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ひたぎは、それを目の前で見た。
エピソードが投擲した十字架はまっすぐに暦に向かっていた。それは純粋な殺意の顕現だ。軌道は直線的、まっすぐに暦の死を志向している。しかし、十字架の軌道にいた暦は何一つ動きを見せなかった。暦は十字架に触ることができない。十字架に直撃すれば、全身が蒸発する。いかに不死身の身体とはいえ、死ぬ可能性が高い。
「阿良々木君っ!!」
暦は動かなかった。
「畜生、結局、来なかったなあ、あの野郎……戦場ヶ原、ちゃんと逃げろよ」
背中越しにそんな声が聞こえた。
次に聞こえたのは、妙な効果音だった。人間の言葉で形容することのできない音。暦の身体が崩れる音だった。そして、十字架の土に突き刺さる音が続いた。
ひたぎは目を見開いて、それを見た。十字架が暦の半身を砕いて、眼前の土に突き刺さるまで、息一つできなかった。高熱の炎に触れた水のように、暦の身体は瞬時に溶けた。蒸気と化して、消えた。ひたぎは、一時も目を閉じずに、暦という存在が砕ける様を見続けた。自分にはそれを見る義務があると思ったのだ。
その様をひたぎは美しいと感じた。心に突き刺さる美しさだった。蝶が人の手によって羽をもがれるようだった。
そして暦は倒れた。
それは、もはや人間と呼ぶに躊躇いを覚える姿だ。十字架は、まっすぐに暦の胸を抜けた。かろうじて残っているのは、頭部と四肢の一部。
「阿良々木君ッ!!」
ひたぎは駆け寄りたかった。そして暦を抱きしめて言いたかった。バカね、本当にバカね、と。暦をかき抱いて、そのぬくもりを胸に感じたかった。もがいても抜けることもゆるめることもできない手足の縛をひたぎは呪った。
暦が言った。
低い声だった。それは耳から入って、ひたぎの心を溶かす。
「……うお、まだ生きてるよ、僕」
「……そうね、生きてるのね、阿良々木君」
「すげえな、僕。我ながら、万国びっくりショーみたいな身体だなあ」
「そうね、びっくりね」
「……つか、痛ぇ……」
「痛いの痛いの飛んでけー」
「……おお、痛くなくなったぞ、戦場ヶ原。すごいな、お前」
「ええ、私はすごいのよあ、阿良々木君……」
ともすれば、俯きたくなる自分をひたぎは叱咤した。見なければならない。自分には見届ける義務がある。自分のために半身を無くした男がそこにいた。男は、きっと死ぬ。そして、それは自分のせいだった。ならば、その痛みも苦しみもこの目で確かめなければならない。
瞼を閉じて、現実から逃げたかった。目の前にある光景を認識したくない。目を背けてしまいたかった。
だが、ひたぎは暦を見続ける。それしかできることがないからだ。にじみ出る涙に視界が歪む。喉の奥に石がつまって息苦しさを覚える。胸の奥からこみ上げてくるのは、一つにまとまらない感情の奔流だった。嬉しさ、悲しさ、悔しさ、憤り。全てを込めて、ひたぎは男の名を呼んだ。
「阿良々木君」
「……ん、なんだ、戦場ヶ原」
「ちょっと呼んでみただけ」
「……そっか」
「かわいいでしょ? 阿良々木君たら、私みたいな、かわいい彼女がいるのに、浮気するなんて万死に値するわ」
「……実際に死にかかってるけどな」
「ねえ、阿良々木君?」
「……ん?」
「でもね、それでもね、私は……」
「……」
「阿良々木君のこと、愛している……だから、やっぱり死んだらダメよ。あの世まで恨むんだから。頑張りなさい」
「……ゴメン、戦場ヶ原」
なぜ謝るのだろう。ひたぎは、暦の顔をこの目で見たかった。目をこらしても、辺りは薄暗く、暦の表情はわからない。全身で暦の気配を探る。わかったのは、息が細く弱くなっていることだった。
「……超ウケル。まだ生きてやがる。やっぱしぶといねえ、吸血鬼」
「……お前、ちゃんと戦場ヶ原には当たらないように投げてくれたんだな」
「こっちにも事情があってな。一応、可能な限り、一般人を巻き込むな、殺すなって上から言われてんだよ。まあ、怪異を退治するのに、必要な場合は別にって感じなんだけどな……お前が逃げたり避けたりしたら、そこの女は死んでたよ」
「……一応、礼を言っておくよ」
「おいおい、俺はお前の胸に穴空けて、これからお前をすり潰して殺す相手だぜ? 超ウケル」
「勝手に笑ってろ……いいんだよ、別にそんなことはどうでも。大事なのは、そこに戦場ヶ原がいて、戦場ヶ原が生きてるってことだ。だから、僕はお前に礼を言うよ、戦場ヶ原を殺さないでくれて、ありがとうってな」
エピソードの顔が歪んだように、ひたぎには見えた。不快そうに、眉間に皺を寄せている。何言ってやがる、このバカ。小さい声がひたぎの耳に届いた。
エピソードは、急ぐ様子もなく、暦の横を通り、ひたぎに近づいてきた。ひたぎの目の前に十字架がある。土に刺さったそれを無造作に引き抜く。
一瞬、エピソードがひたぎを見た。関心のなくなった道具を見る目だった。
「お願いです。阿良々木君を殺さないで下さい」
ひたぎは言った。今の自分は身動きができない。手も足も何一つ動かすことのできない今、使えるものは言葉だけ。だから、ひたぎは希望を言葉に乗せて発した。ありのままの気持ちを言葉に変換して伝え、祈り、そして請い願う。自分の頼った手段の頼りなさに気が遠くなりそうだった。それでも喋らずにはいられない。
エピソードの表情はわからなかった。地に額をこすりつけて、ひたぎは頼んでいた。奥歯を噛みしめて、苦い唾液を嚥下する。目を閉じて、一心に暦のことを思った。
「私にできることなら何でもします。この身体を弄んでくれてもいい。あなたのしたいことをしてくれていい。あなたのして欲しいことをします……だから……お願いです」
ひたぎは喋った。言葉は自然と口から漏れ出た。ひたぎは、ただの一秒でも一瞬でも暦の死を遅らせたかった。阿良々木暦が死ぬ。その恐怖にひたぎの心は支配されている。失いたくない。そう強く願う。この期に及んで、なお欲深い自分にひたぎは驚く。暦は、ひたぎのために無私の献身を見せた。しかし、ひたぎの望みは、暦を軸にしていない。あくまでも望みの中心にいるのは、自分だった。ひたぎは、自分のために暦に生きていて欲しいのだった。暦とともに生きていたい。もう一度触れあい、互いの存在を確かめたい。それがひたぎの心にある願いであり、欲望だった。
「……私の阿良々木君を殺さないで」
無言の間が続いた。
ひたぎが聞いたのは、遠ざかる足音だった。恐怖に全身が竦む。血が逆流し、全身の筋肉から力が抜けた。全身が冷気に包まれたように感じた。足音は、一歩一歩遠ざかっていく。それが耳に届く度に、身体が刃に貫かれるような心地がした。
「……お願い」
ひたぎはうつむいたまま、喉の奥から声を振り絞り、呼びかける。声が震えるのを抑えられない。
答えはなかった。
全身が大きく震えた。ひたぎは唇を噛んで、崩れ落ちそうになる自分を支えた。腹の奥に溶けた鉛を流しこまれたような重さを、背筋に冷たさが走るのを感じた。
それは絶望の重さと冷たさだった。
目を上げると、男の背中が見えた。男は、暦の間近に既にいた。押し潰されてバラバラになりそうな心を必死でかき集めながら、ひたぎは祈る。何に祈っているのか、自分でも判然としない。現状を変えてくれる何かを慕って、呟きを祈りに変える。
「……お願いだから……お願いだから……」
突如、轟音が響いた。
隕石の落下音のような轟音だった。巨大な質量と運動量をもった何かがグラウンドに落ちたのだった。
その落下と同時に、砂と土があたり一面に舞い上がった。空中に舞う砂が視界を覆っている。
土煙の中に何かがいた。目を凝らしても、よくわからない。
暦の声がした。
「……ったく、遅えんだよ、忍」