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No.11895の一覧
[0] 千雨の方法【ネギま!オリ設定】[a2](2009/12/04 02:39)
[1] 望遠鏡と同窓会 前[a2](2009/09/16 09:10)
[2] 望遠鏡と同窓会 後[a2](2009/09/18 03:04)
[3] デイドリーム・ビリーバー 上[a2](2009/10/01 18:34)
[4] デイドリーム・ビリーバー 下[a2](2009/12/01 17:50)
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[11895] デイドリーム・ビリーバー 下
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72 前を表示する
Date: 2009/12/01 17:50


 頭の中から始まって、体の一つ残らずがぎしぎしと軋んでいる。間接と間接が直接擦れ合って、互いを磨耗させ続けている。それら痛みとは別に、右脳には何かぼんやりした塊が感じられた。
 体の違和感は、いつの間にか耐えられないほど酷くなっていた。

 消灯された後の寮には、既に静謐な空気が漂っている。エントランスの奥に見つけた寮監の瀬流彦をちらりと見たが、千雨は黙礼すらしなかった。その表情に浮かぶ如何にも偽善的な申し訳なさそうな微笑みが、どうしようもなく癇に障ったからだった。
 千雨はなけなしのプライドで顔に笑みを浮かばせ、背筋を伸ばして瀬流彦の視線を横切った。先日千雨が泥と血を擦りつけた壁は、まるで作り直したように真っ白になっていた。魔法は多彩だ。千雨が慣れしたんだ戦闘用魔法など、全体から見れば1%にも満たない数でしかない。そういうカテゴライズ自体、徐々に意味はなくなりつつある。壁の白さが、その魔法の圧倒性を千雨に誇示しているように思えて、あっさりと千雨は笑みを消す。
 僅かな非常灯のみの漆黒の廊下を進む。今度は、柿崎は出てこなかった。そのまま千雨は、およそ三年ぶりに部屋に帰ってきた。

 真っ暗な部屋。手探りで灯りのスイッチを探す。思い出すまでもなく、それはすぐに見つかった。思ったよりもここのことを覚えている。こんな細かいことまで思い出したはずもないのに。
 いや、長谷川千雨の記憶か。 
 脳の書き換え。厳密には海馬の中身だけを入れ替えたことになる。だが経験はそこにだけ蓄積するわけではない。返済する当てのない借り物。遺品。千雨は嘆息して、ふらふらとベッドに向かった。
 ベッドに体を沈め、眼を深く閉じる。目蓋の隙間から入ってくる光。葉加瀬に借りた眼鏡を外し、仰向けになる。残った傷跡がじくじくと痛んだ。

(チャムなら、電気消してくれるんだがな)

 今はいない従者のことを思い出す。いや、大丈夫。取り戻せる。彼女に会うのが楽しみでならない。絡繰茶々丸の双子の妹。絡繰茶々丸が、主でも恋した人でも創造主でもなく、千雨を心配して遺したガイノイド。
 彼女と、桜咲刹那と、ネギと。四人で過ごした三ヶ月間。白き翼の崩壊する寸前のひと時。フラッシュバックのようにその平穏な日々が脳裏に過ぎていって、

 ――つい、昔のことを思い出す。

 世界は間違っている。

 誰も彼も、自説にのみ縋るエゴイストでしかなかった。エゴはエゴによって駆逐され、否定され、飲み干され。強いエゴが残っていった。たった一つの願いは強いエゴに否定され、押し潰され、夢は適うことはなく、願いは叶うことなく、だがそれは当然だった。願いが叶わないのは、当然のことなのだ。叶ってしまった人間の声がでかいだけなんだ。
 フェイト・アーウェルンクスは最強のエゴだった。ゲーデル総督や近衛近右衛門、新世界、旧世界の両姫よりも強いほどのエゴだった。
 ネギ・スプリングフィールドは最弱のエゴだった。なのに、全てのエゴを肯定して受け入れ、存在は最弱のまま肥大だけしていった。
 それが間違っていると、なんど忠告しただろう。世界は間違っているのだと何度言っただろう。
 だがネギは変わらなかった。変われなかった。既にそういう生物だと規定されていた。
 そしてそのまま進み、進化し、化け物と呼ばれ、侮蔑され、恐怖され、憎悪され、裏切られ。

 最後には神になった。

 だから、だから千雨だけはネギに変わらず接していた。必要以上に内面に踏み込まなかった千雨だけが、そういうスタンスを取ることが出来ていた。
 憎悪するはずなどない。あってはならない。誰もから嫌われ、憎まれ、裏切られ、それでも必死に何かを取り戻そうとしていたネギを、千雨だけは憎んではならない。かつて、千雨だけがネギに否定的なスタンスであった頃とは真逆の世界。逆さの城。
 だって、それをしたらネギが余りにも可哀想だった。報われない。頑張ってる人が。些細なものを願う人が。とても分不相応とも言えないほど些細なものしか願っていない人が、報われない。
 だって――。

(気味悪いセンチメンタルだな)

 千雨は笑った。キャラじゃない。深く温い息を吐く。

(疲れてんな)

 思考に取りとめがない。体力に自信はないのだ。千雨は腕を眼の上に置き、意識の中からまどろみを探した。
 意識の中に、黒い塊がある。ステンレスたわしのような隙間だらけの黒い塊。なのに遠近感が効かず前と後ろの判別がつかない。それをどう処理していいのか解らなくなる。愛していいのか、憎めばいいのか。
 いや違う。
 そんなもの、放っておいて、みんなのことを考えなければ。
 辛いことも、悲しいことも。
 胸に抱いたまま。

(何言ってんだ)

(私は、昔からセンチメンタリストなのに)

 頭の中は、まだぐちゃぐちゃだった。ステンレスたわしの先端が延びて、脳髄に絡まり、脳を真っ黒に染めていく。
 葉加瀬への思いが。クラスメートへの願いが。超への恐怖が。ネギへの思慕が絡まりあっている。それらを噛み砕いて、頬袋に詰め込んで、喉に詰まらせて、鼻に逆流させて、眼から血を流して、一つすら消化されることなく。
 でも進んでしまったからには、そんなもので立ち止まることは許されない。
 あの日、千雨が仮面をつけた木乃香の部下と殺しあった日、決断した、あの瞬間の感情を裏切ることは許されない。
 このままじゃ、葉加瀬は救われない。
 幸せになれない。だから千雨は、
 銃でなく、
 剣でなく、
 小柄ですらなく、
 ただ針のように、一つを貫かなければ
 ならない。



 数時間前。麻帆良女子中等部、学園長室。
 ネギと茶々丸のいざこざの後、葉加瀬は千雨をこの部屋に連れて来た。日が暮れかけている時分。学園長室には学園長の他に、葛葉刀子の姿もあった。それが他の誰でもなく葛葉刀子であったのは、千雨に無用の不安を与えないためだろう。

「こうやって話をするのは始めてじゃの、長谷川千雨くん」

 近衛近右衛門。関東魔法協会のトップであり、極東の重鎮。ほぼ敵対関係にあった千雨とてその手腕に疑問を挟む隙間はない。

「うむ。まずは君の疑問を解消することにしよう。これを見てくれんかの」

 『ようこそ魔法の世界へ』。手渡されたパンフレットには、シャープなフォントの下に杖を持つ少女のイラストが描かれている。機能性皆無の巨大な杖とふりふりのコスチューム。十歳に届かない少女の周囲には意味もなく無数の星が浮いている。……酷く性質の悪い冗談だった。
 凄まじく胡散臭いパンフレットを、千雨は軽く捲った。一々腹が立つほど上質な紙で十枚ほどの綴りだろうか。見出しの言葉は『ご存知ですか? 世の中には魔法というものが存在します』

「……」
「いや、フザケとるわけじゃなくて、必要なんじゃよ。こういうの」

 CSR見直せアホ。という罵倒を飲み込んで、それでも一応千雨はパラパラ捲りながら文字列を斜めに見下ろした。魔法とは何か。魔法で何ができるのか。魔法使いたちはどんな風に生活しているのか。新世界について。魔法世界略歴。魔法使いの表社会への貢献。最後のページには簡単な魔法使いの人口が載せてあった。
 目新しい情報はない。驚いてやったほうがいいだろうか、と胡乱な眼差しで近衛を見上げるが、近衛は思いのほか真剣な眼差しで千雨を見ていた。その気迫に、思わず仰け反る。

「ちなみに表表紙のキャラは独立魔法少女キルクちゃんと言って関東魔法協会の公式キャラクターなんじゃがどうじゃろう……いや、冗談じゃからそんなに睨むでない」

 独立って何だ。何から独立してんだ。親か? 社会か? 法か? それとも著作権か。

「ちなみに本当の公式キャラクターは世界樹を象った「せかいくん」……いや待って刀子くん刀抜かんでくれ。冗談、冗談」

 ちゃきと日本刀の鯉口を切った刀子に慌てて言い訳して、こほんと咳払い。近衛は片目だけを上げて千雨を見上げる。

「うむ……まあ、魔法には気づいておるようじゃし、大体の事情は飲み込めているかのう?」

 時間移動を使ったこと――は、聡美が悟っていたとしても学園側に漏らされることはないだろう。そして超が学園側に思った以上に接近していたりしない限りはそれは今後も起こらない。魔法世界にしても時間移動はオーバーテクノロジーなのだ。千雨はその言葉をほぼ言葉通りに解釈することにした。
 言葉に出さず、態度にも出さず。しかし近衛は得たように深く頷いて自らの立派な顎鬚を擦る。

「ここまでは既知のおさらい、といったところかのう。何か質問はあるかね?」
「看護師に話しかけられるまで、記憶が消えてたのは、魔法なんですか」
「ほう! 眼が覚めてすぐ記憶を取り戻したのか。それはまた、凄いのう」

 いくら関係者から全てを隠匿できず、記憶に繋がる情報が世間に残ったままだったといっても、それは感嘆に値する、と近衛は心底感服したように言った。

「……」
「うむ失礼。それは魔法じゃよ。記憶消去の魔法とゆうてな、古くからある魔法である分、使用制限こそ厳しいが多岐に渡っておる。魔法使いにとっては基本的な魔法じゃな」
 使えなくて悪かったな。魔法を使える者が自分は魔法使いであるという自覚をするタイミングを知らない千雨だったが。
「つまり、さっき、学園長が私をレイプしたが、私はそれに気づくことは出来ていないという魔法ですか」
「……」
「……」
「ほっほっほ」

 ネガティブじゃのう? と学園長は絶句した刀子と聡美に話を振り、要領の得ない呻き声しか漏らさない二人に小さく首を傾げてから千雨に視線を戻した。

「まあ、そういう事件もあるのう」
「学園長!」
「隠しても仕方あるまい。魔法の悪用と言えば記憶消去。誰もが知っておるし、気づくじゃろう。その通り。極一部の悪辣な魔法使いは記憶消去を使ってとんでもなく悪辣な真似をしとるのう」
「ずいぶん……素直なんですね。魔法使いは1から100まで善良だとか言われると思いましたけど」
「ほっほ。そんなものよりも、君に魔法使いが人間ではないと思われる方が恐いのじゃよ」

 なんて厄介な交渉相手だ。千雨は舌を巻いた。

「へえ。聞いた限りではどっちかっていうと魔法使いが魔法使いではない奴を人間と思ってないんじゃないか、って思えますけど」
「ずいぶん簡単に魔法の存在について信じるんじゃのう?」
「実際に記憶を消されましたから。目の前でウチの担任教師が絡繰に変なのを撃ってましたし」
「うむ。それくらいの経験をすれば信じるじゃろうて。……お察しの通りじゃ。魔法使いの中にはある種の選民思想というものは存在する。極論として言えば、この都市の中にも君らを見下している人間がおるということじゃ」

 完璧に性格を読まれきっている。しかも、三年前の長谷川千雨ではなく、今近衛の目の前に立っている千雨の性格を。素直でない天邪鬼に、完璧に対応されている。

「しかし、大多数の魔法使いはそうではない。学園長としてはあんまり言いたくないことではあるのじゃが……例えるなら魔法という学科を一つ多く学んだ人間程度に考えて貰えればよい。経済の専門教育を受けた人間が金融で教育を受けていない人間を容易く騙せるように――或いは法律でもそうじゃな。魔法を学んだ人間は、その分野で少しだけ人より進んでおるだけの人間、とでも考えてくれれば結構じゃよ。複数の分野においてエキスパートであれるのはごく一部じゃ。その分だけ人より少しだけ優れていて、どこかで劣っていて、その他の人間を害しないことは個人の倫理が頼み……ほら、どこにでもある話じゃろう?」
「……」

 自分らを扱き下ろして相手と対等だと思わせる技術は、どちらかというと警察が犯罪者に対するための技能だ。心が平常でない、自分と息を合わせる人間を求める犯罪者の求める人間だった。
 いや、私はこの場でそういう扱いをされているのか。

「他に質問はあるかのう?」

 完全な勝利。にも拘らず一切それを表情に出すこともなく、近衛は優しく千雨に問いかけた。敵対すら出来ていない。千雨が背負っているものも、今開示した能力も、それにすら及んでいないと千雨自身わかっている。

「……いえ」
「では本題にはいろうかの」

 なんでもない、日常の瑣末ごとを処理するかのように、近衛は言った。

「実は、君の記憶を消すことが、難しいんじゃよ」
「は?」
 自分でもわざとらしいと思った。だが近衛は気にした素振もない。
「うむ。魔法のことを知った一般人の記憶が強制的に消されることは察しのとおりじゃ。そうやって魔法の秘匿は維持されておる」
「……」
「君にも当然、その処置が施される予定じゃった。無論、反論はあるじゃろう。理不尽とも思うじゃろうが、それでもな」
「記憶は消されるべき」
「そうじゃ。秩序を守るために、小なる犠牲を強いておる。それは悲しい現実かもしれんが、どうしようもない現実じゃ。正義ですらないが、確かに正義なのじゃよ。理解はされんがの」
「……」

 基本的人権。それは究極的に個という人間が尊重されるべきという理念である。しかし弱者の犠牲で強者が守られるという論理は存在し、それは幸福の総量で言えば間違いなく正しい。マイノリティの圧倒的幸福のためにマジョリティに僅かな負担が強いられるというのは、いかな価値基準を照らして見せても否定されるべきものだ。世論では否定されることは稀だったが、それに実が伴うことは少ない。
 マイノリティとして虐げられていた経験が多彩な千雨とて、それは仕方のないことだと解っている。だから、心情的には文句は一欠けらすら見いだせない。
 だが、長谷川千雨はどう思うか、千雨には解らなかった。諦念か、憤慨か。もう既に思い出せもしない。

「それは解りました。で?」
「うむ……君は、どうも記憶消去を初めとした認識阻害など情報処理系の魔法のかかりが悪いらしくての」
「……」

 本当に中学三年の初頭だったとき、それを聞くことが出来ていればどんなに気持ちが楽だったろう。

「感じたことはないかのう。周りと自分の認識の乖離を」
「……」
「あるようじゃの。じゃとしたら申し訳ない。ワシらはそれを把握しておったが、対応するわけにはいかんかったのじゃ」
 憎まれ口を噤んで、本当に申し訳ないという顔をしながらそうとは欠片も思っていなさそうな近衛を強く睨みつける。
「事此処に至っては君に誤魔化すのもナンセンスじゃ。記憶消去は便利すぎて常識的な情報操作のノウハウすらここにはないしのう」

 ナンセンス、ね。便利な言葉だと千雨は思った。消極的否定。曖昧でありながら、何よりもはっきりとしている。

「なんで、私に記憶消去? はかかりにくいんですか」
「どうも、体質としか言いようがないらしいの。記憶消去にかかりにくい体質、というのが稀に存在するんじゃよ。奇病と同じで勘定に入れるのも憚れるほど小さな確率での」
「はあ」
「無論、君は麻帆良以外では自分が異端であることにすら気づかず過ごすこととなったじゃろうて。しかし幸か不幸か麻帆良におった。じゃから、君は異端でしかなくなったのじゃ」
「……」
「どうも、ぼんやりしておるようじゃの。君の話をしているつもりじゃが」
「……初めての情報がぽんぽんと来たもので」

 千雨は近衛の表情を窺うことをあっさり放棄して、刀子の顔を窺った。眼が合う。刀子は千雨から眼を逸らさなかった。鬼眼とすら言われた千雨の気迫も、名の後にしかなかったのか、と今更千雨は深く自覚した。

「それで」
「うむ。君にはいくつかの選択肢が提示されることになろう」
「こっちの葉加瀬に、ネギ先生とウチのクラスの絡繰の喧嘩してる場面に連れて行かれた理由は聞いてないですけど」
「それは偶然じゃよ。そんなことがあの時間、あの場所で起きることなど予想できまいて」

 嘘を吐け。千雨の行動方針を探る思惑が一つ。千雨に魔法認識についてすっ呆けさせないのが一つといったところだろうに。また、この時期のネギは細かく監視されているはずだ。寝室に監視カメラが置いてあったところで千雨は驚かない。

「じゃあ、私が襲われたのはなんなんですかね」
「桜通りの吸血鬼、かの」
「まさか吸血鬼なんてのが実在してるなんて言いませんよね」
「まあ実在しておる。……が、こちら側としても桜通りの吸血鬼については関知しておらんのじゃよ。君がこっ酷い目にあった理由も良く解っておらん。犯人について何か教えてくれると助かるのじゃがのう」
「顔は見てません。ネギ先生についてなんか言ってましたね」
「ふむ」
「手を出すなだとか――」

 元々出す気もありはしないのに。そう考えると理不尽な話――だが理不尽に一々噛み付くのも、若さでしかないか。
(理不尽を振りまく私に、それに憤る資格はないな)
 歯の奥を噛み潰す。意思が、ぼろぼろだと気づく。それを指で摘むたびにぼろぼろと意思が剥がれ落ちていって、最後には何も残りそうにないと思った。

「となると、三日前、君の起こした事件は聞いておるがの。そのことかのう?」
(本当、失敗だった)

 照れ隠し、だった。それではきっと珍しいくらい千雨と長谷川千雨は同じ意思を持てただろう。長谷川千雨だって目を開けたら突然ネギの顔が目の前にあったら照れ隠しに拳を見舞っただろう。それは稀有なほど自然な長谷川千雨の体に宿る意思の行動であって、ならばそこから導かれた展開は長谷川千雨の中に千雨が宿っていなくても起きたことだったろう。

「先生の縁者、ってことですか」
「いや、そうなると本当に桜通りの吸血鬼だったかも怪しいのう。模倣犯の可能性が高い。動機も手口も違いすぎるのう。同じなのは桜通りという場所くらいのものじゃ」
「それを判断するのは、学園長なんですか」
「勿論、キチンと魔法世界でも警察組織は独立しておるよ。ただの素人考えじゃな」

 嘘はついていない。魔法世界には警察組織がある。だが麻帆良は魔法世界ではない。一種の自治地区に近い。その中にはそれに類する機関もあるかもしれないが、少なくともこの件は全て近衛の胸の内で処理されるはずだ。
 いや、千雨の小細工で他組織からの介入は有り得る状況ではあるが。

「それで、ネギ先生に何故あんな真似をしたのか聞いてもよいかの?」
「それは、大した理由じゃないです。突然目の前に――」
 本当に?
 それは、恨みではないのか?
「顔があって、寝ぼけてたから、驚いたんです」
「ほう。それはそれは。ネギ先生も生徒との距離感を掴み損なっているところはあるからの」
「……」
「ふむ」
「はい?」
「ネギくんが教師であることに疑問はないのかね?」
「え?」

 しまった。そのことを失念していたことでなく、反応してしまったことがしまった。それではそのまま疑問を忘れていたことを曝け出しているのと同じだ。千雨は密かに臍を噛み、

「魔法使いなんですね。なら納得するしかないんじゃないですか」
「ふむふむ。まあよいよ」
 いくらでも突っ込めたろうに、近衛は得たように頷く。余裕コキやがって。千雨は歯を剥いた。
「学園長こそ、私が3三日ぶりに眼が覚めたってこと覚えてらっしゃらないようで」
「……おお! いかんいかん。年は取りたくないものじゃ。どうじゃ、椅子にでも……あ、すまん。なかった」
「まるで、私の身体のことを私よりも把握してるみたいな言い方ですねえ?」

 傷つけたのも、中途半端にしか治さなかったことも、全て近衛の掌の上だと気づいていると、千雨は牙を向けた。ほんの僅かな意趣返し。近衛近右衛門ほどの絶大な勢力と政治力を誇る男が中学生一人の、更に小さな傷などに意識を向けるはずはないと解っていてだった。

「うむ。君の身体を治癒させたのはワシじゃし、別段過剰に気遣うほどの怪我を残してもおらん」
「……」

 違うのか。黙りこむ。包帯を巻かれた額を思い出す。
 傷は一生消えないらしい。前髪に隠れる位置ではあるが、それは中学生女子にとってはどれだけ辛い事象であるのか千雨にも解っている。そんな些細なことでも学園は千雨の動揺を誘おうとしている。
 そう思っていたのだが、違うらしい。
 それは整合性だ。些細な辻褄合わせなのだ。千雨の惨状を目撃した柿崎を初めとする3-Aのメンバーの認識と千雨の現状のすり合わせ。
 歯噛みする。ネギ・スプリングフィールドに設定されたタイムスケジュールやエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルと比較すれば千雨の存在が如何に矮小であるかなど解っていたが、その人生すら否定されている。存在の小ささを声を大にして主張されている。
 この場にいることも、近衛にとっては瑣末ごとでしかないのだろう。本気ではない。片手間で雑役で俗事で鴻業の片隅に転がってる埃程度でしかない。全てが空虚に浮かぶこの世界の中で、そのことだけが千雨の中ではっきりと形を感じられる怒りだった。

「ふむ。老婆心ながら忠告させてもらうがの」

 近衛は目線を窓に向けながら、ゆっくり、しっかりとした口調で言った。

「どうも、君は年恰好に合わぬほど精神年齢が高いようじゃ。頭もよう回る。大人の判断にも慣れておるようじゃ。優秀……そうじゃな、優秀な生徒といってもいいじゃろう」
「……」
「じゃが、言葉の端々が所詮子供の浅知恵……という程度にしか思えん」
「……あ?」

 一瞬、脈絡がなさ過ぎて話の行く末を探す。
 ――ふ

「ザケんなああああああっ!」
「ぬおっ!? 瞬間沸騰!?」
「あんたみたいなのに言われる筋合いはねーんだよ! この亀頭アタマジジイが!」
「え、亀頭!? もしかしてワシ生徒たちにそんな風に思われちょるの?!」

 18歳。いくら経験を積もうとも、それは誇るほどのものではない。老練にありとあらゆる方面で敵わないことなど千雨自身が一番知っている。
 だが近衛に今更それをいわれる筋合いもない。
 千雨はスカートを翻し、扉を蹴り開けて怒鳴り上げた。

「キャアアアアアアア! 学園長に犯されるーっ!」
「だあああ! 刀子くん止めて止めて!」
「助けてっ。誰か、助けてええええっ!」
「リアリティのある演技するのやめて?!」

 瞬動。一拍で千雨を背後から羽交い絞めにした刀子は器用に足で扉を閉めつつ、千雨を引きずり倒した。肩をしたたかに打ち、千雨は刀子を睨み上げる。刀子は動揺の一つすらなく、鉄のような無表情で千雨を見下ろしていた。

「君、すごいことするのう……」

 冷や汗を拭う近衛を、千雨は睨み、飲み込みきれない憤りに歯軋りをする。
 自分の、どう努力しても覆いきれない幼稚性は千雨のコンプレックスの中でも強い一つだ。それは根ざした価値観を捨てきれないという物の顕れであり、だがその行動のほとんどの決断は幼児性に依存して行われている。
 それを、よりにもよって。
 千雨はちらりと聡美を見た。

「ああ、刀子くん、もう放してよい。葉加瀬くん、悪いが外で誰か来たら説明してやってくれんかの」
「は、はい」

 聡美は千雨を一瞥し、学園長室を出て行った。
 千雨が刀子から離れ、立ち上がる。威勢もなく、ただ惰性的に近衛を敵視する。
 判断は、その幼稚性から導かれたものだった。

「う、うむ。すまんかった。そんなに怒ると思っておらんかったのじゃ」
「嘘付けよ――嘘、ですね」
「嘘じゃよ」少しも悪びれずに近衛は言った。「少し君を挫いておこうと思っての。真実を突かせてもろうた」

 挫かれた。怒らされた。千雨は俯いて視線を近衛から隠した。嘘や詭弁を使うことなく、ただ真実を突くだけでそれを為した。遥かな天上、雲の合間から投擲された槍の一突きで、千雨の全てを否定してみせた。矛先が自分でなければ、或いはここに聡美さえいなければ神業だと感嘆することもできただろう。
 だがどうしようもない程の焦りと憤りが頭を茹らせている。理性より前にある本能はどうしようもない感情をひねり出させている。

「真実……知ってる。解ってるッつーんですけど」
「うむ。そうじゃろう。自分の幼稚性を認識していないことほど恐ろしい先入観はない。君はきっと、それを自覚していなければならなかった局面をいくつか潜り抜けておるはずじゃ」
「……」
「じゃが、自覚した程度で是正されるようなものではない。ここで定義される幼稚性とは、つまり過剰な集中じゃ。君のここまでの言葉は子供とすれば85点。しかし一人前とすれば40点にも満たん。まともな点をやるには、君はワシのことを見つめすぎた」
「……余裕を持て、本気になるなとでも?」
「子供には言いたくない言葉じゃが、それが真じゃ。本気になることとは、諸刃の剣。それを武器とするには生涯幼稚性と付き合っていく覚悟を必要とされる。そして現代社会においてそれは許されはせん」
「……学園長、あんたはサンタクロースを信じているガキの首根っこを捕まえてお袋に間男が突っ込んでるところを見せ付けるようなジジイだな」
「その偽悪的な例えも感心せんのう。それに、ワシは今、ワシに許される限り最も優しい言葉を使ったつもりじゃったが、伝わらなかったかの」

 解っている。こんな、まるで大人が子供を導くようなことを近衛が千雨に言う必然性がないことくらい、千雨には解っている。それに反抗する言葉は子供の癇癪でしかなく、普遍的な真実ではないが事実であり、子供はいくら言葉と反抗を重ねてもそれに従うのが大人への最短距離であることに違いないだろう。
 だが、反感は理屈を以ってしても消えなかった。

「さて、話を戻すがの。君にはいくつかの選択肢が提示される」
「……」
「無論、この中から選ぶ必要もないが、わかるの?」

 それらだけが学園側の意向であり、それ以外の選択肢において学園のバックアップを受けれるとは思わないこと。と言いたいのだろう。あるいは、物理的に排除されるか。
(クソ。結局完璧に主導を取られてるじゃねーかよ)

「1。君の記憶操作にかかりにくい体質を超える強さで記憶操作の魔法をかけ、完全に魔法に関する情報を消した状態で元の生活に戻る」

 選べない。千雨の体質はそこまで万能ではないし、強くはない。この分だとその性質も学園は把握しているらしい。そこまで強い記憶操作をかけられてしまえばもう二度と魔法について思い出すことはできないだろう。
 いや、そこまで強い魔法をかけられれば、人格に障害が残る可能性が高い。そのことを近衛が言及する気配はなかったが。

「2。最低限の記憶操作をまたかけ、麻帆良学園都市から退去する」

 選べない。最低限であるのならまた魔法に近いキーワード、あるいは矛盾から記憶を復帰できる可能性は高いが、かけられる魔法が実際に最低限である保証がない。この狡猾な老人であるならば、最初の選択肢と同じような強い記憶操作の魔法をかけられる公算が高い。

「3。合計30時間の魔法に関る一般人心得についての講習を受け、学園内の他のクラスに移籍する」

 ……?
 千雨は顔を上げた。

「以上、三つの内から選んでもらうことになろう」
「待て……待ってください。3は、どういう意味ですか」
「言葉通りの意味じゃが?」
「つまり」

 実質的な無罪放免。いや、誰だって3を選ぶだろう。頭の中を弄くられていい気のする人間はいない。
(なんだ、そりゃ。何が狙いだよ)
 だがネギを攻撃しようとする行動を見せた千雨への恩赦にしては、行き過ぎだ。甘い判断と見ることも出来る……いや、甘くない判断ができる人間の方が麻帆良の魔法先生の中には稀有だが、少なくとも近衛近右衛門はそうではない。或いは、それは甘い判断、ではないのか。ただのお目こぼし――千雨など大した生涯/障害ではないということなのか。
 一瞬、怒りをそのままに選択肢を全て打ち壊す、ということが頭に掠める。だがそれは掠めただけで通り過ぎていき、千雨は大きく息を吸い込んだ。

「病み上がりなもんで、頭が回ってません。選択肢だけ貰って帰ることはできませんか」
「うむ。勿論じゃよ。あんまり長くなるのも問題じゃが、友人達との付き合いもあるじゃろうて。ゆっくり考えるがよい」
「どうも」

 思惑を考えるのは後だ。文言の一つ一つを記憶し、時間を作って、ゆっくり思案すれば良い。
 今やるべきことはいくらでもある。予定した時間に戻って来れなかったことや、いきなり三日も眠らされたのは躓かされたという気があったが、それでも麻帆良祭に向けて準備を進めなければいけない。
 ゆっくり、藁でも使うかのように息を吐いて、千雨はおざなりに頭を下げた。

「失礼します」

 近衛は、ゆるりと笑って見せた。

 扉の横には、聡美が立っていた。何か口を開く気配を察した千雨は、それより先に背を向けて歩き出した。聡美が何も言えず口を噤む。
 敵だろう。未だに、たったアレだけの情報で千雨が未来から来たと悟られた理屈はわからないが、同じ今を変えようとする未来人同士が強調できることはありえない。超にとって千雨は敵で、ならば聡美にとっても千雨は敵だ。
 滑稽だと思った。聡美は私を敵だと思っているが、私は聡美を守るためにあの時の流れを潰した。色んなものを捨てた。
 本当に?

(先生を憎んでたから、未来の先生を消すための口実として葉加瀬を使っただけじゃねーのか?)

 角を曲がる。古めかしい麻帆良の階段が見える。
 ――所詮は子供の浅知恵。
 やりどころのない憤り。強く舌打ちして、ところ構わず暴れたくなる自分に気づく。そして、それを実際に千雨はできない。そんな衝動を嫌うのが長谷川千雨だった。そんなことは覚えていた。
 噛み合わない歯を噛み潰す。どうせ、聡美とは拳骨以外の何かで決着をつけることになるだろう。
 強い意志を持たなければ。
 後悔に囚われず、ただ一点だけを見据えなければ。

「けど、まあ」

 今は休ませて欲しい。全身に、精神に疲労が蓄積している。



「なのに眠れねーし」

 自室に帰って、ずいぶんと時間が経った。
 夜が明けた。電気が付きっ放しの自室は、結局窓から入ってくる朝日と電灯が相殺していた。
 よたよたと体を起こす。一晩中目を閉じていただけで、疲れはまるで取れていなかった。皺のついたシャツを脱ぎ捨て、半裸を空気に晒しながら不意に嘆息する。
 昨日、ネギには監視がついているはずだ、と考えた。しかしそれは自分も同じだ。ただし目的は真逆。徹頭徹尾不審者の監視のための盗聴器や監視カメラだ。もう齢18。裸一つを特定多数に見られる程度で動揺するほどのウブではないが、流石に気分は良くない。ただ、とっさに手元にあった聡美の眼鏡をかけることは忘れなかった。
 ストレスのたまることに、千雨はそういった監視機器を捜索することすら許されない。3年後の千雨はそういう類のエキスパートではあったが、この時代の長谷川千雨はそんなわけがない。ネットサーファーの心得程度にそういう知識はあるが、実践経験はなく、またそんな疑いすら持たないだろう。
 いや、実際には3-A全員の寝室にそういうものがあっても可笑しくはない。有線を壁に埋めこまれた監視機器の存在に悟れるのは、3-Aの中にも数はそういないだろう。

 千雨は洗面台に向かって、鏡から顔を逸らしながら眼鏡を外し、額の包帯を解き、蛇口をしっかりと捻った。僅かな油の浮いた顔に叩きつけるように水を浴びる。洗顔フォームを手に取り、少しだけ笑う。三年後も同じブランドの物を使っていた。
 濡れた前髪をかき上げ、つい鏡にも目をやる。額に傷が残っている。桃色に罅割れた痛々しい血の滲む深い傷跡。前髪の付け根に、一文字。私だったら鏡の裏にカメラを仕込む、と思いながらもまじまじとその痕を眺める。これはエヴァンジェリンのやったものではない。逃亡中に枝でざっくりと深く切ったものだった。
 後悔。それが千雨の体だったら大したことは思わなかったろう。道具として自らの相貌を利用することはあったが、まともな女としての幸せなんて期待していない。200万ドラクマと恋愛しようと思う人間はいない。
 だが、この体は、長谷川千雨のものだ。

(ひでー顔だな)

 目を伏せる。傷跡の他にも、目の下に隈と頬にやつれが出ている。顔は浮腫み、鼻の横にはニキビの気配すらあった。
 化粧をしよう。千雨も、長谷川千雨も、この時ばかりは同じ気持ちだろうと思った。こんな顔で登校するのは嫌だ。

 頭しか使えるものがないのに、ぼーっとしている。夢と現実の境が解らなくなるほどだった。疲労と、現実感のなさ。それでも死化粧のような厚いナチュラル・メイクを施し、自分のスペアの眼鏡に替え、真新しい下ろしたてのシャツを羽織ると、千雨はまたベッドに腰を下ろした。
 一晩中、何か思案に耽っていた気がする。探していたまどろみが、その奥にあるような気がしていたからだ。結局見つからなかったが。

 現状を分析すると、勢力は五つに別れる。学園、超、エヴァンジェリン、ネギ、そして千雨。
 学園は秩序型。そして3-Aの中の要人を警護、教育する方針で固まっている。超派との繋がりはどの程度なのだろうか? 超派の葉加瀬を千雨に差し向けたこと。学園長と千雨の会合にも葉加瀬が居合わせたこと。そして何より超派を3-Aに取り込んでいる時点で敵対しきってはいないだろう。情報、技術、人材の交流が少なからずあるはずだ。また千雨が魔法を認識していることは知っており、未来から来たことは知らない。この論拠は未来で時間移動の存在を学園祭まで学園派は認識していなかったことにある。
 だが、方針として千雨を許容していない。ネギを害し、ネギに影響を与えかねない千雨は既に排除される位置にいる。これを覆すのは、相当難しいだろう。

(初っ端から、思いっきりケチつけちまったな)

 目が覚めた瞬間のネギへの攻撃。アレでいきなり厄介な展開に巻き込まれた。反省。

(……知るかよ)

 学園長との会合で提示された選択肢。そして決定的に千雨の分析が済んでいるということ。現代社会において個人の洞察力などは組織に必要とされない。言葉や動作を索引して、心理分析の本が一冊あれば九割方人となりが解る。千雨が自慢するような洞察力など、所謂「機転」程度の物でしかない。
 千雨は安い情報だ。些細な情報が各勢力を簡単に行き来するだろう。肝心の未来に関する情報が超派以外にひた隠しにされるのは、それが超派の切り札だからだ。逆に考えれば、それを逆手にとることもできる。

 一方で超派は、学園派と違い千雨を重要視するだろう。千雨は超の計算を崩す存在であり、その長大な計画における唯一のイレギュラーだ。その互いの望む未来が共存するものだとしても、100年もの長い歴史を改変しようとするのだ。些細な差が決定的な計算違いになる。あるいは、既になっていて超は歯軋りしているかもしれない。超の方針としては、計画の続行。そして最も影響の少ない方法でのイレギュラーの排除といったところか。
 問題は、超派は千雨についてどこまで悟っているのか解らないことだ。何年後の未来から来たのか、長谷川千雨はどこに行ったのか、千雨は誰なのか。そのどれを気づいていて、どれに気づいていないのか、どうやって未来から来たことを知られたかも解らない千雨には想像がつかない。
 それによっては、学園長の提示した選択肢1が、超派によって防がれるかもしれない。長谷川千雨の中に千雨がいるということが解っていなければ、長谷川千雨の中にいる誰かに魔法認識を忘れられることは厄介だ。関連する記憶を根こそぎ消し去る記憶消去は、長谷川千雨の中にいる誰かが長谷川千雨を演じることすらできなくするから。
 影響をできるだけ出したくない超派にとっては、長谷川千雨に大きな変化を持って欲しくはないだろう。まず考えるのは長谷川千雨の中に入っている人格がどういう形で入っているのか。あるいは、別人が長谷川千雨に成り代わっているかを検討する。つまりは長谷川千雨の復帰を試みることだろう。無論、それは不可能であり、最終的には千雨に長谷川千雨を演じることを要求する。

(最悪は……私の脳を開いて、擬似的な人造人格を植えつけることだな)

 そこまでの技術を持っているかはわからない。だが方法としては葉加瀬が時代を跨いで千雨にしたことと同じだ。できると見ておいた方がいいだろう。

 学園派と超派は潜在的な敵対関係にある。千雨の活路はそこにしかない。

 エヴァンジェリンは学園派の子飼いであるが、実質的に自立している。エヴァンジェリンが何を考えているのかまだ情報がない。未来で聞いた話では、エヴァンジェリンの封印を解くためにネギを狙った。そのネギを殺しかけた千雨に対する報復とは言っていたが、実際は学園側の依頼で千雨にネギへの敵意を持たせないよう躾に動いた、と考えるべきだろう。その点で学園派とエヴァンジェリンの利害は一致しているが、エヴァンジェリンはその来歴から自らの意思で生徒を襲うことはできないはずだ。それを考えると、『桜通りの吸血鬼』も学園側の認可があって行われていることになるのだが。
 もしくは、エヴァンジェリンが千雨の考えるより学園側に食い込んでいる? だがエヴァンジェリンの従者、茶々丸は超派だ。両派にある程度接近していて、ある程度の線が引いてあると考えるのが自然だ。
 だが、千雨の『3-Aに桜通りの吸血鬼に襲われ、大怪我を負ったことを見せる』という小細工によってその躾は未遂に終わった。である以上、千雨が再びネギに害意を見せない限りは再び千雨がエヴァンジェリンに襲われることはないだろう。逆に言えばそういうことがまたあれば、確実に今度は命が奪われる。

(今は、エヴァンジェリンは気にする必要がないってのはラッキーだな)

 厄介者のエヴァンジェリン。後衛としては抜群に優秀だったのだが、しかしその奔放な言動に千雨もよく悩まされたものだ。それなりに付き合いはあったが、まだ理解は及んでいない。

 ネギ……は、今は考えることはない。方針も、行動も解りすぎるほど解っている。そもそも派閥としては言い憚られるほど小さい勢力でしかなく、また学園側にその大半を依存している。それに行動そのままが目的であるあの少年について深く考えるのも馬鹿らしい。注意するとすれば、それは千雨自身だ。憎しみかどうかは置いておいて、間違いなくあの少年を前にしたとき千雨は失策を繰り返している。

 今後の方針は、学園側の千雨を排除する方針をやめさせること。そのために超派を上手く使い、学園側の提示した三つの選択肢を学園側が選べないようにすることだ。そうすれば学園側は千雨に対し、妥協するか強行するかの方法しか取れなくなる。強硬手段を使われた際の対応も考えておく必要があるが、まあ十中八九従順な態度を取れば妥協することだろう。
 だが、気になるのは選択肢3だった。『魔法界についての教育を受け、他クラスに移籍すること』。それは妥協の選択だ。3-Aから離れたくない千雨としては受け入れたくはないが、3-Aへの執着を知られたくない千雨には妥協点でもある。クラスが違っても、超の思惑を挫く方法はある。だが、簡単にネギに接触できる場所を学園側が与えるというのはどう考えてもおかしい。
 そのことについては探ってみる必要があるだろう。無為にそれに飛びつくのは不味い。しかし、所詮は封印されたエヴァンジェリンにすら手も足も出ないただの中学生である千雨に対し、どのような思惑を持っているというのか。

(……)

 学園長の、昼行灯とした顔が思い浮かぶ。

(ガキの、浅知恵、か)

 いくら分析しても。考えても。その言葉がどこかに引っかかっている。所詮子供。エヴァンジェリンを除いた今の3-A連中の中では三つばかり年を食ってはいるが、思慮深いなどとはとても言えた年ではない。所詮は18だ。
 見事に、楔を打ち込まれた。

(クソ……年食ったら、もっと深く考えられるものなのかよ)

 白き翼はパーティーとして規格外に若かった。紅き翼はゼクトやガトー、アルビレオと大人が揃っていたが、白き翼にはエヴァンジェリンしかいなかった。参謀役を担っていた千雨と夕映も、その若さを理由にエヴァンジェリンにいくつかの案を潰されていた。
 エヴァを白き翼が失い、事実上千雨と刹那の二人だけとなってからは千雨の中の若さは薄れていたはずだ。だが、どこかで千雨には自信が欠けていた。どれだけ考えたところで、子供の浅知恵でしかない千雨の考えは浅く、穴があるのではないかと思った。自信を裏付ける経験が欠けていた。基礎的な能力にしても、才能に欠ける千雨にはそれを誇ることはできなかった。

(解ってるっつーんだよ。言われなくたって、私の考えにいつでも穴があるなんてことは)

 所詮ガキの浅知恵。ああ、既に自分の分析に自信が持てない。だが許せないのは、それをよりにもよって聡美の前で言われたことだった。
 勿論、打算もある。超に少しでも自分の評価を教えたくなかった。取り分け、傑物近衛近右衛門の人物評なら超も価値を見出しただろう。しかしそれ以上に聡美の前でくらいはカッコつけたかった。聡美と葉加瀬が別の人間だと思っていても、葉加瀬聡美は千雨が過去に来た理由だ。彼女の前で、彼女を助けるという判断をしたことが子供の浅知恵でしかないと否定されることだけは許せなかった。葉加瀬の願いを叶える、という名目で未来を潰し長谷川千雨を潰し過去に来た千雨にとって、聡美の存在は大きかった。

(……)

 息を吐く。僅かなでこぼこのある額を抑える。嫌な汗をかいていそうだ。化粧を流さないかが心配になった。

(学校、行きたくねーな)

 3-Aの連中に会えるのは楽しみだ。会っているだけで楽しくなれる。昔のことを思い出すことができて、それだけで心が浮き立つ。
 だが、超と聡美に会うのは憂鬱が先立った。聡美に敵視されることが辛い。長谷川千雨だと思ってもらえないことが辛い。超には、また余計なことを知られるだろう。どんなに注意深く動いたところで、千雨の事情は漏洩する。葉加瀬の忠告をもっと真面目に聞いておけばよかった。超鈴音がいる限り、未来人が自由に動くことなど絶対にできないのだ。



(ま、それでも来るんだけどな)

 一度溜息。感情よりも、思惑を優先させることにした。なんにせよ超派と接触をしなければならないのは確かだ。
 戸に手を当て、一拍で心臓を整える。不随意筋の癖に心臓は精神状態で簡単に状態を変化させる。スライドドアを、開いた。

「長谷川!?」

 腰掛けていた机から飛び降り、真っ先に駆け寄って来たのは柿崎だった。

「ちょ、大丈夫なの!? 怪我」
「ん、ああ。まーな。大したことはないらしい」
「いやいやいや! ありえないっしょ! あんたの血で私服一枚潰したくらいよ!」
「そりゃ悪かったな。後で学園長に請求しといてくれ」
「……? 学園長に?」

 超は、いた。もうぼちぼちチャイムが鳴りそうな時間だからか、大人しく自席に治まって、周囲と談笑している。千雨に気づいていないはずもないのに、それを歯牙にすらかけていない。一方で聡美は、ばればれの動揺をしている。ちらりと一度、千雨に視線を送って見せたのだ。

「いや、しかしびっくりしたよー。ご飯終わって部屋帰ろうとしたら、美砂が千雨ちゃん抱きかかえてへたりこんでるんだもん」
「ていうか長谷川、この包帯大丈夫なの?」

 柿崎を追って、椎名桜子と釘宮円が寄って来る。額の包帯に手を伸ばす釘宮に苦笑し、

「そりゃ悪かったな柿崎。よく考えりゃ携帯壊れちゃいなかったんだから勝手に救急車呼びゃよかったんだ」
「いや、そんなのはどうでもいいから! マジあんた死にそうだったんだよ!? もう来ても大丈夫なの!?」
「ああ。どっちかっていうと襲われて逃げようとして、勝手にずっこけた方が酷かったからな。間抜けな話だが」

 真っ先に介抱した分印象は強いのだろうか、それでも柿崎は目を細めて千雨の周りをぐるぐると回っている。千雨は放っておいた。いくら探しても、かすり傷程度のものしか見つからないはずだ。麻帆良の医療部は、その程度で3-Aの連中を誤魔化せると踏んだらしかった。
 恐る恐る釘宮が千雨の額に手を伸ばそうとする。それでも手を引っ込めて、まじまじと注視し、次いで目を丸くした。

「あれ、長谷川、メイクしてる?」
「……まあな」
「うわっ。うまっ! ナチュメうまっ」
「そうかよ」

 まあネットアイドルをする関係上、中一からこっちメイクの類には慣れていたのだ。年季がちげーんだよ年季が。と僅かに誇りながら、あんまり言って欲しくはないとも思う。それも超に与えたらどう取られるか解らない情報だからだ。

「でも千雨ちゃん、メイクしてたっけ? ……ていうか、してなかったよね。美砂といんちょと朝倉くらいしかメイクしてるとこ見たことないしなー」
「……まあ、もう二人いるがな」
 ザジ・レイニーディのアレは女子中学生が求めるメイクではないだろうし、那波千鶴のモノに至っては千雨ですら顔を近づけてじーっと見てようやく気づくほどのものだが。
「ちょっと今日は顔色が悪くてな。気使われんのも面倒くさいから化粧したんだよ」
「顔色悪いってやっぱ大丈夫じゃないんじゃない!」
「うおわっ!?」

 しゃがみこんで千雨の膝に残った傷を眺めていた柿崎が、突然ガシッと千雨の足首を掴んだ。よろめきかけ、つい咄嗟に柿崎の頭を掴む。

「やっぱ今日は帰んなって! 絶対治ってないってあんた! てか、あの血の量にしちゃ傷少なくない!? 何処にあんの!?」
「やめろバカスカートめくんな! 頭だよ! 頭の出血だよ!」
「あ、長谷川大人の魅力」
「死ね」

 一瞬たりとも躊躇わず千雨は柿崎の頭皮マッサージを敢行した。
 ぎにゃー。


 しつこい柿崎を振り払い席に戻ると、丁度夕映も席に戻ってきた。夕映は小さく会釈し、一瞬だけ千雨の額の包帯を見上げてみせた。

「おはようございます」
「……ああ。おはよう」
「災難でしたね」
「まあ、な」

 思わず夕映の顔をじっと見てしまう。麻帆良の学生にしては珍しくリアリズムを保っていただけあって、麻帆良にいた頃、千雨は夕映とそれなりに喋る仲だった。しかしそれはそれなり。千雨にとっては精々ザジ・レイニーディと同じ程度の仲だった。
 だが、それでも以前夕映が魔法という存在に関わっていることを知った千雨は驚愕した。自分が最低限信じていたリアリズムが否定された気になった。
 この時点、夕映は魔法の存在を知らない。ネギの従者でもない。ただの中学生だ。

「なんです?」
「いや……そーいや、先生遅いな」
「そういえばそうですね。生真面目なネギ先生ですから、いつもはもっと早いんですけど。それに明日菜さんもいませんし」
「え?」

 クラス内を見回す。確かに神楽坂明日菜に近衛木乃香。桜咲刹那、長瀬楓、エヴァンジェリンに絡繰茶々丸といった人物が見当たらなかった。

「そうだな。……」

 ふと、昨日の顛末を思い返し、千雨は口元を歪ませた。まさかあの自分の魔法の射手で怪我でも負ったんじゃなかろうか。明日菜と木乃香はその看病。刹那は木乃香が学校に来なければ態々登校してきはしない。長瀬は刹那の付き添いか。
 エヴァンジェリンたちは……サボりか、何かあったか。それを千雨には関知しきれないだろう。

「長谷川さん。多少時間があるようなので、長谷川さんが被った災難の顛末を教えてもらえませんか」
「あん?」

 夕映は、思いの外真面目な眼差しで千雨を見ていた。野次馬根性であるとはとても言えない。綾瀬夕映は知識欲で動くことが多々あったが、それを遥かに上回る圧倒的な意思の持ち主だ。千雨は夕映のそういう所を良く知っている。

「なんでだよ」

 だが、千雨はこれ見よがしに機嫌を害したという表情をした。ともすれば悪意すら感じられただろう形相。それでも夕映は少したりとも怯まなかった。

「桜通りの吸血鬼ですが、今までは犯罪でこそありましたが、それでも実質的な被害は微々たるものでした」
「……」
「精々、気絶させられて放置させられる程度。首に少々傷を付けられるようですが、それもほんの一週間ほどで跡形もなくなるようなものです。ですが、長谷川さんに対しては前例を逸しています。三日も昏睡させられたんです」
「……怪我は大したことねーよ。出血は自分でずっこけた時のものだし、目が覚めなかったのもその時打ち所が悪かっただけの話だ。自分の間抜けさを穿り返されるのはあんまいい気分じゃねーよ」
「それは」
「まあ、別段吸血鬼さんを庇う気もねーし。話しても構わないけどな」
「なら、千雨さんだけが逃げ延びたことはどう思われますか」

 おう。と千雨は呻いた。目の付け所を逃さない女だ。やはりこういう頭の回転は魔法に絡んでから得たものではなく、生来の能力なのだろう。千雨は感心を億尾にも出さず、苦笑を浮かべ、

「待てよ。あんたが何しようがあんたの勝手だけどな、危ないことに首突っ込もうとしてるクラスメートを止める権利くらい私にもあると思わないか?」

 夕映は甚だ意外そうな顔をした。
「長谷川さん、私の身を案じるような方だったでしたか」
「……」
「し、失礼。失言でした」
 長谷川千雨って、マジでどんな女だったんだ。三年前の自分でありながら、千雨にはさっぱり解らなくなっている。
 こほんと演技じみた咳払いをして、夕映は、
「見逃せなくなりました」
「あ?」
「佐々木さん、長谷川さんと桜通りの吸血鬼は連続して3-Aを狙っています。そして長谷川さんの今回の被害。その要因は、長谷川さんの対応にあると私は踏んでますが……次は、このクラスの誰かがもっと酷いことをされると予測してもおかしくない事態です」

 不正解。

「……警察に任せておけよ。小説とかドラマじゃ無能扱いされるがな、日本の警察はそれでも世界随一の」
「この街ではその限りではありません」

 ぴしゃりと言いきった夕映の口元には、自信に裏づけされたほくそ笑みが浮かんでいる。

「麻帆良学園都市が他の都市に比べ、異様なくらいに凶悪犯罪の発生率が低いことはご存知だと思います」
「ああ。だけど当然だろ? ここは麻帆良学園法人の支配する都市だ。無職が少ないし、未成年が多い。つまり不幸者が少ないんだ」
「ですが、検挙率は低い」

 千雨の頬が、引きつった。魔法に関わらずにいた時代に、ここまで考えられる人間がどれだけいるのか。

「更に言えば再犯率が低い。計画犯、知能犯の比率に至っては異常とも言えるほど小さいです。犯罪の多くが未然に防がれていると言ってもいいでしょう」
「麻帆良市警が再犯防止に力を入れてるってこったろ」
「いえ。犯罪者が私的制裁を加えられるからこその数字です」
(おお、すげえ)
「デスメガネ伝説をご存知ですね」
「あ、ああ。高畑先生のな」
「高畑先生のなさっていることは立派ですが、国法に合わせてみれば間違いなく私的制裁であり、傷害です。周囲に肯定されている以上、問題になることはありませんが。
 ああいう先生方の活動が積み重なって犯罪発生率が抑制されている、と考えるのが自然です」

 こいつ、よく学園に消されなかったな、と思うほどの的を得た分析だ。だが、肝心な要因が欠けている。

「つまり、この街には警察とは別の自治組織があると考えるのが自然です」

 そうそう。別の自治組織があるという考えに至っていなかったことが欠けていたのだ。十秒前まで。千雨は思いっきり夕映から視線を逸らし、窓の外を見た。
(こいつ、どうすんだよ……)
 千雨なら、別の自治組織なんて中二病的な考えには至らない。他の要因を探る。しかし綾瀬夕映はそっちに行ってしまうのだ。
 千雨の知る限り、押し付けられた情報でなく、自ら魔法の存在にたどり着いたのは3-Aの中でも夕映と千雨だけだ。しかも千雨は精神系魔法にかかりにくく、麻帆良全体に蔓延する一種の認識阻害を弾いていたから仕方ない。夕映はそれすらなく、ただ自分の中の論理だけでたどり着いた人間だ。単純な思慮の深さで言えば、千雨では勝負にならないほどのものを誇る。

「……まあ、いいぜ。あんたの言うそのガキ臭い自治組織があったとしよう」

 露骨な悪態に、流石に夕映は傷ついた顔をする。

「だが、それに任せておけばいい話だろ? 何もあんたが態々桜通りの吸血鬼を穿り返す必要はない」
「信用できません。桜通りの吸血鬼が発生してもう三ヶ月あまり。時間帯、場所、手口という共通項があって、尚連続犯行を食い止められない『自治組織』は、正直言って胡散臭すぎます。自治組織の内部に犯人がいるのかもしれないです」
「……」

 上を見て、下を見て、千雨は夕映に気づかれないよう溜息を吐いた。
 いくら夕映だと言っても、魔法を知らないクラスメートに腹芸を使うのがバカらしくなった。どうせ3-Aは天才揃い。ベクトルは多様だが、それぞれの最盛期を集めれば世界だって二三回は征服できる連中だ。千雨が浅知恵で動くのも限界がある。

「……で?」
「警察も自治組織も期待できないなら、今後の被害を抑えるために自分から動くしかないでしょう。そのためにも、少しでも多くの情報が必要です。
 長谷川さん、あなたは唯一桜通りの吸血鬼から逃げ延びた人です。少しでも犯人に切迫するには、例外である長谷川さんからの情報が必須になります。……お願いできませんか」

 下手に情報を隠すのも、上手い手じゃない。いっそのこと夕映に魔法のことをバラして現状をしっちゃかめっちゃかにしてやろうかとも思うが、それをするなら3-A以外だろう。夕映を自発的にドロドロの裏の世界に浸からせるのも気が引けた。

「あー」

 首の裏をぽりぽりと掻いて、ふと風呂に入り損ねたことを思い出す。この怪我で入るのは難儀だろうが、妙に感じるほど自分の体の不潔が気になった。自然な苦笑を浮かべる。笑顔を作るのは慣れた手続きだった。

「考えすぎ。邪推しすぎだ綾瀬。怪我させられた、逃げられた私が特別なわけじゃない。逆なんだよ。勝手に怪我したから、逃がしてくれたんだよ。私はむしろどっちかっていうと温情的な対応をする吸血鬼だと思うぜ」
「……いや、しかし……」
「勘弁してくれねーか。昨日目が覚めたばっかりでな。記憶も色々曖昧だし、思い出そうとすると頭が痛えんだよ」
「はあ……。そこまで仰られるのでしたら」

 不服そうに夕映は頷き、一度手元に目を落として頭を下げた。

「すいません。気遣いが足りませんでした」
「いや、それはいいが」

 まだ、このことを突っ込むつもりなのだろう。諦めていない気配が目に見て取れる。
 だが、千雨はこれ以上説得する気は起きなかった。いくら夕映でも、学園を敵に回せば手も足も出ない。そして、学園にとっては敵にすら値しない小さな存在に過ぎないのだ。
 千雨の行動の結果だとしても、それは変わらない。肺から小さく息を抜いて、千雨は前を向いた。
 丁度、副担任の源しずなが入ってくるところだった。

「しずなせんせー! ネギせんせーはー!?」

 真っ先に手を上げたのは朝倉和美だった。

「ごめんなさい。今日は休みなの。体調が優れないらしくて」
「えー!」
「大丈夫なのー!?」
「軽い風邪よ。神楽坂さんと近衛さんもすぐ来るらしいから」

 千雨は息を抜いた。
(大したことないのか。怪我じゃなさそうだな)
 大体、ネギの障壁は出力の制御構造が組み込まれた魔法の射手程度で破れるものじゃない。それが例えネギ自身の放ったものだとしてもだ。


 当たり前だが、高校三年が中学三年の問題を突きつけられても簡単だとしか思わない。習ったことでしかなく、それはあくまで復習程度のものだ。

(参ったな)

 超派に正体を悟られようとも、方針は変わらない。問題を与えられて、千雨は調子に乗って頭脳を披露することは許されない。

(授業がすげえつまんねえ)

 高校の授業がどれだけ生徒の興味を引くために特化していたのか。
 高校生になって、中学生の授業を受けて、ほんの一つたりとも得るものがなく、新たな発見の一つもない授業など意識を保つ方が難しいものだと知った。
 昔受けたことがある。程度の授業だったら思い返す意味で楽しめたかもしれないが、高校の授業は完璧に中学の理解を背負っている。感じるものは高校レベルなら当然知っている、程度の内容でしかなかった。

(……眠いな)

 実質的な徹夜明けの影響だろう。柔らかいしずなの声は子守唄にしか聞こえなかった。

(ねむ)

 目蓋が重い。
 誰が傍にいても熟睡できなかったのに、この時ばかりは多くの人に囲まれても眠れる気がした。
 敵がすぐそこにいるのに、眠れる気がした。



(にしても。こんなこと前、あったか?)



 いや、千雨がいることで歴史は変わりつつある。その余波か。或いは古い記憶を忘れているだけなのか。
 千雨は、その疑問をすぐに忘れてしまった。



千雨の方法
第一章 デイドリーム・ビリーバー 下



「待て……長谷川」

 何の面白みもない緑の香り。摺り足で擦った靴の裏が緑に染まるのを感じながら、千雨は順足。射程に桜咲刹那の矮躯を収めると中指を立てた前拳を見舞った。まるで梟のように動くもの全てを捉える瞳が、葉や草のざわめき、風の流れと共に自分の拳を捌く刹那の手首を捉えていた。

 勘や本能の存在を嫌々ながら受け入れた千雨だったが、それでもこの状況においては頭の回転を早め、論理を追求することだけが刹那に肉薄する手段だった。外は内へ。そのクソ真面目な心根に違わず、その本懐とも言え内を曝け出す手段でもある剣を握る時を除けば、嫌味なほど教科書的な対応に終始するのが桜咲刹那だ。
 身内の虚を突くことの無意味さを頭のどこかで考えながら、千雨はそれでも迷わずほぼ諸手のタイミングで空いた左手で刹那の長く白い髪を捕まえた。刹那は、嫌そうな顔をして、体を捻った。

「止まれ長谷川!」

 肘に打ち上げの刹那の掌底。受ければ力を逃す間すらなく間接が逆を向くだろう。しかし予想はついた。千雨は手首を巻き込み、体を寄せながら丁度肘間接で掌底を受け止めた。それでも神経が引きつるほどの痛みに肘が撓み、肩が上がる。

「ッ!」

 いや、いかな技法か。千雨の知らない術理がそこにはあったのか、手首から先、筋肉が弛緩し、するりと刹那の髪が零れ落ちていった。
(マズっ)
 正中線ががら空きになっている。慌てて両腕を引き寄せ、頭を下ろすが間に合わない。そっと、優しく刹那の掌が千雨の鳩尾に添えられた。
 千雨の顔から、血の気が引く。一瞬の間。千雨が身構えするための刹那の手加減。だが、衝撃に手加減はなかった。内を向いた刹那の前足が、ぬかるんだ水際の地面に沈む。

「がっ……は!」
「あ! すまん!」

 背中まで突き抜けるような衝撃に千雨の体は軽々と浮き、弾き飛ばされた。刹那から程近い草地に一度背を打ち、勢いのまま一度天を見てまた地を見、水切りのように跳ねながら湖に沈没する。

(……)

 透明度の高い、透き通った水。新世界の水は旧世界とは大分違う。旧世界の自然界の水よりも、蒸留水の方が近い。底に向けて沈みながら、千雨は必死に霞みそうになる眼を擦った。着衣のまま。底は深い。光を屈折する水面は徐々に遠ざかっている。
 千雨は、必死でもがき始めた。桜咲刹那。多くの戦場と苦楽を共にした戦友であるが、そのうっかりした天然ぶりはいまいち信頼に足りていないのだった。

「す、すまない! 長谷川、大丈夫か!」
「ゲホッ、ゲホッ……」

 深い湖でもがいて慌てて立ち泳ぎをしながら、激しく咳き込む。肺から水を吐いて、遠くなってしまった刹那を睨みつける。

「ってえ、なこのクソバカ! 手加減しろよ! 水、弾いたのなんて、産まれて初めてだっつーの!」
「スマン! いや……ちょ、て、手伝ってくれ長谷川! お、大物が……」
「……」

 刹那は、釣竿に向き直り、涙目になりながら必死に水を割るような大魚と格闘していた。

「……」

 ぶくぶく、と気泡を出しながら、千雨は眼を逸らしながら湖に沈む。眼を剥いて、刹那が悲鳴を上げた。

「おい? 長谷川、ちょっとタモ取ってくれ! 竿折れる! 長谷川? 長谷川ァー!」

 今日の火星は天気がいい。昼下がりのアエリア地方の森の中。植物に囲まれているのに乾いているという極めて特徴的な気候の中、極小の湖の湖畔に作った掘っ立て小屋。雄大な自然の中にありながら、極端な閉鎖空間にあって、長谷川千雨と桜咲刹那はえらく伸び伸びとした生活を送っている。
 千雨は少しばかり湖の水を飲み込みながら、ばしゃばしゃと格闘音を響かせる刹那を尻目に空を向いた。火星特有の指先で摘めそうなくらい薄い雲が足早に流れていった。

「え、嘘や。ちょ、ウチが、こんな魚に、負けるなんて、ちょ。待、っきゃあああああ!」

 ぼっちゃーん。
 知るか。


「魚がかかったからって人の事ぶっ飛ばすかよフツー」
「悪かったと言ってるだろう!? だが晩御飯のおかずがだな……!」
「つーか三人であんなデカい魚は食えねーよ! 持ってくる仕掛けがでけーんだよ!」
「が、頑張る! ろ、ロマンなんだ! あの主にはもう三回もエサを取られていて! いいだろう!?」
「ロマンかよ?!」

 桜咲刹那。三ヶ月に及ぶ狩猟生活のおかげか、近頃生来の野生の血を呼び起こしている気配が見て取れる。頑張るじゃねーよ。

「長谷川だって棒ダラは飽きたと言ってたろう……」
 この逃亡生活における主食は、以前大量に買い集めた乾燥鱈であり、それを一々チャムが戻して調理している。塩漬けの鱈はいくらでもアレンジのメニューがあったが、それでもやはり飽きが来ている。
「いや、飽きたけどよ、んな贅沢できるような立場でもねーだろ」
「せ、先生にももっと栄養を!」
「なら魚以外にしろよ?! つーかただの趣味じゃねえか!」
「も、元が鳥だから漁には適正があるんだ」
「自分で言うなよ?! 開きなおってんじゃねーよ! つーか多分あんたは蟲ばっか食ってる小鳥だよ!」
「誰が小鳥だ!? 啄ばむぞ!」
「テメーは近衛と袂を分かった辺りからキャラ弾けすぎてんだよ!」
「……」

 涙目である。

「……お嬢様のことは言わんといて」
「なんかすまん」

 メンタル弱ええ。
 二人は、湖の畔に場所を移していた。林間の湖だが、掘っ立て小屋から湖の間にはテニスコートくらいなら入りそうなスペースがある。丁度掘っ立て小屋からは木が影にある位置の小さな草むらの禿げた場所に、石で囲っただけの竈があった。今は刹那の陰陽術で小さな種火が燃え広がろうとしている。気温は春先なのだが、池ポチャして濡れたままで掘っ立て小屋に帰るのはマズイ。チャム――千雨の従者は、そういうところに煩いのだ。

「あー、くそ。びっちゃびちゃ」
「脱いでも構わないぞ。見ないでいるから」
「あんたも脱げ。シャツが透けてて眼のやり場に困る」
「え?! うわっ!? み、見るな長谷川っ!」
「面倒くせえなあ?! もう見飽きてるくらい見てるっつーの!」

 オスティアで3-Aが分解してこっち、ほぼ常に行動を共にしてきた仲だ。同じ釜の飯を食べたどころか内臓の色まで見た仲(比喩ではない)だというのに。
 顔を真っ赤にして背を向けながらTシャツを脱ぐ刹那をジト目で眺めて、溜息。千雨も刹那とお揃いのTシャツを脱ぎ捨てた。流石にショートパンツまで下ろす気にはならなかった。

「そういや、どうだ? ……私、ちょっとは強くなってるか?」
「成長は、自分が一番実感できるものだぞ」
「あ、そうか? 私、結構やるようになったと自分で」
「すまない。出来る限り傷つけない伝え方を考えたつもりだったのだが」
「すげえ傷つくわ! 実力不足だけじゃなくて自信過剰で二重で傷ついたわ! 最悪だ!」

 肩まで伸びた刹那の白髪を睨みながら、くわっと千雨は歯を剥いた。桜咲刹那。中学三年からさして伸びてない小柄な身長と華奢な千雨に増して細い腕と肩に似合わぬ剣腕の持ち主である。髪が伸び、白くなり、瞳は赤く染まり、あと一部がそれなりに成長した以外は刹那の外見は以前とそう変わっていない。懐かしいサイドポニーは滅多に見ることはなく、大概無造作なロングヘアーだった。
 まあ、成長していないのは千雨も似たようなものだ。年相応の丸みを帯びたくらいのもので、後は首の後ろで縛っていた髪を上げ、ポニーテールにするようになったか。それなりの期間続けている戦闘訓練や逃亡生活も体に肉を付けることはなく、体重はむしろ減ったくらいだ。

「落ち着け長谷川。お前は成長している。だが、決してプロに対応できるほどのものではない、という程度でしかないということだ」
「……じゃあ、意味ないじゃねーか」
「いや、私は感心してるぞ。もう少し早く始めていればそれなりのモノになっただろう」
「もう少し、ね。……いつのまにやら新しく積み上げるような年じゃなくなっちまったな」
「まあな。今までで積み上げてきたものをどうにかして生きるような年になってしまったし、そういう世界だからな。お前も三歳くらいから始めていれば最低限くらいのモノにはなっていただろうに」
「早いな! ていうかムリだな! 三歳からで最低限かよ?! つーか悪いけど子供できても三歳ぐらいのころから剣やらせたりしねーわ!」
「懐かしいな……よく滝から落とされたものだった。三条の滝とか」
「神鳴流半端じゃねえな!?」
「いや、里の人に嫌われてたからな、私」
「さらっと重いんだよテメーは?! 聞きたくなかったわ! つーかよく生きてたよお前!」

 因みに、3-Aメンバーの中で『闇の魔法』に才能を示した人間はそれほどおらず、しかしネギ、千雨、刹那とこの場の三人は全員闇の魔法に見事な適正があったりする。本家本元、エヴァンジェリンのお墨付きだった。

「まあ、実際一次性徴期から武術を学んでいるというのは圧倒的なアドバンテージだからな」
「気とか魔法があってもかよ? そりゃ、体の成長は早くしたほうがいいだろうけどよ」
「戦闘に対する勘の形成が圧倒的に違うからな。そういった第六感は幼い頃の方が遥かに形成速度が速い。むしろ体や技術は論理的に考えられるようになってからのほうが効率がいいことも多い」
「勘の形成、ねえ」
「そんな胡散臭そうに言うな。魔法使いの戦いは『魔女の鉄槌』から完璧に定型化されているんだ。ウォーロックを除けば相性が最大要因で、力も早さも技術もそれほどの差は出ない。重要なのは戦闘に関する勘だ」
「ま、言いたいことは解るぜ。報われてる努力の理由付けが勘、ってわけだろ。たまーに天才様方はそれをひっくり返してくれるみたいだけどな」
「穿つな……しかし、最低限素人相手には余裕を持てるようになったはずだ。それだけでもやる意味があるとは思わないか?」
「まあな。ストレス解消とダイエットにも最適だしな。これであんたにぶっ飛ばされて水没さえしなきゃ文句はねーよ」
「すまなかった」

 ド真剣な声色であらぬ方向に頭を下げた刹那にたじろぎ、千雨は思い切り顔を引きつらせた。謝罪において肝は頭を下げることではなく、こっちを見ることだと思うのだが。
 因みに、この桜咲刹那。ここまでにおいてふざけている部分は一切ない。その言動の全てはかつての主、近衛木乃香が乗り移ったかのような天然である。代わりに木乃香の方はそういう部分がなりを潜めているのだが。

「ううむ。やはり瞬動を……いや、というかやはり魔法の訓練をしたほうが効率がいい気が」
「ち。スタートが遅くなったら凡人にはそれだけ、ってことかよ」
「才能に拘るのはやめろ長谷川。選択肢を狭めるぞ」
「そうは言うがな」

 木陰に立てかけてある枝を折り、竈に放り込む。

「大河内や鳴滝の話し聞いてれば愚痴りたくもなるぜ」
「私も先生や明日菜さんを見て、そう思ったものだ」
「あんたがそう思うなら、私から見りゃ遥か天上の話だ」
「世界でただ一人の、情報のウォーロックが何を言う。千の刃の後を行くと言われるほどの女が」
「だから似てねーだろ?! なんで私をあのおっさんと絡めたがんだよ?!」
「いや、切羽詰ると気合と物量と力づくでどうにかしてしまうところが」
「……そ、それはだな……いや、私は力じゃないしだな……」
「それに比べて私は長の後継者として恥じることなく誇りを持ち」

 ネギはナギ。エヴァはゼクト。夕映はアル。刹那は詠春。古菲はガトー。まき絵がタカミチ。そして千雨がラカンと、白き翼のメンバーは紅き翼にそれぞれ対応して比較されることが多々あった。一部ミスマッチ。とりわけ古菲と千雨の位置は逆じゃなかろうかと常々考えている千雨である。

「長からお借りした夕凪のこの刃紋にかけて剣に命を……あれ? 夕凪ない」
「ベッドの横に置き去りだったよ! 珍しく素手だなと思ってたらド忘れかよ?!」
「しまっ……いや違う! こ、これはお前に対する信頼の証というか! うん!」

 どうだ、と言わんばかりにほくそ笑む刹那にイラっとした千雨は、竈に枝を突っ込んで真っ赤に焼けた炭を刹那の真っ白な背中に飛ばした。体を捻り、倒れこむようにして刹那は避ける。

「アブなっ!? 何をする?!」
「このうっかり侍が」
「だ、誰がうっかりしている! これはついだな」
「それがうっかりって言うんだよ! あーもううっかりってゲシュタルト崩壊し始めてるっつの!」
「う、うう! く、口では敵わんさ! 私は剣士だからな!」
「言っとくが、神鳴流の現役ウォーロックの中で、一番口弱いのあんただからな」

 いや、ゲーデル、近衛詠春、月詠と比較対象が悪い気もするが。青山姉妹の妹は聞いたところによると似たようなレベルらしいが。

「……おかしいな。私、こんなアホキャラだったか……?」
「いや、素で成績悪かったろ、あんた。あとやっぱ近衛に捨てられた辺りから」
「おおおおお嬢様のことは言うなあっ! あと捨てられてへんわ! 喧嘩別れや意見の相違やネギ先生がほっとけんかったんや長谷川のアホ!」
「……さて。そろそろ乾いたろ。チャムが飯作ってる。戻ろうぜ」
「無視すな!」



◆◆◆



「千雨ちゃん!」

 びっくりして飛び起きた。なのにそれすらも夢に近い覚醒でしかないと千雨は思った。全てが曖昧で、それが現実でないと言われた所で疑問を持つ余地はない。
 眼の機能か目蓋が開く速度か、視界は漣のようにゆっくりと広がっていった。
 いつのまに眼鏡を外していたのか、誰かの顔を確認するより前に眼鏡をかけ、千雨は眼鏡の下の眉間を揉んだ。世界が曖昧を続けているのが過去に来てからなのか、エヴァンジェリンに痛めつけられてからなのかが思い出せない。なのにそれのどちらでもいいような気がした。

(他人事みたいだな)
 眠気が冴えない頭だからか、本能に近い想いが脳裏に走る。
(この世界は、私のものじゃないからか)
 想像もしなかった考えではあるが、少なくとも人は誰もがこの世界は自分の世界である、という独占欲を持っているのかもしれない。それを失った時、世界への執着を丸ごと失う。

「千雨ちゃん。起きた?」
「……神楽坂か。なんか用かよ」

 いつ登校してきていたのか。いや今は何時間目なのか。
 付き合いは長いが、中学に入ってからまともに喋ったこともないだろうに、神楽坂明日菜が千雨の前に立っていた。そのことくらい自覚しているのだろう。明日菜はどこか居心地悪そうにしている。
(神楽坂……ね)

「えっと、昨日のことなんだけど」

 あくまで声を潜めているが、こんなところで出す話じゃない。咄嗟に千雨は明日菜を睨みつけ、立ち上がった。
「河岸変えるぞ」
「え、ああ。うん」
「行くぞ」

 休み時間だろうか。中途半端なざわめきが教室内に残っている。教室を出る直前、時計を確認する振りをして中を確めた。
 エヴァンジェリンの姿は見当たらなかった。相も変わらず、超は千雨に見向くことさえしなかった。

 人気のない場所を探して、結局立ち入り禁止の屋上手前の踊り場にたどり着いた。ここまで掃除が行き届いている。積み上げられた机の奥まで埃の気配がないのを見て、千雨は顔を歪めた。まるで新世界のようだ。極度に発達した科学は魔法と見分けがつかないとは有名な言葉だが、極度に発達した魔法は更にその上を行く。新世界の、特に大都市において埃やゴミは全て魔法で強制的に分解されている。
 千雨は何とはなしに適当な机の上に腰掛けた。丁度、少しだけ明日菜を見下ろす形になる。

「あんなとこでああいう話すんなよ」
 明日菜は顔を顰めた。
「ごめん」
「いや……」


 神楽坂明日菜――いや、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア。黄昏の姫御子。灰燼。完全なる世界。鉄血。呼ぶ名は数多あったが、最も有名なのは新世界の姫という呼び名だった、不世出の独裁者にして新世界最強の立派な魔法使い。三年後の世界においては、その圧倒的な戦闘能力によってサウザンドマスターと並び伝説となった女。
 今から二年後。新世界の小国を、ある一人の少女が簒奪する。少女は老王を誑かし、毒婦となり、王を殺し、国を奪い、しかしその手段とは結び付けられぬ柔らかな手段で国を統治し始めた。
 弱者を守り、強きを挫き、――歯を食い縛って。完全なる世界と黒羽。二つの組織が魔法使いたちを支配しようとしていた世界で、まるでそこだけ御伽噺のような優しい世界で、少女王は歯を食い縛りながらもめでたしめでたしを目指していた。
 少女王には、少ないながらも仲間もいた。「心神喪失」「神速」「奴隷騎士」「兎の足」。それに「哲学者」。国は、小さくも未来が見えていた。間違った世界の中で、唯一つだけ間違っていなかった。少女王は、長い時間をかけてでも、小さな物を守ろうとしたのだろう。民はいつしか少女王を好きになり、人が集まり、笑顔が増えていった。
 それは、一太刀で、消えた。

 ナグル・ファル級と呼ばれた飛行戦艦の艦首からの、一撃。
 完全なる世界として「不正な手段で権威と歴史ある王座を簒奪した犯罪者の断罪のため」進軍したアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアの抜きざまの一太刀で、国は、民は、楽園になるかもしれなかった国は消滅した。少女王は、国人の中では最後まで生き延びたらしい。しかし、最後は投降し、首を落とされた。
 アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアの伝説。御伽噺の終焉。英雄譚の始まり。その全てを、千雨は逃げ落ちた「神速」から克明に聞いた。新世界最強のウォーロック。そして史上最強と呼ばれた立派な魔法使い近衛木乃香すら退けた伝説の姫君の伝説。
 ――その話を聞いている間だけ、千雨は夢心地から逃れることができた。
 千雨は、その救うと決めた人間の中にアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアを入れていない。


 調子が狂う。明日菜は3-Aの中で一番繋がりの薄い仲だ。新世界で栞に成り代わられてから、明日菜のこの人格は消去されてしまっていた。千雨はむしろあの感情のほとんどを失っていた完全なる世界の盟主、新世界の姫としてのアスナの方がよく知っている。それとて言葉を交わしたのは数えられるほどだが。

「それでさ、千雨ちゃん。き、昨日のアレ、見ちゃった……?」

 溜息をつく。本当に明日菜とネギは学園内で籠に入れられて育てられている。台所の火事すら、知る術は与えられていない。

「……まあ、見たっちゃ見たな」
「いやっ! 違うの! あれは違うんだって! 魔法とかじゃなくて!」
「だから魔法だろ」
「な、なぜそれをっ!」
「……いや……」
 テメーの口からぽろぽろ零れ落ちてるだろうが!
 という当然の指摘を飲み込む。態々話を迂遠にすることもあるまい。

「私も訳有りって奴だからな」
「え?」
 明日菜は理解が及んでいないようだった。構わず、捲くし立てる。
「だから、あんたらが気にするようなことじゃねーんだ。誰かから何か言われたか?」
「ううん」
「ならペナルティもねーだろ。安心してろ。迷惑はかけやしない」

 それだけは嘘じゃなかった。学園は秩序を守ることを第一方針とするが、長い眼でのことだ。千雨一人に魔法をばらした程度のことでネギにペナルティは与えない。与えたとして、それは躾と呼ばれる程度のことでしかない。ましてや明日菜に対しては。

「えっと、よくわかんないけど、千雨ちゃんも魔法のこと知ってて、だから大丈夫ってこと?」
「それでいい。ところで話は変わるが、今日、先生はどうしたんだ、神楽坂」
「へ」

 明日菜は、眼を丸くして立ち尽くした。
 内心の苛立ちを隠すのに必死になる。その怒りがどこから来てるものなのか解らない。或いは――ガキの浅知恵――に未だ縋りついている自分へのものだったか。だがその矛先は明らかに目の前の明日菜に向いていることだけは自覚できていた。

「……まさか、昨日のあれで怪我したのか」
「いや、そうじゃなくて。何て言うか」
 行方不明になって、学園長に探してもらっている。いなくなったのは昨日夕刻。
「……」
「……」
「行方不明だあ?」
「よ、よくわかんないのよ。エヴァちゃんと茶々丸さんの話してたら突然飛び出しちゃって」
「ああ」

 千雨のイメージならエヴァンジェリン襲撃の算段といったところだが、この時代のネギはそこまで割り切っていないだろう。いや、吹っ切っていない頃のネギのことを千雨はよく知らない。知っているのは遠巻きに眺めて知れる程度のことだけだ。
 もしかして、逃げたのか?
 およそネギに似つかわしくない行動、とも思えるが、それもまた近衛近右衛門の定めたネギの教育過程の一環だろう。その千雨の認識は、一度ネギが逃げて、それをネギが粛した後から作られたものだ。この行動で、ネギは立派な魔法使いとして必要とされる逃げてはならないという行動方針が植えつけられることになる――。
 と、不意に自分の失敗に気づき頭を抱えたくなる。だが、明日菜の何一つ悟っていない顔に、口元を歪めた。

「……」(やば……くないのか)
「……? どうかしたの?」
 エヴァンジェリンの話をしてなかったのに流してしまった。
(気づけよ。……いや、気づかなくていいが)
 イメージの乖離が酷い。冷静にして冷酷な新世界の姫だったら確実に突っ込んできたろうに。基礎的なコンポーネントは共通である新世界の姫と明日菜のその差が、明日菜の怠慢に思えて千雨は理不尽にも腹を立てた。
 随分と、余裕があるな。

「それでさ、千雨ちゃん。エヴァンジェリンさんの話なんだけど」
「あん?」
「エヴァンジェリンさん、ホントにその……ネギのこと殺す気なのかな」
「……は?」

 これは演技。眠らずにいた昨晩の内に未来から引っ張り込んだ情報と様々な事情を統合し事態を大よそ予測してはいる。結論はそんなことはありえない、だが、それを明日菜に言うことは許されていない。

「待て。事情をそこまでは知らねーんだよ。まずエヴァンジェリンとあんたらの間に何があったかを話せ」
「え、あ。そ、そっか。えっとね」

 そこから明日菜が切々と話し出したのは、千雨も知らないエヴァンジェリンとネギの戦いの顛末だった。
 ――考えるに、エヴァンジェリンは遊んでいる。詳しく聞いて、千雨はそう判断した。
 エヴァンジェリンは、基本的には手段を苛烈なものに限る癖がある。より悪辣に。より辛辣に。まるで自分を悪という枠の中に嵌めこむように。
 仮にネギが子供、しかも知己の息子であると心にブレーキがかかってもエヴァンジェリンなら、圧倒的な勝利を収めることができる。この時代の……魔法戦のノウハウどころか、自分の生きてる世界のドロドロすらまともに認識できていないネギを相手にするなら、封印状態ですら余裕を持って可能だ。
 だから、きっとそれ以前。子供であるからこそ、遊ばざるを得ないのだろう。基本的にはある程度のラインを超えた魔法使いにしては規格外に甘いエヴァンジェリンだ。そのプライドにかけて本気になることは許されない。
 それに、エヴァンジェリンのナギ・スプリングフィールドへの執着を知っている。その繋がりといえる封印と、ネギと言う存在。双方をエヴァンジェリンは捨てきれないだろう。基本的には甘く、情に厚い魔法使いだ。

(そうは思うが、実際ここでこいつに言うのは拙いか)

 きっとネギは今、初めて恐怖を感じている。吸血鬼に狙われる恐怖。最強クラスの魔法使いに襲われる恐怖。そして自らの命の値段が安いと思う恐怖。
 それは全て学園とエヴァンジェリンの狙った思惑だ。阻害することは千雨が学園派とエヴァンジェリンに敵対することを単純に意味している。
 決して事実に即した思いではないが、事実をネギが与えられることはない。立派な魔法使いは自分を重要視してはならないからだ。立派な魔法使いとなり、無私で戦争に借り出される以外の生き方は、ネギに用意されていない。

「知るか」

 だから、それが千雨に許されている答えだった。奇しくも学園側の失策であり千雨の活路となったエヴァンジェリンによる千雨への躾の手法。それが今度は千雨にとっての柵になっていた。ネギへ、明日菜へ余計なことを喋れば、より苛烈な手段での躾が待っている。それに対抗する手段もない。

「そんなこと言わないでよ。一緒に考えてくれてもいいじゃない」
「あー、あんたの心のつっかえになってんのは、私が桜通りの吸血鬼に襲われたって話だろ」
(あ、やっちまった)
 どこに監視があるか知らないが、また失敗した。千雨の口からエヴァンジェリンの名前を出さなくてはならなくなった。
 バカらしい話だ。自分の身を守るためだといっても、エヴァンジェリンはともかく学園側を庇っている状況がバカらしい。千雨はイライラしながら後頭部を乱雑にかいた。

「……私は、単に打ち所が悪かっただけだよ。別にエヴァンジェリンが殺意を持って私を襲ったわけじゃねーんだ。知ったこっちゃないが、エヴァンジェリンだって殺す気はないんじゃないか」
「うーん」
 不満足そうな明日菜。この嘘をつくのは何度目だろうと千雨は思った。
「でも、あれでしょ? エヴァンジェリンさんは有名な犯罪者だって」
「さあ……その話は知らねーけど」
「え? そうなの? カモの話じゃ有名らしいけど」
「カモって誰だ……ってさっき話にあったオコジョのことか。……いや、私は魔法のことは知っちゃいるが、本当に魔法のことを知ってるだけなんだよ。連中の風俗なんてまったくだ」

 また、不満そうな明日菜に千雨は小さく舌打ちした。素直に騙されてりゃいいものを。百戦錬磨の近衛近右衛門や聡美にならともかく、所詮年相応程の人造精神が与えられているだけの明日菜すら騙しきれないことに腹が立つ。
 ガキの浅知恵――その裏づけがされているようだ。

「ネギが逃げちゃったのもさ、多分エヴァンジェリンさんが本気だと思ったからじゃって」
「……」
(私のせいか……)
 責任転嫁の矛先すらない、千雨のトチ狂った行動一つでの悪影響。最悪の気分だ。これから起きる千雨の知らない出来事の全ての責任は千雨にあり、千雨が長谷川千雨だったら起きなかった悲劇なのか。

「……だから、知るかよ。私はエヴァンジェリンと喋ったことすらねーんだ。ましてやネギ先生ともあんたとも仲良かった覚えすらない。私の知らないところで勝手にやってくれ」

 苛立ち任せに吐いた言葉が、妙に長谷川千雨の言いそうなことだと思って千雨は口元に笑みを浮かべた。それは明日菜からすれば嘲笑にしか見えなかったろう。見るからに気分を害したようで、明日菜は体を強張らせた。

「そんなこと、言わないでよ」
「なあ、どうして欲しいんだよ」
「どうして欲しいって」
「エヴァンジェリンなんかに大したことはできやしないっては言えるぜ。逆に常軌を逸したキチガイだって言うこともできる。けど私の立ち位置じゃ、どっちなのか知らないとしか言いようがないんだ」
「それは、でも、それがどっちかじゃないと」

 千雨は野生染みた笑みを浮かべた。明日菜の勘所の抑え方も、また一種野生の臭いを感じさせるものだったが、それは理性を持って否定することができる。

(ああ、そっか。この頃の、信頼関係なんてこんなもんだったのか)

 ネギ・スプリングフィールドは、気にしない。善悪で人を判断しない。煮滾った砂糖水。或いは、程よい温度の硫酸。善も悪も飲み込む。それは器の大きさであると誤解されるが、それもまた違う。凝縮し、揮発させ、飲み干すことで容量は一定を保たせている。おかげでネギの底にはヘドロが溜まっているのだが、それもまた『立派な魔法使い』には必要なことだった。

(――バカ女が)

 隔意。ざまーみろ。千雨は、自分が明日菜に対して抱いている感情の表皮を破り捨てた。
 この時、まだ、明日菜はネギを知らないのだ。その本質を。願いを。屈辱と嫉妬をひっくり返してやった快感。それは地面を掘って卓袱台をひっくり返すようなものだったが、それは千雨の自尊心をいたく満足させた。

「そうだな」

 笑み。堪える。鉄仮面でも被ったように見えるだろう。

「ならいっそ、こう考えるのはどうだ? マジになって恥ずかしいくらいのお遊びだ。あんたは、バカにされてる」
「はあ!?」
「よく考えてもみろよ。あんなガキ、殺すのなんて簡単だ。人質とればいい。精神追い詰めりゃいい。授業中にせんせー質問あるんですけどーとか言って胸にナイフ刺せば終わりだ」
「……」
 明日菜は口を半開きにして身体を凍りつかせた。場にそぐわないことを言っていると自覚していても千雨の口は止まらない。

「んなことはバカでもガキでも簡単にできんだ。やらないってことはバカにされてんだよ」
「そんなの!」
「本気を出す気もねーんだよ必要も価値もねーんだよテメーに」
「ふざけないでよ! 本気で聞いてるのに!」

 千雨は自分を尊大に見せるように腕を組み、ひとしきり笑った。本気。その単語に腹が立ち、それ以上に笑えた。

「本気、ねえ。くだらねー本気だな」
「なんですって!」
「あんた、本気になって、何してんだ? 相談? やることが私に相談することかよ」
「仕方ないじゃない! あんたしかいないんだから! あんたしかいなくてあんたがいるんだからやったのが悪いの!?」
「バカか。それがくだらねーっつってんだよ。探せばいいじゃねーかよ。頼りになる高畑センセーにでも縋り付きゃいいだろ。自分の怠慢を理由に胸張って恥ずかしくねーか?」
「別にそんなつもりじゃっ! ……帰る! あんたなんかに相談するんじゃなかった!」
「ハハッ! いいね。帰る! だってよ。エヴァンジェリンにネギ先生が殺された後も帰る! か? そりゃいいぜ。楽しそうな人生だ」

 流石に、明日菜は顔を真っ赤にして足を止めた。何も考えずに口からまろび出る挑発に引っかかったことが楽しくて仕方がない。一言一句計算しなくていいことが、久しぶりのことだった。

「千雨ちゃん、あんたおかしいわよ」
 うるせえよ。
「エヴァンジェリンさんは、もう二年もクラスメートなのよ!? なのに、何でそんなこと言えるのよ!」
 明日菜の激昂に、露骨に千雨はうざったそうに顔をしかめる。

「だから友達じゃないからだろ。あんたこそ語れるくらいエヴァンジェリンのこと知ってるのかよ」
「それは! 違うけど!」
「小坊のころからクラスメートだった私の何を、あんたは知ってんだよ?」
「……そんなの」
「あー、解った。テメーが何が言いたいのかが解った。おい、神楽坂」

 千雨は机の脚に踏ん張り、明日菜の襟元を掴んで互いの額が思い切りぶつかるほどに引き寄せた。明日菜は短く悲鳴を上げる。

「いったっ……何よ!」
「ザケてんなよ」
「何がよ!」
「みんな仲良く、皆幸せ元通り変わらない日常が続くハッピーエンドなんてのは、テメーの脳内だけで完結させてろよ」
「な、何よ……」
「本気でエヴァンジェリンが先生殺そうとしてるなら、通報すりゃいいだろ。遠くに逃げりゃいいだろ。助け求めて這い蹲ってエヴァンジェリンの足舐めて許してくださいっつえばいいだろ!」
「そんなことできるわけないじゃないっ!」
「本気ならできるだろう?!」

 もう自分が建前で話しているのか、嘘をついているのか、本心を吐露しているのかわからない。明日菜は千雨を振り払い、歯軋りした。歯の擦れる音が、千雨にも届いた。
 ただ渦巻くような憤りが吐き出せる愉悦に、千雨の顔は歪みきる。これは八つ当たりだった。八つ当たり――最近聞いたキーワードだ。エヴァンジェリン。あの吸血鬼も、千雨に八つ当たりをした。自分より惰弱で脆弱な千雨を、フラストレーションの捌け口にした。それが免罪符にもなった。

「本気なんて言うな。あんたは本気なんかじゃねーよ。そんなこともできないあんたに、本気なんて言う資格はねーんだよ」
 憤怒の表情の明日菜が、ぎこちなく平手を振り上げた。その不自然な挙動に千雨はニヤニヤと笑う。どれだけ手を伸ばしても届かなかったものが、あちらから近づいてきたようなものだ。

「守られて殺せよ、お姫様」

 あ。
 地雷踏んだ。
 目に見えて、明日菜の顔色が変わる。あの姫のように、表情が足元に落ちて消える。親指を巻き込んだ拳が、雷の速度で落ちてきた。

「っ!」

 なんとか差し込んだ腕ごと弾き飛ばされる。机の上から千雨は転げ落ち、無様に四肢で地面を捉えた。ガードした腕が真っ赤に染まり、動かすのが億劫になる痛みを訴える。

「ふざけ――」
 ゾクリと、背筋に恐怖が駆け上る。
「――んなあっ!」

 体から先行。体に引きつけられた明日菜の拳は、跳ねるように横に逃れた千雨の痕跡を穿ち、リノリウムの破片を散らばせた。小さな欠片が、千雨の額に巻かれた包帯を切り裂いた。だが、それはむしろ千雨の中の恐怖を拭い去った。アスナ――新世界の姫なら、今の一合で千雨の全身を消滅させていただろう。
 転がるように壁に寄って、壁に背を押し付けながら這い上がり、千雨はニヤニヤと笑った。
 勝てる。いや、素人だ。勝てなきゃ可笑しい。桜咲刹那のお墨付きで、今の千雨は素人相手なら余裕を持てる。

「っら立つ!」

 明日菜は、咆哮するように怒鳴った。

「何なのよあんた! 私を怒らせるようなことばっかり!」
「っハ」

 腕が熱を持っている。皹くらいは入ったかもしれない。だが、それがどれほどのものか。アスナと同じ顔をした女を前にして、如何に小さなものか。暗い淀んだ愉悦が何をも上回って、千雨の顔を歪ませる。

「気にくわねーんだよ。自分は不幸だけど頑張ってる健気ですっつー顔したあんたが昔から気に食わなかったんだよっ!」
「解ったみたいに偉そうに! あんたこそ私のことなんて知らないのに!」
「知りたくもねーよ!」

 背の壁を蹴って踏み込む。明日菜の不恰好な身構え方。掌底を顔面に。素晴らしい反応を明日菜は示し、千雨の手首を下から掬い取り、そのまま体をくの字に折り曲げた。腹筋の割れ目。臍には千雨の体ごと親指が押し付けられていた。

「いぎっ……!」
「痛いか、バカ女」

 片腕を明日菜に捕らわれ、片手を明日菜の臍に当てたまま肩から千雨は明日菜にぶつかった。明日菜なら堪えるのは難しくなかったろう。しかし内臓を抉られるような痛みから逃れようと、明日菜の体は反射的に後逸した。それでも殊更強く掴まれた片腕を引かれ、千雨も明日菜に圧し掛かるように倒れこんだ。

「なんなの……訳わかんない! 最悪……なんなのよ!」
「そうかよ? 気があわねえな。こっちはようやく訳解ってすっきりしてるところだ」

 キスできるような至近距離にあって、千雨は勢いよく明日菜の鼻頭に眼鏡のブリッジを叩きつけた。

「いっ……!」
「イラついてたのも解る。当然だ。これは私のものじゃねーが、あれは私のものだったんだ。それがただの代替でしかなくっても、それでもプライドの一つくらいは許されるだろう?」
「わけわかんないこと……言うな!」

 自分の体を大きく揺さぶり、明日菜は千雨を体の上から落とすと、間髪いれず掴みかかる。しかし反射的に上半身を仰け反らせた。千雨の指が、明日菜の両目を狙っていた。それをスウェイするが、その隙に千雨が明日菜の下腹部に膝を打ち込み、明日菜は喉から競り来る吐瀉物を必死で飲み込んだ。千雨は、明日菜から二歩ほど離れ、立ち上がった。

「ゲホッ! うえっ」
「はは。あんたみたいのにビビッてたのかよ。考え直すかなァ!?」
「煩い……危ないわね! 目!」
「大人げなくて悪いな。本気も出せない奴に、目え突いて悪かったな!」
「そんな本気いらないわよっ」
「なら一生安穏と過ごしてりゃいいじゃねえかお姫様っ!」
「ホント……! 訳わかんないっ! なのに腹立つっ……!」

 猪のように馬鹿の一つ覚え。また飛び掛ろうとした明日菜の機先を制し、千雨の爪先は明日菜の口元を蹴り上げた。明日菜は仰け反り、千雨は笑った。勝てると確信した。笑えた。電子の女王如きが、新世界の姫を打倒するなど誰一人として信じはしないだろう。

(桜咲)

 身体能力は明日菜の方が遥かに上だろう。才能も遥か上を行くし、その身には魔法無効化と消滅というレアスキルも宿っている。例えば、互いに魔法を知ってからだったら千雨は逆立ちしても明日菜に敵わない。才能は凡人を容易く打倒する。千雨が重ねた経験は、天才を前にすれば簡単に打ち砕かれる。だが、その天才ですら、まだ千雨の経験に届いていない。

(桜咲)

 更に一歩踏み込み、千雨は平手で思い切り明日菜の頬を張った。パーンと景気のいい音が響き、明日菜の目から一瞬で感情が消えた。一撃で明日菜の顔には痛々しい紅葉が残った。

「い、た」
(桜咲ィっ!)

 きっと、これだけでも歴に残る。まだ魔法も碌に知らなかった頃であるが、新世界の姫を打ち負かした人間として歴史が書き込む。そしてそれは、電子の女王のネームヴァリューを超えるだろう。新世界の姫は、それほど絶大な名だ。同じような理由で雪広あやかも反「完全なる世界」勢力で有力者の地位を勝ち得たほどだ。
 八つ当たりでも、無為でも。それだけで千雨は過去に戻ってきた価値があったと思うほどに。千雨はもう一度平手を振りかぶる。明日菜は痛みを堪えるように硬く目を閉じて。

 ――千雨のその経験を、一太刀をもって全て否定して見せた。


「あ、ご、ごめん!」

 ――いま、何が起きた?
 首根っこつかまれて冷水に突っ込まれたようだった。頭蓋骨と脳髄の隙間に氷の板を突っ込まれたように頭が冷えた。後頭部から地に押し付けられ、腕は極められ、足の指一つまで完璧に捕らえられていた。誰が見ても、千雨の負けだという状況で、千雨の血相はようやく変わった。
 平手を振り下ろした瞬間、明日菜の瞳は鈍く輝き、それからは一瞬だった。

「グっ」

 リノリウムに押し付けられる頭の痛さだけではなく、腕も耐え切れないほどの痛みで、千雨の顔は真っ赤に染まった。身に入っていない謝罪の台詞はどう考えても反射的なものでしかないのに、千雨には明日菜の顔が焦燥と後悔に彩られているようにしか見えなかった。
 明日菜は、明日菜は――ほぼ同時に、三つの動作をしてのけた。片手は腕を捻り、片手は喉を押さえ、体が千雨の体を押し倒した。その中のたった一つにすら千雨は対応することはできなかった。
 速さはあった。未来においても千雨が会得しえない速さ。力もあった。抗いようのない。だがなにより、その瞳の色に千雨が恐怖したのが原因だった。体が、どうしようもなく凍りついたのだ。死ぬという経験したことのない状況に陥れられることが、どうしようもないくらいに恐かった。

「……」

 首を強く抑えられ、苦しみながら千雨の意識は遠くなりかけた。

(ゴメン、桜咲)

 意味などない。そう言われた。当然とは言える。努力も才能もない千雨には、空虚な経験しかない。努力はしたが、それは誇るほどのものでもない。才能なしに努力で伸し上がった桜咲刹那を前にして、誇れるわけがない。それを経験と言い換えて、しかしそれすらも無駄だった。憎い憎い明日菜にも届かなかった。
 ああ、そうだ。私は神楽坂が嫌いだった。ただそれだけで千雨は首に張り付いた明日菜の手首を掴み、歯を剥いて声にもならず唸った。

「……っ」

 明日菜が首から手を離し、千雨は怒鳴ろうとした。だが酸素が足りず、一度咳き込み、ようやく明日菜を睨みつける余裕が出た。

「……放せよ。放せッ!」

 明日菜はばつが悪そうに千雨の腕を解放した。じわりと、血流が戻ってくる感覚を覚え、千雨はリノリウムに倒れこんだまま硬く眼を瞑った。歯が内唇を貫通し、喉奥に鉄を送り込む。

「ご、ごめん」
「……」

 明日菜は何一つ悪くはない。だが人を傷つけることは慣れていないのだろう。そこだけ、ぽかりと穴を開けたように人間らしいと思った。魔法使いには治療魔法があり、苦痛を遮断する魔法も存在しているだけあって痛みや怪我に対し興味が薄い。さっきまでの気迫から一転、泣きだしそうな気配を漂わせ、千雨を気遣う明日菜に、どうしても千雨は視線を向けることができなかった。

(こんなものも、許されねーのか)

 眼鏡の奥の水晶の奥に暖かい水が溜まる。天才に挑んだのが愚かだった、と言えばそりゃそうだ。身の程知らずの自意識過剰。それでも脳裏に刹那にしごかれた日々が浮かび、それが無駄だったのだと思わずにはいられなかった。

「大丈夫? ……ごめん。でも」

 千雨はムリに涙を嚥下しながら、明日菜に背を向けてのろのろと体を起こした。経験と知識に体が追いついていない。痛みとは別の部分で息が荒く、体は火照っている。役にも立たたない経験だが。

「でも、やっぱり――」
「さっさと、授業行けよ」

 声が震えていないかは、自信が持てなかった。悔しさと惨めさが混ざり合って、どこかにあった苛立ちと怒りを大きなぐるぐるとした塊に変えていた。飲み込めない、喉に詰まって閊えて吐き出したい塊。なのにそれは理屈ですっぽりと胸の中に納まって、嵌って、指を突っ込んで掻きだすこともできない。
 明日菜は、一瞬口篭った。逡巡し、戸惑い、情報を整理し、飲み込み、解釈した。優柔不断からは遠いところにある、という稀有で重宝される性質の持ち主だ。それらはどんな思慮深い人間よりも早く、ほんの一瞬であった。スカートを翻し、階段に足を下ろす。

「正しくないかもしれないけど」

 遠ざかりながら、はっきりと明日菜の声は聞こえた。


「私は、一番いい終わり方を探すのが、間違いだとは、絶対思わない」


 千雨は顔を歪ませるだけで、答えることはできなかった。口は僅かに開きかけたが、言葉は見つからず、唇が震えただけだった。明日菜は畳みかけようと喉元まで言葉をせり上がらせたが、それを飲み込み、そのまま階段を下っていった。

 気圧で重い扉を、体全体で押し開ける。腹が立つ晴天が広がって、千雨は溜息を吐いた。背中から前へ早く流れていく立体的な雲。だだっ広い屋上にポツリと立った出入り口を風が迂回し、左右から切りつけるような風が千雨の体を叩いた。
 一歩、二歩前に進み、そのまま千雨は前のめりに倒れた。反射的に受身を取るが、そのままの勢いで額を地面に叩きつける。ぞんざいな治療だったのか、傷口は簡単に開き、一気に包帯を真っ赤に染め上げ、血滴を零して前髪を濡らした。


「あーあ」


 痛みが、自傷的な行為が、どうも他人を無為に傷つけているような罪悪感を感じさせる。心が体についてこないちぐはぐなのに、心だけは剥き出しになって容易く斬りつけられるような。
(幻肢痛……の、マイナーバージョン、みたいな)
 何がみたいなだ。


「あー、あ、あ、あ」


 お前は間違っていない。間違いなく間違ってない。反論できないくらい間違ってないよ、神楽坂明日菜。新世界のありとあらゆる場所で見ることのできた女の顔を持ち、忘れてしまうくらい前に消されてしまった人格を持った女は、疑いようのないくらい間違ってないことを千雨に叩きつけた。
 妥協して、妥協して最後に得られる結論が、本当に最初に求めたものなのか保証はどこにもないのだから。
 たった一つ、それを助けてくれる経験もご丁寧に否定してくれちゃって。


「うあ、あああ、あ」


 所詮は子供同士の喧嘩。得るものはなかったが、失ったものもない。前向きに考えれば、明日菜に負けた。だからなんだ、というだけの話だ。
 無視しろ。忘れろ。否定されたことも、自分の心も。意志薄弱も、忘れていい。図星を突かれたように泣きたくなるなよ。所詮、何も知らない籠の中の鳥。


「あ、あ、あー、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁっ!」


(ダメだろ、これは。ああ、どうも)

 ずるり、と血痕を残しながら、体をひっくり返す。晴天に腹が立つ。空に腹が立つ。その爽やかさが癪に障る。全てが、自分を責めているようで、無用の反感を抱く。
 思い返せば、不変のものを嫌う千雨が、一番不変だった。変わりたくても変われなかった。それに誇りを持てとも言われたが、たった一人停滞している自分のどこを誇れというのか。

「泣きてー」

 一番泣きたいのは、明日菜にぼこぼこに負けたことでも、自分が重ねた経験がクソ程の役にも立たないと知らされたことでも、自分に意思がないことでもない。
 多分、きっと。
 長谷川千雨が、ネギ・スプリングフィールドに憎しみを抱いているとしたら。
 それは、薄暗い復讐ですらない。
 つまらない、有り触れた、痴情の縺れに他ならないと、気づかされたからだった。
 気持ちが沈んでいく。立派なお題目を掲げた自分が、どこまでいってもただの女でしかないと思い知らされるようで。

(うわあ、マジで最悪だ。悪い葉加瀬。もう遅いけど、あんたのこと利用しただけだった)

 目を閉じる。そこら中痛む体が光点になっている。
 せかいが、つらいから、たすけてください。

(来るんじゃ……)



「――うるさい女だ。人が寝てるところで。他に行けバカモノ」

 上から――空からの声。予想もしなかったが、千雨はまんじりともしなかった。度胸が据わっているわけではない。

「……エヴァンジェリン」

 襲い掛かられて以来の声だったが、妙に懐かしく、数年ぶりにその声を聞いたような気分に陥った。前の世界にしても、白き翼から副リーダーたる吸血鬼が失われたのは、魔法世界で過ごした日々の中でもかなり後期だったはずなのだが。
 散々痛めつけられても、自分の中にあるエヴァンジェリンへの感情が微かすら動いていないことに、安堵する。千雨は極端に仲間意識が強く、3-Aの中でも後期白き翼に属していた連中に対しては特に裏切る気持ちは起きないだろう。

「人が寝てる傍でごちゃごちゃと」
「お耳がいいようでちゅね吸血鬼ちゃまは」
「ノスフェラトゥの耳を屑みたいな非魔法使いの鼓膜と一緒にするな。さっさと失せろ長谷川。また殺されたいのか」

 顔も見せず、給水タンクの脇の陰になっているスペースで横にでもなっているのだろう。人をバカにした態度だったが、決してエヴァンジェリンは人を馬鹿にしているわけではない。興味がないだけだ。
(ま、600年も生きてりゃ人間にも飽きるだろうな)

「ああ、そういえば、貴様、長谷川ではないらしいな」
 少したりとも勿体つけずに、エヴァンジェリンは脈絡もなく言った。
「どうでもいいがな」

 動揺すらしない自分に悲しむべきか。エヴァンジェリンに伝わっていることが想定内だった分だけ千雨の反応は少なく済んだ。
(……バレてたから、強めにボコられたのか。いや、それはないな)
 強めですら、なかったろう。エヴァンジェリンにとっては軽くだったはずだ。現に五体満足で、何かしらの認識を強制されたわけでもない。千雨がやったら多分、まず指くらい切り落としてるし。

「……そうだな。私は長谷川千雨じゃねえ」
「面倒な話だな侵入者。見ててやるから自分で死ね」
「それは勘弁願いたいな。……つーかそりゃ魅了の魔眼の話か。自殺させられんのかよ」
「目的はなんだ? ぼーやの命ではあるまい。その素養の調査でもしにきたか? 陰陽寮あたりか、教会か、ウェールズという線もあるな」
「さあな」
(牡丹餅的だが、私の中身の特定まではされてねーのか。流石に、そこまでされてたら手も足も出なかったが)

 状況的に、どこかの後ろ盾のない千雨の立場は極端に不安定だ。超派の最重要事項である時航機が絡んでいる、という一点だけで辛うじて保たれているに過ぎない。それでも学園は片っ端から長谷川千雨に成り代わることのできる人間をピックアップしてるだろう。

「侵入の手際は見事なものだが、どうも素人臭い奴だ。いいとこ、一山いくらで雇われたフリーの情報屋といったところか」
「はいはい正解正解」
「雇い主は誰だ」
「土御門だよ」
「ハ。いいぞ。少しはマシな受け答えだ。いい綱渡りの仕方だ」

 超は、エヴァンジェリンが千雨を殺してしまうのを警戒しているだろう。学園もそうだ。この麻帆良女子中等部には多くの陰謀と謀略が渦巻いているが、エヴァンジェリンの専行を止める明確な力は存在しない。
 今、エヴァンジェリンが気紛れのように千雨を殺す。その抑止力はどこにもない。それはただ、エヴァンジェリンの機嫌と誇りとかいう他人にはどこにあるのかもわからないようなものだけが止めることができていた。
 だが、千雨はいくらエヴァンジェリンの機嫌を損ねるような嘘を重ねたとしても、自分が殺されないと言う確信を持つことができていた。
 エヴァンジェリンは――千雨ごときに、本気にならない。

「だが気に食わんな。まるで用意されたような私の興味を引くための台詞だ、それは」
 このへそ曲がりが。
「んなこたどうでもいいだろ。それより、いいのか? 可愛い可愛い先生が行方不明らしいぜ?」
「学園を舐めてるのか貴様」
「ああ、そう……」

 予想通り、監視がついているのだろう。護衛を兼任しているかはわからないが、状況から見て長瀬楓がそのチームの一員なのは間違いないと見当はついていた。もしかしたら超派もそのチームに関わっているかもしれない。
(神楽坂には、ついてないだろうな)
 貼り付ければ重要人物だと喧伝するようなものだ。近くに木乃香とネギがいるのも明日菜のための隠れ蓑の意味が強い。ネギ、明日菜、木乃香、エヴァンジェリン。3-Aの中でも、この四人の価値は特に大きい。後の世ではそれに比肩する人間も出てくるが、この時間では超ですら問題視されるのは学園内だけだ。

「……」
「……」

 沈黙に千雨は焦った。もう、私から本当に興味を失ってしまったのか。自分が何をしているのかが曖昧の中にあるのに、慌てて口を開こうとする。それを、鋭いエヴァンジェリンの声が制した。

「正解じゃないかもしれないけど、間違ってないか。気に食わん舐めた台詞だ」
「……」
 本当に耳がいい。千雨は小さく毒づいた。まるで母のように慈悲が篭められたエヴァンジェリンの声色。この時点で既に明日菜に情は移っている。それは、最初から最後までサウザンドマスターを基点とした情でしかなかったが。

「……誤魔化しで逃避だろ。0と100に明確な差があるように、1と99にも明確な差があるじゃねーか」
「貴様と神楽坂明日菜を一緒にするな。10と90には差がないとでも言うつもりか」
「ハ」
 千雨は歪んだフレームを指先で摘み、力づくで元の形に戻した。疲労した金属が白く曇った。
「おいおい。随分だな。それは流石に理不尽な人物評価だぜ? あの神楽坂が、90? そりゃいい。楽しい世の中になるな」
「ああ。貴様は間違っているからな」
「あ?」
「貴様如きに、正しいものが選べるとでも思ったか?」
「……それは罵倒っていうんだぜ、エヴァンジェリンちゃん。換言してもいい。子供のワルクチだ。気に食わない、敵だって理由で身に覚えのない罵倒を受け入れる謂れはねーんだけどな」
「ああ、そうか。謝罪しよう。貴様が特別というわけではない。人間の分際で幾万通りからある選択肢の中のたった一つの正解を選べるという驕りだ」

 こいつ。
 この600年生きた吸血鬼は、どこを見ているのだろう。
 600年――魔女の鉄槌。魔女に与える鉄槌と呼ばれた魔法使い殺しの指南書の決定版が生まれたのが1500年。その七十年前には蟻塚が発表されている。人と魔法使いが争い、人が勝利を収めた戦争。魔法が、魔女が否定され、最後にはなかったことにされたほどの遠い過去。
 この吸血鬼は、その時代に産まれ、生きた。数え切れないほどの人と妖を殺し、いつしか孤高となった伝説の吸血鬼。幾多の英傑を殺し、追われ、迫害され、捕らえられ、それでも生き延びた悪の魔法使い。
 そして、600年を生きて、人に飽き、空虚に生きた吸血鬼はサウザンドマスターに会った。

 ナギ・スプリングフィールドのことを深く考えたことがあったわけではない。だが、600年の歴史の重みを超えて、人を知り、見限り、飽きた少女に恋をさせる男がどんなものなのか、と考えたことはあった。

(……正しくない、か)

 正直言って、決して強い決心を以て過去に来ようと決めたわけではなかった。ただ、それを否定しきれなかったのと、自分が何もできないまま終わる、という焦りが、葉花瀬の誘惑に乗って、言葉となり、決断の形を似ただけのことだ。
 結局のところ、千雨は誰でもよかった。31人――もう半分も残っていなかったが、その誰にこの時間遡行を提案されたところで、多少挨拶程度に否定しておいて、最後には頷いた。葉加瀬が、世界のことを、好きになれるようにする。その目的は、そのまま自分を目的語1に置き換えても通ったのだ。

 現実逃避。とありきたりな言葉で言い表せるだろう。壮大な現実逃避。前を見ずに後ろを見てしまった現実逃避。

「正しい選択など、選べると思う方が道理に合わん」
「ハ。そうかい。そうかよ。だがな、エヴァンジェリン。それは神の視点てやつだぜ。地べたで這い蹲ってる人間達にはそれが間違っていないだとか、正しくないなんてのはどうでもいい。恐々選んで、後は結果がくっついてくるだけだ」
「ガキ」

 エヴァンジェリンがどれだけ大人か知っているが、それでもこの幼い声の持ち主にガキと言われるのは若干納得がいかない。

「ボキャ貧だな、あんたも、学園長も。ガキをガキって言うしかねーのか」
「貴様はただ大人、ただ年上だという理由で反抗する子供のまま育ったのだな」
「話は終わってなかったな。神楽坂なら正解を選べるって? 冗談だろ」
「ふん……人の短い生の中でただの一つでも正解を選べる人間をなんと呼ぶか知らないのか?」

 エヴァンジェリンは、楽しそうに言った。

「英雄と呼ぶんだよ」


 畜生。
 神楽坂明日菜のことが、嫌いだ。
 新世界の姫でも、あの消されてしまった白き翼の初代副リーダーでもなく。
 今、この世界にいるあの神楽坂明日菜が嫌いだ。


「ついでに、一つ忠告だ」

 エヴァンジェリンが立ち上がる気配がした。

「これは罵倒ではない。私も、ジジィも若者を想っての言葉だ。この程度を罵倒と思うなよ? 本当の罵倒に触れたとき堪えるぞ。貴様を憎む者の力を、舐めん方がいいな?」

 千雨が長谷川千雨でないとしても、エヴァンジェリンにとっては大した意味はないのだろう。それどころか千雨が誰であったとしても大して気にはならないのか。
(クソ……どいつもこいつも、手抜きやがって)

「ついでに聞いておくぜ。私のどこが間違ってるっつーんだ?」
「解らないのか?」
「解らないね」
「いや一目で解る。貴様がそれを選んだのが間違いだと言っているんだ」
 それ。過去に来たことだ。
「悪いがその類の自問はもう済ませててな」
「済んでいない。済んでいてそれを選ぶのは天才と英雄だけだ」
「……」

 浅知恵――千雨は、深く考えられるがそれほど深いわけではなく、逆に裾野は狭い。それは年と共に広がるものだろう。それを自覚する千雨は、常に自分の視野が狭いのではという強迫観念に襲われている。
 何に気づいていないのだろう。
 学園長に言われた時は反感が先にたっていたが、エヴァンジェリンに言われるなら納得できた。

「……なんで間違ってるって言い切れんだよ」
「世界について考えたことはあるか? 或いは、人間原理でもいい」
「世界は間違っている」

 反射的に返した言葉に、エヴァンジェリンは少しだけ笑った。

「なんだ、それは。ガキの犯罪者か。だが、まあまあだ。一面だが捉えている」
「聡美に講釈されたな。人間原理」
「人間にしか知性がないと信じたようなネーミングだが、それに似たものを長く生きてるだけで感じることがある」

 世界は人間の認識によって存続している。それは千雨が考えても暴力的だが、千雨だって子供の頃は自分が死ねば世界は終わるのではないかと考えたことがあった。

「世界はシステムに統治されている――ということを考えたことはないか?」
「システム?」
「悪は正義に断たれる。例えばそれは、規定されている。……貴様も悪だろう?」

 千雨は眉を顰めた。悪を標榜する人間にはそれほど心当たりがない。その中でも正義に処断された悪といわれれば、思い当たるのはただの一人だ。

「どうもあんたも学園長のジジィも観念的な話が好きだな」
「ガキでも即物的なことくらい自明だろう? それに、もう一つ」
「……」
「お手軽な救済など、有り得ない」
「あ?」
「それは一々言い出すまでもない当然のことと思わないか?」
「……へー。生きてる運命論者なんか初めて見たぜ」
「不死者の王に対して生きてるとは、中々言うじゃないか」

 お手軽な救済というのは、間違いなく時間移動したことを言っているだろう。背負ったリスクのことを思えばお手軽と言われるのは心外だが、その手段はその他の方法に比べれば確かにお手軽だろう。
 ふと、なぜ超の時代に悲劇があるのか不思議に思う。
 時間移動がポピュラーな問題解決の手段となれば、全ての悲劇は救済されるのではないだろうか。そこには不幸はなく、だからこそ遠い過去へ来る人間はいないはずなのだ。

「運命という論理が否定されて、既に数世紀だな。――しかし、運命は確かにそこにあるのだ、長谷川千雨に似た者。否定されるべきは、運命に抗うということだけだ」
「運命の赤い糸? それとも神の定めしサダメとでも?」
「それは何の力もありはしないさ。そこにあるだけで周囲に何一つ及ぼすことはない。それもまた世界のシステム。貴様がもし世界が間違っていると言うなら、それはシステムに喧嘩を売る無為な行為だ」
「システムに抗うのが意味ないってか?」
「ブタをファイブカードより上の役だと言って納得する博徒がいるとでも?」
「それは、まあ、腹立つな。納得できないと言うだろうな」
「場の誰一人。主張した人間すら納得できない理屈に身を任すのは、それこそ天才か英雄だけだ。あとは、ガキだな」
「私はガキって散々言われたんだが?」
「なら貴様はガキの取り柄すら捨てた半端者のガキだ。一番始末に負えないタイプだな」

 ガキの取り柄とは言うが、そんなものが本当に存在するのだろうか。
 大人になったことのない千雨にとって、それは未知の領域だった。常にプラスの方向に向かう成長の過程で、子供が大人になるときは何かを失わなければいけない、というのは道理がないと思えたし、理解も追いつかなかった。
 世の中には大人になりたくないと言う子供がいる。
 その事実は大人になる過程で何かを失わなければならない証左であったが、千雨にとってはそれは、ただ気づかなかったモノを大人になったら直視させられるだけにしか思えなかった。

「善悪も、法も正義も置き去りにして、そのシステムに抗うのは愚かで、間違っている。お手軽で、簡単に手が届く手法を選んだその時点で、貴様は間違っていて、その願いが成就することはない」
「はっきり言えよ、エヴァンジェリン。あんた、私が気に食わないんだろう?」
「解ってるじゃないか。そうだ。私は一から十まで貴様が気に食わなくて仕方がない。だから貴様が間違っているということを言い訳にして、この私が貴様の願いを叶えさせてなどやらない」

 それは嫉妬じゃねえのか、とは口にできなかった。

「私が、あんたに嫌われるようなことをしたかよ?」
「ああ。不愉快だ。自分は不幸だけど頑張ってる健気ですという顔をした貴様が気に食わない。偉そうな顔を引っさげて、足りない脳みそを以って私より上だと考えている貴様が気に食わない。何より自分が幸福を掴めると少しでも思っていることが気に食わん」
「あ? ……ザケんなよ。誰がそんなこと言った? 別に私は」

 顔をゆがめる。葉加瀬のためと言ったところで、その語感の胡散臭さは鼻について仕方ないだろう。

「解るさ」
「フザケてんなよ吸血鬼。テメーら化物と違って人間は」
「貴様は、それを選んだのは自分が幸せになるためだ」
「違う――話聞けよ!」
「自己の幸福のために悪を行使した。それだけで貴様を私は悪とは呼ばない。貴様はただの下衆で外道だ」
「戯け事コくなよ! ふざけやがって、あんただってそうだろう!?」
「貴様、悪の癖に。悪党を標榜するくせに。自分が幸せになれると思っているだろう」
「そ、んなの――うるせえよ! 死んで黙れよクソ吸血鬼!」
「悪には、悪に相応しい道がある。悪にも許される最後がある。それは悪に与えられた誇りであり、それだけが救済であるべきだ。
 貴様は、道を外れているんだよ外道。悪であり、幸福など、悪にすら許容される道理ではない。悪を行使し、自らが幸福を手に入れる方法などないし、もしあったとしても私が許さない。世の中のあらゆる悪が許さない」
「……」
「神楽坂明日菜に言ったな。誰もが笑って元通りのハッピーエンドなど有り得ない。その通りだ。貴様にハッピーエンドは存在しない。私が与えてなどやらない」

 胸から脳天にかけて、泡立ち濁った渦が巻く。

「微笑みに囲まれ、花を抱き、緩やかに目を閉じる――そんな結末、私が許さない。貴様が幸せを悪を以て求めるというなら、この悪たるエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルが悪に相応しい結末を貴様に教えてやろう」

 心臓が、四方に跳ね回る。道理と理屈が、十字架の形をとって心臓に突き刺さり、心臓が痛みに堪え、逃れようと身を激しく捩っている。
 千雨は、無意識に後ずさり、扉に背を押し当てた。
 悪で、幸福。それは理不尽だ。千雨があれほど嫌った理不尽だ。善すら不幸を負う世の中で、悪が幸福を纏うことなど、なにより千雨が拒んでいたじゃないか。悪の道。千雨が好きだった、ネギが許容したエヴァンジェリンの悪。それは、エヴァンジェリンが絶対に報われないことを知っていたからだったろうか。
 霧のような、べたつく冷たい汗が全身に張り付いている。胃が無理な形に収縮し、空っぽの胃が破裂しそうに苦しくなる。

「ほら、見ろ」

 楽しそうに、エヴァンジェリンは言った。

「貴様には、何も為せやしない」
「っ!」

 エヴァンジェリンの視線に背を向け、転げるように校舎の中に入る。

「……気持ち、ワルい」
 宣戦布告――いやそれですらない。一方的な虐殺宣告。だがそれは理不尽ではない。理が通っている。
 何より、タチが悪いのはそれが正しいと思えたことだ。善行ですら報われないこの世界で、悪が報われることなど尚更ありえてはならない。それくらいの余裕があるなら善人を、いい奴を救えよ世界。

「吐きそ……」
 胸元から熱いものが競りあがってくるのを感じ、千雨は目元に涙を溜めて堪えた。
「間違ってんのかよ」
 間違う。間違う。それを規定してるのは誰だ? 世界が間違っているといったかつてのクラスメートは、何を基準としてそれを口にした? 世界と同じように、千雨は間違っているのか? 誰か教えろよ。
 それが、単純に千雨が自分のために悪を行使した、という間違いなら、千雨は自分でそれを飲み込むことができたろう。今更外道と下衆と呼ばれることなど気にしない。慣れてしまっていた。
(これか?)
 学園長が千雨を崩すために言ったのは、このことか?
(これが、浅知恵で先走ったってことかよ?)
 踏み出して、崖を飛び降りて。やっぱ間違いだったと言ってどうすればいい? そこから選択肢はあるのか?

「オエァッ! ゲホッ! ゲホッ!」

 胃が食道に入ってくるような感覚を受けながら、胃液を明日菜の拳の跡に吐き出す。それは血かと思うほど熱く、千雨は踞りながら目尻の涙と汗を混じり合わせた。

「っくしょう……畜生! あそこまで、言うことねーだろッ!」

 怒りは、どれだけ選択しても大きくならず、逆に情けなさで泣きたくて仕方なかった。
 ああ、ダメだ。折れた。目的が、願いが、いとも簡単にへし折られた。神楽坂明日菜とエヴァンジェリン。たった二人に否定されただけで折れた。千雨に正義はなく、悪であり、間違っていて、許されない。

「どーしろっ、つーんだよ、葉加瀬……」

 預かった名目では足りない。葉加瀬もまた悪であり、その願いも悪を以て幸せを掴もうとしたことに他ならない。
 千雨も、葉加瀬も幸せを掴むことなど有り得ない。千雨は葉加瀬を幸せにすることなんてしてはいけない。

(あんたも、気づいてなかったのか? それとも、私が気づいてもやれると思ったのか?)

 それは、見込み違いだ。もう千雨は目の前に幸福が転がっていても掴めない。掴もうと思えない。そこまで割りきれないし、割り切った奴を許したりしない。それができるほど、千雨は人間を逸脱出来ていない。
 悪は、報われない。罪はあがなわれない。誰かを不幸にして、笑う奴を許してはいけない。そんな暇があるなら、

(もっと報われない人に、報いを)

 それは、道理であり、千雨の願いでもあった。
 千雨は、遠ざかる意識に身を任せ、リノリウムに転がった。
 もうなにもできない。エヴァンジェリンの言うとおり。
 チャムの顔が、見たかった。



 せかいが、つらいから、たすけてください。
 もう、それを口が裂けても言えない。それと気づかず口に出していた千雨は、ただの厚顔無恥だった。



◆◆◆



「なあ、葉加瀬。ちょっと、外出ようぜ」
「未成年略取で事情聴取されろと」
「どんな展開だよ? 普通に姉妹くらいに見えるっつの」
「いや、まったく似てませんし」

 それでも、葉加瀬聡美は嬉しそうに顔を綻ばせ白衣をベッドの上に脱ぎ捨てた。

「デートですね? おめかししなきゃなー」
「んな趣味はねえよ」
「流石バツイチ!」
「してねえよ! 離婚以前に結婚してねえよ!」
「ああ、千雨さん処女なのにバツイチ……」
「ぶち殺すわ。あんたのこと」
「ジョークです」


 廃ビルを出る。麻帆良パークハイアット。三年前までは麻帆良屈指の高級ホテルで、千雨には縁遠かったが、当時から葉加瀬はよく使っていたらしい。しかし今ではただの荒廃し、黒ずんだビルでしかない。千雨たちが今、住み着いているのは二階の一室だったが、憧れたこともある最上階のスイートルーム周辺はガラス化し鋭利な刃物で切り落としたように抉れていた。

「うお、さみいな」

 千雨は体を震わせた。あちらこちらが荒廃しきった麻帆良の街は、どうも風の通り方も随分と変わってしまったらしく、切り裂くような冷たい風が廃ビル郡の壁を崩そうとしていた。
 半年前。
 皮肉ながら長谷川千雨が新世界を脱出したことによって後顧の憂いを断つこととなり、名実共に新世界の姫となった女は、旧世界の麻帆良を訪れた。完全なる世界と黒羽。世界屈指の魔法使い組織のトップ会談が、かつて二人が住んでいたこの麻帆良の街で行われた。

「どこ行きましょうか?」

 言葉通りおめかしした――何故か眼鏡をコンタクトにし、髪を下ろしてそれこそ何故かゴスロリ風の衣装に身を包んだ葉加瀬が千雨を後ろから抱きかかえながら尋ねた。ミニスカで、生地も薄い。ダッフルコートを纏った千雨よりも寒さは一入だろう。千雨の子供の姿は幻術ではあったが、流石は魔王の作った幻術薬か、体温も子供なりの高さだった。

「あー、どうすっかな」
「チャムはどこでしょうね?」
「商店街だろ。私たちもとりあえずそっちだな」

 千雨は葉加瀬の腕からするりと抜けて、軽い足取りで積もり重なった瓦礫の上に立った。
 木乃香とアスナの会談で何が起きたのか、結局千雨ですら知り得ていない。細かいやりとりは勿論、どれほどの被害が出たのかもわかっていない。ただ知ってるのは結果だけ。麻帆良学園都市はゴーストタウン化せざるを得ず、アスナが木乃香を退けたということだけだ。
 千雨は少しだけ高い瓦礫の上から、ぐるりと通りを見回した。人どころか生き物の気配すらない街には、色彩が欠けているように思えた。他の街がこう荒廃しても同じような感想は受けなかっただろう。千雨の中で麻帆良の街は、やたらとカラフルだった。
 千雨は何も言わず商店街の方へ歩き始めた葉加瀬の背を追った。

「……」
「……」

 元々、それほど仲がよかったわけではない。葉加瀬も千雨も自分の世界があるタイプだったから、悪くもよくもないというのが正確だったろう。二人の間にあるのは、3-Aの仲間という空虚な、しかし強靭な繋がりだけだ。

(気、使いすぎだな、私)

 似合わないことをするものではない。葉加瀬との沈黙はそれほど気まずいものではないし、葉加瀬もそれを痛苦と思っていないだろうが、気を使った方が何か言わなきゃいけないのは当たり前であった。

「そういえば近衛さんが私の命狙ってるらしいですよ」
「すげえ話さらっとすんなよ!?」
「いや、千雨さんとか、朝倉さんとの繋がりがバレてるみたいで」
「……」

 千雨は新旧両世界において危険視される存在で、高額懸賞金が完全なる世界からだけでなく複数の組織から出されている。持っている能力、コネ、情報全てがトップクラスで危険なのだ。千雨の電賊技能は卓越しているし、昨今の新世界の電子化事情を考えると単なる戦争のコマ……核兵器扱いされる立派な魔法使いよりも危険度は高いといわれたこともあった。

「……これが終わったら、さっさと身を隠せよ。和泉か、なんならいんちょでも頼れば」
「やだな。千雨さんがあっちに行ったら、それで歴史は変わっちゃうんですから、身を隠す必要なんてないですよ」
「失敗したらどうすんだよ。交通事故とかで死ぬかもしんねーだろ」
「あー、そこらへんのパラドックスどうなるんでしょうね。考えてみなきゃなー」
「バカ! こっちはマジで言ってんだよ!」
「ま、その時は過去を繰り返してきた千雨さんが颯爽と現れて私を助けてください」

 アホか……と口に出せず千雨は前を行く葉加瀬の頭をただ睨みつけた。
 本気で言っていることがわかった。



◆◆◆



 そういえば、病院で起きてから何も食べてない、と気づいたのは、あのまま学校をエスケープし、桜通りのベンチに腰を落ち着けてすぐのことだった。いや、それ以前にこの時代に来てから何かを口にしていない。血とか吐瀉物とか悪態だったら出したんだが。

「なんか、食わなきゃな……」

 食欲はない。だが長い逃亡生活のせいか、食えるときに食っておかなければという念は強くあった。腹は空腹を通り越してもう一度空腹の波が来て今三度の小康状態だったが、どうも物欲、名誉欲以外の欲が薄い千雨にとっては大したことではなかった。
 それでも理屈で行動を飲み込めないほど、今千雨は気だるかった。
 考えることが多すぎる。多すぎて、頭が痛いくらいだ。学園長や超のこと。聡美と葉加瀬のこと。明日菜、エヴァンジェリン、ネギ。それに自分にまつわることがたくさん。間違っていた。ここにいるのは、間違いなのか。
 どれから考えればいいのか、それぞれ一つ一つを当たればそれなりの結果が出せるだろうとは思いつつも、それが導く答えが想像するだけでも重くて億劫だ。やるべきこともやれないならせめてやれることをやろうとは思ったが、それすらもやる気力がなかった。

(……)

 小さく息を吐く。嫌ってはいたが、こんなときは明日菜の即断即決が羨ましかった。彼女なら、立場が逆でも千雨を恨んだり、まして嫌ったりしなかったろう。
 いままで、何一つできなかった奴が、突然こんなことできるはずがない。

(ダメかもな、もう……)

 折れる。ティッシュの先を丸めた紙縒りが、まだ突っ立っているのは単に慣性があるからに過ぎない気がした。元から上から引っ張られなければ直立することも叶わなかったのだ。

(何が針だ)

 無様な話だ。気づいていなかった事実を叩きつけられただけでこのザマだ。

「クソ。くそっ」

 勢いをつけて、立ち上がる。鼻頭を指先で引っかくと、固まった血がべりと剥がれた。
(それでも飯、食いにいかなきゃな)
 懐かしい麻帆良の食事処はそれはそれで楽しみだったのだが、もうそんな気も残っていなかった。体を弄って、嘆息する。財布を入れていた鞄は学校に置き去りだった。
(部屋に戻るか)
 寮監に見つかったらそれで面倒だが、ここにずっといても仕方ない。金を稼ぐ手段の一つもないし、培ったサバイバル技能をこの街で使っても奇異の目で見られるだけだろう。
「あー」
 部屋に戻ったら、適当になにか食えばいい。常に食料や消耗品を備蓄する悪癖がこの頃からあったはずだった。引きこもり適正が高いともいえる。
 寮に足先を向けて、いつぞいや這って進んだ道でも行くかと気紛れに考えて、

「長谷川さん?」

 ネギ・スプリングフィールドがそこにいた。


「……」
「……」
「……」
「……」

 ベンチに並んで座って、一時間ほど沈黙が進行していた。千雨は水と血で濡れたハンカチを手の中で揉みながら、口をへの字に曲げていた。
 ネギがハンカチを濡らしてきて、それで傷口を拭って。ぼろぼろで血だらけの包帯を外して。それをゴミ箱に捨てて、それから沈黙。中座する気にもなれず、千雨は黙り込んでいた。それどころか段々腹を立てていた。事情を聞くくらいしてもいいだろ。
 そっと、ネギを窺う。どこかぼんやりと中空を眺めている。エヴァンジェリンのことでも考えているのだろうか。(いや、そもそも私もなんで学校いなかったんだとか聞いた方がいいのか?)貧乏揺すりはいつの間にかネギも気づくくらいに強くなっていた。

「……」
「……」
「……」
「……」
「わんっ!」
「うわああっ!?」

 ベンチから飛び上がったネギを尻目に千雨は赤面した。わんはなかった。わんはねーな。
 目を白黒させながらネギは定まらない足腰でふらふらとベンチに戻り、慣れた愛想笑いを浮かべた。

「え、えっと……長谷川さん。怪我は大丈夫ですか」
「あ、ああ……こけたのが……ああ、もういいか。エヴァンジェリンも殺す気はなかったし、学園長が手配して怪我治してくれたよ」
「……」
「これは、ちょっと。自傷行為だ」

 笑いながら額を指差すと、ネギの愛想笑いは隠れ、泣き出しそうに歪む。ああ、卑怯な台詞だ。先生が否定できないようなのを選んでいる。

「その……すいませんでした。お見舞いもできず」
「いや、いいよ……どうせ、寝てたし」
「いえ、それだけじゃなくて。その、千雨さんのことがあった夜。僕もあの場所にいたんです」
「あ、ああ……それこそ気にするなよ。元々の原因は私にあったんだしな」
「え?」
「ネギ先生をイジめたのが気に食わなかったんだってよ」

 ネギの血相が変わった。

「イジめ……え、でも……まさか、あんな些細なことで!?」
「いや……ああ。ま、そうだが。実際死ぬかと思ったろ?」
「でもあれくらい……!」

 明日菜は許される。明日菜なら許される。しかし重要度の低い千雨だったら、様子見より遥かに追い出す方が手っ取り早い。躾は、むしろ温情ある対応だった。悔しさすら覚えない。

「あれくらい、って思うのも先生くらいのものなんだろ。ギャグじゃ済まされねーんだよ」
「僕は気にしてません!」
「落ち着けって。……ぶっちゃけ、私もちょっとそう思ってたんだけどな。それどころの話じゃなかったんだろうよ」

 ネギは、自分の重要性を自覚しきれていない。いや、それもまた立派な魔法使いとして必要なことであった。利己的な人間を、立派な魔法使いとは呼ばない。この利己とは単純な意味ではない。大勢を見て、それでも尚自分の命を優先することは許されないのだ。目的がある千雨ですら、今後ネギが為すことを考えれば自分と比較するまでもなくネギの命を優先すべきだと思っているほどにその命の価値は高いというのに。

「あーあ……」
「……すみません。僕のせいで」
「いや、だから」
(わかってたのにな。こういう反応返すって)
 自責――。

 不意に、本当になんの脈絡もなく千雨は無理やりネギの唇を奪ってやろうかと思った。狙いは無論、パクティオーだった。
 電子の女王の杖。力の王笏を手に入れ、極端に簡略化され圧縮されて脳に閉じ込めた七部衆をロードしようかと思ったのだ。アーティファクトは仮契約するまで何が出るかわからないのだが、それでも千雨にはまたあの杖を引き当てる自信はあった。
 七部衆がいれば、チャムほどでなくても気分が変えられるだろう。真面目な相談ごとには向かないし、人の感情もそれほど解さない連中だ。それでも見ているだけで気分は和むし、何より千雨の命と一蓮托生の連中。彼らがここにいるだけで千雨の理由にはなった。

(でも、やっぱ、なんかムリだ)

「長谷川さん?」

 じっと見ていたのに気づいていたのだろう。じっと声を潜めてネギが声をかけてきた。千雨は悟られないように口からそっと重い息を抜いた。

(長谷川さん、な)
 千雨さん、千雨さんと声変わりを迎えたばかりの男の声が頭の中を過った。いつから呼ばれ方が変わったかを千雨は覚えていない。本当にそれはいつのまにか、親しげに呼ぶようになっていた。
 だが、いまここで姓で呼ばれることが引っかかっているわけではない。
(この期に及んでなあ。……ホントに、八つ当たりだったな)
 肺がバーベルで潰されたように重い。
(私は、このネギ先生の長谷川千雨じゃねーのに)

「大丈夫、ですか」
「ん……ああ。悪いな。ちょっと、考え事だ」
「そうですか……その」
「ああ」
「えっと……僕、今日サボっちゃったんですけど。その、長瀬さんとずっと一緒にいたんです」
「……」

 長瀬楓。直接聞いたわけではなかったが、その手腕と情の深さからネギ・スプリングフィールドの護衛と監視を任されている。と千雨が想定している少女だった。
(逃げて、長瀬が確保したか)
 下手な人間に接触されるよりはマシと考えたのだろう。今、この場にもどこかで潜んでいるかもしれない。それを知る術を千雨は持たなかったが。

「僕、悩んでることがあって。それで、話を聞いてもらっただけなんですけどすっきりして……ですから、って、あああ! は、長谷川さん! この前の見ちゃいました?!」
「ああ。見た見た。魔法だろ。知ってるから気にすんな」
「あ、そ、そうで……ええ!? し、知ってるって……」
「あー……ああ?」

 どういう筋書きになっているのか。したらいいのかという点がずっぽり抜け落ちていることにようやく気づく。学園長はなんと言っていたか。三つの選択肢が頭の中に巻き戻って。

「あ」
「え、え?」
(ああああ。マジか。ガキの浅知恵って言われても仕方ねーじゃねーか。あの選択肢三は、こういうことか。うわ。察し悪いな、我ながら。
 ネギ先生に洗いざらいぶちまけたら、あんな選択肢なんて簡単に潰せるんだ。あれは、私への選択肢じゃねえ。ネギ先生への選択肢だ。ああ、クソ。ここで言うの前提じゃねえか)

「……学園長に、釘刺された。魔法のことは口外すんなってよ」
「学園長に!? ですけど」
「記憶消す魔法が効きにくいから、消すのは諦めるってよ」
「え! そ、そうなんですか?」
「ああ。らしいな」

 ここで主観を思い切り混ぜてやってネギに話してやるのも学園への意趣返しになったろうが、ネギをその程度の私怨に巻き込むのも気が引ける。千雨は言葉を切って、今度こそネギにも聞こえるほど溜息をついた。髪を払い、ベンチの裏に垂らしながら空を仰ぐ。晴天。乾いた爽やかな風。桜通りには満開の桜が散り始めていた。

(桜か)

 日本人にとっては、儚さの象徴でもあったろう。日本人としての自覚も誇りもあると言えない千雨だが、それでも桜を目にすると感慨深い。空と違うそんな刹那さが気に入ってもいた。
 背をベンチに預けながら、ネギの視線を感じる。お仕事でやってるのにお仕事で済まないのがネギで、人物を明日菜やネリネより余程知っている自信が千雨にはあった。横に並んで、戦場すら潜り抜けた仲だ。3-Aの中で、明日菜とは別の意味でネギと刹那。それにまだ見てもいない絡繰茶々丸を特別視している自覚がある。その中でもやはり、ネギは違う。

「弱音とか、慣れねーな。多分、二度とやらねえだろうけど」
「……はい」
「答えは聞きたくねーから、何も言うなよ」
「はい」

 自分勝手だな。自嘲する。言えば、ネギが背負い込むことくらい知っているのに。だがネギに自分の過去を背負わせるということには否定できない魅力があった。

「好きな男がいたんだよ」
「……え!? え。えっ?!」
「黙ってろ」
「……は、はい」
「……いや、黙ってろっつーほどの事情があるわけでもないんだが。あー、まあ。だからそういう話なんだけどな」

 最初から最後まで、結局その程度の話でしかなかったろう。心情の吐露とか格好付けたところで、千雨の中にはその程度の話しかない。
 バカらしいとも思う。18歳の仮面女子高生一人のそんな理由だけで、消された世界は納得いかないだろう。世界が間違っていたとしても、それより遥かに千雨は間違っている。

「最初は、そういうんじゃなかったんだよ。いや、っつーかむしろ嫌いだったくらいだな。勝手に人の事巻き込んで、無理やり強いやがって。スッゲー腹立ってた。あいつも、あいつらも大嫌いだった」
「……」
「元から、人付き合いなんて上手くねーし。回りにも冷めてた。何がそんなに楽しいんだ。何がそんなに笑えるんだ。そんな疑問に付き合ってやんのも疲れてたんだよ。だから、傍観してて。興味なんか持たないようにしてた。
 そんな私の世界を、そいつは無理やり自分の側に引っ張り込みやがった」
「……」
「正直、腹立って仕方なかったけど。内向的な自分にも飽き飽きしてたからな。結局私は自分からそっちに行くことに決めちまった。ガキみたいだろ? 問題の所存がわかってたのに、目を逸らしてよ」
「……」

 いや、中学生なんだからガキでよかったんだ。それを変に大人ぶるから逆にガキっぽくなって。

「まあ、まだそいつのことは嫌いだったよ。……いや、苦手くらいだな。結局それは正しかったけど、首根っこつかまれて別の方向向かされたんだから、恨んでもいたかもな。
 けど、ある時からそれは変わった。そいつは半身とすら呼べたお姉ちゃんとばらばらになって」

 それが始まり。この時間を跨いだ長谷川千雨のエゴの始まり。あるところにおじいさんおばあさんがいましたのような、始まり。

「私が、お姉ちゃんの役を肩代わりするようになった」

 何か、男女の話があったわけではない。千雨は最初から最後までネギとの関係性を変えることはなかった。長い戦場と宿を共にした戦友でありながら、刹那とネギのように肩を並べることも背を合わせる事もなく、千雨はネギのお姉ちゃんを遣り通した。
 傍から見れば、さぞや気持ち悪い関係だったろう。いい年して、全力で姉弟ごっこだ。千雨は口端を上げた。

「ま。楽ではあったんだがな。私はあいつの面倒を見てりゃよかったんだ。あいつとさく……あいつが勝手に前に進んでるのを適当に襟首引っ張ってりゃよかった。その役が、あいつのお姉ちゃんの代替品だったとしても、それなりに私は満足してた。元々恋人になるとか体の関係持つとか、そういう欲求もねえし。
 お姉ちゃんは、私に向いてた役所だったんだよ。あいつがどっかから適当な女連れてきても、ケツぶっ叩いて適当に酒飲んで管巻いて。それくらいだったろうな」

(過去のあいつに告白してる気分になってきた。未来のコイツでも、まあ、話は通るか)

「でも、今は違う。本当のお姉ちゃんが、いる」
「……え?」
「それが、すげえイヤだ。腹が立つし、理不尽だと思う。そこは私だろっ! てぶち撒けてやってもいいと思うくらいだ。だけど、あいつにとってはそっちのが自然だ。だって、あいつは本当のお姉ちゃんを探して旅してたんだ。あいつは」
「……」
「あいつは、本当のお姉ちゃんが一緒じゃないと、幸せになんかなれないんだ」

 血を吐くように千雨は言って、目を閉じた。耳が熱いが心は冷えている。心情を吐露するということが、体を火照らせて心を冷めさせた。それは、地獄まで持って行こうと思っていた想いだったのだ。
 ネギ・スプリングフィールドを、長谷川千雨が恨んでいるとしたら。
 極点。
 痴情の縺れ。
 ただその一言で表せる程度のことでしかなかった。

「勝手に嫉妬して。突っかかって。エヴァンジェリンに言われたとおりだ。間違っている。何もできやしない。ああ、その通りだ。そりゃそうだ。私の願いと私のやりたいことには随分と開きがある。何も為さないことが、たった一つの私の願いを叶える方法だ。
 笑えるぜ。エヴァンジェリン、あんたは確かに闇の福音だよ、魔王。私は、私が幸せになりたくてそうしたんだから」

 絡まりあった黒い塊を一つ一つ解して行って。
 中から出てきたのは腐ったオレンジだ。

「……話は終わりだ。悪いな、押し付ける」
「……」

 顔を見たわけではないが、ゆっくり頭を振るのが解った。千雨は立ち上がって、寮に足を向けた。脳髄が、冷酷に暴走している。暖めればいいやら冷やせばいいやらわからない。

「長谷川さん」
「……」
「悪いことをした人は、幸せになってはいけないと思いますか」
「……そりゃ、」

 天才か? このガキは。いや、天才か。

「そうだ。私も、エヴァンジェリンも、あんたも。死んでもそれを掴んじゃダメだ」
「……でも。僕は長谷川さんが幸せであることを願います」
「……」

 空虚さを感じて、千雨は返す言葉を思いつかなかった。

 桜通りを北上。三年後、ゴーストタウン化した麻帆良の中でも桜通りは被害は酷かった。晴明に至ったとすら言われる木乃香の呼んだ大蛇が這いずり回ったらしかった。いや、それだけではない。木乃香だけでなくアスナの痕跡もまた、かつての自分が過ごした場所を重点的に壊していた。
 どうしたい?
 言えなかった言葉を、言う機会を得たいだけ。
 眼鏡の裏に、自分の瞳が見えた気がした。
 千雨は立ち止まって、舞い落ちる桜の花びらを指先で摘み取った。

「チャム……」

「チャムを起こして、未来に帰ろう」

 茶番は、収縮していく。



◆◆◆



 葉加瀬聡美が、その時、その場所にいたのは偶然ではなかった。ほんの数時間前に親友にして派閥の長、超鈴音に言われて来たのだった。

「……」

 年に一度の、大停電の日。それでも大学内部は予備電力が過剰なくらいにある。流石に実験を進めることはできなかったが、いくらかの端末位は立ち上げられたろう。だが聡美はそんな気分でもなかった。外では、エヴァンジェリンがネギと戦い始めようとしているはずだ。
 エヴァンジェリンは友達だ。ネギは担任。どちらも傷ついて欲しくないと聡美は願っていた。だがエヴァンジェリンは想像を絶する手練だ。方針を変えれば吸血鬼の身でも立派な魔法使いと呼ばれることはできるだろう。尤も、あのエヴァンジェリンが誰かの説得に屈する姿など想像もできないが、ネギを危険な目にあわせることもなく事態を収めるのは難しくもないだろう。

「暇だなー」

 麻帆良大学。下手すれば聡美が中学校よりも入り浸っている研究棟の一角は、学園長が手を回して聡美専用のものとしている。実質的には超と聡美の共同研究室。それは学園側としてオーバーテクノロジーの漏洩を防ぐためで、学園も超のテクノロジーを疑ってかかっていることは聡美にもわかっていた。
 研究室は、今聡美一人きり。茶々丸のスペアボディが壁際に三体立っているだけで、それどころか電気すら消えていた。何をするでもないし、点ける必要もないという聡美の子供っぽい合理性だった。

(何しに、ここにいるんだろう)

 3-A内にいれば、思考が読みきれないことはよくあることで、それでも超鈴音は特別だった。基礎的な能力が劣っているとは思わないのに、超は聡美のずっと前を歩いている。それは未来から来たというアドバンテージではない。何か別の圧倒的な差だと思った。
 だから、超に研究室に行けと言われた時もそれほど考えず従った。能力も方針も置き去りにして、超は親友だ。自分に何か危険が及ぶような類の話でもないだろう。
 それでも暇は暇。携帯ゲーム機をハッキングしたもので遊ぶか、とも思ったがエヴァンジェリンとネギの身に起きる争いを考えればそれも不謹慎な気がした。どう展開したところで、それは殺し合いだ。

(でも、暇は暇だ)

 元々さっぱりしたものがある性格だからか、研究者としての素養か。無事かを祈り続けるような人間でもない。聡美は椅子の上で背中を伸ばして、そのまま整理された台の上に突っ伏した。その時、真っ暗な研究室に声が響いた。

「おわっ。人いんのかよっ!」
「えっ!?」

 慌て、飛び起きる。どんな方法か。術理か。或いは魔法だったか、扉も開けずに少女の影がドアの内側に立っていた。それが長谷川千雨のシルエットであることが、すぐにわかった。
 ガシャン。パイプ椅子を引っ掛けて倒しながら聡美は慌てて立ち上がった。

「ち、千雨さん――」

 長谷川千雨。最早千雨と呼ぶ価値のない中身でありながら、それ以外に呼び名がないことに聡美は顔を顰めた。その名で呼ばれることが図々しいと思えた。

「聡美か。……参ったな。なんでこんなとこにいるんだよ」
「参ったなじゃ……ないですよ。これじゃあ、不法侵入です。そもそも、警備ロボは」
「ああクソ。こんなこと言ってなかったじゃねえかあのバカ……」

 どうしようと、聡美は慌てて暗闇の中に視線を迷わせる。少し前、茶々丸の装備をここで試作していた頃ならともかく、現在は大半が借りた工場でラインに乗っている。試作品の一つすらないだろう。
 発見された側と発見した側なのに、この場でマズいのは圧倒的に聡美の方だった。長谷川千雨に常に貼り付けられた虫型情報システムによればこの長谷川千雨は明らかにいくつかの場数を潜っているプロで、一方で聡美は脳みそ以外は極平凡。運動能力にいたっては平均を大きく割るほどだ。聡美は、この長谷川千雨の暴力に抗う術を持たない。まして、この長谷川千雨は魔法使いの可能性もあった。

「何しに来たんですか」

 精一杯の虚勢を張って毅然とした声を上げても、千雨は申し訳なさそうに笑うだけだった。

「泥棒……泥棒だな」
「……ここには、あなたが欲しがるようなものはありませんよ」
「落ち着けよ。あんたに何もしはしねー。あー、いや、するんだが、暴力は使わない。でも、外部に連絡取るようなら、流石にやるかもな」
「……」

 泥棒。……カシオペア。それはすぐさま結びついた。航時機カシオペア。超の診断マニュアルが正しければ、この長谷川千雨は間違いなく未来の人間。そして道理として超と時代を共にする人間。いや、詳しくは聞いていないが航時機が開発されれば、その時代に時が流れることはないだろう。1000の時を以って開発される技術が今あり、そしてその1000年後の技術も今ある。技術は飽和し、歴史は同期する。だから長谷川千雨と超鈴音は同じ世界から来た、と考えるのが正しいだろう。

「……目的は」
「情報」
「嘘ですね」
「マジだ」

 否定はしてみたが情報もありえるだろう。様々な計略と誘導で長谷川千雨は超に対して完璧に後手に回っている。エヴァンジェリンに襲わせたのも、その場から逃げることができるようネギが登場する時間を調節したのも、学園長との会話やエヴァンジェリンの会話も明日菜との会話も。全て超の誘導によるものだった。その全てを千雨が悟っていると思っているわけではないが。
 聡美が千雨の立場にいるなら、超のことが気になって仕方ない。何せ彼女にとっても超の存在はイレギュラーに違いないのだから。

(あれ? ……そういえば、この人どこで超さんのこと)
「超派、ね」
「!」
「バカ真面目に一番目立つ奴がそうだとは思っちゃいなかったが、履歴の作り方でも教授してやろうか?」
「……」

 3-Aの中で経歴不明など珍しいことではない。だが超派の中枢では超鈴音ただ一人が経歴不詳だった。
(迂闊すぎです、超さん)

「しかし、参ったな。私も引き下がるわけには行かないんだよ。ニッチもサッチも行かない状況でな、今日を逃したら拙い」
「脅しですか? ……言いましたよね。ここにあなたの欲する情報なんて」

 といいながら、聡美は背後の柱に設置された緊急ボタンを見た。研究データが吹っ飛ぶのは取り返しのつかないことであるが、超と同じ時代の人間に見られるよりは余程マシだ。

「あるぜ。あんたの頭の中にな」
「……ずいぶんですね。私がいなかったら、どうなってたんでしょう」
「さあ。忘れたよ。どうでもいいこと覚えてるほどリソースに余裕がないんだ」
「大体! あなたには学園が監視をつけてたはずじゃ!」
「撒けるさ。奴ら、本気じゃねえからな」

 それはそうだ。既に一角の危険人物として認識した超派と違い、所詮は魔法使いですらない子供。最悪でもどこかのスパイ程度でしかないのだから。この街で日常と化しているそういった防諜はマニュアライズされていて、素人の聡美ですら穴を簡単に見つけられた。

「……何が望みですか」

 腹を括るしかない。聡美は唇を噛みながら千雨を睨みつけた。何、自分の頭の中を覗きたいなら覗いて見ればいい。絶対に口を割らないし、また記憶を掘り返す類の魔法も防御する手段が備えてある。そう言いつつも千雨の狙いがカシオペアや端末の中にあったとしたら、惜しいが非常ボタンを押そう。

「ま、とりあえず座っていいか?」
「……その前に、電気を点けてください。椅子がどこにあるかもわからない。スイッチはあなたの後ろに」
「んなことしたら誰か来るかもしれねーだろ。それに、その必要はねえよ」

 千雨はカーテンのかかった窓に近寄った。電動のベネシャンブラインドなのだが、千雨はそれを力づくで引きちぎった。下にブラスチックが落ちて音を立て、月明かりが千雨を照らす。そこで、聡美はようやくいつも縛っているはずの千雨の髪が解かれていることに気づいた。
 髪が揺れる。身にまとう雰囲気すら、よくよく見れば違った。それを何と呼べばいいのか、大まかに言えば殺気とすら言えるだろう。どちらにせよ本当の長谷川千雨とは縁遠いものだった。

(千雨さんじゃ、ない)

「星明りで十分だ」

(この人は、本当に、千雨さんじゃないんだ)

 未来人の勝手な行いで、消えてしまったクラスメートのことを想って、聡美は涙を流した。


「お、いいもんあるじゃねーか」

 そう言って千雨が手に取ったのは、超のデスクに放置されていた新品のトランプだった。それを手にぴったりと星明りの届いた研究室中央の台の横のパイプ椅子に腰を下ろした。向かい合わせの聡美に軽く笑いかける。
「……」
「トランプでもしようぜ、聡美」
「……」
「そんな睨むなよ。ゲームだよゲーム。別にいいだろ?」
「帰ってくれませんか」
「お……おいおい。なんで泣いてんだよ」
「腹が立って仕方ないからです、千雨さん」
「……あんたもかよ。私、ヒトの腹立てすぎじゃねーか?」

 聡美は俯き、拳を強く握った。

「イヤです。私はあなたとゲームはしないし、何かを話す気もありません」
「……そうか? そうでもないと思うがな」
「なんと言われても」
「あんたが未来で完成させる論文の全文が、私の脳みそには刻まれている」

 顔を振り上げて千雨を見た。千雨は憎たらしいまでに微笑んでいる。
 それは、この上なく的確に聡美の中心を打ち抜いた。ああ、それは欲しい。それは何よりも欲しい。理解すら及ばない未来の論文なら、プライドを以って否定できたが、それがいつか聡美が完成させるものだとしたら是が非でも欲しい。
 それがこの時手の中にあれば、未来にはどれほどのものが作り上げられるか。超だったら逆立ちしてもくれはしないものが、すぐ目の前にある状況に聡美の頬は釣りあがらざるを得ない。だが、

「それでも」
「賭けろよ聡美。交換するわけじゃない。私は超のことを聞くが、あんたは論文を聞けばいい。リスクに見合ったペイはあると保障するぜ。何せ、前後五十年を代表する名論だ」
「……本当に、あなたの頭の中にあるという保障は」
「序文」
「……すいませんでした。信じます。でも、超さんを裏切ることになります。それに」

 超は度量がある。それを自分の力で得た限りは非難することはないだろう。だが、もし負けた時。超の情報が聡美の口から漏れたとき、超を裏切ることになる。加えてなにより、長谷川千雨を3-Aから奪った人間と会話していることがどうしようもなく癪に障った。
 しかし千雨は快活に笑ってみせた。それもまた自分の内心を一切鑑みられていないようで、聡美は腹が立った。

「とりあえず、やるゲームが何かを聞いてもいいだろ?」
「……」
「もちろん、私が勝つ自信はあるがな、あんたが勝つ可能性も低くはねえよ」
「ゲームは」
「1/4ブラックジャック」


 ブラックジャック。
 カードを一枚ずつ引き合い、21を目指すポーカーに並ぶポピュラーなカードゲームである。そして胴元が圧倒的に有利であるはずのギャンブルの世界において、唯一と言っていいほど期待値が1を上回る可能性のあるギャンブルでもあった。

「これを13枚で行う」
「13。マーク一つでするということですか」
「ああ。シャッフルは毎回。カットをディーラーじゃない方が一回。公平にしなきゃな」

 自分の作ったルールに巻き込んで、何を公平と。
 だが、と聡美には思い直す余地がある。1/4ブラックジャック。それは勝負勘より、計算能力の必要とされるものである。確率論がものを言う。そして単純な計算能力においては葉加瀬は誰をも上回っている自信があった。

「……わかりました。ですが初めてのゲームです。試しにやらせてみてください」
「ああ、わかった」

 ……?
 妙なことに気づく。
 聡美には、千雨の中にあったはずの強烈な目的意識が見当たらなかった。学園長との会談で見せたあの強烈なものが、そこにはないように感じられた。
(まるで、別人みたいだ)

 真新しいカードケースの包装を破り、千雨は裏返しもせず山から上の13枚を浚った。注意深く手にとって確認したが、コンビニでも売ってそうなただの安物だった。ハート、クローバー、ダイヤがAからきちんと並んでいる。

「注意深いな」
「当然です。お遊びでも、リスクはありますから」

 千雨は、顔をしかめた。

「あんたも、本気じゃないのか」
「何かの冗談ですか?」
 本気。冗談ではない。こんな女に本気になることは、全てのプライドを賭けてでも許せない。何より。苛立たしげに、千雨は舌打ちした。
「チ」
「さあ、早くシャッフルを」

 毛虫を奥歯で噛んだような顔をして、千雨はカードの上を右手に、下を左手にパーフェクトシャッフル。ぴたりと互い違いになり、一番上は右手。全く同じことをもう一度。また互い違いになる。

「カットは」
「四枚目でお願いします」
 しかめっ面で、千雨は上の四枚を下に回した。山を二人の間に置き、聡美に一枚。千雨に一枚。表返ししながらもう一枚ずつ。

「サレンダー。それにバーストとブラックジャックについて聞いてませんね」
「そうだな。七回先取くらいで終わりにすりゃいいだろ。あんまり降りてもつまんないし、三サレンダーで一敗。ダブルダウンかけたら一枚追加で勝負。でもダブルダウンの後にも相手はサレンダーできることにするか」
「ベットは?」
「勝敗だ。両方ダブルダウンで、最大四勝できるって感じか」
「それは……まあ、いいです。ブラックジャックとバーストは」
「ナチュラル21も二勝でいいだろ」
「はい……とりあえず、やってみましょうか」

 まさか。聡美は困惑した。まさかと思うが、この人は私のこともロクに調べずにこんな勝負を挑んだのだろうか。論文のことを予め調べてこの時代に来たというなら、そんなことはないはずと思うのだが。
 こんなゲーム。私が負けるはすがないのに。
(だって、私は既に全てのカードが解っているのに)
 余りに簡単すぎて、些か呆然とした。
 パーフェクトシャッフル。それはシャッフルとは名ばかり。互い違いにカードを整列させるに過ぎない。
 最初、スペードはこう並んでいる。一番上から、

A 2 3 4 5 6 7 8 9 10 J Q K

 これを真ん中で右と左に分けると、奇数なので二つに場合分けされ、

右A 2 3 4 5 6
左7 8 9 10 J Q K
もしくは
右A 2 3 4 5 6 7
左8 9 10 J Q K

 これを右からパーフェクトシャッフルすると。
7 8 A 9 2 10 3 J 4 Q 5 K 6
もしくは
A 8 2 9 3 10 4 J 5 Q 6 K 7
 になる。しかしここで最初の右六枚だと最後に右が二枚重なることとなり、それはなかった。綺麗なパーフェクトシャッフルだったのだから。つまり右手に七枚を最初にとったことになる。
 同様の処理をもう一度行い、
A J 8 5 2 Q 9 6 3 K 10 7 4
 それに四枚カット。下に入れただけなので。
2 Q 9 6 3 K 10 7 4 A J 8 5
 が、この場の山の順になる。それを裏付けるように、表になっているのは聡美の9と千雨の6だった。手元のカードをひっくり返すと、2。

(これじゃあ、負けるはずがない)

 聡美はパーフェクトシャッフルをしない。というか不器用なのでできないが、千雨がそれをするかぎり千雨がディーラーの時は勝ちを得られる。それでなくとも圧倒的有利だ。前のゲームで使われた札を暗記し、その位置を覚えさえすればカットの調整で負けることは絶対にない。
 何が狙いなのか、いや、本当になにも知らないのではないか? 或いは、イカサマの仕込があるのか。

「一枚、ください」

 千雨はテーブルを滑らせてカードを寄越した。
 3。合わせて14だが、次はキングが待っている。千雨の手は16。千雨が引かなければ負けだ。

「ヒットだ」
 本当に? 本当に、何も知らないのか。ばか正直な考えで、聡美の計算能力に勝てるとでも思っているのか。
「もう一ヒット」
 千雨はカードを寄越し、聡美はロクに確認もせず。
「スタンド」
「スタンド」

 26対24。揃って無様なバースト。つまらないゲームになりそうだ、と聡美は思った。

「て、感じだな。これで七勝先取」
「なるほどー。運よりも駆け引きって感じのゲームですね」
「いいか? これで。なんだったらもっと普通なのを」

 一度大きく息を吸い、背を丸めて聡美は目を閉じた。この暗さでは、自分が目を閉じたことすらわからないだろう。
「……あなたが負けたら、すぐに帰るという保障が欲しいです」
「それはあんただって同じだろ?」

 道理の上ではそうだが、自分の背後関係を棚に上げてよく言うものだ。学園と超が背後にいる聡美と、経歴の定かでない未来人のどこが同じだというのか。
 それでも聡美は頷くしかない。この場では、千雨は気紛れ一つで聡美を制することができるのだから。

「大体、なんですかゲームって。別にあなたなら」
「屈しないだろ? あんたをぶん殴ってもさ」
「……」
「あんたの得意分野で勝負してやろうってんだ。いいじゃねえか」
「私を屈させるのが、狙いですか」
「そうなるな。ちょっと最近プライドけちょんけちょんだからな、ここらで一発持ち直しとくかなと思ってな」

 舐めるな。だがどことなく聡美は笑いたくなる気持ちになった。狙ってるんじゃないかと思うくらい迂闊で、頭の悪い問答だ。何かあると喧伝してるようなものじゃないか。それに、躊躇いなく憎ませてくれる。上手い悪だ、と聡美は一種感心した。あのエヴァンジェリンよりも自分を憎ませることには長があるかもしれない。

(超さん、すいません。リスクを背負います)
 もし負けたら……そう思う。だがデメリットの大きさと発生確率を掛け合わせたものとメリットの大きさと発生確率を掛け合わせたものを比較すれば、圧倒的にメリットのが大きい。無論、ここまで千雨の考えどおりに動きすぎているという自覚はあったが、それでも尚負けない自信があった。
 こういう競技において、計算能力と記憶力の卓越したプレイヤーは一種、最初からイカサマのようなものだ。13枚程度、しかもマークは一種類なら、聡美は一目で覚えられる。それは千雨にはできないだろう。そしてそれがあれば、どんなイカサマも結果を捕まえられる。手法は大した問題ではない。それが見破れなくとも、結果さえ捕まえれば逆算しきれる。

(友達、危険に晒してなにしてるんだって思うけど)

 目を、開く。星明りに照らされた千雨の整った顔立ちが目に入った。それは神秘的でどこまでも美しかったが、きっと長谷川千雨の笑顔はもっと可愛かった。見たことなかったけど。

(この余裕ぶった女の鼻、明かしてやる)

「そうですか」
「で、いいのか? ゲームに乗ってよ」
「ええ。ただしルールは追加させてください。フェイスダウンでお願いします」
「解った」

 間髪いれず千雨は答えて、場に出た七枚のカードを回収し、まとめ、デッキに戻した。その順番も克明に聡美は覚えた。

(なにか仕込んでくるなら、後半。前半でイカサマして疑われたら、勝負自体反故にしてしまえばいい)

 他にも、千雨がイカサマをするというなら方法はいくつか考えられる。シャッフル。ディール。カット。全てにおいてその隙はあるといっていいだろう。聡美はギャンブルには慣れておらず、またその手法にも詳しくはない。
 ダブルダウンをかけたら、勝負の回数が減る。分析のデータは多ければ多い方がいい。あちらが賭けたときはサレンダー。サレンダー三回で一敗という緩いルールだ。少しでも見つければ積極的に下りればいい。
 ふと、聡美は笑いたくなった。この街で、魔法使いに関係ある人間が二人揃ってカードゲームに命運を託すこの状況が、どうしようもなく笑える状況だった。

 千雨は、予想通りパーフェクトシャッフルを二回繰り返した。この時点で並びは10 J 7 K 3 8 4 6 9 5 A Q 2。ナチュラル21は望めない位置にあるので、狙うならカット1枚でJ Kを得るか、三枚カットのK 8。

(でも一枚は、流石にワザとらしい。イカサマをいきなりしてくることはないとしても、私が並びを把握していることを知られるのは上手くない)

「三枚でお願いします」
「ああ」
 じっと手元を見つめたが、千雨の手の動きにはなんの違和感も得られない。今更、部屋が暗いままなのは明らかな不利だと思った。星明りだけでは細かなところまでは追いきれない。三枚を切って、千雨は交互にカードを寄越した。



<1/4ブラックジャック・ルール>
・スペード13枚のみを使い21を目指すブラックジャック。
・ディーラーは交互。シャッフルは自由だが、プレイヤーはカット枚数を指定する権利がある。カードはフェイスダウン(裏側にして相手に見せない)。
・勝負(スタンド)、引く(ヒット)、降りる(サレンダー)の他に二倍賭けでもう一枚引く(変則ダブルダウン)あり。ダブルダウンは双方がその権利を有し、掛け金は最大四倍になる。ただし、ダブルダウンの宣告後、スタンドしていたとしても宣告を受けた側はサレンダーの権利を有する。
・サレンダーは三回で一敗と数える。1/3敗と表記。サレンダーの宣言はスタンドを宣言した後でも可とする。
・Aと10(10 J Q K)の組み合わせをナチュラル21と呼び、二勝とする。Aは一枚しか存在しないので、ナチュラル21が出た時点で勝負が決定する。
・バーストに報告義務はなく、両方がスタンドした時点で開示する。しかしバーストしてからヒット、サレンダーすることはできない。



 ――第一戦(0・0)

「……スタンドします」
「ヒット」

 K 8。千雨の手の中には、3 4だろう。スタンドした聡美に対して、躊躇なく千雨はデッキから一枚引いた。
 3 4 6。13。これが普通のブラックジャックならもう1ヒットするのにそれほど躊躇わない数だろう。ここからが勝負だ、と聡美は思った。

 千雨から見れば、デッキに残る数字はA 2 5 7 8 9 10 J Q K。9以上であればバースト。しかし聡美が二枚でスタンドしたということ。そして先の一戦で14でヒットした聡美の判断を解っているだろう。そもそも、バーストの出にくいシステムだ。かなり高めに見込んでいる。
 実際の聡美の手は18。しかし自分の手の中に小さい数字が集まっている以上、千雨は20は見込まなければならない。20に到達するには、7か8を引く必要がある。もしくは2 5の両方と、Aもか。分の悪い賭けだ。聡美だったらサレンダー。だがもし千雨が甘い見通しの持ち主で、聡美の手を15、17と踏んでいたら話は別だ。勝率は一気に50%にまで駆け上がる。だがそれはどう考えても愚か者の決断。

 ちら、と聡美は千雨の表情を窺った。流石にポーカーフェイスを保っているが、その判断の遅さだけでも決断を悩んでいるのが解った。
 この状況で勝負してくるなら、それは余程のギャンブル中毒かただの脳みそが足りていないだけだ。何故か聡美は、無意識に降りろ、と願った。この女がただのバカであって欲しくないと思ったのだ。
 そして千雨は、随分と長い時間考えて。

「ダブルダウン」

 と、言った。

「……ダブルダウン、ですか?」
「ああ」

 一瞬、聡美は呆然とした。二倍賭け。この状況では絶対にありえない選択肢だ。耐え切れないほどの怒りが沸き立ち、だがそれを無理やり腹の中に押さえつけた。
 イカサマだ。
 それ以外には有り得ない。この女、最初っからそういうつもりでこんな茶番に私を突き合わせたのだ。暴力では情報を引き出せないと踏んで、この状況に無理やり持ち込んだのだ。
 千雨はじっと聡美の顔を眺めた。

(……どんな手を使うか知りたい。でも二敗は重い)

 イカサマを暴露させられれば、この勝負はなしにできる。だが、そのために二敗を無条件で渡すのは拙いと思った。それに、どうも頭の片隅に欲求が浮かんで仕方ない。イカサマを暴露することなく見破り、そのまま勝てば、何より得がたいものが手に入る。
 二敗。ではない。イカサマのために賭けるのは一敗でいいだろう。次のディーラーは聡美だ。そこでイカサマを使わせれば手段は大分特定できるし、一敗でイカサマの情報が得られるなら二敗よりも安い買い物だ。
 ここでサレンダーするのが正解だろう。二敗と1/3敗。六倍の差がある。イカサマを仕込んでいると解っただけで、1/3敗の価値はあった。

「そうですか。なら、私はサレンダーします」
「そうか」

 千雨は何の気なしにカードをオープンにした。並ぶ数字は3 4 6。ここまでは計算どおり。となると、ドローで何かするつもりだったか。聡美は体を伸ばし、千雨のカードをかき集めて自分のカードと合わせ、デッキに重ねた。

「いや、しかしなあ、聡美」
「……はい」
「随分と、簡単に降りるんだな」
 嘲笑うようにこの女――!
 燃え上がるような目で千雨を睨み、聡美はデッキをまとめた。


 ――第二戦(0・1/3)

 ばら撒くこと二回。いくらなんでもカードを追いきれなくなるほどの不器用さを発揮して、聡美はうんざりした気分になりながらもカードを切り終えた。構うか。ここでカードを半分も特定できればどうせ次は相手のパーフェクトシャッフルだ。
 まあ、いい。特定できずともダブルダウンさえなければ勝率50%で一敗の勝負だ。普通のブラックジャックと考えればいい。

「カットは」
「じゃ、七枚だな」

 じゃあとはなんだ。じゃあとは。まるで並びを知ってるようではないか。猜疑心の塊になっている自覚がありながら、聡美は七枚目から上を下に回し、デッキを中央に置いた。千雨から交互に二枚ずつ。デッキには、一度も千雨は触っていない。何か仕込むとしたらドローする時だが。
 3 7。悪くはない手だ。Aがくればブラックジャックだし、8以上でもそれなり。半分以上の確率でいい手になれる。あとは千雨の反応次第。
 千雨はひょいと、カードをあけた。聡美は、思わず立ち上がった。

「悪いな、ブラックジャックだ」
「……」

 A 10。ナチュラル21は二敗……そんな取り決めをしたことを思い出す。何てバカな。ダブルダウンの危険性ばかり考えていたが、実際に危険なのはこのナチュラル21だ。サレンダーできるダブルダウンとは違い、これは問答無用で試合の時間を縮める。
 イカサマ……。

(いや、本当に出た可能性も……)

 デッキの枚数に対して場に出てるカードの割合が極端に大きいこのゲームにおいて、それほど珍しい確率ではない。20ゲームやればどちらかには必ず一度は来るだろう。それが、この時だったと考えれば疑うことはない。
 だが、何の収穫もなしに2敗した。あと五敗しかできないのに七勝しなければならないという状況は飲み込むのに苦労する。やはり何かあるのではないか。

(すり替え……?)

 元は超のデスクから取ったカードといっても、その場面を見たわけではない。
 千雨の服装は学生服の冬服。ゆったりとした袖にカードの一枚くらい仕込ませることは簡単だろう。それにパームという手法もある。手の内に隠されたらこの暗さではどうしようもなかった。

(けど、それなら)
「すいませんけど、デッキをちょっと裏返してもいいですか?」
「あん? ああ……構わないけど」

 少し躊躇ったのは、やはり何かあるのか。聡美はデッキに残る九枚を一枚一枚確認した。
(ない……)
 流石にそんな簡単にはいかないとは解っていても落胆はした。デッキをシャッフルしたのは聡美自身だ。もし手札をすり替えたのなら、Aがデッキに残って然るべきだったが。
(いや……待って。さっきのゲームですり替えたとしたら)
 予め、デッキからAを抜いておけば?
 それでも、ムリか。聡美は臍を噛んだ。どうしても矛盾は出る。

(本当にただ出ただけ……? いや、カットで合わせた。……相手も並びを解っている? 眼鏡とカードに細工がしてある?)

「おい。いい加減にしろよ聡美。いくらなんでもしつこいぜ」
「……すいませんでした」

 苦し紛れに聡美はデッキのカードを全て暗記し、自分でカードをまとめてから千雨に渡した。


 ――三戦目(0・2 1/3)

 並びは、7 10 J 9 A 4 Q 2 K 3 6 5 8。
 二敗……重い。ナチュラル21が出せる状況だったら、疑われる可能性も忘れてそれを選んでいただろう。だが不運にも配列はあまりよくはない。勿論、勝つのは簡単だが、二勝というアドバンテージを持った千雨がイカサマを振ってくる可能性も低いと思った。

(……落ち着け。大丈夫。なら、普通に一勝取ればいいじゃないか)

 一差なら、大分落ち着けるだろう。ダブルダウンかナチュラル21で簡単に取り戻せる差だった。聡美は下唇を噛み締め、六枚のカットを要求した。変わらず、まず聡美から千雨はカードを配った。
 聡美はQ K。
 千雨は2 3。聡美がスタンドを宣言すると、千雨はすぐさまヒットした。これで、11。
(もう一回ヒットして、16。大丈夫。勝てる。でももし手札が違えば、イカサマが読める)

「……ダブルダウン」
「え……え!?」

 また、この場でダブルダウン。ありえないほどの強気ではないか? だから、聡美は一回でストップしているのだ。11。バーストの心配こそないし、最も数の多い10が取れればいいと考えているのかもしれないが、デッキの残りを想定すればとても聡美には真似できない勝負だ。まして、ナチュラル21で稼いだアドバンテージを帳消しにするようなことを。
(まさか、またイカサマ!?)
 勝つ確信があって、その選択をしている。そう考えれば筋は通った。いや、それこそイカサマを破り一気に優位に立ちたい聡美の望む場面だったのだが。
(……ダメだ。四敗は、絶対にできない。まだ一勝もしてないのに)

「サレンダー」血を吐くような気分で、聡美は言った。
「そうかい」

 ポーカーフェイスのまま、ぞんざいに千雨はカードを投げ出した。やはり2 5 6。まだイカサマはしてもいない。
 大丈夫だ。サレンダーは三回しなければ一敗にならない。負け数は2 2/3ではあるが、実質的に2も同然だ。
 聡美はカードを手が震えるのを堪えながら、集めようと身を乗り出し、ふと場のカードの数に気づいた。

「待ってください」
「あ?」
「待って……待ってください! 何でですか? ダブルダウンしたでしょ? なんで引かずに終わってるんですか!? おかしいじゃないですか!」
「いや、あんた降りたじゃねーか……」
「そんなの関係ないでしょう!? だって、引いてから、私がサレンダーしてもいいでしょ!? ここに、一枚足りないですよ!」
「あん? ……んー」

 困ったように唸って、耳の後ろを指先でかりかりと掻くと、千雨はデッキに手を伸ばし、その一番上のカードを捲った。
 5。
 祈るような気持ちで、聡美はその表面を指で撫でた。だが、何一つおかしいところのない、ただのカードだった。

「おわっ。こえーな。完璧負けてたんじゃねーかよ」
「……」

 聡美は、笑いたくなった。それはそうだ。ゲームが終わって、ドローして。その時に何かするわけないじゃないか。一緒に、泣きたくもなった。


 ――第四戦(0・2 2/3)

「ねえ、もしかして。ギャンブラーとかじゃ、ないですよね」
「碌にやったことはねーな。兎の足っつー滅茶苦茶なギャンブラーが近所にいやがって、あいつを見てりゃギャンブルなんてやりたくもなくなる」
「……ならなんで」
「さあ。あんたと交友を深めるには、やっぱゲームじゃないかなと思ってな?」
「大嘘つき」

 返す言葉はない、と言わんばかりに千雨はニヤニヤと笑いながら台に肘をつき、指先でカードを要求して見せた。
 カードを配りながら、聡美はどうにかしてこの勝負をなかったことにすることを考えるのに必死だった。イカサマを見つけるのも、いい。それを口上にして有耶無耶にすればいい。それとも、他の手段があるだろうか。暴れたら、なかったことにできるだろうか。いや、すぐさま取り押さえられてしまうだけだろう。外部への連絡を――目の前にいるのに、それを許すわけがない。この暗さでは携帯電話など開いただけでばれるだろう。ならせめて外に。
(トイレとか言って)
 そのまま逃げればいい。ついてきたなら、個室に篭って超に助けを求めればいい。
 ……超?
(超さん、なんで大学部に行けって言ったんですか)

 いくら超でも、神ではない。この展開の全てが予想できていたとは思えない。だが思えば、このカードは元は超のものだ。少なくとも千雨がここにいることを予想していたのは間違いないだろう。

(どうしたらいいんですか、超さん。私なら、勝てるって言うんですか?)

 なんとか順番を覚えていようと努力はしたが、やはりただでさえ不器用なのに手先が震え、結局三度もばら撒いて、努力は無駄になった。カードを配り、手にして今度こそ聡美は泣きそうになった。
 2 3。
 二枚引かなければまともな役にならず、しかし二枚引いたところでバーストもありうる。対して千雨は、あっさりとスタンドした。

(落ち着いて……さっきも考えた。最低、20を見込んでいないといけないって。でも、上の方の数は二枚減っていて。とりあえず、一枚は)
「ヒ、ット」

 嘘だろう。引いたのは7。状況的に一番悪い手だ。12。残る手はA 4 5 6 8 9 10 J Q K。10を引けばバーストする。だが引かざるをえない。

(もし、相手の手が8 9だったら)
 バーストが50%。A 4 5 6を引いても、勝てるのは5 6が出たときだけ。A 4のどちらかを引いたとしてももう一度アタックする気にはなれないだろう。
(サレンダー。一敗は一敗だけど、またサレンダーできるようになる。いや、でも待て! 相手が20なら、バーストする確率はずっと低い)
 希望的観測。そう思わざるを得ない。せめて引き分けに持ち込みたい。だがその道は随分と棘が生えている気がしてならない。

(あれ。……待って。そういえば)

 聡美は、不意に気づいた。このゲーム、千雨は一回もデッキに触らない。ディーラーは聡美で、ヒットすることなくスタンドした。
 この状況において、イカサマをする余地はない。千雨の手は、根っからその運任せの手札でしかないはずだ。

(じゃあ、勝てる可能性のある……ゲームだ)
 イカサマをされたら、勝ち目はない。どんな勝てると思っていてもひっくり返される。だが、この状況。このゲームだけはその法則から逃れられる。それは、光明に感じられた。とりあえず一勝。そうだ。よく考えればたかが二敗。ここで一勝すればすぐ手が届くじゃないか。

「ヒット」

 バーストの危険性すら忘れ、聡美はカードを引いた。それでも、流石に心臓は震えた。6。18の手だ。バーストではないが、あまり強くもない。だがイカサマがないなら、千雨が弱い手である可能性も十分ある。
(落ち着け。落ち着け。ここで……もし負けても、サレンダーしたときと同じ負け数だ。それに、ここで勝てば)
 届く。この、余裕こいた女の心臓に、槍が届く。

 息が荒い。だが、突然目が覚まされたような気分だった。落ち着けと祈る気持ちも、表面が融け始めたように滑らかだった。
 その時、不意に千雨が口を開いた。

「なあ、聡美」
「……はい」
「なんかちょっと可哀想になってきた」

 舐めたことを、頬杖をついて自分の手を見ながら、千雨は言った。

「イカサマなんてしてねえし、しねーよ。つーかよ、あんた空回りすぎだよ」


 嘘だ。
 嘘だ。
 嘘だ。
 震える声で、泣きそうになって、聡美は言った。
「サ、レン、ダー」
 千雨はカードを投げた。Aと4。――15だった。
「嘘つき」


 ――第五戦(0・3)

(認める)
 台に突っ伏して目を閉じたくなる気持ちを必死で押し殺して、聡美はパーフェクトシャッフルを追った。
(迂闊で、自信過剰で、莫迦なのは、私だ。友達を危険に晒して、利己的な知識欲に引っ張られて、怒りを鵜呑みにして。ごめんなさい。ごめん、なさい、超さん)
 事ここに来て、認めるしかないのは解っていたが、それでも目は逸らしたかった。だが、そんな気持ちと関係ない領域で、この長谷川千雨の姿をした人間は、聡美の計算能力など遥かに超えた心理の部分で、聡美を遥かに上回っている。

(そうだ。……考えてもみればいい。この、パーフェクトシャッフル。随分と慣れた手つきで、熟練者を想起させる。でも、別にカード捌きを他に見せたわけじゃない。これくらい器用な人なら一晩あったら会得できるだろう)

(いや、それに冷静に考えてシャッフルなんてリフルと、オーバーハンドかヒンズーを組み合わせてやるものだ。……私は不器用だからヒンズーしかできないけど。でも、これみよがしにオープンハンドのリフルシャッフルで、しかもパーフェクトだけなんて、私に計算してって言ってるようなものだ。或いは、それもイカサマの伏線かとも思った。でも、違う)

(イカサマをしないという伏線だったんだ)

(最初のダブルダウン。それに三ゲーム目もそうだ。ダブルダウンを出された時点で、私は降りるしかないと思わされた。イカサマがあるなら、二敗は惜しいと思った。違う。手がよくないから、勝負したくなかったんだ。だからダブルダウンと言った。私が降りるのを見越して)

(私のことを碌に知らずなんて冗談じゃない。気持ち悪いくらい、私の性格を見抜いてる。猜疑心を利用された。私がカードの並びを計算できることも気づいているだろう)

(そもそも、最初に考えたじゃないか。イカサマを使うなら最後。つまり、最後の最後にイカサマを使って、パターンを崩すことで勝ち逃げする。イカサマをしない伏線だったと私が気づくのも計算のうち。逆に言えば、私が勝ちそうな時はそれを使うことはない。例えば、私がある程度のカードの所在を掴んでいる、相手ディーラーの時。さっき気づいたように、私がディーラーの時も、イカサマをするタイミングさえ消してしまえば勝ちは計算できる)

(イカサマがないとするなら、明らかに私の方が有利だ。きっと……確信ではないけど、私のようにカードの位置を一々考えてはいないはずだ。追えて、数枚。それも私ほどは精度は高くないはず。三敗は忘れろ。……勝ちを取り戻す)

「オイ聡美。カットどうすんだよ」
「……」
 判明してる並びは、6 4 * 7 * * A * 3 * * 2 *。10 J Q Kの全てが解らず、残るも5 8 9と大き目のものが揃っている。できるなら、四枚をカットしてAと、できれば10が欲しい。そうすればナチュラル21。二勝分だ。仮に5でも3を引けば、19と高い手。悪くはない。
 だが――。

(これ、12枚カットしたら)

 聡美には、* 4。千雨には6 *。何が来ても、互いにヒットするだろう。そして、聡美は決して悪い手ではない。もしかしたら最初に十が来れば、ヒットするカードは7。ブラックジャックだ。それでも四枚カットしたときのナチュラル21の魅力には敵わない。
 だが。

(もしかして、これは、ダブルダウンしてくるかもしれない)

 千雨が、もし、最初に10を引いたら。16。仮にヒットしたところで、救われるのは5のみ。残りはバーストだ。今までの千雨なら、間違いなくダブルダウンしてくる。もしかしたら8を引いても、ダブルダウンを選択するかもしれない。千雨にとってダブルダウンは、場を逃れるためのリスクゼロの手段だ。それどころか相手のサレンダーを稼げるのだ。積極的にダブルダウンが行われる確率は低くない。聡美ですらブラフと解っていても、どこかにイカサマの疑いを持つのだ。サレンダーしないのは恐いだろう。

(でも、私の手が21になるのがわかっていたら?)

 聡美も、ダブルダウンを行う。宣言後はサレンダーできない。千雨にとっては後の祭りということだ。そして聡美は7を引く。まず最初に10を引くことが前提ではあったが、そうでなかったのならサレンダーすればいいだけの話だ。

(四勝)

 たった1ゲームで、四勝。リスクは、得られるかもしれないナチュラル21の放棄とサレンダー一回分。それは、笑ってしまうくらい魅力的な話に思えた。

(落ち着け。考えろ……見落としは、どこかにあるか?)
 ない。少なくとも見つからない
「おい、聡美。カット」
「……12枚で、お願いします」
「12!? 多いな……」

 やれやれと首を傾げて、千雨は一番下のカードを一番上にし、デッキを中央に置こうとして、身を乗り出して手を差し出した聡美を見上げた。

「……なんだよ」
「私が配ります。……いや、そもそもこのシステム。カットはプレイヤーがやるべきものでした。でも、まあ、今はいいです。配るのくらい、私がやります」
「……あア? あんた、いくらなんでも」
「ダメなんですか」

 なら勝負を反故にしてもいい、という意思を篭めて言えば、千雨は首を小さく振り、溜息と共にデッキを聡美に手渡した。

「何もしねーつったのに」
「一応、です」

 悟られるな、と神にすら祈りながら、聡美はデッキを台の中央に置いた。僅か13枚の薄いデッキ。出来る限り、最大限自然に見えるように自分からカードを配り、ゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろす。
 二枚のカードが、まだ伏せられている。千雨を覗けば、その表情はポーカーフェイス。10を引いてしまえば、全ては台無しだ。それがまず賭けの一つ。それに、もう一つ。
 来い。

(来い)

 来い。

(来いっ!)

 一枚目は、4。そしてもう一枚は。
 J。
 思わず、台の下で足を踏ん張った。小躍りするのを堪えたのだ。賭けに一つ勝った。14。次は7だ。勝った。間違いなく勝った。そして、もう一つの賭け。もしダブルダウンをかけてこなくても、少なくとも一勝。いや、サレンダーされたところで勝利の気分は揺るがないだろう。傷一つつけられなかったこの女に、一矢報いるのは間違いないのだから。それでも、四勝の魅力の前に全ては霞んだ。
 勝てる。
 千雨の顔を見ると、そのポーカーフェイスも解体できる気がした。渋面、無表情なのにそう見えた。どうしようもなく弛む頬を見せまいとカードで顔を隠し、その時、小さく千雨が呟いた。

「ダブルダウン」
「っ!」

 笑いを堪えられるものか。勝ちが決まったわけではない。まだまだこれから。この女はまだ何か隠しているだろう。最後にはイカサマも披露するだろう。
 だが、散々やりたい放題やられた後で、一気にひっくり返してやるのは溜飲が下がるだろう。この女の済ました顔が歪むのを考えるだけで、笑いは堪えられない。

「ダブルダウン!」

 千雨が目を丸くして、聡美を見た。ザマあみろ。これで四勝だ。聡美はデッキの上から勢いよく一枚とって、
 ――笑顔を凍りつかせた。

 千雨が、散らばったデッキの一番上のカードをゆっくりと捲った。K。手の中のカードは、5 6。
「ブラックジャックだ、聡美」
「え……? なんですか、これ……」
 聡美の手の中から、カードが零れ落ちた。4 J そして9。23。

「え、なんで……嘘?」
「嘘じゃない」
「どうして。……そんな、だって」
 千雨は嘆息し、一度天井を仰いだ。

「これで、七勝。……あんたの負けだよ。聡美」

「どうして……イカサマじゃ、ないですか?! ありえない……いつ、どうやって。私の手札を!? だって……嘘だ……嘘です……」
 千雨がゆっくりと腰を下ろすのを、どこか遠いもののように感じながら聡美は見ていた。だらりと聡美の手が力を失い、頭の中は白いぱちぱちしたもので覆われた。
「……どうして、しないはずなのに……イカサマなんて……最後じゃないと。私が、ダブルダウンするかなんて……どうして。数え間違い……計算違い……カードを回収するときに見誤った!? でも。そんなの」
「聡美」


 ――(0・7)

「あんたの負けだ」
「嘘です! こんなの……イカサマじゃないですかっ! 無効です! そんなのっ!」
「何を以って、イカサマだっつってんだよ? カードの数も枚数も変わってない。まさか、あんたの記憶と違うからイカサマだなんて言うつもりか?」
「それは……っ!」

 間違いない。カードの順番を入れ替えられた。それは間違いない。シャッフルのときか、それともカットの時か。だが、本人すらそれが何か知らないで、カードの順番を変えただけ。それはシャッフルといえばシャッフルだったし、カットの一環と言われればそれまでだ。聡美が、勝手に勘違いしてただけ。
 聡美の顔が青ざめる。それは解っていた。だからこそ、イカサマは最後に持ってくると踏んでいたのだ。一回だけ、聡美の計算を逸脱してくるとわかっていたのだ。

「座れよ、聡美」
「……」
 首を振って、聡美は後ずさった。超鈴音が、親友にして理解者がどれほどの覚悟とリスクを背負ってこの時代にいるかを、聡美は誰よりもよく知っていた。
 裏切れない。自分の莫迦な行動のせいで、彼女の目的が押し潰されることなど、絶対にありえてはならない。
「座れって。座れ!」
「嫌です! 話せない!」

 そうだ。話せない。どんな自業自得だとしても、それで超に迷惑をかけることだけは、ダメだ。あの優しい未来人を、その思いを挫けさせるのだけは。
(ごめんなさい。莫迦な真似しました。……責任の取り方は、心得てます)
 聡美は、躊躇わなかった。窓に駆け寄り、下に落ちたプラスチックのブラインドを踏みつけ、窓を開け、縁に腰掛けた。

「ごめんなさい……」
「いいいっ!? っちょ、ちょ待てっ! わ、解った解った待てっ!」
「……」
 五階。痛みはないことを聡美は知っていた。そこだけは妙な合理性をもってして、聡美はゆっくりと後ろに倒れた。

「ま、待ったーッ!」

 その瞬間、突撃してきた千雨が聡美の腰にぶつかりながら抱きとめた。無理やり引っ張ったせいで聡美は後頭部を窓枠にぶつけ尻も床にぶつけて涙目になったが、それは研究室の内側だった。

「いったっ……! 放して下さいっ! くっ!」

 魔法でもかけられると思ったのか、極基本的な魔法封じ……術者の口に手を突っ込むという手段に出た聡美の手を避け、後ずさり、千雨は両手を上げた。

「待った! 待て! もう聞かねえよ! 超はどうでもいい! だから落ち着け!」
「信じられる要素が……!」
「よ、よしネタバレだ! 私今杖持ってねえから魔法使えない! よしいい子だ。いいから窓から離れろ! な!? そ、そうだそれにあんたにここで死なれたらマズイだろ!? な! 利害一致するだろ!?」
「……ふざけないでください……情報が欲しいと言って侵入してきた人が今更何を!」
「いや……あークソ。どいつもこいつも面倒くせえし重てえ。……人の事言えないがな」

 吐き捨てるようにそう呟き、千雨は親指で背後を指した。

「情報はどうでもいい。……私が勝ったんだ。あれ一体寄越せと言いたかった」

 聡美は、その指す先を訝しげに見た。部屋の片隅に並んでいる三つの人影。それらは全て大きさは違うが、顔立ちや雰囲気。そして物言わぬ人形でしかないということは同じだった。

「茶々丸のボディを……ですか?」
「ああ。安いもんだろ。あんたの命とか、超の情報に比べりゃ」
「それは……」

 まあ、実際の値段としてはそれこそ天文的なレベルなわけだが、確かにそうは思えた。超を裏切ることよりは、聡美にとっては遥かに安上がりに思える。

「二号機がいいな。茶々丸さんの姉」
「……言っておきますが、AIはインストールされてませんよ」
「知ってる。ボディだけでいいぜ?」
「それだけじゃありません。それは、確かに、負けたのは確かですし。欲しいというならあげますけど、メンテナンスまでする義理はありませんし。そもそもあのボディは茶々丸の三号機とはコンセプトが違って電子戦使用で魔法使いの戦闘には向きませんし」
「……それは知らなかったな。カブってんな。……が、かまわねえよ。未来人舐めんな。メンテ位自分でなんとかする」
「……」

 負けたのは確か。しかも一矢報いることすらなく。それは聡美の気分を落ち込ませたが、超を裏切らずに済むというなら随分と気は楽だった。茶々丸のボディも惜しいが、それでも研究価値はそれほどない。
 それに。
 聡美は、ずるずると立ち上がって、一度振り返った。停電で明かりのない麻帆良の街が見下ろせた。
「おい!」
「わかりました」
「……」

 また、聡美は泣きたくなった。
 必死だった。きっと、長谷川千雨がしただろうように。
 この女は、必死で聡美が死ぬのを止めた。

「二号機を、あげます」

 千雨の、ほっとした安堵の溜息が聞こえた。


 千雨が窓を閉め、鍵までかけて。ようやく部屋に電気が点いた。
「電源チェック、動体チェック終わりました。グリーンです。どうぞ、持って行ってください」
 端末に流れる情報を眺めながら険のある声で聡美が言うと、千雨は呆れたように笑った。

「何キロあると思ってんだよ。持ち歩けるか」
「……AIは提供しないと言いましたけど」
 茶々丸二号機は、三対の内の真ん中。左右二体、それに茶々丸本体と比べて小柄だった。肩ほどの髪に、目は少し吊り気味。そして戦闘は本当に度外視しているのだ。体の触感が茶々丸よりも人間に近い。それでもいくらかの人造臭さは拭えていないが、装甲がないというだけでロボットというイメージは大分薄れている。
「どうするんですか」

 茶々丸のAIは膨大な容量だ。DVD程度の記憶媒体じゃとても持ち歩ける量にならない。そして千雨はどう見ても鞄の一つも持たない制服姿でしかなく、どこかから持ってきたAIを組み込む気ならネットを経由するしかない。だが、当然研究室はスタンドアロンになっている。
 もしそうする気なら、思い切り莫迦にしてやろうと聡美は思った。

「あ、端末貸してくれ。あと、魔力系のデバイスあるか? 直接術者から読み取れる奴。ついでに魔法の発動基もあるといいな。子供用の奴とかでいいから」
「……注文、多いですね」
「ついでにこの端末、言語何使える? デコーダは?」
「……」
 魔法界でポピュラーな言語と、人間界の言語の名を挙げると、気をよくしたようで千雨は地面に座り込み、楽しそうにキーボードを叩き始めた。
 何を組む気なのか。そもそも今からプログラミングしていつ終わる気なのかも気になったが、聡美は超のデスクの上を探した。どうせあるだろう。すぐに見つかった。千雨の注文したとおりの魔力系デバイスと、子供用の杖だった。

(……超さん、ちょっと恐いです)
「おい、まだか?」
「はい。見つかりました。って」

 よしよし、とUSBにデバイスを繋げ、もう一度キーボードを叩き、千雨は眼帯型の魔力情報抽出デバイスを左目に装着した。目を吸盤のようなものがすっぽりと覆い隠すような形になっており、これは先端以上に魔力の伝達効率のいい眼球を使うためのものだった。

「もう、プログラム終わったんですか?」
「いや、デバッグがまだだ」
「早い……ですね」
「簡単な奴だからな。データの解凍とAIの基礎データへの移動だけだし」
「それでも」
「ラッキー。バグなし。……よし。とりあえず一回」

 千雨は、子供用の小さな杖を握り締めた。

「プラクテ・ビギ・ナル。アーカイブ『test-1』解放」
 ガクッと、ボディの前で座る千雨の頭が揺れた。すぐさま端末には情報が踊った。「テスト成功」のテキストがクルクルと踊っている。
「結構衝撃あるな。つーか転送早っ」
「な」

 聡美には、千雨が何をしているのかが見当ついた。ついてほしくもなかったが、解った。脳に電子データを圧縮して放り込んである。脳髄を記憶媒体代わり。HD扱いするという手を使ったのだ。

「何て真似を……! 危険なのが解らないんですか!」
「いや、解ってるけど。あんたに言われたかないな」
「はい!? こんな非人道的なこと、しませんし、させません! ……まさか、生体の脳にAIを書き込むなんて! 脳組織にどれだけダメージが行くと思っているんですか!?」
「魔力処理だからそれほどでもねえよ。ちょっと離れてろ。今度はデカいデータだからな。エグいぜ」
「千雨さっ……!」

 千雨ではない。長谷川千雨ではない。それを思い出して、聡美はようやく千雨から離れた。心配する義理もない。だが、苦悶の表情で聡美はぎゅっと自分の手を握り締めた。
 千雨が、大きく息を吸った。胡坐をかき、頭を体の内に巻き込むようにして、ノートを脇に避け、体の中心で杖を握り締めた。
「フゥー」
 一拍。
「プラクテ・ビギ・ナル。アーカイブ連番『T-TA』解放(エーミッタム)」

 一瞬、目を焼くような強烈な魔力光が研究室内を覆った。千雨の上半身が、崩れる。咄嗟に聡美は千雨に駆け寄って、その上半身を支えたその時、人間の発する音とも思えない凄まじい悲鳴が響いた。

「あああああああああああああぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁああああああああああああああああああああああああああああぁぁああああああああああああああああああっ!」
「千雨さん! 千雨さん!」
「つっ……ああああ。あー」
「大丈夫ですか!? ああ、もう。何てことを!」
「いてー。……マジ痛いな、これ。でもすっきりしたー」
「何がスッキリですか!」

 今の一瞬で、10テラを越える情報が転送された。だがそんな機能はヒトの脳には備わっていない。無茶の負担は、行き場をなくしそのまま脳にダメージとして残るだろう。ほとんど無意識の内に、聡美は千雨の体の反射を確かめた。言語、視野、記憶。どこに障害が発生するか検討もつかない。少なくとも奇跡的に体の反射に影響はないようだった。それとも、余程考えたシステムが未来にはあるのだろうか。

(いや、そんなはずない。こんな危険なこと、超さんがしてるの見たことがない)

「あー、エラー出てねえな。良かった。それだけは心配でな」

 呟いて、ふと気づいたように千雨と聡美の目が合った。聡美は、睨みつけてから千雨の体から離れた。そのまま背を向け、窓へと近寄る。千雨の心配したような目が、自分を追っているのがわかった。

「インストールには……ま、一時間はかかるか。どっかのCPU使えないか?」
「予め言ってくれれば……」
「仕方ないな。さて。一時間暇になったわけだが」

 冗談じゃない。窓に手を置いたまま、聡美は思った。こんな狂人と一時間も一緒なんてぞっとしない。超が背負ったリスクを聞いたときは素直に超に同情し、尊敬したが、この女の負ったリスクは逆に気持ちが悪いと思えるようなものだ。感情が否定した。
 まだ、自分を気にしている。気づかれないようにそっとだが、視線が自分の背を向いていることを聡美は気づいた。腹立ち紛れに、聡美は窓の鍵に手を伸ばした。慌てて千雨が立ち上がる気配がした。すぐさま、手を離す。そのまま、強化ガラスに拳をたたきつけた。びくともしないが、研究室にまでその振動が伝わるようだった。

「一つ、聞いてもいいですか」
「嘘つきでよければ」

 散々嘘つき呼ばわりしたのは聡美だが、そういう返しは子供っぽいと思った。

「長谷川……千雨さん。どうしたんですか」
「……」

 聞きたいことは伝わったろう。なのに口篭った気配に、聡美は唇を噛み締め、目を硬く閉じた。

「殺した」

 その答えを予想してはいたが、到底飲み込めるようなものではなかった。
 この女が必死に聡美の飛び降りを止めようとした顔と、脳髄から電子データを引きずり出したときの苦悶の表情が脳裏にフラッシュバックする。顔だけはそっくりな女。なのに中身は。中身も。

「なぜ」
「必要だったから」
「なんの」
「私の目的に」
「目的っ、何の目的ですか!」
「……」
「千雨さんを殺して……それで、なんですか。何するんですか! 千雨さんが死んだ理由はなんなんです?!」
「泣くなよ。何で泣くんだよ」
「泣きますよ! だって千雨さんが殺されたんですよ!? あなたに!」
「だから、なんだよ! 友達だったってか!? そいつはご愁傷様だ! だが保障してやるぜ! 長谷川千雨はあんたのことを友達だなんて思っちゃいなかったね!」
「解ってますよ! 知ってます。友達だなんて思われてると思わないし、思ったこともないけど! でも、クラスメートだったんですよ!? 小学校の頃から、ずっと!」
「……それは、けどな」
「けど!? けどなんですか。千雨さんに殺されていい理由があったんですか?! あなたなんかに理不尽に命を奪われる理由があったんですか!?」
「……――ああ、あったよ。あの女はトンだクソ女だったから殺したんだよ! 喜べよ葉加瀬、トンだクソ野郎が世界から一人消えたんだ!」
「なんですか。何でそんなこというんですか! よく知らないですよ! 千雨さんのこと、よく知らないですけど! でも、覚えてるんですよっ! いつも冷めてて、クールで、大人びてて。一歩引いてて誘ってもついてこない! でも、どうしようもなくなった時は嫌そうだけど付き合ってくれて……覚えてるんですよっ!」
「うるせえよ! 知るかよもう遅せーよ知った事かよ!」
「なんで、千雨さんの真似するんですか! やめてください! 殺しといてっ、千雨さんみたいにっ!」

 涙も、泣き顔も隠そうともしない聡美から千雨は顔を逸らした。聡美のしゃくり上げる声から、耳も隠したかったかもしれない。
 嫌だった。聡美は、嫌だった。千雨が憎ませてくれないのが嫌だった。憎たらしい顔して、偉そうでわかったようなことを言って、なのに長谷川千雨みたいなのが嫌だった。

「千雨さんじゃないんでしょう……千雨さんじゃないじゃないですか。なら誰なんですかあなた……なんで千雨さんみたいなんですか」
「……長谷川千雨じゃねえ。それだけは確かだよ」
「ならやめてください……千雨さんみたくしなければいいじゃないですか」

 知るか、と千雨は毒づいた。長谷川千雨がどんな奴かもわからないのに、とも。
 しばし、そこから沈黙が過ぎた。それ以上の反論を千雨が持たなかったのかもしれないし、或いは涙を流す聡美にかける言葉がなかったのかもしれない。
 沈黙を破る役目を担ったのは、聡美だった。涙声で、なのに毅然と言った。

「いつか、観測者の話をしましたね。歴史の傍観者。タイムスリッパーの話」
「……」
「あなたに言っても、釈迦に説法ですけど。一応言っておきます。タイムスリッパーが歴史を変える。直接的に自分の母親を殺す。或いは、遠因を作って先祖が死んでしまう。なのに航時機を使った本人はそこに存在する。この極単純なタイムパラドクスはどう処理されると思いますか?」
「……」
「もちろん、ご存知ですよね。観測者は独立している。変わることはない。ただ歴史は変わる。その時点で、観測者は未来に戻ってもいなかったことにされているんです。存在が初めからなかったように、確かにそこに生きているのに、その全ては失われるんです」
「……」
「超さんが背負っているのはそういうリスクです。あれほど望んだ幸せな未来の中に、自分は存在しないというリスク」
「……」
「私には、この二つだけです。千雨さんが殺されたことと、超さんが背負ったもの。たった二つですが、十分です」
「……」
「あなたが、脳に負担をかけ、千雨さんを殺してまで何を為したいのか知りません。ですが、それを私はこの二つだけで否定してみせます。
 勝負してください。もう一度、1/4ブラックジャックで。そして私が勝ったら、あなたが誰で、何を背負っているのかを話してもらいます。その上で、あなたを、あなたの理由を、全て完膚なきまでに否定します!」

「は、ハハ。だからヤだったんだよ。あんたに会うのは。なんだよ。そんなに否定したいのかよ。挫かせたいのかよ、私を。
 ……いいぜ。いいぜ、葉加瀬。否定しろよ、葉加瀬。私が今生きてる理由の全てを否定して、見事私を壊して見せろよ葉加瀬ェっ!」


 ――第六戦(0・0)

 パーフェクトシャッフルの瞬間、聡美が目を閉じるとすぐさま千雨はヒンズーシャッフルに切り替えた。やはりか、その手付きは聡美よりはずっとましではあったが、どうにもぎこちなさは残っていた。

「曖昧だったルールを決めさせてもらいます」
「……宣言とカット」
「……っ。はい。カットはプレイヤー側が。宣言は自分の手番に行うこと」

 言い当てられたことが、まだ千雨の余裕だと感じられて聡美は腰を浮かしかけた。だが、それこそがあの屈辱の四敗の要因だった。
 あの場、先に札を引く聡美こそがダブルダウンを宣言する場であった。それを先んじたのが千雨。それは聡美の思惑通りで望んだものだったが、それこそが千雨の計略。まんまと聡美はダブルダウンを宣言させられた。
 イカサマにしたって、先にダブルダウンを連呼したのも仕込んでいるのはドローのとき、と思い込まされたのが最後で7を引けなかった遠因だ。仕込んだのはシャッフルではない。カットのとき。カットの枚数を聡美に決めさせたところで、それを千雨がしている時点でそれはなんのイカサマの防止にもなっていない。

「なら私も条件を出させてもらう。……私が勝ったら、私のものになれ。超を裏切ってもらう。自責の念で死ぬことすら許しはしないぜ? 友達を裏切り続けて、苦しめ」
「……わかりました」

 この再戦も、やはり千雨に心理掌握されているからだろうか。最初からこの再戦こそが千雨の狙いだったら、お笑いだ。だが、構うものかと聡美は思った。それがどうした。

「ほら、カットだ」
「はい」
 デッキを受け取って、七枚目で聡美はカットした。中央に戻し、千雨からカードを配る。二枚。カードを起こした。7 9。16。千雨はヒット。正直、分の悪い賭け。デッキの下の数字が既に集中しているような気がした。
 それでも、もう折れない。聡美は思った。私はもう折れない。
 どれだけ負けても、この女には。

「折れてやるもんですか!」

 ヒット。5。聡美はガッツポーズした。


 ――第七戦(1・0)

「悪い、ブラックジャックだ」

 一瞬、呆然とした。二戦目のナチュラル21の焼き直し。何故、自分の手に来ないのかと嘆きたい気分になったし、勝利の余韻も一瞬ですっ飛ばされた。
 だが、それ以上に腹が立って、聡美は歯を食い縛った。

「何が……悪いですか」
「……あ?」

 千雨は、何を言われているか把握しかねているようだった。聡美は歯を食い縛ったまま、千雨を睨み、立ち上がった。

「いい加減にしてください」
「ア? 何がだよ」
「いい加減、本気になってください」
「はアっ!?」

 千雨もまた、強い視線を返した。鬼眼。敵意の塊。普段なら、それだけで聡美は慄くほどの恐ろしい目の光の強さ。だが、それが一つも気にならなかった。千雨の視線など、だからなんだと思った。

「本気だあ? ザケんな葉加瀬。そんなの、あんたに言われたくねえよ」
「なら悪いとか言ってんじゃないですよっ!」
「それはっ。……言葉の綾だ」
「嘘つき! なんで嘘つくんですか……いい加減にしてくださいよ! 私を見て……あなたの敵は、あなたの目の前にいるんですよ!」
「だからっ、本気だっつってんだろう!? それはこっちの台詞だ! どいつもこいつも余裕だの大人だの。こっちにそんな余裕なんざあるわけねーだろ!?」
「なら、なんで遠く見てるんですか。目の前も見ずに、遠く見てるんですか! ふざけてるのはそっちの方です。本気、本気って。一番本気じゃないのは、あなたでしょう!?」



◆◆◆



 ふざけんな。口の中で呟く。ふざけんな。私は、こんなに本気なのに。
 自分の意が介されない苦しさ。その評価の理不尽。認識の乖離。怒りは最早血管を沸騰させ、なのに捌け口がなくて傷口を探している。悔しさのあまり目尻に涙が浮かんだが、それを処理する方法の一つも千雨には思い浮かばなかった。

「ザケンな。本気も出せねえのは、テメーらだろ……私を見もしねえのは、テメーらだろ」
「ならあなたは私を見てるんですか!?」
「それ、はっ!」
「本気で見てくださいよ。命を賭けたんです。本気で向き合ってくださいよっ!」


 ――第八戦(1・2)

 もう手は尽きている。あの最後の四勝をもぎとる戦略だけを千雨は組み立てて来たのだ。残るはただの千雨の運だけしかない。千雨はカードを開いた。10 J。

「私の向こうに何を見てるのか知りません。知らないけど、目の前にいる私に本気にもなれない人に私は、絶対に負けませんから!」
「ふざけっ……! 言ってろよ莫迦! それで、勝てるなら、世の中なんてもっと良くなってるんだ!」

 本気で、必死で生きた連中すら報われない世の中なのに。いい奴が。頑張ってきた奴も報われないのに。それが報われるような世界を、千雨がどれだけ欲しただろうか。誰もがどれだけ欲したのだろうか。

「そう言って、本気にならないんだ……その程度のこと、免罪符にして目を逸らしてるんだ……!」
「煩い! 何がわかる! 天才だのおだてられて、何不自由なく生きてきた女が何をわかったようなこと言ってんだよ!」
「解ったようなこといって、何も解ってないのはそっちじゃないですか! そんな口に出しただけのような理屈に縋って、本気も出さないで生きてきた人が!」
「もう言うなよ! 本気だよ! 本気で、私はそうだったんだよ! 何でそんなこと言うんだよ! どうすりゃ良かったんだよ!?」
「こうです……これが、莫迦で迂闊で自信過剰な私にできる、最大限の本気です」

 聡美の手はQ K。
 カードを回収することなく、聡美が歯を食い縛るのが千雨にも見えた。エナメルが軋み、もしかしたら歯茎から血さえ流して、聡美はデッキの一番上を開いた。
 A。

「っけんな! そんなの、本気なんかじゃねえ。ただの蛮勇で無謀だ!」
「でも、私の勝ちです! これが、私の本気です!」


 ――第九戦(2・2)
 ――第十戦(3・2)
 ――第十一戦(4・2)
 ――第十二戦(5・2)

「よしっ!」

 四連敗。呆然として千雨はカードを落とした。磐石の条件が、何度も覆されている。12からの、既に二枚は10が出てる状況でのバースト。運がない、と断ずることもできなかったわけではない。嫌いな考え方ではあるが、ツキ、流れがあっちに行っていると言えることもできた。

(それだけか?)

 学園長の、明日菜の、エヴァンジェリンの。そしてネギの虚像が光で結ばれていき、最後に聡美を象った。息が荒い。鳩尾にあった腐ったオレンジが、ついに口から落ちてきそうだ。
 聡美がじっと自分の目を見ている。修羅場を潜りぬけ、ようやく得た目の強さが、まったく通用しない。それとも、弱くなっているのか。それどころか聡美の目に気圧されてすらいた。恐い。エヴァンジェリンに襲われたときより、明日菜が膂力を発揮した時より、ずっと恐い。

「本当は、超さんのことで散々詰ってやろうと思ってました。超さんは間違っているのに、どれだけ間違っていても構わないと思っているのか、とか。超さんが悪なのに、どれだけ優しさを保っているのか、とか。
 でも、やめます。それは、あなたに届かないんでしょう」

 聡美はカードを集め、デッキにすると千雨に渡してきた。千雨はそれを惰性的にシャッフルしようとして、一度床にばら撒いた。今となっては聡美よりも余程不器用だったろう。

「頭の中はぐちゃぐちゃで、言いたいことばかりで。でも、何を言ってもあなたには届かないのかもしれない。ちくちく針で突いても、痛いけど、だから何って思います。あなたには届いていないんだと思います。
 私は、何を言えばあなたに届きますか? 何を言えば、あなたの心をスレッジハンマーでぐちゃっとできますか?」
「クソ女……なんで、そんなことするんだよ……」
「何を言えばいいんだろう。何を言えば、あなたの残りの一生をずっと不幸にできるんだろう。論理性が滑落した今の私の脳みそでも、あと少しでそれに手が届く気がする」

 震える手で、千雨はカードを配った。17と、18。

「これでリーチです。……そろそろ、終わりましょう」


 ――第十三戦(6・2)

「なんでだ……なんで勝てねえんだよ?!」

 本気で戦って、だからどうなることなんてない。そんなこと解っていたはずなのに、千雨は今まで対した人々が自分に対し本気でないことに腹を立てていた。手段を区切り、千雨に手心を加えた明日菜に噛み付いた。千雨すら見ないエヴァンジェリンに苛立った。
 解ってる。本気で、だからなんだ。それが通じるのはごく一部の世界だけだ。本気の素人は手を抜いた玄人に勝てない。まして、本気であってもそれが何かになるわけでもない。

「私が、本気だからです」
「ちげえだろ?! 運が良かっただけだろ!?」
「本気になれもしない人が何か為せるなんて本当に思ってるんですか?!」

 辛い。
 いつの間にか間違っていた自分を直視させられるのが辛くて、それを聡美に言われるのが何より辛かった。
 胸が裂けて、叫び声がどこかに飛んでいきそうだった。
 辛いことがあった。それは、千雨にだけじゃない。何処を見ても、世の中は不幸ばかりで、報われるべき人が報われない世界が今も続いている。結局、千雨はそれをどうにかしたかったのだ。世界をどうにかしたいなんて、大それたことではない。近くにいた、報われなかった人たちが救われれば、それでよかったのだ。

「だって、世の中は辛いじゃねーか」

 辛いことばかりで。友達は死んで、戦友は裏切って。好きな人と又会うことは敵わず、悪名を負って何かを守ろうとした人は民衆に嬲り殺され。幸せになるべき人はなれなくて。人のいい人間が不幸にされて、狡くて悪い奴らばっかり金と友達を持っている。
 千雨は、三年の旅を続けて、最後にそれを知った。だから、せめて3-Aの奴らだけでもと、願ってしまった。それを気づかせたのは、葉加瀬聡美だった。いい奴らだったのだ。たった一人を除いて。
 エヴァンジェリンも、超も、聡美も。悪だった。刹那や木乃香、ハルナも悪を使った。
 千雨の大嫌いな明日菜は、底抜けの善人だった。嫌味なくらいに突き抜けた善人だった。
 それでも、奴らはいい奴らだった。思い返せば、ほんの僅かな間の繋がり。でも、いくらでも思い出せる思い出。笑うバカども。でもバカなのはいいことだ。
 最初から最後まで、薄汚いままで終わったのは、千雨だけだった。

「辛いから、逃げるんですか」
「逃げてない……ただ負けただけだ」
「さあ、最後のカットです」

 デッキを渡してくる聡美を、自信過剰だと詰る気にもなれなかった。最後にしたいと、千雨も思ったのだ。こんなことは、最後にしよう。
 心を針が貫いていた。エヴァンジェリンの言ったとおりだ。エヴァンジェリンの言葉なんて、罵倒でもなんでもない。自分を強く憎む人間といるのがこんなに辛いことだなんて、千雨は思いもしなかった。
 長谷川千雨を殺したことを、責められたのは初めてだった。友達でもなんでもない、ただのクラスメートの葉加瀬聡美の言葉が、心を突き刺していた。いや、千雨が千雨だからこんなに痛むのだろうか。長谷川千雨は、聡美が自分のことを覚えているなんて思っても見なかっただろう。
 千雨は、カットして、デッキからカードを機械的に配った。それを確認すらせず、聡美がカードを表返した。ナチュラル21のことが脳裏に過ったが、そうではなかった。10とKの20。

「スタンドです」
「……」

 のろのろと、千雨は手札を見た。7 8。15で、咄嗟に一枚ドローする。
 5。

「……」

 生き延びた。だがそれを自分でも望んでいるのかは微妙なところだ。早く楽になりたい。チャムの助けを得て、未来に帰る。もう既に歴史は変わってしまったが、それでもまだ大して変わってはいないだろう。もしタイムパラドクスが起きていても、自分の居場所がいないことなどこの世界も大して変わらないだろう。
 半ば惰性的に、千雨はカードを裏返した。聡美がその数字をじっと見つめる。そして、カードをかき集めようとする千雨の手首を掴んだ。

「……なんだよ」
「わかった。解りました。あなたに、なんて言えば届くのかが、解りました」

 届く。まだ届いていないとでも思ったのか。それは勘違いだ。既に十分すぎるほど否定された。だが、どうしようもないくらい強い目をした聡美から、千雨は顔も逸らすことができない。

「がんばってください」
「……は?」
「がんばりなさい……がんばればいい。がんばれっ。がんばれっ!」
「ふざ……けんなよっ。がんばってないとでも、思ってんのかよっ!」
「多分そうです。解ってます、多分そうなんでしょう。がんばってるんでしょうね。でも、それでも、がんばればいいじゃないですか!」
「がんばって、それでどうにかならないから!」
「それでも! いつか、がんばって、何かになるかもしれないでしょう!? がんばらないから、千雨さんを殺して……なのにそんなに中途半端で!」

 聡美の目から涙が零れ落ちる。自分を消し飛ばすほど、それは正しく、美しくて。いつの間にか、千雨は自分の歯の根が噛みあわないことに気づいた。

「せめてっ! がんばりなさいよ! 歯を食いしばって、がんばってよ――」

 その時、遠く、随分と遠くにあるように思えた端末がピープ音を発した。千雨は、咄嗟にそちらに目をやった。インストール完了。それと共に動画が突然再生され始めた。声が重なる。

『「長谷川千雨っ!」』



◆◆◆



「ばーか。そういうのは私じゃねえだろ。先生とか、近衛に言えよ」
「いや木乃香さんに狙われてるんで、木乃香さんが助けに来るのは変じゃないですかねー」
「そういや、ウチのクラス出身の2.5人組の正義の味方がいたろ。ならあいつらだ」
「いえいえ。是非千雨さんにお願いしたいですねー」

 千雨は、眉根を曲げて少し先を行く葉加瀬を見上げた。
 千雨はいくつかの切り札を持っている。電子精霊群。くみ上げたプログラムの数々。チャム。最低限の攻撃魔法と体術。それに超の遺産であるアンチグラヴィティーシステムと、切り札である呪紋刻印。
 しかし、それだけだ。圧倒的な戦闘能力を誇り、追随を許さない時代を代表するウォーロック達には遠く及ばない。呪紋刻印を酷使したところで、颯爽と木乃香から葉加瀬を守ることなんてできはしない。
 千雨は少し笑った。かつて、一瞬でも木乃香やアスナを倒そうと目論んだ日々のことを思い出したのだ。無駄な努力だったが。

「……やっぱ、ムリだな。なんとか、強そうな奴連れてきてやるから、それまで我慢してろ」
「あ、言い忘れてました。呪紋刻印、もう使わないでくださいね」
「ああ……あ!?」
「いや、カシオペアの魔力のために魂が滅茶苦茶磨耗しますから、もう使わないほうがいいですよー。肉体より前に魂が擦り切れますし」
「ちょ……お前ふざけんなよ!? これないと私、そこらへんの農民兵にも負けるんだぜ?」
「やー……他に手段ないんですから。まあ、いいじゃないですか」
「軽っ! え、マジか!? どうにかなんねーのか!? あっちで刻印打ち直してもダメなのかよ?」
「いや、それはないです。魂から魔力引っ張り上げてるんですから。体も傷つきますけど、それは副次的なものですし」

 いくつか葉加瀬は思案して、指折って何かを数えた。

「んー。じゃあ、三回までオッケーです。寿命はアレですけど、少なくともこの時代くらいまでは生き延びれるだろうし。三回ってなんかウルトラマンみたいでカッコよくないですか?」
「いやそれオッケーとはいわねえだろ。あとウルトラマンは三分な」
「ただし、四回使ったら肉体と精神だけ残って、魂が原型止めませんねー。魂だけが壊れた症例ってあんまりないんで、是非私の前で壊れてください。実にいい値段で売り飛ばせ」

 スパン! とどこからか取り出したハリセンで飛び上がりながら千雨は葉加瀬の後頭部を殴った。

「冗談ですよー。もー。痛いなー」
「あんたアホだよな」
「もう! こんな人類の叡智に対してアホとは! 千雨さんたらお茶目さん!」
「殺す」
「あー嘘です嘘です! 冗談ですってー」
「とにかく。なら尚更だ。私に期待すんなよ」
「ええ。……いや、それでも期待すると思います」
「だから」

 葉加瀬は振り向いて、千雨に笑いかけた。

「結構、私、千雨さんのこと買ってるんです」



◆◆◆



『昔の私のこと、イジめてますかー?』

 するりと、手から力が抜けて千雨の手が聡美の中から零れ落ちた。
 小さな端末。今の今まで茶々丸のボディへのインストール進捗状況が映されていた液晶画面には、今は動画が再生されていた。
 自分の眉間が凍りつくのを聡美は感じる。遠い位置にある小さな液晶。劣化した自分の視力。なのにやたらと画質がいいせいか、そこに映っているのが誰なのかが聡美にすら一瞬でわかった。
 聡美は、千雨の顔を窺った。その表情はやはり、驚愕に染まっている。

「まさか」



◆◆◆



『あんまりイジめちゃダメですよー。メンタル弱いんですからねー。千雨さん並のヘタレ……すいません、言い過ぎました。千雨さんほどでは』

 余計なお世話だ。

『……あれ? ツッコミがないですよ。どうしたんですか。はい、どうぞ! ……って、本当にイジめてなかったり、ツッコミ入れてたら恥ずかしいからここらへんでやめておきますね。 あ、注釈を入れておくと、この映像は千雨さんが爆睡してる隙に撮影してます。計画始動の一時間前です。これから、この映像をチャムのAIに仕込んで、千雨さんの抽出して電子化した記憶と一緒にして、カシオペアにかけることになります。ほらー』

 録画される視点が持ち上がり、背後のチェアに横たわる千雨の顔に接近した。

『可愛い寝顔ですねー。目を閉じてる限り、あんまり恐くないですねー。でも実はいきなり目が開いて掴みかかってくるんじゃないかって思ってたりしますけど。ほーらうにうにー。はっはー。ザマーミロー。気軽に殺そうとしやがってー』

 顎から頬肉を引っ張ったり、目尻を弄ったりして、一頻り笑うと葉加瀬はまたビデオカメラを元の位置に戻した。

『まず二つ謝っておきます。一つは千雨さんに言った時間には遡行させませんでした。あっはっは! 残念でした。競馬を当てるーとか言ってましたけど、ご破算です。計画も一から組みなおしてください。手伝えませんけどね!
 あ、でも理由はあるんですよ? 下手にネギ先生が神楽坂さんに懐いてない頃に行っちゃったら、どうせ千雨さんネギ先生に構っちゃって、お姉ちゃんのポジションになっちゃうでしょう? そうすると多分歴史を変えるモチベーションが続かないと思いまして。
 絶対怒ると思って、最後まで言いませんでした。言い逃げー』

 何一つ悪びれることはなく、葉加瀬は笑いながら手を伸ばしてばしばしと千雨の足を叩く。

『もう一つ』葉加瀬の顔が、一瞬で引き締まった。『こんな方法しか用意できなくて、ごめんなさい。あなたを殺して、ごめんなさい。あなたに押し付けて、ごめんなさい。あなたを選んで、ごめんなさい』
 一転、葉加瀬の顔に笑みが戻った。
『本当は、もっといい手を考えてたんですけど、千雨さんも見つかっちゃったし。私も狙われちゃいましたし。ついでに千雨さんを説得する時の切り札の四葉さんが招待状送りたいって言うんで、どう考えても最後の機会だと思って突っ走っちゃいました。
 んー。今更ですけど、もっと早くカシオペアの分析をしておけばよかったと後悔してます。あんな論文書いてる暇があったらなーって。だから、ごめんなさい、千雨さん』

 葉加瀬は、拳で眉間を押さえた。目が見えなくなる。長い付き合いだからか、泣いているのかと思った。だが拳を離しても目は赤くなっていなかった。それでも唇は震えていた。

『これだけです。言い逃げですけど、悪いけど私の遺言を抱えて生きてってください。
 おっと! 紛らわしいこと言いましたね。別に実は不治の病が……とか、千雨さんの踏ん切りをつかせるために自殺を……なんてわけじゃないです。単なる歴史が変わることへの話です。ま、どっちにしてももう私は私じゃないでしょうし。だから遺言て言っただけです。いや、ホントですよ!? ホント……ホントなんです!』

 逆に胡散くせえよ。だがこのビデオの最後に自殺でもしてみろ。私は一生立ち直れねえぞ。千雨は苦笑し、頬を袖で拭った。熱かった。

『あと、最後にもう一つ』

『どうせ、ぐだぐだと悩んでると思います。だから何か手助けを、と考えてたのに「チャムだけで十分だ」とかカッコつけちゃって。もー、何に悩んでるかは大体想像つきますが、外れてたら恥ずかしいから特定しないで、包括的な助言を一つ』

 葉加瀬はない胸をワザとらしく張って、

『私の尊敬する人の言葉ですが。まだそちらの世界にはない言葉のはずです。だから、あなただけの言葉です。
「デカイ悩みなら吹っ切るな。胸に抱えて進め」
 ……って、いやー! 恥ずかしいですね。言った人中二病ですねー! いや、リアルに中学三年だったんですけど』

 茶化しながら、その顔は真面目だった。

『……世の中、辛いですね』

『努力したら幸せになれるなんて嘘っぱちだし、いいことしても返ってこないし、善人が幸せになれることもない』

『ほっといたら不幸になるし、友達はいなくなるし。裏切られるし。せっかく頑張って掴んだ幸せは気紛れでなくなるし。なのに悪いことしてる奴ばっかが友達いて、お金持ってて。俺は幸せだぞーって顔してるんだから』

『ホント、辛いですね! 思いませんか? なんでこんなことになるんだろうって。思いましたよね。だから、私に同調してくれたんですもんね。報われないことが嫌で。それでもがんばって……でもがんばることさえできない人がいて。千雨さんも、そうですよ。卑下することないです。同じです。必死にやってきて、報われなかった人です。もうがんばることさえできない人です』

『酷いことを……しました。言います。私のために、悪になってくださいと言いました。誤魔化しでしたね。はっきり言います。
 まだ、がんばってください。悩んだままでも、それでも、がんばって』

 もう誤魔化しようのない涙が、頬を伝った。それも一筋では終わらなかった。このいつのまにか一粒零れればそれで十分だった涙が、間断なく流れ落ちた。
「っ!」
 千雨は掌で顔を隠した。歯がかみ合わないのを、食い縛って堪えた。なのに人間の中枢が痙攣を止めず、体を丸めて抱え込もうとする。

『フレーフレーちっさっめ。がんばれ千雨。がんば……って千雨さん。フレー……ガンバレよ長谷川千雨っ! 立ってっ、戦えっ千雨さんっ! 報われないかもしれないけどっ! 誰も見てないかも知れないけどっ! 私は見れないけどっ! でもがんばれ千雨っ!』
「う、あぁっ」
『……終わり、ますっ! さよう、ならっ! じゃあ後チャム頼みましたっ!』

 動画が停止する。黒駒が続く。

「くっ……あっ! ぐ、ひぐっ」

 ひどい、女だ。
 千雨が、望んでいることを知っていたのに。報われたいって。頑張っても報われないんじゃないかって思ってたのを知ってたのに。
 それでも、がんばれって。

「みるなっ!」

 涙と鼻水で化粧はぐちゃぐちゃになって、背はみっともなく丸めて、壁に額を押し付けて。体は震え、意思などなくて。エゴイストで、きっと今世界で一番惨めで。

「私の顔をっ! 見る、なっ!」

 ごめん。
 殺してごめん。
 否定してごめん。
 ごめんなさい。
 好きになって、
 ごめん。

「私が隠します、マスター」

 かつてより柔らかく、仄かに感じさせる暖かさはそのままの機械の少女は、千雨を背中から抱きしめた。千雨よりも小さな体だったが、今の千雨はそれよりも小さく感じられただろう。

「マスターが見られたくないなら、私がマスターの体を隠します」
「チャ、ム」
「機械の、脆いただの従者ですが、マスターの後をついていくことくらいはできます。辛い時は慰めます。姉がマスターを心配したように。ハカセがマスターに託したように。ですから、その……」

 ――がんばる。
 千雨は歯を食い縛って、涙を乱暴に袖で拭い、チャムの腕を離れて台に戻った。
 化粧は流れ、袖で拭ったせいで顔はぐちゃぐちゃ。人に見せられるものではなかったろう。なのに眼鏡だけは意地でも外さなかったために涙の痕がくっきり残っている。
 だが、気にしなかった。聡美の動揺すら手に取るように解り、そもそもの脳の冷え方が手に取るように解った。
 千雨が手を伸ばし、デッキの一番上を捲る。――5。

「……あーあ。負けちまった」

 もう一度掌で頬を持ち上げるように拭い、千雨は脇目も振らず研究室を出た。

「待ってください!」

 千雨は振り返らなかったが、チャムのバカ丁寧な声が聞こえた。

「またお会いしましょう。ハカセ」
「……っ!」


 屋上には鍵も掛かっておらず、簡単に出られた。何か研究に使うのか、それとも憩いの場かなにかか、随分と綺麗にされていて雑草どころか水垢のついたタイルの一つすら見つからない。周囲は背の高いフェンスで囲われていた。だがその中に一箇所だけ大きな穴が開いている。千雨は躊躇うことなくそれを潜り、身投げするかのように縁に立った。聡美の研究室の一つ上だ。そこから見える光景は大して変わらなかった。
 大停電の日。いつも満ちているはずの人工の光は殆ど消えうせ、星明りが手元すらはっきりさせるほどに強い夜。千雨は大きく息を吸った。

「悪いな、起きて早々」
「いえ」

 慣れた従者然とした物腰で、チャムが背後で跪く。千雨は制服のポケットに入っていたゴムで、手早く頭の上で髪をポニーに纏め上げた。

「あー」
「はい」
「頭冷えた。すげえテンパってたんだな、私」
「マスターは三年を誇りますが、逆に三年前はただの中学生でした」
「言い訳になるかあ? それ」
「なりません。ヘタレ……」
「いやうるせえよ」

 一辺も意思をぶれさせないような奴が化物なのだ。ヘタレというほどでは。
「……いや、もしかして私ヘタレなのか?」
「桜咲さんは徐々にアホになっていかれましたがマスターは徐々にヘタレて……」
「余計なお世話だ! つーかもうわかんねーよ! ヘタレの定義ってなんだよ!?」
「ツッコミが……調子が戻ってきたようですね」
「んなもんで調子量んな!」

 千雨は空を仰いだ。あー、と呻いて、背中を伸ばす。ごきごきと頚椎の音がした。

「ものっ凄い臭いこと言うから、記録すんなよ」
「はい。ネタフリですね」
「違えっつーの! マジで撮んなよ!? いいな?」
「はい。わかりました」

 ホントに解ったのだろうか。こいつは、その姉もだがこういうとき思い切った茶目っ気を発揮することがある。ジト目で背後を睨むが、少したりとも揺れない無表情に溜息をつく。

「星に願いをとか、冗談じゃねーけど」
「……」
「がんばる、私」
「……マスター」
「……あんだ」
「本当に臭いです」
「だからうるせえよ!? だから先に言ったろ!?」
「顔の温度が上昇していますが冷却しましょうか」
「う・る・せー! 癖だよポンコツ! 知ってんだろ?!」

 クソ。折角の極め台詞が茶化されてしまったと、顔を真っ赤にして千雨は小さく愚痴った。戦場経験があるからかよく聞いた臭い台詞を、一度くらい言ってみたかったのだ。
 千雨はもう一度溜息をつき、後頭部をかりかりと指で引っ掻いた。
 まア、なんだかんだ言って確かにスッキリはしたが。それにチャムも取り戻せたが。結局悩みはどれ一つ解決していないし最初に目的とした聡美を口説き落とすこともできなかったわけで。問題が山済みなのは変わっていない。

「だが……ま、八つ当たりだな。チャム!」
「はい。没入します」
「相手は茶々丸さんだ。油断すんなよ」
「私とマスターの組んだ攻性プログラムが三年前の姉さんに負けるはずはありません」
「……ま、まあいいや。気をつけろ」
「はい。無線を捕まえました。お気をつけてマスター。――没入開始します」

 跪いたまま、チャムの瞳から光が消えた。ネットワーク空間への介入能力をチャム始め茶々丸のボディはアーティファクトなしで所持している。千雨、チャム、七部衆。その全てが揃って初めて情報のウォーロックと呼ばれる存在に到達するが、チャム一人がそれに当たっても常人では為しえないレベルの処理が可能だ。
 千雨はチャムがネットに入ったのを確認して、口元に笑みを忍ばせた。

「八つ当たり……まあ、あっちも八つ当たりだったんだし。神楽坂にはあとで謝りゃいいだろ。
 ハァ。
 横槍入れるとかあいつブチ切れるだろなあ。先生も……嫌がるだろうし。
 それに葉加瀬。悪いけどがんばるって、ちょっと語感が趣味にあわねえや。悪いけど――」

 少したりとも本心でないことを口ずさんで、ただの照れ隠しであることを確認しながら、千雨は。

「コード77948522」



◆◆◆



「今日はよくやったよボーヤ。一人で来たのは無謀だったがな……」
「う……いや……」

 実際、エヴァンジェリンが思った以上にネギは使えたし、やれた。広域結界の端に追い込んでの捕縛。そしてその瞬間に最大火力での追撃。その火力の強さを鑑みればエヴァンジェリンですら危険。茶々丸が控え、ネギの攻撃を逸らし結界を解除しなければ負けはせずともダメージを食らったのは間違いないだろう。
 見ようによっては苛烈で卑劣。しかしエヴァンジェリンはそれに満足していた。どこかで監視しているだろう――そしてエヴァンジェリンが全力を出していることに慌てているだろう近衛近右衛門も満足したはず。人格を求められるが、戦闘においては冷酷さを求められるのが立派な魔法使いという奴だ。

 立派な魔法使い――。
 魔法使いの子供は、皆立派な魔法使いになりたいと言い出す。それはある種の宗教と同じ倫理教育と同じで、そこには絶対に至れないが望まずにはいられないといった類のものだ。
 極限的に、100%の子供は立派な魔法使いになれない。立派な魔法使いとは魔法使いの規範である以上に、英雄であり極端に強力な戦闘力を持つ魔法使いであるからだ。一人で一軍に比する武力を持ち、英雄譚の持ち主。端的に言えば、それは西洋魔法使いである必要性すらない。ジャック・ラカンや近衛詠春など魔法使いでない立派な魔法使いも存在する。必要なのは、戦闘能力とそれを裏付ける人間性。そしてストーリー。立派な魔法使いとは、実際にはそういう類のものであった。
 一般に、実際に立派な魔法使いに会うと立派な魔法使いは違う、と言われる。才能の有無ではない。ネギや近衛木乃香のように生まれたときから立派な魔法使いになるのが確定している人間もいれば、高畑・T・タカミチのように天才に恵まれないながら周囲に引っ張られそこに到達した人間もいる。麻帆良学園都市においては、他に二人。近衛近右衛門とエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルがその領域にある。

 エヴァンジェリンとしては、ネギに立派な魔法使いになることをそれほど望んでいない。だがそれ以外の道がないことも知っていた。国も組織も立派な魔法使いを一人でも多く求める。その枠に囚われたネギがそれを外れる方法はあまりない。どちらにせよ、順調に成長している。

(やはり、あいつの影響か)

 長谷川千雨。
 超と葉加瀬は長谷川千雨ではないと言っていたが、エヴァンジェリンから見ればどう見ても長谷川千雨のままだ。そうでないように偽装していたつもりなのだろうが、所詮は子供の浅知恵。エヴァンジェリンや学園長が見れば一発で看破できた。厳密には長谷川千雨だ。だが長谷川千雨でないと言い張る気持ちもわかるのだが。
 学園長が偉そうに胸を張ってエヴァンジェリンに見せ付けた長谷川千雨とネギの会話の記録を思い出す。エヴァンジェリンから見れば色々と足りない小娘に過ぎないが、建前と偉ぶった態度だけは大したものだ。そしてエヴァンジェリンから見ればそれだけでも十分評価に値した。二三弄くり回せばいいプライドを持った悪になるだろう。

(できるなら、ボーヤと徹底的にぶつけてみたいものだ)

 が、面倒くさいのでしない。もし巡り巡ってそういう機会があれば楽しいだろうという程度でしかない。

「マスター!」

 思案をそこそこで切り上げ、歯をネギの首筋に向けたその時冷静な茶々丸の切り裂くような声にエヴァンジェリンは緩慢に顔を上げた。

「なんだ」
「電気系メンテナンスを統括しているマザーがハッキングを受けています。これは……メンテナンス工程を省略して、復旧までの時間を短縮させようとしているようです」
「……よく解らんが、ジジィが動いたか?」
「いえ。第三者のようです。このままいくと、すぐにでも結界が復旧しかねませんが、どうしますか」
「どうにかできるか、茶々丸」
「はい。いえ……既に省略された分はどうしようもありませんが、復旧を最大限に遅らせることはできます」
「よし、やれ。こっちは私一人で十分だ」

 すぐさま電脳空間に没入した茶々丸を他所に、エヴァンジェリンは自分の中の勘に笑いを堪えた。
 長谷川千雨だ。
 あのままなら何もできずに終わっていただろうし、望むならエヴァンジェリン直々に終焉を齎してやることも考えたが、(吹っ切ったか、壁を越えたか、或いは堕ちたか。まあ、いい。あのままよりはどれだろうがずっとマシだ)

「コラーーッ! 待ちなさいーーっ!」
「フン、来たか。神楽坂明日菜」

 次から次へと。エヴァンジェリンは駆け寄ってきた明日菜に向けて、ネギを蹴り飛ばした。勢いを殺し、明日菜はネギを抱きとめる。
 その瞬間、そちらを見ることすらなくエヴァンジェリンは迫った魔法の射手・雷を片手で握りつぶした。一瞬、明日菜とネギがその轟音に驚いて動きを止める。

「ふん……ロングレンジの貫通弾。スナイパーか……いや!」

 間髪いれず、次の魔法の射手がエヴァンジェリンに襲い掛かった。今度は手どころか障壁の展開すら間に合わず、エヴァンジェリンの肩に直撃した。エヴァンジェリンは軽く肩を振り払うだけだったが、目を丸くする。

「早い……何だこれは!? 早い魔法の射手だと!? 莫迦なものを……」

 一瞬で脳裏に魔法を解析する。ただ早いだけの魔法の射手。それは弾速を極端に高めただけで、速度に威力を負わない魔法においては何の意味もないだろう。むしろそんなものを研究開発したことが驚きだ。早いだけの魔法など他にあったし、そんなものよりも威力を高めた方が遥かに有用だ。

「フハ」

 だが、無駄は無駄だけにエヴァンジェリンの想像を超えている。エヴァンジェリンは魔法の射手の狙撃点を睨むと共に、ネギと明日菜を手の動きだけで牽制した。

「フハハハハハハハ! いいだろう、まとめてかかって来い! その驕り、完膚なきまでに打ち砕いてくれる!」



◆◆◆



 やはり、飛ぶのは好きだ。
 風が好きだし、身を切るような寒さも好きだ。少々頽廃的だが、気を抜けば命を落とすという状況も悪くない。千雨は白い大きな菱形を背中に三対展開していた。杖があればそれを使った方がいいし、こういうオプションなしでの飛行魔法も存在するが、それは総じて維持が難しい。この羽は傍から見ると激しく恥ずかしいが、大きな魔力と引き換えにある程度の制御を自働してくれる優れた魔法だった。

「んー、んっ」

 文字通り羽を伸ばし、千雨は冷たい空気を口一杯吸い込んで熱い息に変えて吐き出した。現金なもので、胸の中のもやもやが一層されているのがわかった。
 開き直りだが。
 開き直らなきゃいけなかったのだろう。そうしてしまえば胸はすっとする。
 やりたいことがある。
 やらなければいけないことがある。
 やりたくないことも……勿論ある。
 だが、何よりまず。とりあえず。

「悪は――幸福ではならない」

 不文律。それをエヴァンジェリンはシステムと呼んだ。システムに抗うと考える千雨をただの愚か者だとも言った。
 確かにそうだ。笑いながら他人の子供を殺した男が、自分の子供とキャッチボールしながらニコニコ笑ってたら誰だって蹴りをいれたくなる。悪の定義がどうとか、幸福の定義がどうとかではない。それは自然なことのはずだ。

「けどな。一個ルールを越えたんだぜ、私は。ならもう一個くらい許してもらう」

 エヴァンジェリンも、葉加瀬も。それに超も。
 悪だが。幸せを選ばないことを決めているが。なら私が。

「ぶん殴ってでも、幸せに引きずり込んでやる。一人残らず……3-A全員、悪でもなんでも一人残らずだ」

 私はいい。自分からそれを選ばないようにしよう。エヴァンジェリンに殺されたくはないから。だが、悪だからといって人が幸せであるように願うのが阻害される義理もない。

「悪いな。私は長谷川千雨なんだ。だから、我が侭にいかせてもらうぜ、エヴァンジェリン」

 ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル。なんとなくだが、どうせモニターしてるであろう超鈴音が初めて驚いたような気がした。

「歯ぁ、食い縛れ――魔法の射手(サギタ・マギカ)雷の一矢(フルグラティオー)」

 神速と呼ばれた魔法使いがいた。足が速かった。杖を抜くのも早かった。詠唱も早かった。物足りなかった神速は、かつての担任教師を頼り、一つの魔法を改良させた。ついに魔法すら早くなった。
 千雨の覚えている限り、神を冠したのは新世界の姫と並び、彼女くらいのものだ。ちなみに属していた教会勢力からは総すかんだったのだが。
 人に無理やり開発させておいて、自分専用と言いふらし、ついには代名詞とまでなった魔法。魔法の射手。

「瞬(アウケレレット)」

 マッハを超える規格外の魔法の射手が軌跡だけ残した。



◆◆◆



 エヴァンジェリン.A.K.マクダウェルは魔法使い流儀で言うと、「大砲」である。
 後衛(魔法使い)と中衛(魔法剣士)の差は近距離戦術を得ているかではない。魔法剣士が近寄るならば、魔法使いは遠ざかる技術が必要とされる。「魔女の鉄槌」以降極度に近代化され定型化された魔法戦闘技術はエヴァンジェリンなどの「立派な魔法使い」レベルの魔法使いを除けば専門化し、スナイパーはその中の一部門として確立している。
 龍宮真名。
 エヴァンジェリンのクラスメートのスナイパーであるが、用いる術理は魔法ではなく機械。しかしそれは単に弾丸を使うか魔法を使うかの差しかない。立派な魔法使いに至る技量の持ち主だからこそありとあらゆるレンジに対応できるが、元は小隊規模でのスナイパーとして育ったはずだった。

 スナイパーは、魔法世界においては一発必殺ではない。風潮として攻撃よりも防御の魔法の進化が促されてきたこの百年。一撃必殺の「大砲」は極一部の限られた才能にだけ許され、スナイパーはとにかくダメージを当てることであり、結界を砕くことであり、またスナイパーを見つけることがその全てであった。


「ちぃっ……!」

 オコジョフラ……まで言ったところでエヴァンジェリンは目の前を飛んだオコジョを手先で弾き飛ばし、魔法の射手の軌道に乗せた。あんぎゃああああ! と叫んでオコジョがどこかにすっ飛んでいく。
 慌てて殴りかかってきた明日菜の拳を掻い潜り、横目でネギの位置取りを確認しながら無詠唱でエヴァンジェリンは19矢の魔法の射手をばら撒くように放った。追尾能力の限界まで追わせれば、理屈の上では二三本がスナイパーに到達するはずだ。だが散るより前に、あの異常に早い魔法の射手がぶつかってきて、小爆発を起こす。それ一つにエヴァの一本分の威力すらないだろう。だが逸らし、追尾能力を失わせる程度のことはできていた。

「クっ! ……厄介な術者めっ!」

 それ一つには張りなおしたエヴァンジェリンの障壁を貫くほどの威力もない。だがそれから気を逸らせばすぐさま真祖にすらダメージを与える強力な魔法が飛んでくるのはわかっていた。無論、それとて真祖のバイタリティから見ればごく小さいもの。これが殺し合いだったなら無視して力づくで捻じ伏せたろうが、これはそういうものではなかった。
 エヴァンジェリンは本気になる気はないし、そうすればネギを含めて命が危険だ。そしてエヴァンジェリンに対して学園側の総攻撃が始まる。どうせこの場面を学園長はどこかでモニターしているのだろうし。
 ここは、エヴァは誰よりも遥かな上位にある存在として振舞うしかない。方法は任されたが、エヴァはネギの越えられない壁となれと言われていた。

「迎え撃て!(コンクラー・プーグネント)」
「氷爆(ニウィス・カースス)」

 壁のように地面からそり立った氷柱が中級精霊を遮り、中和しあう。エヴァンジェリンは軽い足取りで距離を取り、しつこく飛んできた魔法の射手を片手で握りつぶした。
 仕切りなおし――。明日菜が慌ててネギの傍に駆け寄り、肩で息するネギは毅然と杖を構えている。茶々丸はまだ戻ってきてはいない。膠着の入りかけ……打破するなら、このタイミングだろう。

「ん――? おいぼーや。貴様ら仮契約は結んでないのか?」

 ネギの顔が歪み、エヴァンジェリンはそういえばとさっき飛んで行ったオコジョを思い出した。見れば、よろよろとした足取りでオコジョが橋桁から戻ってきていた。時間を稼いで、そうするつもりではあったのか。

「成程な。……だとよ、どうする?」

 視線を向けた瞬間、遠くから魔力光が発された。だが先ほどの魔法の射手とは比べ物にならないほどゆっくりとした足取りの「雷の暴風」。貫通力を重視した構成にアレンジしてあるのだろうか、それはエヴァンジェリンの本気だったら容易く飲み干せたろう。
 ネギが明日菜の手を引いて、背を向けた。エヴァが歯を剥く。

「いいぞ……所詮貴様はその程度だが、その程度ができるなら十分評価に値するさ」

 時間稼ぎに利用されるだけ――。遠いところからスナイパーに徹する千雨にもそれくらいは解っているだろう。苦虫を噛み潰したような顔になっているかもしれない。だがその割り切り方に敬意を表し、エヴァンジェリンは避けることもかき消すこともしなかった。
 地に足を張り、片手を突き出す。その小さな突き出した手と、よく引き絞られた雷の暴風がぶつかった。
 エヴァンジェリンは哄笑した。思いのよく練られた一撃だ。数えるのもバカらしい数張った障壁の一枚が破れ、エヴァンジェリンは僅かに体を後ろにそらした。だがそれだけだった。光も音も止み、エヴァには千雨の呆然とした顔が簡単に脳裏に浮かんだ。

「フン……貴様の願いなどで、私の生き方を変えられると思うなよ」

 サギタ・マギカ。氷の一矢。密度も大きさも千雨とは比較にならない矢が、放たれた。迎撃の早い魔法の射手のことごとくを蹴散らし、手応え。吸血鬼の目で望遠すると、千雨は大学部の研究棟に激突し、その中の一室の中まで転げ入ったようだった。

「だが、それでも願うなら。私はいつまでもここにいる。いつでも掛かって来い」

 その子供染みた願いを鼻で笑い飛ばし、だが慈愛に満ちた表情で肩を竦め、
「リク・ラク ラ・ラック ライラック。氷の精霊1009柱。集い来りて、敵を切り裂け。魔法の射手、連弾、氷の1009矢」
 ただの一柱で千雨を圧倒するに足る氷の矢が無数にエヴァンジェリンの手元に集まった。

「だがこれはお仕置きだ。耐えろよ? 痛いぞ、前のなどよりずっと」

 放つ。光ファイバーのような青い光が、星空の下をパーッと走った。
 ネギと明日菜が、戻ってくる気配がした。エヴァンジェリンは言った。

「さあ、フィナーレだぼーや」



◆◆◆



「いってっ! っクソ、なんつー、バカ魔力してんだあの吸血鬼……」

 瓦礫から体を抜き、千雨は大穴の開いたどこかの研究室の壁から顔を外へ出した。辺りには瓦礫が散乱し、必死に張った障壁も一撃で大幅に削られている。

「あー、クソ……しまんねえなあ。結局、ぼろ負けかよ……」

 笑いたい気分だ。実際顔はにやけていた。八つ当たりにもならなかったが、どうもエヴァンジェリンはそれなりに本気の一撃を撃ってくれたようだった。今の一矢。多分エヴァンジェリンの本気を篭めた一撃だったろう。
 瓦礫を蹴っ飛ばし、千雨は自分の空けた大穴に手をかけ、街を俯瞰した。三階くらいだろうか。今の衝撃で上にいるはずの聡美になにもないといいが。
 まとめた髪が風で揺れる。口に入ってくる髪の毛を手で抑え、千雨は目を細める。

「……未来に戻るのは、後回しだな。もうちょい、がんばってみる」

「歯ぁ、食い縛ってさ」

 どうせ見てるんだろうけど、今のが超に聞かれたと思うとちょっと死にたくなるな。
 だが、まあ。
 千雨は踵を返した。チャムを迎えにいって、今日は帰ろう。ネギ先生も、悔しいが神楽坂と仮契約したみたいだし、なんとかなるだろう――。
 足が凍った。錆びた機械のようなテンポで、もう一度大穴の外を見る。
 凄まじい数の青い光が、流星のように迫ってきていた。

「ちょ、待っ」

 ゴン。
 最初の一本が千雨の額に直撃し、あえなく千雨の意識は閉ざされた。しかし、残る1008矢も少しの遠慮もなく千雨の体に降り注ぐこととなっていた。



◆◆◆



 千雨は、眠っていた。昔懐かしい麻帆良中等部三年の教室。ビデオを止めて、ぐいと葉加瀬は頬を拭った。塩辛い涙が袖を汚した。
 カシオペアは、融通が利かない。愚直なまでに時間だけを移動する。公転や自転だけは修正してくれるのが儲けものだが、しかし千雨の情報を移動させるならその時間に千雨の脳がそこにある必要があった。
 葉加瀬は、昔自分がいた席に戻った。三年ぶりに戻った。
 超がいた。四葉がいた。茶々丸がいて、みんながいた。目を瞑ればすぐにその光景は脳裏に浮かんできた。
 千雨にはまだ言っていないことがある。それを過去に聞くことがあれば、千雨は目的の大半を失うだろう。それを正直に言えば、過去になど千雨は行かなかっただろう。きっと辛い。なのに葉加瀬は千雨に羨望を感じた。

 きっと、楽しい日々だ。
 世界が間違っていることを知って、回りの人々が未来、不幸になることを知って。それでも楽しいだろう。
 何かの奇跡が起きて、千雨が、またそんな日々を作り上げられることを。
 葉加瀬は祈っている。



◆◆◆



 翌日。朝、麻帆良女子中等学園長室。晴天で気分のいい朝。ピチュピチュ小鳥の煩い部屋の中には、しかしどこかどんよりとした空気が篭っていた。
 朝一で呼び出された千雨の他、学園長と瀬流彦。それに千雨に随行してきたチャム。四人なのだが、学園長と瀬流彦は冷や汗を流し、千雨は目を細めて今にも噛み付きそうに学園長の頭頂部を睨んでいた。

「いや、昨日はご苦労じゃったの……大丈夫かの? 全身ミイラなんじゃが……」
「大丈夫です」
「おかげでエヴァンジェリンの暴走も最小限に食い止め……ほ、ホントに大丈夫? 正直、物凄い死に掛けているようにみえるんじゃが」
「大丈夫です」
「と、ところで例の選択じゃが……と、とりあえずちょっとそこに座ったらどうじゃ? 瀬流彦くん、医者をちょっと」
「だから、大丈夫だっつってんだろうがこのチンコ頭ジジィが! なんだその頭は?! スカルファック専門か!? オラ教育委員会に報告してやるから今まで何人のいたいけな中学生にその頭挿入してきたか言ってみやがれオラアアア!」
「ちょ! ピープ音ピープ音! P! 伏せて伏せて!」

 ガーと吼えた千雨であったが、近衛が心配するのも仕方ないと思うほどに全身包帯まみれであった。素肌が出ているのは顔くらいのもので、それにしても額と首には包帯が巻かれている。チャムが甲斐甲斐しく今にも飛び掛りそうな千雨を後ろから抱きかかえているが、本当はそんなに動けるような怪我でもなかった。
 昨夜、エヴァンジェリンは容赦がなかった。1009矢の魔法の射手が好き放題千雨の体を叩きまわり、生命活動に支障をきたすことも後遺症が残ることも傷さえ残らないという神業ながら痛みは全身を駆け巡り、一夜明けたところでようやく千雨は目を覚ましたのだが、少し筋肉を動かすだけで悶絶モノの痛みが走るのに悶絶すればさらに痛みが走るという悪循環に陥ったほどだった。
 結局チャムが全身を包帯で固定し、ようやく痛みはマシになったのだが、それでも動けば痛い。それどころか喋ってるだけで痛いのに呼び出されたせいで痛みは増し、それと共に近衛に対する怒りも絶賛増量中であった。

「……すいません。取り乱しました。痛いんで用件は早く」
「う、うむ。ではまずそちらのお嬢さんのことじゃが」
「生徒のみなさーん! ここに中学生の部屋を盗撮してる変態ジジイがいますよー!」
「わかった! わかったわい! もう仕掛けんから!」

 因みに千雨の部屋に設置された監視機器は昨晩のうちにチャムが処理していた。もうとっくに千雨が只者でないことはバレているので、早々に撤去されることとなり。

「あのー……カメラと盗聴器は返却してくれると嬉しいんじゃが……その、高くての。わかるかの?」

 千雨はにっこりと笑った。
「……」
 笑っただけだった。

「……ま、まあよい。本題に入ろう。例の選択肢じゃが」
「選べるわけねーだろ」
「ほう」
 おちゃらけた雰囲気を一掃して、近衛は笑った。
「意味がわかっとるのかの?」
「敵対する気もないさ」
「内側に入ると?」
「昨日、停電の復旧をチャムに早めさせた。だが、面白い仕掛けを見つけたぜ? 最後の十分の間は、いつ何時でも誰かによって復旧のタイミングを決められる仕掛け。……もちろん、私の従者は優秀だから徹底的にぶっ壊したがな?」
「それを以って君の有用性の証明とするとでも?」
「少なくともネットワークに関しちゃあんたらの誰よりも優秀な自身がある。なあ、雇ってみないか学園長? 今のクラスにいさせてくれればいい。何なら魔法を封じても構わない。安い買い物だろ?」
「……ほう。何が君をそこまで駆り立てるのかの?」
「義理と人情ってところだな」
「フーテンの寅さんみたいな女の子じゃのう」
「うるせえよ! 例えがワリーんだよ!」

 近衛はいくらか時間を思案に当てた。だが千雨には勝算があった。
 京都への修学旅行。近衛木乃香という原石が原石のまま西に行くということには、危険が伴う。身辺警護なら刹那がいる。しかし政治的に周囲から埋め立てられた時刹那にできることはない。それを担当する人間が一人は必要だ。それを担うのはこの場にもいる瀬流彦。
 しかし甘い判断に擦り寄ることしかできず、まだ若い瀬流彦には荷が重いだろう。何せ少し前と違い、千雨によって他の組織の介入がありうるような状況にあるからだ。そしてそれを意図的に招いたことを近衛は気づいている。
 マッチポンプ。だがこの旅行は長期的に計画を練られたものだろう。ここでもう一人無理やり魔法先生をねじ込むのがどれだけ難しいか。
 そこで、千雨。元から行くことになっていた生徒の一人が瀬流彦の補佐につけば。況や千雨には瀬流彦にできない判断をできる自覚もあった。
 千雨を、選ばざるを得ない。

「そうじゃのう。……いくつかの誓約書を書いてもらうが、そうするかの」

 千雨は瀬流彦に目をやった。動揺一つしないところを見ると、予めの打ち合わせ通りといったところだろう。

「しかし、野放しにするわけにもいかん。そこで瀬流彦くん」
「はい」
「彼を君の監視役とする。細かいところは若いモン同士に任せるとして、一日一回の報告義務を怠らんことじゃ」
「わかりました」

 糸目の若い教師が、丁寧に千雨に会釈した。千雨はそれをスルーしたが、代わりに背後のチャムがお辞儀した。自動で報告書を作るプログラムを早速組むことにしよう。

「それに、もう一つ。正式に採用するかは、働き次第じゃ。まずは、今度の京都への修学旅行。そこで、君の担任、ネギくんに与えた仕事の補佐を見事こなしてみせい」
「……詳細は聞けるんでしょうね」
「うむ。追って連絡しよう」
「了解」

 千雨は、油を差し忘れたブリキのおもちゃのような挙動で近衛に手を差し出した。近衛が首を小さく傾げる。ぜんぜん可愛くないのでやめてほしい。

「……握手?」
「支度金」
「君、がめついって言われたことは?」
「あんまり。三日に一度くらいじゃないか」
「それ一杯言われとるよ!?」


「それで、いくら入ってたんですか?」
「100万。……大盤振る舞いだな」
「京都での活動費も込みでは?」
「そっちはなくなったら瀬流彦センセにタカればいいだろ」

 それはどうなんだろうと首を傾げるチャムに大金の入った封筒を丸ごと投げて、千雨はコーヒーカップに口をつけた。どういう理屈だ。喉を通る時まで体が痛いぞ。

「まずは、ミニノートとデスクトップを組んでくれ。まほネットから取り寄せて……いやこっちの店に行った方が早いか?」
「紹介もされてないうちに行っても相手にしてもらえないかと」

 魔法世界のコンピューターは旧世界のものとはそもそも根本的に異なる。何より特徴的なのがインプッターで、慣れた人間はキーボードを使わず魔力で入力できる。これを更に習熟するとキーボードを叩くより早く正確な入力が可能となり、千雨も今更ブラインドタッチに戻る気もなかった。
 尤も、代わりに根本的な性能は旧世界のものの方が優れているのだが。

「あと杖も一つ。アンティークの指輪がいいが、それは無理だろうから普通のタクトでいい。それと魔法薬もセットで必要なのピックアップしてくれ。ついでに火薬式の拳銃も欲しいな。いや、これは無理か。魔力式でもいいや」
「流石にお金が足りないと思いますが」
「ああ。金蔓をどっかで捕まえなきゃ拙いな」
「そういう問題でしょうか」
「修学旅行までに間に合うか?」
「ギリギリです。いくつかは無理でしょう」

 やれやれと千雨は溜息をつきかけ、痛みを感じ慌てて息を飲み込んだ。
 結局、治療に行くという名目でエスケープして、二人は学校から程近いところにあるオープンカフェにおさまっていた。学園長は流石に医者を手配するとは言ったのだが、謹んで辞退した。この痛みはエヴァンジェリンのイジめだけではない。呪紋刻印の酷使が影響していることに自覚していた。それを学園に口出しされるのは嫌だった。
 それでも脳内麻薬がドバドバ出ているせいか痛みは引きそうな気配があった。部位を固定していた膝や肘、手首などの包帯は既に緩めている。痛いが、痛みだけなら我慢しがいがある。

「妙なところで会うな、長谷川千雨」
「あ?」
 首を捻ろうとして回らず、仕方なしに千雨は全身で方向を変えた。笑い顔。
「よお、エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル」
 魔王が、従者と共にそこに立っていた。

 お互い、よく似た従者を背後に侍らせて、向かい合って座る。千雨はにやにやと笑った。

「負けたらしいな、エヴァンジェリン」
「ふん……貴様が余計なことをしなければ私の勝ちだったさ」
「いやあれはあんたの勝手だろう」

 昨夜、千雨がエヴァンジェリンを消耗させたとしたら、それは最後の魔法の射手の大盤振る舞いに他ならない。1009矢の量はかのエヴァンジェリンをもってしても尋常な量ではないだろう。次に茶々丸を拘束したこと。最後にネギと明日菜の仮契約の時間を稼いだこと。
 実際、千雨がしたことなどそんなものだった。

「で、どうだよ? 600歳下のガキに負ける気持ち。いやー、私まだ14だからなー。生後二ヶ月の赤ん坊に負ける感じか? 想像もできないが、死にたくなるだろうなー」
「よし、ここで貴様を殺してやろう」
「待てっ! 冗談だよバカ! 目赤くすんなよ!」
「貴様の冗談はくだらん!」

 鼻を鳴らして、エヴァンジェリンはティーカップに手をつけた。苦々しく顔をゆがめて、千雨はコーヒーを一気に呷った。喉が焼けるような熱さで流れ込んでいく。

「チャム、帰るぞ。修学旅行の準備がある」
「はい、マスター」

 立ち上がった千雨に、エヴァンジェリンは視線を向けなかった。代わりに茶々丸が千雨とチャムに深々とお辞儀した。

「ではまた、お姉さま」
「はい。またお会いしましょう、お姉さま」

 千雨は顔を引きつらせてチャムと茶々丸を交互に見たが、一度溜息。痛みに苦悶しながらチャムに体を支えられ、エヴァンジェリンに背を向けた。だが足は進まなかった。今度はエヴァンジェリンが物憂げに溜息をつく。

「……いつでも来い」
「……」
「打ち砕かれたかったらな」
「次は、ニンニクを山ほど用意しておく」
「そうしろ」

 どたどたと騒がしい足音に千雨もエヴァンジェリンも視線を向ける。ネギと明日菜が駆け寄ってきていた。千雨は構わずその横を通り過ぎようとして、

「長谷川さん!」

 千雨はそっとネギの唇を指先でつっ突いた。

「大したことねーよ。あと、神楽坂に八つ当たりして悪かったって謝っといてくれ」

 すぐ目の前にいる明日菜が変な顔をして、少しだけ千雨は微笑むとチャムと連れ立って歩き出した。



 桜通り。変わらず散り始めた桜の雨。一片が風の抵抗を受け、容易く地面を捕まえることもなくじっと空中に浮かんでいる。風が強い。腕が上がらない千雨の代わりに、チャムが舞い上がりそうになった千雨の髪を押さえた。
 暖かい、柔らかい麻帆良の風。それは刹那的で、どこまでも美しく、千雨の好みだった。
 全ての目的がなくなっても、これだけでも守る価値はあるとさえ思った。

 前から、ロングコートを纏ったお団子二つの女が顔を伏せながら歩いてきた。口元には僅かな笑みが浮かんでいる。千雨は呼応するように無理やり微笑んだ。視線は交わされない。クラスメートだが碌に話したこともないのだし。それは最後まで。
 お互い、互いに気づかないようにすれ違って。

「制服が似合ってないヨ、年増」
「その余裕、面の皮ごと引っぺがしてやるよ火星ダコ」

 そのまま、振り返ることもなかった。
 体の違和感は、もうない。



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長くなったから二つに分割しました!
多分、次回は幕間


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