見せたドッペル1。空中での機動がそちらに軍配が上がるなら、平面機動ではこちらが上という自信は間違いなく、存在する。一撃目を防がれた瞬間には、既に標的の側面に廻りこみ二撃目を振り抜いている。咄嗟の噴射跳躍で前方に逃げようとしたドッペル1の、がら空きとなった背後へ廻りこんで――
「終わりだっ!」
無防備な背部へ右腕の一閃を叩きつける。――が、浅い! 火花を散らしてウェポンラックが脱落するが、機体自体に大したダメージはないらしい。あっという間に再度上空へと躍り上がった標的に、歯を食いしばりながら突撃砲を狙い撃つ。――ちょこまかとよく逃げるッッ!!?? ここまでくると、最早信じられないを通り越して信じたくない。目の前のドッペル1は、間違いなく……空を跳ぶことを恐れていない。ここが仮想空間のシミュレータだから、だろうか。光線級が存在しないことを認識しているから、だろうか。
いや、違う。
アレは、あの動きは、跳躍は――そもそも、空を跳ぶことを恐怖ともなんとも感じていない、そういう機動だ。裏を返せばレーザー属を脅威と感じていない、ということになるのだろうか。だが、そんな理屈は信じられないし理解できない。初陣で光線級の脅威を身をもって体験した武だからこそ、“空に逃げる”という行為の危険性と恐ろしさを十二分に理解しているのだ。一度あの恐怖を味わったのなら、必要最小限の高度以上を取りたいとは思わない。そういう恐怖がハイヴ攻略戦においても己の足を引っ張っているのだということは重々理解していたが、だからといって早々拭い去れるものではない。
だというのに、目の前のソイツはいとも簡単に、軽々と跳んでみせる。愕然としてしまうし、自分のちっぽけさを嘲笑われているようにも感じる。気づけば力一杯に歯を食いしばっていて、悔しさに震える腕を、コンソールに叩き付けていた。
「ふ、……っざけんなぁあぁぁああ!!!」
恐怖がどうした。光線級がどうした。アイツは、目の前のドッペル1は、ああも簡単に空を跳んで見せているじゃないか! ――だったら、俺だって跳んでやる! 地上でなければ戦えない、なんてことはない。戦術機は空でだって戦える性能を秘めている。いくら地面の上で追い詰めても、がら空きの上へ逃げられるのであれば、いつまで経っても倒せやしない。
要は、戦場・戦況によって使い分けろ、ということだ。
数日前、水月が無言のままに教えてくれたことでもある。地上なら地上の、防衛戦なら防衛戦の、ハイヴ内ならハイヴ内の戦闘スタイルを構築し、編み出し、身に付けて昇華して錬度を上げる。――なら、上空でだって同じことだ。フットペダルを力いっぱいに踏み込む。噴射跳躍。かつて……任官する以前に、整備班の佐久間たちと考案した空中での機動制御方法。機体を捻りながら上昇する武の不知火は、さながら天に向かう螺旋の矢であり――それを予想しなかったのだろうドッペル1の機体は空中で二段階の跳躍を見せて回避し――すれ違い様、武の長刀が標的を斬り刻む感触と――至近距離で被弾し、撃墜された機体情報を見た。
『お疲れ様。あんたは暫くそこで休んでなさい』
「はぁ……はっ、ぁ、……了解っ……はぁ、はぁ、」
シミュレータの出力が落ちる。薄暗くなった管制ユニットの中で、武は喘ぐように呼吸を繰り返していた。シミュレータであるために実機のような横荷重や強烈なGは再現されない。だが、それでも最後のアレは相当な負荷が掛かっていたし、空中で撃破され、ろくに着地できぬまま墜落した際に確認した限りでは、矢張り腕や脚部に相当なダメージが蓄積されていた。これが実機だったなら、武自身の肉体もただでは済むまい。かつては重度の加速度病に見舞われたのだが……下手をすると内臓が破裂しかねない。
「やっぱ……ありゃ、駄目だな……」
ついカッとなってやってしまったが、そんなことは当の昔にわかっていたことだ。どうしようもなく餓鬼くさいとは思ったが、けれど、あんな風に目の前で、それこそ“なんでもないように”ぴょんぴょん跳躍されたのでは、それを恐れている自分は何なのだろうと思いたくなる。戦闘に敗北し、機体の損壊は大破。……惨敗だ。そうやって先程の戦闘を自己評価しながら、ならばあのドッペル1は何者だという思考に至る。とにかく、とんでもない実力を秘めた衛士だということは、わかった。武自身は当然ながら、A-01部隊の誰も、あんな機動を見せたことはない。そもそも空中戦という発想自体が随分と昔に廃れてしまった現在で、噴射跳躍を多用するあの機動は相当にイカレている。いや、自分が理解できないだけで、ドッペル1にはドッペル1なりの論理があるのかもしれないが……。
やがてみちるから通信回線が開かれ、武はシミュレータから降りた。ひょっとするとそこでドッペル1に会えるかもしれないと期待したのだが、流石にそれは甘かったらしい。通路に並ぶのは夕呼にみちるにまりも。愉快気に含み笑う夕呼以外は、二人とも憮然とした表情だ。……気持ちはわかる。実際に戦った武自身、そういう気持ちになったのだから。武など足元にも及ばない戦績を持つ彼女たちなら、その悔しさもひとしおだろう。
とにかく、自分たちの持っていた“常識”という観点がぶち壊されたのである。空をレーザー属に奪われ、地べたを這い回ることしか出来なくなっていた自分に気づかされたのだ。悔しくないわけがない。みちるもまりもも、そういう意識があったからこそ、最後に武が見せたヤケクソのような発奮は、些かの救いでもあった。無論、褒められた手段でないことは明白だが、それを口に出すことはしない。せめて一矢――そういう武の気迫が伝わり、それを理解できたからこそ、みちるは何も言わないのである。
「白銀、どうだった?」
夕呼がさも愉快といわんばかりに尋ねてくる。こうなることは予想済みだったのだろう。その表情には矢張り武に対する何がしかの感情は浮かんでおらず、単純にドッペル1を見てどう感じたかという知的好奇心しかない。武は僅かに言葉につまり……どう答えるべきか迷う。ちらりとみちるとまりもを見れば、彼女たちも武の言葉を待っているらしかった。恐らく、武がシミュレータ内で待機している間に二人は存分に己の見解を述べたのだろう。そして、それが済んだからこそ実際に戦った武の言葉を聞きたいのである。
「巧くいえませんが……化け物だと思います……いや、変態的、というか……」
「変態ぃ? あっははははは! 成程ねぇ、あんたでもそう思うんだ」
あの滅茶苦茶とも思える機動をどう表現したものか、と悩んだ挙句の武の言葉に、あろうことか夕呼が爆笑する。――あの副司令が、と驚愕するみちると武。まりもは別の意味で驚いているらしいが、何にしたってここまで感情を顕にする夕呼というものは珍しい。……というよりも、みちるも武も初めて見たのだが。さておき。
愉快痛快。正にそういう状態らしい夕呼は、よくわかったと頷いて、みちる、そしてまりもへと視線を移す。武は彼女たちの会話に加わるべきではないのだろう。一歩下がり、上官たちの話を聞くとはなしに聞いていると……霞がおずおずと傍にやって来た。どうやら先の戦闘をモニターしていたらしいが、その表情は複雑なものだった。思い出してみれば、武を呼びに来た際もどこか複雑そうな顔をしていたわけであるが……武には、どうして彼女がそんな表情を見せるのかわからない。
「どうした、社。気分でも悪いのか?」
シミュレータは油圧式で稼動するため、稼動後は焼けたような匂いが充満することもある。無論、密閉空間でそんなことになっては堪らないので換気は十分行われている筈なのだが……ひょっとすると、初めてこの場を訪れたのだろう少女には、この僅かな空気も気持ち悪いのかもしれない。そう思い声を掛けたのだが、霞は小さく首を振った。ではなんだろうと首を傾げる武に、霞は益々深刻な表情をして……
「……なんでもありません」
と。絶対に嘘だとわかる呟きを零した。だが、霞自身がそう言うのであれば、武はそうかと頷くことしか出来ない。薄情かもしれないが、今の霞を見れば、追求されることを望んでいるようには見えないのである。放っておくことも時には救いになる。自身の経験からそう判断して、武は視線をみちるたちへ向けた。漏れ聞こえる言葉から推測する限り、あのドッペル1が何者なのか、という話題になっているようだった。それについては武自身、大変気になる話である。――が、むべもなく両断する夕呼。ドッペル1というコールナンバー以外は一切明かそうとせず、男性か女性かさえ教える気はないらしい。機密といわれてしまえばそれ以上みちるも口を開くことは出来ず、言いようのない空気が場を満たした。
「……で、さっきの話に戻るけど。どう? 実戦であの機動は使えるかしら?」
「すぐに再現しろ、というお話でしたら……操縦ログを閲覧できるなら、一週間もあれば、ある程度は習得できるかと思います。しかし、現状ではあのドッペル1の機動はあまりにも常識の枠から逸脱していると言わざるを得ません。悔しいですが――自分にはあの機動の根底にある戦闘理論が理解できません」
それはあの動きに至る思考的プロセスを、想像さえ出来ない、ということだ。まりももそれには同感らしい。無論、武だってそうだ。とにかく、なにもかもが出鱈目なのである。化け物染みていると感じ、変態的だと思ったのは、比喩でもなんでもなく、言葉通りの意味なのだ。ドッペル1は明らかに常軌を逸している。――アレは、何か違う。それが具体的に何なのか想像も出来ないくらい、思考そのものの次元が違う。……だが、
「僭越ながら、副司令。確かに伊隅大尉の仰るとおり、ドッペル1の機動が容易には理解し難く、また、その模倣すら困難であることは明白です。……ですが、あの機動。あの戦術理論。そもそも空中は光線級に支配されているという常識を打ち破る大胆な機転等、ドッペル1から学ぶべきことは多いように思えます。例えば作戦に参加する衛士全員があの機動を再現出来たと仮定するならば――――中隊規模でのハイヴ突入・攻略も夢ではないのかもしれません……」
「神宮司軍曹――!?」
「へぇ……面白いことを言うじゃない、まりも……」
微塵の冗談も誇張もなく、まりもがそう口にする。特に最後の一言、中隊規模で……という言葉にみちるは絶句し、夕呼はさも面白そうに唇を歪める。軍曹であるまりもがA-01に期待される作戦の概要を知ることはない。ならば現在正にハイヴ攻略のための訓練を重ねているみちるにとっては驚くほかないのだが、すぐに、それがまりもなりの賛辞であることは理解できた。つまり、もし本当にあの機動が実現できたなら、それくらいの戦力向上に繋がるだろう、というのだ。富士の教導隊に属していたこともあるまりものその言葉は、階級よりなによりも、重く、響く。数々の経験に裏づけされた衛士としての直感が、或いは導き出された客観的論理が、そうと断じたのだ。
夕呼は妖艶に微笑みながら、まりもをじっと見つめる。その言葉、嘘じゃないわね――そう問いかけるような彼女に、長い付き合いであるまりもは、不敵に笑って見せた。
「いいわ。操縦ログはすぐに用意してあげる。……あなたたちは持ち場に戻りなさい。白銀もね。……社はこっちにいらっしゃい」
みちるとまりもが揃って踵を返す。武も姿勢を正して、みちるの背後に付き従った。
最後まで深刻そうな表情のままの霞が気になったが、去れ、と命じられた自分たちに止まることは許されない。シミュレータルームを出て、再び施錠されたドアを眺めながら、今頃はドッペル1がシミュレータから降りているのだろうと想像すると……言いようのない興奮が胸を満たした。そう。武は今、興奮している。ドッペル1の機動に中てられた悔しさや感情は、けれどまりもの一言で吹き飛んでいる。
――あの機動を再現出来たなら――
その仮定は、想像も出来ないほどの熱い衝動を沸きあがらせた。確かにそうだ。あの信じられない機動を我が物と出来たなら、今よりもっと、もっともっと、BETAとの戦いを有利に運べるに違いない。特にハイヴ内部での戦闘で、その効果は著しく現れるのではないだろうか。今正にA-01部隊の課題となっている空中機動。或いはハイヴ攻略のための戦術。それら全てを一挙に解決できるかもしれない。そんな想像を抱けば、血が滾るのは当然だ。
「白銀、すぐに全員を強化装備着用の後、ブリーフィングルームに招集しろ。速瀬たちには私から声を掛ける」
「了解!」
みちるの視線から、彼女が何を考えているのかを即座に理解した武は、力強い敬礼を向けて走り出す。恐らくも何も、夕呼から操縦ログを受け取り、全員でそれを倣うのだろう。とにかくも実践あるのみ。あの機動を目の当たりにしたみちると武だからこそ、その凄まじさが理解できる。……いや、論理も何もかもを理解できていないのだが、ともかく、そうとわかるのだ。
戦術機の機動が改善されただけで戦況がひっくり返ることなど在り得ないだろうことは、この場に居る全員が一番わかっている。けれど、それでも……あのドッペル1が見せた機動は、なにか、希望を抱かせるに相応しい――“ナニカ”を孕んでいるように思える。
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夕呼は上機嫌に鼻歌を口ずさむ。他者に対して喜怒哀楽に代表される感情のこと如くを見せない彼女にしては珍しく、そしてそれ故にそぐわない。霞はそんな珍しくも上機嫌な夕呼を見上げながらも、彼女の下す指示に従ってキーボードを叩いていく。ドッペル1――そう呼ばれた人物の機動ログを解析するのである。霞には戦術機の操縦の仕方も、その戦闘に於ける有効な手段というものも理解できないし、そもそも知らない。だがそれでも、このドッペル1が行って見せた操縦は、かつて見たことのあるどんな衛士の操縦技術よりも……巧く言葉には出来ないが、「凄い」と思えるものがあった。
例えば先程のみちるやまりもが述べたように。歴戦の勇士である彼女たちが賞賛するほど、あの機動には凄まじいナニカが在る。戦術機の操縦や戦術に関して知識しか持ちえていない夕呼にしても、その認識自体は霞と同程度だろう。が、常人の思考の遥か上を行く“天才”である彼女には、霞が思い至ることの出来ない何がしかの明確なヴィジョンが見えていて、現在のログ解析もその一端を担っているようだった。
既に操縦ログ自体はそのコピーをみちる、まりも両名に手渡している。恐らくA-01部隊は今頃、みちるの指示の下、ドッペル1の機動を再現しようと躍起になっているのではないだろうか。……まりもに関しては、207B分隊の訓練状況からみて、恐らく彼女自身が個人的に修得を試みるのだろう。なんにせよ、それで彼女たちの錬度が益々に上向くことは間違いない。
だが、同時にそれは途轍もない困難を孕んでいる。
現に彼女達自身が言っているのだ。「あの機動は理解できない」。「模倣でさえ困難だろう」――と。それは多分、比喩でも皮肉でもなく、厳然たる事実。何故ならそれは、ドッペル1と彼女たちの、“思考そのものの基盤”が異なるからだ。言葉遊びのようだが、そうとしか言いようがないし、それが事実なのである。ともかくもドッペル1は「異端」であり、武が言ったような“化け物”と称すべき思考こそが普通であり、“変態的”と称すべき機動こそを当然としてやって見せる。根本的に、何もかもが違うのだ。……それを、霞は、夕呼は知っている。
みちるは一週間もあれば……と言っていた。きっとそれは間違いではない。一週間もあれば、彼女たちのように数々の実戦を潜り抜け経験を積んだベテラン衛士は、ドッペル1の機動を解析し、噛み砕き、“自分なりの”それを再現できるようになるだろう。それは例えば空中機動に関するヒント的なものであったり、発想の転換という着眼点からの「進化」ないしは「深化」となるだろう。
――が、恐らくは誰一人として、あの機動を“理解する”ことはできない。
きっとこういうことではないのかと想像し、自分なりに納得することは出来るだろう。正答ではない、自己的な解釈。その結論に満足するしかないのである。……絶対に理解できない機動理念、戦術理論。それを知ることが出来ている霞にも夕呼にも絶対に真の意味での理解などできはしないそれを、彼女たちが到達できる道理はないのだから。
とにかくも霞は次々と下される指示に従うほかはない。当面、ドッペル1に対して思考を巡らせる暇もないくらい忙しくなるような予感がある。最後にもう一度だけ夕呼を見上げれば、矢張り彼女は愉快そうに上機嫌に、けれどどこか一抹の不安さを感じさせる嬉々とした瞳で……別室に“軟禁”しているドッペル1の監視映像を見つめているのだった。
最高の素材を手に入れた、ということになるのだろう。
否、最良の……か? ともかく、ドッペル1という手駒を手に入れたことはAL4完遂に於いてかなり重要なファクターとなることは間違いない。空想の産物、絵空事として捕らえられていた研究理論、『因果律量子論』。自身でさえ明確な解に辿り着けていないその理論を証明する存在が突然に現れたとき、信じられないというよりもなによりも、震えるくらいの感動があった。
数日前の邂逅を思い出しながら、夕呼はじっと監視映像を眺める。その存在自体を揶揄って“ドッペル”というコールナンバーをつけたのも、珍しく浮ついた気分になっているからだろう。……ともかく、ドッペル1はいちいち使い道に困らない。その存在が及ぼす影響については、夕呼が提唱する『因果律量子論』自体を修正せざるを得ない現象も引き起こしたが、一応のところは想像の範囲内。想定内、という枠に収まってはいる。
世界は矛盾を好まない――というのが夕呼自身の見解だが、それはあくまで“そんな程度のモノ”という認識でしかないし、或いは好まないからこそ生じた矛盾を修正しようという力が働くことの可能性を承知している。修正力、とでも仮称するべきそれは、恐らくは白銀武に端を発しているに違いない。夕呼自らが手を下したESP能力付加のための投薬実験。考えられるポイントはそれしかなく、彼の脳内で引き起こされた様々な化学反応が、彼を“白銀武”という存在から「僅かにズレた」者として世界に認識させているか……或いは、ドッペル1という存在そのものが、既に「別物」として扱われているか。
いずれにせよ、それぞれの存在が夕呼の理論を証明することは変わりないし、益々もってAL4の可能性を拡げてくれている。
例えばドッペル1が見せたあの戦術機の操縦についても……夕呼自身にはその凄まじさなどはいまいち理解できないが、それがまりもやA-01部隊の見せるモノと異なることはわかるし、遊び半分でやらせた基礎・応用教習プログラムも信じられない成績でクリアして見せた。過去に一度、白銀武で実験したこともあったのだが、それさえを上回る速度と成績を叩き出したドッペル1には驚嘆するしかない。ある意味では戦術機の素人である夕呼を、驚嘆させたのである。
試してみる価値は十二分以上にあった。否、これは試す以外に在り得なかった。
戦術機に関する知識・技術ともに、この横浜基地内で最も優れているのは神宮司まりもだというのは、基地司令も認める事実だ。別に司令に確認を取ったわけではないが、夕呼にはそういう確信がある。友人の能力を賞賛するつもりはないが、客観的にその経歴を見れば、誰だってそうと頷く以外にない。ともかく、戦術機に関する何がしかは、例えば駆動系や制御系の専門的な話にならない限りは、最高の衛士である彼女に聞けば“間違いない”のだ。さらにその教えを一身に受け、現在まで生き延びている伊隅みちる。A-01部隊の隊長を務める彼女は事実上のまりもの直系であり、その実力も劣らない。
その二人を同席させ、ドッペル1の機動を見せたなら……どうなるだろうか。夕呼でさえ凄いと感嘆したのである。戦術機に乗り、実戦に身を投じ、現実にBETAと戦っている彼女たちの目には、その「凄まじさ」というものはどう映るのだろうか。想像しただけでも興味が湧く。思いついた瞬間にシミュレータでの模擬戦闘の段取りをつけ、二人を呼び出した夕呼は……更に、ある種のセレモニーと化したこのイベントを彩るべく、武を呼び出した。
戦術機適性「S」。その二人が相対すれば一体ドウイウコトになるか。それは戦術機操縦技術の革新を期待すると同時に、それぞれの存在そのものに如何なる影響が生じるか、という実験でもあった。
まりもにもみちるにも、無論武にもドッペル1の正体は明かさない。その存在が如何なるかを明かしたところで特に意味はないし、現実的に考えてドッペル1を表に出せる道理がない。いや、それはそれで面白そうなのだが、無用な混乱を招くだけだろう。……第一、ドッペル1が軍人として、衛士として戦場に立てるとは到底思えない。戦術機操縦の腕は間違いなく一流と称すべきなのだろう。――が、それだけだ。ドッペル1を戦場に立たせたなら、『死の八分』を越えることはおろか、恐慌に身をやつし悲鳴を上げてのた打ち回った挙句に食い殺されるのが関の山だろう。貴重な研究素材を、そんな風に捨ててしまうわけにはいかないし、そもそも機体が勿体ない。
現在はB19フロアの一室に“軟禁”しているわけだが、取り敢えず衣食住を確保してやっているのだから十分だ。現実を直視しようとせず、戦術機に没頭している現状、精神的に好ましい状態とは言い難いようだが、いくらでもやりようはある。ニンゲン、寝床と食事さえ足りていれば案外何とかなるものだ。ドッペル1がどう足掻いたところであの部屋は内側から開くことなど出来ないし、シミュレータでも設置してやれば鬱憤も晴らせるだろう。それでも問題が生じるようならクスリに手を出すことも厭うまい。
武という前例を鑑みれば、どうも薬物が効きすぎる体質にあるらしいが、それもまた良しだろう。或いは、投薬に依らずとも……例えば生きる目標のようなものを仮にでも与えてやればいい。そのあたりはピアティフが適任だろうか。衛生班の誰かに頼むのも手だ。経験の浅い餓鬼であるならば、目先のそれに溺れることは簡単に予想できる。
……とりとめもなく思考を巡らせながら、ふむ、と頷く。
ドッペル1の処遇を今後どうするかは別として、まりもをしてハイヴ攻略も夢ではないと言わしめたその機動。操縦ログは霞の手伝いもあって既に解析済み。その操縦概念というべきものはどう足掻いても余人には理解できない代物だろうことは想像に難くないが……例えばそのフォロー、サポートとして戦術機側に何らかの改良を加えるというのはどうだろうか。
夕呼自身の思いつきでもあるが、それは本来の彼女の使命――AL4完遂のための最優先事項かといえばそうではない。夕呼が一刻も早く完成させなければならないのは00ユニットであり、それを完成させるための理論だ。正直なところ未だに成果らしい成果を上げられていないこれらをなんとかしなければならないのだが、我武者羅に研究を続けるだけでどうにかなる時期はそろそろ終わりに近い。このまま何の成果も出すことが出来なければ、国連はAL5の発動を承認するかもしれない。とにかく、何がしかの研究成果を発表する必要がある。
それを考えた時、戦術機の改良――ハード的な改修は、既に出回っている機体数と各国の財政状況を見ても現実的ではない。新型機の開発などもってのほかだ。では……例えば、OSを新しくしてみるというのはどうだろう。その思いつきは、何か閃きに近いものを与えてくれた。まりもが言ったのである。「作戦に参加する部隊全てが再現できたなら」、と。ならば、再現できるようにしてやればいい。ドッペル1以外には絶対に理解できないその操縦技術。戦闘理論。機動概念。その模倣だけでも相当の戦力向上が望めるだろうと彼女が言うなら、それはきっと間違いではない。だったら、その完全には理解できない部分を戦術機自身にやらせてしまえばいい――――これだ。
夕呼は唇を吊り上げて笑う。
単なる時間稼ぎにしかならないことはわかっている。だが、OSの改良……新OSの開発でもなんでもいい――それには恐らく、AL4の研究のために用いられた技術が応用できるはずだ。つまり、“それもまたAL4の成果”の一つと言い切ることが出来る。更にはその性能の有効さが世界的に証明できたなら、今後の作戦を有利に展開させる切り札とすることもできる。なんだなんだ、考えれば考えるほど美味しい話ではないか。夕呼は獰猛な笑みを浮かべて――その裏側で、相当に追い詰められている自分というものを冷静に自覚した。唯一つ、00ユニット完成のためだけに邁進できる時間は残り少ない。その焦りがもたらす現実逃避なのではないかという思考……だが、それを認めつつも、最早「なにかをやらねばならない」状況にまできている。
追い詰められたニンゲンがどれ程に愚かな行為を犯すのか。夕呼は身をもってそれを体験している。かつて武の脳改造を実施した自分もそうならば、極限まで追い詰められて爆発した彼もそうだ。……だが、それを自覚し、認識し、冷静な理性によってコントロールできるならば、愚かさを補うことも出来るだろう。ともかくも、思いつき、そして今後に僅かでも有利に働く要素を孕んでいるのなら……やるしかない。
「いいじゃない……こういうの、悪くないわ」
追い詰められた状況を楽しむ。危険な快感がそこに潜んでいるような気がして――夕呼はドッペル1を映す監視映像を一際睥睨するのだった。