感覚が研ぎ澄まされていく。嗅覚と味覚が消え、触覚も殆ど意味を成さない御厨。それでも、身体の奥底で、「何か」が張り詰めていく
それはまるで、弓弦が引き伸ばされでもするかのようだった
キリキリと鳴り、ギシギシと悶える。脳の奥底から広がる熱は、忘れもしない戦闘の緊張感だ
――あそこに、何かが居る
鈍痛と共に御厨の中で鳴る警鐘は、既に御厨の感覚が、平穏に生きてきた人間と一線を期し始めたことを、如実に物語っていた
御厨の足元で、レイニーとホセが雑木林を睨みつけながら、じりじりと後退る
二人も、漠然と何かを感じ取っている。レイニーは紛争地帯出身と聞いたから、その感覚は、或いは御厨よりも余程鮮明だろう。死の匂いには、前線の兵隊程に敏感なのではあるまいか
御厨は二人をチラ、と見遣って、駆動部をうねらせるように四肢に力を籠めた
敵が居るのならば、動く。躊躇いはしない。敵が動けば、その敵の敵である者達、つまり御厨達を放って置くまい。寧ろ施設ごとの破壊が目的だと言われた方が、ずっと納得できる
もしかしたら敵なんて居ないかもしれないのだが、不思議とそうは思わなかった
問題は、レイニーとホセの二人だ。言うに及ばす、勝手に動いている所を見られるのはまずかろう
(けど、“もしも”の事態に、……迷ってなんかいられんよな)
御厨は、単純な利害を天秤に掛けた。そして人知れず、二度頷く
動くべき時に動かなければ。後の問題は、後で考えよう、と
動かずにいて、もしレイニーとホセの二人が死んだりしたら、俺は絶対に後悔するだろう、と
そうやって御厨は、何時もの様に、腹を決めたのだ
――だが
その時、ふと感じる違和感。それは一昼夜眠らずに居た後のような倦怠感の如く、全身にあり、且つ無視できない程の奇妙さだった
例えようもないが、あえて例えるとすれば、体中の間接を鳴らした時に起こる快楽と痛み。その痛みだけを、万倍も強くして、全身に散りばめでもしたような感覚
気を抜けば四肢どころか体中から力が抜けきり、機械の身すらもへたりこみそうな、そんな脱力感にも似た痛みである
誰も居ないコックピットと言う空虚さを内に抱えた御厨には、それが何なのか、簡単に解ってしまった
御厨は、修復された左腕を握りこんだ
(何だ、これ……)
気付いてしまえば、後は無様な物だった…
(俺はもしかして………脅えて?)
ロボットになった男
最初はその事実を笑い飛ばそうとした
“こう”なってから二ヶ月も経たぬ内に、平和な日の本の国では、一生を一万回繰り返したとて出会えぬであろう、死線を破ってきたのだ
今更、姿の見えない、いるかどうかも解らない敵に何を脅えるのか、と
だが無理だった。凍える背筋を、何千何万という烈尖が苛む。ジクジク、ズキズキと、音を立てて、烈尖の刻む傷が、痛むのだ
生まれてこの方、「心臓を鷲摑みにされる」という感覚がどうにも理解できない御厨だったが、たった今それを知った。それは、心臓の周りの血液が急激に冷え、氷の手に心臓を握りつぶされる感覚だった
何だって今に限って、こんなにも無様に脅えているんだ。頭の内に残った冷静な部分が、至極酷薄に疑問符を浮かべた
何が何だかわかりはしない、が、立たねば。心を、立てねば
負けられないんだろう? 例え隕石だって、受け止めて見せるんだろう? 必死に己を鼓舞する。この、ほんの短い間に起こった、喜び、悲しみ、恐怖、怒り、全て思い出す
たった少しの間の、メモワーズだ。だがそれは、御厨にとって、途轍もない価値があるのだ
――今まで、戦ってきた。これからだって、俺は戦える筈だ
そう考えて、御厨は、要らぬ事までも心の底から思い出してしまった
それは、決して忘れるべきでなかった事。御厨の、今無き生身の肉体の記憶
ついこの前まで、自分は平穏無事に、安穏と暮らしてきたと言う事実を
御厨は思い出して、そして気付いた。「ただの一般人」である自分が、まがりなりにも戦場に立てていたのは、ダリアが居たからだ
だからダリアの居ない今、こんなにも脅えている。コックピットに誰も居ないだけで、こんなにも脅えている
今まで俺は、一度も、戦ってなどいなかったのだと
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「君達、どうかしたのか。こんな夜更けに、魔物でも出たかね」
張り詰めた空気の中に、場違いな程、落ち着いた声が響く
低いダークトーンのそれは、決して若くない。年齢にして二十台後半。もしかしたら、アンジーと同年代かも知れない
だがその声は、御厨の知るどんな人物よりも、力に溢れていた。御厨は感覚の全てを破棄して没頭していた思考から、無理矢理引きずり戻された
レンズを彷徨わせて、レイニーとホセ。更に彷徨わせて、御厨は先程の声の主が、自分のすぐ右横に居るのに、漸く気付いた
確りと確かめた訳ではない。自分の横九十度角の物を見ようとすれば、頭部まで動かす事になる。そんな事をして、レイニー達に気付かれない筈がない
だから、御厨が頼ったのは、飽くまでも“感”である。そしてその“感”は、決して間違った事を御厨に伝えてはいなかった
「……顔色が悪いな。ついでに、鳩が豆鉄砲でもくらったかの様な顔だぞ」
声の主が、動いた。面白げに、僅かに声音を弾ませながら、歩み出たのだ
視界の中に一人の男が出てくる。レイニー達と同年代には見えないが、思ったよりも大分若い。おおよそ、二十五、六と言った所か
黒い軍服をキッチリと着こなし、ブーツ系の軍靴で重い足音を響かせる。ブーツはその音で解った。あれには途方も無い重量の鉄板が仕込まれている。どれ程の重さなのか予想もつかないが、驚くべきは、それでも微動だにしない男の方だ
軍人らしくよく鍛えられた体躯は、細身でありながらもかなり大柄に見えた。目測で、約百八十以上の高さの背丈は、どうしようもなく威圧的だった
(何だこの男。何者だ? この男の声は、どこかで聞いた……様な気がする)
脅える御厨に、突如として現れた存在が、追い討ちをかける
男の着ている軍服は、頭の頂点から足の爪先に至るまで、全てトゥエバの物なのに、全然全く持って友好的ではない
いや、声音には笑の気配が混じり、決して忌諱するような物ではないのに、その笑に殺の気が含まれているような気がして、御厨をそんな気分にさせるのだろう
御厨は、吐き気を催す
そして今まで注意の向かなかった男の髪に意識が行って、本当に奇妙な、後々御厨が「何故、あんな事を考えたのだろう」と思考しても、答えの出ない事を想像した
(…あぁ、この色は…ホレックみたいな色だ)
漆黒の髪の男が、まるで御厨の思考に気付きでもしたかのように、振り返った
レイニーよりも僅かに長い、黒髪の下では、サングラスが青白い電光を弾き返していた
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「機体に火が灯っているな、今まで作業していたのか。…君の担当機か? ミンツ技官」
「は、ハイッ!」
「元気が良いな、面白い返事だ。だが、もう少し……警戒などせずに、自然にしてくれると有り難いのだが」
そんな遣り取りが聞こえた。聞こえた気がしたから、多分、本当に起こっている事なんだと思う
何を言っているんだ、俺は。情けなさ過ぎて、気でも触れたのか?
だって、いや、何も考えられなくて、俺は、この男に呑まれて、このサングラスの下の、瞳に呑み込まれて
「ふ…ん、良い機体だ。ミンツ技官、君の腕が良いのか、それとも、この機体の元々が素晴らしいのか………どう思うね?」
「………元々なんて関係ありません。この子達は、ちゃんと呼びかけてあげれば応えてくれるんです」
止めろ、その声で喋るな。俺は、その声を知っているぞ。お前の瞳が放つ、焼け付くような感覚も、知っているんだぞ
「ほう…そんな感じ方もある、か……。確かに“彼女”も、戦闘中よびかけていたな」
「………失礼ですが、ちとお伺いしても宜しいですかね? ……あぁ、すいません、私はホセ・ブライアンと申します」
止めろ、こっちを見るな。あぁ畜生、この男は怖い、恐ろしい。近くに居るだけで、死んでしまうような気がする
「ああ、構わんよ。……私に答えられる事なら、な」
「では、お言葉に甘えて。……………………………………………………………手前ぇ、なにもんだ?」
笑った。あぁ、くそぅ。なんでそんなに楽しそうなんだ。なんで、お前に話しかけているのは、ホセなのに、なんでそんなに楽しそうに、俺の瞳を覗き込んでいるんだ
「私か? 残念だな。私と戦った者が、今ここに居れば、顔など見ずとも、ただ一呼吸で分かり合えるだろうに」
「貴方、一体……………何なの?」
そんな風にお前が俺を見るから、そんな風にお前が笑うから
きっとお前は、俺ではない誰かを見ているのだろうけど、御厨ではない、ダリアを見ているのだろうけど
他の全てのものが消えていく。この一寸先も覚束ない世界の中で、俺とお前だけが浮かび上がる
――ラドクリフ、天の下に、俺とお前だけが居る
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星空の下で、レイニーとホセの刺さるような視線を受けながら、男が、ラドクリフが両腕を万歳でもするかのように天高く掲げる
レイニーが思わず飛び退り、その防衛本能の成すままに身を低くした。彼女は間違いなく感じている。ラドクリフと言う男の持つ、途方もない殺気を
「質問しておきながら、君達の問いに答えないと言うのは少々理に合わないだろうが、どうか許して欲しい」
ラドクリフが腕を振り下ろす。楽曲を指揮するかのように、大仰に、壮大に
その姿は闇夜に際限なく広がるような気さえして、戦場に立つ者が見れば、十人中十人が背筋を凍らせるだろうと、御厨は思った
そして、丘陵の下に広がっていた巨大な町が、一瞬にして爆炎に包まれた
「何せこちらの聞きたい事は、本当にあれだけだったのだからな」
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…途中から訳解んなかった人お手上げ、ピッ!
すんません。たまには、こんな書き方も良いのじゃないかなぁと思ったら、見事に自爆。
しかしながら、頭が逝かれた訳ではないんで。
兎にも角にも、ここまで読んでくれた方ありがとう。あまつさえ前回感想を下さった方、前回まで感想を下さっていた方本当にありがとう。
パブロフでした。