※原作とはだいぶ雰囲気が違うので、ご注意下さい。
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「拝啓 時下ますますご清祥の程お喜び申し上げます。
さて、過日は弊社採用試験にお越しいただきありがとうございました。
弊社にて慎重に審議した結果、まことに残念ながら今回は採用を見合わせたいと存じます。貴意に添えなくなりましたが、何卒ご了承下しますようお願い申し上げます。
末筆ながら、今後の健闘を心からお祈り申し上げます。」
阿良々木暦は飽きるほど読んだ文面にもう一度目を通した。何度読んでも同じだった。不採用。これで何度目の不採用だろう。数えようとして止めた。苦い味が口の中に広がっていくのを感じたからだ。
こみ上げてくる嘔吐感は錯覚に過ぎない。胃の中に吐くものは何もなかった。
ベッドに横たわったまま、携帯を取り出して時間を確かめる。既に昼に近い。大学では既に二限の授業が終わろうとしている時間だった。
目の前の画面がメールの受信を告げるものへと変わり、そして震えた。暦はのろのろと指を動かしてメールを確認する。暦の受け取るメールは種類が限られている。一番多いのは迷惑メールで、あとは家族か口うるさい恋人と友人からのものが多数を占める。
「阿良々木君、一体どこにいるの? 次の授業は必修だし、代返にも限界あるんだから、近くにいるならとっとと来なさい」
文面に目を走らせて、暦は額に皺を寄せた。携帯の電源スイッチに指を伸ばして、電源を切った。このまま放置すれば、彼女はそれを放置しない。そのことを暦は過去の経験から推測できた。電話を無視するのも、彼女とやり取りをするのも暦の神経を疲労させる。彼女のつり上がった目と高い声が脳裏に蘇る。自分を責める視線と声色だった。
「そんなんじゃ、阿良々木君、卒業も危なくなってしまうのよ。授業にきちんと出席して、試験を受けて、単位を取る。なんで、それだけのことができないのかしら?」
彼女の論理に暦は答える言葉を持たない。彼女の言葉には正しい論理があるからだ。それくらいのことは暦にもわかっている。しかし、今、暦が欲しているのは論理でも正しさでもなかった。
彼は渋面を深くすると、携帯を脇に置いた。
高校を卒業して入った大学は暦の能力に適合していなかった。美しい恋人と優しい友人に励まされて頑張ることができたのは最初の一年だけだった。二年目には欠席の数が増え、三年目には必修の単位を落とした。四年目の今、暦はBとCの目立つ成績表を片手に就職活動にいそしんでいる。自分という存在が社会には求められていないことを口頭と書面で告げられては自室に舞い戻る。それを延々繰り返しているうちに、大学に行くことを忘れた。あるいは人はそれを逃避と呼ぶかもしれない。そのことを暦は自覚している。しかし、それ以外の選択肢を彼は思いつくことができなかったのだ。
不規則に眠り、不規則に食べる。身体は次第に時間を忘れ、睡眠は不快なものとなった。疲労感と倦怠感が寝ても拭えないものとなり、常態化する。吸い始めた当初は、彼女に罵倒され、罪悪感のあった煙草も今では手放せないものとなってしまった。紫煙が立ち上り、臭いの染みついた部屋に妹たちは近づかなくなった。彼女たちは言う、「兄ちゃんの部屋、なんだか腐った臭いがするんだもん」と。暦は、それを聞いたときに声を出して笑った。的を射ていると思ったのだ。ここでは人間が一人腐りつつある。それは暦の偽らざる実感だった。
暦は、手の中の紙を握りつぶして、灰皿の中に置いた。口元のタバコを近づけて燃やした。紙は炎の中で踊り、燃え尽きていく。赤々とした炎に目を奪われる。紙片が次第に灰と化していく様を暦はじっと眺めていた。立ち上る一筋の煙は、幼いときに参列した葬式を思い起こさせた。鼻をつく臭いに一種の恍惚を覚える。それはモノが死んでいく臭いだった。
今の自分に似ている。そう思ったのだ。
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「どう阿良々木君とはうまくいってる?」
羽川翼の問いに戦場ヶ原ひたぎは答えなかった。少し目の端が動いたところを見ると、聞こえてはいるようだった。ひたぎは黙々とスプーンを動かして食事を取っている。
ひたぎの所作には無駄がなく、品があった。美人は食事をするのも様になるのだな、と翼は改めて感心する。
再び二人の間を沈黙が包み込んだ。大学の食堂は、昼食中の学生でごった返している。あたりは騒々しいまでのお喋りと無機質な食器の音でうるさいくらいだった。その騒々しさが沈黙を一層際だたせる。落ち着かない気持ちで、翼はあらぬ方向へと視線を投げた。
久しぶりに友人と顔を会わせて、それが昼食時であれば、昼食に誘うのが礼儀だろう。翼はそんな風に思って、ひたぎに声をかけたのだ。しかし、トレイを持って、食堂の端に腰を押しつけてから、ひたぎは何も話していない。翼の問いかけに、気のない返事を返すだけ。友人の相変わらずの社交性のなさに翼は苦笑で対処した。
そしてふと思いついた質問だった。それは単に沈黙を埋めるためだけのもので、他意はない。失恋も既に昔のことだった。それは既に思い出と呼ぶにふさわしいものとなっている。彼女の中で、暦との一件は、ある種の装飾とともに然るべき場所に仕舞われていた。時折取り出して、感傷に浸る以外に今では使い道はない代物だ。
だから、その問いに意味はない。答えは何でも良かった。翼は、とかく黙りがちになる友人から、恋人の話題を振ることで何とか会話の糸口を探りだそうとしたに過ぎない。
だから、驚いた。翼は、大して意味のない答えを求めていたのだ。問いに意味もなかったのだから、答えに意味は求められていない。意味があったのは、会話という行為自体のはずだった。
「壊れてしまいそうだわ」
と戦場ヶ原ひたぎは答えたのだ。
彼女の表情に変化はない。翼を見たのは一瞬。その一瞬だけ、彼女の瞳が揺れた。
「え……何が?」
「……私たちの関係。いや、正確には、阿良々木君それ自体かしらね」
ひたぎはそう言って、翼を見た。まっすぐと翼に視線を投げてくる。
「ど、どういうこと?」
「羽川さんは不思議に思ったことはないかしら……阿良々木暦という人間は、なぜあれほどまでにお人好しなのか。底抜けのお人好し、誰にでも優しくて、困った人がいれば、自分の命構わず、吸血鬼でも怪異でも助けてしまう……でも、それは言い換えれば、自分に対する評価がゼロということだわ。阿良々木暦は阿良々木暦という存在を肯定していないのよ」
ひたぎはそう言って、口を噤んだ。食事を終えたスプーンを皿に置く。スプーンは陶器に当たって、乾いた音を立てた。
ひたぎの視線は翼に問いかけている。思い当たることがあるでしょう、羽川さん?
翼はひたぎの視線にたじろいだ。ひたぎの指摘の正しさを知っていたからだ。阿良々木暦には、動物としての本能が欠けている。彼は自己の生存を重要視していない。ゆえに翼は彼の行動を人道主義だとは考えていなかった。分類して名称を与えるとすれば、半ば自殺衝動に近い。自身の存在をかけらも肯定していないからこそ、彼は他人を助けられるのだ。だから、彼は助ける相手も選ばない。誰を助けるのかは問題とならない。たとえ吸血鬼であっても怪異であっても怪異に取り憑かれた知り合いであっても、阿良々木暦よりは生きるべき存在。彼はいささかの躊躇いも逡巡も迷いもなく、そうした結論を下す。そのことを翼はまさに身体をもって体験している。
「そんな阿良々木君も大学に来て、私みたいなかわいい恋人とハッピーなキャンパスライフをアホみたいにエンジョイすれば、少しは考え方も上向きになるんじゃないかと思っていたんだけれど……」
甘かったみたいね。そう言ってひたぎは立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待って、戦場ヶ原さん。それって……」
「阿良々木君は、相変わらずの『死にたがり』だわ。三年経っても、何も変わっていない。むしろ、最近はもっとひどくなってる。どういうきっかけでどうなってしまうか、私にもわからない。時々変なことを考えてしまうのよ。阿良々木君は自分の命に価値を置いていない。でも、それって命それ自体には価値を置いていないってことでしょ。阿良々木君は、自分の命を何のためらいもなく切り捨てることができてしまう。でも、私はそれをいいことだとは思えない。だって、それは他人の命を同様に扱う危険性をはらんではいないかしら。阿良々木君にとって、人間の命はどんな風に見えているのでしょうね。阿良々木君は極端すぎる。極端なプラスは、極端なマイナスに通じるんじゃないか。そんなことを考えてしまうのよ……もっとも、この場合は何がプラスで何がマイナスなのか、微妙だけれど」
翼は答える言葉を持たなかった。今、ひたぎが暦について述べたことは多かれ少なかれ彼女自身にも当てはまることだった。彼女もまた自身の存在に価値を置いていない。だから、ためらいなく投げ出してしまう。そして、そこには一種の危険が潜んでいることも自覚していた。そうした行動の裏には、恍惚感と自己陶酔がある。自分の命を投げ出すことによって、自分の命に価値を見いだすという矛盾。自己を投棄するという手段さえ果たすことができれば、動機や目的は何でもよいのだ。他人を助けることにつながったとしても、それは偶然の産物に過ぎない。たとえ結果が逆になったとしても、自分は大して気にしないのではないだろうか。そんな風に翼は時々思う。
阿良々木君もそうなの?
「でも、阿良々木君は、『そんなこと』はしないと思う」
既に去ろうとしているひたぎの背に声を投げかけた。半ば自分に対するつぶやきでもあった。
「私もそう願っているわ」
彼女の声には思いがこもっていた。翼はそこにわずかの嫉妬を感じる。化石となった感傷をわずかにくすぐられる。阿良々木君をよろしくね、と言いかけてやめてしまった。
一人になった翼の耳を捉えた会話があった。ひたぎが去った後、横に座った男女のやり取りだった。男が女に言う。それはたわいない大学生同士の噂話。うわついた口調だった。言っている当人さえ、それを信じていないことは明らかだった。目の前の女性を怖がらせて、一時の感興を得ようというだけの話題に過ぎない。
しかし、そこには聞き逃すことのできない単語があった。
その単語を聞いたとき、翼は胸を貫かれたように感じた。突然、闇の中から躍り出た手に心臓を鷲づかみにされたかのようだった。
「なあなあ知ってる、最近さ、街で『吸血鬼』が出るらしいぜ」