『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「復讐編:二章-01」
1998年6月――
病院の白い廊下を歩く。丁寧に磨かれているのだろう、床には蛍光灯が映りこみ、無機質な色を視界に投げかけてくる。
時刻はもうじき正午。じわじわと暑くなりだした外気とは裏腹に、院内は清涼な空気に満たされている。
汚濁を赦さない潔癖の白壁に、知らず、もたれかかる。数メートル先に患者用のソファが置かれていたが、そこまで歩く気力さえ湧いてこなかった。
――お姉ちゃん……。
喉がひりついて、声にならなかった。
ずるずると力なく廊下に座り込むと、先ほどから繰り返し脳裏にこだまする医師の言葉を一つ一つ拾い上げる。
傷口から細菌が入り込み……
壊死を起こしていたため……
両脚を切断、
擬似生体を移植し、
繰り返すのは、ただ一言。
切断――。切断、セツダン、せつだん…………?
なんだろう、それは。……よく、わからなかった。
わかっているのは、手術は成功して今は静養が必要だということ。リハビリも含め、三週間もすれば訓練部隊にも復帰できるだろうこと。
ああ。どうしてあたしは、こんなに悲嘆に暮れているのだろう?
お姉ちゃんは三週間もすれば戻ってくる。「元通り」になって、無事に帰ってくるんだ。
ちゃんと、「自分の脚」で歩いて………………ジブンノアシ?
「――っぐ、」
急激な吐き気に口を塞ぐ。どっと冷たい汗が噴き出して、背中をびっしょりと濡らす。
「茜――っ!?」
ああ、向こうから誰かが走ってくる。……誰、だろう? 女の人の声……お姉ちゃん? 男の人もいる……ああ、なんだ、しろが、ね、
「おいっ! 涼宮、しっかりしろっっ??!!」
「――ッ、白銀、あまり揺さぶらないで。そっと寝かせて……」
エレベーターを降り、最初の角を曲がってすぐ、廊下の壁にもたれていた涼宮がぶっ倒れた。
顔は真っ白になっていて冷や汗をびっしょりかいている。慌てて抱き起こしたがぐったりしていて、……パニックに陥りそうな俺に、速瀬さんが指示を出してくれる。
速瀬さんはすぐに意識と呼吸・心拍の有無を確認。どれも正常なことを認識すると、すぐさま涼宮を抱え上げてソファへ寝かせた。俺に医師を呼ぶように言い、取り出したハンカチで額の汗を拭ってやっている。
……なんというか、実に鮮やかで無駄がない。呆然としている間に全てが終わってしまって、俺はと言えば、言われたままに医師を呼び案内するのが精一杯。
自分で自分が情けなくなるが、涼宮は無事だと言うことなのでほっとする。
医師は貧血だろうと診断を下し、ベッドを一つ用意してくれると言う。またも涼宮を軽々と抱え上げ、速瀬さんは颯爽と歩いていく。そのときでさえ慌てて追いかけることしか出来ない自分に気づいて、先日習った救急処置なんてまるで身に付いていないのだと痛感した。
くそっ! 莫迦か俺は!!
たまたま空いているという個室に涼宮を運び、寝かせる。顔色は尚悪いが、すぐに眼が醒めるだろうと言うことだ。
「…………」
速瀬さんはじっと黙って涼宮の顔を見つめている。俺も、あまりの自分の情けなさに、そしてここ数日の出来事を思い出して言葉が出ない。
そう、あれからまだ一週間も経っていない。
五月の終わり、訓練途中に呼び出された涼宮。
総合戦闘技術評価演習――。四回生の訓練兵が臨む、衛士となるために越えなければならない壁。
一介の訓練兵から、真実、衛士候補生となるための最終試練。年に二回行われる内の前期分。
その詳細を俺は知らないが、それは――死人が出ることもあるほどの、危険で過酷なものなのだという……。
一瞬とて気を抜けない。誰一人油断できない。個々人の能力の高さ、そしてチームとしての錬度がものを言う、正真正銘のサバイバル。
それまで積み上げてきた訓練の結果を試す。己の能力を確信し決して過信せず的確に任務をこなし生還する。
総戦技評価演習とはそういうものなのだと、ここに来る道中速瀬さんが教えてくれた。
そして、速瀬さんたちは失格した。
誰が悪かったわけでもない。――いや、確かに「悪かった」者もいるのかもしれない。
だが、それはその個人が責められるべき問題ではなく。その結果をして、あらゆる状況を想定できなかった自らが甘かったのだと言う、ただそれだけの現実。
涼宮の姉、遙さんは両脚を喪い、同じ分隊の仲間の多くが重傷を負い……そして、二人、死んだ。
人が、死んだのだ。
「白銀……よく憶えときなさい。それでもこれは、実戦じゃない」
「!!?」
心臓が跳ね上がる。
絶句したまま速瀬さんを見れば、真剣な表情のまま、眠る涼宮を見つめていた。
ベッドに横たわる彼女を通して、まるで親友の遙さんを見ているかのように。
「言い訳するみたいだけどさ、あたしも遙も、隊の皆も。まさかあんなことになるとは誰一人思わなかった。……違うか。少なくとも、高機動車を使おうとした何人かの中には、それを予想してしかるべき人物が必要だった」
「……」
「それが甘えだっていうのは、よくわかってるつもりだったんだけどね……。実際、こんなことになっちゃうとさ、流石にキツイわねぇ」
可笑しそうに笑う。俺には、その横顔を見つめる以外に出来ることなんてなかった。
ただ、無理矢理に自嘲する速瀬さんは……それでも、戦う覚悟を持ち続けているのだと気づくことは出来た。
「ん……」
薄っすらと、涼宮が眼を開ける。どうやら気がついたらしい。速瀬さんが顔を近づけて、名前を呼ぶ。
「茜、あたしがわかる?」
「……ぇ、はやせ、さん……? ぁ、たし……」
「まったく、貧血だなんて、なーにしおらしいことしてんのよ! 全然似合わないから、さっさと元気出しなさい」
上体を起こしながら張りのある声で笑う。ぽんと涼宮の肩を叩くその仕草が、妙に優しく見えて微笑ましい。
「……白銀?」
「なにニヤけてんのよ。気色悪い」
「何気に失礼ですよね?! ……よぅ、涼宮。どんな調子だ? いきなりぶっ倒れるからびっくりしたぜ」
先ほどのシリアスな雰囲気は何処へやら。いつものように振舞う速瀬さんに倣い、俺もできるだけ軽く返す。
辛くないなんてこと、あるわけがないのに。それでも強く在ろうとするその姿は、素直に尊敬できる。
だから俺も笑った。涼宮がこれ以上気落ちしないように。或いは、少しでも支えとなれるように。
「え、ぁ……そうか、あたし、吐き気がして……」
「軽い貧血だそうよ。一応点滴は最後まで受けときなさい。……まったく、そんな調子じゃこれから先大変よ? 貧血なんて起こしてる暇ないくらい、神宮司教官の扱きが待ってるんだから」
やれやれと溜息まで吐いて見せて、速瀬さんはニヤリと笑う。苦笑する涼宮を見て、一つ頷く。
「じゃ、あんたはそこで大人しく寝てること! 白銀、あんたは茜がベッド抜け出さないように見張ってなさい」
悪戯っぽく言いつつ、自身は病室から出て行こうとする。ちょ、ちょっと?! 何処行くんですか!?
「あたしは遙のところ。……なによ、一人じゃ何にも出来ないとでも言いたいの? ひよっこ訓練兵の白銀くん?」
「っぐ!? わ、わかりました。呼び止めてすいませんでしたぁ!」
完全にからかわれている。畜生、軽いパニックになってたとはいえ、やっぱりさっきのは痛いよなぁ……。
講義を受けてる最中は簡単だと思っていたのに、何一つ出来なかった。経験に勝るものはないと教官は言った。だが、それと同様に知識も重要なのだと。
……全くそのとおりだ。知識がなければどうしていいかわからず、知識があっても、その経験がなければ巧くこなせない。
そのために訓練が在るんだ。
ちぇ、ここまできて、俺と言うやつは……。はぁ~ぁ、やめやめ! 落ち込むのは簡単だが、そんなのやっても意味ないぜ!
それに今は涼宮のほうが問題だしな。このことはとりあえず帰ってからの課題だっ。
「で、実際どうだ? 苦しいってんならどうにかして和らげてやってもいいぞ」
「どうにかって……ちょ、何する気よっ!?」
両手をわきわきと動かして近寄ると、思いっきり慌てて身をよじり、逃げられる。……なんつぅか、冗談だったんだがちょっとだけその気になってしまった俺が哀しい。
「ははは、ま、それだけ騒げりゃ上等だな。安心したぜ」
「あ……うん。……って? え? 何で白銀がいるのよ??」
おいおい、大丈夫か? さっきから居ただろうがよ。
「じゃなくて! なんで? 訓練中なんじゃないの……?」
「あ? ああ、確かにそうだけど。……ぁあ、安心しろよ。ちゃんと教官の許可はもらってる。丁度速瀬さんも行くところだから、それなら一緒に行って来い、ってさ」
そう。思い出してもゾッとする。軍用車とはいえ、公道を法規制完全無視でぶっ飛ばしてきたんだ。そりゃあもう寿命が縮まったさ。
……ああいう人に車を運転させちゃいけないよな。ていうか、速瀬さん……車であんなに人が変わってちゃ、戦術機に乗ったらどうなるってんだ??
「教官が……あれ、でも、白銀一人なのよね? なんで、」
「ああ。涼宮が心配だったからな」
「――――ぇ…………ぇええ!?」
きょとん、として、絶叫。思わず上体を起こしてしまうくらいその驚きは大きいらしい。……なんだ? 俺変なこと言ったか??
首を傾げて自問するが、別におかしなことを言った気はしない。
「ぅ、うそ……だ、だって、白銀……」
あん? なんだ? 涼宮のヤツ視線をあちこちに彷徨わせて、段々顔が赤くなってきたぞ……??
「お、おいおい。大丈夫かよ? 顔赤いぞ。熱でも出たんじゃないのか?」
どれ、と額に手を当てようとすると、わぁわぁ叫びながら退く。……ベッドの上だってのに、器用なヤツだ。
「だだだ、大丈夫! 大丈夫だってばぁ!!」
「……? そ、そうか? まぁ本人がそう言うなら……?」
全然大丈夫そうに見えないんだが、ま、確かにこれだけ騒いでぶり返しがないのなら、大丈夫なんだろう。
「そ、その……し、しろがねっ」
相変わらず顔を真っ赤にしたまま、今度はなんだかもじもじとしおらしい。……あれ? ナンダこの展開??
「…………トイレ?」
「ばっ、ばかぁ!!? ななななにいってんのよぉ?!?!」
違ったのか? う~~ん。わからん。さっきから涼宮のやつどうしたっていうんだ??
数少ない女性経験(むしろ純夏)の中から該当する現象を検索するが、該当なし。ううむ、女ってのはよくわからん。純夏くらいわかり易ければいいのになぁ……。
何事かもにょもにょと呟いていた涼宮だが、ベッドのシーツをつまんだまま、上目遣いに見上げてくる。
――っ、ちょ、それは……っ。
不覚にもどきどきしてしまった!? ば、ばかなっ!!
「ね、ねぇ、白銀……さっきの、あたしのこと……その、心配……って……」
ぁ? あ? あぁあああ???!!! ま、まさか!? そういうことなのかっっっ?!!
「ちょ、ちょちょちょ! ちょっと待て涼宮!! 落ち着けそうだ落ち着こう! いいか、落ち着いて冷静になれっ!?」
「え? な、なによぅ」
「あれはだなっ! むしろ柏木がっ、というか築地がっ?! あいつら二人が涼宮が心配だから迎えに行かせて欲しいって……!!」
「…………ぇ? ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、なんで白銀が来てるのよ……???! っていうか、二人がって……ぇえ?」
「いや、だから、つまりだな。お前の迎えを申し出て許可を得たのは柏木と築地なんだが、何故か俺が行くことになっちまって……俺だってなんで俺なのかわかんねぇよ」
……むしろ、今この瞬間にその思惑がハッキリしたような気がしないでもないがっ! あいつら、帰ったら覚えてろよ!?
ともかく、涼宮は勘違いしている。そりゃ確かに俺も心配してたけど、ま、なんつぅか……あ~……悪いかよ、ああもうっ!
仲間なんだし、心配するだろっ?! そういうもんだろ?! くぅぅぅ、なんか言ってて恥ずかしくなってきたぞ?!
「と、ともかく…………貧血しちまうくらい、大変だったんだな……遙さん、大丈夫そうか?」
半ば無理矢理に軌道変更。涼宮にこのことを尋ねるのは酷かと思ったが、答えたくないのならそれで構わない。
知り合って間もない先任訓練兵。たまたま顔を知り、名前を知り、触れ合う機会があっただけで。そして、たまたま……同じ部隊に所属する涼宮の姉だったというだけの、それだけの関係だ。
心配するしないにそういうのは関係ないだろうとは思うが……入り込んでいい領域、というものは矢張り存在するだろう。
打って変わって沈黙する涼宮は、先ほどとは全く違う意味で視線を泳がせて……苦笑を浮かべた。
「うん……大丈夫だって。怪我はちゃんと治るし、訓練にも復帰できるって。……でも、擬似生体ってすごいよね~。あたし、本物と区別つかなかったもん!」
「……そうか。ああ、良かったな」
「うんっ」
無理矢理に繕った笑顔で、精一杯に頷く涼宮。目尻に浮かんだ涙が、こいつの心情を痛いくらい物語っていた。
両脚を喪った遙さんは、擬似生体を移植し、傷自体は治療できたらしい。俺は擬似生体を見たことはないが、涼宮も言うように本物の腕や脚、移植する以前のそれらと全く変わらないらしく、リハビリをこなせば日常生活や多少の運動も全く問題ないくらいに「元通り」になるそうだ。
……ただし、それが衛士適性にどう響くかは……わからない。
手術が完璧でも支障をきたす人もいれば、細やかな神経結合が完全でなく、それによって適性から外れる人もいるという。
戦場で傷ついた多くの負傷兵を救うために編み出され昇華されてきた技術だが、まだ若干の……それも、俺達衛士を目指すような者に限っての問題を抱えている。
涼宮がぶっ倒れた理由が何となくわかった気がする。大好きで大切で護りたい人である実の姉が、自分の手の届かない場所で、自分ではどうしようもない状況で、重傷を負い、両脚を喪い……命に別状はないとはいえ、擬似生体を移植されて……。
生きていてくれて嬉しいという思いと、無残な現実に打ちのめされて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったのかもしれない。
もし……これが純夏だったならと思うと……正直、涼宮のように無理矢理でも笑える自信はなかった。
「ちゃんと、生きてる……。お姉ちゃんは、生きてるんだもん。怪我も治るし、また、頑張って衛士になれるチャンスも残ってる!」
「ああ、そうだな」
お前は強いよ、涼宮。その強さは、どこか速瀬さんにそっくりで。……まったく、お前は凄いやつだよ。思わず尊敬しちまうじゃねーか。
知らず、笑みを浮かべる。元気よく笑う涼宮につられて、しばらく俺達は笑っていた。
「あら、随分と元気になったじゃない。茜、もう平気?」
笑い声が漏れていたのだろう、スライド式のドアを開けて、速瀬さんがやってくる。涼宮と俺の顔を見比べながらベッドに近づいて、
「茜ぇ、白銀になんかされなかった?」
「さらりとナニ言ってんですか貴女はあぁあああっっっ??!」
いい加減予測済みだったその暴言にコンマのズレもなく追随。満足そうに頷く速瀬さんはとても愉しそうで、涼宮もつられて笑っている。
いや……まぁ、なんかもう慣れてしまった自分が哀しい……。遙さんの容態を聞いてみたかったが、やめておいた方がいいだろう。
涼宮からの話でも大体の状況は知ることが出来た。俺にとって重要なのは、遙さんは無事だということ。
怪我も治って、元の生活にも訓練にも支障がないのなら……後は俺がどうこうしていい問題じゃない。
それを承知しているのだろう。速瀬さんも特に遙さんについて話題にすることもなく。来た時同様、速瀬さんの運転で基地へ戻ることになった。
「水月ィ!!」
軍病院の駐車場へ向かう途中、こちらへ走ってくる男の人が叫んだ。速瀬さんの名を呼び、あっという間に近づいてくるその人には見覚えがある。
「孝之?! あんた何やってんのよ?!」
「ああ、丁度午前の訓練が終わってな。バイクぶっ飛ばしてきた」
そうだ。この人はタカユキさんだ。あの時、俺に速瀬さんと遙さんを見なかったか確認し、恐らくその二人から逃げていただろう先任訓練兵。
鍛え上げられた太い腕で肩をばしばしと叩かれたことは記憶に新しい。……結構、印象強い出来事だったしなぁ。
「遙は……ぉ、よう。元気してたかひよっこ!」
速瀬さんの後ろにいる俺に気づいて、子供みたいな笑顔を零す。一度会っただけの新兵を見覚えてくれているとは……ちょっとだけ嬉しい。
「ど、どうも。お久しぶりです」
「ああ。……なんだ? 知り合いだったのか、お前ら?」
「まーね。…………孝之、ちょっとこっち」
「あ? ああ。済まないな、二人とも。少し水月借りるぜ?」
俺と涼宮を残して、先任二人は駐車場の隅へ。……恐らく、遙さんのことについて話している。俺達が関わっていい話ではないだろう。
「涼宮、先に車へ行ってよう」
「……う、ん」
どことなく後ろ髪を引かれるような雰囲気で、しかし涼宮は前を向き、俺の隣を歩く。
「さっきの人、知り合いなんだ?」
「まぁ、知り合いというか。ん~~、前に偶然出会って、少し話をしただけだ。自己紹介すらしてないな、そういえば」
ふぅん。
呟いたきり、涼宮は口を閉ざす。何やら物思いに耽っている様子で、少し疑問に思ったが放っておくことにした。
乗ってきた軽装甲車輌に到着し、車体にもたれかかる。まだ考え込んでいる様子の涼宮は、時折速瀬さんたちが向かった方向を振り返りながら、またも考え込む。
いい加減気になってきたので、声を掛けてみることにした。
「おい、なに考えてるのかしらねーけど、あまり思いつめるなよ?」
多分に的を外した気もするが、まあいい。
案の定、呆気にとられたような顔をする涼宮だったが、苦笑しながらこちらを向き、
「ごめんごめん。……さっきの人ね、多分、鳴海さんかなーって」
「ナルミ?」
そ。目を閉じて頷く。――鳴海孝之。その名前を呟いた時、どこか寂しげで、そして誇らしげな響きがした。
「お姉ちゃんの、好きなひと」
「…………は?」
「残念だったわね~、白銀」
ナニガザンネンナンダ?
「お姉ちゃんからの手紙にね、よく出てくるんだ、鳴海さんのこと。速瀬さんと同じくらい。同じ部隊で、お姉ちゃんとは別の分隊の分隊長やってるんだって」
「ほう……」
それはそれは。ま、実の姉の好きな人となれば、こいつなりに思うところがあるんだろう。
納得したと相槌を打ち、適当な話をしながら速瀬さんを待つこと数分。
やってきた速瀬さんが運転席に乗り込み、俺達は後部座席へ。いつもと変わらぬ速瀬さんの口撃(誤字に非ず)に悲鳴をあげながらも――どこか気落ちしたように見える速瀬さんに、少しだけ胸が痛んだ。
……涼宮も速瀬さんも……俺なんか比べ物にならないくらい、強い。
多分、わかっているんだ。
遙さんが戻ってきた時、笑顔で迎えられるように。
喪った脚は戻らないけれど、亡くなった仲間は戻らないけれど。
それでも、生きて、また、共に進むことの出来る喜びを。
涙を流すのは一回でいい。
涙を引き摺るのは、衛士にはあってはならない。
仲間と共に在るときは笑顔で。過去を悔やむのではなく、嘆くのではなく……それさえを力に換えて、前へ。
それは、とても、高潔で美しく、強い――。
(敵わねぇな、ははっ)
ハンドルを握る速瀬さんの後姿に。その姿に追いつこうと実践してみせる涼宮に。
俺は憧憬にも似た感情を抱いていた。
「そういえばさ、白銀ってどの辺りに住んでるの? 柊町なんでしょ?」
唐突に、涼宮が切り出す。行きとは違い、速瀬さんは至極まともな運転だったためまだ基地には着いていない。……多分、来る時はこの軽く三倍は出てたな。
しかし、どうしてまた俺の家……。まぁ、確かにここらなら近いけど……むしろ、基地まで徒歩でいけるような距離なんだけどな。
この辺、とだけ答えるととてつもなく白けた様子の涼宮さん。……な、なんだよ? 俺が悪いのか?
「白銀ぇ。あんたわかってないわね~」
ニヤニヤしながら振り返る速瀬さん。いやいやいや! 前見て下さいよっ?! 前!!
「……なにが、ですか?」
「は、速瀬さん!?」
「まぁったく、これだから男って。あんたって相当鈍感よねぇ」
「わー、わー、わーっっ!? 速瀬さん何言ってんですかーっ?!」
物凄く大きな声で涼宮が喚く。お、落ち着けって。乗り出すんじゃねえよ危ねぇなっ。
女二人で十二分に姦しい涼宮たちを眺めながら、溜息をついて視線を車の外へ。
……確かに、見覚えのある風景だった。訓練校に入隊して既に一ヶ月過ぎ、二ヶ月目に突入しているが、その間基地から出ることなんてなかったし、少し懐かしいなどと感じてしまう。
と、何となく眺めていた流れる風景の中に、
――――少し長めの赤い髪、
――――いつもの黄色いリボンを結んで、
――――あどけない表情で、
――――両手で配給制の食料袋を抱えて
――――元気に、
――――笑顔で、
「純夏ァっっ!!」
「――!!?」
振り返る。振り返る、振り返るっ――!
名前を呼ばれて、凄く驚いた表情で、袋を落としてしまうくらいにびっくりして、でも、
「た、タケルちゃん…………っっ!!」
凄く凄く、ああ、嬉しそうな顔で!!
「ちょ、ちょ、白銀っ?!」
「すんません、少し待ってください!!!!」
俺の突然の叫びに驚いた速瀬さんが車輌を停める。呼び止める声も聞かず、ドアを跳ね開け、飛び出す!
数十メートル行き過ぎただけの距離を、けれど全速力で駆ける。――ああ、畜生! 純夏、純夏、純夏ッッ!!
「純夏ぁーっ!」
「わっ、わっ、タケルちゃあ~ん??!」
走って勢いのついたまま純夏を抱き上げる。はははっ、なんだ、随分軽く感じるな。それなりに筋力もついたってことだろうか。
いや、いいんだそんなこと。ははは、純夏だ。純夏だ。ホントに純夏だ。
やべぇ、俺、なんでこんなに浮かれてるんだ? たった二ヶ月。手紙だってやり取りして、お互いの近況なんかも伝え合ってるっていうのに!
「ははは、久しぶりだなぁ、純夏。ちょっと痩せたんじゃねぇか? でも、元気そうで安心したぜっ」
「ちょ、ちょ、タケルちゃ~んっ。降ろしてよ~、怖いよ~っ!」
抱き上げたままぐるぐると廻る。悲鳴をあげる純夏が可笑しくて、調子に乗ってしまった。
目を回す純夏をゆっくりと降ろし、両肩を支えてやる。
「はわぁ~~、目が廻ったようぅ~?! で、でも、タケルちゃんどうしたの?! なんでこんなとこいるのさ~っ?!」
ちょっとだけ上気した頬が可愛い。いまだに驚いた様子ながら、仕草の端々に嬉しげな感情が読み取れて、こそばゆい。
うぁ、俺、本気で惚れてるのな。
そんな純夏の動作の一つ一つが、たまらなく愛しく思えて、気がつけば純夏を抱きしめていた。
「~~~~ッッッ!!!???」
「ああ、悪ぃ。なんか、我慢できなかった……」
って、何言ってんだ俺。歯が浮くにも程があるぞ……。今更に恥ずかしくなって、顔が真っ赤になる。身体を離すと、それ以上に真っ赤に染まった純夏の顔。
恥ずかしそうに不貞腐れる純夏の頭をくしゃくしゃと撫でる。
髪を結っているリボンに気づいて、右のポケットから同色のそれを取り出した。
「あ……それ、」
「ああ、ちゃんと持ってる。大事なお守りだからな」
嬉しそうに、けれど思い切り照れながら。ま、それはお互い様だ。
今一度微笑み合い、ゆったりとした甘い空気が漂い出したそのとき、
「あのねぇ、いつまで付き合わせるつもりよこのエロガキ」
「…………あ」
完全に蚊帳の外に置き去りにして存在すら忘却していた速瀬さんが、それはもう不機嫌な様子で仁王立ちしていらっしゃった。
「わ、た、タケルちゃん……」
恐れるな純夏……、俺はもっと怖い……!
「白銀ぇ、あたし、そろそろ基地に戻りたいんだけど……?」
「す、す、すみませ……っ??!!」
腹の底から縮み上がるような空恐ろしい速瀬さんの声に、がくがくと足が震える。――が、そんな俺の視界に映りこんだのはそれよりも更に恐ろしい涼宮の満面の笑み!!!!
輝かんばかりのパーフェクトスマイルでこちらにやってきて、純夏が落とした食料袋を拾い上げる。
直感が得体の知れない恐怖が迫りくることを予見し、警鐘を鳴らす! だが、凍りついたように俺の脚は、身体は、全く言うことをきかないのだ。
「はい、少し汚れちゃったね」
いつもと全く変わらない声。明るく、はきはきとしたその口調。
「あ、ありがとうございます……ぇ、っと」
「あたしは涼宮茜。白銀とは同じ訓練部隊なんだ。――鑑純夏さん、だよね?」
「え!? ぁ、は、はいっ。鑑純夏です!?」
突然に名前を呼ばれて狼狽する鑑純夏。な、なんだ……? 涼宮、何をする気なんだお前っっ?!
言いようのない焦燥に汗が伝う。微塵の翳りもない笑顔のまま、涼宮が右手を差し出したっ!?
「――よろしくね、鑑さん。一度会ってみたかったんだ」
にっこりと笑う涼宮からは、俺が感じていた壮絶な気配が消えていた。あ、あれ? 気のせいだったか??
どっと疲労に襲われながら、ほっと胸を撫で下ろす。ナニカとてつもなく危険なことが起こるような気がしていただけに、何事もなく一安心だ。
差し出された右手と涼宮の顔を行ったり来たりしながら、純夏は決意したように自らの右手を出して、握った。
――握手。
嬉しそうに微笑む涼宮に、つられてえへらと笑う純夏。……よくわからんが、仲良くなったようで。
「はいはいそこまでー。いい加減戻るわよ~」
ヤレヤレと全身で呆れている速瀬さんの号令に、涼宮は純夏から手を離し、
「安心して! 白銀はあたしたちがちゃんと面倒見るからさっ!!」
そんな、聞き捨てならない台詞を残し、車へと走り去っていく。…………す、涼宮、おま……っ。
「た~け~る~ちゃ~ん?」
「な、なにかね純夏くん」
「面倒見るって……ナニ?」
「さ、さぁなぁ……涼宮のヤツ何言ってんだろうなぁははははは」
先ほどとは違う種類の汗がダラダラと流れ出す。
突き刺さるような純夏の視線も痛いが、それ以上に速瀬さんの視線が怖い……。ハァ、ここまでだな。
「ん、ま、純夏。元気でな。いい加減基地に戻らないとそこの恐ろしいお姉さんにぶっとばされるんだ。…………休暇がもらえたらさ、家に帰るから。また、その時になっ!」
「う、うん。……タケルちゃん! 頑張ってね!!」
車輌へと走りながら、返事をする代わりに手を振り上げる。背後にはぶんぶんと手を振る幼馴染の気配。――多分、車が見えなくなるまでそうやって手を振り続ける、俺の好きなひと。
「ったく……恋人に会えて嬉しいのはわかるけど、少しは自重しなさいよね……」
乗り込んだ瞬間に速瀬さんからの手痛い叱責。返す言葉もございません。
「すいません。その、つい……」
はいはい。溜息まじりのその声にはもう恐ろしい気配はなく。なんというか、手のかかる弟につき合わされてうんざりしているようだった。
――え? 誰が弟??
爆音を上げ、再びの法規制完全無視の暴走運転。名残を惜しむ間もなく、あっという間に純夏の姿は見えなくなってしまった。
偶然とはいえ、今回純夏に会えた意味は大きい気がする。
手紙でも想いを伝えることは出来るけど、それでも、やっぱり顔を見ながら、触れ合いながら話す方がいい。
何て言うのかな……。十数年間ずっと隣りに居たあいつと離れて……久しぶりに会えたことでまた想いが強固になったというか。
気恥ずかしいことこの上ないが、要するに、――前より好きになっちまった。
「うっゎ、白銀、顔緩みまくってる」
「しかも凄いニヤニヤしちゃって……茜ぇ、あんたも大変ねー」
「速瀬さんっっ!? あ、あたしは別にっっ!?」
「はいはい。暴れない暴れない。――白銀はあたしがちゃんと面倒見るからっっ」
「わーっわーっわーっ!!?? やめてくださいーーっっ! そ、それに、“あたし”じゃなくて“あたしたち”ですってば~~っ!?」
そんなにぎやかな帰り道。
俺達は心の底から笑い合いながら、それぞれが進むべき道を今一度見据えていた。