『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「守護者編:三章-03」
XM3――横浜基地副司令にして世界最高峰の天才、香月夕呼が生み出した戦術機の新型OS。
とはいうが、実際のところ、その誕生の経緯は謎に包まれている。単純にまりもの階級が低く、斯様な機密情報に触れる機会が極端に少ないという理由もあるだろうが、夕呼の数少ない友人の一人だという自覚を持っているまりもにしてみれば、それは矢張り不可解なものだった。
ドッペル1、という衛士。彼なのか彼女なのか……それさえ知らされていないまりもだが、あの異常とも言うべき戦闘機動は未だに脳裏に焼きついて離れない。恐らくも何も、XM3は“あの”機動が元となって生み出されたに違いない。つまり、新型OS自体は夕呼が開発したのだろうが、その素案・発想ともいうべきものは、かの天才衛士が担当したのだろう。
夕呼は衛士ではない。如何に天才とはいえ、一度も戦術機に搭乗したことのないような“素人”に、このようなOSを生み出せる道理がない。……道理が通用しないからこその天才、という見方もあるだろうが――確かに夕呼ならば片手間で成してしまいそうではあるが――それでも、夕呼単独でこのOS開発はありえなかっただろう、と。まりもはそう断じることが出来る。
新型OS、XM3を蔑ろにしようというわけではない。夕呼がこのOSを開発する切欠は確かにドッペル1という存在が担っていたのだろうが、それを実行に移す直截的な要因は、まりもの発言にあるのだろう。自身の言葉が及ぼした影響というものを、彼女は正しく、そして客観的に理解していた。階級こそ軍曹だが、夕呼はそれに関係なく、まりもを必要としてくれている。決して態度に表さないけれど、それでも彼女はまりもを「親友」だと感じてくれているのだろう……。きっと、これは自惚れではない。
なぜならば、“神宮司まりも”もまた、“香月夕呼”を親友だと想っているのだから。
故に、夕呼が開発したこのOSが一体どういう経緯で生まれたのかは。……気にならないといえば嘘になるし、果たしてこのOSの誕生にどのような意味があるのかはしっかりと見据えていかなければならない事項だとは思うが、ただ、それらに関係なく。
このXM3は――素晴らしく、そして凄まじい。
モニターに映し出される光景を見て、まりもは年甲斐もなく興奮を抑えきれなくなりそうだった。
シミュレータ訓練の当初からXM3搭載機を用いて、207B分隊の五名は訓練を行っている。彼女達は訓練兵でありながら新型OSのテストパイロット――実際にはA-01部隊という特務部隊が実証試験を重ね、実戦データを集積した上での改良・量産型なのだが――に抜擢されたこととなっていて、求められるものは自然、質の高いものとなる。訓練兵たちには高い機密に包まれたA-01部隊の存在など知る由もないし、まりもとて夕呼の息が掛かっていなければ本来知るはずのないことであるが……ともあれ、XM3は207部隊をテストパイロットとし、日々データを集積している。
目的は、戦術機操縦訓練課程の短縮、並びに歴代記録の大幅な更新。つまるところ、既に実戦証明されたXM3の有用性を更に印象付けるための手段。
司令部直轄の特務部隊はいわばエリート部隊であり、その実力は推して知るべし。公式に記録が残されていない先の新潟戦では、XM3があればこその歴史的戦果だったのだが、それは彼女たちが元より優秀だったからこそ、という捉え方をされても仕方がない。
そういった他国の官僚、衛士たちの色眼鏡を粉微塵にするよう、彼女達は命じられている。直截的に言われたわけではないが、XM3の概略説明を行った際の夕呼の言葉は、多分にそういう意味合いが含まれていた。そして、それに気づけないほどの無能は、まりもの教え子の中にはいない。
各人が始めて触れる戦術機――そしてXM3の性能に振り回されまいと必死になって訓練を重ね、シミュレータ訓練を開始してから五日が経過した。非公式の記録、であれば極最近に武が訓練兵時代に叩き出したハイスコアとも言うべき最短記録があり、それは僅か一ヶ月の訓練期間で任官し、さらに実戦に出撃したという冗談みたいなものだ。その詳細についてまりもは夕呼より当時の訓練データを頂戴し、眼を通している。かつて富士の教導隊に所属していたまりもをして尋常ならざる訓練内容だったが、それが白銀武という青年の戦術機適性「S」ランクという規格外の数値をテストするための実験を兼ねていたことは、夕呼自身から聞いている。
今回、既に歴代記録を塗り替え続けている207B分隊のメンバーだが、彼女たちの訓練には、残念ながら武への訓練内容は適用できなかった。……いや、残念ながら、というのは違う。その訓練内容はどう考えても戦術機の素人に対して行うべきものではなく、むしろ、常人に適用するならば二日で病院送りとなることは間違いないほどに酷い。
過酷、という意味がこれほどに似合う訓練はそうないだろう。一日に十時間以上の戦術機訓練など、通常どの部隊でも在り得ない。BETAとの戦闘でさえ、平均して二から三時間なのだ。これは補給の問題や衛士自身の肉体的精神的疲労を勘案しての平均値といわれている。それと比較しても、常軌を逸しているとわかる。それを命じた夕呼も夕呼なら、実践したみちるもみちるであり、そして、やり遂げた武も武だ。
改めて親友の、科学者としての面の恐ろしさを痛感すると共に、それを終始徹底したみちるの軍人としての完璧さを知る。更には、白銀武というかつての教え子の肉体的素養の在りえなさに空恐ろしいものを覚えるが、才能というものはきっとそういう風に、常人からかけ離れたものを言うのだろう。
まりもは一人納得し――そしてもう一人、「才能」という名の、常人離れした神懸かりなソレを体現させた少女を見やる。モニター越しではあるが、仮想敵部隊を遥か遠方より葬り去る技能は奮えるほどに凄まじい。
珠瀬壬姫。射撃訓練の頃より一角の輝きを見せていた彼女は、戦術機においてもその才能をあますことなく発揮している。いや、彼女だけではない。御剣冥夜は卓越した剣術の冴えを戦術機で再現することを実現しているし、彩峰慧のスピード溢れる機動は賞賛に値する。榊千鶴は指揮能力もさることながら、中衛としての護りに確かな実力を感じさせるし、鎧衣美琴は彼女たちとは一味違い、戦場の特性をよく掴んだ、実に巧い戦い方を見せる。
つまり、各人がそれぞれ得意とする分野でその実力を、才能をを惜しみなく発揮している。およそ訓練兵とは思えぬ戦闘ぶりには、さすがのまりもも苦笑せざるを得ない。彼女達は気づいているだろうか――既に、その実力は正規兵に勝るとも劣らないということを。
そしてソレは矢張り、新型OSであるXM3による恩恵が大きいということを。
実力がない、と言っているわけではない。彼女達は五人ともが素晴らしい実力を秘めている。それは誰の眼にも明らかだろうし、基地司令、夕呼の信頼の篤いまりもの評価も決して過度のものではない。真実、彼女達は素晴らしい衛士としての実力を身に付けるに到っている。……XM3の恩恵というならば、それは、今、この時点で既にその高みに到達できているという点だろう。従来のOSであれば、恐らくはもっと多くの時間を要したはずだ。否、間違いなく要しただろう。
戦術機操縦に関して、或いはそこに到るまでの訓練課程に関して、衛士育成の方針・方策というものは長い年月をかけて完成されてきた。国連軍だろうが帝国軍だろうが米軍だろうが、そのカリキュラムに殆ど差はない。世界中の衛士候補生が、各組織の方向性という点に関して以外は、ほぼ同等の訓練を受けている。それら、世界中の訓練兵に充てられる訓練期間は、統計的に見てもほぼ横並びなのだとか。つまり、内容の密度や錬成度合い等に若干の差は見られるものの、ほぼ全ての衛士訓練兵が、同じ時間だけ戦術機に触れ、任官するのである。
そして、XM3がなければ、彼女たちもまたそれと同等の時間を要し、戦術機の操縦訓練を行ったのだろう。――三ヶ月。統計的に見た戦術機操縦の訓練期間であり、国連軍における標準訓練期間でもある。衛士として必要な肉体的・精神的素養を育て上げる一年半以上の期間に比べれば極僅かの時間だが、戦術機の操縦を上達させる最も効率のよい方法は、“慣れ”だ。つまり、ある程度実戦でも通用する技能を身に付けたのならば、正規兵に押し上げてしまって実戦に慣れさせた方が否応なしに上達する、という乱暴な結論がそこにある。無論、正規兵として必要な知識、部隊内での連携を万全にした上で、のことではあるが。
けれど、実力不足、或いは戦場の空気に汚染されて戦死するものは多い。こと新任の衛士については『死の八分』などという呪い染みた慣例が罷り通るほどに、それは過酷だった。初陣でパニックに陥り、部隊丸ごとBETAに喰われたなんていうのは……悔しいが、よく聞く話だ。珍しくも何ともない。
だからこそ、訓練兵の教導を受け持つことになった各訓練校の教官は。神宮司まりもは。
教え子を一分でも一秒でも長く生き残らせるために、どれほどの醜悪を晒しながらも生き延びる力を身に付けさせるために。持てる全てを以って、訓練を行うのである。
――話が逸れた。まりもは自身の思考を一度白紙に戻し、XM3という新型OSがもたらした効果について再び考察する。従来のOSでは実現し得なかった高い反応速度と機械的硬化時間の低減、或いは、先行入力に代表される人的硬化時間の低減は最早言うまでもない。更には、ドッペル1がもたらした新しい戦闘機動概念――夕呼曰く『概念機動』というそれは、対BETA戦術に革新をもたらすだろう可能性を秘めている。まりもを含めたベテランの衛士ならば、その機動がBETAとの戦闘で有効に作用することは一目瞭然であり、同時に、自身が習得するためには並々ならぬ労力を必要とすることが知れるだろう。
そもそも、『概念機動』には基本とされてきた対BETA戦術機動の大半が通用しない。根本的に異なる思考体系から成っているらしいその“概念”を、自分なりに噛み砕き嚥下するには、相当の柔軟さが求められる。理解できぬと投げ出すのではなく、ありのままを体現する。自身の身に付いた生き残る術の一切を捨て去り、無からもう一度積み上げていく必要があるのだ。
勿論、それはまだXM3が完成する以前の段階であったから、テストパイロット部隊だったA-01も、まりもも相当な苦労を重ねてきた。『概念実証機』が開発され、そして『XM3』へと進化を遂げた新型OSは、それら『概念機動』を“再現”するための様々なプロセスが機械側にインプットされている。そして、訓練兵を教導する立場にあるまりもは、自分なりの『概念機動』を理論的にまとめてもいる。
つまり。
現在、練習機吹雪を駆り、仮想敵部隊を相手に圧倒的な戦果を挙げ続けている彼女達は。
全くの“ゼロ”の状態から、完成されたXM3と『概念機動』の理論――その全てを、真綿の如く吸収しているのである。
故の成果。歴代記録の更新。たった五日のシミュレータ訓練で既に教習課程の全てを終えようとしている彼女たちは、既に“訓練兵”と呼ぶには実力がつき過ぎている。勿論、彼女たちにそれを教えることはない。その程度で増長するような連中でないことは十分承知しているのだが、そもそも教える必要もないし、少なくとも「トライアル」が終了するまでの間、彼女達は訓練兵のままだ。
……或いは、トライアル後も……。特殊すぎる生い立ちを思えば、彼女たちが任官できる可能性は相当に低いと言わざるを得ない。特に冥夜に限って言えば、この訓練校に入隊できたことでさえ奇跡的だ。特殊、複雑。そんな言葉で足りないほどに、彼女の境遇は凄まじい。恐らくは部隊の皆も気づいているのだろうが、誰もそのことを口にしない。禁忌に等しいだろう事項に触れ、冥夜を傷つけることを畏れているのではない。
彼女達は、本当に、「仲間」だから。――だから、お互いの出自など、背後に潜む生い立ちなぞ関係ない。冥夜は冥夜。千鶴は千鶴。慧は慧。美琴は美琴。壬姫は壬姫。それでいい。それが全てだ。互いが互いを信頼し、慈しみ、思いやり、時に意見をぶつけ、時に拳を交わし……そこにあるのは、確かな意思。
皆と戦いたい。この世界を護りたい。
まりもはそのことを知っている。だから、心配は要らない。果たしてトライアルの後に夕呼の目論見通り任官できなかったとしても、それは、……ありのまま、受け入れられるだろう。「いつか、きっと」。その言葉を希望に、彼女達はこの世界のために必死の思いで訓練を重ね続けるだろう。それだけの覚悟が、彼女たちには存在している。
夕呼に提出できるだけのデータは揃った。数ヶ月前に任官したA分隊の戦術機操縦訓練に費やした時間がまるで嘘のようだ。このOSが世界中に配備された時を考えると、全身が総毛立つほどに興奮する。衛士の実力を分野ごとにランク付けるならば、XM3の慣熟訓練を行うだけで、全ランクが一段階以上上昇するに違いない。特に、自身が得意とする分野では、際立って伸びる可能性さえ秘めている。
個々の搭乗者に最適化するシステム。先行入力による無駄のない戦闘。キャンセル機能を実装することでより実戦的な行動が可能――エトセトラ、エトセトラ。掲げればきりがない。XM3は、正に戦術機の革命であろう。第一世代機から第三世代機までの間に変遷してきた技術の、更にその先を示す希望。
これは、人類を勝利に導く希望の煌きだ。これは、人類に勝利をもたらす絶対の輝きだ。
トライアルに敗北は赦されない。彼女たちに敗北は赦されない。――――だからこそ。
まりもの眼に、作戦終了の表示が映し出される。圧倒的勝利、圧倒的戦果。表示・出力される戦闘データを一瞥した後、通信機に向かって十分の休憩を言い渡す。分隊長の千鶴から了解の声を聞き、まりもはゆっくりと通信室を出る。向かう先は、更衣室。自身のロッカーへと辿り着いた彼女は、不敵な笑みを浮かべ、シャツを脱ぎ捨てた。
手に取るは、黒い強化装備。クッ、と口端を歪めたまま、あっという間に着替えを終える。緩やかになびく髪を操縦の邪魔にならないように結び…………。
「さて、“教育”の時間だ――」
それは、その不敵な笑みは。この場に伊隅みちるが居たならば、或いは速瀬水月、宗像美冴が居たならば――彼女達は口を揃えて言うだろう。恐れ戦き、その名を呼ぶだろう。
――狂犬(マッドドッグ)
戦場を奔る狂犬。帝国軍時代の通り名であり、鬼軍曹と恐れられた彼女の、もう一つの貌。
207部隊の面々は、そんな彼女を見たことも聞いたこともない。既に任官している風間梼子たちの世代から、その育成に当たって方針を変更していたのだったが……ともあれ。今ここに居るのは厳しくも慈愛に満ちたまりもではない。
世界中の衛士に最強を証明し、世界中の人々に人類が勝利する希望を確信させる。――そのために、私は“戦う”。
教師になりたかった。けれど世界はBETAに脅かされていて、学ぶ場所は限られ、それらは須らくいずれ訪れる戦争に備えるためのモノとなった。だから、自分が戦って、BETAを滅ぼして、世界に再び平和を取り戻して……そして、その世界で自分は教師になり、たくさんの教え子達に囲まれて――そんな夢を、今も抱いている。そんな夢のために、戦ってきた。生きてきた。だから、教え子達全てに死んで欲しくなんてないし、どれだけみっともなくても生き続けてほしい。
誇りを持って、“戦って”欲しい。精一杯生きて、逝って欲しい。後悔はいらない。輝ける未来が在ればそれでいい。そして、「敗北」が赦されないというならば。世界を、人類を救う先駆けとなることを求められるならば。
まりもは、再び狂犬と化し、鬼と化し、207B分隊を鍛え上げる。さぁ、教育を始めよう。帝国陸軍にその名を知らしめ、富士の教導隊に引き抜かれた実力を持つ横浜基地“最強”の衛士が。貴様らヒヨッコを教育してやる。
===
自分の実力、と。そう……勘違いしていたらしい。みちるはモニターに表示される紅を見て、つくづく思い知らされていた。
シミュレータによる戦闘を開始してから既に十数分が過ぎた。その間の戦闘において、水月の駆る蒼い不知火は常に優勢だった。XM3が魅せる今までの常識外の戦闘機動、空中をも戦場と化すドッペル1の『概念機動』、先行入力とキャンセルの併用によるアクティブでキレのある疾走感。どれをとっても彼女が優勢。
――なのに、未だ一撃も喰らわせていない。
――なのに、未だ一発も喰らってくれない。
対峙するは紅の武御雷。帝国斯衛軍の象徴、日本帝国の鑑。月詠という名の名家が一人。名も無き螺旋剣術の使い手にして、白銀武の師匠。
武御雷と不知火は共に第三世代機であるが、その性能、或いは装甲をはじめとした機体そのものの“強度”が異なる。不知火の開発によって培われた技術を応用して開発された、将軍家、若しくはそれを直衛する人間のための機体。「将軍家の人間は前線に立って模範となるべし」という思想から、格闘戦能力――特に長刀による戦闘――を重視した設計で、他の機種に比べ機動力などがすばらしく秀でているという。
その機体スペックを思い出しながら、けれど、みちるは驚愕を禁じえない。
確かに、武御雷と不知火の双方が“一対一”で戦闘を行ったなら、衛士の技量を同一とした場合、明確な差となって現れるのは機体スペックのそれだろう。不知火よりも機動力に優れ、不知火よりも耐久力に優れる武御雷が、それよりも劣る機体に敗北する理由がない。
が、今モニターの向こう側で戦っているのは“XM3搭載の不知火”と、“ただの武御雷”だ。新型OSの性能。その凄まじさと素晴らしさは、誰よりもみちる自身がよく知っている。実際にBETAとの戦闘をこなし、かつてない戦果を挙げた実績。部隊内の訓練で、新型OS非搭載の不知火と新型OSを搭載した撃震とでやり合ったときも、敗北したのは不知火だった。しかも、不知火に乗っていたのは水月を始めとする先任組だったのだ。新任チームは辛勝だったのだが、勝利は勝利であろう。機体スペックによる絶対差を覆して有り余る性能。機体性能を格段に上昇させ、衛士の技能を最大限に発揮できるこのXM3が在れば、理屈上、武御雷にさえ引けをとらない筈なのである。
その、はず……だったのだが。
……みちる自身の予想では、この戦闘は当に終わっているはずだった。無論、水月の不知火が勝利する、という形で。或いは防戦に徹した真那を追い詰めるのに時間を要したとして数十分。――だが、所詮それは度違いの予想でしかなかったということか。みちるは臍を噛む。湧いた唾を嚥下する。
驚愕と、昂奮と、そして恐怖――。モニターから目を離せない。通信機を通じて聞こえてくる水月の困惑の叫び声が、ただ無意味に反響する。――信じられるか? 答えは否だ。信じられるわけがない。戦闘は終始水月が優勢。優位に立っている――のに、その実、追い詰められているのは彼女の方だ。ヴァルキリー2、A-01部隊の副隊長にして突撃前衛長。単機の戦闘力では隊内ナンバー1を誇り続ける彼女が、恐怖に怯え、焦燥に喘いでいる。
『なッ!? なんで、なんで当たんないのよコイツ――ッッ!!??』
さっきから断続的に耳に響いてくる悲鳴にも似た困惑。愕然と零されるそれは怒りによって塗り固められてはいるが、彼女の精神力が折れたとき、それは正真正銘の“恐怖”となって水月を押し潰すだろう。モニターには36mmを撃ちまくる水月の不知火と、直線的でありながら、ひらひらと避ける紅の武御雷。無手のまま回避だけを行いながら、ただ必殺の機会を窺っているらしい。
傍目から見れば、紅の武御雷は接近しようとしても近づけず、放たれる36mmの弾幕に後退するしかない――と、捉えられなくもない光景。時折牽制に放たれる武御雷の36mmも、XM3を搭載した不知火の前ではその役割さえ果たしはしない。水月はビルとビルの間を縫うように跳びぬけ、弾道から機体を逸らし続ける。回避と同時に武御雷へ足止めとばかりに彼女も弾丸をばら撒いているから、結果として互いの立ち位置は――相対距離は、さして変化していないのだ。
それはつまり、端的に言うならば……性能で上回るはずの武御雷が、XM3を搭載した不知火を追い詰めることさえ出来ない、という事実を浮き彫りにさせる。
そして、それは実にそのとおりなのだ。近接戦闘を主体とする真那の武御雷は、依然として長刀の間合いに近づけていないし、水月へ有効と思えるダメージを与えられてもいない。だが、追い詰められているのは水月という矛盾。機体スペックの劣勢を新型OSで補い、今や武御雷さえ上回るだろう“性能”を手に入れたはずの彼女は――
「うそ、でしょ……っ」
引き攣るような、息を呑む声。放つ弾丸は掠りもせず、殆どが紙一重でかわされる。行動の後には必ず発生する旧OSの弱点とも言うべき硬化時間を狙って放ったそれさえ、“明らかに”回避されている。ゆらり、ゆらり、と。揺れるようにかわす紅に、月詠真那にはナニか水月の知らない技術が在って、それゆえに当たらないのだと悟るのに数分。それが一体なんなのかを探るためにさらに数分。十分を過ぎた頃には、このまま36mmを主体とした戦闘では勝てないと確信せざるを得なかった。
回避行動の際、或いは一つひとつの挙動の際に、振れるように揺れる。機械である戦術機の動作とはどこか異なる極自然なその“揺れ”が、水月の放つ弾丸を悉くかわし、機体の硬化時間を“なくしている”――真那は、あの紅の武御雷は、恐らくそのようにして水月からの攻撃を回避し続けている。
一切の静止をなくした機動。決して“止まらない”その機動。それは、つまり…………機体に働く慣性、戦術機を傾けさせることで発生する位置エネルギーの応用。簡単に言ってしまえば、真那は戦術機を常に“転倒させ”て、本当に倒れてしまう以前に次の行動に移っている。機体に生じる硬化時間。その最中でさえ、慣性を利用して“動いている”のだ。故に当たらない。否、ただそれだけでは当たらない、当てられない理由には足りない。
ならば即ち。それが水月と真那の間に横たわる、実力の差、というものなのか。――――追い詰められているのはこっちだ。
既に何度も痛感している感覚を、今度こそ実感する。今も尚水月が優位に立てているのはひとえにXM3の恩恵あってこそだ。もう、それは間違いない。水月は自問する。自分は、いつの間に「自惚れ」ていたのだろうか。
ドッペル1という天才が発案した『概念機動』。そして夕呼が開発した『概念実証機』――完成した『XM3』。その性能を引き出すために苦しい訓練を続けてきた。概念そのものが根本から異なる『概念機動』を我が物とするために、それはもう本当に我武者羅に訓練に明け暮れたのだ。……そして、それは実る。苦労した分だけの、いや、それ以上の成果を挙げることが出来たのだ。新潟での戦闘を思い出す。かつて、あれだけの数のBETAを相手に、一個中隊で殲滅できたことなどあっただろうか。――答えは否。断じて否だ。
ならば、それは水月の実力ではないのか。『概念実証機』を乗りこなすことが出来た水月の、仲間達の、揺ぎ無い力ではなかったのか。
答えは、否、だ。
あれは水月の実力ではなかった。あれは皆の実力ではなかった。『概念実証機』、『XM3』によって皆の戦力が飛躍的に上昇したことは間違いない。疑う余地などないし、そもそもそれは実戦にて問答無用に証明されている。戦力が飛躍・上昇したというなら、……ならば、矢張り、それを操る衛士の実力も上昇したのではないのか。機体性能は文句なし、ドッペル1の概念を再現するための新型OSがあれば、誰だってその恩恵を苦もなく再現できるというなら――――ならそれは、衛士の実力に関係なく、ある意程度のレベルまでは引き上げることが出来るということ、なのか。
水月は勘違いしていた。
XM3は凄い。このOSは間違いなく人類を救うひとつの希望となるだろう。輝ける未来を切り開く一歩と成るだろう。……だが、水月は勘違いしていた。自惚れていた。見落としていた。自分が強くなった気でいた。錯覚したのだ。
機体の性能、新型OSの性能。――XM3搭載機の素晴らしいその性能を、それが自分の実力なのだと、いつしか自惚れていた。
きっと、今のこの状況はそういうことだ。“追い詰められている”というプレッシャーに圧されているのは、つまり、自身の能力とXM3の恩恵を混同して捉えていた自分の、本能的な部分が警鐘を鳴らしているからなのだった。
――このままでは負ける。このままではやられる。流石は斯衛の赤。紅の武御雷を賜る人物ということだろうか。戦術機操縦の腕は超一流。機体のバランスを崩して回避・移動を続けるそれは恐らく彼女の父が編み出したという剣術の応用なのだろう。衛士としての錬度。完成度。それら全部が、水月を押し潰そうと、じりじりと迫ってきている。
チラリと残弾表示を見れば、節約して使ってもあと数分と持たない。その後は長刀、ナイフを使用しての近接戦闘となる。……そうなれば、きっと本当にオシマイだ。剣の間合いに入れば、それは斯衛の独壇場。しかも相手はあの武の師匠である。戦場を駆ける暴風。地を這いずり回る螺旋の剣。一切の静止なく、連続して渦を巻く剣閃に、きっと水月は刻まれる。長刀を用いての戦闘に多少の自信はあったが、ここまで突撃砲に頼った戦い方をしてきたのは、単純に彼女の間合いに入らないようにするためだ。相手がもっとも得意とする、言わば鬼門に好き好んで突撃するほど、水月は愚かではなかった。
だが、覚悟を決めるときだ。
『概念機動』そして『概念実証機』を通して、水月自身の実力は確かに飛躍的に上昇した部分も在るのだろう。だが、その大半が機体性能――新型OSの恩恵によるものだというなら、最早“実力で上回る”真那に勝てる見込みは少ない。――が、決してゼロではないのだ。
初めて目の当たりにする斯衛の実力に身震いした所で、それで敗北を享受できる訳がない。アレがXM3でない限り、必ずつけ入る隙は生じる。そこを、衝く。それしかない。弾丸の尽きた突撃砲を投げ捨て、長刀を握る。
空中に跳びあがった状態で装備を持ち替えた水月は、己を鼓舞するための咆哮を上げ――同じように長刀を握った赤色を見た。
――それはどのような幻想か。
或いは、眼の錯覚なのか。咆哮を上げ、ビルの壁面を蹴って重力加速度に跳躍ユニットのブーストを重ねての超加速のついた状態で、水月は見た。
アスファルトの路面を軋ませるほどに踏み込んだ一歩。赤色の残像さえ浮かぶような凄まじい速度の旋回。大気さえ切り裂くかのような暴虐に似た剣閃――そして、水月を喰らうべく開かれた、
龍の、
顎(アギト)を――
「ッ、ァ、」
滅茶苦茶に機体を捻る、投げ捨てるように振るった長刀が、ギリギリと耳障りな音を立てて吹っ飛んでいく。振りぬかれた真那の剣閃を受け流すことが出来ずにぐるぐると飛ばされた長刀を生贄に、水月は超高速の直中でかわし、真那の背後へ。一拍の呼吸さえままならない一瞬間で、水月は己の幸運を噛み締める。――かわ、せた?! 己を奮い立たせるための咆哮は既に引き攣った呼吸に凍りつき、締め付けられた心臓が恐怖に歪むかのよう。赤い武御雷とすれ違うように一閃をかわした状態のまま、水月は本能が絶叫するままに機体を走らせた――距離をとれ――逃げろ!!!!!!
必殺の一撃をかわされた当の真那は、至極当然のように機体を捻転させ、後方を――つまり、逃げる水月の背後へと向いている。そうだ。それが彼女の扱う剣術の基本。旋回。螺旋の機動。慣性と遠心力を最大限に利用して機体を振り回す埒外の戦法。攻撃は既に次の一手への布石。振るい続ける剣閃が生み出す破壊の渦は、全周囲に群がるBETAを悉く斬り刻む究極の一。
故に、水月はただ前方へ跳ぶ。地面に落着するようだった姿勢から、形振り構わずにスロットルを全開へ。主脚部が路面に擦れて火花を散らしたが、そんなことを気にかける余裕などない。一刻も早くあの剣術の間合いから離れなければ、待っているのは無慈悲な「死」だ。
……いや、これはシミュレータなのだから、実際に死ぬことはない。だが、その安息するべき事実さえ翳んでしまうほどに、かつてなく、水月は自己の消滅に慄いていた。襲い来る真那の剣に怯えていたのだ。たった一瞬すれ違っただけの、偶然かわせただけのあの錯綜で。水月はそれに気づいてしまった。月詠の剣術――武がそう呼んでいたアレは、武が身に付けているアレは――――、全然、違うものだった。
それは地を這いずる暴風などではなく。
それは螺旋を描く長刀の剣舞などではなく。
アレは、龍だ。
長躯を唸らせ地上を蹂躙する赤き龍。長い胴と尾を引き摺って、まるでとぐろを巻くように地を薙ぎ抉り、ただ進む先に群がる餌を食い殺す顎(アギト)。紅というならばそれは地を焦がし灼熱に染める炎で、振るわれる剣閃は獰猛に過ぎる幻想種の鋭く尖った牙そのもの。
月詠の剣術とは。対BETAにおける究極の剣術とは。圧倒的物量で迫り来る敵を屠り続けるために編み出されたその剣術とは。――即ち。
螺旋を描く軌道は龍の長躯が地を這いずるそれであり、全周囲を暴虐の如く斬り刻むのは餌を喰らう牙が爪が鱗がただ傍若無人に貪るそれだ。月詠みの赤き龍。ソレが、月詠真那の扱う剣術だった。
荒れ狂う暴風など龍が地を薙ぐ余波でしかなく、故に、武のソレは、彼女の剣とは重ならない。真実の後継には到っていないのだと、錯乱する水月の頭は解答を導き出していた。自身のおかれた状況にあまりにもそぐわない解に、現実逃避に近い絶望を覚えるものの、XM3が可能としてくれる三次元機動を滅茶苦茶に操って、どうにか後方の龍の間合いから逃れようと足掻く。
身を翻し、逃亡へと移った不知火を追う武御雷は、その背後に燃え盛る火龍の幻想を纏ったまま、獰猛なまでの容赦なさを浮き彫りにして、最大戦闘速度で迫り来る。背筋が凍る、とは正にこのことを言うのだろう。……だが、逃げてばかりもいられない。接近戦で勝ち目はなく、突撃砲を捨てた今、けれど水月に取り得る選択はそれしか残されていない。機動撹乱という手は残っているが、文字通り死角のない真那に対して、それはどこまで通用するだろうか。XM3非搭載機とはいえ、戦術機は空中を跳躍する性能を備えているのだ。ここまでの水月の戦闘機動を見て、あの斯衛が空中に躍り出る利点に気づけないわけがなかった。
――つまり、最早水月に勝ち目はない。放たれる殺気はシミュレータという機械を通り越して肌に突き刺さるかのよう。乾涸びた喉が痛むくらいに、凝り固まった唾液を押し流す。悪寒を感じて震える指先を見て、これほどまでの恐怖を覚えたのはいつ以来だろうかと不意に思考をめぐらせた。
刹那。
「なにやってんのよ、私は――」
苦笑。そう表すののが不似合いなくらいの、清々しい笑顔がそこに在った。
怖い、勝てない、死にたくない。…………そんな絶望は、いつだって目の前に転がっていた。鳴海孝之の死を知って、戦場に立って、目の当たりにしたBETAの大群に、眼が眩むほどの恐怖を覚えた。金縛りにあったように指の一本さえ動かなくて、沸騰するような怒りと、凍えるような怖れが拮抗し、脳が停止して。突撃前衛というポジションにいながら、その一歩を踏み出せたのは――動けない自分を庇って要撃級に砕かれた同期の吐いた、血色の絶叫を聞いた後だった。
怖くて、恐くて、こわくて、どうしようもなくて。でも、断末魔の絶叫が、死にたくないはずなのに同じくらい恐いはずなのに、それでも水月を助けようと死んだ彼女の声が、狂うほどの感情の爆発をくれた。「なにをしている」のか。自分は。まるで稲妻に打たれたように、後悔と懺悔と怒りが明滅して。……ようやく、水月は“戦う”という選択肢を得た。突撃砲のトリガーを引き、崩れ落ちる同期の機体を汚らわしいBETAから引き剥がしながら、ただ眼を見開いて泣き叫びながら撃った。撃って撃って撃って撃って、肩で息をして、眼から涙の粒をたくさん零して、強化装備の下を濡らしながら、それでも、もう“こわい”なんて弱音は吐かなかった。
絶え絶えに届いた最後の声が。
今も耳に残っている。――ああ、やっぱり速瀬はそうでなくちゃ。そんな風に血まみれになって笑う彼女を、その笑顔を、
「私は、負けない」
喪いたくないのだ。もう。この手から零れ落ちるようになくなっていくものを見たくはない。同期は遙を残して皆死んだ。尊敬して憧れていた先任はみちる以外もういない。扱いて鍛え上げた後輩も、たくさん死んだ。残ったのは片手で足りるくらいのほんの僅か。武たちが任官して人数は増えたけれど――それをまた、喪うわけにはいかない。
斃すべきはBETAだ。滅ぼすべきはBETAだ。奴らとの戦闘はいつだって恐い。けれど、そうやって恐怖に震えていてもどうにもならないことを、最悪で最低な経験から思い知っている。だから、強く在ろうとした。強く在った。そのように振る舞い、己を鼓舞し、奮い立たせ、立ち向かって行った。
水月が血を吐くまで殴り続けてくれた相原中尉。彼女のその背中を追い続けて、今や自分はその位置にいる。恐怖と絶望に硬直する自分を救ってくれた偉大なる先達が、笑って安心できるくらいには、今の自分は成長できている自負があった。――ならば。
「たかが斯衛如きに、負けてやる理由がない」
アレはニンゲンだ。アレはニンゲンの女だ。BETAじゃない。憎き恐ろしきあいつらじゃない。斃すべき敵でなく、乗り越える壁でもない。今の自分に求められているのは、ただ、勝利のみ。XM3の性能を見せ付けて思い知らせ、機体スペックの差を覆す新型OSの優位性を知らしめることにある。全てはBETAを斃すため。総ては人類を救うため。だから何があっても勝たねばならないし、「死ぬほど恐い」程度で、逃げ出していいはずもなかった。
空中で機体を反転させる。左肩のラックから、最後の長刀を取り、ビルの壁面を陥没させながら――水月は跳んだ。自身を鼓舞する咆哮はなく、ただ静かに、地上で渦を巻く紅の龍へ向けて、迎え撃つように長刀を構えた幻想へ向けて。
まるで魔を断つ勇者のように。
「ッ、ァッ! ――――――――ァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
爆発する感情が、口を衝いて大気を焦がす。突き立てるように振り下ろした一閃。スーパーカーボン製の長刀が火花を散らし、耳障りな音を立てる。白熱する視界の向こうで、迎撃する紅の武御雷が、笑っているような錯覚を――その眼は、見た。
真那は苛立ちと焦りに拳を操縦桿へ叩きつけた。自分の腕を驕っていたつもりはないが、これまで対人戦闘において、一度たりともその間合いに入れなかったことなどなかった彼女からすれば、今のこの状況は屈辱以外のなにものでもなかった。近づけない。ある程度間合いを詰めることが出来ても、そこから先が埋められない。36mmを放ってくるが、それが撹乱のためだということは百も承知だ。機体の性能に物を言わせて強引に距離を詰めようとしても、その度に在り得ない機動力で開かれる。
なんだというのか、アレは。XM3――と。香月夕呼はそう言っていた。横浜基地を支配する天才科学者が開発したという新型OS。その性能があの機動力だというなら、なるほど、確かに凄まじい。武御雷は、言わば不知火の後継である。否、その技術を須らく踏襲した上で、さらにハイスペックなものへと昇華された、言わば最強の戦術機だ。将軍家縁者、そしてその守護に当たる斯衛のために開発された機体。近接戦闘を真骨頂としながらも、あらゆる機動戦闘において上位を占める性能を持つ。
カタログスペックだけで不知火を凌ぐ筈の武御雷が、戦闘開始から十数分が過ぎて尚、一度たりとも間合いにすら近づけていない。これが屈辱でなくてなんという。しかも自分は御剣冥夜の守護という勅命を賜った、誉ある斯衛の赤なのだ。こんな無様を部下たちに見せるわけにはいかず、あまつさえ勝てなかったとなれば……真那は自身の腹を割くのも止むなしと考えていた。たかがOSが異なる程度の不知火に敗北するようでは、冥夜を護るに値しない。そしてそれは将軍殿下の信頼に泥を塗るということであり、それは殿下へ忠誠を誓う真那にとって、絶死さえぬるい。
こちらの機体硬化時間を巧みについて本命の弾丸を放ってくる水月の腕前は正直、戦慄すら覚える。適当にばら撒かれたようでいて、実に緻密な計算の元に放たれた弾道の全てが、真那の武御雷を屠ろうとしている。たった一発でも喰らえば、なし崩し的に撃ち込まれるだろう。それだけの腕を、彼女は持っていると直感する。故に、かわす。行動の間隙に生じてしまう、どうしようもないコンマ数秒の停滞時間を、真那は機体重心を崩すことで相殺していた。自身が扱う剣術の機動と同様の理屈。機体を傾かせれば、重心の高い戦術機は転ぼうとする。一定の距離を保ち続ける不知火へ喰らいつこうと迫るたびに、機体バランスを崩して揺れるように回避を続けた。
――埒が明かぬ!!
そんな小細工を弄して尚、現状を覆せない己を不甲斐ないと憤ると同時、ここまで手を焼かせる水月の技量と……最早認めざるを得ないXM3というOSの性能に、不敵なほどの笑みが零れる。苛立たしいほどの昂揚。矛盾するその感情を皮肉るように、真那は口端を歪めた。
「くくく、これで斯衛の赤を名乗るか、私は――」
この戦闘を見ているだろう武を思う。思えば彼には戦術機における月詠の剣術というものを教えてやれなかった。そんな機会がなかったといえばそうだが、せめて任官する以前、或いは数ヶ月前の再会の際に、要点だけでも伝えられたらよかったのだが……いや、この戦闘から何か一つでも学んでくれたなら、それでいい――と。そう思うならば、余計に。斯衛としてこの上ない無様さを晒している自身に腹が立つ。
戦闘中に随分と余裕なものだ。自嘲するような内心の吐露に、だからこそこのままやられて堪るかという気概が沸き起こる。対峙する不知火、水月は強い。昨年始めて出逢ったときは、まだまだ発展途上の衛士としか思わなかったが、まさか一年と少しでここまでの成長を見せるとは、途轍もない化け物だと思える。
流石はA-01というわけだ。埒が明かない回避運動の中で、せめてそうやって皮肉る程度は認めてやってもいいだろう。真那は常にない自身の苛立ちを顧みて、そういえばここまで見事にあしらわれたのは久しぶりだと思い出す。斯衛同士の戦闘訓練では、必然的に長刀を用いた近接戦闘ばかりになる。それこそが斯衛の独壇場なのだから当然といえば当然だったが、その中でも真那は際立って優れた実力を有していた。
父から受け継いだ剣術を磨き抜き、極めたそれ。冥夜の警護任務に就く以前の話だ。御前試合でもあったその決勝の場で、真那は出逢う。同じ赤を賜った巨漢。剃りあげた頭に雄々しいほどの顎鬚、分厚すぎる筋肉に覆われた屈強なる武士。完膚なきまでに叩き潰された真那の自尊心は、けれど、清々しいくらいに澄んでいた。――上には上がいる。そんな至極当たり前のことを教えられて、彼女は笑ったのだった。その後、紅蓮と名乗った彼に実力を買われ、冥夜就きの警護小隊長を任されるに到るが……今の状況は、ほんの少しだけ、その頃に似ていた。
近づけない、当たらない、己の間合いに踏み込めない。ビルとビルの間を縫うように跳び回る機動は常軌を逸し、時に機体を捻るようにこちらの弾丸をかわす様などは何処の曲芸師かと呆れさえする。武御雷の性能を以ってすればあの機動を真似ることも不可能ではないのかもしれない。だが、どういう理屈で斯様な機動を行っているのかがわからない状況で、無理矢理にアレを真似られるほど、真那は愚かではない。まして、あの機動能力こそがXM3とやらの真骨頂だというなら、どう足掻いたところで追いつけまい。
ならば、待つしかない。弾丸の予備は直に尽きるだろう。ここまで執拗に真那の接近を阻んでいたのは、水月が真那の剣術を知り、警戒しているからだと想像できる。なにせ彼女は武の上官だ。武が真那と彼女の父から受け継いだ剣術のことを知らぬ筈が無い。いずれ、水月は銃を捨てざるを得なくなる。どうにかそのときまで粘れば、一撃の下に叩き斬る自信は在った。――それを待つしかないという状況が、ただ、歯痒い。
不意に湧いた苦々しい感情に眉を顰めたのと同時、水月が突撃砲を投げ捨て、長刀に持ち替えた。空中に跳びあがった状態で装備を変更した蒼い不知火が、これまでにないくらいの気迫を放ち、ビルを蹴り舞い落ちてくる。落下と噴射跳躍による倍速。一瞬息を呑むほどの爆発的な速度で迫り来る水月の覚悟を知った真那は、彼女もまたこの一撃に懸けているのだと直感で理解した。
ならば、全身全霊でそれに応えるのみ。
限界まで引き絞ったバネが、その束縛から放たれるかの如く。距離というクサリに捕らわれていた赤き龍が、解放の自由に雷鳴を呼び起こす。路面を軋ませるほどに踏み込んだ一歩。尾を巻き、周囲を薙ぐような旋回機動。――狙うは、降って来る不知火の頭部。強襲に振りかぶった長刀ごと、叩き割る。火焔を思わせる紅の残像が、武御雷に生まれた超速度の凄まじさを視覚化させる。急激な負荷に、機体の主脚が悲鳴をあげた。
水月の攻撃への転進があまりにも唐突で、そして一瞬だったために。真那は常の如く機体に働いた慣性を十分に利用できる暇がなかった。が、泣き言を言っても始まらない。このタイミング、逃せばやられるのは自分だと瞬時に判断した真那は、跳躍ユニットの推力を借りて、無理矢理に最大戦闘速度に匹敵する旋回力を生み出していた。故に、軋む。これが武御雷でなければ、一閃の後には脚部の関節が砕けていてもおかしくない。
渾身の一撃。
それほどの気迫と必殺の意志。自身の闘気を背後に纏い、真那は電速と化した長刀の一撃を放ち――そして、「かわされた」。
「ばっ、――か、な!!!??」
――かわしただとォ!? 振り抜いた剣先はまるで捨てるように放られた水月の長刀を吹き飛ばしただけに終わり、捉えるべき不知火の頭部は、武御雷の脇の下を潜るかのような姿勢で地面すれすれを奔っていた。戦慄。足先から這い登るような恐ろしさを、この時真那は痛感した。
墜落。そう言っていいくらいの出鱈目さで文字通り“降って来た”不知火が、驀進していたはずの機体が、落着と同時、機体を屈ませるように奔り出している。硬化時間とか、そんな次元の話ではない。「落ちた」筈なのに、「もう奔っている」のだ。しかも、必殺のはずの一刀をかわして。瞬間というべき時間の中で。汗が逆流するような錯覚を覚えながら、すぐさま体制を整えなければ死ぬのは自分だと悟る。振り抜いた加速度と遠心力のままに、アスファルトを削りながら旋回、ガリガリと路面を滑ることコンマ五秒、次の一刀を食らわせるべく、或いは、襲い来る不知火の攻撃に備えるべく、真那は激しい動悸と熱気に血を沸騰させる。
――だが、予想した攻撃はなく。構えを終えた真那は、まるでこちらを嘲笑うかのように再び距離を置く不知火の背中を見た。
感情が、逆流する。
「ふっっ、ざ、けるなぁああああ!!!!」
それは、ひょっとすると生まれて初めての激昂だったのかもしれない。――戦え! という衝動が、正直に口を衝いていた。一度たりとも真那を近づけさせなかったその機動力、生じた隙の全てを的確に狙って放たれた36mm、瞬間に戦法を切り替える判断力と実行力、なにより――真那の必殺をかわし、OSの格差が生み出す絶大なる性能差を見せ付けておきながら!! ――何故、貴様は背を向けるか!!!!!!!
ギシリ、と。奥歯よ砕けとばかりに噛み締める。操縦桿を握り締めた手は屈辱と怒りに奮え、美しいその相貌は、まるで阿修羅の如き怒りを孕み……真那は、武御雷を奔らせた。否、アスファルトの路面を蹴り、最大戦闘速度で滑空していた。
例えこうして背を向けた不知火を追うことこそが水月の策なのだとしても、そんな下策諸共に叩き斬る! それほどの感情が、真那の心中を埋め尽くしていた。
認めよう。貴様は強い。そのOSは凄まじい。――ああ、認めるとも。
だから、戦え。
吐き捨てるように零したその一言を、水月が聞いていたはずがない。通信は閉じられていて、真那と回線が繋がっているのはシミュレータの外、通信室だけだ。だが、それでも、まるで彼女の言葉が届いていたとしか思えないようなタイミングで、空中へ逃げた不知火が、機体を反転させ、左肩のラックに収めていた長刀を抜き放つ。心臓が高鳴った。ぶるり、と全身が奮えた。――くる。速瀬水月が、来る!
新型OSを搭載した化け物のような性能の戦術機不知火が、常識外れの機動を実現する化け物のような実力を持った衛士水月が。真那の意志に呼応するように、あらん限りの闘志を込めて、昂ぶるほどの必殺を込めて――――長刀が、閃く。スーパーカーボン製のそれが、耳障りな音を響かせ、火花が網膜を焼く。真那は瞠目した。白む視界の向こうに映る不知火の顔を、食い入るように睨みつけて、不敵に、不意に、笑ってやった。
「――は、はははははっ!」
長刀を振り上げた右腕が弾かれる。両腕で振り下ろした水月の一刀を、片腕で受け止めることは出来なかった。が、腕が弾かれることなどわかっていた。右腕が衝撃に持って行かれそうになる一瞬間に、真那はもう一つの長刀を左手に握っていたし、対する水月はいつの間にか右手に短刀を握っていた。長刀は既にない。真那が自身の長刀を彼女のそれに引っ掛けていて、二本の長刀は一緒に吹っ飛んでいた。
水月の機転に惚れ惚れする。もし彼女が長刀に拘りを見せたなら、この一刀は不知火の装甲を切り裂いたに違いない。だが、水月はそうしなかった。真那の行為を見抜いて、自ら長刀を捨てたのだ。武御雷の右腕と長刀を弾き、且つ、自身の武器さえ捨てることを惜しまない。行動は迅速で迷いなく、そこに躊躇などありはしなかった。しかも、機体が応える速度そのものが、段違いに速い――。
真那が左手で長刀を振るうよりも速く、水月が短刀を突き立てるほうが速かった。真那の長刀を弾き、自身の長刀を捨て――同時に、短刀を抜き、穿つ。武御雷が長刀を抜き放ち振りかぶるというシーケンスを終えるよりも速く、短時間で、不知火は、XM3はそれだけの処理を終わらせていた。……ならば、これがOSの差か。真っ暗になった管制ユニットの中で、真那は静かに眼を閉じる。心地よい疲労感と、沸々と高ぶるほどの高揚感があった。耳に届くピアティフ中尉の声を聞きながら、一刻も早くXM3に触れてみたいと思う自分がいることに、彼女は――生まれて初めて、大声を上げて笑った。
武はずっと黙っている。戦闘中も、そして戦闘を終えた今も。沈黙を守り、ただ、じっとモニターを見つめていた。自身の剣術の師匠、真那。それはきっと、武にとって目指すべき理想だった。いや、きっとなんてものじゃない。いつか必ず、彼女の立つその場所まで到ってみせる、と。そう決めていた。……だが、それは果てしなく遠く、そして、ひょっとすると永劫に届かないほどの高みに在るのではないか。そんな弱音が、胸中に渦巻いている。
アレが、アレこそが…………月詠の剣術。その、真髄なのだ。
BETAを滅ぼし、護るべき人物を護りきるための業。武が習得した剣術は、確かにそのための剣であり、技だったのだろう。――だが、足りない。今のままでは、到底届かない。身に付けたと思っていた剣術は全て、真那の魅せた火龍の如き暴虐の前には児戯に等しい。苛烈さも、壮烈さも、そしてなによりも、BETAを屠るという気概、敵を斃すという意志において、武は須らく劣っていた。
あれが斯衛の実力か。あれこそが、真那の実力か。……赦されるならば、彼女の下で戦いたい。彼女に師事し、再び、彼女の剣術を学びたい。痛切に、そう願う。悔しいと思った。全然足りないのだと知った。けれど同時に――自分は、まだまだ彼女のように、強くなれる可能性を持っているのかもしれないと。ほんの少しだけ、前向きになれた。
XM3という戦術機の革新を前に、『概念機動』、『概念実証機』という素晴らしい技術を前に、いつしか武は己の実力を見誤っていた。みちるや水月さえそう思っていたことなど武は知る由もないが、少なくとも、この場で彼女たちの戦闘をずっと見ていた彼は、それに気づいた。自惚れは、捨てろ。自身に言い聞かせるように、声に出さず呟く。慢心は、捨て去れ。XM3は確かに人類を救う一つの鍵だ。衛士本人の実力が変わらずとも、XM3搭載機に乗るだけで、戦力は飛躍的に向上するのだから。
だから、こそ。
己を鍛えよう。もっともっと磨きをかけよう。強くなろう。XM3に触れ、『概念機動』を更に極め、己の実力を伸ばし続けたなら、経験を重ねたならば。――きっと、いつか。真那と並び立つことも夢ではないだろう。分不相応な妄信ではない。それは、きっと、たどり着ける場所。届いてみせる輝かしい背中。武は深く息を吐いた。
絶対に強くなる。そして、その力でBETAを斃し、滅ぼし…………茜を、純夏を、愛する彼女達を護り抜く。
寿命を終えることなど出来ないのだろう自分。残された時間など知らないが、少なくとも、生きている間。生きていられる間。精一杯の努力をしよう。出来る限りの最善を尽くそう。A-01の隊規を思い出せ。決して、犬死などしない。自身の実力を見誤り、自惚れに溺れたまま死ぬなんて無様、晒せるわけがない。
志乃の墓前に誓った。彼女たちに救われた命、絶対に無駄にしない。茜と触れ合ったその時に、より一層の強さを増した想いに気づいた。だからこそ、絶対に、強くなる。
「月詠中尉、お疲れ様でした。――いかがかしら? XM3の性能は」
通信機に向かって、夕呼がこれ以上ないくらいの厭らしさで問いかける。黙考していた武だが、思わず顔を上げた。真那の性格を知っている彼からすれば、それは喧嘩を売っているようにしか思えなかった。否、実際、挑発しているのだ。まさか斯衛の赤が、新型OSを積んだだけの不知火に敗北する。しかもそれが斯衛の最も得意とする近接戦闘で、となれば……真那の屈辱はいかばかりだろうか。そういう真那の自尊心を知った上でからかうように問いかけるのだから、本当に夕呼は性質が悪い。AL4を完遂させるためにどれだけの外道であれ飲み乾して真っ向から立ち向かっている彼女を知ってはいるが、そういった悲壮なる孤高を貫く天才としての一面とは違って、こういう風に他者をからかう彼女は実に愉しそうである。
みちるもピアティフも、それをよくわかっているのだろう。武などよりも遥かに夕呼との付き合いが長い彼女達は、愉しげに口端を吊り上げる夕呼の横顔に嘆息していた。その、溜息をつくタイミングが実に揃っていて、武は思わず噴き出してしまう。――それを、最も聞かれてはならない人に聴かれていたらしい。
『ほほぅ、白銀少尉。貴様今笑ったか? ふふふ、そうか、そうだな。斯衛の赤を賜り、殿下より勅命を賜ったこの私が、OSの性能差を前に無様に屈したのだ。さぞ痛快であろうよ』
――ぇ?
モニターには碧緑の髪を結い上げた美しい真那の顔。碧色に澄んだ切れ長の瞳が、浮かべる笑顔とは裏腹にギロリと武を見据えていた。瞬間、絶望が過ぎる。隣りの画面に映っている水月が、呆れたように笑っていたのが印象深い。
単純に真那の勘違いなのだが、最早何を言っても無駄。完全に頭の中を真っ白にした武を放って、夕呼と真那が会話を続けている。一体どんな話をしていたのかはさっぱり記憶に残っていないが、気づけば強化装備に着替えていてシミュレータの管制ユニットに着座していた。ハッと正気に返ったときには既に遅い。眼前に広がるのはつい先程まで真那と水月が戦っていた市街地跡。その遥か向こう。彼我の距離が一キロ近く離れているにも関わらず、とてつもない存在感と殺気を放つ赤い龍。
「――あ、俺、死んだ?」
思わず零れた武の一言に、通信室で観戦していた全員が頷いた、
その後、XM3を搭載した紅の武御雷と、悲鳴と絶叫を轟かせる不知火の剣舞は夜更けまで続けられたという。……無論、ギャラリーはとっくの昔に解散していた。
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茜が上機嫌であることは、晴子を始めとする彼女の同期たちにとって、大変喜ばしい事項である。その筆頭が多恵なのだろうが、少々常人とは異なる嗜好を持ち合わせているらしい彼女は時折怪しい言動をとることがあるので、色々と注意が必要だ。そして、今日も今日とて訓練を終え、食事のためにPXへ向かう道中に、茜が思い出したように呟いた。
「武、おっそいなぁ……」
「「「……」」」
嘆息と共に零されたその言葉には、確かな情感が篭っている。晴子は薫と顔を見合わせ、ちらりと亮子を窺う。こくりと小さく頷いた亮子も、ニヤリと唇を歪めた薫も、今の茜の溜息が一体どういうものなのか吟味する必要がある――と、アイコンタクトで会話が成立していた。勿論、多恵だけは茜と一緒に“遅いねぇ”とぼやいていたのだが、それはまぁ、多恵なので仕方ない。
友人達の酷評に気づかぬまま、多恵は茜の横でぴょんぴょんと跳ねるように歩いている。まともに歩きなさいよ、と茜にお小言をもらうのが大変嬉しいらしいのだが、茜からすれば手のかかる子供にしか見えない。……これで武との二機連携がずば抜けているというのだから、あまりいい気はしなかった。ほんの少しムッとした表情になる彼女だが、しかしすぐにニマニマと締まりのない笑顔がこぼれる。どうやら何かを思い出しているようで、照れたように“えへへ”と微笑を浮かべていれば、それはもう格好の餌と言っていいくらい、晴子たちを刺激した。
(ねぇ、またアレ……最近多くないかな?)
(ああ、多いな。何か思い出しちゃあ、ああやって一人でニヤけてるんだぜ? おかしくなったか??)
(薫さん、それは失礼ですよ……。でも、気になります。白銀くんと何かあったんでしょうか?)
小声で呟く三人に、茜も多恵も気づかない。先を行く茜と多恵の後方で、少女達はヒソヒソと囁きあう。この場に武がいればまた少し違ったのだろうが、彼は今尚特殊任務の真っ最中であり、ここには居ない。なので唯一の突っ込み役である茜がしっかりと舵を取らねばならなかったのだが、生憎とその当人がトリップしているのだ。妄想を繰り広げる晴子たちを止める者はなかった。
「やっぱり白銀君か……問題は、ナニがあったか、だよねぇ」
「そりゃ白銀しかいねぇだろ。……で、ナニがあった、と」
「な、な、ナニって……ごくり、」
愉快気に武の名を出す晴子。何かあったのだろうかと言い出したのは亮子だったのだが、晴子の発音にはどこか邪な気配が感じられた。そしてそれを受けて当然の如く“あった”と断じる薫。いや、別に断じているわけではないのだが、彼女はよくそういう言い回しをする。単純に武や茜たち周りにいるものをからかうための言葉遊びなのだが、面白いことに、毎回亮子がそれに乗ってくれる。自分が口にしたそれとは全然異なるのだろう晴子と薫の言い回しに、小柄な亮子は頬を染めた。生唾を飲み込むあたり、しっかりとどういうものか理解していることが窺える。
ともあれ。
「白銀君って、結構凄そうだよねぇ……タフだし」
「だよなぁ。でも、ああいう奴に限って変な趣味持ってたりするんじゃねぇの?」
「あっははは、お尻とか?」
「「…………」」
「――ちょっ、ひかないでよっ!?」
当人達の知らないところで、随分と好き勝手な戯言を口にしているものではあるが、これが、彼女たちのいつもの風景だった。
人類の未来のため、この地球を救うため。そのために衛士となり、今も厳しい訓練に明け暮れている。けれど、それが全てではない。晴子、薫、亮子、多恵……彼女達四人には、もう一つ、明確な意思があった。儚く美しい、願いが在った。――いつまでも、武と茜が笑顔でいられますように。そんなささやかな願いをかなえるために、彼女達は戦っている。無論、本人達にその思いを告げたことはないし、今後も明かすことはないだろう。
ただ、その想いがあればいい。それが心の支えとなっていることは紛れもなく、絶対に死なせて堪るものかという強い意志を持たせてくれる。そして、自分も生き延びて、いつまでも彼と彼女と共にいたい。……それを叶えるためならば、どんな困難にも屈することはない。真っ向から立ち向かい、必ず、未来を掴んでみせる。
先にPXに到着した茜が振り返り、呼んでいる。どうやら話し込んでいる内に随分と遅れてしまったらしい。晴子たちはもう一度顔を見合わせて、可笑しくて笑った。そして、揃って駆け出して、茜と多恵の待つその場所へ向かうのだ。楽しげに笑いながらやってきた三人を見て、茜もつられて微笑む。何を話してたの? 問いかける茜に、それはもう最高の笑顔で晴子が答えた。
「白銀君とお尻でしちゃったってほんt――――――」
後に、多恵は語る。
「ひとって飛べるんだねぇ……」
凄絶なアッパーを喰らって宙に舞った晴子の身体が通路に落着したのは実に数秒後だったという。