『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「守護者編:三章-02」
最高の戦果だと、夕呼は嘘偽り無く笑う。
唯一言。たったそれだけの言葉に――みちるは胸が熱くなるのを感じていた。
本日1123を以って終了した、新潟に於けるBETA掃討戦。公式の記録にみちる率いるA-01の名が出ることは無いが、それでも、その素晴らしき戦果の一端は、間違いなく彼女達が担っている。実際にヴァルキリーズが相手取ったBETA群は全体の三割程でしかないが、それでも、たかが一個中隊が対抗できる物量ではない。……それを、文字通りに“殲滅”させることができたのは、ひとえに『概念実証機』の性能のおかげである。そしてそれは、夕呼が最も望んだ結果だった。
圧倒的戦果。人類全部を愕然とさせ、驚喜させることの出来る戦果を。
それが夕呼の求めた結果であり、みちるが持ち帰った結果だ。更に言えばあの時同じ戦場に居た帝国軍211中隊の存在も、いずれプラス方向に働くだろう。正式には一切の支援出動を行っていないことになっている横浜基地であるから、彼らの報告は公にはされないだろう。――が、噂は必ず広まる。アレだけの凄まじさを目の当たりにして、そして口封じの類を一切受けていない彼らならば、否、衛士であれば誰だって、黙っておくことなんて出来ない。
そう、彼らがみちるの命令どおりに待機なんてしていられなかったように。――それは、興奮混じりに語られることだろう。
横浜基地には化け物が居る。
BETAの一切を駆逐する、蒼穹の戦乙女。死の十三。
想像を絶する戦闘機動。現実離れした超戦闘。
それが出来る機体。それが出来る新型兵器。
きっと、そんな噂が広がるだろう。もとよりこの新型OSを世界に発表するつもりの夕呼は、帝国軍の部隊に『概念実証機』の性能を見せ付けることができたことをこれ幸いと受け止めている。インパクトは強ければ強いほどいいのだ。それだけの価値がこのOSにはあると確信しているし、そしてそれは現実味を帯びた。故に、みちるを賞賛する。言葉は少ないが、そこに篭めた思いは相当なものであり――夕呼はそういう気持ちでみちるに笑った。聡い彼女ならばそれがわかるだろう。夕呼はゆったりと椅子に体重を預けた後、悠然と腕を組んだ。――瞬間、眼光が鋭いものへと変わる。
みちるは姿勢を正す。夕呼の発する雰囲気が変化したことを鋭敏に察知し、緩んでいた表情を引き締める。それを見た夕呼は無意識に頷いて、今後の方針というものを口にする。
簡単に言ってしまえば、『概念実証機』を表舞台に発表する段取りについて。そして、その後に控える大規模作戦の概略について……。
前者は現在訓練中の第207衛士訓練部隊の総戦技評価演習の合格を待ち、彼女たちが戦術機教習課程に進むことが第一。その後、折を見て装備性能評価演習――俗に言うトライアルを計画している。国連の各国に属する代表部隊に参加者を募ると同時、帝国軍への参加を依頼する。参加部隊については既に目星をつけているが、帝国軍の参加部隊は今回の一件を受けて、第211中隊に依頼してもいいだろう。どちらにせよ、参加するのはいずれも前線での激闘を潜り抜けた強豪部隊の古参ばかり。自身の腕を何よりも信頼し、実績のない新兵器など鼻であしらうような堅物揃い。
そんな古強者連中を訓練兵部隊が打ち破ったならばどうなるだろう? ……想像しただけでも血が滾る。まして、『概念実証機』の性能を現在において最も実感しているみちるからすれば、それは全くの不可能ではない。無論、これはあくまで第207衛士訓練部隊が順調にその訓練過程をこなした場合の話であるから、彼女たちが期待に応えられなかった場合は、A-01から一部隊を選出し、参加させることになっている。
特務部隊である彼女たちが参加するとなると様々な弊害が予想されるが、夕呼はその辺りについては特に言及しなかった。何も考えていないのではなく、むしろ、ヴァルキリーズの存在をアピールするのもいい、と考えているらしかった。真意は見えない。みちるは、夕呼が言わないのならば聞く必要はあるまいと断じて、説明の続きを聞く。
ともかく、トライアルに求められるのは『概念実証機』の凄まじさを見せ付けること。実戦証明主義の連中の粋がった鼻をへし折り、屈服させることだ。かつてまりもが明言したように、「このOSがあればBETAになんて負けはしない」という。そんな希望を抱かせ、確信させることが最大の目的だ。参加した部隊全部がそれを実感し、やってくる各国の代表者がそれを理解したならば、夕呼の地位は磐石なものとなるだろうし。
政治的取引の材料としても効果は高い。世代に関係なく、全ての戦術機に適用可能なこの新型OS。ならば、誰だって自国の機体を、自部隊の機体をそれに換装したいと願い出るのは当然だ。
夕呼は国連に所属しているが、魂まで国連軍人というわけではない。オルタネイティヴ計画を進める上で必要な手段として国連に籍を置いているだけであり、そこに政治的しがらみは存在しない。……だが、現実には各国の、主に米国の情動は眼を光らせておくべき懸案であるし、“国連”という集団に属している以上、そこに名を連ねる全ての国家を無視することも出来ないのも事実。だからこその交渉材料として、『概念実証機』はそちらでも役立ってくれる。
ドッペル1――鉄――という異分子がもたらしてくれた恩恵に、夕呼は我知らずほくそ笑む。“彼”が一体どのような因果を負ってここにやって来たのかは知らないが、“彼”はまだまだ使い道が多そうだ。現在のところは今以上の使い道というものを見出せてはいないが、AL4の根幹を支える『因果律量子論』の証明に、その存在は必ず役に立つはずだった。だからこそ飼い続けている。或いは、“彼”がここに来たその意味を解明できれば、それがAL4達成の引き金となるかもしれない……。
思考の海に埋没しそうになりながら、けれど夕呼は足を組み直すことでその思考を中断する。――ともかく、トライアルはそのような流れで行う。時期的には恐らく十二月上旬となるだろう。207部隊の教導官である神宮司まりもと調整する必要はあるだろうが、来週には総戦技評価演習が行われる予定だし、合格の後には戦術機操縦訓練の初期段階から『概念実証機』を搭載した吹雪、並びにシミュレータで実施するのだから、十分な期間だろう。
まりもはA-01部隊が新型OS搭載のシミュレータ訓練を開始したのと同時期に、自身も訓練を開始している。訓練兵である教え子達に『概念機動』を習得させるためには、まず自分が使いこなせる必要があると考えたからだ。単独の訓練ではあったが、流石は元教導隊というべきその操縦技術の卓絶さは凄まじく、みちるたちがその機動概念を習得する以前に、己のモノとしていたほどだ。その柔軟な思考と完成された資質は疑う余地なく、最高峰の衛士と評するに値する。夕呼からそれを聞いたみちるは恩師の凄まじさに絶句するが、矢張り素晴らしい先達だと改めて尊敬の念を抱いた。
そのまりもが手塩にかけて育てるのだろう訓練兵は五名。全員が武、茜たちの同期であり……そして、須らくその生い立ちに政治的な何某かが絡んでいる。みちるはその詳細を知っているわけではないが、いずれ自身の部下となることを前提とされている者たちである。大雑把な説明程度は夕呼から聞かされていた。
彼女たちの素質については心配する必要はないだろう。なにせこのA-01部隊に選抜されること、それ自体が一種の素養と言ってもいいからだ。みちるの先達をはじめ、彼女自身、そして現在生き残っている水月たち……その全員が類稀なる才覚と実力を秘め、現在も尚研鑽を積み重ねている。訓練を積めば誰しもが精強に熟達するというものではない。生まれ持っての才能――そういうものも、矢張り重要な素養だろう。
そしてA-01にはそれらの“才能”と呼ばれるものを強く秘めた者たちが選抜される…………という。実のところこの辺りは夕呼の一存であるので真偽のほどは定かではない。が、みちる自身がそう感じるように、例えば水月や美冴、梼子、武、晴子等は完全に自身の才能というものを開花させ、戦闘においてそれを余すところなく発揮していると思えるのだ。他のメンバーについても同様に、未だ完全に花開かせていないものの、それぞれに原石を眠らせている。
その秘めたる才能だけで量るならば、恐らくはこの五人――訓練兵でありながら、自分たちを優に超えるものがあるという。まだ戦術機訓練課程にすら進んでいないというのに、大層な評価である。まりもからの報告もまだ受けていないみちるには、いまいち想像がつかないし実感もわかないが、夕呼がそれほど言うのならば……そうなのだろうと頷く。なにせ、彼女の言に偽りはない。かつての武の件もそうだし、この新型OSの件もそうだ。まして夕呼はAL4の最高責任者にして、自身が忠誠を誓う上官だ。疑うことなど在り得ない。
みちるがトライアルについて了解の意を示すと、夕呼は満足そうに頷いて――そういえば、と手を打つ。
「まりもが、白銀を訓練した時のデータの提供を求めていてね。参考にしたい、って言ってたから渡しておいたわ」
「――は?」
「手塩にかけた教え子の教官振りを参考にしたいなんて、まりももいい趣味してるわねぇ~」
ばかな。
みちるは絶句する。夕呼からの説明によれば、件の訓練兵たちの戦術機操縦訓練は相当に過酷なものとなるらしい。要するに『概念実証機』、新型OSの凄まじさを世に知らしめるための布石の一つ、ということなのだが、つまるところそれは、新兵育成の最短時間の更新にある。
身体的素質が異常に高かった武に適用したその訓練内容は、彼の任官そのものが機密扱いだったために公式には記録されていない。ましてそれは新型OSなどその概念すら生まれていない頃の話なのだから、今回の件には該当すらしない。……それを、まりもが実践しようという。実際にその通りを行う、ということではないだろう。アレはあくまで武の戦術機適性「S」という規格外の才能があったが故に決行された荒業である。適性値が“高い”程度の訓練兵が耐えられる内容ではない。
強化装備自体にデータが蓄積され、フィードバックされていけばいずれは解消される問題だが、何の蓄積もない状態でイキナリに――シミュレータとはいえ――十時間以上も乗り続ければ、重度の加速度病に陥るのは明らかだ。……そのために幾らか手を加える必要は出てくるのだが……そこは優秀な教官として基地司令からも認められているまりもである。あくまで彼女は短期間での戦術機操縦訓練を成功させるための“参考”としてデータを欲したのであり、何の考えもなく前例をなぞろうとしたわけではない。
みちるとてそれは承知していたのだが……如何せん、尊敬し敬服する恩師に“参考”にされるとあれば、言葉に出来ない感情が巡るというものだ。面映いような、誇らしいような……矢張り、巧い表現が見つからない。唯一つ、ハッキリと言えること。……香月夕呼は間違いなく今のみちるの表情が見たくてそのことを告げたのだということだ。
「副司令、先程、トライアル後に控える大規模作戦と仰いましたが…………?」
夕呼の見せる表情に先程とは違う意味で言葉に出来ない感情を噛み締めながら、みちるは話を逸らそうとする。いや、逸らすというのは正しくない。このままからかわれるのでは話が進まないと論理的に判断し、次の議題へと移ることを促したのだ。――無論、言い訳だが。
「あら、つまんないわねぇ。もっと可愛げのある反応見せなさいよ」
「――ッ、副司令!?」
そしてそんな抵抗はあっさりと見破られていて、愉悦に唇を歪ませる夕呼の言葉に、つい声を荒げてしまうみちるだった。
夕呼はハイハイと苦笑しながら、一度椅子に深く腰掛ける。そうして、次の瞬間にはいたって理性的な科学者の貌がそこにあるというのだから、矢張りこの人物は底が知れない。みちるとて長い軍人生活の中で公私、或いは作戦時とオフの時の使い分け等は完璧に切り替えられているつもりだ。というよりも、それが出来なくては衛士は務まらない。だが、数多くの戦場を潜り抜けてきたみちるでさえ至れないような境地に、夕呼は存在している。オンとオフの切り替え――というよりも、“香月夕呼”と、“世界を救うもの”との切り替え……。つまり、この世界を背負うべき己への切り替え。
まるでそのための人格が別にあるとでも言うように、それはどこまでも徹底していて、余人の思惑の及ぶところではないだろう。……だが、それもまた紛れもなく香月夕呼その人であり、故に彼女は孤高の天才と謳われるのだろう。
「トライアルはなんとしても成功させる。……そして、その後に甲21号目標を落とすわ」
「……………………」
静かに告げられた内容に、けれどみちるは驚きを見せようとはしない。
それは、ある程度予想できていたことだ。恐らくは新型OSが完成したそのときから。否……みちるとまりもを呼び出し、武にドッペル1との戦闘を行わせたそのときから……夕呼はこれを考えていたに違いない。
衛士の常識を根底から覆す『概念機動』。それを実現させるための新型OS、『概念実証機』。――全ては、戦術機によるハイヴ攻略を果たすため。『G弾』を使用せず、純粋にニンゲンの手でBETAを駆逐するための。全てはそのための布石だった。
既に実戦証明は果たされ、その性能は疑うべくもない。残るはトライアルを成功させ、訓練兵でもベテラン衛士以上に戦うことが出来るという成果を叩き出すのみ。これが成ったならば、少なくとも参加した各国は新型OSを欲するだろう。
その上で、甲21号を落とす――――。
AL4の提唱者は香月夕呼であり、彼女は日本人だ。AL4が成功し、最大目標として掲げるBETAの駆逐が果たされたとき、世界での日本の地位は磐石となる。AL計画自体が国連の最重要機密であるために公にはされず、多くの人々はその事実を知らないが、しかし、帝国と夕呼との繋がりは決して薄くはない。互いに表立って手を結ぶことは在り得ないが、水面下、或いは“裏側”と呼ばれる側では、帝国はAL4の成功を切に願っている。
その事実と、帝国内に存在するハイヴ、という二点から、夕呼は対象を甲21号に設定した。
目標が甲21号であるならば、当然主力となるのは帝国軍だ。或いはその攻略作戦自体が帝国主導という形を採るのかもしれない。いずれにせよ、日本主導の作戦となる筋書きに違いはない。……つまり、AL5を唱える不穏当な輩の介入を出来る限り抑えた上での、作戦実行となる、ということだ。
みちるはAL5についてはその概要――しかもその上澄み程度しか知らされていない。が、『G弾』を是とする連中であるというなら、それだけで認めたくはなくなる。つまり、連中はある意味でみちるにとって「敵」対勢力なのである。…………BETAと同じく。同じ人類でありながら、哀しいことではあるが、それが彼女の中での真実だ。連中がAL4の、夕呼の邪魔をするというのなら、みちるは一切の容赦をしない。この手はとっくの昔に血に濡れている。――今更、人を殺めることを苦とは思えなかった。
そうならないように――米国を主体とするAL5派の動きを封殺するような――筋書きを進めるというのなら、矢張り、全力でそれを支える必要はある。結局それは新型OSの世界的認知であり、全人類への希望の光となることだろう。
なにはともあれ、トライアルの成功こそが鍵だ。話が一周したところで、夕呼がふっと表情を緩める。すると先程までの生真面目な科学者の貌はどこかに消え去り、いつもの、どこか人を小莫迦にしたような表情に戻る。こういう切り換えがキッチリ行えるからこそ、彼女は多くの人々の信頼を勝ち得ているのだろう。
「甲21号目標攻略について、今話せることはあまりないわ。……詳細については作戦が近づいた時に話すから、そろそろ上に戻りなさい?」
「――はい」
口端を吊り上げて笑う仕草は変わらず、妖艶な雰囲気を見せる。からかうように微笑する夕呼に見送られ、みちるは執務室を退出した。自動で施錠までされる扉を見ながら、みちるは小さく息を吐く。――しぜん、頬が緩む。
「……香月博士は、我々を信じてくださっている」
それは以前からわかっていたことだ。彼女は、みちるを自身の片腕として信頼してくれているし、同じように彼女の部下を、A-01という部隊を信頼してくれている。それは、彼女の部下としては最高の栄誉ではないだろうか。――誉れ、である。衛士として、軍人として、忠誠を誓う人物に認められ、正当な評価を授かり、信任を置かれる……そのいずれもを、夕呼は与えてくれていた。
だからこそなのだ、と。みちるは自身の手の平を見つめ、握る。
――だからこそ、その信頼に応えてみせる。その信頼を果たしてみせる。
トライアルについては心配ない。なにせ、訓練兵を鍛えるのは“あの”神宮司まりもなのだ。夕呼の親友でもある彼女が、その親友の信頼を裏切るような真似はしないだろう。故に、みちるに……みちるたちに求められることは唯一つ。
斃せ。
そして勝て。
シンプルでいて、果てしなく難儀だ。――だが、それを決して不可能ではないと支え、励ましてくれる可能性が在る。人類を救う一手。『概念実証機』。作戦に参加する全部隊に行き届き、慣熟を果たせたならば――それは戦術機でのハイヴ攻略を可能とする。
それを証明して見せること。それを実践して見せること。帝国に、米国に、世界に――この世全ての人々に。
人類は負けない。その希望の灯火を。その希望の輝きを。かつて横浜に上った黒い明星ではなく、正真正銘、人類に勝利の『明星』を。
「…………」
そして同時に。
みちるは今一度扉を見つめた。その向こうで、いつものようにコンピュータ端末へ向かっているのだろう夕呼を見据えるように。じっと、言葉なく見つめ続けた。
――そして同時に、これは、それでも時間稼ぎでしかない。
AL4の全てを知っているわけではない。全てを知らされているわけではない。……だが、これは妄想でもなんでもなく、事実だ。夕呼がそう明言したわけではないし、みちるの推測が混じっているのも否定はしない。だが、これが妄想だとするならば、それは九割九分九厘真実に近い妄想だろう。
『概念実証機』の生まれた経緯を顧みれば、それは一目瞭然だ。
ドッペル1――鉄、という名の精神異常者。その存在がもたらした『概念機動』。それを基にして生まれたのが件の新型OSである。……これは、夕呼自身がそう言っている。以前から理解していたことだ。……香月夕呼は今、追い詰められている。
彼女が追い詰められるほどに、AL4の達成は極めて困難であり、だからこそ、世界を救い得るのだということ。それを忘れさえしなければ、例え時間稼ぎのために生み出された新型OSだろうがなんだろうが、利用して、生き延びて、世界中に希望を与えて――いつか、その本来の成果を達成できるための礎となれたなら。みちるは、その生に満足して死ねる。否――生きて、生き延びて、いつか人類がBETAを駆逐するその日まで、戦い抜いてみせる。礎程度で満足できるわけがない。AL4の副産物として開発された『概念実証機』で“これ”ならば、AL4の本来の目的である何某かが完成した際には、いったい“どれ程”だというのか。
それを目の当たりにするまでは、死ねないし、死なせない。
新型OSは紛れもない希望だ。夕呼自身にとってはその場凌ぎの時間稼ぎにしかならないのだとしても、けれどそれは紛れもなく、戦場で戦う衛士たちにとっての希望である。その希望を掲げ、人類反抗の先駆けとなるのが自分たちA-01の使命というなら、それは全身全霊を以って成し遂げるのみ。
みちるは踵を返すと同時に、強く拳を握る。誰知れず、密やかに闘志を燃やす彼女は、時代が変わるその瞬間を確信して、叫び出したい衝動に駆られていた……。
===
「武、どこ行くの?」
掛けられた声に、足を止める。声の主はわかっていたのだが、武は彼女の方へゆっくりと振り返った。鈴のような張りのある声。表情がころころと変わって、感情豊かな、少し天邪鬼な素振りのある少女。白銀武にとって最愛の女性であり、鑑純夏と共に胸中を占める護りたいひと。
涼宮茜。いつものジャケット姿の彼女を見れば、アンダーシャツだけでうろついている自分は些か気候の変化に応じていないのかもしれない。益体なく考えて、武は苦笑した。夕方と言うには早いが、既に陽が傾き始めている。少女と同じ名前に染まる空をチラリと見上げて、笑顔で駆け寄ってくる茜を待つ。それほど距離も離れていなかったため、茜はすぐに武の隣に並び……二人はゆっくりと歩き始めた。向かう先は基地外部に通じる門。衛兵が二人、歩哨に立っている。
「ちょっと、な。上川少尉に会いに行くんだ」
「――上川、少尉……」
前を向いたまま答える武に、茜は小さく息を呑んだ。
その名前には聞き覚えがあった。かつて、任官したその日に武自身が聞かせてくれた、暴走の果ての惨劇……そのとき、武の命を救ってくれた先達の一人。確かに、武はその人物の名を零すように呟いていたのだ。
言葉を噤むような茜の反応に、ああそうか、と武はもう一度苦笑して、
「悪い。初めてだったな、茜は。…………この基地の外、桜が植えてあるだろ? そこには『明星作戦』で戦死した英霊達の魂が眠っている……って、これは水月さんからの受け売りだけどさ、」
夕呼直轄のA-01部隊に所属する衛士は、その特殊性故に例え戦場でその命を散らしたとしても、公式には“訓練中の事故死”としか記録されない。基地の片隅にある合同墓地に埋葬されるが、実際のところ、戦死した者の中で死体が帰還した例はほぼ皆無といっていい。死体がないのに、形式上、或いは処理上の手順として、墓地に穴が掘られ、そこに収まるべき者のない埋葬が執り行われるのだ。
それは……あまりにも、その者にとって報われず……なにより、残された者たちにとって堪らない。故に、肉体は滅んでも魂は死なない――戦死した英霊は皆、この桜の木に還ってくる――という謂れが、横浜基地内には根付いている。武自身、そして茜も、訓練兵の頃には聞かなかった話だ。この基地の歴史は浅いが、『明星作戦』から数えれば既に二年以上経過しているし、それ以前の横浜襲撃まで遡れば三年近い時が過ぎている。
訓練兵には耳にする機会がなくとも、実際に戦場に出てその命を懸けて戦い続ける軍人達にとっては、その話はある種の精神安定剤となっていたのではないだろうか。――例え戦場で肉片も残らず蒸発しようとも、BETAに噛み砕かれ引き千切られようとも、“還ってくることが出来る”、“還る場所が在る”――きっと、それは残された者のための慰めにしか過ぎないのだと知っていても、理解していても。それは縋るに値する。いいや違う。それは明確な拠り所の一つとなるだろう。自身を支える、標の一つとなるだろう。
そういう意味合いをあの桜は持っているのだと説明しながら、武と茜は門を出る。型どおりに部隊証を提示し、外出許可証を提出する。茜はちゃっかりと武と連名にして処理を済ませ――そして、その場所までやってきた。
秋も深まり、直に冬になろうかという季節。葉さえ散り落ちた桜はどこか物悲しさを漂わせる。かつて水月に連れられてやってきたその場所に、今、武は自らの意志で立っていた。傍らにいてくれる茜を嬉しく感じながら、武は寒々しささえ感じさせる幹に、最敬礼を向ける。
「……上川少尉、お久しぶりです」
上川志乃。そして、岡野亜季、篠山藍子、木野下中尉。――皆、武の命を救ってくれた恩人であり……未熟で愚かだった武の暴走が原因で散った命である。あの時の後悔は今でも拭えない。あの時の恐怖は今でも拭えない。己の暴走が引き起こした悲劇を、武は今でも顔に残る傷と共に背負っている。
……矢張り、この場所に立つと足が震える。今でこそ愚かだった自分を見つめ返すことが出来るが――それでも、志乃が墜落する光景、BETAに食い散らされる光景は網膜に焼き付いているし、両脚を強酸で溶かされた亜季の絶叫は鼓膜にこびり付いて離れない。藍子や木野下が一瞬にして塵と消えた瞬間の、氷のような恐怖が全身を包み込む。
だが。
武はここに後悔をしに来たわけではない。志乃たちに無様な姿を見せるためにやってきたわけではない。ここには報告に来たのだ。救われた命、戦い抜く意思、守護者としての誓い。そして――人類が到達した、一つの希望……。
「少尉に救われた命を、俺はどうにか無駄にせず生きています。少尉たちが俺を救ってくれたから、今の俺があるんです。俺は生きます。これからも、この先も、上川少尉が、岡野少尉が、篠山少尉が、木野下中尉が……命懸けで救ってくれたその行為を、絶対に地に落としたりはしません。決して無駄なんかじゃなかった、ってこと。俺は、生きて、生きて、証明し続けます」
たくさんの間違いを犯した。たくさん道を踏み外した。一度は奈落の底まで堕ちた外道。それでも這いずり、這い上がり、足掻いてきた。想いをくれる最愛の人。支え、導いてくれる先達、師。多くの人たちの助けの上に、武は立っている。こんなにも多くの人々に、武は助けられている。――武は、笑った。
桜の木に、その場所に眠る――志乃たちの魂が海を渡り大地を潜り、ここに宿っていると信じさせてくれる……桜に。
「俺は負けません。俺達は、絶対に負けません――」
訥々と、武は語りかける。『概念実証機』という新たな境地。夕呼の開発した新型OSの素晴らしさ。たった一個中隊で成し遂げた快挙。ただ一方的なまでの虐殺。BETAに脅かされるだけだった数ヶ月前までとは、まるで世界が違う。
戦える、のだ。人類は。
負けはしないのだ。――俺達は。
拳を握り、桜へと突き出す。ゆっくりと手の平を開いて、幹に触れる。たった数ヶ月で、自分はどれだけ成長できただろう。あの七月の悪夢のような戦場から、既に四ヶ月が過ぎた。己に降りかかった運命の暴虐さに人道を踏み外した八月から、既に三ヶ月が過ぎた。
あれから自分は、どれだけ前に進むことができただろう。ただ未熟で愚かだった自分は少しはマトモになれただろうか。茜を愛し、純夏を愛し、真那の信愛に己の往く道を晴々とした気持ちで見据えている自分は、あの頃と比べて、一体どれだけ――「生きて」いられるだろうか。重傷を負い、血まみれの自分を助け出してくれた彼女は、武にとって何にも換え難い弧月を手渡してくれた彼女は…………今の自分を見て、安心できているだろうか。
左手を、茜が握ってくれる。身を寄せて、頭を武の肩に預けて……そっと、頷いてくれる。
右手の平を通じて、志乃の笑顔が見えた気がした。――ああ、幻想でも構わない。武の頬を抉る傷痕に、一筋の涙が零れる。滴は顎を伝い、頬に触れてくる茜の指先に落ちて――――唇が、触れた。ほんの僅かの、柔らかな息吹。吸い込まれるように、彼女の瞳を見る。
気づけば、茜を抱き、――求めていた。
唇を、鼓動を、想いを。
決して彼女には伝えまいと決めていたはずの、愛情を。純夏を愛し、そして茜さえ愛している男の卑俗な傲慢を。…………それでも、茜は受け入れてくれた。胸の高鳴りを感じる。密着する体と身体が、熱を持って脈打っている。ただ抱き締めて唇を触れ合わせるだけの行為は、けれど、蕩けそうなくらいの幸福と安心をくれて――、
「おめーらいい加減にしろォオォオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
「「!!???????!!」」
がおーん、と咆えたのは真紀だった。すぐ耳元で突然咆えられた武と茜は抱き締めあったまま硬直し、驚愕の表情で真紀を見る。見れば、そこに居たのは真紀だけではなく。頬を染めてそっぽを向いている旭、さぁはやく続きをなさい、と期待に満ちた眼を向けている慶子。左手になにかのケースを持ったままにこやかに微笑んでいる梼子……要するに、一期上の先任が勢ぞろいしていた。
チョップチョップ!! 奇声を上げながら武と茜の間へ手刀による攻撃を繰り出してくる真紀に気圧されて、二人は慌てて離れる。その瞬間、名残惜しいと感じてしまったのか、互いに視線を交わす仕草を見た真紀が、更に咆える。その表情は真っ赤を通り越して茹っていた。あまりに常軌を逸している先達の奇態に戸惑いを見せる武に、くすくすと微笑みながら、梼子が説明してくれる。
「真紀さんは、ああ見えて純情なんですよ、白銀少尉」
にっこりと笑顔を見せた後、なんとも艶めかしく、そして恐ろしい流し目をくれる梼子。瞬間、背筋を悪寒が走ったのは言うまでもない。どうやらそれは茜も感じ取ったらしく、背後で息を呑む音が聞こえていた。――つまり、最も見られてはいけない瞬間を、多分かなり見られてはいけない人に目撃されたらしい。狼狽したままの思考回路がそう結論付けると同時に、武はその場に崩れ落ちた。ああ――美冴の満面の笑みが眼に浮かぶようだ。いや、顔を真っ赤にして怒り狂う水月か? 或いは晴子と薫のからかいの声。多恵の狂態、亮子の暴走……エトセトラエトセトラ。
想像するだけで恐ろしい。この後に待つ惨劇を想像して悲観に暮れる武の背後で、茜が乾いた声で笑っている。標的が武だけですまないことを、彼女もまたよく理解していた。
「ほら、真紀。いつまでも暴走してないで……」
「そ、そうですわよ。人の恋路を邪魔する無粋な輩は、馬に蹴られてなんとやらですわ」
落ち込む武を見て幾分冷静になったのか、旭が宥めるように真紀の肩を叩く。ヨコシマな感情を顕にしていた自身を恥じているのか、取り繕うような慶子の言葉はむなしいくらいに説得力がないが、そこをフォローするのが梼子の役目でもある。そうしてようやく落ち着きを取り戻したらしい真紀は両肩を上下させて激しい呼吸を繰り返している。ぜーはー、と冗談のような息切れを起こしているが……本当に大丈夫なのだろうか。
「ああびっくりした。ちゅーなんて初めて見たよ、うん」
「……いや、真顔でちゅーとか言われましても…………」
胸を撫で下ろしながらサッパリと言われてしまい、武は呆然とするしかない。これが本当に数秒前まで奇態を晒していた人物と同一なのかと疑いたくなるが、残念なことに彼女はやっぱり真紀であった。尊敬すべき先達……のはずなのだが、どうしてもこういう部分が尊敬したくない。そんな奇妙な感慨を武たちが抱いていることを、当人は全く気づいていないのだが。さて。
なんだかバツが悪くなって、武は茜共々この場を去ることにした。武自身の用は済んでいたし、なにより、梼子の手にしているケースの中身に思い至って、先任たちの邪魔をしたくないと考えたからだ。姿勢を正して四人へ敬礼を向ける。真面目に答礼してくれたのは梼子だけ。旭と慶子の二人は若干目が泳いでいたし、真紀はさっさと去れと言わんばかりのあしらい方だった。
そんな彼女たちにげんなりと肩を落として、とぼとぼと坂を上る。隣りを歩く茜は苦笑していた。――初めてのキスの感触も、感情も、なにもかもが吹っ飛んで。それでも、確かに通じ合えた。それをこそばゆいと感じ、温かくなる胸に涙が出そうなくらい喜びを感じていて……。
笑顔が零れた。茜も、武も。互いの顔を見やって、困ったように、可笑しいくらいに、笑って、声を上げて。
振り返れば梼子がヴァイオリンを奏でる音が響き、尊敬する先達達が、その場所に眠る英霊と楽しそうに会話に花咲かせていた。
「――茜、俺はお前を護る。絶対に、俺がお前を護るから」
「うん。私も、武を護るよ――」
それは果たして、あの時と同じ言葉か。茜は今朝の、初陣に身を硬くしていたそのときを思い出した。護ると言ってくれた武。死なせはしない、と。そう強く言ってくれた武。……愛している。心から。だから自分も彼を護る。護りたい、支えたい、傍に、居たい。そう願う。恋ではなく、愛執でもなく。
それは、ただ、彼と共に生きたいと願う――ささやかな、愛情。
互いに愛し合い通じ合った心と想いは、けれど、それ以上はなく。武は前を向いた。進むべき道を今再び見据えている。茜を愛している。彼女のことを護り抜く。触れた唇、手の平、身体。柔らかな彼女の温かさ。その感触を狂おしいほどに求めながら――それでも。「それでいいのだ」と。自身を縛る。それは戒めであり、それは背徳であり、それは欲望で……二人の女性を同時に愛している自分への、枷だ。
そして茜はその武の葛藤を知り、けれど、強く抱いてくれた彼の情動を知って。恍惚とした感情が芽生える。満たされている――そう信じられる。自分は選ばれることはないと知っていたのに、ただ傍に居られるだけでいいと納得していたのに。求めてしまったのは茜だ。そして、求めてくれたのは武。……けれど、もう、十分に満たされたから。
だから二人は。武は、茜は。
前を見据え、進むべき己の道を見据え。――ただ、与えられた勝利への鍵を。BETAへの反撃を。『概念実証機』の性能を更に引き出すために。人類に希望という名の輝きを与えるために。ただ、我武者羅に。
戦って。生きて。――勝ち取れ。奪い返せ。世界を。平和を。ニンゲンという名の、命の煌きを。
今は、そのときだ。
武は弧月の鞘を握り締める。最愛の幼馴染を奪い去ったBETA。彼女を護る力を欲して衛士を目指し、進むべき道を喪い、復讐に身を委ね、愚かしいまでに醜い生き様を晒して。それでも今、生きている。「生きて」いられる。純夏を護る。茜を護る。愛する彼女達を護り抜き、この身が滅ぶまで傍らに在り続ける。きっとその頃にはBETAを駆逐して世界に平和が戻っていて……そして、AL4は人類を救うのだ。
ああ、そうだ。だから、そのために戦おう。希望の光は既にこの手の中に在る。進むべき道はハッキリと目の前に開けている。
「俺は、もう――間違えない」
無意識に呟かれたその言葉を、茜は胸に刻んだ。ならば、自分はその彼の往く道を共に進もう。いつかその道を振り返った時、彼が己の為したことを過ちと疑う日が来るならば、胸を張ってこう言ってやるのだ。
「武は、間違ってなんていないよ――」
驚いたような武の表情。茜は小さく微笑むと、次の瞬間には――まるで、向日葵が咲いたような眩しい笑顔で、
===
2001年11月24日――
運び込まれた紫紺の機体を見上げて、御剣冥夜は複雑な葛藤に苛まれていた。――武御雷。帝国斯衛軍が駆る、日本という国を象徴する最強の戦術機。如何なる理由があろうと斯衛以外の何者かに与えられることなど在り得ない、真実、国に忠義を尽くし、選ばれた者のみが賜ることが出来る機体。
まして、紫とは。
斯衛軍には明確な格差が存在する。それは階級という軍属にとっての絶対の肩書きさえ翳ませ、絶大にして絶対の優劣。「色」という名の、格差社会がそこに在る。そもそも斯衛軍に選ばれる基準とは愛国心、忠誠心、品位・品格・品性を兼ね備えることは当然、他を圧倒する実力と、智慧、判断力等――全てを挙げ連ねることが困難なほどの、複雑極まるもので、斯衛の一員となるためにはそれほどの厳しい審査と試験を潜り抜け、名実共に認められなければならない。
家柄だけで選ばれるほど、ぬるい組織ではないということだ。……ただ、斯衛として成ったそのときに、自身の家名に与えられた「色」を賜り、そこに列記とした格差が生じる。結局は名のある家の出身の者が高い地位に就くことになるのだが……総じてそれらの人物は傑物であり、真実、“上に立つ者”としての風格を持ち備えている。傲岸なる権力者……名と権力に威を振るう下衆は、斯衛には存在しない。――否、存在を許されないのだ。
つまり、斯衛とは、将軍家縁の者を守護する最強にして最高峰の衛士が肩を並べる、帝国を象徴する素晴らしき栄誉と誇りを賜った集団を指す。同様に、彼らのためだけに開発、配備された武御雷も然り。
斯衛の階級として定められている青、黄、赤、白、黒の各色にはそれぞれ意味があり、武家に名を連ねていない民間の衛士では、どれ程に優秀であろうとも黒しか賜ることはない。だが、前述したように斯衛に選ばれるということは、ただそれだけで隔たりなく帝国を背負う最強の一人として認められたということであり……故に、帝国軍人にとっての彼らは強い憧れであると同時に、心強い勇気を与えてくれるのである。
格差は在れど、それが日本という国を象徴し、その頂点に立つ政威大将軍の威光を磐石とするならば、誰一人とて不平を抱くものはいない。――ために、そう。
紫とは、本来、将軍を指す貴色である。日本国内でただ一人に許された高貴なる「色」。ならば紫紺の武御雷とは、即ち、政威大将軍が駆るべき機体であり……この世に唯一機の、常人であるならば触れることすら憚られる代物であろう。
それが、今、搬入され……冥夜が属する207B分隊に与えられた練習機吹雪に並んで固定されていた。機体に取り付いて作業を進めていたのは帝国からやってきた整備士達だろう。冥夜の守護を拝命し、この基地に駐留する月詠真那の警護小隊付の整備士。遠巻きに彼らの作業風景を眺めていた国連軍の整備士の一人が、興味本位で武御雷に近づこうとする。が、その青年はすぐさま班長に殴り飛ばされ、その場は解散となった。まるで腫れ物を扱う風である。
一部始終を見やった冥夜だったが……彼女はあの整備士の気持ちもよく理解できるつもりだった。――なにせ、目立つ。嫌味ではなく、それは日本人であるならば絶対に眼を惹いてやまない機体だからだ。
現に同期の珠瀬壬姫などは歓声に近い声を上げて既にタラップを降りて行ってしまった。自らの思考に没していたために気づくのが遅れ、呼び止めることが間に合わなかった。
楽しそうな壬姫の声が響く。装甲に自身の顔が映りこむほどに磨かれた機体を、ぺたぺたと触る少女を見て、同期の面々が微笑ましく見つめていた。――そのとき、
パシン!
乾いた音が格納庫に響く。壬姫を呼び止めようと中途半端に伸ばされた手が、苦々しく握り締められる。冥夜同様にその瞬間を目撃したほかの同期たちも瞠目している。ギリッ、と爪が食い込むほどに握られた拳をそのままに、冥夜はタラップを駆け下り、呆然と尻餅をつく壬姫の元へと向かった。
「貴様のような者が触れて許されるものではないぞ!」
「これは冥夜様だけのためだけに存在するもの!」
「この程度で許されることを幸福と思いなさい!」
突き飛ばされた衝撃と、目の前に並び立つ人物の眼光に竦みきって動けない壬姫を助けようと、207B分隊の全員が詰め寄ったが……そこに立つ彼女たちの素性に気づいた鎧衣美琴が、喘ぐように言葉を紡いだ。
――帝国斯衛軍……。
その言葉は愕然と響き、同時に、えもいわれぬ緊張を孕ませた。
「珠瀬!」
榊千鶴と彩峰慧に助け起こされた壬姫の傍に、冥夜が寄る。千鶴が安否を問うが、恐怖を滲ませたままの少女は怯えたように視線を彷徨わせていた。それを見て、冥夜は更に拳を強く握る。…………なぜ、どうして。そんな葛藤が、ギリギリと食い込む爪の痛みに重なって……。
「月詠……中尉、一体どういうつもりですか……」
滾るような感情を押さえ込み、冥夜は壬姫を打ち据えて突き飛ばした人物――真那を見据える。紅の装束を纏い、碧緑の長髪を腰元まで伸ばした美麗は、先程までの厳しい顔つきを哀惜に歪め、嘆くように応える。――私どもにそのようなお言葉遣い、おやめください。その言葉に込められた、明らかに壬姫に対するそれとは異なる感情を感じ取った千鶴たちは、ただ黙って成り行きを見つめるしかなかった。
わかっていたことだ。――御剣冥夜は、将軍家縁の者。彼女にはいつだってその守護を命ぜられた斯衛の警護小隊が付き従い、訓練の最中も陰ながら見守っていた。まして、彼女の相貌を見れば……詮索してはいけない事情でもあるのではないか、と。容易に想像できてしまう。そして今回、極め付けが――紫の武御雷だ。
いや、今はそれはどうでもいい。……大事なのは、壬姫が無事であることだ。真那については、冥夜に任せるほかない。なにせ相手は斯衛で、しかも上官である。本来ならば訓練兵に過ぎない自分たちが口ごたえしていい相手ではない。それは真那の背後に控える白い装束を纏った三名の少尉然り、だ。彼女たちは冥夜に忠誠を誓い、冥夜の命を護るためだけを至上とする、誇り高き斯衛軍衛士。彼女たちの心情を思えば、確かに壬姫は迂闊だったのだろうし、許されざる大罪、ということなのだろう。
問い質す冥夜に、真那は非礼を詫び、型どおりの謝罪を壬姫へ述べるが……本当に、信じられないくらい……彼女たちの目に映る真那は、“白銀武の剣術の師匠”の姿とはかけ離れて見えた。
それが、冥夜には辛い。否、彼女だけではない。武と真那の美しくも微笑ましい師弟関係を目にしたことのある全員が、あまりにも冷徹に過ぎる彼女の姿に――これが“斯衛”の本来あるべき姿なのか――と。恐怖に似た納得を得る。それは、悔しいくらいに悲しい現実だった。同じ日本人でありながら……けれど、斯衛は斯衛としての役割こそが何よりも優先し、至上であるがために。
ならばこそ、武はイレギュラーだったのだと。ようやくにして千鶴たちは思い知っていた。詳しいことは何も知らない自分たちだったが、それでも、少なくとも、武と彼女の間にはこんなにも冷徹で寒々しい断絶はなかったように思う。
……冥夜のために武御雷を用意したという真那を、冥夜は不要の一言で切り捨てる。だが、それでも真那は退かない。
「この武御雷は冥夜様の御為にあるのです。冥夜様のお傍におくよう命ぜられています。……どなた様のお心遣いかは冥夜様が一番ご存知のはず……。どうか、そのお心遣い、無碍になさいませぬよう」
諭すような真那の言葉に、感情を顕にしていた冥夜が、まるで苦虫を噛み潰したような表情をする。不承不承、「勝手にしろ」と言い捨てた冥夜へ、真那と部下の三名は謝辞を述べ、丁寧に頭を下げた。去ってゆく真那たちを見つめる皆の表情は重い……。壬姫は今にも泣きそうな顔をして冥夜に謝罪し、冥夜は――戦友であり、仲間である彼女に謝られることを悲しいと感じていた。
総合戦闘技術評価演習を潜り抜け、見事合格を果たせたその一端を、間違いなく壬姫は担っていた。スナイパーとしてずば抜けた才能と実力を持つ彼女の狙撃があればこそ、演習の最終局面は比較的容易に切り抜けることが出来た。壬姫だけではない。慧の巧みなクライミングは深い渓流を渡るために役立ったし、美琴のサバイバル能力は演習中いかんなく発揮されていた。千鶴の明晰な指揮能力と、それを支えた冥夜。……一人でも欠けていたなら、お互いの心が僅かでもすれ違っていたなら、決して合格できていなかっただろう。
そんな困難を共に潜り抜け、今このときを迎えられているというのに……向けられた壬姫の謝罪は、ひどく冥夜を揺さぶる。同様に、居た堪れないという表情を見せる彼女達を見て、無言のまま、冥夜は聳え立つ武御雷を見上げるしかなかった。
白銀武という人物は、冥夜にとって大切な友人と思える存在だった。彼と、彼に焦がれる涼宮茜。冥夜が国連軍に入隊してすぐに、真那を従えている姿を目撃された。……そのときを、思い出す。
その時、彼は、彼女は。本当に、冥夜にとって嬉しい言葉をくれたのだ。日本人ならば誰だって、将軍家縁の者と知れば冥夜から距離を置く。畏れ多い、そんな感情が先に立って、本当の意味で心を許せる人、という存在は、実のところ数えるしかいなかった。そんな冥夜に、武と茜は言ってくれたのだ。“仲間”――と。冥夜が何者だろうと関係ない。そうやってハッキリと言ってくれた武は誰よりもはやく単身で任官し、特殊任務に従事している。そして、茜もまた、A分隊と共に任官を果たし、前線で戦っているのだろう。
彼らを思えば、勇気がわく。追いついてみせる、という気概が漲る。だからこそ、冥夜は今一度壬姫を見つめて、皆を見つめて、
「私は、そなたたちに出逢えて、幸福だと思う」
「――な、なによイキナリ……っ」
微笑みさえ浮かべて言い切った冥夜に、千鶴が頬を染めて狼狽する。いや、千鶴だけではない。その微笑に見惚れた全員が、驚きながらも頬を染めている。
「な、なんですかー? 突然……」
「冥夜さん、急すぎるよ~っ」
「御剣、恥ずかしいね……」
思い切り照れながらも、それぞれ微笑ましい反応をくれる。それらを全部受け止めて、冥夜はもう一度笑った。その笑顔には、将軍家縁者としての自分も、自分と武以外には決して斯衛以外の己を表そうとしない真那への葛藤も、紫の武御雷に託されたかの人の想いも……そして、大切で尊敬する“仲間”たちへの友情も。
全てが、込められていた。――だから、私は突き進むのだ。
己の選んだ道を。例えそれがあの方の想いを裏切ることになろうと、それでも、影となり微力ながらも支えとなれるように。冥夜は、自らが進むべき道を突き進む。言葉にはしないその意志を感じ取ったのか、仲間達が微笑んでくれる。先程までの居た堪れない空気はどこかへ消し飛んで、今ここにあるのは、苦難を乗り越え遂にここまでやってきた自分たちを、互いに誇らしく思う気持ちだけだ。
微笑みを交し合う冥夜たちを見て、真那はほっと胸を撫で下ろすかのような表情を浮かべた。冥夜のもとから去り、格納庫の角を曲がったところでこっそりと窺うようにしていたのだが、どうやら杞憂に済んだらしい。
(冥夜様は、素晴らしいお仲間に恵まれた……)
それは、本心からの想いである。つい先程こそ冷酷で厳格な態度をとったが、別に真那は壬姫を嫌っているわけでもなければ、冥夜の同期たちを蔑んでいるわけでもない。優秀な訓練兵として認めているし、彼女たちが冥夜の心の支えとなってくれていることを切に感じ取り、感謝さえしているのだ。――恐らく、それを伝えることはないだろうが。
だが、斯衛という立場上、否、それに依らずとも、真那はあの紫の武御雷を大切に想っていて、そこに込められたかの御方の御心を想えば、冥夜以外の何者かが触れることなどは断じて赦せないのも事実。無防備にも機体に触れた壬姫への対応を、真那は恥じていないし、後悔もしていない。……このあたりの感情が矛盾しているのではないかと自分でも思うが、しかし、それもまた、本心である。
奇妙な感覚だ、と。真那は眼を閉じて反芻する。
そもそも、当初は冥夜が国連軍に入隊することさえ反対だった。――いや、それは今も尚、なのだが。まして、下賤の者共と一緒に生活し、訓練に明け暮れるなどと。
冥夜自身がそのような苦労をせずとも、彼女を護るために自分たちがいるのだ、という想いが強かったし、真那自身、冥夜を守護することこそが至上であったために、それはある種の裏切りに思えた。――それほどに自分たちは冥夜の守護役として不足なのか。……そういう悔しさがあったことは間違いない。だが、そうではないのだ。国を護りたいという冥夜の想いはよくわかるし、民を愛し、将軍を影ながら支える一つの力となれればよいと願う彼女の決意、そういったものを真那は知っていた。冥夜から向けられる信頼と信愛の全ては、胸が一杯になるくらいの喜びと共に満ちている。
冥夜の想いを理解し、彼女の決意を理解し……けれど、心のどこか片隅で、それでも、彼女にはそのようなことに手を染めて欲しくないと願う身勝手な自分がいる。それはきっと、幼少の頃より冥夜の傍仕えをしてきた自らのエゴであろうし、願望なのだろう。
だからこそ、壬姫や千鶴たち冥夜の同期兵を「よい仲間」だと理解、認識しながらに……冥夜と同列に扱うなど言語道断、という思考が働いてしまう。それはきっと、斯衛である以上一生ついて回る性のようなものだろう。冥夜こそが全て。そして、勅命を下す政威大将軍こそが全て…………。故に、あの紫紺の武御雷に込められたあの方の願いは、必ず、届けて見せると誓っていたのだ。
――そして、冥夜はそれを受け取ってくれた。不承不承ながら、ではあるが。せめてこの場所に、冥夜の傍らに置いておくことを是、と頷いてくれたのだ。……よかった、という安堵があった。同時、喜ばしいことだと歓喜が沸き起こる。少なくとも、冥夜はあの御方の御心を理解し、受け入れてくれたのだから。……決して相見えることの叶わぬ二人の主の愛情を感じて、真那はほう、と息を吐く。
これ以上ここに居る必要はない。むしろ、ここに残り続けてまた彼女たちの目に映れば、前途多望な訓練兵に要らぬストレスを与えかねない。……その程度でへこたれるような脆い精神力しか持ち合わせていないならば早々にこの基地から立ち去るべきだろうが、あくまで真那は彼女たちにとって部外者である。食客としての立場を通すならば、あまり基地内を歩き回るものでもない。
冥夜が紫紺の武御雷を受け取った。――ならば、このたびの役目は終了。後は常と同様に、影ながら冥夜の守護の任務に就く。
「……真那様、」
「なにか」
冥夜たちを窺っていた場所から移動しようと踵を返すのと同時、部下の神代巽が控えめに呼び掛ける。恐らくタイミングを計っていたのだろう巽に応えると、幼さの残る少女は無言のまま背後を振り返り、視線でそちらを示した。なにごとかといぶかしんでそこを見れば、国連軍の黒い軍服に身を包んだ衛士が二人、並び立っている。小豆色をした髪の女性大尉に……顔の左に傷を負った青年。
伊隅みちると、白銀武。特務部隊A-01――夕呼直轄の、いわば私兵とでも言うべき部隊に属する部隊長と一兵卒。それが並んでいることも奇妙なら、わざわざ格納庫までやってきて、しかも真那を名指しで尋ねてくるなどもってのほか。奇妙以前に不審すぎる。元々が国連によい印象を抱いていない真那にとって、彼女の……そして、彼の来訪は予期せぬことであると同時に不吉極まりないものだった。
「月詠中尉、突然やってきた非礼を許して欲しい」
微笑と共にそう切り出したみちるに、真那は無言で返す。相当に嫌われたものだな、と。ちっとも困っていない様子で苦笑するみちるに、真那は国連軍衛士の中で唯一尊敬の念を抱いている神宮司まりもに近い感覚を覚えていた。醸し出す雰囲気、或いは身に纏う空気……そういうものが、“似ている”。それとはまた違う意味で繋がりのある武を見れば、無言のまま、微塵も表情を崩さぬまま、腰に弧月を提げて、直立不動を突き通している。どうやら今回の話に彼が口を挟むことはないようだった。……それは当然だ。わざわざ大尉階級の、しかも中隊長が直々に出張っているのだ。そこに少尉風情が立ち回る余地はあるまい。
では、そんな少尉を引き連れているのは何故か。――決まっている、真那と武が師弟関係にあるからだ。それも、斯衛という特殊な立場にいる真那が、明らかに私情の部分で弟子とした彼である。みちるの目的がなんなのか判然としないが、真那を揺さぶるには丁度よい材料ということだろう。……無論、武がそこにいる程度で揺らぐほど真那は落ちぶれてはいないし、斯衛としての立場を忘れることもない。既に武は己の道を見出し、自らの足で歩き始めている。師としての役目は当に終えた。故に、そこに立つのは国連軍少尉にして特務部隊の衛士。ただそれだけだ。
「……大尉殿が私に斯様な用件があるのか、お話願えますか」
「ああ、すまない。勿体つけるつもりはなかった。――月詠中尉、香月博士がお呼びだ。ついて来い」
「「「――ッ!?」」」
真那が探るような視線を向けて問えば、みちるは涼しげに笑った後、一瞬で眼光を鋭くし、断固たる“命令”を発した。それは階級だけを見るならば確かに理にかなっている、或いは立場に沿っている……そう言っていいものだろう。だが、特務部隊所属とはいえみちるは国連軍、そして真那は帝国斯衛軍……あまりにも立場を違え過ぎている。しかも真那は独立警護小隊としてこの横浜基地に駐留している。つまり、完全に独立した、言うなれば一個の軍隊として存在しているのだ。極端な例を挙げるならば、例え横浜基地司令の命令であろうと聞く必要はない、ということだ。
無論、真那とて自身の立場は理解している。彼女たちにとっては冥夜の守護こそが最優先事項だが、それ以外の全てを蔑ろにして、横浜基地内での立場を危うくするわけには行かない。食客として衣食住を当基地に委ねていることを思えば――いや、それ以前に軍人としての立場を鑑みれば、矢張り上位階級に在るものの言は、話くらいは聞いてやるという譲歩が必要になる。
真那の背後に控える部下の三人が不穏当な気配を放ち出すが、真那は言葉なくそれらを制する。真正面からみちるを見据え、暫し睨み合った。その間、微塵たりとも視線を揺るがせなかったみちるは、ただそれだけで凄まじい実力を秘めた衛士なのだと理解できる。戦術機の操縦技能で劣っているとは思わないが、軍人として、人としての格の違いというものを認めざるを得ない。みちるの瞳には、それほどの固い決意が込められていた。
「…………了解した。――お前達は残り、冥夜様の守護を、」
睨み合うこと数秒、眼を閉じて首肯する真那に、巽たちが瞠目する。何事か口走ろうとした彼女たちに有無を言わせず命を与えると、真那は目を開き――ちらりと武を見てから、みちるに向き直る。瞬間、ニヤリと口端を吊り上げたみちる。
「…………」
「…………」
どうも無意識に武へと向けた視線を、しっかりと見られていたらしい。したり顔でニヤニヤ笑うみちるに内心で炎を揺らめかせながら、けれど表面には一切出さず、真那は立ち振る舞う。……そこでどうして武が震え出すのかがわからない。わからないが、とりあえずこのなんともいえない不快感の捌け口は彼に求めることとしよう。
歩き出したみちるに付き従う形で真那も歩を進め……隣りを歩く武を視線でいたぶる。その度に言葉には出さずうろたえる武の反応は愉快だったし、矢張りそれを気取っているみちるには沸々とした感情が起こる。……まるで、一年前に出逢ったあの女性衛士のようだ。あの衛士とは全然異なるタイプだが、みちるのどこか真那をからかうような素振りは気に入らない。故に、ますます武への風当たりは強くなり…………。
国連軍大尉と斯衛軍中尉の橋渡しとなるべく抜擢された武は、結局一言も発することなく、けれど誰よりも憔悴した様子でブリーフィングルームまでやってきた。
室内には白衣を纏った夕呼、秘書官のピアティフ中尉、A-01副隊長の水月が居た。みちるが一歩進み出て、真那を連れてきた旨を報告すると、夕呼が大儀そうに頷く。真那一人を残して、みちると武は夕呼たちの側へと移動した。広い室内に一人、真那は孤立したような錯覚に陥る。いや、事実、孤立しているのだろう。黒い軍服に囲われた赤い斯衛の制服が浮き上がっている。これだけの人数が同時に牙を剥いたとなれば、流石の真那でも手を焼く。初見で計り知れるほどみちるは容易な相手ではなさそうだったし、見覚えのあるあの女性衛士は以前より遥かに実力を身に付けているように思える。……弟子である武には一対一で負けてやるつもりはないが、これら三名を同時に相手取り、生き残れる可能性は極僅かなものだった。
……勿論、一体何が目的で連れてこられたのかさえまだ耳にしていないのだが、いざという時に備えておくことは決して悪いことではない。たかがコンマ数秒の思考など余人には真実瞬く間のことでしかないし、その間に真那が成すべきことは全身の筋肉を緩やかに待機させ、いつでも抜刀できるように備えるのみ。部屋の入口は真那のすぐ背後にあるし、全員との距離を一定に開いている。咄嗟の時には逃げればよい。そうできるだけの段取りは最初から出来上がっていた。
「そんなに警戒しなくてもいいわよ。それとも、この程度で弱気になったのかしら? 斯衛が聞いて呆れるわねぇ~」
「……、」
白々しいまでの揶揄が、夕呼の口から零れる。真那のみならず斯衛全てを侮辱するかのような発言に――室内の空気が、間違いなく凍りついた。それが夕呼なりのスキンシップの一種なのだと知っているみちるたちだが、流石に今回は話が違う。なにせ相手は中尉とはいえ……斯衛である。しかも「赤」だ。地位的なもので言えば間違いなく夕呼がトップに立っているが、彼女の背後に控える帝国の名家の威光を思えば、冗談では済まされない可能性もある。
無論、真那が家の威光を振りかざすようなことはないし、夕呼とて斯衛の衛士がその程度の器でないことは承知している。が、この場合、そういった真那のプライドと信条を理解している上で、敢えてそのように揶揄するのだから性質が悪い。ピアティフこそ涼しい顔で立っているが、残る三名は内心気が気でなかった。……特に、見るからに怯えた表情を夕呼へ向ける武などは可哀想なくらいだ。真那のことを多少は見知っている程度のみちると水月はそれほどではなかったが、明らかな怒気を向けられている武にとって、ここは“針のむしろ”も同然だった。
寒々しい空気が満ちた室内で、真那は苛立ちを隠しもせずに姿勢を正す。みちるたちに対する警戒を解いた状態で、けれど一層の気を巡らせている。剣呑な視線を夕呼へ向けて、これ以上の無駄話は一切不要、と。無言のままに圧する。
実際、どうしてここに真那が呼ばれる理由があるのか、彼女自身予想がついていない。しかも特務部隊であり、夕呼の懐刀であるはずのA-01部隊の衛士が三名も並んでいるのだ。真那を引っ張り出すためだけとは思えないし、そもそも、そんな必要はない。夕呼の権限を持ってすれば、真那一人呼び出す程度のことは容易いのである。斯衛ではあるが、真那がこの基地内に駐留できているのは、ひとえに横浜基地司令の許可が下されているからだ。そして――実質的に、その許可を下したのは夕呼と見ていい。
パウル・ラダビノッドという人物が傀儡というわけではない。現役時代にはその名を国連中に響かせた英傑の一人である。真那とてその名が示す戦果を知らぬわけではないし、その彼が無能であるはずがない。……だが、ことこの横浜基地、そして香月夕呼という人物に限定すれば、矢張り当基地の実権を握っているのは夕呼であり、ラダビノッド司令はその監視役、という位置づけが成り立ってしまう。勿論、それが全てではない。あくまで、「AL4」という機密中の機密の計画に関わってくる事項において、という意味だ。
真那が忠誠を誓う御剣冥夜がこの計画に関わりを持つ可能性がどの程度なのかは知らないが、決して無関係ではないだろう。それらも含めて、真那が夕呼の動きを無視することなど在り得ない。ゆえに、武をダシに真那を呼び出すなどという手間をかけずとも、もとより断ることなど出来ない、というのが正しい。……もっとも、これは全て真那の想像であるから、目の前の夕呼には全然別の考えがあってのことなのかもしれない。そしてその考えに則るならば、この場所にA-01部隊の特務衛士が三人もいることは不思議でもなんでもない、ということなのだろうか。無論、武も含めて。
「ハイハイ、そんなに睨まないでよ。そんなんじゃ年取った時に眉間に皺が残るわよ。……ま、いい加減冗談にも飽きたしね。本題と行きましょう」
「……」
ようやく、ということらしい。本題と口にした瞬間に、夕呼の纏う雰囲気が激変する。先程までの人を小莫迦にしたような態度はどこぞへ消え、そこに立っているのは既に別人。人類の未来を担う、天才の姿が在った。知らず、真那は息を呑む。気圧されている、というわけではないが……これまでの人生の中で、このように力強い瞳を見たのは三度目だった。
一人は、帝国の頂点に立ち、心の底から民を愛し、民を想い、そして、日本の未来を担う……かの御方。
一人は、影を生き、影に死ぬことを義務付けられ、それを己の進むべき道としてあるがままに受け入れた、そうしながらに、心の底から国を愛し、民を愛する……御剣冥夜。
真那が全身全霊を懸けて忠誠を誓う彼女たちと同様の光を宿す夕呼。まさか、と驚愕すると同時に、なるほど、と納得させられてしまう。
――極東の女狐とは名ばかり。人類の未来を切り拓く、ただそのために全てを懸ける魔性の天才は、どこまでもニンゲンであり……人々を、愛しているのだ。
「……用件を、お聞きしましょう」
だが、それで全てを受け入れられるかというとそうではない。信頼が置けるかというと、別だ……。あのような瞳を持つものが冥夜や武を無体に扱うことはないだろうが、けれど、真那は夕呼という人物を知らない。いや、ある程度は“見えた”。――それは、覚悟あるものの、燃えるような希望と、冷酷なまでの現実。己の目的のためには手段を選ばず、その残虐性も、非道さもものともしない。積み重ねられる犠牲は全て必要なればこそと割り切り受け入れ、累々と続く死の川を血で染め上げようとも、決して立ち止まることはない。
恐らくそれは、「英雄」と呼ばれる者の道だろう。
そして……それ故に孤高となる、天才の孤独だ。
「今日ここに中尉にお越しいただいたのはほかでもありませんわ。中尉率いる斯衛軍第19独立警護小隊の機体――武御雷に、我々が開発した新型OS、『XM3』を搭載する許可を頂きたいのです」
「は……?」
切り出された夕呼の言葉に、真那は眼を見開く。今、この人物はなんと言ったのか。――新型OS。エクセムスリー?
なんだ、それは。というのが一番だった。次に理解できたのは、それが戦術機のOSを指しているらしいということと…………風の噂で聞いた、BETA新潟上陸の戦果。確かあれは第五師団211中隊、だったか。
――死の十三(デス・ヴァルキリーズ)――
たった一個中隊強で、怒涛の如く群がるBETAを文字通り虐殺し蹂躙し、殲滅せしめたという――それは、そんな噂だった。公式記録には一切記述されていないその部隊。蒼の不知火、“ヴァルキリー”の部隊表示とともに現れた、戦神。戦鬼。
その部隊とは、まさか……今目の前にいる「彼女達」、なのだろうか。従来の戦術機とかけ離れた戦闘機動をものともせず、空を駆け戦場を血に染める常識の埒外。中でも眼を惹いたのは、「地上を薙ぎ払う暴風の如き二刀使い」だったとか。
無言のまま、真那は武を見据える。――まさか、な。だが、その怪訝さを、夕呼はしっかりと捉えていたし、真那とて隠そうともしなかった。しばし思案する風に装うと、切れ長の瞳をスゥッと細めて、
「その新型OS……我が愛機武御雷に相応しいかどうか、試させてもらおう」
「無論そのつもりですわ。――それじゃピアティフ、早速準備して頂戴」
その瞳は剣呑な雰囲気を孕んだまま。けれど、真那は半ば確信していた。例の神懸かりな戦闘を果たしたという部隊は恐らくA-01。そして、211中隊の彼らが実しやかに語ったその“秘密兵器”とやらの性能は、事実ならば、途轍もない代物だろう。だが、実際眼にしても居ないものの性能など、たとえ数値上の成果を見せられたところで、心底から信頼するには至らない。何事も、自らが経験してこそだろう。与えられた情報を鵜呑みにして戦場で死んでは目も当てられない。
そして夕呼もそんな実践主義の風潮を理解しているのだろう。……なるほど、そのためのA-01部隊ということらしい。まさか隊長のみちるとは戦わないだろうが、実力的に言って拮抗すると予想される水月辺りが対戦相手として抜擢されたということか。秘書官に指示を下す夕呼を眺めながら、真那は思考を纏める。既にシミュレータの準備は整っているらしく、後は搭乗する真那たちが強化装備に着替えればすぐにでも開始できる。
「速瀬、遠慮することはないわ。思う存分暴れなさい」
「――は! 『XM3』の性能、思い知らせてやります!!」
「…………ッ!?」
こいつ、本人を目の前にしてよく言う……ッ――! ギリッ、と。真那は誰が見ても明らかな程に怒気を剥き出しにした。いい度胸だ。そんな言葉が聞こえてきそうなほど、彼女から発せられる闘気は尋常ではない。まるでその背後に赤い竜が火焔とともに天に昇っているかのような錯覚を覚えてしまう。
そして……必要以上の挑発を向けた水月も同様に。不敵に笑うその背後からは青白い炎の揺らめきを背負った蒼き虎が獰猛な牙を剥いている。
「あ、の……水月さん? つ、月詠中尉……」
「「黙れ――、武」」
「すいませんでしたぁ!!!!」
竜虎激突する幻想を垣間見た武が恐る恐る仲裁に入ろうとすれば、寸分違わず一喝されてしまう。……実はこの二人、物凄く息が合うんじゃないだろうか。向けられた恐怖にめそめそと泣き崩れる武に、みちるが容赦なく「鬱陶しい!」と蹴りを入れる。
そして、舞台は整った。
訓練兵五名には新型OS搭載のシミュレータ、並びに練習機。
横浜基地に駐留する最強部隊の一つである斯衛にはその新型OSの真価を。
――全ては、人類がBETAに反撃するその日のために。甲21号作戦。そのための布石は、一つひとつ、着実に打たれていく……。