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「なっ……」
忍の動きは速かった。エピソードに十字架を構える時間を与えなかった。
即座にエピソードとの間を詰めると、駆けながら、右の拳を固めて鳩尾に叩き込んだ。
衝撃にエピソードの顔が歪む。手から十字架が落ちて重い音を立てた。
そのまま忍は左膝で蹴りを続けざまにエピソードの腹に叩き込む。左手で身体を乱暴に突き飛ばすと、頭の右のこめかみの辺りを狙って、拳を繰り出した。エピソードは、咄嗟に腕でかばうが、もはや手遅れだった。腕を弾き飛ばして忍の拳はこめかみに突き刺さった。
「……ッ!!」
頭蓋を貫く衝撃にエピソードの頭部が揺れた。忍は、間を置かず、そのまま別の拳で顎を下から打ち抜く。さらに、身体を翻らせて回転した。淀みない流れのようだった。躍動感、そして幾何学的な対称美がそこには感じられた。張り詰めた筋肉が踊り、傾いだ身体から繰り出された右脚は弧を描きながら宙を切った。直撃だった。口から血を吐きながら、エピソードの身体が飛んだ。
鈍い音とともに、身体が地についた。
瞬間、その身体が霧と化して消える。
十字架の側に現れ、間を置かずにすぐに投げた。
「忍っ!」
「たわけが……」
忍は鼻で笑った。若干身体を傾けただけ。十字架は忍の右胸と右腕を蒸発させたが、すぐにまた元通りの身体が現れる。
「……なっ!」
「今の儂を舐めるなよ。前にお主とやったときよりも、全然調子は上じゃ」
忍は、距離を一気に詰めた。エピソードが繰り出した右の拳を忍は手で捌き、懐に飛び込むと、左の拳を相手の腹へ叩き込む。
エピソードの口から血が迸った。
忍が腹を蹴り上げると、エピソードの身体から力が抜けた。仰向けに転がり、顔を横に向けて、エピソードは吐いた。胃からこみ上げてくるものをそのまま抗う気力もなく、ぶちまけたようだった。かすれたうめき声を上げながら、胸を激しく上下させて息を荒げている。定まらない呼吸を必死に落ち着けようとしている。
吐瀉物には、胃液と食物の残骸が混じっていた。血を滲ませた汚物だった。朦朧とした目つきでエピソードはそれを見つめる。歯を下唇につきたてていた。
「儂の回復力をそこらへんの有象無象の吸血鬼と一緒にするからじゃ……お前の十字架は、回復力がしょぼければ、吸血鬼にもそれなりに有効な手段じゃろうが、今の儂にしてみれば、なんじゃ、それってなもんじゃな」
忍は、ゆっくりとエピソードの全身を視線で舐め回す。鷹を思わせる鋭い視線だった。表情は狩りの前の肉食獣を思わせた。
乱れた前髪を退屈そうに払って整えると、小さく笑った。
エピソードは、忍の視線を真っ向から受け止めると、頬を僅かに歪めた。
「ほら、お主、まだ戦えるのじゃろう……儂の渾身の打撃を受けたとはいえ、ヴァンパイア・ハーフの身体はそんなに柔でもあるまい。儂をあまり退屈させるな。せいぜい足掻け……それが弱いものの強いものに対する礼儀というものじゃ」
エピソードは、頬を歪めたまま、立ち上がり、忍に右の拳を繰り出した。忍は、それを左手で外へ流すと、滑るように身体を懐に入れ、握りしめた右の拳を腹部へ突き入れた。
エピソードは身体をよろめかせながら、膝で忍の顎を蹴り上げた。
「その調子じゃっ!」
エピソードはさらに拳で忍の頭部を狙う。頭蓋上部、右のこめかみに直撃したが、忍は顔を愉快そうに歪めただけだった。
「ふんっ!」
気合いを入れる声とともに、忍が右の手刀を繰り出す。胸を狙っていた。
形容しがたい肉を貫く音がした。右手はエピソードの胸を貫いて心臓を握っている。
苦悶の表情を浮かべながら、
「……ガ……ぐ……」
声にならない呻きを口から漏らしている。
忍が無造作に手を引き抜くと、支えを失って、エピソードは倒れた。瞳から光が消えつつあった。意識が朦朧としているのか、焦点が定まっていない。血を吐いて横たわった。流れ出た血溜まりに頭が浸かった。
荒い呼吸音が響いた。必死で空気を求めている。
激しく喀血する。胸からは止めどなく血が流れ出た。
「まあ、よく頑張った方だとは思うが、そんなものじゃろうなあ……ちょっとつまらなかったの」
「畜生、段違いじゃねえか……」
「だからさっきも言ったじゃろう、前にお主とやったときよりも調子は全然いいのじゃよ……大体あのときは儂も気づかん不調の原因があったしの」
「……なんだよ、ハートアンダーブレードを追い詰めたのも、俺たちの勘違いだったてのか」
「いや、別に勘違いではないぞ。確かに儂はあのときお主らに殺されかけた。そこにいるお人好しがいなければ、死んでおったじゃろうよ」
忍が暦を見た。
目の前に心臓を突き出す。
目で聞いていた。どうするのじゃ、と。
暦は黙って首を振った。
「……そうか、わかった、それがお前様の望みならそうしよう」
忍が心臓を握りつぶすと、ぐしゃと小さい音が立った。