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戦場ヶ原ひたぎは幼少時のことをあまり覚えていない。
かすかに記憶に残っているのは、病院特有の匂いだ。薬品と人間の体臭が混じった、あの匂い。年寄りと病人が放つ匂いは、鼻の奥に沁みて、弱った人間の心をさらに弱らせる。弱い人間が塊になって腐りつつある匂いだと彼女は思った。
病弱だった彼女は、学校をよく休んだ。自室で寝た数と同じだけ、病室で就寝した。
学校は退屈だった。友人を作ることができなかったからだ。
ともだち。その言葉は戦場ヶ原ひたぎにとって、不思議な響きを持つ。その言葉は実体を持たない。その言葉が表すものを理解しえない彼女は、おぼろげにその中身を推測することしかできなかった。
やがて学んだことは、誰もそれを理解していないということだ。言語において、音と意味に本質的なつながりはない。だが、表す実体を持たないとすれば、その言葉が存在する意義は何なのだろうか。たまに学校に足を運んだとき、彼女は、そんなことを考えた。
父親は仕事でほとんど家にいなかった。母親がそれをどのように考えていたのか、ひたぎにはわからない。彼女にものごとの判断能力が備わる頃には、母親は宗教に傾倒し始めていたからだ。父は、そんな母の様子を見て、さらに家から遠ざかっていった。物理的にも心理的にも父は家にはいない存在だった。
ひたぎの脳裏に棲みついて離れない母親の姿がある。母親は、いつも額に皺寄せて、瞼を閉じて、一心に祈っていた。祈りの間、母は人を寄せ付けない空気を身に纏っていた。何を祈っているのか、とひたぎは母に聞いたことがある。幸せだと母は答えた。誰の、という問いは飲み込んだ。答えを聞くのが怖かったからだ。
そして、あの日が来た。
その日、母はひたぎに風呂に入っておきなさいと告げて家を出た。やがて帰ってきた母は、笑顔で来客を告げた。大事な人なのよ、粗相のないようにね、と彼女はひたぎに言った。
のどが裂けてもいいと思った。声を振り絞って、ひたぎは母に助けを求めた。
お母さん、お母さん。
ナニコレ、ドウイウコト。
ひたぎが喉から絞り出したものは、人間の言葉というよりは、動物の出す叫びに近いものだった。しかし、その音は明白な意味を一つ持っていた。
助けて、お母さん。
男の行為に驚いた様子もないまま、母は無言で微笑を浮かべて言った。
「……これも幸せのためなの。我慢して……ね?」
そのとき、世界が瓦解する音をひたぎは確かに聞いた。
そして、彼女は吐いた。
母は、男は、ただそこにいた。
いるだけだった。
母も男も、その意味を失って、ただそこにいるだけの、柔らかくて無秩序な塊になったのだった。
母が母であることを思い出せなくなった。母と呼ばれているものは、確かにそこにいる。しかし、そのものは、もはや母ではなかった。母という言葉から意味が消え、言葉とともに、その存在に与えられていた全てが消え去って、ただのぶよぶよとした肉の塊がそこに存在していた。そして、その塊はひたぎに恐怖を与えた。
母とともに、男が、部屋が、そして自分が意味を失った。男が男ではなくなり、部屋が部屋でなくなったのと同様に、戦場ヶ原ひたぎは戦場ヶ原ひたぎという形を失ったのだった。
言葉によって規定された、無害な意味を欠いた存在。
それは、きわめて明白に存在していることは確かだが、ただそこにいるだけだ。捏造された仮象を引きはがされて、事物はそこにある。意味という服が溶けて消えたとき、後に残った裸形の事物は、無秩序にして醜悪かつ淫猥なものだった。
それら全てのものは、ひたぎを不快にした。吐き気はとめどなくこみ上げてきた。
ひたぎはそこにいた。自身の存在を空中に浮いているように、軽く柔らかく感じた。
そして、彼女は体重を失ったのだった。
「……にしても、戦場ヶ原、お前、随分色っぽい格好しているよなあ……やっぱ、それ逃げないようにとかそんな理由で、エピソードに脱がされたわけ? 何か、それちょっと僕、悔しいかもしれない」
なぜ、今になって、自分はそんなことを思い出しているのだろう。ひたぎは自身の心の揺れを説明することができない。
「しかし、あれだな、お前の下着姿なんて、見慣れているはずなのに、こういう状況だと、何だかエロく感じてしまうのは、何でなんだろうな……肌とか、妙に艶っぽいっていうか……やっぱ、あれかね、生存本能って奴かね。何気に、僕、今、生命の危機だしなっ!」
男が喋っていた。
声からすれば、男であり、人間のはずだった。
しかし、それは人間と呼べるのだろうか、とひたぎは思う。手を失ったかと思えば、その手は緩慢な再生をし、足が切れたかと思えば、その足もまた緩やかに生えてくる。それは人間に出来る業ではない。飛来する十字架に、顔、手、足、脇、太股、全身から肉を引きちぎられて、血を垂れ流して、なお男はそこに、ひたぎの前に立っている。
男は執拗に立ち続けていた。
飛来する十字架の向きに合わせて、立ち位置を素早く変える。意図は明らかだ。背後にひたぎをかばって、巨大な十字架の方向を肉体の一部を引き替えに少しだけ変えている。
十字架を投げる男は嘲笑を浮かべながら、十字架を投げ続けている。男が背後のひたぎを捨てないことを知って、わざと致命傷とはならないように、しかし、男の肉体を確実に傷つけるように、何度も投擲を繰り返していた。
「……あー、きっつー……あの野郎、わざとチマチマ苛めて楽しんでやがる。そんなに、吸血鬼苛めて殺すの楽しいのか……真性のサドだな。あいにく、僕はマゾじゃないんだけどなぁ……」
男の口から切れ切れの息が漏れる。男の顔が苦痛に歪む。肉が裂ける音が響き、血が飛び散る。ひたぎは顔に温かい血しぶきがかかるのを感じた。その血の温かさを愛おしく思った。血の向こうに、男の存在を強く感じた。
何と言っただろうか。
男の名前をひたぎは思いだそうとしていた。
阿良々木暦。
その名前は天啓のように、彼女の頭にやって来た。
「……阿良々木君……」
「……ん、どうした、戦場ヶ原?」
「どうしてここにいるの?」
「……それはまた随分ツッコミにくいボケだな、戦場ヶ原」
「なぜ、そんなことをしているの?」
「……さぁて、どうしてだろうなっ!!」
暦は、再び飛来した十字架を右腕に握った鉄の棒で横殴りにして、方向を変えた。十字架はかろうじて方向を変えて、放物線を描きながら運動場に突き刺さる。ただし、代償に、暦の右腕が蒸発して消えた。そして、また緩やかな再生が始まる。
「……それ、学校の運動場の鉄棒じゃないの?」
「……ああ、そうだよ」
「ダメじゃない、そんなことしちゃ」
「この状況で、鉄棒の心配している場合かっ!! 仕方ないだろ、僕、あの十字架、触れないんだからっ!!」
「いえ、別に鉄棒の心配をしているわけではなくて、阿良々木君が社会のルールを守れないことに若干の不安を覚えているだけ」
「僕の身体の心配はしないのかよっ!!」
暦は笑いながら、また飛来した十字架を鉄棒で殴りつけた。暦の左腕と胸の一部が蒸発して、血が噴き出た。肉をえぐり取られた胸の中に臓腑が見える。
「……阿良々木君の裸は何度も見たけど、内臓を見るのは初めてで、とってもドキドキするわね」
「嫌なドキドキの仕方だなっ!」
「……食べちゃいたいくらい」
「カニバリズムっ!?」
言葉が意味をもって、ひたぎの頭に染みこんでくる。会話は無意味だったが、暦とのやり取りにひたぎは安らぎを覚える。
「阿良々木君?」
「……何だ、戦場ヶ原?」
「ちょっと呼んでみただけ」
「この状況でっ!?」
「可愛いでしょ?」
「いや、お前、可愛く笑ってみたところで、ちょっと今の状況では、『彼女が彼氏の気を引きたくて、ちょっと名前呼んでみました、ウフ』は、無理があるだろう……」
「……阿良々木暦?」
「だからって、何で呼び捨てになるんだよっ!」
「私は、阿良々木君のフルネームを確認したかったのよ」
「今更!?」
そう、今更だった。
しかし、ひたぎはその確認を必要としていた。
阿良々木暦。
その名前は、意味を失っていない。
阿良々木暦は、阿良々木暦としてそこにいた。無秩序な肉の塊などではなかった。
阿良々木暦は阿良々木暦である。
実感をもって、そう言い切れることに、ひたぎは我を忘れるほどの喜悦を感じる。暦のおかげで、世界が色と意味を取り戻す。暦が暦としていてくれるおかげで、戦場ヶ原ひたぎは戦場ヶ原ひたぎとしての形を取り戻して、世界に回帰できる。一瞬前まで、意味を失って溶けた肉塊だったものが、個性と本質を世界から奪い返して再び立ち現れるのだった。
付き合って、喧嘩をして、セックスをして、それでもなおわからなかった男の存在を今、ひたぎは確かめて愛おしむ。
「阿良々木君?」
「……どうした、戦場ヶ原? また呼んでみただけか?」
いいえ、とひたぎは首を振る。
そして、告げた。
「I love you」