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「なあ、神原、最近、戦場ヶ原から連絡とか、あったりしたか?」
それが最初の言葉だった。
行為の後、しばらく二人は黙っていた。沈黙がホテルの一室を包みこむ。身体に残る熱が心地よく、駿河は一つ息をついた。そんなときに耳に入った男の言葉に驚き、目を丸くした。何も今この場で出す話題でもないだろう。そう思って、苦笑する。随分と乙女らしい思考だったからだ。
「阿良々木先輩、その質問はエチケットに反していると思うのだが、どうだろう?」
「……ん? そうか?」
暦は不審そうな表情を作った。しばし考え込んで、言った。
「それもそうだな。悪かったよ、神原」
「うむ、女としては、せめてお前の身体は最高だったぜ、ぐへへ、などと言ってほしいところだ」
「それもそれでどうかと思うけどな」
暦はあいまいな笑みを浮かべて、煙草に手を伸ばした。なめらかな動作で煙草を一本取り出すと、火をつけた。
「阿良々木先輩は、煙草を吸うようになったのだな」
「ああ……一年前くらいかな。なんかイライラしてたんで試しに吸ってみたら、やめられなくなっちまった。吸い始めた当初は、それこそ戦場ヶ原に人間の屑みたいに言われたもんだが……」
暦は途中で言葉を切った。駿河が暦をにらんだからだ。演技めいた仕草だったが、意図は伝わった。悪いと暦は言って、煙草を口に含み、煙を吐き出した。煙が空中で弧を描いて漂った。
煙の匂いが鼻をつく。行為の最中、男の身体には三年前と違う匂いが漂っていた。これだったのだな、と駿河は得心する。好ましい匂いだと思った。
暦の手が駿河の髪を梳いた。頭から肩に向かって指が降りていく。脳から背筋へ甘美な快感がかけぬける。目を閉じて深く息を吐く。手を伸ばして暦に自分の身体を寄せた。
「髪伸ばしたんだな……いつだ、大学に入ってからか」
「いや、阿良々木先輩が卒業してからだ。もっと女らしくなろうと思ったのだ。服も買ったし、ピアスの穴も開けた……もう脱がされてしまったが、下着も随分と可愛くてきれいだったろう?」
「ん、そういやそうだったな。神原もこんなの着けるんだな、と実は思ってた」
「阿良々木先輩の呼び出しとあって、一番自信をもってお勧めできるものをつけてきたのだ」
「まあ、何というか、お心遣い嬉しいよ」
「是非先輩にもつけてみて欲しい一品なのだ」
「……それは遠慮しておくよ」
「今、一瞬、迷ったな、阿良々木先輩?」
駿河の問いに暦はうろたえた。そんなことねえよ、と言って横を向いた。駿河は声をたてて笑い、阿良々木先輩はかわいいな、と言った。心地よい会話だった。心をくすぐられるような幸福感がある。三年、渇望していたものが与えられた。その実感に彼女の心は歓喜の叫びを上げる。なお飢えと渇きを癒やそうとして、駿河は暦の声と言葉を欲した。話題は何でもよかった。単に身体を寄せ合い、声を交わしていたいだけ。
ふと意地悪い気持ちが浮かび、男を苛めたくなる。悪戯のような質問が頭に浮かんだ。
「なあ、阿良々木先輩」
「ん?」
「戦場ヶ原先輩と私、どっちの方が良かった?」
暦の耳元で囁く。耳を口に含んでから、顔を首筋に押しつけた。さらに、暦の身体を抱きかかえて胸を押しつける。彼女は暦と別れて以来、運動やスポーツをやっていない。意図的に運動量を減らし、筋肉を落とした。時が経ち、髪が伸びていくのに合わせて、身体は女性らしいふくらみや柔らかさを増した。
暦は目に見えて困った顔をした。渋面し、額に眉を寄せる。そういうこと普通聞くか、と蚊の鳴くような小さい声で訴えた。
「ふむ、ちなみに、阿良々木先輩は、女子の処女性にこだわる人だったりするのだろうか。一応言っておくと、私はさっきのさっきまで一二〇%処女だった……お前、痛がってなかったじゃんと阿良々木先輩は思うかもしれない。しかし、処女膜は前に……」
「聞きたくねえっ! 女の子が膜とか言うな!」
「よし、では、さっきの阿良々木先輩の質問に答えておこう。実は、戦場ヶ原先輩とも卒業してからは連絡を絶っていたのだが、数ヶ月前にばったり街で出くわしてお茶を飲んだ。そのとき戦場ヶ原先輩は、あのグータラ、ろくに大学に出てこないで就職どころか卒業さえ危ないのよ、とまことにお怒りであった。あんなダメ人間、別れちゃおうかしら、とさえ言っていた。私は阿良々木先輩がダメ人間であるなどというとんでもない意見には大いに異議を挟んだものだし、もちろん、そんな発言はその場限りの冗談だとは思ったが……それでも私には理解できなかった。戦場ヶ原先輩はいったい阿良々木先輩の何が不満なのか。阿良々木先輩、私は、たとえ、先輩がニートでもフリーターでも大学中退でもロリコンのダメ人間でも構わない。先輩が愛人をいっぱいつくって阿良々木ハーレムを作ってもいい。あるいは、私が愛人なのでも構わない」
「あのなあ、神原……」
言い差した暦を駿河は目で制した。暦の目をみつめる。胡乱げな顔で駿河を見返していた。一度諦めたものがそこにある。失いたくない。そう強く思った。三年前、彼女は自ら手放した。そのときの痛みを心はまだ覚えている。身を切られるような痛み。自身の半身を失ったかのように感じた。もう一度手放すつもりは彼女にはなかった。
三年前、彼女は彼を殺したことによって、彼に縛られた。その呪縛は今もなお生きている。あのとき、暦は彼女に愛を教えた。それは神の啓示に近い。それまでの彼女も愛という言葉は知っていた。しかし、その言葉に中身を詰めたのは暦だ。今まで知っていたものとは違う概念を与えて、彼女に愛を説いた。彼女が彼を欲したのは、その帰結に過ぎない。だから、駿河は暦をまっすぐに志向する。その様は敬虔な信者が神を求める姿に似ていた。
うん、と彼女は一人頷く。暦の目を見つめたまま、言った。普段と異なる表情と声を故意に演出した。
「神原駿河は阿良々木暦を愛している。そして、何があっても私は阿良々木先輩を愛する」
言い切って黙る。
暦も黙った。しばらく、無言の時間が続いた。やがて口を開いたのは暦。乾いた声が部屋に響いた。
「神原、マジか?」
「大マジだ」
「僕は正真正銘のダメ人間だぞ。それこそ戦場ヶ原も呆れてしまうくらいの」
「私が働けば何も問題ない。阿良々木先輩は家で寝て漫画読んでアニメ見てインターネットしてゲームして、外ではパチンコにいそしんでいればいい」
「……ヒモだな、それも最低ランクの」
でもな、と暦は続ける。大きく息をつくと、彼は言った。胸からはき出す息に合わせて、言葉を無理に絞り出したように見えた。
「それだけじゃないんだ。実は、僕は……何人もの人間の死に責任がある。神原、僕は、この間、人を殺してしまった……僕は『人殺し』なんだよ」
暦の声は低く、空気を沈み込ませる重みがあった。無音が続いた。頬を吊り上げて笑みを作ろうとして果たせない。ぎこちない表情になった。暦は黙ったまま自分の掌を見つめた。
かすかな音が静寂を破った。枕元の灰皿の中で、煙草の灰が崩れたのだった。炎はかすかな音を立てながら燃焼し、根本に近づいている。暦は手を伸ばして、煙草を灰皿に押しつぶした。透明なガラスの表面を灰が汚し、鈍い擦過音が立った。
暦は沈痛な面持ちのまま、下を向いた。かすかに眉をひそめ、額に皺寄せている。口の中で何かを呟いているようだった。なお言葉を紡ぎだそうとする暦を駿河は止めた。いいのだ、阿良々木先輩と囁いた。愛おしさが胸を満たしていた。男の頭を胸に抱いて、柔らかく力をこめた。男の髪が肌を刺す。こそばゆく心地よかった。
自身が女性に生まれたことに彼女は感謝した。女性という性に意味があるとすれば、それは今このとき目の前の男を慰めることだ。そんなことを思ったのだった。同時に、ひどく欲情している自分に気がつき、苦笑する。身体の奥にうずいているものがある。それは弱っている男を慰め、支配したいという欲望だった。
胸にかき抱いてた男の顔を上に向けると、駿河はゆっくりと自分の顔を近づけた。視線が交差し、絡まり合い、やがて溶けて一つになった。息と息が触れて抱き合う距離だった。
「いいではないか。阿良々木先輩が人殺しならば、私も阿良々木先輩と一緒に人を殺す。それだけだ。何を犯しても、私は阿良々木先輩とともにあることを選ぶ。私は、阿良々木先輩とともに生きたいのだ」
駿河は迷いなく言った。目を閉じて、唇を男のそれに重ねる。舌と舌で互いの存在を確かめる。肉はなめくじのように這い回り、絡まり合い、濡れた音を立てた。
やがて唇を離したとき、駿河は男の唾液を音を立てて飲み込んだ。暦は軽く口を開けたまま、呆然とそれを眺める。
やがて、暦は一つ溜息をつくと、そっかと呟いた。顔を上げ、天を仰ぐような仕草をする。視線を駿河に戻す。何かに耐えるように、額に皺寄せ、唇を軽く噛んでいた。
彼は言った。
「……僕の……責任なんだろうなぁ……わかった。僕も誓うよ。今日から僕は、頭の先からつま先まで全部神原のものだ」
「その誓いはとても嬉しいのだが……戦場ヶ原先輩はどうするのだ?」
暦はそれに答えなかった。ベッドの脇、携帯を引き寄せて、ボタンを押す。
数回のコール音の後、彼は言った。
「戦場ヶ原、僕だ。ホントは、留守電に入れるようなメッセージじゃないんだけどな、ちょっと事情があってな。スマン。えっと、色々あってさ、僕は神原と付き合うことにした。……僕は自分のしたことに責任を取らなくちゃいけないんだ。そんな説明でお前が納得してくれるとは思えないんだけど、それ以外に言葉がない……だから、戦場ヶ原とはお別れってことになる。今までありがとう。そして、ごめん」