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暦に別れを告げてから、神原駿河は一度だけ男と付き合ったことがある。
寂しくなかったといえば嘘になる。
自分で決意をして、暦に別れを告げた。だが、失ってみて、駿河は暦をいっそういとおしく思ったのだった。
「阿良々木先輩、私たちはもう会わないほうがいいと思うのだ」
確かに、そう思った。
暦への思いは、きっと自分を溶かしてしまう。その確信に変わりはなかった。
しかし、卒業式が終わって、三年生になったとき、駿河は愕然とした。
学校のどこを探しても暦がいない。そんな当たり前の事実を確認して、全身が震えた。
「ああ、さよなら、神原」
暦の最後の言葉を駿河は何度も頭の中で繰り返し再生した。駿河の視線をまっすぐに受け止めて、寂しげに睫毛を伏せながら、暦は別れを告げた。彼女は、その意味をゆっくりと頭と心に浸透させた。
――そうか、私はもう阿良々木先輩に会えないのか。
自分で言い出しておきながら、その意味を本当にはわかってはいなかった。そんな自分がおかしくて、四月の最初の登校日、駿河は声を出して笑った。
毎朝、登校するとき、駿河の目は暦を探して動いた。昼休み、購買に連なる廊下を歩きながら、駿河が探すのは暦の後ろ姿だった。放課後になると、無駄とわかりながらも、屋上から手当たり次第に歩き回らずにはいられなかった。
そうして、駿河は数週間を過ごした。やがて、ついに別れを理解した。
それは明確な痛みを伴なう認識だった。
いなくなって、暦はなお駿河の心を惑わせた。その度合いは、会っていたときよりも激しいものだった。壊れた機械のように、駿河の心は暦の声と表情を繰り返し繰り返し再生するのだった。
目を開けたくない。それが当時の駿河の痛切な願いだった。
目を閉じれば、暦の顔と声を思い浮かべることができる。そして、その存在は少なくとも駿河にとっては肌で感じられるのだ。
瞼を開けたときに五感で感じる物理世界を駿河は憎んだ。そこでは暦と会うことができないからだ。夜、訪れる夢は最も甘美な一時と化した。そこでは暦は以前とかわりなく、駿河と話し、笑い、そして戯れる。
駿河は、次第に日中に微睡むことが多くなった。昼と夜の区別が怪しくなり、友人と会話するときにさえ、放心することもあった。
そんな駿河の様子を見かねたのか、ある日、友人が言った。
「ねえ、駿河に紹介して欲しいっていう男の子がいるんだけど、ちょっと試しに会ってみない? 気晴らしにいいと思うんだ……ほら、駿河って、一途過ぎるから」
友人は、あいまいな笑みを浮かべながら駿河に言った。言下に断りを入れようとして、駿河はふと思ったのだった。
ひょっとしたら、暦を忘れることができるかもしれない、と。
駿河のファンだったと最初に自己紹介した、その男との付き合いは平板なものだった。
男と付き合うのは初めてのことだったが、平均的な付き合いだったと思う。最初は駅のファーストフードで食事をし、やがてともに遊ぶようになった。登下校をともにするようになり、時にはカラオケに興じて夜を過ごすこともあった。
我を忘れるほど楽しいわけでもないが、時間を潰すには都合がいい。男と過ごす間、駿河は暦のことを考えずにすんだ。その意味で、自分は男を利用していた。今となっては、駿河は、男に対して、申し訳なく思っている。男は、目に喜びを宿らせて、駿河との時間を楽しんでいたからだ。男が率直に嬉しさを表すとき、駿河の胸は罪悪感に痛んだ。
男の呼び方が神原さんから駿河さん、そして駿河へと変わった頃、季節は夏を迎えていた。
「なあ、一緒に花火でも見に行かないか? 浴衣でも着てさ」
男の誘いに頷いて、駿河は祖母に頼んで久しぶりに浴衣を着た。
会ったときから、男の様子はどこか浮ついていた。変に浮かれている。目に嬉しさとともに興奮の色があった。
「すげえきれいだ……駿河と一緒に花火に来られて、すげえ嬉しい」
男が感嘆の溜息をついたとき、駿河は反応に困った。男の気持ちに対応するものが、胸のどこを探しても見当たらなかったからだ。男といても、心は何も動かない。単に時間を潰しているだけ。kill time。 駿河にとっての男の価値はそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
「夜遅いからさ、駿河の家まで送っていくよ」
花火が終わって、人混みをわけて電車に乗り込み、家路をたどるとき、二人は無言になった。しかし、理由が違った。男の沈黙には、込められた意味があった。対して、駿河の沈黙は、目の前の存在に何ら語りかける言葉を持たないためのものだ。沈黙に意味はなく、それは無と呼ぶにふさわしい。
家にたどり着く寸前、無言のまま、男は駿河の体を抱きしめた。駿河はそれを予期していたが、抵抗しなかった。自分には応える義務があると思ったのだ。数カ月の間、男は駿河に尽くした。彼は自分の時間を駿河のために費やし、あらゆる形で駿河に好意を訴えた。そして、自分はそれを拒絶しなかった。そう頭で考えて、駿河は男の背に手を回した。
背に感じる男の手の力が強まった。男の身体が密着し、強く押し付けられる。一枚の薄い布越しに男の身体を生暖かく感じた。男が強く興奮しているのがわかった。
駿河の頭の中を去来するものがあった。
それが何か、駿河にはすぐにわかった。自分はそれを忘れなければならない。そう自分で決めた。それは自分には手に入らない、手に入れてはいけないものだ。そして、自分を狂わせる存在。自ら別れを告げた。
そのとき、駿河は、頭の中に浮かぶ像に気を取られていた。
男の手がおとがいに伸びて、あ、と思う間もなく、次の瞬間には唇を奪われていた。
驚いて目を見開く駿河の視界に、震える男の睫毛が飛び込んできた。目を閉じて、一心に男は自分を受け入れて欲しいと訴えていた。一瞬、その有様にいじらしさを感じた。
だが、押し付けられた男の唇に駿河が連想したのは、這い回る蛞蝓だった。気持ち悪さに顔が歪んだ。いつの間にか、力を込めて、男の身体を突き放していた。
「……ごめん。でも、俺、本当に駿河のこと、好きだからさ」
闇の向こうで、男が呟いた。
「うん、私も好きだよ」
義務感から、そして、そう言うのが最も迅速に男から離れる術だと直感的に悟って、駿河は男の好意を肯定した。
罪悪感に胸が疼いた。また、好きでもない相手に好きだといえる。そんな事実に駿河は単純に驚いた。
その日以降、駿河は男との連絡を絶った。
なぜ、そんなことを今になって思い出しているのだろう。
駿河は自室で自嘲する。
おそらく、これから自分がする行為の意味を再確認するためだと彼女は思う。
それを自分は確実に成し遂げなければならない。ためらうことは許されない。迅速にことを終える必要がある。そのためには、改めて決意を固めなければならない。
――私は阿良々木先輩が好きだ。
そう言い切るのに、駿河にためらいや迷いはない。素直にそう思えるのだった。あえて言葉に装飾を施して気持ちを偽る必要もなかった。そのことを駿河はとても嬉しく感じる。暦と交わした行為の一つ一つの甘美さは純粋で強く駿河の胸をうつ。喜びを分かち合う。交歓という言葉に相応しいものを暦は駿河に与えてくれたのだ。
それは、何十年生きようと、味わえないかもしれない、一寸の曇りもなく、本当にそこにあると信じられる生の実感だった。引き比べて、暦と別れて以来、単に薄く薄く引き伸ばされていただけの時間を思うと、駿河は慄然とした思いを抱く。阿良々木暦は、神原駿河の生に意味を与えた。平板な時間は暦とあるとき、神聖なものとなる。暦とともにあるとき、駿河は自分が本物の神原駿河になると思えるのだ。
――だから、私はやらなければならない。
ひたぎとの約束の時間は近い。
蔵の奥深くから探し出した日本刀を駿河は胸に抱えている。
刀身を鞘から引き抜いて、部屋の明かりにかざした。鉄の重さを手に感じる。刀身は光を反射して、鈍い輝きをたたえている。研ぎ澄まされた鋼の光沢に駿河は吸い込まれそうになる。それは純粋に人の死を望む無機物だった。すぐに肌で理解した。これは人の肉を切り裂くことのできる道具だ。
掌に力を入れて、柄を握り直した。
光のなかで、刃紋が煌めいた。
この刀は、蔵の奥で眠っていたものだ。箱書きには、駿河には読めない文字で銘が記されていた。きっとこの刀には人の血を貪った歴史がある。
刃先に指を試みに当てると、スッと肌が切れて血が垂れた。
指を口に含むと、血の味が舌に広がった。血の匂いが鼻をつく。胸がひどく騒いだ。まるで酒にでも酔ったような心地だった。
どうやら自分は興奮しているらしい。そのことにようやく気がついて苦笑する。
呼吸を落ち着けて、駿河は刀身を鞘にしまった。
「さて、戦場ヶ原先輩は時間にうるさいからな。そろそろ行くとしよう」
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