『Muv-Luv ALTERNATIVE ~復讐の守護者~』
「守護者編:四章-03」
佐渡島からBETA勢力の掃討・殲滅が確認されたのは、それから更に二時間が経過した後だった。あまりにも途轍もない物量に、取り逃してしまった固体も多く、その大半は海を渡り甲20号目標へと向かっているらしかった。……監視衛星や各種センサー類から推測した進路だが、十中八九間違いないだろうというのが、作戦司令部の見解である。一部、大深度地下から逃亡を図った一群もいたようだったが、これについてはその行き先が掴めていない。……あまりにも地中深すぎて、追跡できなかった。
今回の反応炉破壊後のBETAの行動については諸説あり、識者たち、並びにAL4最高責任者である香月夕呼の導き出した仮説では、BETAはその巣であるハイヴ――反応炉を破壊された後は、近隣のハイヴへ移動する、という結論が導き出されている。これは地上部隊が佐渡島でBETA掃討戦を行っている最中に出された仮説であったが、成程、眼前を逃げ惑うBETAを手当たり次第に狩って回る側としては、頷けるものだったに違いない。
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前代未聞の大反攻の中を、特務部隊であるA-01は帰還していた。ハイヴ内戦闘の詳細を報告するべく、夕呼の乗る作戦旗艦最上へ収容された彼女たちは、ようやく訪れた平穏に重く息を吐く。――あまりにも、死にすぎた。その感情は、決して間違ってはいない。いや、ハイヴ攻略戦という前代未聞の大作戦、そしてあの地獄の釜の底のようなBETAの大集団を相手の戦闘を考えれば、それでも少ない方だったのかもしれない。
ハイヴ突入部隊で無事生還できたのはA-01のみ。それだけでも彼女たちの優秀さが知れるというものだが……帝国軍第211中隊の全滅、そして――隊員四名の戦死は、少女達に小さくない傷を刻んでいた。
茜は管制ユニットのハッチを開ける。まりもから艦内待機命令が出されたからだが、つまるところ休息である。佐渡島上では今も展開する帝国軍・斯衛軍の大部隊がBETAの残党を食い散らかしているが、ハイヴ突入・攻略という偉業を成し遂げた英雄である彼女たちには、特別に休息が許されていた。隊員の情報については一切が夕呼の権限によって伏せられているが、横浜基地所属の特務部隊A-01の名は、既に帝国軍中の知るところとなっている。
だが、今の茜にとってそんなことはどうでもいい。彼女の頭の中を占めるのは唯一つ。――血涙を流し、血を吐き、死相を浮かべながら戦っていた、愛する人。武の無事だけが気掛かりだった。
管制ユニットから飛び出すようにして、まろぶように駆ける。向かう先には赤い武御雷に白い武御雷が三機。そして……左主腕の失われた、蒼い不知火。そこには四人の人影があって、それらは全て零式強化装備を纏った女性であることがわかる。不知火のハッチは閉じられたまま。搭乗者は、まだ降りてきていない……。
「武ッッ!」
声高に呼び、駆けつけた茜を真那が制する。目の前に差し出された腕に戸惑いを見せた茜だったが、次の瞬間に向けられた真那からの鋭い眼光に、足を竦ませてしまう。……その瞳は、怒りに燃えていた。ほんの一瞬だけ茜を睨み据えた真那は、腕を下ろし、再び頭上を見上げる。不知火のハッチが開く。手が見えた。続いて黒髪。真っ白で、半分血に汚れた顔。手で拭ったのだろう、赤色が汚らしく広がっている。
まるで幽鬼を連想させるほど生気が感じられないが、それでも彼は茜の知る武の顔を姿をしていて、自分の足で立っている。眼下を見下ろす彼と目が合い――彼は破顔した。タラップを降り、ゆっくりと茜の前にやって来る。思わず抱きつきたい衝動に駆られたが、隣りの真那がそれを許さない。彼女から発せられる鬼気とした空気が、茜の足を縛っていた。……背後から、水月がやって来る。彼女だけではない。他の仲間達もやってきて、全員が、強張った表情で武を見ていた。
「……た、け、る……」
「ぁあ、茜……。どうしたんだよ? そんな顔して……。俺たちはやったんだ。そうだろう? …………だったら、戦死したみんなの分まで、胸を張って誇らなきゃ駄目だ」
一瞬、茜はなにを言われているのかわからなかった。けれど、理解する。武は茜が仲間の死に心を悼めていると勘違いしたのだ。……いや、勿論、その感情もある。同期であり親友である二人を喪い、多くのことを教わった先達を二人喪った。更には自分たちの背後を護り切って全滅した211中隊への哀惜の念もある。――けれど。今の茜の頭の中は目の前に立つ武でいっぱいだった。そのことに、顔面を血で汚した自分を案じているということに、武は気づかない。
気づかない振りをしている。
下手な芝居だという自覚は武にもあった。血涙や吐血自体は戦闘中、或いは帰艦途中に収まっていたため、既に乾いていた。操縦の合間に強化装備越しに腕で拭っていたのだが、それが不味かったらしい。管制ユニットの中には負傷した際に備えて救急セットも用意されているのだが、乾いた血は包帯で拭った程度では落ちなかった。そのために今も武の顔面は汚らしく汚れているわけだが……そんなものがなくとも、今の彼は、誰が見ても瀕死に見えただろう。
鏡で自分の顔を見ていない武には、それがわからない。彼だけは、茜や皆が自分の顔に付着した血液に驚いているのだろうと思っている。そうして、そんな自分を誤魔化すために、見当違いとは知りながら、戦友の死に哀しみ打ちひしがれている仲間を励ます言葉を掛けたのだ。――誤魔化しきれるはずがないと知りながら。空しい抵抗である。
「たけ……ッ」
「白銀、話がある」
立ち竦んでいる茜の肩を押しのけるように水月が前へ出て、武の名を呼ぼうとした。その表情は怒りと困惑に歪み、今にも殴りかかりそうなほどの勢いがあったのだが、それに先んじて、彼女たちの一番背後から――底冷えのする、鋭い声が放たれた。まりもである。武は“やっぱりか”と半ば諦めに似た表情を浮かべ、残る全員は一斉にまりもへと振り返る。ただ一言で群れる彼女たちの疑念を封じてしまったまりもは、ゆっくりと重々しく武の前まで進み出て、それだけで何十回と殺せるほどの視線を向ける。
全員が言葉をなくす。武も、元教官にして部隊長であるまりもの強烈な殺気に呼吸を忘れてしまうほどだ。追求は免れないと承知していながら、これだ。武はこの期に及んでまりもには絶対に叶わないなどと戯けた感想を覚えてしまう。そんな的外れな思考を浮かべてしまう自分は既に脳ミソがいかれてしまっているのではないかと笑いたくなるが、辛うじてまだ生きている。――現実逃避はよせ。腹を括ろう。武はまりもの威圧的な視線に小さく頷き、歩き出した彼女についていく。
結果、取り残される形になってしまった茜たちだったが、全員が一言も発することも出来ず、呆然と二人の背を見送るしかなかった。…………副隊長であるみちるが全員へ艦内待機を改めて命ずるまでに、数分の時間を要する程度には、衝撃的な出来事だったといえる。
「一体どういうことか説明してもらおう」
「現在の任務に支障ありません。従って、少佐に御説明申し上げることもありません」
「そんな戯言が通用すると思うな!? 貴様ッ、白銀ェ!! ……貴様、“いつ”からだ……?」
今にも胸倉を掴まれそうなまりもの剣幕に、武の心臓は無様にも縮み上がってしまっている。だが、どれだけ凄まれようと武は答えない。いや。答える必要は、ないらしい。
内心で武は安堵していた。まりもは少佐だ。そして、夕呼と旧知の仲であり、親友でもあるという。つまり、正真正銘、夕呼の片腕と呼べる存在である。片腕というならばみちるやピアティフもそうだろうが、まりもは別格なのだろうという思いは、武だけでなく、隊内の全員が持っていた。多分それは事実なのだろうが、こと“この件”に関しては、まりもは知らされていないらしかった。……無論、みちるも同様だ。片腕でこのことを知っているのはピアティフだけということになる。
夕呼にとっての陽を司ってきたのがみちるなら、陰を司ってきたのがピアティフ……ということだろうか。階級こそ上位だが、まりももまた、陽の部分を夕呼から任されているのだろう。武はそう判断する。――まりもは、武が脳改造を施されている事実を、「知らない」……「知らされていない」のだ。
ならばそれは夕呼がまりもに話す必要はないと判断したということだ。武のあの容態のことを説明するためにはリーディング能力開発のためのクスリについて言及せねばならず、そしてそれを明かすということは、AL4の根幹を担うあの脳ミソ――鑑純夏――のことまで触れなければならない。夕呼の片腕であり、しかも少佐であるならばまりもはAL4について熟知していて当然なのだろうが……それを「知らされていない」というならば、迂闊に武が話していい事項ではない。
Need to Know
その言葉を教えてくれたのは彼女だった。一兵卒に過ぎない自分が、上官の知らない闇を知っている。……そんな皮肉は、優越感も何ももたらしはしない。けれど、今はそれが有難かった。武は機密だから答えられないの一点張りで、この場をかわすことが出来るのだから。
「なん……ですって……っ」
思わず零れたその言葉は、きっとまりもの本音だったのだろう。部下から、しかも元教え子から、決定的な回答拒否を突きつけられたのだ。ショックでないと言えば嘘になる。例えそれが、あまりに軍人らしくない、甘ったれた感情だったとしても。――彼女は、武から信頼されていると思っていたのだ。それを裏切られた……。否。裏切りなどと捉えることが既に甘く、そして誤りだ。武は軍人として当然の対応を取ったに過ぎない。
機密とは、外部に漏らしてはならないからこそ、機密なのである。如何に上位階級の者の命令とはいえ、脅し程度で口を割ることは許されない。そのことを厳しく教え込ませたのは、他ならぬ自分である。優秀な教え子だとは思っていたが、こうも強かに出られる時がくるとは夢にも思っていなかった。
「自分の口から御説明申し上げることは出来ません」
「…………わかった。下がっていい。……………………伊隅に伝えろ、私はこのまま香月博士の元に出頭し、戦果報告を行う。隊員は別名あるまで待機、斯衛軍第19独立遊撃小隊も同様だ」
「はっ! 伊隅大尉へ香月博士への出頭、ならびに戦果報告の旨を伝達し、全隊員および斯衛軍第19独立遊撃小隊へ別名あるまで待機すべし旨を伝達いたします!」
上出来だ。――退がれ。力なく命ずるまりもに敬礼して、武は背を向けた。顔面を血に汚したまま去っていく部下の背中を見て……まりもは、自分が夕呼の信頼に値しないのかと項垂れる。
「……そんなことは考えるな。…………全てを知る必要など、在りはしない」
武がAL4の深部に関わっていることなど、とっくに承知している。国連軍に移籍してきた矢先、夕呼から特別任務を与えられ……今年の六月には異例の早期任官まで果たしたのだ。無関係であると考えるほうがどうかしている。だが、まりもが知っている情報の中に、武が血涙を流し、或いは吐血するような部類のモノは存在しない。明かされていない。夕呼が知る必要はないと切り捨て、或いは知らせたくないと情報を非開示しているのか。
いずれにせよ、夕呼本人に問い質すべきだろう。武が頑なに口を閉ざすのは、これが夕呼直々の何某によるものだからだ。……尊敬すべき上官であり、親友。世界を救う天才であり、人類の希望そのもの。
「夕呼――どうか、貴女を信じさせて」
その独白は冷たい艦の空気に凍り付いて、まりもは一層冷ややかな眼をするのだった。
武の口から改めて艦内待機を伝達されたみちるは、その場に居た全員へ解散を告げる。帝国軍の艦である以上、機密扱いの自分たちが艦内を闊歩するわけにはいかないが、それでも、この場に固まっているよりは健全だろう。一人になりたいものも居るだろうし、何かに打ち込みたいものもあるだろう。少なくとも、まりもが戻ってくるまでの間は自由な時間があってもいい。……今このときも戦闘は続いているが、今それを考える必要はない。既に、自分たちは役割を終えているのだから。
「……貴様は顔を洗って来い」
「はぁ……そうします」
曖昧に笑う武の顔色は相変わらず悪い。けれど、本人を見る限りは元気そうであるから不気味だ。自身のものとはいえ、顔が血で汚れていることは本人も気になっていたらしい。武はみちるに勧められるまま洗面所へと向かい、その後ろを茜がついて歩く。そうやって二人の姿が見えなくなるまで、みちるも、他の誰も、口を開くことはなかった。解散を命じたというのに、律儀な連中である。みちるは深く溜息をついた。
「ほらほら、お前たちも解散だ。……今だけは、自分に優しくしてやれ」
「「「……」」」
顔を上げ、手を叩きながら苦笑する。初めて戦友を喪うという悲しい体験をした新兵たちに向けられた言葉は慈しみを持って優しく、染み渡る。その言葉を受けて、真那は己の部下を引き連れてその場を後にし、水月たち先任が多恵たちに声を掛ける。泣くな、落ち込むな、という方が無理な話だが、衛士は仲間の死を嘆いてはならない。いつまでも悲しみに暮れていられるほど、戦場はぬるくないのだ。……それでも、“今だけは”。
泣きたいなら声を上げて泣けばいい。
仲間の死に、咽び、哀しんでいい。
経験の浅い新人達は水月たちに連れられるまま去っていき、みちるは一人その場に留まる形となった。歴戦の勇士である彼女とて、矢張り部下の死は辛い。四人が死んだ。四人とも、よい衛士だった。自分よりも若く才能を秘めた者たちが、自分よりも先に死んでいく。……それを悔しいと嘆くなら、もっと、もっと強くなろう。一人でも多くの部下を生き残らせるために。一人でも多くの部下を救うために。そう出来るように――強く。
「生きてさえいれば…………か」
それは昔、まりもがみちるに言った言葉だ。どんなに無様で格好悪くとも、生きてさえいれば、生き延びさえすればまた上を目指すことが出来る。戦える。――その通りだ。みちるは目を閉じる。そうやって自分はここまで来た。戦って、生き延びて。それを繰り返して、経験を積んだ。そうやって、反吐を吐きながら成長してきたのだ。
去っていった部下達を想う。今は嘆き、悲しむといい。涙が枯れるほどに泣いて、そして……その分だけ、強くなって欲しい。先に逝った連中も、それを望んでいるだろうから。そして、絶対に彼女たちを無駄死ににしないためにも。強く。……強く。
「大塚大尉、貴様の想い……確かに受け取った」
莫迦な男とは思うまい。彼が命を賭してまで愛を語るに相応しかった女として、みちるはこれからも生き抜いてみせる。……それが、あの時答えられなかった自分の、せめてもの誠意だ。
梼子と真紀は、海を見ようと甲板までやってきていた。みちるの命令をまるっきり無視しているわけだが、そのことには頓着していない様子で、真紀はおもむろに胡坐をかく。甲板上では所狭しと帝国海軍の兵士達が走り回っていて――今尚地上戦を続行しているので当然だが――邪魔をするわけにもいかなかったのだ。艦内へ通じる扉のすぐ傍で胡坐をかくのも十分邪魔だろうと梼子は思ったが、それを言うのは野暮だろう。
国連軍仕様の強化装備を着用している彼女たちを見ても、誰一人声を掛けようとはしない。皆、知っているのだ。表向きは知らないということになっているが、それでも、隊を成して帰艦してきた国連軍の不知火を見ていれば、自ずと推測できることであり、死線を潜り抜けてきた英雄達にはゆっくりと休んでもらいたいという思いもある。
そういう無言の気遣いを梼子は察することが出来たので、甘受することに決める。真紀の隣りに座り、膝を抱えるようにする。視線は海の向こう……佐渡島へ向けられていて、おぼろげに見える地表構造物を見据えている。こうしてぼんやりと座っていると、自分は本当にあの地獄の底にいたのだろうかと不思議に思えてくる。まるで夢のように曖昧な、茫漠とした感覚に陥ってしまいそうだ。
……けれど、アレが、あの地獄が夢であるはずもないし、ハイヴ内の独特の怖気、押し寄せる敵の物量に心臓が凍りつきそうになったこと。――古河慶子と高梨旭。彼女たちを喪った、その現実は、どうあっても覆せない。真紀と自分、二人だけになってしまった。
最初は十二人だった。……任官して、戦場に出て……一人減り、二人減り……今年が始まるころには七人まで減ってしまって……ようやく、戦場で互いをフォローし合える実力と精神的余裕を身に付け、経験を積んでいった頃……あの、七月に。上川志乃を、岡野亜季を、篠山藍子の三人を喪って――四人だけになって。
「みんな、アタシを置いていっちまうんだ」
ぽつりと呟いたのは真紀だ。胡坐をかいて、ぼんやりと空を見上げる格好の真紀は、そのままの姿勢でもう一度繰り返した。――みんな、置いてっちまう。まるで無表情のようで、抜け殻のようで……そんな横顔を見てしまうと、梼子は泣きたくなってしまう。見上げる空の向こうには、志乃や亜季、慶子らが居るのだろうか。真紀が特に親しくしていた彼女たち。志乃が戦死した時、「何で先に逝くのか」と……「置いていくなんて酷い」、と。真紀がそう嘆いていたと教えてくれたのは、慶子だった。
きっと真紀は、そういう少女なのだ。誰か傍にいてくれないと、笑うことなんて出来ないのだ。……親友だった志乃や、仲の良かった亜季、慶子……或いは、慕ってくれていた晴子や薫……。
梼子とて悲しい。明るくて賑やかで、周囲の皆を温かい気持ちにさせてくれる彼女たちが喪われたことはとても胸を締め付ける。ここまで共にやって来た戦友を、同期を喪うことがどれだけ辛いことか。旭。彼女は、入隊当時からずっと同じ部隊だった。尊敬していて、頼りにしていて……よい、友人だった。
「……それでも、私たちは戦わなければならない」
「……」
まるで自分に言い聞かせるように、梼子は固く言葉を結ぶ。空を見上げたままの真紀は、何も応えない。真紀とてわかってはいた。それが衛士の義務――いや、責務なのだと。戦友の死を嘆く暇などありはしない。彼ら彼女らの死を嘆くことは、戦場に散ったその魂を蔑むということだ。
語らねばならない。誇らねばならない。彼女たちがいかに素晴らしき衛士だったかを。そしてその死を、無駄にしてはならないのだ。特務部隊A-01として、戦って、生き延びて、語り続けること。それが、衛士の流儀というものだから……。
「トーコ、お前は強いなぁ……」
「悲愴にならなければ戦えないなんて、哀しいでしょう? ……だから、私は輝かしい思い出を抱いていたい。彼女たちとの楽しかった日々を、大切にしたいだけです」
だから戦う。その思い出を胸に。彼女たちの死に様と、彼女たちの生きてきた日々を抱いて――生きる。戦う。それが、梼子の誓いだった。
鏡に映る不気味な相貌をした男を見て、武は思わず息を呑んだ。蒼白を通り越して白色に近い顔色をした、幽鬼のような男。それが自分なのだと理解するには、些かの時間を要していた。背後には、痛ましそうにこちらを見つめる茜の姿がある。鏡越しに目が合った彼女に、一体どんな顔をして、どんな言葉を掛ければよいのかわからない。
まりもへの説明も機密情報だからの一点張りでかわしたのだから、茜に対しても同様の措置を取るべきだろう。無論、そのつもりだったのだが……茜は武に事情を尋ねようとはしなかった。茜の心中でどのような感情が鬩ぎあっているのかは、今にも泣き出しそうなその表情を見れば理解できる。愛する少女にそのような表情をさせてしまっている自分を盛大に罵倒したいが……不甲斐ない自身をなじったところで、武の身体は治りはしない。
どうあっても、副作用のことは説明など出来ない。実際は機密など関係なく、単純にひとに知られたくないだけなのだ。“脳ミソを改造され、人の心を読むことが出来て、その副作用でもうじき死ぬ”。そんなことを……言えるわけもなかった。
武はいつその命を落とそうとも、最期のそのときまで茜を護り続けるつもりでいる。共に戦場にある限り、彼女の身は己が護ると決めている。けれど、それはあくまで武の身勝手な誓いであって、茜は武の命が長くないことを知らない。彼女が自分を愛してくれていることは理解しているが……その誓いは、武の一方的なエゴなのだ。押し付けられた側が、武の死後、一体どんな傷を負うのか……今日この瞬間まで、武はそのことを見て見ぬ振りをしていたのだと痛感する。
薫が死に、晴子が死んだ。四年という決して少なくない時間を共に過ごしてきた友人達を喪って初めて――己の死、それが他人に与える影響というものを想像できたのだ。いや、茜の泣きそうな顔を見て、ようやく想像に到ったというほうが正しい。
(俺は、茜を泣かせようとしている……)
愛し、護りたいと想う少女。笑顔がとても似合っていて、可愛らしい面もある、気の強い彼女。泣いてほしくなんかない。……けれど、それを泣くなと願うこともまた、武のエゴだった。
「……ねぇ、武……」
掛けられた声に振り向く。俯いてしまった茜の表情は見えない……が、泣いていることはわかった。きらきらと光を反射しながら、涙の粒が床を叩いている。咄嗟に抱きしめようとして――そんな資格が自分にあるのかと、戸惑う。けれど、躊躇したと思っていた身体は知らぬうちに茜を抱き締めていて、彼女は武の胸に顔を埋めて泣いた。
「……薫も晴子も……死んじゃった…………これがBETAとの戦争なんだってわかってても、他にもたくさんの人が亡くなったんだって理解できても……哀しい、の。あの二人が、……っ、もぅ、ぃない、なんて…………っ、」
茜は父親を戦争で亡くしている。身内の死を通じて、この戦争の不条理さを知っている。近しい者を喪う悲しさ。そしてそれに捕らわれてしまう愚かさ。そういったものを、幼い頃に学んでいた。――けれど、知る。それは、ただ幼かったが故に、真実、理解してなどいなかったのだと。
これほどに、哀しい。苦しい。騒がしいくらいの明るさ、呆れるくらいの奔放さ。彼女たちといることが好きだった。彼女たちと出会えてよかった。彼女たちがいてくれて、だから、今まで戦ってこれたのだ。――だから、涙が止まらない。……彼女たちは、もう、いない。喪失感というにはあまりにも大きく、虚しい。胸の真ん中にぽっかりと穴が開いてしまったよう。力強く抱き締めてくれる手が暖かい。包み込んでくれる武の体温が、彼の鼓動を伝えてくれる。
こんなにも傍にいるのに。こんなにも触れ合っているのに……茜は、恐ろしくて震えを止められない。武が泣いている。彼の零した涙が、頬を濡らす。……ああ、彼も悲しいのだ。自分と同じに。戦友を、友人を喪って。震えが止まらない。怖い。さむい。――その想像を止められず、恐ろしくて、怖くて……寒い。
「たけるもしんじゃうの――――――――?」
目を見張り、息が凍りつく。抱き締める手が思わず震えるほどに、茜のその呟きは痛烈だった。
武は無言のまま、一層強く茜を抱く。力いっぱいに抱き締めて、まるでしがみつくように彼女の身体を求めた。――死ぬもんか。そう答えたかったのに、乾ききって震える唇から零れたのは、まるで無様な吐息だけ。茜の耳元を撫ぜたその呼気が、彼女の言葉を肯定したようで――武は、より力をこめた。嘘でもいい。誤魔化しだって構わない。こんな――、茜に、こんな顔をさせるくらいなら、涙を流させるくらいならッッ!
「おれ、は……死んだりなんて、しない。いつだって……茜の傍で、茜を護るよ……」
「うそつき……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。どうしてだろう。茜は泣いているのに、自分だって泣いているのに。こんなにも心が痛くて哀しくて、震えているのに……抱き締める身体だけが、触れ合う場所だけが、こんなにも暖かい。
「うそなんか、つくもんか……俺は、絶対に、茜を置いて死んだりしない……」
「…………ぁはは、武……嘘、ヘタだね…………………………お願い。言って」
血涙を流し、血を吐き……こんな今にも死にそうな顔色をしていれば、誰だって想像がつくことだ。まして、立て続けに戦友の死を経験してしまった茜は、既に死の気配というべきものを察知することが出来てしまっている。根拠のない直感――そういうものが、確かに存在しているらしかった。だが、言える訳がない。答えられるはずがない。武の身に起こっている全ての事実は、闇に葬られるべき類のモノだ。AL3の暗部を負わされた非業なぞ、武が地獄に抱えていけばそれでいいのだ。
だからこそ夕呼はまりもにもみちるにも明かさずに居るのだろうし、茜に話したところで、彼女をより哀しませるだけだ。……では、このまま話さずに嘘を吐き続け、彼女の前からいなくなること。“それ”と“これ”には、一体どれ程の差があるというのか。――なにも違いなどありはしない。……同じだ。
結局、武は茜を傷つけ、裏切り、泣かせることしかできない。どれだけ傍にいる、護ると囁いたところで、武のリミットは決まっている。多分、夕呼の目算よりは相当に早い。脳にかかる負荷――ストレスとでもいうべきか――が極端であればあるほど、あのクスリのもたらす副作用は過激になるらしい。それは戦闘による昂奮であったり、仲間の死による恐怖と精神的ストレス、或いは怒り、憎しみ――復讐の念か。
「武……ぉね、がぃ…………答え、て……」
「……」
答えの代わりに、唇を塞いだ。卑怯な手だということは重々承知していても、けれど、絶対に話すわけにはいかないのだ。武の感情云々の話だけではない。オルタネイティヴ計画という超高度な機密情報は、本来なら武だって知らされるべき情報ではない。夕呼は武が絶対に裏切らないことを承知で、AL3の研究の被験者となる彼にせめてもの慰みとして話してくれたのだ。直接聞いたことはないが、多分――不用意に知ってしまえば、消されるほどには。高度な機密なのだろう。
「ん、……んちゅ、んっ、、」
抗議するような茜の呼吸を、無理矢理塞ぐ。開かれた瞳からは苦悶の感情と涙が溢れていて――茜は、武の命がそう長くないことを悟ってしまった。泣きじゃくる自分と同じように涙を零す武と、触れ合う距離で見つめあい、唇を重ねて……茜の感情は、爆発しそうなほどにぐちゃぐちゃになってしまう。
哀しい。愛しい。離れたくない。喪いたくない。傍にいてほしい。抱き締めて。キスを。死なないで。いかないで。強く。ああ――こんなにも、胸が苦しくて、熱い。
「……武……」
「ああ、」
長い長い口付けの名残が、二人の間に溶けていく。涙はもう流れていない。潤み、腫れてしまったまぶたを拭いながら、茜は精一杯の笑顔を浮かべて武を見つめた。その表情は儚いくらいに美しくて、眩しくて――武は、この一瞬の輝きを絶対に忘れないと胸に刻み付ける。
「私――子供、欲しい。武の赤ちゃんが、ほしいよ……」
抱き締めあったままの距離で囁かれた言葉に、武は面食らった。驚いて見つめる先には、もう泣きじゃくるだけの少女はいない。親友の死に自暴自棄になっているわけでもなく、武の死期を悟り、諦観しているわけでもなく。その目には、笑顔には、ハッキリとした未来が描かれている。強い心が、そこに在る。武は震えた。全身が総毛立つ感覚に、甘い感情に、涙が溢れてくる。
――ああ、愛している。
――俺は間違いなく、涼宮茜を愛しているんだ。
それが嬉しかった。涙が出るくらい、嬉しかった。何度も心の中で繰り返し叫んだその言葉を、感情を。武はようやく口にする。再び重ねた唇をゆっくりと離し、しっかりと、彼女の生命の重さを感じるように抱き締めて……。
「茜。お前を愛している……。好きだ、茜」
「……うん。嬉しい」
私も大好きだよ――。告白を終えた二人は、止まることのない涙を流しながら抱き締めあう。強く。ただ、強く……そして、愛にとけるように。
「知ってた? 晴子ちゃんも薫ちゃんも、白銀君が好きだったんだよ?」
「――ぇえ、はい。くすっ。知ってます」
左腕のない不知火を見上げながら、唐突に多恵は言う。その彼女の横顔を見上げながら、亮子は苦笑混じりに頷いた。よく知っている。だってそれは――自分たちも、同じなのだから。暗黙の了解というヤツだった。元207A分隊の女の子たちは、揃いも揃って、皆、武のことが好きだった。亮子も、多恵も。逝ってしまったあの二人も……。
「なのに白銀君は全然気づかないし」
「くすくすくす。ええ、ホントに。そういう鈍さも、薫さんは気に入ってたみたいですよ」
無論それだけではないことも知っている。確かに彼は色恋について鈍感だったが、それは常に“鑑純夏”という最愛の少女が居たからだ。彼女を護るために衛士を目指し、彼女を喪ってから尚、一層。その心は強固になっていたように思う。愛しい恋人を喪い、傷ついた彼の支えになろうとした頃から……皆の気持ちは育っていったのではないだろうか。亮子にはそんな気がする。少なくとも、亮子はそうだった。
常に前を向き、上を目指す姿勢は素直に尊敬できた。凄いな、と感じ入っていた。そんな憧れも在ったし……絶望に膝を折った彼の姿を見ていられなくて、助けになりたいと強く願ったのを覚えている。北海道のあの雪の早朝。水月に抱き締められて泣いていた武の姿は……今も鮮明に思い出せる。多分、薫もそのときから、彼を好きになっていたのではないだろうか。
「でも、白銀くんには茜さんが居ますし」
「そーそー! いいなぁ白銀君。茜ちゃんとらぶらぶで。いいないいなぁ~!!」
そしてこの多恵という少女は、茜のことも心底好いている。勿論亮子も茜が好きだし、あの二人も同じだった。……結局、四人が四人とも、武も茜も好きなのである。なんとも微笑ましい。そして当然茜も武のことを愛していて……だから、皆、暗黙の内に茜と武の仲を取り持つようになった。正確には茜の背を押したわけだが……そのときの晴子の笑顔が忘れられない。
親友の幸せを心から願い、応援する姿の、何と嬉しそうだったことか。だから亮子たちも晴子と同じく茜を応援した。その甲斐あってか――武の中でも様々な感情の変化はあったのだろうが――今や二人は公認の仲となり、周囲の者から羨望とからかいの視線と言葉を浴びせられる毎日である。……それはきっと、これからも変わらない。
晴子も薫も。
自分たちの死で、その幸せが崩れることを望みはしないだろう。
「多恵さんは、白銀くんのこと……どう思いますか?」
「んののっ?! ど、どどど、どうとはっ!!?? ――そ、その。あのその。あ、いやっ、で、ででででも、ホラ、わたしには茜ちゃんがいるしっ!?」
慌てふためく多恵の姿は見ていて非常に可笑しい。あまりの珍妙さに堪えきれなくなった亮子くすくすと苦しそうに笑い、違う違うと首を振る。その亮子の仕草に、顔を真っ赤にして混乱していた多恵は首を傾げる。頬を赤く染めたまま、なんだよー、とむくれてた。
あまりにも可笑しくて、可愛らしくて……だから、亮子はその先を問わないことにした。……多分、問うたところで答えなんて出ない。折角笑うことが出来たのなら、今のこの柔らかな空気を壊したくはなかった。――白銀武の身に起きているのだろう何らかの異変など……自分たちがいくら考えたところで、一切の解などないのだから。
まりもに連れられて去っていった彼は、何事もなかったような表情で戻ってきた。そして、みちるにまりもの命令を伝えて、茜と共に姿を消している。そのときの彼の仕草が、あまりにも普段どおりで――顔は変わらず血に汚れていたし、蒼白ではあったのだが――まるであの血涙や吐血が嘘のように思えてしまうほどだった。努めてそういう態度をとっていたのか、本当に、あの時はなんでもなかったのか。その判断は、亮子にはできない。……多分、まりもでさえ把握していない事象だったのだろう。
表情に翳りを浮かばせた亮子の顔を見て、多恵は本当に小さく息を吐く。亮子が何を言わんとしていたのか、察してしまった。多恵も彼のあの変貌振りは気になっている。気にしてもしょうがない類のことなのだとは想像がついているが、それでも、多くの戦死者を見てきたばかりだ。……今度は武がいなくなってしまうのではないかという想像は、抱くなという方が無理だ。
少なくとも多恵は、武があのような容態――病気なのだろうか? ――にあることを知らなかった。きっと、皆もそうなのだろうと思っている。ハイヴでの戦闘中に血を流した彼に気づいた際の皆の反応が物語っているからだ。誰も、茜さえも、“あんな武”は知らなかったに違いない。
どう楽観的に捉えようとしたところで、血涙を流すほどの状態が“良い状態”とは思えない。そういった類の前兆を一切把握していなかったからといって、実は彼が死の間際に立っていないとは誰にも断定できない。――そんな可能性をつらつらと考えたところで、所詮、妄想の域をでないし……自分に出来ることはないのだと、多恵は落胆する。
「ううん――」
違う。そうではない。多分、きっと、なにかがある。自分や亮子、勿論茜が。彼のために出来ることはきっとある。この四年間で多恵が一番に学んだこと。それは……仲間の尊さだ。一人では出来ないことも、二人なら、仲間達と一緒なら、成し遂げることが出来る。どれだけの危険や犠牲を孕んだとしても、それでも、成すことは出来るのだ。『甲21号作戦』のように。日本中の衛士が、軍人が、総力を挙げて挑み、果たしたこの作戦。人類が力を合わせて我武者羅になれば、今まで誰一人として成し得たことのない偉業さえ、達することが出来るのだから。
旭に命を救われ――そして、生き延びたからこそわかったことがある。「そうやって」、命は続いていくのだ。誰かが誰かを支える。誰かが誰かの力になる。誰かが誰かを護り、誰かが誰かを想い、愛し……そうして、生命は紡がれていくのだ。
だから多恵は旭に救われたこの命を、自分の大切な仲間のために使うことを誓っている。そのために生き、戦うのだと決めた。亮子だってそうに違いない。薫や晴子たちの死を乗り越え、こうして隣りで気丈に立っている姿は、決して昨日までの彼女と同じではないことを物語っている。……凄惨で地獄のようなあの魔窟を潜り抜け、仲間の死に触れた経験が、自分たちを成長させてくれた。まだまだ力の及ばないところもあるだろう。けれど、自分ひとりでは出来ないこと、それを支え補い合える仲間が居るから、前に進むことが出来るのだ。
だから、武のために何も出来ないはずがない。
少なくとも自分と亮子と茜の三人――多分、水月や真那といった武と関わりの深い人たちも……他の仲間達だって、皆が、彼のため或いは全員のための力になることが出来るのだ。一人ではないのだから。仲間が居るのだから。
「亮子ちゃん!」
「――ぇ? あ、はい?」
少し驚いたように顔を上げる亮子に、多恵はとびっきりの笑顔を向けて。
「一緒に頑張ろう!!」
力強く、亮子を抱き締めた。ぽょんぽょんの多恵の胸に顔を埋める形になった亮子は突然のことに目を回したが、すぐに多恵の言葉の意味するところに思い当たり、笑顔を浮かべる。強化装備越しに感じる彼女の温かさに安心しながら、自分も武や他の仲間達のために出来ることを全力で成そうと決意する。きっとやれる。出来ないことなんてない。
晴子を、薫を忘れない。彼女たちは最高の仲間で、最高の友人で……今も、いつまでも、ずっと傍に在るのだから。その生き様を、その死に様を。彼女たちの記憶全てを抱いていこう。そうすれば、ずっと一緒に居られる。共に戦っていけるのだから。
「ぁ、ぁっ、駄目……っ、亮子ちゃんそんなにされたらわたしぃ……はぅん……」
「むが?! もがもがもが!!」
妙に鼻にかかったような甘ったるい声を聞いて、亮子は焦る。なんだか似たような展開を過去に見た気がする。そう、アレは多恵が茜に飛びついて抱き締めた時だ! 多恵にはそちらのケがあるということを十分に知っていたはずの亮子はしかし、気づいたときには既に遅く、駄目とかやめてぇとか甘く囁き続ける多恵により強く抱き締められるのだった。
「……あの二人、何やってるのかしら?」
「あははは、多恵さんなんだか気持ち良さそうだね!」
「はぅあぅあ~……見ちゃ駄目ですよ~」
「……同性愛?」
「男性が少ない今の時勢では理解できぬこともないが……もう少し人目を憚ってほしいものだな」
「あーこらこら。あんたたち、ちょっと前向きすぎ」
亮子の顔を自身の胸に押し付けて喘いでいる多恵を遠くから眺めていた面々が口々に感想を述べる。千鶴以外の全員が突っ込みどころ満載の発言をしたため、我慢できなくなった水月は呆れたように零していた。特に冥夜の思考は色々と前向きすぎるため、あとで冗談と本気の境界線について教育すべきだろうか。……面倒くさい。水月は早々にその案を投げ捨てて、やれやれと皆の顔を見回す。
どうやら……全員それなりに、大丈夫らしかった。一番心配な奴がこの場には居ないが、それ以外の面子の顔を見る限り、それほど気に病むことはないのかもしれない。……勿論、今この場所は強がっているだけという可能性もある。
ともすれば自分が気合を入れてやろうとさえ思っていたので、些か拍子抜けではあった。勿論、そのほうがいいに決まっているし、安堵もできる。最も危険な兆候を見せた多恵と亮子は武の喝に正気を取り戻せているし、ああやって莫迦をやっている姿を見れば、道を踏み外すことはないだろう。……身近にそういう経験者がいると、学ぶことも多いということだろう。
かつて武が道を踏み外したそのとき、彼を止められなかった最大の要因は、誰も彼が抱える感情に陥ったことがないからだった。水月はそう理解している。仲間を喪う痛み、悲しみは皆知っていた。BETAに対する憎悪を募らせたことだってあるだろう。……だが、それは尊敬する多くの先達の教えによって正され、厳しい訓練を積み重ねることで衛士の流儀を養っていったからで、最初からそのようにできていたわけではない。
初陣の時点で武の内奥に蔓延る闇に気づけなかったことが何よりも大きいのだが……そうやって道を踏み外した彼自身の経験が、彼女たちを踏み止まらせるに到ったのであれば、きっと、あの時喪われた志乃たちの命も、無駄ではなかったのだろう。――ああ、その通りだ。決して無駄死にであるはずがない。武は己の過ちから学び、同じ道を辿ろうとする仲間を救ったのだ。だから、多恵も亮子も……ここにはいないが、茜も大丈夫だろう。
視線を千鶴や冥夜たちに向ければ、彼女たちは彼女たちでよくまとまっていると思えた。五人の中でリーダー的な位置を千鶴が務め、それを冥夜が支える。美琴と壬姫はムードメイカーの役割を全うし、慧が適当に引っ掻き回す。……実にバランスのいいチームだと思える。伊達に同じ訓練部隊だったわけではない。晴子や薫とも二年近い付き合いがあったはずだが……それでも、彼女たちの死に引き摺られ過ぎている節は見られない。これも、武の存在ゆえだろうか。
「……武、か」
過ちを犯し、それを乗り越えた者の言葉は重い。それ故に説得力があるということだろう。それはいい。彼もまた成長しているという証だから。……けれど、問題は。
「気になりますか?」
「……宗像、」
無意識に武の名を呟いていた水月に、美冴が声を掛ける。壁に背を預けたままの美冴は、一切の茶化しなしで水月を見つめていた。今の今まで誰とも口を利かずにただ佇んでいただけのくせして、こういう時だけ隣りに寄り添ってくれる彼女の優しさを、水月はよく理解していた。それが嬉しくもあり、同時に、そんなに心配そうに見えるほど自分は落ち込んだ表情を浮かべただろうかと薄く笑う。
まだまだ精進が足りないということだろう。どれだけ多くの先達を喪い、仲間を喪い、部下を喪っても……まるで平気、とは中々いかないものらしい。ともすれば肉親以上の情を寄せている武に関することだからこそ、という可能性もある。水月は緩く首を振り、美冴の隣りに佇んだ。
「あいつのことは、多分考えても無駄だわ……あの莫迦、とっくの昔に私の手の届かないところにいるんだから」
「……そうですか? 少なくとも、白銀は速瀬中尉に対して、肉親以上の感情を持っていると思いますが?」
ヤレヤレと呟いた水月に、美冴が真面目な顔をして応える。思わず咳き込みそうになるような発言だったが、どうにか堪えた水月はまじまじと美冴を見つめた。――今、一体こいつは何と言ったのか。耳にしたはずの言葉の意味を理解できぬまま、水月は頬を染めてしまう。
「なっ、ななな、なに言ってんのよ!?」
「……鈍いのは速瀬中尉も同じですか。やれやれ。白銀は、私や梼子たちに対して、明確な一線を引いていますよ。勿論、神宮司少佐や伊隅大尉にも。あいつが素のままに接しているのは、速瀬中尉に涼宮、月詠中尉くらいでしょう。ですから、白銀が速瀬中尉の手の届かないところに行ってしまった、なんてことはないと思いますが?」
こ、こいつは――。水月は真っ赤に火照る頬を抑えられずにいた。美冴は自分がどれだけ恥ずかしいことを口にしているのかわかっているのだろうか。取りあえず、言われた水月は恥ずかしくて堪らない。真正面から明け透けにそう言われてしまうと反論したくとも反論できない。水月はあうあうと数秒喘いだ後に、右手で顔面を隠すようにした。
「あ~~~っ、もう! 調子狂うわねぇ!!」
「……あいつは弟なんでしょう? 白銀も、中尉を姉のように慕っているとは思いませんか?」
「だからぁ!! そういう恥ずかしいこと言うなッつーの!!?」
んがぁ! と身を乗り出して抗議する水月に、美冴はこれみよがしに肩を竦めて見せる。その仕草が一層水月を刺激したが、とりあえずこれ以上藪をつついても仕方ないので、高鳴ってしまった心臓を鎮めようと深呼吸を繰り返す。そんな水月を見て、美冴は苦笑するしかなかった。……きっと、茜がいなければ、彼女は武の最も近い場所に居たのだろう。そんな気がする。或いは、本当に家族愛なのか。美冴にとってそれはどちらでも構わない。――いずれにせよ、それは尊い。
故郷で待ってくれているだろう人物に思いを馳せることも一瞬。美冴は、努めて静かに、水月の心の動揺を支える。
「中尉……白銀と涼宮を支えられるのは、中尉だけだと思います。まぁ、白銀が一体どういう状態にあるのかなんて一切わかっていませんが、少なくとも、何事もないはずがない。柏木たちの死も、暫くは堪えるはずです。…………ですから、中尉はどうか、あの二人の傍にいてやってください」
他は自分が引き受ける。美冴はそう言って笑った。……その笑顔は、どこまでも透明で、哀しげだった。同期の全てをたった一度の戦闘で喪ってしまった彼女には、彼女にしか知り得ない心の砂漠を抱えているのかもしれない。そんな彼女だからこそ、今は笑っている部下達の、内心の涙に気づいていた。きっと、基地に戻り、独りになった時……彼女たちは泣くのだ。声を上げ、嗚咽に咽び、悲しみに濡れる。それがわかる。
そしてそれは武や茜だって同じで……自分たちだって変わらない。ただ、彼女たちに比べてその哀しみを多く経験しているというだけに過ぎない。そして、多く経験しているからこそ、彼女たちを支え、導くことが出来るのだ。ならば――ならば、あの二人の支えには、水月が相応しい。姉のような水月なら――或いは茜には遙の方が適任なのかもしれないが――何やら不穏当な予感をさせる武を支えられるだろう。勿論、全てが杞憂ということもある。
「宗像……あんた……」
「なにもかも背負う必要なんて、ありませんよ。背負いきれないものは、私や梼子たちに預けてくれればいい。中尉は、中尉にとって譲れないものを護ればいいんです」
生意気なことを言う、とは……水月は考えなかった。本当に、宗像美冴という彼女は、どうしようもないくらいに優しい。――かっこいいじゃない。水月は唇の端を吊り上げて笑い、更には大声で笑った。胸の裡にわだかまるような感情が晴れていくのを感じる。
そうだ。何を思い悩むことがあっただろう。人類は遂にかつてない偉業を成し遂げ、世界は希望に満ちている。XM3の性能は問答無用に証明され、世界中の衛士はこれに飛びつくだろう。大掛かりな作戦と膨大な人員を要するとはいえ、戦術機でのハイヴ攻略の成功は、未来を輝かせるに足りる。そう。世界はこれから変わるのだ。――否。変えるのである。自分たちが。自らの手で。
だから、武のことも……悩むことなどない。例えどれほどの事象が彼の身に起こっているのだとしても、きっと、力になれる。そして武自身、二度と折れることなどないと信じている。そう、なにせ彼は――
「あたしの、弟なんだから」
まりもは形式どおりの戦闘報告を終えると一度口を閉ざす。室内には夕呼とまりもの二人しかおらず、部屋は高度なセキュリティによって隔離されていた。地上での戦闘ではかつてない大戦果を挙げているということは、夕呼から聞かされていた。そしてその当人は、まりもからもたらされたハイヴ内部の情報を元に何やら思案する様子で、むっつりと黙り込んだまま口を開こうとしない。
夕呼が自身の考えを纏める時に黙考することは珍しくない。時折呟かれる言葉の切れ端を拾ってみても、多分まりもには彼女が一体何を考えているのかなどわからないだろう。作戦は成功。人的にも物的にも甚大なる損耗を抱えたが、確かに作戦は成功したのだ。国内に存在するハイヴを取り除いたことで、日本の安全性はかなり高くなった。依然として甲20号目標が間近にあるわけだが、今回の勝利によって佐渡島へ向けていた戦力を回す余裕が生まれ、防衛を強化できる。……日本人が九州を取り戻す日も、夢ではないのかもしれない。
「――そう。いいわ。よくやってくれたわね、まりも」
「ハ! ありがとうございます!」
ようやく顔を上げた夕呼の表情は柔らかく、不敵だった。それは自身の開発したXM3の性能と直属部隊の栄光を讃える笑みであり、今後更に続く地獄に対する宣戦布告の笑顔。今回の作戦で見えた様々な問題点の解決。ハイヴ内部での戦術展開等、課題は多い。けれどそれらの全てが世界中に大いなる躍進をもたらすことは間違いなく……これで、AL4の即時凍結は免れたことになる。
AL5遂行のために洋上で待機していた米国艦隊は特に嫌味を垂れることもなく既に戦場を後にしていて、その聞き分けのよさが逆に不気味に感じられる。けれど夕呼は、米国はXM3が喉から手が出る程にほしくなったから、無用な波風を立てまいとしているのだと言う。……確かに、これだけの大戦果を前にして『G弾』など使おうものなら、利己的な面ばかりが強調されて、彼らの権威は地に落ちるだろう。
つまり、今のこの状況は、若干の博打的要素もあったわけだが、夕呼の目論見どおりというわけだ。そうしてAL4の続行を勝ち取れたなら、A-01から出た四人の戦死者や、帝国軍第211中隊の全滅、或いは他の突入部隊、地上部隊の損耗など……微々たるものでしかない。彼女は、徹底したリアリストでもある。必要な犠牲ならば惜しまない。後悔しない。常に最善を見据え、最大限の成果を上げる。夕呼はそれが出来る人物だった。
「ご苦労だったわね。今は下がりなさい。……続きは基地に戻ってからでいいわ」
一応、作戦はまだ続いている。夕呼はこの作戦の立案者でもあり、客人でもある。そんな重要ポストに立つ人間がいつまでも席を外しているわけにはいかないのだった。……だが、退室を命じてもまりもは下がろうとしない。いつもなら生真面目に敬礼して背中を向ける親友が、今日に限っては噛み付かんばかりに鋭い視線を向けてくる。――なるほど、だから『狂犬』なのか。夕呼は親友の通り名を思い出して少しだけ笑った。
「……香月博士、差し出がましいことは承知ですが、一つだけ教えていただきたいことがあります」
ほぉ、と。夕呼は唇を吊り上げた。珍しいこともある。こんなまりもの顔を見るのは初めてだったからだ。まるで自分のことが憎いかのような、けれど信じていたいと縋るような。そんな相反する二つの感情が混じり合った、怒りにも似た表情。そんなまりもに興味をそそられ、いま少しの時間をここで潰すこともいいだろうと、夕呼は緩く腕を組む。無言のまま、からかうように顎を引いた彼女に、まりもは意を決して口を開――、
『香月博士、月詠中尉が面会を希望されています……いかがいたしましょうか』
「――、ん、」
意気込んだところに、タイミングよく遙からの通信が割り込んできた。彼女はこの部屋の外で待機しており、緊急の事態には夕呼を呼び出す役割も兼ねていた。一体斯衛が何の用だと面倒くさそうな顔をした夕呼は、少し不機嫌に遙に問い返した。
「この部屋には関係者以外入れるなと言ってあったはずよ」
『はぁ……ですがその、煌武院悠陽殿下よりハイヴ攻略の勅命を賜り、香月博士直属の部下として戦果を挙げた以上は……その、直截ご報告申し上げるのが義務だと……』
「……はぁ。いいわ、通して頂戴」
全く頭の固いことだと夕呼は溜息をついたが、まりもはいささか面白くない。夕呼直属という立場ではA-01も彼女たち斯衛軍第19独立遊撃小隊も同一であるが、作戦中はまりもが総指揮を執ることで合意している。そして、そのまりもが“艦内待機”を命じたにも関わらず、真那はそれを無視してここまでやってきているのだ。命令違反と叱責するつもりはないが、斯衛という立場を若干乱用しているように見えるのである。……勿論、彼女がやって来た理由には見当がついていた。
彼女たち師弟の絆の強さを、まりもはよく理解している。だからこそ、真那はここにやって来たのだ。戦闘報告なぞ口実に過ぎない。将軍殿下の名を持ち出してまですることかとも思いはしたが、そこはあえて口にすまい。恐らく、真那自身深い葛藤の末なのだろう。この辺りに、冥夜に対する線引きとは異なる曖昧さが窺える。主君であった冥夜と、ある意味私的な関係である武。斯衛の立場を貫く高貴なる武人であり、己の立場を客観的に把握できる彼女は……けれど、女性としてはまだまだ成長途上にあるようだった。
まりもにはその真那の感情が理解できたので……一礼して入室した彼女の感情を押し殺したような能面を、哀しいと感じてしまった。
「拝謁を御許可いただき、ありがとうございます。神宮司少佐殿におかれましても、格別のご配慮痛み入ります……」
顔を上げ、敬礼する真那にまりもは答礼する。夕呼は興味深そうに唇を歪めるだけで、何も言わなかった。それを“発言の許可”と受け取った真那は、一度まりもに視線を送った後、いとも簡単に、単刀直入に、「自分はこの部屋に立ち入るために嘘をついた」とこれ以上内くらい呆気なく暴露してみせた。
「白銀少尉の身体の異変について、香月博士が存じていらっしゃる限りの全てをお教え願いたい」
これには流石にまりもも絶句した。無礼どころではない。如何に斯衛といえど相手は大佐。しかもAL4最高責任者にして国連軍横浜基地の副司令だ。一中尉如きが牙を剥いていい相手ではない。無論、まりもとて彼女と同じことを尋ねるつもりでいたのだが、もう少し言葉は選ぶつもりだった。……なにせ、まだ本当に夕呼が原因なのかどうかわからないのだ。――だが、真那にその躊躇はなかった。真那は「夕呼が原因――少なくとも何らかの形で関与している」と断定している。
立場の違いも、自身の思い込みである可能性も一切なく、“お前のせいに違いない”という一方的な断定で、夕呼を問い詰めてみせた。これが斯衛なのか。否。目の前に立つ赤服は“斯衛”などでは決してない。怒りのあまり冷静さを失ったか。それとも、斯衛の立場を利用した一個人であるとでも言い張るつもりか。
「月詠中尉! 無礼だろう!!」
まりもの立場上、真那を叱責するしかない。上官侮辱も甚だしい。結果的に自分の代弁者となった真那を責めるのは気が引けるが、いくらなんでも手段を選ばなさ過ぎた。何度も言うが、夕呼はAL4の最高責任者である。その夕呼を誘致したのが日本国首相の榊氏であることなど、真那の立場なら知っていて当然だ。そして、それらを全て承知の上で、政威大将軍の勅命を拝命しているのだ。……つまり、どれだけの理由が在ろうと、どれほどの感情が蠢こうとも、真那は夕呼を詰問できる立場になどない。
にも関わらず、夕呼は笑った。呆気に取られるのはまりもと真那だ。真那の視線を遮る形で立ちはだかったまりもにしてみれば、ここで夕呼が噴き出す理由がわからない。真那は笑われているのは自分なのだと悟り、一層視線を険しくする。そんな彼女の態度が益々可笑しいのか、夕呼は本当に愉快そうに笑うのだった。
「こ、香月博士……」
「あっはははは、あはは、あ~、笑った笑った。ほんと~にアンタって面白いわねぇ。堅物で頑固で正直邪魔でしかなかった斯衛を、こうまで変貌させるなんて……ふふ、アイツも割りとやるじゃない」
「!?」
おずおずと声を掛けたまりもを無視して、夕呼は息を整えながら意地悪く笑う。言葉の中にあった“アイツ”が武のことを指しているのだと気づいた真那は、湧き上がった感情に朱を差した。ぎり、と。強く握られた拳が軋んでいる。まりもは改めて夕呼を背後に庇いながら真那と対峙した。……真那の気持ちはわかる。わかるのだが、彼女は冷静さを欠き、礼節を欠いた。いくら夕呼がそういうことに頓着しないとはいえ、今の状況を真那自身好ましく思っていないはずだった。恐らく、暴走している自身への怒りもあるのだろう。震える拳が、幾つもの理性と感情が鬩ぎあっていることを物語っていた。
「――それで? 白銀がどうかした? ……まぁ、大体予想はつくけど。何? アイツ血でも吐いたわけ?」
「「――ッッ!?」」
まるでなんでもないことのように。さも、それが当然であるかのように。
だから、まりもは自身の耳を疑い、真那は込み上げた怒り以外の感情を消した。
「あら、図星。……そう、あたしの読みもまだまだねぇ。てっきり、あと数ヶ月は持つかと思ったんだけど」
「ゆ……香月、博士……?」
夕呼でいいわよ。ヒラヒラと手をやりながら、夕呼は鬱陶しそうに言う。内心ではどうでもいいことなのだと割り切りながら、ならばどうしてこんなことを口走っているのかわからない。夕呼は勿論、全てを白日の下に晒す気などないのだが、どこかで誰かに断罪されたがっているのかもしれない……そんな風に、まるで他人事のように思う。武が血を吐いたというのなら、もうそれは止められない。いや、最初から決まっていた。初めからそんなことは承知していた。
白銀武という一人の人間の命を犠牲に、鑑純夏の情報を得る。
その目的のための手段。00ユニットとなる“彼女”のことをより深く知るために、武という存在は降って湧いた幸運だったのだ。だから利用した。そしてそれだけの価値はあった。彼は鑑純夏の身に起こった事象をリーディングすることに成功し、発狂しながらもそれを霞に託すことを成した。――後は、死ぬだけの日々。それを哀れなどと思うつもりはなかったのだが……あの時の自分の感情は、今もよくわかっていない。自業自得なのだと。夕呼は自身の右腕を抱いた。
「夕呼、貴女……今なんていったの?」
「まりも、あたしはあんたが思っているほど善人でも良識あるニンゲンでもないわ。あんただってわかってるんでしょ? だからここに居る。違う?」
苦笑するように肩を竦めた親友に――まりもは、足元が崩れ去るような衝撃を受けた。頭では理解していた。夕呼は、そういうことの出来る科学者なのだと。理想を追う者は、その途上に転がるありとあらゆる障害を取り除くことに躊躇しない。そして同時に、その理想の助けとなるだろう事柄に挑むことにも、一切の躊躇いはないのだ。
「白銀は多分もう長くないでしょうね。今投薬しているクスリで副作用が抑えきれなくなっているなら……持って一ヶ月、ってとこかしら」
夕呼の言っている意味がわからない。一体彼女は何を言っているのだろう。――無知を装うのはやめろ。もうわかっていた。もう理解できていた。まりもは知る。それが、全て真実なのだと。
「白銀少尉に、何をしたのですか……」
「脳を弄くっただけよ」
怒りに震える拳を必死に押さえながらの真那の問いに、夕呼は身も蓋もなくそう答える。それには真那もまりもも愕然とした。――なんだ、それは。
だが、まりもは“まさか”と気づく。武が夕呼からの呼び出しを受けたのはいつだったか。夕呼が武に目をつけたのは、一体いつからだったか。――戦術機適性検査結果:判定「S」――その単語が、脳裏を過ぎる。
2000年6月当時、夕呼は前代未聞の戦術機適性を叩き出した武に興味を持ち、その身体構造や卓越した三半規管の解析に始まり、様々なデータを採取していた。……そう、それはきっとそのときから。一度だけ、夕呼の口から聞いたこのある……当時はただの冗談だと思っていたそのこと。「強化衛士」。……莫迦な。夕呼自身、冗談だと言っていたはずだ。まりもは必死になって当時の記憶を漁る。けれど、その不穏な単語を耳にしたのが一体いつだったのか思い出せない。
「まさか……本当に……、」
思い返せば、夕呼の実験によって武は意識を失うことが多々あった。錯乱し、傷を負ったこともあったらしい。そしてそのことは真那もよく知っていて、一度、そこで水月とも出会っている。が、重要なのはそこではない。夕呼は言った。脳を弄くった、と。投薬しているクスリ、と。ならばそれは脳を肉体をクスリによって改造したということであり、そうやって「強化」を施された武は次第に副作用に蝕まれて…………?
「なぜ、そんなことを……夕呼、貴女は……」
「必要だったからよ。白銀には可能性があった。そして、彼は見事それに応えてくれたわ。……色々辛い思いもさせたようだけど、白銀は既に運命を受け入れている」
まりもや真那が考えていることが真実とは若干ずれていることを夕呼は見抜いていたが、それはそれで好都合だった。夕呼自身、AL3の暗部をまりもに知らせる必要はないと考えていたし、自分が説明するまでもなく勘違いしてくれたのなら、わざわざ訂正することもない。それに、そういう思い込みが彼女たちの中に芽生えたというなら、今後の懸案の一つであった鉄の扱いについて、妙案も浮かぶ。
「……白銀は、このことを知っているのね?」
「ええそうよ。彼には全て伝えてある」
そして、正気を失くし道を見失い、狂気と殺意の暗黒に溺れ……どれだけ無様で、死ぬだけの生と知りながらも、前を向き這い上がった。その点だけは、夕呼も評価している。その手助けをしたのが恐らくはすぐそこで殺気を漲らせている斯衛の赤なのだろうが、もっとも、その辺りの事情は夕呼にはどうでもいい。武は手駒の一つに過ぎない。確かに優秀な衛士であり、恐らくは屈指の実力を誇るのだろうが……それだけのことだ。そして、“後釜”も既に手中にあるのだから、「何も問題はない」。
まりもはそれ以上続ける言葉もなく……ただ、黙っていた。それがことの真実だというならば、納得するしかない。成程、だから武はあれ程強固に拒んだのだ。脳や肉体に改造を受け、死が目前に迫っている事実を、上官とはいえ、知られたくはなかっただろう。
真那を見る。目を閉じている彼女の表情は無そのもので、一切の感情を示していない。己の立場さえ顧みず、感情のままに夕呼を問い詰めた気丈さ、或いは怒りなど、どこにもなかった。師が弟子を想う以上の感情があったのかどうかは問題ではない。真那はただ――哀しいのだろう。まりもはそれを察して、真那の傍に寄る。
「……月詠中尉、もういいだろう。行くぞ」
「…………は。……数々の非礼、お許しください。…………失礼いたします」
ただそれだけを言い残して、二人は部屋を後にする。入口で待機していた遙と目が合ったが、まりもは何も言う気になれず、真那もまた黙りこんだまま歩き去った。困惑した様子の遙だけが取り残されて……。
===
自分の生きてきた意味というものを、武は感じ入っていた。
最初は、幼馴染を護るために。師と出会い、剣術を学び、力を得ようとした。軍の存在を意識するようになり、衛士という存在に“護るもの”としての力を見出した。全ては純夏を護るために。愛する彼女を、彼女が生きる世界を護るために……我武者羅になって。
自分には、それしかないのだと。そう思っていた。絶望を繰り返し、正気を失い、復讐に身をやつし、血に汚れ……それでも、彼女を護ること。それだけが、己の生きる意味なのだと。そう思っていた。
――けれど。
いつも傍で支えてくれていた茜。手を差し伸べ、時には殴りつけてでも曇った目を醒まさせてくれた水月。突き進むべき正道を示し、胸を張って生きろと教え導いてくれた真那。
彼女たちのために生きる。それが自分の成すべきことなのだと知った。――茜を愛しているのだと、気づいた。
自分は何のために生きてきたのだろう? 鑑純夏のため? 彼女を愛し、護るため? ああ……そうだ。その通りだ。そして、茜を愛し、茜を護るための生。今の武の全て。残り僅かである自分の命を懸けるに値する、全てだ。
腕の中で安らぐように目を閉じる茜を見つめる。触れ合う肌が暖かく、幸せだと教えてくれる。満たされていた。微塵の後悔も在りはしない。愛する彼女と契り、愛する彼女を全身全霊で愛した。……ならばもう、心残りなどない。
この命ある限り、戦場に立ち続ける限り。茜を護り切ると決めた。純夏を愛する気持ちに偽りはなく、今もそれは変わりない。二人ともを愛するのだと誓った想いは、一度たりとも違えたことはない。――ああ、それでも、今だけは。
済まないとは思わない。そんなことを思うのは、純夏に対しても茜に対しても失礼極まりない。武の腕に包まれて幸せそうにはにかむ茜と見詰め合う。彼女は嬉しいと泣いた。愛していると囁いた。だから武も、涙が出るくらいの幸せを噛み締める。細いその身体を強く抱き締めると、柔らかで形のよい乳房が潰れた。その感触さえ、愛しい。
「えへへ、ちょっと、恥ずかしいかな……」
「ん……まぁ、その。確かに」
お互い苦笑する。あれだけのことをしておきながら今更、という気がしなくもなかったが、案外そういうものなのかもしれない。共に初めてだったということもあり、改めて思い返すとそれだけで顔から火が出そうだった。茜も武も、顔を真っ赤にして笑い合う。照れくさかったけれど、幸せだった。どちらからともなく唇を合わせ、微笑む。
「武……私を愛してくれて、ありがとう」
「それを言うなら俺のほうだ。……茜、」
――俺を愛してくれて、支えてくれて、ありがとう。
――生きる意味を与えてくれて……ありがとう。
だから俺は、心置きなく…………死ねるよ。