「ああ、もうっ!」
そう叫んで私はベットの上に身を投げ出した。部屋に来る前にお祖父ちゃんと会ったが何も言わず無視をしてしまった。少し悪い事をしたと思う。
しかし今更戻る気にもなれず布団の上で寝返りを打ち天井を見上げた。毎日見ている筈の天井がいつもと違ってる様に見えるのは果たして気のせいか。
今の気分は最低でもあり―――最高でもあった。あの兄さんとキスをした事実に思わず顔がにやけてしまう。そんな自分を殴りたかった。
「兄さんと・・・・キスしちゃったのか」
唇にはまだあの生々しい感触が残っている。頭を優しく撫でながらこっちをポーッと見ていた兄さん。確かに優しくなったけど、どこか元気がなかった。
よく雑誌とかテレビで失恋中の人間は心理状態が不安定になり無意識に人を求める事があるというが――――まさしくそんな感じだったと思う。
あの誰も人を寄せ付けない態度を取っていた兄さんがそんな状態になるなんて思いもしていなかったが・・・・実際問題として私とキスをした。
「・・・・ムラサキさんという人がいるのに、ね」
天枷さんと別れてムラサキさんと体を重ねた兄さん。はっきり言って腹ただしい気持ちがあった。何年も私の方が兄さんとの付き合いがある筈なのに
横から奪い取られた気分だ。
けど天枷さんと付き合っている事に関しては意外と何も感じなかった。あれだけ純情な女の子だ。正反対の性格になってしまった兄さんとは惹かれあう
何かがあったのかもしれない。磁石と同じ原理で正反対の力を持っている同士くっついたのは自然な事だとすら思ってしまっている。
だからムラサキさんのやり方は気に喰わない。そんな純情な天枷さんを傷付けてまで彼女の場所を奪ったムラサキさん、卑怯者だと思っている。
二度振られたんだからいい加減諦めればよかったのだ。そこまでして兄さんに辛い思いをさせて手に入れたかったのか? 兄さんは物でもなんでもないのに。
話を聞けば聞くほどその卑怯者という思いが強まっていった。私には信じられない。他の人を傷付けまでも手に入れようとするその考えは――――――
「違う」
ベットの脇にある壁を思わず叩いてしまった。普段ならしないような行動。気が立っていた。自分が秘めている感情を否定したくてムラサキさんの悪口
ばかり考えている自分に腹が立つ。
本当は話を聞いた時―――思わずムラサキさんの気持ちがよく理解できてしまった。羨ましかった。卑怯な手で兄さんを手に入れたムラサキさんを妬んでいた。
同族嫌悪というべきだろうか・・・・そういったものを私は感じ取っていた。多分私がムラサキさんの立場だとしたら同じような行動を取っていただろう。
だからこそ許せない。第三者の目で見るととても醜く映った行動に理解を覚える自分を許せないし、そんな思いをさせるムラサキさんを見ているととても
不愉快だった。
クラスメイトに由夢は潔癖症な所があると言われた事がある。そんな事ある筈がないと思っていたが―――今はその通りかもしれないと感じている。
潔癖症な所がありながらそういった暗い感情を持て余している自分。とてもじゃないが兄さんとか姉さんには見せられない。
さっきの行動にしたってそうだ。髪を触るなんて言葉を口実に私は兄さんに近づいた。今の弱っている兄さんなら、どうにか取り返せるかと思ってしまった。
兄さんは私の頭を自分の方に引き寄せてキスをしたと思っているだろう。確かに微々たる力だがそんな行動を兄さんは取っていた。
だが決定打では無い。これ幸いと近づいていったのは自分だ。あの目と口を見ていたら我慢が出来なくなっていた。ムラサキさんが天枷さんから奪った様に
私もムラサキさんから兄さんを奪おうとしてしまった。
「最低だな。私って」
ムラサキさんがした行動をなぞっている自分にどうしようもない感情を抱く。あのキスしている数秒間に至福を見出してしまって自分に暗い感情を抱く。
本当はこんな事したくないという気持ちともしかしたら兄さんを取り返せるかもしれないという気持ちがゴチャゴチャになって心を乱していた。
だからあの場を逃げ出してしまった。そんな事を思っていないと否定したくて兄さんに酷い言葉を投げかけてしまった。もう呆れ果てているかもしれない。
私はその感情がとても気持ち悪く、制服のまま布団の中に潜ってしまった。
「今お茶を持ってくるから、座ってておくれ」
「あ、そんなお構いなく――――」
オレは制止しようとしたが純一さんは立ちあがって台所の方に向かって歩き始めてしまった。オレは手持ち無沙になってしまいソファーに背中を預ける。
久しぶりに来た朝倉家は細かい所は変わっているが記憶通りの場所だった。思わず幼少の日々を思い出してしまう。まだ人としてぶれていなかったあの頃を。
そして純一さんが熱いお茶を台所から持ってきてオレの前に置く。オレは礼を言うだけにしてそのお茶に手をつけなかった。
「純一さん」
「ん? なんだね」
「すいませんでした」
そしてオレは純一さんに頭を下げる。もちろん音姉や由夢についての謝罪だ。いづれ謝ろうと思っていたのでこの機会に頭を下げようと思った。
純一さんは少し不思議そうな困ったような顔をしながらオレに話しかけてきた。
「いやはや・・・・いきなりどうしたんだい?」
「音姉や由夢に暴力を働いてしまった事について謝りたいんです。本当にすいませんでした」
「・・・・・さくらから色々話を聞いているよ」
「え?」
「君は私の知っている義之君ではないという事だよ。色々複雑な事情で感情がコントロール出来ない事も知っている。まぁ―――だからといってしょうがない
とも思っていないがね」
「・・・・・・当然です」
厳しい視線を送る純一さんに何も言えなくなってしまう。純一さんにしてみればオレが何者であろうと関係ないのだ。問題はオレが音姉達を殴る蹴るなどの
暴力行為を働いた一点に限る。
小さい頃から面倒を見てきた家族の者を傷つけられたのだ。今ここで純一さんがオレを殴ったとしてもしょうがないだろう。
殴られたら瞬間的に頭に血が上ってしまうだろうが手は出さないつもりだ。好きなだけオレをボロボロに殴ったとしてもそれはそれで構いやしなかった。
「もしかして義之君は・・・・わしに殴って欲しいんじゃないかね?」
「え・・・・」
「そういう気持ちが態度に表れているよ。殴って欲しい、許して欲しい、自分の罪を軽くして欲しい・・・・まぁ、そんな所だろうなぁ」
「・・・・・・」
「だからわしは殴らない。その方が義之くんには堪えるだろ?」
そう言って純一さんは台所から汲んできたお茶に口をつける。そして口の中の熱を追い出すように息を漏らした。少しばかり沈黙が流れる。
まぁ―――確かに堪えるやり方だ。正直謝ってスッキリさせたい気持ちがオレにはあった。純一さんにはそんなオレの気持ちなんか見透かしているに違いない。
だからオレはそれを甘んじて受けようと思う。決してそれが償いとなるとは言えないが―――今はそれしか出来ないだろう。
「まぁもうやってしまった事だし混ぜっ返したりしないよ。もうニ度としないだろうしね」
「・・・・はい。そのつもりです」
「うん。さて―――今日この家に来たのは由夢を訪ねての事だったが・・・・何かあったのかね?」
「・・・・・まぁ、色々です。けど酷い事をしたとかそういうのじゃないので・・・・・」
「義之君はそう思わなくても向こうはそう思っていない可能性もある。違うかね?」
「・・・・・おっしゃる通りです」
「――――すまんな、意地悪を言ってしまって。まぁ義之君達も若いし色々あったんだろう。すまないが早くアレと仲直りしてやってくれ。あまり
孫が泣く姿は見たくないのでな」
「はい。分かっています・・・・それじゃあ」
そう言ってオレは立ちあがった。由夢の部屋は覚えている。小さい頃は何度か入った事はあるがそれっきりなので少し緊張みたいなものを感じていた。
そんなオレに純一さんは声を掛けた。首を回し振りかえると純一さんは笑っていた。そんな様子にオレは少し緊張感が和らぐ。
「はは、久しぶりの由夢の部屋だろうけどそんなに緊張しなくていい。アレの部屋はどうせ一人暮らしの男と変わらない部屋をしているよ」
「・・・・怒られますよ」
「・・・・はは。冗談だよ冗談。まったくあいつが一番音夢の性格に似て―――――」
そして独り言をぶつぶついいながら庭に出る純一さん。日課の庭の手入れだろう。庭には綺麗な花が咲いている。
オレは気を入れ直して由夢の部屋に向かうため踵を返す。一人暮らしの男と変わらない部屋―――ゴキブリとかいねぇだろうな。
「入りますよ・・・・っと」
「・・・・・・・!」
いきなり兄さんの声がして心臓が跳ね上がる。ノックの音は聞こえていたがお祖父ちゃんだと思っていた。まさか兄さんがこの部屋に来るとは思ってもいなかった。
物怖いしない態度でズカズカと部屋に入ってくるのが布団の中から伝わってくる。少しは遠慮して欲しいモノだ。私だって年頃の女の子なんだから。
「・・・おい、由夢」
「・・・・・・」
「いきなりあんな真似してすまなかったな。最近のオレはどうにもすぐ雰囲気に流されちまっていけない。お前にまであんな真似しちまうなんてな」
「・・・・・・」
「まぁ、こんな言い方は腹が立つと思うが―――犬に噛まれたもんだと思ってくれ」
「――――――ッ!」
「オレはお前にそういった感情も抱いてないしお前だってオレの事は好きじゃない筈だ。早々にお互い忘れよう。その方がいい」
犬に噛まれた程度。兄さんは確かにそう言った。私はこんなにも意識しているというのにただの事故で済ませてしまっている。
笑える話だ。兄さんを奪い返すどうのこうの以前の話で私に何の感情も抱いていないのが分かった。分かっていた事だがかなり堪える。
ベッドが軋む感覚がした。兄さんが私のベッドに座ったのだ。次にどんな言葉が飛び出すか布団の中で不安でいっぱいになりながら身を固める。
「さっき久しぶりに純一さんと喋ったよ。お前に何かあったんじゃないかって心配している。オレが言うのもなんだが早く顔を出し方がいい」
「・・・・・・」
「・・・・オレ、そろそろ行くよ。勝手に部屋に入ってごめんな」
そう言って立ちあがって出て行こうとする兄さん。ベットから一人分の体重が無くなる感触がした。その感触に不安な気持ちが広がる。
普通だったらこのまま兄さんを出て行かせたほうがいい。そうすれば明日からは普通に話せるだろう。今日の事なんか無かった事にして。
兄さんは兄さんでムラサキさんや天枷さんの事で頭を悩ませている。私の事なんかまるで興味が無いしこれ以上私が頭を突っ込むべきではないと思っている。
なのに――――なんで私は兄さんの手を掴んでいるのだろうか。
「・・・・由夢?」
「・・・・・・」
「・・・・・はぁ」
布団の中から腕だけ伸ばして手を掴んでいる私に呆れ果てたのか少しため息をつく兄さん。きっと私が何を考えているのか分からないのだろう。
私だって分からない。本当はどうしたいのだろうか私は。天枷さんを応援したい気持ちがあると同時に、私がその場所に居座りたい気持ちがあった。
ムラサキさんは駄目だ。あの女性だけには兄さんを渡せない。性格がどうのこうの以前に、理屈では無くその在り方が私と似ていて嫌いだったからだ。
なのにその私が兄さんの脇に居座ろうとする矛盾。結局のところ私は兄さんの隣に居たいだけなんだ。そしてまたベットに兄さんが腰掛ける。
「ふ~ん」
「・・・・・・・」
「ほぉ」
「・・・・・・・」
「へぇ~」
「・・・・・・・」
兄さんが私の部屋をジロジロ見回している雰囲気が伝わってきた。途端にさっきまで不安だった気持ちが恥ずかしさに変わってしまった。
きっと顔は朱色に染まっているだろう。私は布団に入る前の自分の部屋を思い出した。確か変な物は置いて無かった筈だ。掃除だってキチンとしてるし。
兄さんに見られて困るモノは無い筈だ。もし万が一、仮にあったとしても兄さんは見て見ぬフリをしてくれるに違いない。
「最近の女性向け雑誌はよくこんな特集を組めるよなぁ。『気になるカレとの一晩の過ごし方』ねぇ」
「―――――ッ!」
「お前も成長したんだなぁ。こんな―――――」
「か、返してっ! バカっ!」
そう言って私は少しだけ頭をだして兄さんからペラペラ捲っていた雑誌をひったくり返した。そして慌てて再び布団の中に潜り込む。
どうやら私の兄さんにはデリカシーみたいなのは無かったようだ。昔からそういったものは無いようだったが最近は度を越して無くなったのを思い出す。
もう恥ずかしいなんてものじゃない。何が悲しくてこんな辱めを受けなくてはならないんだ。手にした雑誌を固く握りしめる。
「しかしもうそんな歳頃かぁ。小さい頃はお兄ちゃんお兄ちゃんてうざったい位オレの背中追っかけてきたのにすっかり色気づいちゃって」
「・・・・・・」
「なんだ、またダンマリか。手なんか握ってくる位だからなんか言いたい事でもあるんじゃないか?」
そう言って繋いだ手をプラプラさせてくる。少し呆れたため息みたいなのも聞こえてきた。その呆れ声を聞いて少し腹が立つ。
キスをしたっていうのに特に何の反応を示してこない。本当にただの事故だと思っているようだ。微々たる力とはいえ私の頭を引き寄せたと言うのに、
ああ―――もう全部自分の気持ちを言ったほうがいいのではないかと思い始めた。今まではそれが出来なかったが今なら・・・・出来る気がする。
「そういえば美夏もなんだか知らないがそういった雑誌持ってたなぁ。ロボットの癖にそういった物に興味を持つのはやっぱり女だからなのか」
「・・・・・・」
「今頃何してんのかなぁ。またクラスの奴らに嫌がらせ受けてねぇだろうな・・・・」
「・・・・・・」
「しかし元彼がいって注意するのも恥ずかしい―――いや、オレの場合そんな事関係ねぇか。そんな事してるヤツがいたらブン殴ってやる」
「・・・・・・」
「お前も出来る限り注意してやってくれ。お前ならそこそこ人望もあるし・・・・きっとお前の言うことなら――――」
そこまで言って私は兄さんを布団の中に引きずり込む。いきなりの事で反応出来なかったのか素直に入ってきてくれた。
さっきから口を開けば美夏美夏ばっかり言って苛々する。手なんか繋いでいる癖に口から出るのは他の女性の名前だけ。天枷さんの気持ちが分かる気がする。
この男はろくでなしだ。天枷さんの事が一番に好きながらもムラサキさんと体を重ね、あの場の流れとはいえ私とキスまでした。
不安だったに違いない。そこのところをこの男は理解しているのだろうか、この女好きめ。そのうち刺される事になっても私は知らない。
「兄さんて本当にろくでもないよね。色んな女性とキスまでして泣かせて傷付けてそして騙して。その内刺されるよ?」
「・・・・・やっと喋ったと思ったらソレか」
「ねぇ、なんで私とキスしたの? 好きだから? 寂しいから? 場の勢いだから? 天枷さん達とかで味をしめたから? 私ともヤリたいだけだから?」
「・・・・・そこまで節操がないとは思っていないんだが。エリカにしたってまさかあんな関係に――――」
「そうだよね。兄さんて別にムラサキさんの事なんかどうでもいいんだよね。だってそうでしょ? さっきからムラサキさんの事なんか一言も出て
こないじゃない。朝はあんなに仲良さそうに歩いていたのに出る言葉は美夏って言葉だけ。本当は体だけが目的なんじゃないの?」
「・・・・・いい加減にしないと怒るぜ」
「嫌だ。怒らないでよ」
そう言って今度は私からキスをする。雰囲気も何もないが構いやしない。兄さんが怒るなんて所見たくないし怒る理由なんてない。だから口を塞いだ。
一度したから二度三度したって関係ないだろう。首に腕を回し逃げられないようにする。真っ暗闇の中には私と兄さんの鼻息だけが聞こえてくる。
唇を離すと予想通り怒りもせずただ戸惑う兄さんの顔だけが見えた。まさか私からキスをしてくるなんて思いもしなかったのだろう。
ああ、本当にこの人は奪い易いと思う。だからムラサキさんなんかに手籠めにされてしまうだ。普段は悪ぶってる癖にこういう風に責められると途端に弱くなる。
きっとムラサキさんもこんな感じで奪ったんだろう。同じタイプの人間だから分かる。天枷さんがいない今、こんなにも落とし易い人間は今現在他にはいないだろう。
「・・・なにするんだ、よ」
「まだとぼけてるの? そこまで鈍い人なんかじゃないでしょ兄さんは。兄さんの事が好きだから私はキスしたんだよ? 兄さんみたいに誰構わずキスする
人間に私が見える?」
「・・・・」
あ、怒った。あの時程じゃないけど怒りで顔が無表情になる。今にでも殴りかかってきておもおかしくない雰囲気になっている。
だって本当の事を言ったまでだ。傍目からみたらそうとしか取れない行動をとっている兄さんに問題がある。この女たらしには自覚が無いのだろうか。
顔は怒っている様に見えるが私の好きという発言に少し戸惑いを覚えているのが分かる。心を読めるなんていう超能力なんか持っていないが全てが分かってしまう。
普段表情を表に出さない人間がそれを出している。感情を出せば出すほどボロボロと胸に込めている表情が零れ落ちてしまっている。それはもう自分の心を
さらけ出しているのと同じだった。
「・・・・お前がオレの事を好きだったなんて気付かなかったな――――だがお前とあれこれするのは断るよ。これ以上厄介事を増やしたくないんでな」
「何を今更。天枷さんと別れさせた張本人のムラサキさんにのめり込んでる癖に。私の一人や二人増えたって許容範囲でしょ?」
「美夏とは出来れば、また復縁したいと思って―――――」
「何冗談言ってるの兄さんは。ムラサキさんとあれこれしてる癖にそういう事を言うんだ? へぇ、最低だねって兄さんて」
私は思わず笑ってしまった。兄さんはそんな私を睨むがいつもの強気な瞳は無い。それはそうだ、本当の事を言ってるんだから。反論出来る筈も無い。
なんだか強がっている子供のようだ。そう思えば今の兄さんがなんだか可愛らしく思える。お姉ちゃんが弟君と呼んで溺愛する気持ちがよく理解出来た。
ギュと思わず兄さんを抱きしめる。あんまり男臭くない臭いが鼻に付く。ムラサキさんは毎日こんなことをしてるのだろうか。本当に羨ましい。
首を回して横を見れば綺麗な頬が目に付いた。そしてそこにキスをする。ビクッと震える様子がまたもや可愛らしい。頬から鼻に、口へとキスしていく。
「・・・おい由夢、やめ――――」
「ねぇ兄さん。私ともムラサキさんにしたように同じ事をしたい? したくなったでしょう?」
「――――――そんな訳ねぇだろ。バカか」
「また嘘ばっかり。兄さんて最近は何を考えているか分からなかったけど今は全部分かっちゃうんだから――――好きだよ、兄さん」
「・・・・・・」
もう決めた。兄さんを奪っちゃおう。あんな人にこんな可愛い兄さんを預ける訳にはいかない。私が兄さんの新しい彼女になろう。
とりあえず兄さんの首元にキスをして思いっきり吸う。確か雑誌ではこうやると確実にキスマークが残ると書いてあった。ムラサキさんのキスマークが
無くて本当によかった
とてもじゃないが同じ所になんかキスしたくない。また小さく震える兄さんが可愛い。というか本当に今の兄さんは流されやすいなぁ。
そしてまた唇に戻りキスをする。もうここまできたら引き返せないだろう。そういう雰囲気を作ったし今の兄さんには抵抗出来ない筈だ。
「・・・・兄さんからキスしてよ」
「いや、オレは・・・・」
「もう、今になって怖気づいたの? ムラサキさんには何も言わないからしちゃっていいんですよ? ほらぁ」
そう言って唇を突きだす。ムラサキさんに言わないというのは嘘だ。これを口実にしてムラサキさんから奪い取るつもりでいる。
私は天枷さんみたいに優しい人間ではないのでそう簡単にはいかない。あんな世間知らずのお嬢様に負けるつもりなんて毛頭ない。
しかし唇を突き出しても一向にキスをしてこない。焦らしているのだろうか。まぁどうせまだ迷っているのだろう。今更な話だというのに。
だから兄さんの手を自分の胸に持ってくる。かなり恥ずかしい行為だがもう腹は括っている。やれる事はとことんやるつもりだ。後に引き返すつもりはない。
兄さんの手の上に自分の手を持ってきて強制的に揉ませる。兄さんのゴツゴツした手が自分の胸を揉んでいるという事実だけでもう参ってしまいそうだ。
もしここで兄さんを引き留められる者がいるとすれば天枷さんだけだろう。ムラサキさんにはそこまでの力は持っていないようだし兄さんもそんなにムラサキ
さんに執着しているようには思えない。
そして―――その天枷さんも今はもう傍にいない。奪うなら絶好の機会だ。兄さんもその気になってきたのだろうか、目が少し酔っている様にも思える。
自暴自棄な所を襲うのは卑怯だと思うが・・・・兄さんが言った事だ。悪いことの一つや二つ考えてみろと言ったのは。私はそれを忠実に実行しているだけ。
そしてとうとう決心したのか私の顔に手を当て近づいてくる兄さん。ああ、やっとその気になってくれた。あとはこの勢いのままするだけ。
場の雰囲気に流される男というのはみっともないと思うが―――今はそれがありがたい。だってそうでなければこんな風に兄さんはキスしようとなんて思わな
いだろう。目を閉じながらキスしてこようとする兄さんを見ているとそんな事どうでもよくなってくる。
しかし私と付き合うようになったらそんな事はさせない。四六時中そばに居てやるつもりだ。他の女性に目がいないようにずっと私に目を向けさせてやる。
そして信用もしない。ずっと心のどこかで疑いの気持ちを持っておく。そうすれば目端が効いてちょっとした事でも気づく事が出来るだろう。
天枷さんはまるっきり兄さんを信用したばかりにあんな――――いや、今はいいだろう。そんな事よりも今は兄さんとキスをするのが一番の目的だ。
「・・・・きて、兄さん」
段々近づく兄さんの顔。最初キスしたのではまるで意味合いが違う。私が兄さんの事を好きと宣言してからのキスだ。もうしてしまえば後には引けなくなる。
意外とすんなり事が進んだがまぁいいだろう。変にゴネられるよりはよっぽどマシだ。そうして私はうっすらと目を開けて兄さんの唇をみる。
口が何か言葉を発しようと開きかけていた。多分私の名前を呼んでくれるのだろう。早く呼んでくれないかなとどこかウキウキした気分で見詰めた。
よくドラマとかで見るシーン。淡い羨望を抱いていた。そんなシーンを私が好きな兄さんとするなんて夢にも――――――
「・・・・・・・美夏」
夢にも、夢にも・・・・なんだっけ。何を考えていたのかすっかり忘れてしまった。ハッとした顔になり私を見詰める兄さん。
そんな兄さんを見て私は――――笑ってしまった。そんなマヌケ顔があまりにも兄さんらしくて笑ってしまった。
私のそんな様子をみてどこかオドオドする兄さん。それを見て更に笑う私。少しばかり呼吸困難になってしまう。
「・・・・プッ・・・フフ、何やってるのよ兄さんは・・・・」
「・・・・いや、その、だな」
「――――あーあ、冷めちゃうなぁ」
そう言って布団を跳ね除ける。久々に味わう外の空気が美味しい。それをいっぱいに肺に送り込む。そうすると熱がかかった頭が冷やされた気分がする。
行為の最中に他の女の名前を呼ぶ―――なんてベタだ。今時のドラマでもあまり使われない設定だ、あまりにも陳腐過ぎて笑ってしまう。
だが、まぁ・・・・私では結局無理なんだろうという事は分かった。それだけでも収穫だろう。高ぶった心が段々冷えて行くのが分かる。
結局兄さんは天枷さんの事をまだ好きなのだろう。ムラサキさんがあそこまでして、私がここまでやって呟いた名前が天枷さんの名前――やっていられない。
「さっき兄さんの事が好きだと言ったでしょ?」
「・・・あ、ああ」
「あれ、嘘だから」
「――――は」
「むしろ嫌いになっちゃった。ホラ、早く出てちゃって。さっきの事は全部犬に噛まれたものだと思っちゃっていいからさ」
そう言って背中をグイグイ押して布団から追い出す。たたらを踏んでベットから下りる兄さん。そして私はベットの縁に腰を掛ける。
兄さんの顔は何がなんだか分からないといった具合だ。その顔がまたマヌケで笑ってしまう。こういう顔こそ兄さんらしいと私はこの時思った。
変に悪ぶって暴れている兄さんよりもこっちの兄さんの方が好ましい。
「犬に噛まれたってお前・・・・」
「最初そう言ったのは兄さんでしょ? というかああいう雰囲気で他の女の人の名前を呼ぶなんて最低ですよ」
「・・・・すまん」
「ああ、勘違いして欲しくないですけど別に天枷さんの名前を呼んだ事については怒っていませんよ」
「じゃあなんで・・・・」
「色々あるんですよ。ただ確実に言えるのは―――もう兄さんに恋愛感情は無いという事だけです。ホラ、私寝なおしますから早く出て行って下さいな」
そう言って制服姿のまま布団を背中に被る。兄さんは部屋を出て行くこともせず棒立ちになっていた。
まぁいきなりの展開で戸惑っているのだろう。自分の事を好きと言ってキスしてきた女が嫌いと言ったりさぞや訳が分からないに違いない。
「あと兄さん? 早くムラサキさんなんかとは縁切った方がいいですよ。あれ、ロクな女の子じゃありませんから」
「・・・・お前ってエリカと仲悪かったけ?」
「別にそういう事じゃありませんけど嫌いなものは嫌いなんです。あんな子より天枷さんとより戻した方がいいんじゃないですか?
行為の最中に名前を呼ぶくらいなんですからまだ好きなんでしょう? あ、別に嫌味で言ってる訳じゃないので誤解しないでくだ
さい。私、別に怒ってませんから」
「いや、怒ってるだろお前」
「いーいーかーらっ! こんな真似をしていないで早く天枷さんにでも会いに行ったらどうなんですか? 校舎裏に忍びこんで
呼びだすぐらい出来るでしょう」
「・・・・お前がそんな事を言いだすなんてな」
「悪いことの一つや二つ考えろと言ったのは兄さんでしょ?」
「まぁ、確かに言いはしたが・・・・」
「だから早く言って下さいな。いい加減にしないとお祖父ちゃん呼びますよ」
そう言って背中に布団を被ったまま後ろに寝転んだ。兄さんはもう何を言ってキリがないと悟ったのか踵を返す雰囲気が伝わってきた。
私は傍にあった枕を持ち上げながらその背中に声を掛ける。そろそろ枕変えようかなぁ、この間可愛いやつ見つけたからそれを買おう。
「ねぇ兄さん」
「・・・・なんだよ」
「ムラサキさんとは本当に早く縁を切ったほうがいいよ。ああいう人ってなんでもするタイプだから。例えば手首を切ったりして引き留めよう
としたりね。結構いるんだよ、そういう女の人」
「・・・・・・」
「多分兄さんがまだ天枷さんの事を想っている事も知っているだろうし・・・・。何するか分からないよ」
私はまだいい。のめり込む前に頭を冷やさせてもらったからまだすんなり諦めがついた。まぁ、まだ好きという感情が残っているが・・・・その内
また落ち着くだろう。もう何年も慣れ親しんでいるあの感情や振る舞いに戻るだけだ。
けどムラサキさんの場合はもう手遅れな程のめり込んでしまっている。兄さんと話している時なんかまるで王子様を見ているかの様に目をキラキラさせて
いたし目がもう兄さんしか見ていなかった。
私と同じタイプだから分かる。ああいう風に夢中になる女の子は非常に危険だと。近々ロクでない事をしでかすに決まっている。
それだったら天枷さんを応援していた方がまだいい。凄く純情なのが玉に傷だが――――それが返って素直に応援したっていいという風な気持ちになれる。
友達という事で多少贔屓目に見ている所があるがそれでも天枷さんの性格は好ましいと思える。私なんかと違って素直だしとてもいい子なのは分かっている。
「まぁ―――早いとこ仲直りしたほうがいいかもね、天枷さんと。そうやって自分に甘えてフラフラしてちゃ救われるモノも救われないよ」
「・・・・分かってるよ。まったく、さっきから偉そうに。妹の癖して少し出しゃばりすぎたっつーの」
「妹だから言えるんですよ。なんとも情けない兄を見かねて注意してるんです。さっきみたいにすぐ流される兄さんを見てる程情けないモノはありませんから」
「――――言ってくれるな」
「ええ、何度でも言いますよ。自暴自棄で自分に酔っている兄さん、早く別れたフリなんかしていないで天枷さんとまたくっ付いて下さい」
「別れたフリって・・・・」
「話だけ聞けばそう思うんですよ。この間天枷さんを見掛けた時、大事そうにストラップを握り締めてましたよ。あれはまだ全然兄さんの事が好きなんでしょうね。
そして兄さんも天枷さんの事が好き。別れたフリじゃないですか」
「・・・・・まぁ、そうかもしれねぇけど」
「あとムラサキさんの事はもう無視した方がいいです。なまじ構っちゃうからつけあがってくるんです」
「・・・・茜にも同じ事を言われたよ。徹底的に無視したほうがいいってな」
「なんだ、花咲先輩も同じ事言ってるんじゃないですか。だったら早く無視したほうがいいですよ。私だけじゃなく花咲先輩も同じ事を言ってるんですから」
「――――ああ、分かってはいるよ。分かってはいるんだが・・・・・まぁいいや。邪魔したな由夢、そろそろ帰るわオレ」
そう言って部屋から出て行く兄さん。まぁ今の返事具合からして分かっていないんだろう。だから花咲先輩に言われたにも関わらずムラサキさんと一緒に居る。
だがどうやら天枷さんの所には行く様子だ。というかさっさと初めから会いに行けばよかったのに。別れた後すぐにでも行けばこんなにも兄さんは迷わずに済んだ
かもしれない。そういう話なのだこれは。
結局最初から最後まで天枷さんの事しか頭に入っていない。ムラサキさんと体を重ねたみたいけどそんなモノ大した事ではない。心がそこにないのだから
意味がないのだ。いくら体で引き留めたとしても一時的に過ぎない。遅かれ早かれ兄さんはムラサキさんから離れるだろう。
「ムラサキさんは多分その辺の事分かっていないんだろうなぁ。冷静に考えれば分かるのにきっと『絶対義之は私から離れない』と思っているに違いない、うん」
それほど周りが見えていないに違いない。さっきの様子でしか判断していないけど十分だ。そう信じ切って甘えている目をしていた。
その内に痛い目を見るだろうが―――そこまでは知った事では無い。私の可能性が無くなった今、天枷さんを素直に応援する側に回ったのだから。
天枷さんなら素直に応援出来る。私達と違っていい感じにお互いを尊重し合う関係になるだろう。私達ではそれが出来ないと思うし、ね。
というか天枷さんも天枷さんでちゃんと兄さんを繋ぎ留めて置かないのが悪いと思う。あんな浮気性の男を全部信じきるのはバカとしか思えない。
まぁ、そんな所に兄さんは惹かれたのかもしれない。あれ? そう考えたら最初から私とかムラサキさんには勝ち目が無かったって事かな?
あぁもう、終わった事をあれこれ考えるのは止そう。とりあえず今流れている涙を吹いてそれから寝なおそう。たまにはこんな昼間から寝るのも悪くない。
「うぅ・・・・グスッ・・・・・てぃ、てぃっしゅ~・・・・ひぐ」
長年想っていた気持ちを出したと言うのにまた引っ込めるんだ。多少泣いたって構わないだろう。もう二度と出さないこの想い―――無くなる事は無い。
それほど子供の頃から好きだったし、この先もそうだろう、だが兄さんには天枷さんという好きな人がいる。入りこむ隙間なんて無い事はさっき分かった。
ああ―――せっかく勇気を出したというのにこれだ。今日は厄日に違いない。大体兄さんがあんな風に流されるのがいけないのだ。男ならドーンと構えて欲しい。
とりあえずティッシュで鼻を拭いてまた布団に潜る。天枷さん、あんな兄さんですけど根気よく付き合って下さいね。そう思いながらまた深く私は布団に潜った。
「・・・・まるで狐に化かされた気分だ」
そう呟いて朝倉家の玄関を潜る。いきなり好きだの嫌いだの言われて家を追い出されてしまった。上を見上げて由夢の部屋を見る。
危うく由夢とキスして場の雰囲気に流されそうになってしまったが・・・・そうはならくてホッと一安心する。
由夢がオレの事を好きという話――嘘だと言っていたが、多分本当だろう。思えば前の世界で視線をいつも感じていた。
その時は何も思わなかったが・・・・そういう事だったのかと合点がいった。そしてオレの事を嫌いだと言っていた由夢の目も本当に見える。
訳が分からない。オレの身の周りの女はどうしてこうも一癖も二癖もあるやつらなのだろうか。振り舞わされてばかりなような気がする。
―――しかし由夢にも言われたが、最近のオレはなんだが軸がぶれているというかなんというか、どうしようもない人間になっている気がする。
「気がする、じゃなくて事実そうなんだよな。前はこんな事無かったんだが・・・・」
余程美夏と別れたのが効いているのだろう。由夢にもさっき言われたが自暴自棄の自分に酔っているのかもしれない。
挙句の果てにはエリカと体を重ねてしまっていい気でいる自分―――昔のオレが見たら殴りつけているだろう。それほど情けない姿だと思っている。
由夢は言った、オレと美夏は別れたフリをしただけと。本当は好き合っているんだと言っていた。
「ストラップ、まだ持っていてくれたんだな」
現金なモノで美夏がオレがクリスマスにあげたストラップをまだ大事に持っていると聞いて嬉しくなってしまっている。
きっと本当は美夏は今オレに会いたがっているのかもしれない。いや、本当はオレが会いたいだけなんだ。エリカとあんな仲になってしまったというのにそんな
事を思ってしまっている。
エリカ――――まだオレが美夏の事を好きだと知ったらどうするんだろうか。この間は手首を切った。今度は何をするか分かったもんじゃない。
オレが迷えば迷うほど事態は悪い方向に流れて行く気がする。思えば別れた後から美夏とロクに喋っていない事に気が付いた。
まだ間に合うか―――都合のいい事を言っているのは分かっているがオレはまだ美夏の事が諦めないでいた。
「なんにせよ、まずは美夏と少しでもいいから喋ってみるか」
そこからはまず始めてみようと思う。エリカの件はどうするかはまだ煮え切らないでいる。やるだけやって捨てるような扱いはしたくない。
由夢にその点を付かれた時は本当に何も言えなかった。事実だからだ。ぐぅの音も出ないとはまさにこの事―――美夏とよりを戻すとはそういう事だ。
エリカの事は好きだし、何かと気になってしまう人物ではある。だが・・・・まだ天秤は美夏の方に傾いていた。
「やるだけやってポイ捨て、か。殺されても文句は言えないな」
どんな言葉を取り繕うとも一言でいえばそんな感じだ。開き直った訳ではないがさっきと由夢と話している内に腹を括った。
オレはエリカを――――捨てる。タイミングとしてはもうこれ以上ないぐらい最低なモノだった。だがその最適なタイミングを捨てたのは自分だ。
本当は美夏の事を想いながらエリカにも惹かれ、ズルズルとここまで来てしまった。結果、美夏とは別れてこれからまたエリカを傷つける。
「こりゃあ・・・・本当に刺されてもしょうがない」
しかし問題はそんな事でなない。問題は―――エリカが自殺とかそういう類の行動を起こすことだった。
今でも鮮明に思い出せる。エリカが自分の手首を切った所を。何の躊躇も無く自分の体を傷つけた。その行為が最も自分の恐れている事だった。
余程うまい事やらないとまたそうなってしまうだろう。いや、そうなる確率の方が高い。今のエリカを見ているとそう感じてしまう。
美夏にはもう少し辛い思いをさせてしまうが、少し離れてエリカにフォローを入れるべきだろう。前に一度考えた通りにそれを実行すべきだ。
本当はもっといい方法があるんだろうが・・・・自分の力で解決しなければいけない事だと思う。杉並や茜に頼る事では無い。
そう決心して歩き出そうとして―――携帯が鳴った。着信表示画面を見る。相手は・・・・茜だった。
「なんだ、茜」
「あ、義之くんっ!? いきなりで悪いんだけどちょっと今から学校に来てもらえる!?」
「あ? どうしたんだよ」
「いいから早くっ! 天枷さんとエリカさんがもう取っ組み合いになっちゃってて大変なのよ!」
「・・・・は? なんで――――」
「原因は貴方よ貴方っ! 今杉並君とまゆき先輩が押さえてるけど・・・・! 貴方が来ない事には多分―――」
「今すぐ行く。すぐにな」
「あ――――」
そう言って通話を切る。オレは駈け出そうとして――――止まった。確か首元には由夢がつけたキスマークがある筈だ。急いで家に帰る。
玄関に靴を乱暴に撒き散らして洗面所の鏡を覗くとそこにはきっかり痕跡が残っていた。急いでお湯を出してそこにつける。内出血が原因でこういう跡が
つくからこうやって熱して冷やせば論理的には消せる筈だ。
もちろんお湯は熱湯だ。悠長にお湯で温める時間なんてない、火傷は覚悟の上でそこに濡らしたタオルをつける。キスマークなんてぶら下げてあの二人の
前になんか行けやしない。
「あっちぃぃぃっ! くそ、由夢のヤツ! しょうもねぇもんつけやがって! 好きでもなんでもねぇならこんなもんつけんなっ!」
そして今度はそこを冷やす。馬油などがこういうのには効くそうだが生憎そんなものを探す時間なんか無い。そもそもこの家にそんなものがあるなんて
聞いたことが無い。さくらさんに聞けばいいのだろうが生憎今は仕事中だ。
しかし美夏とエリカが喧嘩・・・・茜のテンパリ具合から察するによっぽど激しくやりあってるんだろう。怪我だけはしないでくれ。オレがそんな言葉を
吐き出す資格はないが、ただただそう思う。
ああ――――本当に嫌なタイミングばかり重なる。オレは程々にその作業を終わらせて学校へ向かった。停学中で色々言われると思うが・・・・そんな事は
もう頭に残っていなかった。