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阿良々木暦は考えている。
自分にとって戦場ヶ原ひたぎという少女は一体何だったのか。その問いが暦の頭を惑わせている。
蟹と出会い、体重を失った少女。
その定義は、暦にとってもはや意味を持たない。ならば、恋人だったのか、と自分に問うと、暦の心は揺らぐ。付き合っていたのか、と言われれば、答えはイエスだ。しかし、自分とひたぎの持っていた関係を指して、恋愛と呼べるのかどうか、暦にはわからなかった。
自分は彼女を救った。彼女に忍野メメを紹介し、彼女が体重を取り戻す契機を作った。それはひたぎにとっての暦である。
では、自分にとって、戦場ヶ原ひたぎは何だったのか。そう問うてみて、暦は、既に問いが過去形でしか出てこないということに気がつく。彼女の顔も表情も肢体も覚えている。魅力的な異性だという認識は変わっていない。しかし、今、彼女の存在を暦は志向しない。
要は、都合よく言い寄られたから、イエスと言っただけなのではないか。今となって、暦はそんなことを考える。そこには自責と諦念が混在していた。ひたぎは、魅力に溢れた少女だ。その少女が自分を好きだという。それを好ましく思わない男などいないだろう。そう考えて暦は自分を弁護する。
しかし、そこに青年期特有の性欲や好奇心があったことを暦は否定できない。「彼女」が欲しい。しかも、叶うならば、人に見せても恥ずかしくないような、自慢できるような、美しい魅力的な容姿の持ち主の「彼女」。当時の自分にそういう欲求があり、またそこには性欲も混じっていたことを暦は自覚していた。
ひたぎにしても、自分に対する感情は恋愛と呼べるものではなかったのではないか、と暦は思う。当時の彼女は孤立していた。人は人を志向する。母親に棄てられ、父親と距離を置いていた彼女は、新たな保護者を欲していた。ひたぎにとって、自分は親に代わる存在だったのだろう。暦の結論はそこに至る。
だから、破綻した。
その日は予想よりも早く来た。
嫌がるひたぎの身体を弄んでいたとき、暦の心にわき上がるのは嗜虐の喜びだった。
体験してみれば、性の交歓は期待していたほどの快感はない。飽きが来るのは早かった。しかも、ひたぎは、その行為自体を好まない様子を見せた。反応も薄かった。まだ終わらないの。そんな声が表情から聞こえてくるときもあった。暦にしてみれば、定期的な処理を自分で行うか、ひたぎの身体を利用するかだけの差だけだった。
その日、暦は珍しく、目の前のひたぎに衝動的な征服欲を感じた。もはや日常と化した口論の後だった。生活を改めない暦に対して、ひたぎが文句を言う。最初は、柔らかかった言葉遣いは次第に激しさを増した。そして、その日、ひたぎは一通りの不平不満を並べた後、暦を目で蔑んだのだった。済ました顔と表情で自分を見下す女がそこにはいた。激しい逆上が胸に湧いた。この女の肉体を思う様、嬲りたい。その衝動は強く、抗いがたいものだった。
衝動に突き動かされるまま、荒々しく衣服を剥ぎ取り、ひたぎの肢体を貪っているとき、暦は二人の関係が終わったことを知った。きっとひたぎもそう感じていただろう。彼女は何も抵抗を見せず、ただ暦の成すがままに任せていた。行為の後、ごめんと言った暦に彼女は言った。
「別にいいのよ」
彼女が、あのとき感じていた感情は一体何だったのだろう。暦は今になって想いを巡らせる。諦めだろうか、それとも、悲しみだったのだろうか。ひたぎの表情は、凍り付いた能面のように何も映し出していないものだった。ひたぎの無表情には慣れていた。ひたぎの無表情の中には、喜びも焦りも怒りも嫉妬もある。そのことを暦は体験で学んでいた。しかし、そのときの顔は違っていた。その表情を思い出すとき、暦の胸は痛む。
あとは惰性の日々だった。喜びや悲しみの共感はそこにはなかった。罵り、傷つけ合うだけなのに、なぜか離れがたかった。なぜなのだろう、と暦は思うが、答えは出ない。今、自分が囚われたひたぎを助けに行く理由も、また判然としない。
ひたぎが好きだからではなかった。阿良々木暦が戦場ヶ原ひたぎに抱いている感情を恋愛と呼ぶことはもはやできない。あるいは、最初からそのように呼称する感情など自分は持っていなかったのかもしれない。そう暦は思う。
人が人を好きになる。
畢竟、暦には、その感情自体が理解を超えるものだった。戦場ヶ原ひたぎは阿良々木暦を好きだという。羽川翼も自分を好きだと言った。千石撫子の気持ちには気がついていたが、あえて気がつかないふりをした。状況をこれ以上ややこしくしたくない。そういう計算が暦の頭の中にはあった。
ひたぎは、あるとき暦に言った。
「あの日、公園で出会ったのは偶然ってわけじゃないのよ……私は阿良々木君に会いたくて会いたくて、街の中を歩き回ったのよ。感謝しなさい」
それはまだ付き合い初めて間もない頃のことだ。彼女は嬉しそうに自分の気持ちを告げた。暦は単に首を振って頷いただけ。自分は異性に対して、そのような気持ちを抱いたことがない。目の前の少女に対しても、それは変わらなかった。その事実が胸を刺したのだ。黙る以外の選択肢を暦は持たなかった。
怪異と化した羽川翼が阿良々木暦を好きだと言ったとき、暦は戦場ヶ原ひたぎを理由に断った。自分が言った言葉が頭の中をこだましていた。
「僕はあの性格も含めて――戦場ヶ原のことが好きなんだ。生まれて初めて人を真剣に好きになったんだよ」
あのとき言った言葉に嘘はなかった。あのときは、そう思い込んでいたのだ。しかし、振り返ってみて、真実そうだったのかと問われれば、今の暦は自信を持って答えることができない。
「お前、ひょっとして、真剣に人を好きににゃったこととか、ねーんじゃにゃいのか? 今その女と付き合ってることだって、ただ単に押し切られただけじゃにゃいの?」
猫が言った言葉が頭をよぎった。反芻して、己に問うても答えは出ない。
ただわかっていることがあった。
阿良々木暦は戦場ヶ原ひたぎを助けなければならない。自分は彼女に恩もあれば、借りもある。たとえ既に彼女が恋愛対象ではなかったとしても、暦には彼女を見捨てるという選択肢はない。
「阿良々木君は『誰にでも』優しいから」
そうひたぎが哀しそうに暦に告げたことがある。確かに、そうだった。その事実を暦は首肯する。暦の中で他者の優劣はほぼないに等しかった。
戦場ヶ原ひたぎ。羽川翼。千石撫子。
皆、同等に愛おしく、大事な存在というだけに過ぎない。同時に、それは誰も大事ではないということも意味している。自分は、ひょっとして人間として欠陥品ではないか。そんなことを暦はよく考える。そして自嘲するのだった。確かに自分は人間ではないな、と。怪異でもなく、人間でもない自分は一体何なのだろう。
神原駿河。
彼女のことを思うとき、暦の胸は痛む。彼女もまた怪異と人間の間を彷徨うものだ。
――僕があいつを巻き込んだ。
そういう自責の念が頭を去らない。彼女と身体を重ねたとき、感じたのは悦びであり、哀しみだった。同等に不完全で歪つな二人が互いの傷を舐め合っている。そんなふうに感じてしまうのだ。
暦は思う。
自分は神原駿河とともに罪を重ねていく。
その未来像は、現実感をもって、感じられた。無垢にして純真。純粋であるだけに、強く、そして危険な少女。そんな少女に罪を犯させた。それが暦の自己認識だった。
暦は祈りたかった。しかし、できない。祈りたいと願う心は意志と呼べるほど鋭く胸を刺す。しかし、その意志よりも強い罪の念が心を砕くのだった。
鈍痛を感じた。
かろうじて直撃を避けることができたのは、怪異としての本能だった。思考に気を取られていた暦は、その光景で我に返る。
飛来する十字架に触れた暦の右腕は燃え上がり、蒸発した。