「う・・・げぇ・・・」
便器に勢いよく胃内にある物を吐き出す。息が出来なくなり鼻もツンとするが無理矢理全部吐き出して楽になる。
そして少し一息つけたと思ったらまた嘔吐感に囚われまた吐き出すの繰り返し。地獄のような苦しさだった。
もう出す物が無くなり胃液しか出て来ないが水を飲んでまた吐き出す。とにかく吐きたかった。それぐらい胃に気持ち悪さを感じていた。
「・・・・はぁ・・・はぁ・・・くっ、げぇ」
また吐き出す。これで最後にしようと思い、全力で自分の腹に拳をめり込ませる。先程飲んだ水と胃液が混ざり合った物が出てきた。
それを茫然と見詰めレバーを回す。吐き出された物が吸い込まれていく様を見ながら手の甲で口を拭いた。よろよろと壁に圧し掛かる。
なんでこんなにも気持ち悪くならなければいけないのか。理由はハッキリしている。額にひんやりした手を置きながら気持ちを落ち着かせた。
「・・・・・くそが・・・・なんたってオレは」
さくらさんとの甘くて頭がとろける様な時間を過ごした。オレの事を本当に愛してくれてるのが分かったし、そんなさくらさんをオレも愛おしく
なり激しく求めてしまった。とても幸福な時間で全てが夢見心地だった。
さくらさんの愛の囁き、無垢な笑顔、淫らに揺れる表情や与えられる快感、まるで蜜の中に溺れる様な感じだった。鼻孔には未だにあの時の
匂いが残っている。ずっと慣れ親しんできたさくらさんの匂い、お互いの体から流れ出る淫猥な液体の匂い、甘い匂いがした。
そしてたまたま朝早く起きて、昨日の情事を思い出し―――吐き気を覚えた。まっすぐトイレに駆け込みそのまま吐いた。
家族を抱いた、母親みたいな人を抱いた、それがストレスとなってこういう形に表れているのだろう。はは、オレも案外小さい人間なんだな。
いつも何に対しても関係ねぇよという態度を取ってる癖に器の小さい人間だと自覚してしまった。思わず乾いた笑いが出る。
きっとこの苦しみから逃げる為にはさくらさんを全部受け入れるしかないのだろう。美夏を捨て何もかも関係を捨て去ってさくらさんだけを
見ればいい。家族とか母親とかそんな意識を全部捨て去れば楽になれると思う。
「・・・・はは、贅沢だなオレは。あんな上等な女を抱けたんだから少しは喜べってんだよ・・・・くそっ」
確かに熱に浮かされている時は気持ちよさしか感じていない。あの瞳や手で感じさせられると心が麻痺してしまう。まるで麻薬だった。
体が軽くなり頭もハイになる。次から次へと溢れだす劣情。感じるモノ全てに幸福を感じる自分の心。だがその効果が切れた時にこのような苦しさが待っている。
この苦しさから解放されるには―――ずっとその麻薬を打ち続けて心を麻痺させ続けるしかない。そう、オレがさくらさんを本当に女として愛するまで。
「う―――――っ」
また嘔吐感が掛け上がってきて便器に吐き出した。もう何も出て来なかった。苦しさから涙が零れる。息を吐いて呼吸を整えた。
オレは多分『家族』というものに憧れを抱いていたんだろう。生まれた時から両親なんて居なかったし爺ちゃんや婆ちゃんもいない。
身に余るぐらい愛情を周りから注がれてきたがそういう気持ちはあった。そしてその家族の対象はさくらさんになった。いつでもオレを
守ってくれて優しくしてくれる。母性溢れるその愛情にオレは満足していた。
だが全部壊れた。無くなってしまった。壊れて残ったものは爛れた性行為に一方的な異性の愛、そしてそれに慣らされていく自分の心だった。
母性溢れる笑顔が見られなくなった。代わりに女の顔をして悦ぶさくらさんの姿。そしてさくらさんにそういう顔をさせる自分の麻薬漬けの性衝動。
女を抱いて素直にその気持ちよさに酔い痴れる、そうなってればこんな思いはしなずに済んだ。だが、そうはならなかった。
結果的に自分はこうして苦しんでいた。身も心もまるで噛み合っていない今の現状、とても辛かった。
「なんでセックスする度にこんなこんな思いしなきゃいけねぇんだよ。意味が分からねぇよ、くそったれ」
さくらさんはオレと抱き合う事に夢中になっている。昨日もあれから何回もオレはさくらさんに抱かれた。もう何も出ないって言ってもその行為
を止めてくれなかった。おかげで不能になりそうだっつーの、くそ。
早くこの狂った関係を終わらせたい。いつもの暖かい家族に戻りたい。叶わぬ願いなんだろうか、もう元の形に戻れないだろうか。
家族というものにずっと憧れていた。その家族であったものを抱いた。そう考えるだけで――――気持ち悪くなる。
おそらくは嫌悪感。家族とセックスするなんて異常だ。オレの場合余計にそう思うのだろう。ずっと家族を欲していた自分は余計に。
確かにオレはさくらさんを異性としても見ていた。だがそれは小さなものだった。家族への愛情がそれよりも何倍にも勝っていた。
「・・・・このままじゃ本当にさくらさんに屈服するしかなくなるな。心まで渡しちまったら本当に終わる」
この嫌悪感は大事にしていきたい。ただでさえ麻薬によって段々削り取られているのだから。もしこの嫌悪感が無くなったら麻薬なんていらなく
なる、その麻薬はオレの心を麻痺状態にして嫌悪感を取り除く為にあった。取り除かれたらお終いだ、その時は既に自分というものをさくらさんに
捧げてしまってるだろう。それだけは避けなくちゃいけない。
だって―――オレは美夏と生きて行きたいんだから。その気持ちはこうなった今でも変わらずにある。それがあるからまだこうして嘔吐していられる。
とりあえず出来るだけさくらさんとの会話も控えよう。喋ってるだけでまるで子守唄のように心に染みわたってくるあの音色、音程、音量は危険だ。
意識してそういう声でオレに語りかけているのが分かる。あれも麻薬の一種―――生憎だがオレは煙草と酒はやるクチだが麻薬はやりたくない一般
市民だ。そんなものはロックをやってる奴らに任せればいい。
「・・・・とりあえず美夏だ。美夏に会おう。会って喋って、手も繋ごう。早くあいつの笑顔が見たい」
よろよろと立ちあがり自分の部屋に向かって準備をする。さくらさんには会いたくない。出来るだけ早くこの家から出て行きたかった。
さくらさんはまだ寝ている。昨日もし学校に行くなら一緒に朝登校しようかと誘われて約束してしまったが―――構いやしない。
早くオレは―――楽になりたかった。
「あ、おはようございます兄さん」
「・・・・由夢か、おはよう」
なんだか久しぶりに見た気がする。最後にまともに会話したのは―――つい最近だったか。どうも時間の感覚が掴めない。さくらさんとの件で頭と
心が混乱しているだろう。それに寝た気もあんまりしないしな。
連日のさくらさんとの行為で体が疲れているし何より精神的に来ている。吐き気は収まったが体が妙にダルい。多分頭は起きてるんだろうけど
体が起きていないのだろう。だからこんなにも体が重い。
懐から煙草を取り出す。由夢が慌てる様子を見せた。こんな朝早い公道で学生が煙草を吸っていたら目立つからな、運が悪ければ補導される。
だけどそんなもんはこんな朝っぱからは居ないし誰かがチクっても問題は無い。オレはそんなの気にしないからな。
「ちょ、ちょっと兄さんっ! 見つかったらどうするのよ!」
「あー? 別にそん時はそん時だ。知らない顔してりゃいいんだよ。それにどうせ誰も見ちゃいねぇんだし」
「そ、そういう問題じゃ無くて―――――!」
「お前も吸うか? そんないい子ぶったって周りにはまだ誰も居ないし息抜きにもなる。お前は酒とか煙草をやらないから固いんだよなぁ、やれば
少しは柔らかい性格になると思うぜ?」
「結構ですっ!」
何か気に触る事を言っただろうか。由夢はどうやら機嫌が悪くなってしまったらしくそっぽを向いてしまった。まったく、可愛くねぇな。
しかしオレを置いて歩いて行こうとはしない、付かず離れずの距離でオレの隣を歩いている。オレは黙っているのもなんだか癪だなと思い
適当に話し掛けた。たまにはちゃんと話でもしてやろう。
「最近どうだ、何か楽しい事でもあったか?」
「・・・・別に何もありません。いつも通り平穏な学園生活を送っています」
「優等生らしいお言葉をどうもありがとうございます。でもたまには刺激とか欲しくなったりしないんですか? 退屈でしょう?」
「―――――御心配には及びません、はい。私は誰かさんみたくみたく無闇に火遊びをしたくない性格なのですので。そんな事
よりも少しでも勉強していい学校に入れたらいいと考えています」
「そうなんですかぁ、すごいですねぇ。では問題を出します。ある所に二メートルの鎖に繋がれたライオンが居ました、周りには
草しか生えてなく何もありません。さて、そのライオンは何平方センチメートルまでの草を食べる事が出来るでしょうか?」
「え、え、ちょ、ちょっと待って下さい! えぇと、一メートルは百センチだから・・・・」
オレが丁寧な言葉で問題を出すとあたふたしながらブツブツ独り言を言いだし始めた。ていうか小学生でも分かる問題だぞ。
きっとこいつは急な出来事が起きると体が硬直してテンパるタイプだな。頭が固いコイツらしい性格だ、苛めたくなる。
そして数秒経ってようやく答えを出した。つーか遅せぇよ、もっとパパッて考えろよな。
「よ、四万平方センチメートル!」
「ぶぶー。正解はライオンは草を食べないでしたぁ」
「な・・・・」
「やーい、やーい。由夢ちゃんの間抜けぇ、頭でっかちぃ」
「――――――ッ! こ、このっ!」
「あ?」
オレがおどけていると拳を振り上げオレの肩を殴ってくる。しかしこいつは非力なので全然痛くない。むしろ肩こりが解れていく感じで心地いい。
散々叩いて効果無いとみたのか息を荒くしてこちらをジーッと見詰めてくる由夢。オレは煙草の灰を携帯灰皿に落として頭に手刀を喰らわせてやった。
変な悲鳴を上げて仰け反る由夢。その姿を見てオレは笑った。そして言い返そうと由夢が口を開きかけて―――驚いた顔をした。
「なんだよ、そんな惚けた顔をして」
「・・・・兄さん、目に隈が出来てますよ。それに充血もしてるみたいだし寝て無いんですか?」
「寝たよ。たっぷりとな」
「顔色も少し青白くなってますしやつれた感じがします。どこか体の調子でも悪いんですか?」
「――――別に普通だ。なんだよ、心配してくれてんのか」
「あ、当り前じゃないですかっ!」
「おおっと」
急に声を張り上げるので驚いてしまった。こいつが声を張り上げるのは別に大して珍しくないのだがその真剣な表情に少し息を呑んだ。
なんだよ当り前って。意味が分からねぇ。由夢は思った以上に大きな声が出て自分でも驚いたのか慌てて周りをきょろきょろし始めた。
そして周りに人が居ないと分かったのかホッと一息をついた後、由夢はこちらを何故か一睨みして当然のようにその言葉を発した。
「や、当り前じゃないですか。家族なんですから」
「・・・・・・」
「な、なんで黙るんですかっ!?」
「――――そうか」
「え?」
「なんでもねぇよ」
「え、や、ちょっと、なんで頭を撫でるんですか!? 恥ずかしいですって!」
「いいからいいから。黙って撫でられとけ」
由夢の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。顔を朱色に染めて恥ずかしそうに暴れているがオレが撫でるのを止めないと悟ったのか、すぐおとなしくなった。
思えばこうして由夢の頭を撫でた事ないんだよなぁ。こいつに限った話ではないが随分周りの人に冷たくしていたと思う。別に申し訳ないとか思わない
が人嫌いが段々治ってきた今なら少しぐらい優しくしてもいいかなと思った。
オレのこんな行動が珍しいと思ったのか時折ちらちらっと向けられる視線。それに笑顔を返してやるとまた顔を赤くして視線を前に戻した。まぁオレは
イケメンだししょうがないだろう。このお団子娘から金を取ってもいいぐらいの笑みだったと思う、うん。
家族―――その言葉を聞いてオレは少し安らいだ感じがした。そうだよな、こいつも家族なんだよなぁ。すっかり忘れてたぜ、ちくしょう。
あとは音姉に純一さんも家族、か。オレが見ようとしなかっただけで結構家族居るんだなオレ。まぁ、血は繋がっていないだけどさ。
少しだけ心が落ち着いたような気がする。根本的な問題の解決にはなっていないが元気が戻った様な気がした。まったく、案外こいつも
使える所あるじゃねぇか。少しだけ見直したよ、マジで。
そうして歩いていると美夏の姿が見えてきた。由夢はいち早くその姿を発見してオレの手から離れてしまった。こいつも結構な照れ屋だからなぁ。
「おはよう、美夏」
「おはようございます、天枷さん」
「ん―――おお、義之に由夢か! なんだ、一緒だったのか」
「途中で合流してな。こいつが道中ギャーギャー騒ぐからうるさいったらありゃしねぇよ」
「なっ、私は別にそんな――――」
「あはは、相変わらず仲がいいなお前らは」
「もうっ! 天枷さんまでからかわないでください!」
女だけで盛り上がってしまい男一人のオレはポツンとしてしまった。まぁ別にいいんだけどよ。こいつらが仲が良いのは良いことだし。
美夏もパッと見ツンケンしてる性格なので友達を作る事は難しいと思ったが由夢という性格がいい奴を捕まえられてよかったと思う。
美夏が例の笑顔で笑っているのを見るとこっちまで嬉しくなる。やっぱり―――オレはこいつの事が好きだった。
「ん、なんだ義之。ニヤニヤして気持ち悪いぞ」
「お前ほどじゃないから安心しろ、美夏」
「な、なんだとぉー!」
「さぁさっさと行こうぜ。由夢もいつまでも遊んでんじゃねぇよ、ガキじゃねぇんだから」
「あ、遊んでなんかいませんっ!」
ふくれっ面をして抗議しながら美夏の右隣に着く由夢。オレ達が喋りやすいようにその位置って訳か、余計な気を効かせやがって生意気な。
まぁ一応素直に受け取って置くか、オレも美夏とくっ付いていたいし。美夏は相変わらずのほほんと笑っている。こいつには笑顔が本当に似合う。
そしてオレは美夏に手を差し伸べた。いつも通り照れ笑いしながらその手を見詰める美夏。手を上げオレの手を掴もうとして―――――
「やほやっほー! 皆おはよーっ!」
『間』にずいっと入ってきたさくらさんによって断たれてしまう。美夏は「あ・・・」と呟いて上げかけた手を降ろしてしまった。
「あ、さくらさん。おはようございます」
「う、うむ。おはよう、学園長」
「うん、おはよう! いやぁ今日は参っちゃったにゃあ、義之くんと一緒に登校する約束してたんだけど先に義之くん行っちゃうから
もうびっくり、慌てて走ってきたよ」
「む、そうなのか義之?」
「―――そうだっけかな。そんな約束した覚えは無いんだがな」
「そ、そうなのか?」
「やっだなぁ、約束したじゃないか。一緒に登校するって。あんなに嬉しそうにしてたのにもう忘れちゃったの~?」
オレの腰をバンバン叩いてくるさくらさん。美夏はそのテンションに面食らったのかそれ以上その事は追求せず困ったような顔を浮かべた。
ニコニコとさくらさんは笑っている様に見えるが、眼は笑っていなかった。まるでオレを問い詰めるかのように目をジッと見詰めて来ている。
目を逸らし前を見据えた。心臓が少しバクバクいっている。なんたってこんなタイミングで・・・・・と思わずにはいられない。
「な、なんかさくらさん元気いっぱいですね・・・・。何かあったんですか?」
「んー何もないよ? いつも通りボクは元気なだけだよ、にゃはは」
「そ、そうですか」
「でも後ろから見てたけど義之くんと美夏ちゃんてお似合いだねぇ。本当に仲がいいって伝わってきたよ。やるねぇ美夏ちゃんも、この、このぉ」
「そ、そうか? そういう風に言われると・・・・なんだか照れるなぁ、あはは」
「うんうん、美夏ちゃんの笑った笑顔って可愛いから義之くんが好きになるのも分かるなぁ。ね、義之くん?」
「・・・・そうだな、美夏の笑った笑顔は可愛い。オレの大好きな顔の一つだ」
「ば、ばか! こんな所でそういう事を言うんじゃない!」
「にゃはは、本当に仲がいいね。思わず―――妬けちゃいそう」
視線を感じるが無視する。もし合わせたらどうなっちまうか分からない。怖い―――そんな情けない事を思ってしまった。
自分では本当に度胸が据わってると思っていた。喧嘩で刃物とか出されても怖いなんて思わなかったし骨を折られた時も怖いとは思わなかった。
だがさくらさんの怖さは別格だった。まるで逆らえない目が怖い、あんな目をするさくらさんをオレは怖がっていた。
おそらくこういう風にはしゃいでるさくらさんもさくらさんなのだろう。純一さんもその様な事を言っていた、昔からよくはしゃぐ子だっという。
そしてあの怖いさくらさんもさくらさんなんだ。人間は一面だけじゃなくサイコロみたいに色々な面を持っている。さくらさんも例外じゃない。
何十年も生きて孤独を味わい、人間の色々な姿を見てきたさくらさんにとってオレみたいなガキを制するぐらい簡単なのかもしれない。
そうオレは考えながら皆と一緒に登校した。脇を見ると女三人でもう話に花を咲かせている。どうかこのまま何も起こらないで欲しいとオレは
心の底から願った。
さくらさん、いくらあなたでも美夏に手を出したらその時は―――――
「あ、もう玄関に着いちゃった。やっぱり楽しくお喋りしてると時間が経つのも早いねぇ」
「あはは、ほとんど学園長が話してたじゃないか。まぁ色々面白い話が聞けて面白かったぞ」
「そうですね、ヒトデなんかの話でこんなに盛り上がるとは思いませんでしたよ。私って案外無知なんだなぁって思いました」
「しょうがないよ、海洋考古学なんてマイナーなジャンルだしね。ボクも暇だったから博士号取ったけどそれっきりだし」
「はぁー・・・・相変わらず凄いですねさくらさんは」
「うむ、博識で美夏は驚いたぞ」
「そんな褒めても何も出ないよ~」
確かに相変わらず話は面白かった。さくらさんは人に話を聞かせる手腕というのは素晴らしいモノがあると思う。
オレも知らずしらずの内に話に聞き入ってしまい質問なんかしてしまった。それに対してさくらさんもいつも通りに指をピンと立てて
説明してくれたので余計な感情を挟まず普通に盛り上がってしまった。
そして昇降口まで来て美夏達と別れる事になる。オレは途中まではさくらさんと一緒の道。ハッとしてオレは考えた。
「じゃあね~! 今日も一日元気に過ごそうっ!」
「はーい」
「うむ、学園長もな」
さくらさんと一緒になる、二人っきりになる、それはダメだ。何を言われるか分からないしオレはさくらさんと出来るだけ会話しないと決めた。
だからオレは美夏達に別れの言葉を言い、さくらさんがこちらに振り向く前に歩き出した。「あ」という呟き声が聞こえてきたが無視する。
この態度を崩してはダメだ。弱い所を見せちゃいけない。離れられないと言うなら手錠でもなんでも括りつけてどこかに寝泊まりすればいい。
杉並に聞けばいい物件の一つや二つ持っているに違いないから頼る事にするか。借りを作る事になるが構わない。オレは借りを返すタイプだからな。
そうして数歩歩きだすと後ろから聞こえるバサァッという紙が散らばる音。思わず後ろを振り返るとさくらさんが茫然とした顔で書類が散らばった様を
見ていた。おそらくオレを追いかけようとしてバランスを崩してカバンから書類を落としたんだと思う。段々悲しみを帯びた表情になってきた。
「あ、あはは・・・・やっちゃった・・・・・ねぇ、義之くん、手伝ってもらっていいかな?」
「・・・・・・・」
「に、にゃはは・・・・・やっぱり大丈夫、ボク一人で拾えそうだしね、甘えちゃいけないよね、うん・・・・・・うにゅ」
一人で急いで書類をかき集めるがワックスを掛けた廊下は滑りやすくなっており色々な方向に紙束が散らばってしまっていた。
オレは周りを見回したがこういう時に限って誰も居やしねぇ。後ろからは大変そうな、今にも泣き出しそうな声を出してるさくらさんの声。
だが構うもんか。ここで気を許したら絶対にロクな事にならない。今までそうだったじゃないか、きっと今回もそうだ。
なのに足は動いてくれない。歩き出そうと力を入れるがなかなか上手くいかない。後ろからは相変わらず辛そうな声が聞こえてくる。
「・・・・ん、しょっと。あれ、こっちにも飛んじゃってたのか」
「・・・・・・」
「あれれ、この中間のページってどこいったのかな・・・・」
「・・・・・・」
「にゃあ・・・・・」
「・・・・・・」
「うにゃ・・・・・ぐすっ」
「・・・・・・」
「にゅ・・・ひっく・・・えっぐ・・・」
「・・・・・・あーーーーっ! くそっ!」
泣き声が聞こえてきた時点でダメだった。自分に罵声を浴びせてさくらさんの手伝いをするために踵を返した。さくらさんはオレの声に驚いた
のかビクッと小動物のように体を震わせる。
無言で近寄り散らばった書類を集めるオレ。結局オレはさくらさんが困っているのを見過ごせなかった。嫌いではないんだしむしろその行動は
当然なのかもしれない。自分の親が困ってるんだから助けねぇでどうすんだよと思ってしまった。
そんなオレにさくらさんはおろおろとした感じで見詰めている。まさか本当に来てくれると思ってなかったんだろう。だったらそんな泣き声
なんか出すんじゃねぇよ、くそっ!
「なんで去年に貰ったあのカバンを使っていないんですか。もうそのカバンは古くて使えないと言ったでしょう」
「え、あ、そ、その―――――」
「何故そのカバンを使ってるか理由を教えてください。オレにはてんでそのカバンを使う有効性が分からないんですが?」
「だ、だって義之くんから貰ったカバンなんだもん。大事に使うのは当り前でしょ? 小さい頃お小遣い叩いて買ってきたものなんだし
取りかえるのが勿体無くて・・・・」
「―――――そうですか、書類集め終わりましたよ」
「あ・・・・」
今の言葉を聞いて少し心が動いてしまった。そんなぼろっちいカバンをそんな理由で使ってるなんて――――少し嬉しくなってしまった。
今のオレがあげたものじゃないが、さくらさんがそんな理由で今でもそのカバンを使い続けてる事実に胸が高まった。だからその発言を聞かない
事にしてぶっきらぼうに書類を差し出す。
おずおずといった感じでさくらさんがそれを受け取ろうとする。昨日とまるで別人みたいだ。冷たく接した事に少し罪悪感を覚える。
「次からは気を付けてください。さくらさんはそそっかしいんですから。次からはちゃんとファスナーが閉まってるかどうか確認して
下さいね。そんなボロいカバンでもまだまだそのファスナ―部分は――――」
「にゃはは、ありがとう。義之くん」
そしてオレは見てしまった。そのカバンのファスナー部分が開かれていない事に。それはおかしい、書類を落としたという事はその部分が
開いてなきゃ駄目だ。そうじゃないと書類は落ちて来ない。
書類を見てみる。難しい単語の羅列が並んでいる。だがかろうじて文字を拾ってみると―――海洋考古学の文字。日付は何十年も前だ。
なぜそれを持っているんだ。それはさくらさんが昔発表したという論文じゃないのか。何故ここにある。
オレの視線に気付いたのか「ああ、これね」と話し出すさくらさん。あまりにも笑顔で言うのでオレは茫然としてしまった。
「さっき話して思い出しちゃってさぁ。どんな種類の紙束出そうと考えたらこんなの出てきちゃった。いやぁ、懐かしいね。うんうん」
「・・・・・魔法ですか。騙しましたね」
「義之くんなら絶対来てくれると思ったよ。やっぱり義之くんは優しいね、モテる訳だ」
「こ、この――――」
「それで色々話したいんだけどいいかな。一時間目の授業には出なくていいよ、ボクが出席扱いにするし」
「あ・・・・・」
「約束―――破ったよね。学校行く時はボクと一緒に行くって約束したよね?」
「そ、それは・・・・」
「来て」
オレの手を引っ張り廊下を歩きだした。ぐいぐい引っ張られるのでたたらを踏んでしまうがさくらさんは気にすることなく歩いて行った。
そして着いた場所は―――学園長室。嫌な予感がした。思いっきり腕を切り離そうとしたがさくらさんがオレの眼を見て立ち止まった。
その眼に見詰められ、入れ掛けた力が抜けていくのが分かる。そんなオレの様子に満足したのか笑みを浮かべて向学園長室の扉を開けた。
中に連れ込まれるオレ、後ろを向くとさくらさんが扉の鍵を締めていた。そしてこちらに振り返り―――抱きついてきた。
「にゃあああっ!」
「うわっとおっ!?」
座敷間に転がるオレとさくらさん。何とか背中を打ちつけないように腰を捻ったが少し鈍い痛みを感じる。二人分の体重が掛かってきたので
耐えきれなかった。
そしてオレの胸に頭を擦りつけてくるさくらさん。やたら甘えた声を出してくるので思わずその体を―――抱き締めない、抱きしめてたまるか、
ここで抱いたら後が辛くなる。我慢するんだ。
そうしてオレの胸の感触を堪能したのか頭をポテッと最後に落としてきた。静かになる学園長室。
オレは―――覚悟を決めた。もう思ってる事を全部吐き出してやる。
「・・・・抱きしめてくれないんだね」
「――――彼女居ますからね。他の女性を抱いたら美夏が怒っちまう」
「何を今更に。あれだけ昨日ボクの中に出したじゃないか。忘れたなんて言わせないよ」
「忘れました、もう綺麗さっぱりに。大体どうかしてるんですよ、家族であんな事するなんて」
「―――――そう」
表情は見えない。ずっとオレの胸に顔を押し付けたままだ。もしかして、さくらさんはすごくショックを受けてるんじゃないか?
前も言っていたが何十年間も一人で過ごしてきてんだし――――いや、ダメだ。場の雰囲気に流されてはいけない。どうせさっきみたいに
騙されるのがいいオチだ。いい加減学習した方が良い。
もうこのまま言いたい事を言った方がいい。もうウンザリだこんな関係。さくらさんの頭に手を置いて言うタイミングを窺った。
「・・・・よっしゆきくん」
「ん、なんですか?」
置いた手を掴まれて――――襟元を思い切り引っ張られた。目の前にはさくらさんの顔。キスが出来る直前の位置まで頭を持って来られて
オレの目を見詰めた。今までにない怖い眼をしてオレを見るさくらさん。オレはあまりにも恐怖で目を背ける事さえできなかった。
「う、――――わ」
「あれだけやっといて元の関係に戻れると思ってるのかな。無理だよね、そうだよね、散々義之くんも楽しんだのにそれは
ないんじゃないかなとさくらさんは思ったり。間違った事言ってるかな?」
「い、いえ・・・・」
「だよね。なのに彼女が居るからとか家族だからおかしいとか今更過ぎるよ本当に。それで、なんだっけ、綺麗さっぱり忘れただっけ?
義之くんはまだ若いんだしそんなに物忘れ激しくないよね? 本当は全部覚えてる筈だよ、違う?」
「ぜ、全部覚えてます」
「よかったぁ、全部覚えててくれたんだ。もう驚かさないでよ。いきなり義之くんがそんな事言うからショックで泣きそうだったよ。
あれだけ一生傍に居てってボクは言ったし義之くんも居てくれるって言ったから、信用してるんだよ?」
「は、はい」
「あーよかったぁ、本当によかったぁ」
そう言ってオレの唇にキスをしてきた。いつも最初にやるフレンチキス。さくらさんのお気に入りだった。
くそ、だめだ、ビビっちまった。体の震えが止まらない。右手で左手を抑え込む、骨が折れそうな程力を加えた。なのに震えが止まらない。
思いっきり歯を噛んで落ち着こうとしても歯が震えて上手く噛み合わない。筋肉全体が震えているのでどこに力を入れていいか分からなかった。
じゃあ頭を動かせよ、なんで何も考えようとしねぇんだよ。美夏が言ってたじゃねぇか、義之は頭でっかちだって。だから頭を動かさなきゃいけねぇのに。
なんだよ、なんだよ、なんだよ。相手はオレよりガタイも何もかも非力な人間なのにどうしてこんなにもビビっちまったんだよ。意味が分からねぇよ。
こんな情けない姿をオレは見たこと無い。まるで夜に怖くてトイレに行けないガキみたいに震えてる意味が分からない。
落ち着け、冷静になれ、目を閉じるな、前を向け。いつもそうしてきたじゃねぇか、いつもみたいに堂々としろよオレ。
へそに力を入れてシャキッとしろよ。本気でキレた時のあの感じを思い出せよ。オレの唯一の取り柄はビビらねぇ事だろうが・・・・!
思わず――――涙が零れ落ちてきた。鼻の奥がツンとする。これほどまでに自分が情けないと思った事はない。これなら刺された方がまだマシだ。
「・・・・ぐすっ」
「ありゃりゃ、泣いちゃったか。ごめんね、怖かった?」
「・・・・べ、別にそんな事・・・・ひっぐ・・・・」
「無理しなくていいんだよ。ボクも少しばかり大人気無かったね、だから泣かないで、義之くん」
「な、泣いてなんかいま・・・せん・・・・」
「あーーもう、ほら、もう大丈夫だから。落ち着いて・・・・・」
「あ――――」
さくらさんに頭から抱きしめられる。昔されたみたいな優しい抱き方、それにオレは凄く安心を覚えた。
さっきまでのどうしようもない感情の奔流が段々収まってくる。赤子が母親に抱擁されるが如く、暖かい気持ちになった。
そして囁くようにオレに話し掛けてきた。子守唄を聞かせるように、ゆっくりと、穏やかさを持ちながら。
「そんなに涙を流す程怖がらなくてもいいじゃないか、さくらさんちょっとショックかな、にゃはは」
「す、すいません」
ふざけるな。何がショックだ、ワザとやったんだろうが。
「もっと安心出来る方法があるんだ。ほら、昨日の事を思い出して。ボクと抱き合った事を。凄く安心したでしょ?」
「は、はい」
その後が大変だったけどな。便器この間掃除したばっかだったんだぞ、くそ。
「あの時のボクの体を思い出して。感触を思い出して。ほら、気持ちよかったの覚えてるでしょ?」
「・・・・はい」
やめろよ、気持ち悪いんだよ。そうやって甘い言葉吐いてればオレが乗るとでも思ってるのかよ。
「義之くんはあのさくらさんを抱いたんだよ? 義之くんはそれに凄く喜んだよね、母親みたいな人を抱けて凄く興奮したよね?」
「・・・はい」
する、わけ・・・・ねぇだろ。頭がイカれてんのかよ。嫌悪感で、いっぱいだっつーの。また、ゲロ吐かせる気かよ。
「ボクと何回でもしたい筈だよ義之くんは。ボクも何回でも義之くんとしたいんだ。いいよね?」
「・・はい」
・・・回でもする? 冗談・・・せって。はは
「ほら、服を脱いで。昨日みたいにまた愛し合おう? 義之くんはそれにすごく幸福感を覚えるからまたしたい筈だよ?」
「はい」
・・・・・・・・・・
もう、いいや。なんだか面倒になってきた。こうやって優しいさくらさんが見れるんだからさくらさんの言うとおりにした方がいいかもしれない。
怖いさくらさんはもう見たくない。ならこうやって抱き合って気持ちよくなった方がいい。オレもハッピーだしさくらさんもハッピー。何も問題は無い。
何も問題は無い筈だ。オレはさくらさんが大好きだしさくらさんもオレの事がオレ以上に好きだ。そう、何も問題は、無い。
ああ―――なんだか大事な事を忘れてる気がする。きっと気のせいだろう。だってオレの好きなさくらさんが笑ってるんだから。
「うーん・・・・何処にも居ませんわね」
義之と天枷さんのお昼にお邪魔しようと思って義之のクラスに行ってもその義之が居なかった。杉並に聞いてもどうやら一時限目から居ないらしい。
では休みなのではないかと聞いたら登校自体はしていると言っていた。どこの情報網を使ったのかは知らないがそれは確実みたいだ。
天枷さんが居るクラスに行ってみたものの義之の姿は無かった。天枷さんに聞いてみても義之の居場所は分からないらしく逆に聞かれてしまった。
「義之がどうかしたのか?」
「どうやら一時限目から姿が見えないらしいのよ。天枷さんなら知ってると思いましたけど―――見当外れの様ね」
「む、手厳しいな。しかし本当に美夏は分からないぞ。大方どこかでサボっているんじゃないのか?」
「だといいんですが・・・・。一応私探して見回すわ」
「あ、美夏も探すのを手伝うぞ。アイツ一緒に昼食を食べる約束してたのにすっぽかすとは・・・・・全くいい加減な男だ」
「――――では手分けして探しましょう。見つけたら中庭集合という事で。それでは」
「ちょ、ちょっと待てムラサキ!」
天枷さんの掛け声を無視して私は歩き出した。いくらなんでも彼女とはいえ義之を馬鹿にした発言は気に喰わなかった。まったく、いい御身分ですこと。
もしかしたら義之は今大変な思いをしてるかもしれないのに。昨日の様子からその可能性は十分考えられる。あの義之が大変な思いをするというのはあ
まり考えられない事だが『もしも』という事があるかもしれない。義之だって人間なのだから。
とりあえず私はしらみつぶしで学校中を廻る事にした。どうせどこに居るか見当もつかないのだから手当たり次第叩いた方がいい。
しかし―――どんな大変な思いをしてるのだろう。昨日の義之は疲れている様な顔をしていたし隈なんかも出来ていた。
義之は言っていた。家に帰りたくないと。家に帰りたくないというのはどういう事だろうか? 家族と喧嘩―――いや、義之には両親はいない。
居るのは学園長の芳乃さくらさんだけだ。でもあの人が義之をどうのこうのするとは考えられない。何回が話した事があるが理知的で穏やかな心
を持った女性だった。それに義之を愛している事が分かる。可能性―――低いと思う。
とするとそれ以外の要因かもしれない。女性には女性しか分からない悩みがあるし男性にも男性の悩みがあるのだろう。
そうなると私はお手上げだ。いくら私が義之の事が好きだからと言っても出来る事には限度がある。その限度を超えようとしたらきっとロクな事に
ならないし、余計なお節介ほど要らないモノは無い。私もそれで色々酷い目にあって来た。
兄さんめ・・・・私は忘れないわよ。初生理の時にテンパって宮廷中を大騒ぎの渦中に陥れた事を。あんなに大声で血が出てるを連呼しなくても
いいのに。いつか絶対仕返ししてやる。兄さんの事は好きだけれどこれは別問題だ。
「それにしてもどこをほつき――――」
「じゃあね、義之くん」
「・・・・はい」
「――――――ッ!」
学園長室の前を通って屋上に行こうと思ったその時、学園長室から義之が出てきた。思わず隠れてしまう私。理由は無い。つい驚いて隠れてしま
った。今更出ていくのもなんだかと思い様子を見守る事にする。
それに義之が何故あんなにも元気が無いのか分かるかもしれない。さっきは芳乃学園長とは何もないかもしれないと思ったが万が一という事がある。
万が一―――あって欲しくない事だ。義之の話をいつも聞いてると芳野学園長の話が絶対という程出てくる。それほど義之が尊敬している人物なの
だからその人物とのイザコザは私にとってもあまり考えたくない事だ。
まぁ、あるといってもどうせ口喧嘩だろう。それに芳乃学園長は大人な人だし義之も根に持つタイプではない。私の気にし過ぎかもしれない。
「でも今日一日休んでもいいのになぁ。本当、義之くんは真面目さんだねー」
「いえ、別にそんな事は・・・・。ただちょっと友達の顔とか見たくて・・・・はい」
「にゃはは、寂しがり屋さんだね。あ、今夜の夕飯どうする? たまには外食とかしてみない? いいイタリアンの店見つけたんだぁ」
「・・・・そうですね、確か冷蔵庫の中身もあんまり無かったですし。たまには外でっていうのも―――」
「わぁ~本当!? 嬉しいにゃあ」
「あ、さくら――――」
「・・・・・え?」
嬉しそうに顔を綻ばせながら義之に――――キスをする学園長。いや、それ自体はいい。外国の方なのだしキスや抱擁はあちらからしてみたら挨拶だ。
だが、それは違う。親愛の挨拶で舌なんか入れたりしないしからめたりもしない。ぐちゅぐちゅという音がこちらまで響いてくる。余程熱が入っている
のか顔に段々赤みが増してきた。
それを私は食い入るように見ていた。まるで信じられないという気持ちと何をやってるんだという怒りがごちゃ混ぜになる。義之は天枷さんが好き
な筈なのにこんな浮気みたいな事を・・・・・それも家族と称した人とだなんて―――――
「・・・・・ぷはぁ。いきなりで驚いちゃったかな、ごめんね?」
「い、いえ・・・・」
一分ぐらいはしていたかもしれない。それもこんなお昼時にするなんて見境がないのか。
段々自分の頭に血が昇ってくるのが分かる。もしかして私を振った原因というのはこの事なのか。
天枷さんが大事だと言いながらこんな真似を裏でしてるなんて、と私は自分の事を棚に置きながらそう感じた。
「お詫びに午前の授業は全部出席扱いにしておくよ、学園長の仕事のお手伝いしていた名目でね。まさかボクも朝からお昼まで
えっちしちゃうとは思わなかったけど――――誘ったのはボクなんだし、これぐらいはさせてね?」
「は、はぁ・・・・ありがとうございます」
「あと、今夜もボクと一緒に寝ようね。勿論いっぱい愛し合いながら―――さっきやってたみたいに」
「・・・・そうですね」
「うんうん、やっと義之くんも素直になってきたねぇ。じゃあ今日は一緒に帰って家でお着替えしたら御飯食べに行こう?」
「あ、いや、今日は美夏と帰ろうと――――」
「義之くん?」
「あ・・・・わ、分かりました。一緒に、帰りましょう・・・・」
「うん! じゃあまた放課後にね、バ―イ!」
「・・・・はい」
そう言って学園長室の中に戻っていく。義之はその場に取り残され片手を顔に伏せている。何か思いつめているらしい。
どうせロクな事では無いのだろう。私の中での義之の評価はガクンと下がっている。絶対的な王子様から好きで好きでたまらない先輩に
格下げだ。もう月とスッポンぐらいの差にまで下がっている。私は怒りで拳が震えていた。
義之が下を向きながら歩いてきたので腕を取っ捕まえて壁の角に引っ張りこむ。驚いた顔をして何か言いたげに口を開こうとしたがそれ
を無視して私は捲し立てた。
「最低ですわよ、義之っ!」
「な、何がだよ。いきなり現れやがって・・・・」
「聞きましたわよ、さっきの会話。どうやらとてもお楽しみだったようですわね、朝から昼まで。人が心配になって探してみれば浮気ですか。
それも相手は一緒に住んでる家族同然の相手、信じられませんわね。私を振ったというからには天枷さんの事が余程好きなんだなと思いま
したがどうやらそれは私の勘違い、実際はこうやって裏で逢い引きしているんですものね」
「・・・・そうか、聞いてたのか」
「ええ、聞きましたわ。天枷さんより芳乃学園長との約束を優先した事もね。義之は本当は天枷さんの事が好きじゃないんじゃないかしら?
思えばあんなジャリ娘と付き合ってるのが今まで不思議でしたのよ。私を振った様に天枷さんの事も振ってあげた方がいいのではなくて?
その方があの娘の為になると思いますの」
「ち、違うっ! オレは美夏の事が好きで――――」
「嘘おっしゃい! さっき部屋の中で何をしていたのか冷静に思い出してみなさいな!」
「部屋の中で起きた事・・・・・」
顔に手をやって俯く義之。もう言い訳が出来ない事でも悟っているのだろう。
それはそうだろう、会話を盗み聞きした感じじゃやりまくってたそうじゃないか。
お猿さんじゃありませんのに―――そう思って義之の顔を見て、驚いた。
「ど、どうしたの義之!?」
「う・・・ぷっ」
顔面は蒼白になりいきなり走り出した。虚を疲れて少し固まってしまったが私も慌てて追いかける。
そして向かった先は―――男子トイレ。そこに義之は入って行った。躊躇してしまう私。いくら私でもそこに入るのは躊躇われた。
けど中から聞こえてきた義之の苦しそうな声を聞いて思いっ切って中に入る。男子トイレが何だって言うのよ、もう・・・・!
「う、げぇ・・・・!」
「だ、大丈夫義之!? なんでいきなりこんな・・・・!」
「ぐ、ぐぅ・・・・」
「せ、背中を擦って上げますから、ほらっ」
「・・・・・はぁ、はぁ、う、げぇ・・・・」
義之の背中を一生懸命擦ってあげる。原因は分からないがこうやって義之の背中を擦る事しか今は出来ない。
何が、何が起きてるのだろうか。意味が分からない。「大丈夫、大丈夫だから」と根拠のない励ましをしながら義之の背中を擦った。
それが効いたのか分からないが少し落ち着く様子を見せた。荒い息を付きながら顔を伏せているので表情は見えないが、ちらっと見えた
横顔を見るとまだ青ざめていた。
「い、いきなりどうしたの? 何があったの?」
「・・・・・朝より吐き気がしなかった」
「え?」
「朝はもっと吐けたんだけどな。途中休憩挟んで食い物喰ったから胃に何も入って無いってこはない。なのにこれぐらいしか
吐けていない。もっと吐かなきゃいけないのに」
「な、何を言ってるんですの?」
「段々心が慣らされていってるのかな。あまり嫌悪感を感じねぇんだよ。それどころか段々さくらさんとやる事に抵抗感を覚えなくなって
きてる。本当はしたくないのに――――いや、本当どうなんだろうか、本当はしたい筈なのにしたくない振りをしてるのかな。今だって
こうやって吐いちゃいるがこれも演技なのかもしれない。本当は気持ち悪くないのに気持ち悪い振りをしてるのかもしれねぇ」
「・・・・・・」
「もう、分からねぇ。分からねぇよエリカ」
そう言って泣きだす様に俯いてしまう。私はその姿を見てショックだった。義之がこんな姿を見せるなんて一度も考えなかったし見たくなかった。
いつだって度胸に溢れていて物事を冷静に見てきた人なのに、今はただの弱い男の子にしか見えない。頭を吹っ飛ばされたような感触を覚える程
私はショックを受けてしまった。
そして湧いてくる怒り。義之をここまで追い込んだ誰か―――きっと芳乃学園長だろう。だから義之は家に帰りたくないと言っていた。
私が何があったか聞くと意外にも素直に話をしてくれた。きっとそれ程までに追い詰められていたのだろう。助けをあまり乞わない人間な筈なのに
こうして私の手を握りながら喋るとはそういう事だ。
何があったか少しずつポツリポツリと喋る。さくらさんを家族だと思っていた事、その家族が自分を求めて来ている事、それに自分が断れない事、
本当は自分は自分に嘘を付いてるんじゃないかという事。それらを悩みながら話してくれた。
まぁ―――普通ならそんな事知るかという反応を返すだろう。聞けば求めに応じた事は確かだしその尻拭いは自分でしろというのが一般的な
返し方だろう。少なからず私はそう思っている。
だが義之がこうも・・・・何かに怖がっているのは見ていられない。優柔不断な態度ならともかく怯えているなら助けてやらねばならない。
義之が怖がる相手―――上等じゃないか。ここは私という女の度胸の見せ所だろう。天枷さんじゃ話にならない。私がケリをつけてきてやる。
「――――義之はとりあえず保健室に行って眠りなさい。疲れてるでしょう、色々と」
「あ、ああ。そうするよ。少し体がダルくてな、とてもじゃないが授業には参加できねぇ。杉並とか茜とかと喋りたかったんだがお前と
喋って少し気分が落ち着いたよ。ありがとうな」
「いいえ、別にどうってことはありませんわ。友達なんですから」
「友達か・・・・そうか、そうだったな」
「まぁ義之の事が好きなのは変わりませんけどね。ほら、さっさと行きなさいな」
「お、おい、背中押すなよ、こら」
無理矢理背中を押して廊下に出る。そして私は手を振った。お前は一緒に来ないのかと聞かれたがいつまでも甘えるなと言って突き返してやった。
今の義之に必要なのはこういう言葉だろうと私は判断したからだ。人間は甘え出すと際限なく甘えてしまう、決して元気にはならない。
なにせ自分が経験してきた事だ、それぐらい分かる。義之は私の返事に苦笑いしながら保健室に足を向けた。その背中を私は黙って見送る。
「まぁ・・・・たまにはゆっくり休みなさい」
私と天枷さんの問題で色々疲れているだろう。彼女がロボットのせいで色々気を張ってるみたいだし昨日まで私という厄介な問題を抱えて
いたのだから疲れている筈だ。
というか今更な話だが――――私の事が好きだと言って置きながら別に彼女は作るわ学園長とえっちはするわで置いてけぼりな形になる私。
地球に来てからツイていない事ばかりで少し考えさせられてしまう。ていうか私もえっちしたいんですけど。
「まさか私って男運無いのかしら・・・・」
地球には確か風水という占いものがあると聞いた。名前とかで人生に係る各運を調べる事が出来ると言うのでやってみた方がいいかもしれない。
そして私は学園長室に足を向けた。何か手土産を持って伺う筈だったのですが――――要りませんわね。
「・・・・・」
何をやってるんだろうか。毎回冷静になってそう思う。義之くんに勉強をサボらせて、学園長の仕事を放棄してまで何をしているのかと。
座敷間に引かれた床には義之くんと乱れた跡が残っている。少し鼻にツンとくる匂い。何回ぐらいやっただろうか、三回目から覚えていない。
少し疲れたのか体がフラフラする。ペタンとその場に座り込んでその場を茫然と見る。なんだか夢を見ている様な気分だった。
義之くんが感じる姿を見てると何回もしてあげたくなったし、私が感じるてると義之くんもボクに負けないぐらい求めてきた。
幸せすぎて獣のように求め合った。昨日の今日だというのにまだまだ湧き上がるこの劣情に苦笑いが漏れてしまう。どれだけ淫乱なんだボクは。
でも義之くんを見るたびに気持ちが止まらなくなる。あの鎖骨に舌を這わせたくなる。ゴツゴツした手に触れられてみたくなる。
ああ―――本当はこんなつもりじゃなかったのに。ただ普通に笑い合って愛を囁き合いたかっただけなのにどうしてこうなってしまったのか。
義之くんに今まで見せた事のない怖いボクの顔を見せて、脅して、無理矢理その気にさせて、ハイエナの様に求めるなんて真似はしたくなかったのに。
自分の息子を泣かせてまで、ボクに頭が上がらない事をいいことに散々自分の言うとおりに動かしてまるで人形遊びみたいだ。
確かに覚悟はしていた。蔑まれ様が何され様がボクは義之くんへの求愛は止めないと覚悟していた。
だが、何かが違う。全然違う方向にその想いがずれていってる。義之くんに笑ってもらいたい筈が泣かせてしまっている。
どこで間違った、そもそも自分の為に平気で魔法を使う様な人間だったのかボクは、あんな悪趣味な魔法を使うボクだったか。
「レールがずれている・・・・あれ、ずれてるのかな。いや、でも、あれ、覚悟はしたんだよボクは、諦めないって。でも・・・・・」
何かがおかしい、間違っている様な気がする。でも間違っていない様な気もする。自分が分からなくなる。何がしたいんだろうかボクは。
頭を押さえて考える。義之くんが好きだと自分の気持ちがハッキリしたのはいい、そこまではいい、間違っていない。問題はその後だ。
一緒にお風呂に入ったのは――――間違っていない。親子なんだし間違っていない。研究用の薬を撒いたのも間違いではない。
義之くんと付き合う為にああいう方法を採ったのは当り前だ、彼女が居るんだしその気にさせなくてはダメなのだから。そのあとえっちに
持ちこんだのも別に間違ってはいない。義之くんも喜んだしボクも喜んだ、だから間違ってはいない。
「――――あれ、どこも間違ってないんじゃないかな。さっき義之くんと寝たのもその延長線上でのものだし・・・・でも、あれ?」
頭が回っているのに回っていない様な変な気分。それはおかしい、ボクは頭がいいのだから、義之くんに尊敬されるほど頭がいいのだから有り得ない。
いっぱい勉強をしていっぱい資格も採った、学園長にもなった、未だに研究所からお呼びが掛かる程だ。それぐらい頭が回ると自負している。
「・・・・うにゃ。おかしいな・・・・」
「確かにおかしいですわね。家族とこんな事をするなんて」
「にゃっ!?」
横から声がして心臓が止まる程驚いてしまう。後ずさってその声がした場所を見るとエリカちゃんが立っていた。
ジッと詰まらなそうな目で見ている視線の先には乱れた布団。顔が真っ赤になるのが分かる。恥ずかしい様なみっともない様な気持ちに駆られる。
いてもたってもいられなくなったボクは急いでその布団の前に立ちはだかった。
「み、見ないでよっ!」
「そんな堂々と真ん中に引かれては見たく無くても見てしまいますわ。本当、お盛んだったみたいですわね」
「あっ――――」
今度はティッシュで溢れているゴミ箱を見て呟くエリカちゃん。慌てるボクを見てふっと馬鹿にしたような息を吐き出す。それにカチンときた。
なんだ、なんだこの子は。いきなり表れて我がモノ顔で偉そうにして。いくら外国から来たお姫様だからってその態度は無いんじゃないかな。
ムッとした顔をするボクを尻目にズカズカと入って窓を開ける。ぶわっと新鮮な空気が入ってきた。
「学園長は理知的で活発な可愛い大人の人と思っていたのですが、人は見掛けによらない物ですね。こんなにゴミ箱が溢れるまで
抱き合うなんて・・・・・・ああ、とても私からしたら考えられませんわね。獣じゃあるまいに」
「・・・・随分挑発的だね。それで、ボクに何か用でもあるのかな?」
「まぁ用事というかなんというか―――――義之に手を出すの止めてくれません事? 義之にはちゃんとした彼女が居ますし
身近な男で事を済ますというのは良識な大人としてどうかと思いますわ」
「・・・・・・・」
さっきも家族がどうのこうの言っていたからボク達の事は知っているのだろう。義之くんが喋ったのか偶々ボク達の会話を聞いたのかは
知らないがそういう関係にあるのをエリカちゃんは知っている。
普通なら慌てふためく所だが――――知られたものはしょうがない。大事なのはそこからどうするかだ。悔やんでも物事を解決する時間が
遅くなるか間に合わなくなるかのどちらかだ。スマートじゃない。
エリカちゃんは義之くんに手を出すなと言った。苦笑いが漏れてしまう。エリカちゃんに言われたくない台詞だ。自分もしつこいぐらいに
付き纏ってた癖に。もしかして自覚がない程お気楽な子なのかな。
「エリカちゃんに言われたくないなぁ、エリカちゃんだって義之くんにしっっっつこい程付き纏ってたじゃないか。人の事言えないと思うよ」
「――――あら、知っていましたの? 恥ずかしい所を見られましたわね」
「義之くんがあんなに嫌がっていたのに付き纏うから見ていられなかったよ。まぁ、ちゃんと決着を付けたみたいだからいいけ――――」
「でも嘔吐するまで私は付き纏わなかったわね。可哀想に。さっき辛そうに御手洗いで吐いてましたわよ? 背中を擦ってあげて
何とか落ち着けましたが」
「え・・・・」
「確か外国で流行って最近日本でも流行ってる・・・・えぇと、性的虐待でしたっけ? あれに近い物がありますわね。
その人を見たら震えたり気持ち悪くなったりする症状が被害者に見られるという・・・・まさか身近で起きるとは思い
ませんでしたわ」
義之くんが吐いてた? いや、そんな筈は無い。義之くんはボクの事が好きだし行為の時も嫌がってはいなかった。
そんなものは一方的に相手を嬲る卑怯な手口だ。そんなものと一緒にしないで欲しい。エリカちゃんを思わず睨みつけてしまう。
自分と義之くんとの関係を馬鹿にされたも当然だから当り前の反応だ。なんでこんな子にそんな事を言われなければいけないのか。
「馬鹿にするのもそこまでにしてくれないかな。義之くんはボクとの行為に喜んでたし求めて来てくれたんだよ?
エリカちゃんと違ってね。もしかしてボクの事僻んでるのかな?」
「・・・・・・」
「でも安心してね? ボクはそれはしょうがない事だと思ってるから別に蔑んだりしないよ。やっぱり好きな人が他の子と
えっちな事したら嫉妬しちゃうのはしょうがないとボクは考えている。同じ女の子だからそれぐらい知って――――」
「ぷっ」
「・・・・え?」
「ふふ――――あっはっはっはっはっ!」
いきなり笑いだしたエリカちゃんに茫然としてしまうボク。なぜこんな風にいきなり笑いだしたのかボクには理解できない。
呆けた顔をしてボクにエリカちゃんは涙目になりながら話し掛けてきた。
「・・・・し、失礼。あまりにも私が聞いた事がある台詞を学園長が言うモノだからおかしくて・・・・ふふっ」
「な、何の事さ!」
「さっき言った性的虐待のある加害者の言葉ですよそれ。自分を慕ってくれている娘を自分の物にしようと無理矢理強姦した父親のね。
その娘は父親の事が好きで少しだけ異性としても興味を持っていた。だが所詮は父親、家族愛の方が大きくそれ以上の感情は持っ
ていなかったらしいんですの。なのに父親は勘違いして両思いだと思い込んで無理に体を重ねてしまいその娘の心に大きな傷を付
けたっていう話――――最低ですわね」
「だ、だから義之くんは喜んで――――」
「その父親はとても口がうまい人で相手を丸めこむのが得意だった。その娘の事も上手い事言ってその気にさせて『本当は自分も
父親の事が好きなんじゃないか』と思わせるまではいったらしいんですが・・・・それ以上はいかなかったみたいね。体は喜ん
でも心は正直なもので凄いストレスを感じたらしいの。熱が冷めて落ち着くと嘔吐感に苛まれたり胃が痛くなったり手が震えた
りね。でも父親はその行為を止める事は無く娘も仕方なくその行為に応じ―――結局入院した」
「・・・・・・」
「後で医者がその娘に事情を聞いて裁判沙汰になったという話も聞きましたわ。もちろん父親は有罪。当り前ですわよね、無理矢理
強姦したというのに愛していて仕方なくやったと発言する馬鹿な父親なんですから」
「・・・・うるさい」
「――――失礼、今なんとおっしゃったんですか? 声が小さくて聞こえませんでしたわ」
「う、うるさいって言ったんだよっ! そ、そんな話はボク達になんか関係ない、いい加減な事ばかり言わないでよ!」
「・・・・はぁ、そういうヒステリックな所まで私そっくり。なんかゲンナリしますわ」
その話ぐらい知っている。何十年か前にニュースでやってた事件だ。結構な大騒ぎになった事件で法律も改めて強化されたので覚えている。
だが―――そんなものはボク達には関係の無い話だ。そうやって騙されるもんか。相手はボクの半分も生きていない子供なんだしやり込められて
たまるかという衝動に駆られる。
そうだ、ボクは頭がいいんだし度胸だってある。この間まで男に振られてメソメソしていた小娘に負けてたまるか。
そうしてボクは怖い自分を引き出す。その眼で思いっきりエリカちゃんを睨んでやった。エリカちゃんはその眼を見て驚いた様な顔をして後ずさりをする。
「・・・・ず、随分怖い眼をなさるのね。思わず逃げだしそうになるわ、はは」
「そうだね、手なんか震えてるようだし目も泳いでる―――逃げてもいいんだよ?」
「・・・・・くっ」
それ見た事か。温室育ちの女の子だからこういう眼で見られた事が無いだろう。生憎だがボクは何十年間も一人で生きてきた人間だ。
人間としての強さがまず違う。周りの友人達は自分を差し置いて普通の人間らしく歳をとっていき取り残されるボク。けれどそういった
絶望に歯を食いしばりながら耐えてきたんだ。生きてきたんだ。
チヤホヤされながら生きてきた人間にはそういう強さは無い。だって自分が頑張らなくても自動的に周りから欲しいモノが与えられるのだから
我慢なんかする必要が無い、ただ受動的に待つだけ。
大体にして義之くんが耐えられない事にこの子が耐えられる筈がない。引き算足し算よりも分かりやすい答え。思わず口が笑みを作る。
「・・・・まるで魔女みたい、ね。すごい不気味だわ」
「――――何言ったって止めてあげないから。泣いてもいいんだよ? 義之くんだって泣いたんだから別に恥じゃない。そう、恥じゃないんだ」
「・・・・・・」
囁き掛ける様に言葉を掛けてやる。今のエリカちゃんはとても怯えている。そう、さっきの義之くんみたいに。
無理も無い。ボクが結構度胸あるかもしれないと思っている義之くんだって可愛くなるぐらいに怖がるのだから。
ほら、段々涙目になってきた。逃げたいのだろう―――今、視線が出口の方に向いた。心理が手に取るように分かる。
今なら特別に許してやる。今言った発言も聞かなかった事にしてやる。だから大人しく帰った方がいい。
そう言おうとした――――瞬間、何を思ったかエリカちゃんが横の壁に思いっ切り頭をぶつけた。鈍い音が部屋に響き渡る。
俯くエリカちゃん。血が出たのだろう、頭を押さえている手の間から血が流れていた。金髪と血が混じり凄絶な色合いを醸し出す。
思わず茫然とするボク。エリカちゃんは顔を歪ませながら喋り出した。
「・・・・いったぁ・・・・・もう二度とこんな真似はしないわよ、絶対」
「―――――何を、してるのかな?」
「私ってあんまり度胸がない弱い女の子なんですの。だからこうやって気を紛らわせようと思ったのですが――――やって後悔してますわ」
「・・・・馬鹿だね。意味が分からないよ。痛いだけじゃないか」
「でも効果はありますわよ、これ。痛さで貴方の視線なんか可愛い猫の目ぐらいにしか感じないし怖くもない。それになんだか・・・・気持ち
よくなってきましたわ。なんでかしらね・・・・ふふっ」
「・・・・・」
おそらく痛さでアドレナリンが過剰に分泌でもされてるんだろう。目が過剰に見開くのがいい証拠だ、上手く外眼筋を制御出来ていない。
気持ち良いというのもその所為、気分が高揚としてハイになるというのがアドレナリンの特徴だ。そして感覚も麻痺しているので恐怖も感じない。
フラフラになりながらも今度は逆にボクが睨み返されてしまう。さっきまで泣きそうな表情をしていたのに今はさっぱりとした顔付きになっていた。
そこまでする理由―――分からない。そんなにボクと義之くんを切り離したいのか。理解出来ない。だから聞いてみる事にした。
「なんでそこまでするのかな。そんなにボクと義之くんがくっつくのが我慢できない? 意味が分からないんだけど」
「いえいえ。別に義之が嫌がっていないなら、まぁ、それはそれでありかなと思いますわ―――面白くないですけどね」
「じゃあ、なんで――――」
「もしかして耳が遠くなったのかしら? 私は、今、『義之が嫌がっていないなら』と申しましたのよ。義之が嫌がっているなら
私は『友達』としてそれを許す事は出来ない。こんな事も分からないのかしら。常識が無いのね、貴方」
「許す事が出来ない、か。それで――――エリカちゃんに何が出来るのかな? 少し酷い言い方になるけどエリカちゃんに何か出来る
とは思えないんだけど。何の力も無いお姫様だしね」
「――――そうねぇ、さっき言った例みたいに裁判沙汰にでもしようかしら? 芳乃学園長は少し頭が可哀想な方なのでまともに取り合っても
仕方無いと私は判断しましたので。きっちり法律によって罰せられて下さいな」
「ああ、それは無理だよ。ボクってね、長生きしてる分だけあって人脈も凄いんだぁ。法律なんか捻じ曲げられるような凄い人とも
知り合いだし怖い人とも面識がある。全員お金でなんとか出来る人だからボクが少しでもお小遣いをあげれば動いてくれるかな?
エリカちゃんがどうのこうのしても意味が無いし、残念だったね、にゃはは」
「・・・・・ふぅん」
長年生きてるだけあってボクにはコネもある。それぐらい造作もない事だ。エリカちゃんは良い子だからそういう人間を知らないだろう。
世の中には愛よりも金の方が重いと考える人間なんて大勢いる、それが例え警察官でも、弁護士でも、政治家でもだ。でも仕方が無い、お金
が無いと生きていけないのだからそう考える人の気持ちもよく分かる。お金さえあれば良い服だって買えるし美味しい物だって食べられる。
それにお金はあって邪魔になるものでは決してない。有れば有る程いい物だ。その私の言葉に対してエリカちゃんは――――ため息を付いた。
「貴方ね・・・・私、一応お姫様なんですけど」
「そ、それがどうしたって――――」
「だから私は貴族で物凄くお金持ちだって言ってるのよ。お金なら腐る程ありますし人脈もまぁ、この地球――――じゃなかった、国に
沢山持ってますしね。なんならこの初音島を買い取ろうかしら? 桜も綺麗ですし海も中々に綺麗、観光地にするのも良いかもね」
「え・・・・?」
「そうだ、分家をこの島に設けるのもいいかもしれないわ。兄さんが結婚したらそうしましょう。でも買い物に何かと不便だから、そうね、
大型デパートでも買い取りましょうか。そうなるとレジャー施設も欲しいし服屋も欲しいし、えぇと・・・・」
「そ、そんな事出来る訳ないじゃないっ! 夢見るのも大概にしなさい!」
「それが残念な事にそうするだけの力を持ってますのよ。私が一声父上に掛ければとても容易い事なのよねぇ、父上ったらとても子煩悩
で参ってしまいますわ。この島に来る時も島の半分買い取ろうとしましたし・・・・私が民の血税をそんな風に使わないでくださいと
言ったらしょんぼりしてましたね。まったく、私の事になるとまるで見境が無いんだから」
「え、あ、そ、そんな・・・・」
「お金の事、なら私は誰にも負けないわよ・・・・ふふっ」
そんな常識外れのお金持ちなんか見た事も無いし聞いたことも無い。昔ここに住んでいた月城というお金持ちもそこまではいかない。
嘘を付いてると思ったが眼は本当の事を言っていた。おそらく事実。あの気の弱い子がここまで自信たっぷりに、この状況下で言うのだから
恐らく本当の事なのだろう。
愕然として何を言っていいか分からなくなる。エリカちゃんは頭を痛そうにしながら踵を返した。
「まぁ、そういう事ですので諦めて下さいな。貴方程の人物がここまで頭が回らなくなるなんてよっぽど義之に入れ込んでいたのね。
でも終わり。観念しなさいな」
「・・・・諦めないから」
「何を言ってもダメですわよ。義之はこの私が『守って』あげるんですから。これ以上指一本でも触れたら分かってますわね?」
その言葉に――――ボクは一番プッツンときた。
今、なんて言ったんだろうか。聞き間違いじゃなければこの子は義之くんを『守る』と言ったのだろうか。
冗談じゃない。義之くんを守るのはボクの義務だ。決してこんな弱くてどうしようもない子じゃない。
だから後ろを向いたその綺麗な背中に魔法を掛けてやる。跪くように倒れ込むエリカちゃん。苦しそうに立ちあがろうとするが無理だ。
可哀想に。心臓を鷲掴みされたような気分だろう。口から泡みたいなのを吐き出してるし余程苦しいに違いない。
うにゅ、汚いなぁ。
「・・・・くっ・・・・あ・・・っ!」
「一応救急車呼んでおくけど間に合わないかもね。でも人間頑張れば何とかなる事が結構あるんだよ。だからファイト、エリカちゃん」
「・・・・く、あ、あなたは・・・・・・」
そう言って気絶するように眼を伏せるエリカちゃん。まぁ仕方ないよ。ボクと義之くんの邪魔をしたんだし当然の報いだ。
死にはしないだろうがしばらく病院に入って貰おう。義之くん攻略まであともうちょっとなんだからここで躓いてなんかいられない。
―――さて、一応この後のプランでも考えておこう。学園長という立場は辛い。こんな生徒でも子供の為に泣いてる振りをしなきゃいけないんだから。
「まさかエリカから元気貰うなんてなぁ・・・・あとでお礼しなきゃ駄目だな」
友達。
あのエリカに心からそう言って貰えて嬉しかった。あれだけ酷い扱いしたのにオレの事をそう呼んでくれるなんて本当に嬉しかった。
小さい頃からダチなんて居なかったし今でも杉並と茜ぐらいしか居ないからそう呼ばれると、なんか、ムズ痒いんだよなぁ、くすぐったいというか。
でも―――悪い気分じゃない。本当にオレの事を心配してくれたし怒りの表情を見せてくれた。元々義理人情の厚い奴だがその気持ちは嬉しかった。
「でも無理はして欲しくないからな、エリカ。間違ってもさくらさんに突っかかるなんて事しないでくれよ」
今のさくらさんはとても怖い状態だ。もしエリカが自分の敵だと思ったら容赦なく攻撃するだろう。
まぁ、そんな事は無いと思うが一応忠告はしておいた方がいいかもしれない。オレなんかの為に危険なんか犯さなくていいと。
この問題はオレ自信の問題だ。未だに震える手を押さえながらため息をつく。それにはまずこのビビった気持ちを奮い立たせないと駄目だな。
「それにしても・・・・お礼、か。そういえばアイツ確かブティックに連れて行けって言ってたな。今度誘って行ってやるか」
それも悪くない考えだ。あいつを着せ換え人形にして遊ぶのも悪くない。フランス人形みたいに外見が美人だから色々面白そうだ。
でも怒るだろうなぁ。オレに惚れてた間も弄られると怒ってたし。またその怒り様が可愛いから更に笑えるんだよな、エリカは。
その時は美夏も誘うか。今のエリカならきっと仲良く出来る。きっとあーだこーだ言い合いながらいつも傍に居る関係になれるに違いない。
きっとオレという人間を介さなくてもそういう付き合い方になってただろう。似たモノ同士というのはどこか目に付くからな。
「その時は杉並とか茜とか誘って・・・・・ん?」
窓から外を見ていると―――桜の葉が舞っていた。
とても綺麗に舞う桜を見て、オレは何故か不安に駆られる。
そして聞こえてくる救急車の音。校門前にその救急車が止まったのを見てオレはベットから起き、走り出す。
嫌な予感がした。そしてそれは結果的に当たる事になる。そしてオレはその日――――人生で一番ブチ切れる事になった。