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Dear, I fear we're facing a problem
(ねえ、私たち、今困ったことになってるわよね)
you love me no longer, I know
(あなた、私のこともう好きじゃないでしょ、知ってるんだから)
and maybe there is nothing that I can do to make you do
(あなたをもう一度振り向かせたいけど、たぶん私にできることなんて何もないのよね)
Mama tells me I shouldn't bother
(お母さんは気にするなって言うの)
that I ought just stick to another man
(別の男見つければいいじゃないって)
a man that surely deserves me
(今度はあなたにふさわしいような男をって)
but I think you do!
(でも、あなたが一番って、私思ってしまうの)
――the Cardigans, "Lovefool"
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戦場ヶ原ひたぎは足を止めて、耳からイヤホンを引き抜いた。携帯音楽プレイヤーのスイッチを切る。しばらく明滅した後に、機械は動作を止めた。暗闇があたりを包み込む。
しばらくして、目が暗闇に慣れた。目に入ったのは、懐かしい光景だった。
廃墟に彼女はいた。町外れにその建物はある。訪れようとして、道を思い出すのに、しばらくの時間と努力を要した。建物を前にして彼女が感じたのは、違和感だった。本当にこの建物だっただろうか、と思ったのだ。記憶を刺激するものを何も感じない。確かに、懐かしいとは思う。しかし、それだけだ。その懐かしさは機械的な反射に近い。アルバムを開いて、自分の出ていない運動会の写真を見つけたときの気分に似ていた。あの出来事は本当に自分のものだったのだろうか。そんな疑問さえ頭の中に浮かんだ。
バッグから懐中電灯を取り出して、光をつけた。リノリウムの床や、割れた窓、汚れた机や椅子が視界に浮かび上がってくる。音はなく静かで、空気は冷たかった。静寂と冷気の中で、時が静止しているかのように感じる。事実、その光景は三年前と何も変わりはない。変わったものがあるとすれば、それは彼女自身。風景は見るものの心象によって、その装いを変える。三年前、彼女は眼前の風景を大事に記憶にしまったつもりだった。しかし、手入れを怠り、その記憶は風化した。取り出してみれば、過去の甘さは既に消えている。その事実がひたぎを焦燥に駆り立てる。
ひたぎは、足早に歩を進めた。目指す部屋は三階にある。暦がひたぎを救い、ひたぎが初めて暦を望み欲した場所だった。そこに行けば、と彼女は思う。三年前彼女はそこで阿良々木暦に救われた。以来、彼女は彼を愛している。あるいは、彼女はそのように自己を認識している。
一歩一歩階段を踏みしめるようにして、ひたぎは階上を目指す。目的の部屋を前にして、躊躇した。怖いと感じていた。灰色のドアを前に、彼女は息を整える。思い出せるはずのものをいまだ思い出せない。
言葉が口をついて出た。
「私は阿良々木君を愛している」
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ひたぎが留守電を聞いたのは、病院からの帰り道のことだ。
久しぶりに大学で顔を会わせた友人は変な噂をひたぎに語った。大学の食堂で耳にした噂だという。そして、本人に直接確かめてみると最後に言って、彼女は電話を切った。
その日の夜、その友人は病院に運ばれた。
深夜の学校で倒れているところを発見されたのだと医者は言った。直近の発信履歴から辿ったらしく、ひたぎに連絡が来たのだった。ベッドで横たわる彼女の姿はひたぎを少なからず当惑させた。病室に響く音は、ベッド脇の機械音と静かな呼吸音のみ。なぜか意識を回復しない、と医者はひたぎに告げた。半ば衝動的にひたぎは友人の首筋を確かめる。予感は当たった。首筋には、牙を突き立てた跡があった。
それから先のことをひたぎはあまり覚えていない。半ば朦朧とした意識のまま、医者の話を聞き流して病院を出た。切っていた携帯の電源を入れると、留守電にメッセージが残されていた。それを聞いたとき、ひたぎは、地面を見て地に足がついていることを確かめた。世界の関節が外れてしまったのではないか、と思ったのだった。心の底に鉛が沈み、地について動かない。自分の肉体を疎ましく感じた。固い肉が溶けて崩れて露と消えてしまえばいいのに、と思った。
やがて、ある疑問が彼女に訪れた。
それは危険な邪推だった。毒が耳から注ぎ込まれるとき、それに味はなく苦くもない。しかし、それは血に直接働きかけて、燃え上がる性質を持つ。
――私は本当に阿良々木君を愛していたのだろうか?
その疑問は彼女の心の中に根をはやして、とどまった。否定して、その否定に耳を傾けない自分に驚いた。血が騒ぎ立ち、ひたぎの心に囁く。阿良々木暦が別れを告げたとき、どこか安心する自分がいなかったか、と。
恋は愛に育ち、やがて愛は情に変わる。恋や愛は永続しないが、愛が情に変わるとき、それは愛情として華開かせる。
そんなことをひたぎは聞いたことがある。彼女は暦に出会い、恋を知り、愛を学んだ。彼は彼女を救い、彼女の苦悩を理解した最初の人間だ。やがて訪れた恋は甘く、時間をかけて育てた愛は美しいものだった。しかし、それだけだ。甘さも美しさも時間が経てば慣れる。人は何にでも慣れる。その事実は残酷に恋と愛の終わりを告げた。
それは、付き合いが二年を超えたときのことだった。初めてひたぎは暦の欠点が目につくようになったのだった。些細なことばかりが目につくようになる。食事の際、暦が肘をつけば、彼女は声を荒げて、それを叱った。暦は、それに不承不承従う形を見せた。その態度がさらに彼女の心をいらだたせる。箸の持ち方がおかしいと告げたときには、どうでもいいだろ、と一笑された。煙草の匂いにひたぎはどうしても慣れることができなかった。それを理由に男の要求を拒んだこともある。男の身体に染みついた匂いが我慢ならなかったのだ。暦が声をあげて不平を述べたので、彼女は仕方なく身体を預けた。そして、何の感情もなく男に抱かれている自分に驚いた。愛を確かめる行為として規定されるはずの交歓。しかし、それも慣れてしまえば、生活の一部に過ぎない。恥じらいも感傷もなく、感情を抜きに行うことができる。しかし、歓びもないとすれば、行う意味はあるのだろうか。男が自分の上で身体を動かしているとき、肌と肌とを触れあわせながら、ひたぎは一人そんな考えを巡らせていた。驚くほど冷静に男を見つめる自分がそこにはいた。
恋は、醜い混沌から生まれる美。
そんな台詞を彼女は文学の講義で学んだ。しかし、逆だと彼女は思う。彼女が目の当たりにしているのは、美から生まれる醜い混沌だったからだ。
時に目の前の男を疎ましく思うことがある。その事実にひたぎは戸惑い、狼狽えた。彼女には、それが愛が情に変わるための必要な過程なのか、わからなかったのだ。
(私は阿良々木君が大好き)
だから、彼女は自身に催眠のように呼びかける。
(私は阿良々木君を愛している)
戦場ヶ原ひたぎは阿良々木暦を愛している。
それは、ひたぎが暦によって二度目の生を受けたときに受けた規定だった。二度目の生を受けて間もない彼女の精神は幼く、その揺らぎを受け入れることができなかった。
確認のため。
そう自分に言い訳をして、ひたぎは街外れの廃墟に足を向けたのだった。
(大丈夫、きっと『私たち』は大丈夫)
ひたぎは目を閉じて祈りの言葉を呟いていた。そして、意を決すると、部屋の中に足を踏み入れた。
三階の元教室。部屋は薄暗く、汚れていた。気のせいか、前よりもくすんで見える。懐中電灯の明かりの中を埃が舞っている。汚濁した空気に、何かものが腐ったような匂いが混じっている。ひたぎはハンカチを取り出して口と鼻をおおった。
(ここに忍野さんがいて、ここに阿良々木君がいた。ここで、私が……)
記憶を探りながら、のろのろと足を動かして、部屋の端から端まで歩く。時間にして数分間、彼女はただ歩いた。
そして呆然として立ちすくんだ。足が震えて、座り込んでしまいそうだった。歯を噛みしめて、足に力を入れようとしたが、無駄だった。歯の根がかち合わず、全身から力が抜けていくのがわかる。
やがて彼女は声を上げて泣いた。思い出せなかったのだ。心のどこを探ってみても、あのときの気持ちは既に虚空に消えて見当たらなかった。それを確認したとき、彼女の心は地を失って揺れた。
焦燥は、喪失の不安に形を変えた。母を失った記憶が蘇る。今のひたぎをつなぎ止める絆もまた消えるかもしれない。そう思い至ったとき、身体が震えた。心を落ち着ける術を知らず、ひたぎはただ泣き続けた。その姿は、母を失い、母を求めて泣く子供に似ていた。
切れ切れの言葉が口から漏れ出た。
「……こ、ここで私は……阿良々木君に……だ、だから、わ、私は、あ、あら……阿良々木君のことがす……あ、愛して……」
「へえ、あんた、阿良々木暦の恋人か何か?」
突然、背後から声がした。振り向こうとして果たせない。身体を男に固定されていた。叫びを上げる間もなく、男はひたぎの首に腕を回して力を込めた。
頭が朦朧とかすみ、徐々に意識が薄れていく。
「超ウケる。単に寝床にちょうどいいから、ここにいただけなのに、俺、マジラッキー。あれだね、やっぱ、俺、いわゆる悪者退治の正義の味方って奴だし、神様に愛されてるね」
「あなた、いった……」
ひたぎは最後まで言葉を続けることができなかった。
「悪いけど、人質ってことで、よろしく。ドラマツルギーの旦那がやられちまったらしいし、あのガキ強くなってるみたいだしさあ、保険てことで」
意識を失う前、そんな声を最後に聞いた。