「由夢ちゃーん、ちょっといい?」
「ん、なぁに?」
「ちょっと買い出し手伝ってくれる? 商店街まで行くんだけど手が足りなくて・・・・」
「えー。兄さんに手伝って貰ってよぉー。どうせ春休みで暇してるんだしー」
「もう、そんな事言わないの。たまにはお姉ちゃんに付き合いなさい」
居間のソファーでゴロゴロしていたのがマズかったか。台所であれが無いこれが無いと言ってる時点で自分の部屋に退避しておけば
よかったと思う。
いや、どっちみち部屋に居ても同じ事になっただろう。これはもうタイミングが悪いとしか言えない。しょうがないけど大人しく着いて行く
事にした方がよさそうだ。
読んでいた漫画をテーブルに置き、軽く服がシワになっていないかチェックする。珍しくジャージを着ていない状態だったのですぐ行ける
格好だった。
あーあ、面倒臭い。そう思いながらお姉ちゃんと玄関に移動した。
「春休みだからってなまけ過ぎだよ。規則正しい生活を送ってないと後で自分が困るんだから」
「勘弁して下さいよ。去年のあの時に力を使って以来、妙に体がダルいんだから・・・・」
「きっと慣れない事したからだろうね。運動と同じで急に動いたから筋肉痛になったみたいなものだし。だから―――――」
「また魔法の訓練の話? だから私はそういうのに興味無いんだってば。かったるいし」
「んもう、そんな事言わないでさ。ね、ちょっとでもやってみない? 絶対由夢ちゃんならいいとこまで行くと思うし!
それにその方が体のダルさもすぐ解消出来て―――――」
この前の一件以来、お姉ちゃんはこういう風に暇さえあれば私を魔法の特訓に誘ってくる。話をしているとどうやら仲間
が出来たのが嬉しいみたいで私にどうやってでも魔法を覚えさせたいみたいだ。
私としてはさほど興味が無いので断ってはいるが・・・お姉ちゃんの押しに最近負けそうになってきている。やれば絶対に
かったるくなり途中で投げ出す自身があるので、どうしたもんかと最近それについてばかり考えていた。
その例のお姉ちゃんは私のそんな気持ちを知らず、呑気そうに鼻歌を歌いながらいつもの真っ白のブーツを履いている。
その様子にため息をつきそうになりながらも、私もローファーを履いて玄関の扉を開いた。
「あー今日も快晴ですねー。かったるーい」
「最近の由夢ちゃん、かったるい言い過ぎ・・・・」
「だってかったるいんですもん。兄さんを誘うのに躊躇して、仕方無く家に居る妹を誘うかって感じで私を連れ出したんだから。
これぐらい言わせて下さいよね」
「べ、別に躊躇してる訳じゃ・・・・」
どもるお姉ちゃんに少し呆れながらも、向こうにあるさくらさんの家を見る。途端に少し腹が立った。
私の予知夢は断片的なものであり、その見た場面が結果なのか過程なのかさえ分からない中途半端なモノだ。
私が夢の中で見た場面は兄さんが桜の木の中に取り込まれる所だけ。だからそれが結果なのか過程なのか分からないからこそ、あんな
に息が切れる思いで走ったというのに・・・・全部兄さんの考えの内に収まっているというのは、中々腹が立つ。
自分が消えるという事も予測しての行動。本当にあのぐーたらな兄さんがそんな事を考えて行動したなんて信じられない思いだ。
「だって弟君の事誘い辛いんだもん。由夢ちゃんだって分かってる癖にぃ・・・」
「まぁ、気持ちは分かりますよ。最近さくらさんに付きっきりだし、ね」
「あれ? もしかして寂しいの、由夢ちゃん?」
「ば―――――そ、そんな事ある訳無いじゃないですか! なんで私があんな不良な兄さんを・・・・」
「女の子って不良の男の子に憧れるモノだから照れなくてもいいのよ? ワイルドに見えるし格好いいもんね」
「そんな可愛いものじゃないでしょ・・・あれは」
確かに去年からの兄さんは不良だとは思うが、その言葉だけじゃ言い表せないまた別な何かの様な気がする。
馬鹿みたいな事を言うと思ったら時々理知的な言葉を吐く時があるし、凄く暴力者だと思ったら穏やかな顔をする時がある。
本当に訳が分からない人になっちゃったなぁ。なんであんなに人が変わった様になっちゃったんだろうか。
「まぁ、兄さんの事は置いておくとして。今日もさくらさんの家で夕食ですか?」
「そうだねぇ。アイシアさんもいるし、最近は弟君も嫌がらないし、やっぱり皆で食べた方が楽しいじゃない?」
「や、別に嫌だとは言ってませんよ。私だってアイシアさんと食べるの嫌じゃないですしね」
ここ最近、アイシアさんがさくらさんの家に居る事が多い。なんでもアイシアさんとさくらさんは旧知の友らしい。
なんであの世代の女の子はあんなに若いのだと突っ込みたい所だが、怖いので止めておく。年齢の話をすると鬼みたいに怒るし。
お祖父ちゃんを『純一』と呼び捨てる程に年齢が近いのは確かなのだが・・・・魔法というものは若づくりにも役立つようだ。
なんにしても全世界を旅しているアイシアさんの話を聞くのは楽しい。外国に行った事の無い私としては刺激的な話ばかりだ。
「でも行ったら兄さん嫌味を言うからそこが不満です。『何時になったらお前料理出来んの?』、って言うんですからっ!」
「あ、あはは・・・・。で、でもっ!腐らないで毎日精進だよ、由夢ちゃん!」
「この間なんか普通に吐き出しましたからね。失礼な話ですよ全く」
「あの時は酷かったね・・・・。アイシアさん寝込むし、さくらさんは無理矢理はりまおに喰わせようとしてたし・・・・」
「お姉ちゃんは私のお皿に全部分けようとしてましたもんね」
「ま、まぁそんな過去の事はどうでもいいじゃないっ! ほら、早く行かないとお店閉まっちゃうよ!」
「あ、な、何で逃げるんですかーっ!」
まだ真昼間なのに急いで駆けだす姉の後ろを、私も走りながら追いかける。
まぁ、何だかんだ言ったが、最近はいつも通り平和だった。最近の夕食時の事を振り返ればそれは確かだった。
兄さんの周りはちょっとゴタゴタしたみたいだけどね・・・・。その時期の兄さんはいつも何かを考えている様な顔をしていた。
桜の木から出てきた兄さん達。そしておもむろに一連の騒動を包み隠さず私達に教えてくれた。さくらさんの泣き顔が今でも頭に残っている。
「いやぁーっ! 由夢ちゃんが鬼みたいな顔して追いかけてくるー!」
「誰が鬼みたいな顔ですかっ! だ、だから待って下さいってばっ!」
しかし、その話は今思い出す必要は無いだろう。もう終わった事だし、今は姉の後を追い掛けなくては。
てゆーかそんな大声で言わないでくださいよ! ご近所に聞こえたら恥ずかしいじゃないですか、全くっ!
「ねぇ、義之」
「なんだ、アイシア」
「この指輪買って下さいよ。やっぱりクッキーだけじゃ割に合いませんって」
「美味しそうにボリボリ喰っておいてそれかよ。確かにあの事件の褒美にしては安いと思ってるけど、それで満足
してたじゃねぇか。それもなんだよその値段・・・・舐めてるのか、てめぇ」
「でも可愛らしいデザインですし・・・う~ん」
そう言ってカタログをペラペラと捲り同じページに戻った。机に顎を乗せてリラックスしてるのは分かるが、一応オレの
部屋なんだぞ。遠慮ってもんを知らねぇのかこの女は。まぁ、別にいいけどよ。
オレの膝の間に座り込んで読んでるから煙草も吸えず、オレもそのカタログに目を落とす。元々オレの部屋に置いてあった
雑誌だからもう読み飽きた物だが、オレもやる事がないので付き合ってやる事にした。
それにしても指輪か。こいつがそんな物に興味を持つなんてな。オレもいくらかは趣味で集めてたりするが、まさかアイシアが
そう言うモノに興味を持つとは思わなかった。頓着する様な性格でもないと思ってたしな。
「そういうのが欲しいんだったら、ホレ」
「え――――って、あわわっ!」
適当に指に付けていたアクセを本の上に落とす。安くは無いが高くも無い普通の指輪だ。綺麗系だし別に女が付けても違和感ないだろう。
オレがあげた指輪に驚き、どうしたらいいかという風にあたふたするアイシアを見て、笑った。本当に年上なのかよコイツは。
とりあえず指輪を手に取り、こちらの様子を窺う様にしてじっと見詰めてくる。もしかしてからかわれていると思っているのか。
「冗談じゃ、ないんです・・・よね?」
「人の好意は無碍にしない方がいいと思うだがな。オレがくれるっつーんだからくれてやるんだよ。素直に受け取って置け」
「で、でもこんな高そうな物・・・」
「バイトしてたら買える値段だし、付けるのに戸惑うほどの高級品て訳でもない。もしデザインが気に要らないって言うのなら他の
にするけどな」
「あ、いや、こ、これでいいです! というか、これがいいです!」
「そ、そうか・・・・」
まるで子供のようにはしゃぎながら指輪を手に嵌めるアイシア。その様子を見てる若干戸惑うが、あげて正解だったかなと感じた。
なんだかんだ言ってあの時の恩は返しても返しきれない程ある。一方的に付き合わせ、命まで助けて貰った。今までゴタゴタ
してお返しを考える暇が無かったから、少しだけ気に入ってた指輪を上げたとしてもなんら痛手は無い。
むしろ足りないくらいだ。しかし、まぁ、そんなに喜んでくれてなによりだよ。
「そうだ! 今からどこかへ出かけましょうっ! 義之も暇だし別にいいですよね!?」
「んでだよ、かったりぃ。この後暇だから昼寝でもしようかなと思ってたのによ」
「いい歳した男の子が何を言ってるんですか。ホラ、早くぅ~」
ぐいぐい手を引っ張ってくるがオレは意地でも動きたくないので、腰に体重を掛けそれを阻む。肩を一生懸命プルプル震わせながら
オレの手を引こうとするが、生憎アイシアみたいな貧弱な女に力負けする程、鈍っちゃいない。
つーか最近こいつの出店に引っ張り出されてばかりで疲れてる。こんな時ぐらいゆっくりさせてくれよと思わずにはいられない。大体
こいつが行きたい場所なんて初音島にある神社とか、海とかそんな所だ。
アイシアから見ればこれまた新鮮に映るんだろうが、こちらは生まれた時から見ている風景だ。行ってもきっとつまらない思いをするので
お出かけはご遠慮して貰おう。
そして――――気付けよな。扉の陰からコソッとこっちの様子を窺ってる視線に。行きたくない理由の大半はこれだったりする。
「なぁ、アイシア」
「ん、何ですか? やっぱり行く気になりましたか?」
「扉の方を見てみ」
「え、扉がどうかした―――――――って、きゃぁぁぁぁあっ!?」
「・・・・ジー」
さくらさんのねっとり絡みつくような視線に気付いたアイシアは、一目散にオレの背中に隠れた。よほど怖かったのかぷるぷる震えている。
そりゃ怖いに違いない。ちょうど扉から半身だけ出す様にして下から見上げる様な上目遣い。ちょうど昨日やっていたホラー映画みたいだ。
そういえばその映画見てアイシア泣きそうになってたっけ。見た目通りというかなんというか。後ろから脅かしたらマジ泣きしてやんの。
「どうしたんですか、さくらさん?」
「・・・・ちょうど仕事が一区切りついたし、義之君何してるかなぁと思って・・・さ」
「そりゃちょうどいい。下でコーヒーとか飲もうと思ってたんですよ。さくらさんも飲みますよね?」
「・・・・アイシア」
「はうっ! な、な、なんですかっ!?」
「指輪、いいね。ボクなんか義之君から貰った事ないのに」
「うぅ・・・・・」
オレの言葉を無視し、じーっとオレの体越しにアイシアを見詰める。なんか段々視線の部分が痛くなってきたんだけどよ・・・・。
とりあえずこの状態をずっとこのままとは行かないので、オレはアイシアを立ち上がらせ、さくらさんの目の前に突き出してやった。
さっきまであたふたしていた様子とは一変して硬直する体。さくらさんは言葉を吐かず、その顔を感情の無い目で見ている。
まるで蛇に睨まれたカエルだな。その言葉がそのまま当て嵌まりそうな図式だったので、思わず苦笑いをこぼしてしまう。
「わ、わ、私・・・・・っ!」
「別にそんなに怖がらなくてもいいじゃない。さっきから義之君の膝の間で楽しそうにお喋りしてたけど、ボク気にしていないし」
「~~~~~~~ッ!」
そしてとうとう我慢出来なくなったのか。さくらさんの脇を通りドアを潜って、ドタバタと階段を駆け降りる音が響き渡った。
よほどビビったんだろう、「わ、わ、私っ! コーヒーの準備してきますっ!」と言った声も若干震えているのがその証拠だった。
そして部屋に残されるオレとさくらさん。アイシアが出て行った方向を見詰めた後、いつも通りにこちらに歩み寄り、膝の間に座った。
「アイシアには優しいよね、義之君」
「そんな事無いと思いますけど。オレは博愛主義だし、皆に優しいつもりです。昨日観た仔馬のドキュメンタリーには思わず
涙を流しそうになりましたよ。生命の尊さって改めて考えさせられます」
親馬が難産で、出産自体が生死を分けるといった動物のテレビ番組だった。
アイシアはそれを見て泣きながらウンウン頷いていたし、由夢も感化されたのか涙目になっていたのは記憶に新しい。
最後の方は結局、親馬も仔馬も生き延びる事が出来てハッピーエンドという今時の番組だった。
「あの後、義之くんさ、アイシアに耳打ちしてたよね。『あの親馬と仔馬。お前がさっき食べた馬刺しなんだぜ、可哀想に』って」
「あーそんな事もありましたね。結構本気で殴ってくるから困りましたよ、全く」
「あまりのショックで、もうお馬さん喰わないって言ってたよアイシア。どうしてくれるのかなぁ~?」
「今朝の朝食の時、美味しそうに鶏肉喰ってましたから平気でしょう。それよりも下でアイシアがコーヒー入れてくれてる筈ですから
さっさと行きましょうよ。あんまり待たせると拗ねるんですから、アイシアは」
「ん~もうちょっとこのままがいいかなぁ。義之君はイヤ?」
「そんな事ないですよ。じゃあ、もうちょっとゆっくりしていきましょうか」
「にゃはは、アリガト」
オレの胸に頭を乗せてくる。その慣れた感覚の重さにオレも安緒に似た感情が身を包むのが分かった。
こうしてまた再びさくらさんと穏やかな雰囲気で引っ付けるなんて去年は思わなかったな。つい最近の事なのに懐かしく思う。
一週間と少し―――――オレがこの世界に来た時を混ぜると約一ヵ月間。もうこれ以上無い位に濃い人生を送ってしまった。
別にそれが不満って訳でもないし、色々な人が傷付いたがもう終わった事だ。エリカも無事復帰したし、桜の木も枯れた。
そう、全て終わった。だが始まったモノもある。さくらさんの顔を見ながらあの時の事を思い出した。
「オレは―――――さくらさんの事をちゃんと愛してあげられるか分かりません」
「・・・・そう」
オレの返答は大体分かっていたのか、どこか納得したような表情と諦めの色を濃く表わしていた。
しかしショックを受けていないという事ではない。握られていた手はだらんと垂れており、肩もうなだれている。
さくらさんにとってはこれ以上ないぐらい好きになった男性。今までの事からもそれは分かっている。
そして今まで一人ぼっちで過ごしてきたさくらさんにとって、それはもう死刑宣告に近いものがあるだろう。
「にゃ、にゃはは・・・・そうだよね。今まで義之くんに酷い事してきたんだものね・・・・」
「そうですね。多分今まで、そしてこれからずっと先の事を考えても、これ以上無い位の裏切りを受けました」
「・・・・・・ごめん」
「ですから色々考えてみました。さくらさんがしてきた事、オレの気持ち、この二つを」
「うん・・・・・・」
今からオレが言う言葉は、かなり勇気が要る。オレにとって大事なものを、かけがえの無いものを取捨選択するのだ。
こんな決断は今までした事がない。だが、この問題に白黒を着けなければオレだけじゃなく、周りのオレの大事な人達が傷付く。
つい最近まで他人に興味を持て無かった自分が、こんな問題を抱えるとは思わなかった。笑える話だ。もうオレは変わったのかもしれない。
だが、まぁいいかという気持ちもあった。オレはオレだし、根本的な部分は変わらない。何時だってオレは自分の思った通り行動する。
「オレは―――――美夏と別れて、さくらさんの傍に居る事を、誓う」
「・・・・・・・・え?」
「さっきの告白、受け取ろうと思うよ。これから改めてよろしくな、さくらさん」
「え? え? ええっ!?」
オレの微笑む様な笑みとは対照的に、さくらさんは狼狽しきった様子で目を忙しく動かしている。
あまりのそのうろたえっぷりにオレは思わず笑ってしまった。そんなオレの笑いを見てか、若干ムッとした顔付きになるさくらさん。
なんだよ。告白してきたのはそっちなのに、そんな驚く事でもないだろう。まぁ、今までの流れで普通にOKが出るとは思わないか。
「はは、そんなに驚く事でもないでしょう。オレはたださくらさんの言葉に頷いただけだ」
「う、頷いただけって・・・・。ボク、絶対に断られると思ってたんだよっ? 義之君のことをいっぱい傷付けたし、エリカ
ちゃんにも酷い事して、だから、その・・・・・」
「信じられない―――――もしかして、そういう気持ちでいっぱいですか?」
「・・・・・うん。だって義之君は美夏ちゃんの事大好きなのは分かってるし、だから別れてボクと付き合うなんて・・・・」
「オレは言いましたよね、本当に色々な事を考えたって。これ以上無いくらい考えましたよ。本当に、これ以上無いくらい」
「―――――理由、教えてもらっていいかな?」
「理由、ですか」
「うん。美夏ちゃんを振ってまで、ボクを選んでくれた。その理由」
目を閉じ、手をポケットに入れる。さくらさんとしてはとても重要な事なのだろう。自分が今まで酷い事してきたのに、恋人を捨てて
違う手―――――自分の手を取るのだから当然か。
別に美夏が嫌いになった訳ではない。今こうしていてもアイツの顔を思い出すだけで愛しい思いや、優しい気持ちになれる。
茜、エリカを捨ててまで付き合った人だ。こうして人に感情を開いたのもアイツのおかげもある。じゃあ何故、捨てる様な真似をするのか。
オレはさくらさんに告白された時に考えた。そういえば―――――ここまで頑張って走ってきたのは誰の為だろうと。
色んな人達を巻き込んでまで、オレ自身が傷付いても走り抜けたのは誰の為だったのかと。それは誰でも無い、さくらさんの為だった。
小さい頃からのオレの憧れの的であり、女性としてもオレはさくらさんに僅かだが好意を持っていた。そんな人をオレは自身の手で助け
たかった。そこに何ら打算めいたモノは無く、ただ純粋に苦しんでいるさくらさんを救ってやりたかった。
そうしてオレは知ってしまう。知ってしまった。さくらさんの今までの人生を、そのどうしようもない孤独感を、オレに対する狂おしい
ぐらいの愛を。オレが思っていた以上に、さくらさんの心はもう限界まで壊れかけていた。
そこに見たのはオレが尊敬しているさくらさんではなく、タダの女の子が泣いていた。どうしていいか分からず、タダ泣く事しか出来ない
子供みたいな子が座り込んでいる。
そう考えた時、オレは傍に居てやりたいという強烈な感情が心を支配した。それは美夏と居たいという気持ちよりも・・・・・大きかった。
結局のところ、オレは小さい頃から今に至るまで、さくらさんの事を想う気持ちが薄れなかったという事だ。
オレの始まりの記憶の最初の人であり、そしてオレの初めての母、そして大事な女性。それだけがオレの気持ちの全てだと言えた。
「美夏とさくらさん。両方を天秤に掛けたら・・・・貴方の方に傾いた。ただそれだけです」
余計な言葉は要らない。色々な言葉で繕っても結局はそういう事なのだ。
美夏とさくらさんを比べて、オレはさくらさんを取った。もう後戻りは出来ないし、する気も無い。
オレのその言葉に、さくらさんはまた泣いた。多分ここ最近では一番泣いたのではないかというぐらい泣いて、叫んだ。
「・・・ひっぐ・・・・ご、ごめんね。本当に・・・・ごめんね、本当に―――――うわぁぁあぁあぁああぁあっ!」
何に対しての言葉なのか。誰に対しての言葉なのか。
オレに対してか、美夏に対してか、それとも茜やエリカといった人達に対しての謝罪の言葉なのか。
どれのようでもあり、どれも違う様な気がした。
「好きです、さくらさん」
美夏、ごめんな。やっぱりオレは最低だ。お前がいながらオレはさくらさんを取った。呪いたいなら呪ってくれ。
そんな事は絶対にしないだろうに、そう思わずにはいられない。オレは恋人を裏切ったのだからそうなっても甘んじて受けとめる。
実の母親と愛し合う。残念だ、天国には行けそうにも無い。死んだ後でもオレは楽をしていたいのにな。態々辛い所に行くほどオレは物好きでもない。
まぁ、いいか。さくらさんと一緒なら地獄だってどこへだって行けるさ。オレとさくらさん、この二人だったら何処でも楽しくやっていける。
そうしてオレ達は現実の世界に戻った。
現実――――楽じゃ無い道のりだが、精々裏道をトコトン行ってやるか。
「ていうか義之君さぁ」
「なんです?」
「アイシアの事、本当に構い過ぎだよねぇ。さっきははぐらかしたけど」
「またその話っすか。だからなんでもないですってば。子猫を可愛がる感覚ですよ、子猫をね」
「そのうち泥棒猫にならなきゃいいけどね。あの子、意外としたたかだし」
「あー・・・確かにソレっぽい所はありますよね。伊達に長生きしていないみたいな所は時々感じます」
「だからさ、その、あんまりくっ付いて欲しく無いわけなんだ・・・・一応、ボク達そういう関係なんだし」
「それって、どういう関係ですか?」
「・・・・分かってる癖に」
「はは、別に意地悪したい訳じゃない。ただ、改めて聞きたくなっただけです」
「――――――こういう関係、だよ」
唇に感じる柔らかい感触。最近日課となりつつあるキスだった。さくらさんが好み、オレも嫌じゃ無い日課。
最初の頃は戸惑って苦労した。やはり今まで親子として暮らしてきたし、いきなり完璧に一人の女性として見ろというのは無理な話だった。
だからこそさくらさんと寝た時も嘔吐感に苛まれた訳だ。親と子、この関係は覆せない事実であり一生付き纏う単語でもある。
しかしこれを乗り越えないと話にならない。さくらさんもそれが分かっているのでキス以上をしてこなかったし、オレも有り難かった。
今では毎日の日課のキスのお陰か、そういった嫌悪感みたいなものも薄れていき順調な毎日を送っている。
さすがに毎晩お楽しみという訳にもいかないのである程度は節度を持って行動しているが、時々体を重ねては一緒に寝る事も少なくは無い。
こちらの世界に戻って来て、初めてお互い合意の元で体を重ねて思った。ああ、本当に人の道を外れたんだなと。
さくらさんとお互い何故か涙を流しながら笑ったのは一生忘れないと思う。その時に感じた感情はとても言葉じゃ言い表せない。
喜びと悲しみ、達観と諦観、優越感と劣等感。だが後悔はしていない。
さくらさんの笑顔を見る度に、オレはそう思った。
「見なさい天枷さん、親子で付き合ってる変態の義之が歩いてるわ」
「うむ。変態が真昼間から歩いているな」
「やぁん、私、こわ~い」
「・・・・・てめぇら、そこの川にまとめて落としてやろうか・・・・」
「あら、この時期はまだ海開きがされていないと思いましたが? 桜内先輩ったら春休みで少しボケましたか?」
「言う様になったな、エリカ。最初会った頃はまだ可愛気があったと思うぜ?」
「そんな頃もありましたわねぇ。でも色々私も変わりましたのよ。桜内先輩のおかげで」
「・・・・悪かったと思ってるよ。あんまり苛めないでくれ」
「―――――ふふっ、冗談よ義之。私は今でも義之の事大好きなんですから。なんだったら今からまた少し本気を出して
妨害してみようかしら。貴方と学園長の仲を、ね」
「・・・・・はぁ、勘弁してくれ」
最近頭痛が増えたような気がする。オレが午後に喰う菓子の買い物に出かけた矢先、坂道の下で出会ってしまったこの面子に頭を
抱えたくなる。エリカに美夏、茜といったこれまたオレに縁がある人物達だ。
オレとさくらさんが付き合う事を真っ先に話したのはエリカだった。さくらさんも謝罪しなければいけないし、ついでという形で
さくらさんとの関係をエリカに話そうと思って打ち明けてみた。
勿論エリカは激怒した。美夏ならまだ納得出来る、けれど親子で付き合うなんてそんなこと――――と言った具合だ。何も言えず
黙るオレとさくらさんを見てまた激怒するエリカ。
そして怒りに怒って――――涙を零した。言いようの無い感情に思わず泣いてしまったのだろう。しかし、オレはエリカを抱きしめる
事は出来ない。もう、オレは全部を振り切ってさくらさんと付き合っているのだから。
そんなオレの様子に何か感じ取ったのか、『はぁ・・・』というため息をつき、オレ達に言った。
「私には貴方達を祝福する事は出来ない。だって、普通じゃないんですもの。けれど――――頑張ってください」
救われた様な気がした。オレとさくらさんはエリカに頭を下げ部屋を後にした。エリカが死にそうになった原因の魔法に
ついて何も言及されなかったのは多分オレとさくらさんの関係に驚いて、聞きそびれたからだろう。
思い出したら後々面倒臭くなりそうなので、このまま喋らない方がいいとオレはさくらさんに言ってやった。さくらさんも
さすがにそれは言い辛かったのか、二人でその件は伏せておく事にした。
まぁ、しかしエリカには本当に迷惑を掛けた。一番の被害者でもあるし何か贈り物でもした方がいいのかもしれない。さくらさんは
面白くないと思うが、そこは説得するしかないだろう。
「でもぉ、義之くんて本当に気が多いわよねぇ。あっちこっちに目移りしてさ。ホント最悪って感じぃ~」
「だったらそんな最低男の腕にひっ付くなよ。かったりぃわ」
「そんな事言わず胸の感触を楽しみなさいよ。さくらさんには無いこの胸、いいでしょ~?」
「な、なにやってるんですか花咲先輩っ! 義之から離れて下さい!」
「花咲ぃ! お前、義之にはちゃんとした恋人がいるんだぞ! そんな事しては駄目だ!」
「そんないい子ぶっちゃってだめよぉ、美夏ちゃん。本当はまたよっしーの腕に抱かれたい癖にぃ」
「な、う、うがぁぁあああーーー!」
顔を真っ赤にさせて茜の腕を剥がそうとする美夏とエリカ。茜はそんな二人の腕をのらりくらり躱しながらオレの腕から離れないで居る。
そんな様子の茜を見ていると、こいつは本当に変わらないと思った。オレとさくらさんの関係を知った時は、エリカ以上に怒ったというのに
変わらずオレにいつも通りに接してくるのは、器がでかいというかなんというか。まぁ、そんな事言ったらエリカもなんだけどな。
茜が一番怒った事は美夏の事。どうするつもりかと聞かれた。オレは別れると言ってやった。飛んでくるビンタ、唇が切れて血が流れた。
「最低ね、義之くん。美夏ちゃんの事弄んだと言われても何も言えないわよ、貴方」
「考えに考えたんだ。オレはその事を後悔していない。美夏には後で言うつもりだ」
「あら、開き直り? 本当に大したタマね。一回死んだら?」
「それは出来ないな。さくらさんが悲しむ。なんとでも罵倒してくれ」
「―――――ッ! それが開き直ってるって、言ってるのよッ!」
またビンタが飛んできてきた。今度は受けずその手を受け止める。見詰め合うオレと茜。
オレはその手を離して、茜に向き直った。納得をして貰おうなんて都合の良い考えはしていない。
いくら茜が人が良いとはいえ限度がある。オレはその限度を超える様な真似をしたのだからこうなるのは当然だった。
だが、それでも茜には分かって貰いたかった。ただの自己満足。けれどオレの本音だった。
「お前には分かって欲しい、茜」
「な、何を分かれって言うのよっ! エリカちゃんとか美夏ちゃんを巻き込んで、挙句に別な女、それも母親みたいな人と
付き合う事を分かれって言うのっ!?」
「そうだ」
「そうだって、貴方―――――」
信じられない様な目付きでオレを見る茜の目。オレはそれから視線を外さず、黙って受け止めた。
流れる沈黙。茜は何かを考える様な仕草をして黙ってしまった。色々な事に整理をつけているのだろうか。分からない。
オレは茜が何を言っても全部受け止める気概でいた。茜には今まで本当にお世話になったし、その権利があるだろう。
「・・・・撤回する気は?」
「無い」
「今ならまだ間に合う。美夏ちゃんと別れるなんて止しなさい」
「もう決めた事だ。そのつもりはない」
「本気、なのね」
「本気だ」
「・・・・・・・」
値踏みするようにオレを見る。あまりにも都合のいい話には聞こえるが、オレはさくらさんに対して本気だった。
またしばらく沈黙が流れ――――ため息が漏れた。茜は髪をくしゃくしゃにしながらオレを見る。目の色、納得はしていないが
一応怒りの矛を収めてくれたようだ。
その様子に心の中でホッとした気持ちが生まれた。このまま怒ったままじゃ話なんて出来なかったかからな。
「なんだかその冷静そうな顔が、すごく嫌味ったらしいんですけどぉ」
「生まれつきだ。悪いな」
「美夏ちゃんとよく話し合いなさいよ。そうしないと絶対にお互い心の中で傷付くだけだから」
「ありがとうな、茜。お前だってオレの事好きだったのに振り回せちまって」
「何そのモテ男発言。さすが義之くんは一味違うわねぇ~」
「何か出来る事はないか。とりあえずなんでもするつもりではいるが――――要望を聞いておく」
「・・・・ふぅ~ん、じゃあ、さ」
言葉を切り、髪を整えてオレと正面から向かう様な位置に足を動かす。
何を言うつもりか――――見当が付かない。こいつの事だから常識外の事は・・・・いや、言うかもしれない。
こいつと親しくなったのだって、公園でのあのいきなりのキスが始まりだったからな。
「私とぉ、付き合ってくださ~いっ!」
「・・・・たまにお前の頭の中を覗いてみたいよ。何が詰まってるんだろうな。夢か?」
「ふんだ。別にいいじゃない、これぐらい言ったって」
「付き合う事は出来ないが・・・・これで勘弁してくれ」
「あ――――――」
そう言ってオレは、茜の体を抱きしめる。まるで恋人がするみたいにぎゅっとしてやった。
間近で聞こえる吐息と甘い香り。今まで茜に対してオレはどこか冷たいような態度を取っていた様な気がする。
美夏とエリカの事で頭が一杯だったというのは言い訳にはならない。茜が苦しんでいない筈は無かった。
最初にオレを好きだと言ったのは茜だった。キスを初めにしたのも茜だったし、友達に収まってくれた後でも色々助けて貰った。
エリカを気に掛けるオレを見て何を思っただろうか。美夏と付き合うと聞いて何を感じたのか。それは本人にしか分からない。
けど分かる事―――――悲しい思いをしていたに違いない。さくらさんと同じく、茜もまた辛い気持ちを抱えたままだったに違いなかった。
なのに今度はさくらさんと付き合うというとっておき。返って辛い思いをさせるかもしれないが、何か想い出に残る事をしてやりたかった。
オレの身勝手にここまで付き合ってくれた茜。杉並以外で初めて出来た友達――――親友。これからは一生大切にしていきたい。
「・・・・・・・ありが、とう」
涙声になりながら感謝の言葉を吐く茜の言葉を聞いて思う。ああ、本当にオレの事好きだったんだな、と。
まだ納得してもらうには時間が掛かるかもしれない。それはエリカにも同じ事が言えた。
けど二人の女を泣かせ、これからまた一人泣かしてまで選んだ道だ。
絶対に立ち止まらない――――――今度も、走りきってやる。
「最近調子はどうだ?」
「ん、まぁまぁだな。可も無く、不可も無くといったところか」
「相変わらず変わり映えの無い人生だな。オレみたいに色々人生楽しんだ方がいいぜ?」
「お前は自分の思うまま生き過ぎだ。もう少し謙虚さを持って生きた方が、美夏はいいと思うぞ」
「謙虚さなんか持ったってオレの場合どうしようもない。そういうのはちゃんとした真人間に言ってくれ」
「むぅ・・・。お前は相変わらず人の意見を取り入れないヤツだな」
気を遣っているのか、茜とエリカは少し距離を離してオレ達の後ろの方を歩いていた。脇にはいつも通り美夏が陣取っている。
いや、正確にはいつも通り『だった』か。もう過去形になってしまっている。美夏と別れたんだからそれが普通なのに習慣とは恐ろしい。
美夏が隣に居る事が普通だと思ってしまっている。こうして歩いていると違和感なく、いつもの距離感で歩いているオレ達が居た。
だから、少しいつもより距離を開けた。ぴくっと片眉を動かす美夏。だが、何も言ってこない。言えないのかは分からなかった。
「美夏の事よりお前の方は最近どうなんだ? 学園長と仲良くやってるのか?」
「まぁ、おかげ様でな。前より口喧しくなったぐらいで何ら問題は無い」
「母親目線で許容出来る事でも、彼女目線だと許容できない事があるって事だな。義之の場合、女性に対するエチケットが足りん
から学園長も大変だろうに」
「んだよ。お前と付き合ってる時も、何か不満に思ってた事あるのか?」
「デート中でも他の女と喋る事だな。確かに言う程では無い気はするが・・・・それでも面白くない気持ちではあるぞ」
「あー・・・・そうだったな。確かにその辺の配慮は足りなかった。今度から気を付けるよ」
「うむ。是非そうしてやってくれ」
美夏の場合だと茜とエリカか。他の女の知り合いだったら無視しても構わないのだが、この二人となるとそうもいかなかった。
茜の場合、オレが美夏とデート中に一人になる時間に会う事が多かった。まぁ、そこは空気を読める女なので何回か美夏が帰ってくる
前に退散した事がある。
エリカ、あいつはどんな時でも美夏に対抗するかのようにオレの傍に居たがっていた。最近はあの時より遠慮しているようだが基本的に
は変わらない。今度からデート中に金色の髪を見つけたら回避するとするか。絶対あいつはさくらさんに喧嘩を売る様に引っ付いてくるか
ら用心しないといけないかもしれない。
「しかし―――――」
「あ?」
「別れた後もこうやって義之と歩けるなんてな。普通のカップルはギクシャクするらしいぞ。美夏のクラスのヤツが言っていた」
「別にお前が嫌いで別れた訳じゃねーしギクシャクはしないだろ。今でもお前の事は―――――」
「その先は言わない方がいい。お互いの為に、な」
「・・・・わりぃな。最近どうも気が抜けちまったみたいでそういう気遣いが全然なっちゃいねぇ・・・・許してくれ」
今のは失言だった。自分の迂闊さに舌打ちが漏れそうになる。さくらさんの件が一段落してボケちまったみたいだ。気を付けなくてはいけない。
もうオレにはさくらさんがいるし、美夏もそれに納得―――――してもらっているのだから、さすがに今の言葉はなかった。
美夏に謝罪の言葉を向けると、二カっという風に笑ってオレの腕を叩く。その行動にオレも安緒のため息をついた。
「別に構わん。ところで確か買い物に行くんだったな、義之は」
「あ、ああ。さくらさん達に菓子の買い物を頼まれてな。そこで暇しているオレが、買い出しに係に任命されたって訳だ」
「なら美夏達も付き合おう。どうせやる事も無くてブラブラ歩いていたら偶々会った連中だ」
「そんな気遣わなくていいのによ」
「だから気にするなというに。おーい、花咲とムラサキ! 義之これからそこのスーパーで買い物するらしいから付き合わないかーっ?」
「あらぁ、そうだったんだ。勿論行くわよぉ」
「そうですわね。じゃあ買い物終わった後でも義之の家に遊びに行きましょう。どうせ暇ですし」
「な、お、おい―――――」
「おぉ、そうだな。そういえば義之の家にあんまり遊びに行った事がないし、そうするか!」
「やぁん、私の久しぶりに行くわねぇ、義之くんち。化粧ばっちりキメてきて正解だったわぁ~」
「じゃあ、決まりだな。さっさと行くぞ。義之」
オレの意見は無視かよ、テメェ。オレは突然の事にどう言っていいか分からず美夏に腕を引っ張られスーパーの中に入った。
こいつらがオレの家に来る――――背中が氷柱を突っ込まれたみたいにゾワッとした。一人でも大変な思いをするのに三人も
来たら絶対さくらさんの機嫌が悪くなる。そしてこいつらはアイシアの存在を知らないからこっちも大変な事になる。
もうオレが何を言ってもこいつらは来るだろう。そういうトコは強情な女共だ。オレはため息を吐いて隣の美夏を見た。
美夏の顔――――悪戯めいた笑みだった。そんなどこかある意味可愛らしい表情をした美夏に、オレは結局、どうにかなるか
という諦めにも似た気持ちを抱いてしまう。
また、こうやって美夏の笑い顔を見れるとは思わなかった。あの時は本当に美夏を説得出来るとは思えなく、半ば諦めの
気持ちを抱いてしまった事を思い出した。
「・・・・・・・・は?」
「だから、別れよう。美夏」
他に本当に好きな人が出来た。お前の事が嫌いになった訳じゃ無く、ただその人の方が好きになったんだ。だから、別れよう。
簡単に言えばそのようなニュアンスの言葉を吐いた。美夏の顔、訳が分からないといった感じだった。予測できた事でもある。
昨日まで何の問題も無く、お互いに笑い合っていたのに別れを告げられる。美夏からしてみれば交通事故に合ったようなものだろう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ義之っ! いきなり、何を言ってるんだ・・・・? 面白くも無い冗談は止せ」
「悪いが冗談じゃない。詫びても詫びきれないが、オレは本気なんだ。すまない」
「止せよ義之・・・・何で美夏が詫びられなければいけないんだ。そうだろ、おかしいだろ、なぁ?」
「・・・・・すまない」
「―――――――ッ! だ、だからッ! 謝るなって言ってるだろっ! このバカァーーー!」
部屋に美夏の声が響き渡る。いつものボディチェックを行った後、オレはタイミングを見計らって話し掛けた。
水越先生もイベールもいない。オレと美夏の二人っきりだけ。はぁはぁと肩で息をつき、オレを涙目で睨んでいる。
美夏に睨まれる、今までは冗談で何回か睨んできたがここまで本気で睨まれた事は無い。今の美夏は本気で怒っていた。
「なんでいきなりそうなるんだ。別れるとか別れないとか。み、美夏の何が気に喰わなかったんだ、義之?」
「何も美夏は悪く無い。オレが全面的に悪い。美夏を好きだと言いながら他に好きな人が出来てしまった。さっきも
言った通り美夏の事が嫌いになって別れ話をした訳じゃない」
「だ、だったら――――――」
「お前とその人を・・・・比べて選んだんだ」
「あ――――あ、あはは・・・・。比べてって、そんなバカな事が・・・・・・」
残酷な物言いだった。傲慢と言っても差し支えない。だが本音でもあった。
いくら格好つけて言葉を装飾したって結局それは自分を出来るだけ傷付けないようにする行為。
じゃあ、美夏は傷付いてもいいのか――――今更な話だ。さくらさんと付き合う時点でそれは覚悟していた。
うつろげに笑う美夏を見てると心が痛む。さくらさんと付き合った今でも美夏に対しての感情はブレていなかった。
だから、ここで終わらせる。オレ達の関係を。オレの一方的な都合で。
「だ、大体誰なんだ、そのお前が好きになった女って。花咲か、ムラサキか、それとも・・・・」
「さくらさんだ」
「え・・・・・・」
「さくらさんから告白されて、オレは頷いた。だが最初から頷いた訳じゃない。色々あって本気で考えて了承したんだ」
「ちょ、ちょっと待てっ! 学園長とお前って確か・・・・」
「親子だ。普通じゃないのは分かっている。茜とエリカにも言われたよ。けれどその事全部を受け止めた上でオレは付き合う
事にした。罵声でもなんでも受け止める、殴ってくれてもいい。好きに・・・・してくれ」
「―――――――そうか、そうだったのか。はは、美夏はポンコツだから全然そんな事気付かなかったぞ」
「・・・・美夏?」
さっきまでの怒りが急に収まり、苦笑いをして若干穏やかな顔になった。何か吹っ切れた様にも思えるし・・・・外れたようにも思える。
読めない。美夏が何を考えてるか。絶対に怒鳴り散らすだろうと思った。泣き叫ぶだろうと思った。だが、どっちの感情も今は出していない。
予想していた事と違う顔を出す美夏、にオレは若干嫌な気配を感じ取った。ただ分かる事は、絶対に丸く収まらないという事だった。
「なぁ、義之ぃー」
「・・・・なんだ」
「美夏は、よく耐えた方だと思わないか?」
「そう・・・・だな」
「花咲の時もまぁ我慢出来たし、ムラサキの時なんか腹わたが煮くり返りそうだった。でも我慢したんだぞ、義之?」
「分かってる・・・・つもりだ」
「分かってる・・・・・だったら、なんなんだこの仕打ちは。美夏は何か悪い事をしたのかなぁ」
「だから美夏は何も悪く――――――」
「ふざけるなぁぁぁぁぁあああああーーーーーッ!」
ドンッ、と急に美夏がタックルをしてきたので思わず背中から床に転がってしまう。瞬間的に受け身を取ったが、一瞬息が止まった。
背が低く、また思いっきり走ってきたので反応が遅れた。そして見上げると噴怒の表情に染まった美夏の顔。
瞳孔が開きコメカミに血管が浮き出ている。本気で美夏がキレているという証拠だった。
美夏は優しい女だ。きっと怒りの吐き口が分からずさっきは様子が変だったんだろう。しかし、それが全部吐き出されている。
まるで、今までの鬱憤を晴らすかのように・・・・・。
「私は前にとって都合の良い女だったのかっ! 違うだろっ! なのに花咲とかムラサキには目移りして、挙句の果てには
親同然の人と好き合ってるっ!? バカにしてるのか私をっ!」
「すまない」
「謝るなっ! 美夏が聞きたい言葉はそんなんじゃないっ! なぜ美夏じゃなく、学園長なんだ。なぁ、理由を教えてくれ」
「・・・・お前とさくらさん。どっちの傍に居たいかを考えて、さくらさんを選んだ。それが理由だ」
「さっきから義之はバカにしてるんだろう、そうだろう。学園長はもう立派な大人だし社会人だし自立している。
美夏はなぁ、義之が居なくちゃ駄目なんだ。お前と一緒じゃなきゃとっくに活動停止していたし、もう二度と
目覚める事もなかった。お前は美夏にとって『全て』なんだぞ、分かっているのか本当に」
「それも含めて出した結論が―――――さくらさんと付き合う事だ。本当に、すまない」
「・・・・・そうか。美夏を捨てるんだな、義之は。あんなにお互い幸せだったのに、お前は・・・・それを捨てるというんだな?」
「ああ」
「――――――ふぅーん、そうか」
呟いてオレの胸に頭を乗せてくる美夏。思わず抱きしめそうになるが、我慢した。上げかけた手を下し、心の中で一息つける。
そんな事をやってはさっき吐き出した言葉が嘘になる。オレは美夏に嘘をつきたくない。いっぱい嘘をついてしまったが、これだけ
には嘘を付きたくなかった。
だから手を頭に乗せ撫でてやった。いつもは帽子の上からだったがボディチェックの後だったので、珍しく髪を撫でてやる。
これで落ち着いて欲しいという気持ちを込めて手を動かす。抱きしめる事は出来ないが、せめてこれぐらいはいいと思った。
「色々周囲の人に言われるだろうけど、オレはさくらさんの傍にずっと居るつもりだ、一生」
「・・・・・一緒にロッジで暮らす約束は?」
「嘘になっちまうな。悪い」
「・・・・・・・・・」
「許してくれないとは言えないが、それでも美夏には――――――んくッ!?」
喋りかけた口を、唇で塞がれた。急な事で混乱しそうになるが美夏は構わず滅茶苦茶に唇を合わせてきた。
今までした事が無い様なデタラメなキス。まるでオレを離さんばかりに顔を押さえて口づけを強引に続けさせた。
どこにそんな力があるのか、美夏の手はオレの頭を軋ませるかのように喰い込んでいた。ふと感じる温かい感触。
その感触は慣れたものだった。血が流れている。爪が喰い込んでいるようだ。そして口を離し、美夏はオレに囁き掛ける。
「好きだ、義之」
「―――――オレも、好きだ」
「じゃあまだやっていけるよな、私達」
「無理だ。確かにお前の事はこれからも守ってやれる。何時、どんな所に居ても、駆けつけてお前の事は守ってやれる」
けど・・・・・・
美夏の潤んだ目を見て言った
「傍にいてやれる事は出来ない。オレの脇にはさくらさんが居るからな」
「は、はは・・・・・・お前は残酷だなぁ、本当に。益々お前の事が好きになってしまった」
「すまない。オレはお前の言うとおり、本当に最低で、その上嘘つき野郎だった」
「・・・・・・・・そんな顔をされては、美夏はもう何も言えないじゃないか」
「え・・・・・・」
オレの目を見て言う美夏。何か違和感を感じ目元を触ると水で濡れていた。慌てて拭いてもその水は止まる事無くオレの頬を濡らしていた。
バカ―――――オレが泣いてどうするんだよ。振られた美夏ならともかくオレが泣くなんて、くそ。全然止まらねぇ。なんなんだよ。
その余りの情けなさに、オレは笑った。泣きながら笑った。美夏も涙を流し、同じように笑う。はは、こんな大事な場面でこれよ、締まらねぇなオイ。
そうしてオレ達は飽きるまで、泣いて、笑った。
「な、なんだよ美夏。はは、てめぇオレが覚悟決めて別れ話してんのによ・・・・格好つかねぇじゃねーか」
「あはは、はは、グスッ、こういう話の時はこうやって笑った方がいいんじゃないか。んん、そ、その方が辛くない」
いつも通りに笑うオレ達。涙は何の為に流されたモノなんだろうか。
言葉じゃ言い表せない。希望とも絶望とも言えない曖昧な感情。ただ、泣いて笑いたかった。
オレと美夏しか感じ得ない感情の奔流。恋人では無くなったけど、ある種の信頼といったモノがオレと美夏を繋いでいた。
そうして一通り泣いて、笑って、落ち着きを取りも出したオレ達は再び見詰め合い、美夏はどうでもいい様に言った。
「ふん、美夏もとんだ悪い男に引っ掛かってしまったな。とんだ貧乏くじだ。義之なんてもうどこへでも行ってしまえ。精々学園長とお幸せにな」
「今度からは気を付けろよ。あと、ありがとう美夏。さくらさんの事は幸せにしてやるよ」
「―――――ふん」
立ち上がり、部屋から出た。気が抜けたようにその扉の前で立ち止まってしまうオレ。そして、扉の向こうから聞こえる押し殺し様な嗚咽。
扉に手を当て、「今まで、本当にありがとう」と声を掛けその場をオレは後にした。多分だが、美夏とは一生の付き合いになる様な気がする。
美夏と出会って得た物は大きい。人としての当たり前の感情。人を好きなる事。それを教えて貰った。窓の外の夕日を見詰め、思い出す。
あの下校中に見た幻想的な美夏の姿。ロボットでありながらオレより遥かに人間らしい美夏の感情の爆発。とても心が揺さぶられたのを思い出した。
そして――――それらを『想い出』にして心の奥底に仕舞う。まるで宝箱に入れるかのように、そっと置いて、もう見る事が無い様に。
その夕日を見ながら、オレはさくらさんの居る――――オレ達の家に向かって歩き出した。
「もう本当に怖かったですよぉ、あの人達。外国の裏通りで会うおじさん達より怖かったです・・・・」
「随分愉快な旅をしてるんだな、お前は」
脇でげっそりしているアイシアを端目にオレは風呂敷を広げ、トランクの中の人形を出し始める。
さくらさんが学園長の仕事で家に居ない時はこうやってアイシアの手伝いをするのが日課になっていた。
それを聞いたさくらさんは面白く無さそうだったが、あの事件の時に取り付けた約束だと言って説得した。
「なんで私があんなに睨まれるのか、意味が分かりませんよぉ~もう」
「アイツらが来た時、お前の第一声が『わぁ、この人達、義之が手を付けた女の子達ですか!?』ってオレに小指を立てて
聞いてきたからだよ。少しは自重しろよな、てめぇ」
「だって話に聞いていただけで、生で見れるなんて思わなかったんですもん・・・・」
まぁ、そこまではよかった。茜は普通に笑っていたし、残りの二人もそれに釣られて苦笑いしていたから、まぁ良しとしよう。
一瞬イラッと来て睨んだのはしょうがない。本人達からすれば他人に触れられたくない事柄でもある。笑ってスル―出来た彼女達は
人間が出来ていると思った程だ。
だが、その後がまずかった。アイシアが付けている指輪を見て、アイシアを睨んだ後オレにも睨みを利かせてきた彼女達。
オレがいつも付けていた指輪がアイシアの指にある―――――どういう事なのかと詰め寄られた時は本当にため息を吐きたかった。
とりあえず隣でプルプル震えているアイシアを背中に隠し、オレは落ち着けと言った。しかしその行動が余計火に油を注いでしまい大炎上。
「こいつ――――アイシアっていって、さくらさんの旧い知り合いなんだけど、どうやら記念に指輪が欲しかったみたいなんだよ。
日本に来て間もないし知り合いも誰もいない。そこでオレはよかれと思って親交の証に――――」
「自分が付けている指輪をあげた、と。なるほど。理屈は通っていますわね・・・・本当なら」
「んだよ。オレが嘘をついてるとでも?」
「そうねぇ、義之くん平気な顔で嘘をつくし。大体そんな理由で普通は自分が付けている指輪をあげないわよぉ、義之くんの場合は特に、ね」
「・・・・ぬぅ。また違う女に手を出したのか、お前は」
「は、はわわ・・・・」
「はぁ・・・・・」
とりあえずさくらさんが来てその場を収めたものの、その剣呑な空気は皆で晩飯を食って帰るまで続いた。
表立って言葉を吐かなくても空気で分かる。その時来ていた音姉達も終始どこかそわそわした空気だった。
一番の被害者はアイシアだろう。腹を押さえて胃薬を飲む姿はどこか哀愁が漂っていた。
そんな事を思い出しながら、とりあえず出店の準備を整えたオレはアイシアの隣に腰掛け、ちらっとアイシアの様子を窺う。
とりあえず顔色はいつも通りとはいかないが若干良くはなっているみたいだ。商売根性なのか、澄ました顔付きで人の波を観察している。
その顔がちょっと癪だったので、頬を突っついてみた。ぷふーと漏れる空気。それに怒ったアイシアがオレの腕を叩いてきた。
「別にいいじゃねぇか、これぐらい。客来なくて暇なんだからよ」
「だ、だからって悪戯するの止めてくださいよ、もうっ! 私、仕事中は本当に真面目モードなんですから!」
「あはは、悪かったってば。ホラ、家から持ってきた茶菓子とかあるから喰うべよ」
「・・・むぅ。いつまでたっても義之は私の事子供扱いなんですから・・・・」
ぶつくさ文句を言う割には菓子をバリバリ食うので、額にデコピンをかましてやった。かなり弱くやったので、一瞬ムッとした顔になり
ながらも何も言わなかった。
大体オレとアイシアが居る時はこんな感じだ。オレが構ってアイシアは文句を垂れる。キャッチボールのような形、それが出来上がっていた。
まぁ、時々だが昨日みたいに突拍子も無い事を言う時があるのでお互いさまだろう。空気を読めるんだか読めないんだが訳が分からない女だ。
「手を拭けよ。そんなベタベタ手で触っちゃ、折角の人形が汚れちまう。安物のハンカチだから遠慮なく使え」
「あ、―――――ありがとうございます・・・・」
「おう」
「義之って・・・・時々優しいですよね。なんでですか?」
「オレは常に優しい男だ。隣の席が欠席したらノートを書いて置いてやるし、道に迷った婆さんがいたならおんぶしてまで道を案内する程だぞ?」
「はぐらかされちゃいましたよ。そんなに言いたくなんですか?」
「・・・・分かってる癖によ」
「えへへ、さっきの仕返しです」
穏やかに笑うその顔を見て、空を見上げた。昨日まで曇り空だったのに青空に変わっていた。まるで今のアイシアみたいだと、ふと思う。
何故優しいのか――――アイシアはそれを知っている。さくらさんと同じくらい、そういう感情の色合いを読める女性だった。
年季が違うのか。本人に言ったら怒られそうだがオレはそう思っていた。何十年も一人で生きてきたんだ。色々な人間を見てきてそういうのに
敏感になったのだろう。そしてさくらさんから聞いた話によると、恐らく昔起きた事件がきっかけなのかもしれないとの事だ。
根掘り葉掘り聞くのは躊躇われたのでそれ以上は聞かなかったが、人間平気な顔して色々辛い過去を持っているモノだ、と改めて思い知った。
オレの予想だが――――アイシアはオレの事が好きなんだと思う。指輪を付けているのは薬指だし、時々そういう視線も感じたりしていた。
オレもアイシアの事は悪く思っていない。むしろ好きだ。彼女を初めて見た時に、オレは思わず茫然としてしまった事があった。
その凛とした可愛さ。西洋人形みたいに佇むその様子。目の強さ。惹かれるものがあった。オレの目指していた理想形がそこにいた。
将来オレは一人でも生きていける様に強く在ろうとした。今はさくらさんが居るのでそれは叶わないが、こっちの世界に来るまでオレは
必死にそういう存在になろうと努力してきた。
知識が増えた。知恵が付いた。腕っ節も強くなった。だが――――肝心の心はまだ弱かったと思う。先の事件でそれを思い知らされた。
アイシアはその心の部分がオレより遥かに強かった。前の世界のさくらさんでも、そこまでの強さを持っていない気がする。
聞けば何十年も忘れられる存在となって、世界中を旅していたという。完全な一人。本人が望んでも望まなくても心は強くならなければ
いけなかった。そうしないと、自分を保つ事が出来ないから。
オレが一生掛かってもその強さを手に入れられるかは分からない。それを持っているアイシアに惹かれたのは必然的とも言えた。
けれど・・・・・・
「なぁ、アイシア」
「はぁい?」
「今度、お前の散歩に付き合ってやるよ。神社とか行きたがってただろお前。まだ休みはあるし、かったりぃけど付いてってやるよ」
「・・・・またまたぁ、そんな事言ってるとさくらに怒られますよ。案外というか予想通りというか嫉妬深いんですから」
「多分、怒らないんじゃねぇかな。お前もなんだかんだ言ってそう思うだろ?」
「ん~・・・・ま、そうかもしれませんけどね。あっ! じゃあ、海とか行っていいですか?」
「その日が寒く無けりゃあな」
「えへへ、やった」
小さくガッツポーズをするアイシアを見てオレも笑う。愛しい存在だと思う。守ってやりたくもなる。けど、さくらさん程その気持ちは
溢れてこなかった。
もちろんアイシアも、オレの好意の気持ちを察しているに違いなかった。けれど、それを盾にして何も言っては来ない。どれだけ二人っきり
になってもそんな様子はおくびにも出さなかった。
オレ達は好き合っていたが、そこにはそれ以上何もない。きっと一生オレ達の関係はここから変化しない。恋愛感情の一歩手前で止まったままだ。
そして、そのある意味歪な関係に終わりは無いだろう。当り前だ、始まってもいないんだから。まるで電池の切れた時計の針みたいだと思う。
しかしその居心地の良い関係はオレはとても気に入ったし、アイシアも同じ気持ちだろう。甘くもあり、苦くもあるこの環境を好んで
オレ達は浸かっている。お互い変わり者同士だしお似合いなのかもしれない。
さくらさんもそれを知っているから嫌味は言っても怒りはしなかった。だからこうしてオレ達が二人っきりになっても本気で何も言ってこない。
これがオレとアイシアの『距離感』だった。縮まりもしないし、伸びもしない。他人から見れば異常な関係だが当の本人達はそれを好んでいた。
「にしてもお前の店って客来ねぇな。お前ちょっと上脱いで色仕掛けしてこいよ」
「い、嫌ですよっ! 義之が脱げばいいじゃないですかっ!」
「あ? 男が脱いだって誰も喜ばねぇよ。馬鹿じゃねぇのか、お前」
「昨日来てたエリカちゃんて娘は喜びそうですけどね。ずっと義之の隣独占してたじゃないですか」
「あー・・・・・否定しきれねぇな。アイツもいつまでオレなんかの事好きなんだかな。もっといい奴いるのによ」
「義之があっち行けとか言わないからですよそれは。まだちょっと、ほんっの少しだけ好きなんですよね。彼女の事」
「・・・・・・・まぁ、ほんっの少しだけどな。確かに少し勿体なかったなぁ、とは時々思ったりするけど」
「分かりました。さくらによーく伝えて置きますね、義之はその内また浮気するぞぉって」
「あ、人形の首取れた」
「あ、ああああああーーーーっ!? な、何やってるんですかっ! 折角一生懸命作ったばかりの人形を!」
「すげぇ・・・・一瞬にしてホラー映画に出てくるスプラッタ人形みてぇだ・・・・・おぇ」
「何で投げ捨てるんですかっ!? あ、あんまりですよぉ~~~、このあんぽんたん」
「いてっ! ば、ばか止めろよ! トランクの角で殴ってくるんじゃねぇよっ! この、クソババァ!」
「う、うぅ~~~~~~っ!!」
さくらさんより、美夏より早く出会ってればどうなっていたかは分からない。付き合ったかもしれないし、こういう関係に落ち付いたかもしれない。
だが、それはもしもの話だ。さくらさんの事が無ければそもそもここには来なかっただろうし、この気持ちが生まれる事は無かった。
IFの話をしても仕方ない。過去には戻れないのだから今の事、先の事を楽しまないと損だと思う。アイシアの怒った顔を見ながらそう感じた。
まぁ、色々ありがとうなアイシア。これから先も長い付き合いになるけど、この先も笑っていこうぜ。
願わくば、早く良い相手を見つけろよ。オレはそう思いながら、さて、この怒りんぼうのお嬢様をどう鎮めようかと考えた。
真っ暗な夜空に映える、明るい月。花見には持って来いだが生憎桜の木は枯れてしまっていた。
メディアがこぞってその事を取り上げたが、一週間後には芸能人の離婚の話で盛り上がっていた。笑える話だ。
どっちみちこの桜の木が枯れた原因を知っている者は限られている。もう誰もこの枯れなかった桜の木に近寄ろうとする者は居ない。
そう、今はただの大きな木に過ぎない『枯れない桜の木』。誰も好きこんでこの場所に来る人は居なかった。
「なのにオレ達が来てるってのも変な話ですよね」
「そうかな。郷愁・・・って訳ではないけど、なんかノスタルジックな気分に浸かりたかったのかもね、ボク達」
いつもの夜の散歩。ここに来たのは偶々だった。気が付いたらオレ達は桜の木の前に来ていた。
オレは見上げるように桜の木を見詰める。オレが生まれた場所、さくらさんがオレを生んだ場所。なるほど、確かにノスタルジック
な気分になるかもしれない。
この木とオレ達は切っても切れない関係にあった。自分の本質があった場所、そう言っても過言ではないだろう。
「少し、行ってきていいですか?」
「うん」
さくらさんに断りを入れて、オレは木の前に歩いて行く。そこまでいくとこの木は本当に大きな木だったんだなと思い知らされた。
そっと手の平を木に当てて、目を瞑る。時間にすれば一分も経っていないだろう。オレは踵を返して、さくらさんの所へ戻った。
ぎゅっと手を繋ぎ、無言のまま枯れ果てた木を見詰め続けた。さくらさんは今、何を考えているんだろうか。
「さっき、何を願ってきたの? 義之くん」
「―――――宣言、かな。元の世界のさくらさんに対して」
「・・・・そうか、前の世界のボクか」
「ええ」
「どういう人だったの?」
「今のさくらさんと変わりませんよ。いや、少しスパルタ入ってたかな? 前ふざけて資料にエロ本混ぜたら木に吊るされましたよ」
「何やってるんだよ・・・・もう」
あの人ちっこい癖に握力は何故か強かったからなぁ。関節を決められたまま木の下に移動して、あっという間に木に吊るされてしまった。
謝っても下ろしてくれないから本当に死ぬかと思った。冬だったし下手したら凍死していたかもしれない。思い出すだけでゾッとした。
たまたまちょうど緩く結ばれた所があって、そこを歯で齧って脱出したんだっけ。今思えばあれはワザとなんだろうなぁ。
「・・・今、他の女の人考えてたでしょ?」
「オレはもうさくらさんの事しか見ないって決めましたから。それは有り得ないですよ」
「どうだか。相変わらず美夏ちゃん達とは仲良くやっているようで。皆がこの間来た時なんか怒りを通り越して呆れたんだからね」
「きつく言って聞かせておきましたから、もうあんな事にはならないですよ」
「信用ならないなぁ~。義之君もお兄ちゃんと一緒でモテるし。浮気なんかしたら承知しないんだからねー」
「はは、確かにオレには分不相応なぐらい色んな女の子が寄ってきましたよ。けど―――その中でオレはさくらさんを選びました」
「・・・そう、か。そうだもんね。ありがとう」
さっきの宣言――――親不幸で、バカ息子ですまない。けど幸せになるよ。オレもさくらさんも。そんな言葉を投げかけた。
オレの手に握られた手は小さい。前みたいにオレが追いかけるんじゃなくて、一緒に、共に歩いていこうと決めた。
この選択が間違っているとは思えない。色々な女性が居た。その中で苦しい思いをして選んだ女の子、間違いになんてしたくなかった。
「義之くん」
「なんですか?」
「好きだよ」
「オレも好きです、さくらさん」
「後悔はしてない? ボク達、本当の親子だよ?」
「それこそ今更だ。もう一回言いますよ。オレはさくらさんを選んだ――――これが全部の答えになっています」
「・・・うん。なんか救われた気分になっちゃったな。にゃはは」
「色々ありましたからね。不安に思う気持ちはあると思います。けど、オレとさくらさん。この二人が揃うなら怖いモノ無しでしょう」
「うわぁー・・・・自身満々な発言だね。さすが義之くん」
「オレの彼女が不安症なんでね。これぐらい言わないと駄目なんですよ。嫌いですか?」
「ううん。そういう『オレに付いて来い』タイプは嫌いじゃないよ。むしろ好きかも」
「ならよかったです。さて、そろそろ寒くなってきたし行きますか?」
「うん――――あ、ちょっと待ってて貰っていい?」
「ん、いいですよ」
オレと同じように桜の木の前に行って立ち止まり、手を当てるさくらさん。きっとオレと同じ事を言ってるんだろうな。
直感だが間違っていないだろう。桜内義之――――元々のさくらさんの息子。会った事はないが、さくらさんが可愛がっていた人物だ。
オレを選んだという事は、その桜内義之を見捨てる事と同義だった。後悔はしていないみたいだが、それでも思う所はあるだろう。
「ボクはきっと地獄に行くと思うんだ。義之君を生んで、見殺して、義之君を愛した。後悔はしていないけど、正解だとも言い切れない」
こう言ったさくらさんに対してオレも返す―――――正解なんてなんて無いと思います。ただ、オレ達は選んだ道をもう進むしかない。
犠牲になったものがあった。オレもさくらさんもそれを覚悟していた訳だが、だからといって悲しく無い訳ではない。
さくらさんからしてみれば、息子を失った様なもの。その大きな代償を背負っている。涙は流さないが心は悲しみに染まっている。
オレの手を掴んで「ありがとう義之くん。そしてごめんね、『義之君』」と言ったさくらさん。目は確かに潤んでいたが、泣いてはいなかった。
涙を流したら歩んだ足が止まってしまう。思わず後ろを振り返ってしまう。足元を気にしてしまう。不安で座り込んでしまうかもしれない。
さくらさんは、その悲しみと一生付き合う事になるのだ。だから時々繋いだ手を確認して一緒に止まってあげる。一人なら不安に思ってしまう
だろうが、二人なら悲しみを分けられる。その繋いだ手が離れるまで、そうやってオレ達は進んでいくのだ。
まぁ、多分離れる時なんてないか。ここまで痛い思いをしたんだ。中途半端な事したら皆にボコボコにされちまう。
なぁ、美夏。
「ごめんごめん、待った?」
「その言葉は男が使うモノですよ。女の人はあまり使いませんね」
「むぅ、今時そういう考えはノンノンだね。男女平等なんだからやっぱり悪い事しちゃったなら謝らないと」
「なら尚更、ですね。何も悪い事なんざしちゃいないんだ。それに大して待っちゃいませんよ」
「相変わらず捻くれてるんだからなぁ、義之くんは。まぁ、そんな所も義之くんらしいけど」
「オレは何時だって素直ですよ。好きな人に対しては余計、ね」
「はいはい。馬鹿言ってないでそろそろ帰るよ。帰って熱いお茶でも飲みたくなっちゃった」
オレの手を握り歩き出す。目の端に留まってる涙は見ない事にして置いた。恐らく本人でさえ気付いてないんだ、言う必要はないだろう。
そして入口の前まで来た時、オレ達は申し合わせたかのように歩みを止めた。その事に二人で軽く驚いてしまうが、すぐに穏やかに笑い合った。
そうだよな。オレ達の考えてる事なんて結局は同じか。さっきまでの様子を思い出し、納得したような気分になる。
そうして―――――オレ達は入り口から枯れない木に向かって言葉を投げかけた。別離の言葉を、優しく、強さを持って。
「じゃあな、さくらさん」
「じゃあね、義之くん」
お互いの名前は枯れない筈だった桜の木に吸い込まれる。もうここに来る事は無いかもしれない。希望に縋る程オレ達の覚悟は弱く無い。
これから先、思わず希望が欲しくなる時があるかもしれない。だが一度でもそれを無理に捻じ曲げて叶えてしまったらもうオレ達には何も
残らなくなる。全てが嘘になってしまう。
手に感じる温かい温もりが離れるぐらいなら奇跡なんて欲しく無い。まぁ、今まで散々使い切ったし飽きただけってのもあるが。
やっぱり自分達の道は自分で切り開いた方が楽しいだろう。何もかも上手く行ったらオレが居た嘘の世界みたいに何もかも虚ろだ。
だから、手を繋ぐ。オレ一人だけなら参っちまう事でもオレの脇に居る彼女も一緒ならなんとかなるだろう。
「じゃあ、行こうか」
「はい。行きましょうか」
二人の歩く道を月が照らしていた。手助けなんか必要ないが、手を貸すっていうんなら素直に受け取って置くか。
こんなオレ達の事を手助けしてくれるお世話焼きな連中は周りにゴロゴロいる。一癖二癖もありそうなヤツらだが、その人達も、大事な人達だ。
精々その時は迷惑を掛けて巻き込んでやるか。オレの場合今更な感じだし、破天荒な性格は今に始まった事じゃない。これからもこの性格は直らない
だろうなと思う。直っちまったらオレじゃねぇしな。
随分長くなりそうな道のりだが――――まぁ、いい。いざとなったら車でかっ飛ばして進めばいいだけの話だ。
オレとさくらさんならそれが出来る。なんたって、オレとさくらさんだからな。なんだったら裏道でも探してみるか。道草は旅の友だしな。
「・・・・あー、また義之くんが悪い顔になってるよ。さくらさん、ちょっと頭が痛くなってきたにゃあー・・・」
「これからもっと頭を痛くさせてあげますよ。最近気付いたんですが、オレの周りはどうも祭り事が絶えないみたいなんです。
まぁ、精々掻きまわしてやるつもりですが・・・・・」
「うにゃー・・・・もうそういうのはいいよぉ。少しは老人を労わりなさいな、もう」
「はは、運が悪かったと思って諦めて下さい。あと、もう一つ言いたい事があります」
「にゃ? 何かな?」
「今更だけど言わせて下さい―――――愛してますよ、さくらさん」
終劇 さくらエンド