「あ、これおいしいね。味付けに何使ってるんだろう?」
「味付けというか・・・聞いた話だとどうやらマシュマロを使って作ったみたいね、これ」
「えぇ!? だ、だってティラミスなんだよ?」
「作り方は聞いたわ。後で教えてあげるからメモ帳でも用意してなさい、小恋」
「うん! ありがとうね、杏」
「別によくってよ」
「――――――」
「え、えっとぉ」
「・・・ふぅ」
今季のクリパ限定のデザート、ティラミスを机の上に戻し杏はため息をついて茜を横顔を見詰めた。
先の廊下の一件以来中々口を聞いてくれない友人。どうやら自分達が無理矢理引き留めた事に対してかなりご立腹みたいだった。
私達としては何故そんなにもあの男の人に拘るかが分からない。茜とは長い付き合いだが、あんな知り合いは今まで見た事がない。
「あ、茜ぇー・・・機嫌直してよぉ」
「無理ね」
「うっ・・・」
「いい加減になさい、茜。小恋が怖がってるじゃない」
「いい加減にして欲しかったのはこっちの方よ、杏ちゃん。なんで止めたの」
「貴方が普通の状態じゃなかったからよ」
「普通じゃいられない程切羽詰まってるって思わなかったのかしらね。結構濃い付き合いをしてきたから、その辺の機敏さに気付いて
くれると思ったのだけれど・・・どうやら違ったみたい」
「濃い付き合いだからこそ止めたのよ。相手の手から血が流れてたのを茜は気付かなかったでしょ? それ程『マトモ』じゃなかった
という事ね。少しは落ち着いて話をしましょう」
「・・・・」
足を組んで腕を組み、こちらを見据える様に茜は腰を座らせている。こんな茜の姿は初めて見るかもしれない。
小恋はオロオロするばかりで目を左右に走らせていた。私達にしては珍しくざらついた雰囲気が包みこんでいる。
「な、なんか空気が重いわね」
「沢井先輩もやっぱりそう思いますよね。なんか皆戻って来てから様子がおかしいというか、なんというか・・・」
「・・・ムラサキさんと天枷さんもそうだしね」
音楽室の隅の方で固まって話している小恋と由夢。様子が急変したと言っても過言ではない三人にただ困惑するだけだった。
茜は先程の様子通り苛々とした様でニの腕を組んで指をトントンと鳴らし、エリカに至っては机に顔を伏せて部屋に戻って来て以来一言も発さない。
美夏はまだ話せる方だが、ずっと窓辺の所に座って外をジッと見ている。三者三様に佇まいは違うが他人が近付きがたいオーラを放っているのは見て取れた。
一体どうしたというのか――――由夢はとりあえず、近くに居たエリカに声を掛けてみた。
「一体何があったんですか、エリカさん。どうやら体調が優れない様ですが」
「・・・・・」
「エリカさんだけでは無く天枷さん、花咲先輩とクリパの準備を手伝いに行って戻って以来様子が一変しました」
「・・・・・」
「一人ならまだしも三人とも同じタイミングでこの様子。ただ事ではないですよね? 差し支えなければ事の起こりを教えて欲しいのですが」
「・・・・・」
「この高飛車なんちゃってお姫様」
「――――――さっきからお団子がブツブツ何やら喋ってるわね。この国の名物だったかしら、確か」
「やっと喋ってくれましたね。死んでるのかと思いましたよ」
「今にも死んでしまいそうな気分だけれどね、誰かさんの所為で・・・・って」
「あ、もうちょっと詰めて下さい。座れませんから」
トンッと肩を押し退けて由夢は無理矢理エリカの横に座る。急な行動だったのでエリカも然したる抵抗は見せずそのまま横の席を明け渡して
しまった。キッと睨むが素知らぬ顔をして由夢は腰の座りを調整している。
一体・・・どういうつもりだろうか。訝しげにエリカは由夢を机から頭を起こして見やる。
「ちょっとでも何かあったなら教えてください。気になりますから」
「好奇心だけで人の心を抉るなんてまぁ優しい女性ですこと。普段の優等生ぶりは猫だったのかしら? 人って案外分からないもので」
「心を抉られる様な出来事があったんですか?」
「・・・言葉のあやよ。忘れなさい」
「エリカさんがそういう風に感じるというと・・・何が原因かな。何かあった様な気もするけど・・・」
「二度は言わないわよ」
「大体最初エリカさんはこんな性格じゃ無かった筈。性格はキツイ所があったけれど基本的に素直で・・・あれ? そういえば何がエリカさん
をここまで――――――」
急な圧迫感、息が出来ない。表情を歪ませながら下に視線を動かすと、首を絞められながら自分の上半身が持ち上げられる様に浮いていた。
苦しさで力が上手く入らなくエリカさんの顔を見ると眉を吊り上げさせながら黙って制服のタイの部分を掴み、自分の顔の方に引き寄せていた。
「貴方も言って分からない人ね。さっきの言葉は忘れなさいと言った筈、誰に似てそんなに強情なのかしら」
「え、リカさんが構って欲しそうに一人でメソメソ、してるから声を掛けたんですよ・・・ぐっ」
「私が? そんな馬鹿な事が・・・」
「誰かが言ってましたけど・・・・『エリカは本当は気が弱い女』だと言ってましたね。実際その通りだと思いますよ・・・ぅ」
「・・・・・」
間近で見合っているお互いの目。ブルーの瞳が動揺した様に揺らめいていた。
パッとタイを離され椅子に尻餅をつく様に音を立てて座りこむ。本当に苦しかった、呼吸困難気味に咽て喉元を抑える。
エリカさんはそんな私に構わず一人深思しながら額に手を当て黙り込んでいる。全く暴力的な人だ。身近にそんな人が居た様な気がするが気のせいだろう。
「ごほっ・・・本当にエリカさんて手が出るのが早いですよね。嫌われますよ」
「別に嫌われてもいいわ。痛くも痒くも無いし。ただあの人にさえ・・・」
「あの人って?」
「・・・・分からないわ」
「・・・・」
「ごめんなさいね、いきなり酷い事をしてしまって。ちょっと頭を冷やしてくるわ」
顔を背けながらの謝罪の言葉を吐く金髪のお姫様。ふらふらと体をふらつかせながら音楽室の外に出ていく。
喉を擦りながらタイを直しその後ろ姿をため息を付きながら見送った。少し心配して声を掛けてみれば・・・この有様だ。
もう何があっても今度からは声を掛けないようにしよう。大体こういう役目は・・・誰かいた気がするが、少なくとも自分では無い筈だ。
「ふぅ。本当に合いそうにもないな、私とエリカさんは」
それにしても―――――ついと視線を巡らすと沢井先輩が天枷さんと話をしているのが見えた。
雪村先輩達もまだ空気をピリピリさせながら言葉を交わせている。どうりで誰も自分達を言い争いを止めない訳だ。
「あのエリカさんが素直に謝るなんて・・・。本当に何があったんだろう」
皆が皆どこか沈んだ顔をしている訳が知りたかった。あの様子では天枷さんも同じだろう。
そう思いながら脇に置いてある上着を着込む。もう日を跨ぎかなり寒い時間帯。いつもならとっくに寝ている時間だ。
身体をぶるっと震わせて手を擦り、足をブラブラさせながら窓の外を覗く。雪は降っていないが今にも窓が凍りつきそうだった。
「まだ寝ない様だしストーブを付けようかな。確かポケットにライターが――――」
懐を弄る手が止まった。
何故自分がライターなんて持っているのだろう。
オマケに四角の長方体の箱―――煙草さえある。
そもそも自然に着ていたが男物の学生服を自分は羽織っていた。
「あれ? なんで私が男子の制服なんか・・・」
まるで気がつかなかった。何時から自分は男子用の制服なんて着ているんだろう。
確かこの世界に着た時には既に『ソレ』は着ていた筈だ。誰にも突っ込まれていないからそれは違いない。
自分が男子の制服を借りて着る・・・有り得ない。それ程親しい男子なんて居なかった筈だし、貸すと言われても丁寧に遠慮するのが自分の性格だ。
「なんか着てると落ち着くけど・・・誰の制服なのかな?」
妙な安緒感に包まれている様な気がした。ずっと昔から嗅いでいた臭い、この煙草臭さもまるで気にならない。
私の身の回りで煙草を吸っている人は・・・・いない。強いて言えば保健室の水越先生だがこの制服とは繋がらないだろう。
他にはナイフやらスタンガンとか物騒な物まで入っている。あとは・・・ネジ? 渦巻き状の鉄の物体が入っていた。意味が分からない。
「あ、そうだ。生徒手帳が入っている筈だからそれを見て・・・」
胸ポケットが膨らんでいるのを見て思い付く。
そして私は、ある一種のドキドキ感を抱きながら胸からその証明写真が貼られている手帳を取り出した。
ゴォッと大きな音を立てながらストーブが動いているのを横目に、手持無沙汰気味に髪を結っているスカーフの位置を調整する。
古いストーブだから調子がおかしいのか煩わしい音を立てているストーブに、若干眉を潜めながらアイシアは椅子に背を持たれさせた。
あれから義之が枯れない桜の木の下に向かって一時間余りが経過した。特にこの学校に目立った変化は見られない。外の様子もそれは同じだ。
「うぅー・・・」
「まぁ、少しは座って落ち着いて下さい音姫さん。紅茶でも飲みますか?」
「お、落ちついてなんかいられませんってば! もしかしたら弟くんの作戦が失敗して、今まさにあのさくらさんがこっちに向かってる
かもしれないんですよ!?」
「それはそうかもしれませんが、その為にも気を落ち着かせて待っている必要があります。ただでさえ私と音姫さんでは勝ち目が無いと
いうのに動揺していてはますます勝てる可能性が低くなる――――じっくり待ち据えてましょう、ここは」
「・・・はい」
理解はしているが納得は出来ない。その様な顔をしながらまた足を歩かせて教室の中を徘徊する音姫。
その様子をみながらアイシアは密かに息を吐いた。心配なのは自分も同じだ。音姫さんにはああ言ったものの、やはり私も落ち着かない。
今自分達が行っては義之の作戦が台無しになるかもしれない。余計な警戒心を抱かせて、全てが水泡と化しては一生あの男の子に恨まれるだろう。
時計を見てみる。周囲に何も異変は起きていないが、既に世界は作りかえられているかもしれない。
あと10分立ったら枯れない桜の木の下に行くとしよう。もし義之がやられていた場合、絶対に私が・・・。
「あぁ、でも気になりますよっ、公園近くの魔法の力は日を跨いだ途端によく分からなくなっちゃうし。何が起きてるんでしょうか?」
「そうですね・・・。さくらの言っていた『幸せな世界』が完成したか、義之の言った通り上手く事が運んだかのどちらかなんでしょうけど・・・」
「出来れば前者は遠慮願いたいですけど・・・はは」
「音姫さんの言った通り魔法の力が上手く捉えられないのは確かです。何かしら状況が変化しているのは疑いがないのですが・・・私もこういった
事態は初めてなのでなんとも言えないのが本当の所です・・・すいません」
「あ、いえっ! アイシアさんが謝る事じゃないです。でも、弟くんの言っていた作戦て元々の世界に居たさくらさんをこっち側に引っ張てきて協力
してもらうって事ですよね? どんな人なんでしょうか」
場を取り繕う様に音姫は両手を合わせて話題を義之の保護者、さくらに変える。
アイシアは少し考える様に天井を見上げた。義之に聞いた話だとやさぐれているらしいが・・・まぁ、気持ちは分から無いでも無い。
あんなに恋愛に振り回されて挙句、歳を取らないまま今の今まで生きてきた。私と理由は違うが、思春期真っ只中での心の傷は深く影響を与えたと思う。
「はぁ・・・」
全く、全部が全部純一の所為だとは言いませんが少しはアンテナを高くして欲しいモノです。
なんでいつも圏外ギリギリの電波であの地雷原を歩けていたか不思議で仕方が無い。今思えばハラハラする毎日だった。
そういえばこの時代に来て以来純一の顔を見ていないな・・・。会ってどうこうする気は無いですが、一度顔を見てみようかな。
「義之は自分の上位互換だと言っていたのでかなりの手練だとは思いますよ。あんまり人を持ち上げる事がない男の子なので、実際に強力な
助っ人なのは間違いないと思います。どれくらい凄いのかは見て見ないと分かりませんが」
「弟くんの上位互換という事は・・・・・やっぱりあの性格なのかな・・・」
「いや、それは冗談になりませんよ・・・。あんな性格を上回る外道さだったら私気絶しちゃいますってば」
「そ、そうですよねっ。きっと優しくて素敵な人だと思います。もし機会があればじっくりお話してみたいな」
「私も同じく、ですかね。あの義之を育て上げたさくらというのも中々に興味深い。それに魔法使いとしてもどうなのか―――楽しみです」
だが、それもこれも全部義之の作戦が上手く行ったらの話。あの子の事は信用しているが、もしもという事がある。考えたくはないが・・・。
そして視線を時計に向け、グッと握り拳を形作るアイシア。もうすぐ10分経とうとしている。腰を上げて深呼吸をし、身体をリラックスさせた。
そんな様子のアイシアを見て音姫はとうとう行くのかと察し、身を繕いながら顔を引き締める。硬くなる雰囲気、アイシアは音姫に目を合わせた。
「義之が行ってもう一時間と少し経ちました。考えたくありませんが義之が失敗した可能性があります」
「・・・・はい」
「ですから、あっちから攻められる前にこっちから討って出ようと思います。作戦は私がさくらの相手をして音姫さんは枯れない木の制御を
行う――――振りをして、二人掛かりで戦う。一瞬ぐらいはさすがに面食らう筈ですからその隙を突きます、いいですね?」
顔に影を落としながらも音姫はこくっと頷く。彼女自身もそれは考えたく無い可能性だったが、ここで泣き叫んで足を止めては義之だけで
はなく皆にも危険が及ぶ事になる。それだけは絶対に阻止しなくてはいけない。
ここで頑張らなくて何時頑張るというのか。責任感だけではなく、正義感もその気持ちを後押しする。魔法使いとして生きてきた以上その
力は正しい事に使うべきだと音姫は考えていた。正義の魔法使い――――口だけではなく、実際に行動しなくては意味が無い。
それにアイシアさんという心強い味方もいる。彼女も口に出して言いはしないが、正義の心を持った魔法使いだ。それに心なんか私よりも
圧倒的に強い。聞けばさくらさんと同じで何十年も一人で生きていたという。敵わない訳だ、積んできた人生経験が違いすぎる。
諦めなければ絶対に勝利は掴める。薄っぺらい台詞に他の人には聞こえるだろうが、私はそう信じていた。
「じゃあ、行きますか。アイシアさん」
「心の準備は大丈夫なんですか? 義之の件で参っているのなら、少し時間を置いてもいいんですが・・・」
「遅れた分だけ他の皆に危機が迫るのなら考える余地はありません。それに、弟くんが見てたらこんな所で立ち止まっている私に呆れて
しまうでしょうから」
「・・・そうですか」
「私の事なら何も問題はありません。気持ちも落ち着いていますし、覚悟は決めています。前に進むしかないと」
「分かりました。余計な気遣いでしたね。歳を取るとこういう部分が出てきて参っちゃいますよ、あはは」
笑みを零して音姫の肩をポンと叩き、歩き出すアイシア。
それに音姫も後を追う様に歩きだして――――。
「きゃっ!?」
「・・・・ッ!」
爆音に似た音が響き、その歩みをストップさせた。思わず壁に手を付く様にして姿勢を保つ二人。それ程の衝撃だった。
いきなりの事で虚を突かれ面喰らう音姫に、何か気付いた様に顔を引き締めさせるアイシア。音姫は胸に手を置きながら慌てる様に周囲を窺う。
「な、なんの音っ!?」
「――――魔法ですね。それも強力な力」
「え?」
「行きましょう音姫さんっ! 三階から音は聞こえてきました、急ぎますよ!」
「あ、ちょっと、アイシアさんっ?」
扉を乱暴に開け放ち駆けていくアイシアに一瞬茫然とする音姫だが、慌てて後を追う。
そして走りながらアイシアの言った大きな魔法の力を感知し顔を思わず歪ませる。もしかしてとうとう相手の方から仕掛けてきたのかもしれない。
三階には皆が居る。まさかそれを狙ってきたのか――――足を背一杯に動かしトップスピードへ。切迫した状況をいち早く察知したアイシアと並んだ。
「アイシアさん! 今の爆発音ってもしかしてさくらさんですか!?」
「何とも言えませんが多分っ、もうこうなったら作戦も何もありませんっ! 全力で思いっ切ってぶつかる、それでいきますよ!」
「はい!」
考える時間などまるでない。二人は並んで走り抜け三階を目指す。
まだ残っていたまばらな生徒も何事かと三階方向を呆気に取られた顔で見ていた。
息も絶え絶えに走りながらもここは危ないからと呼び駆けその間を潜り抜けていく。
「はぁ・・・はぁ・・・」
「ぐ・・・歳的にキツイのになぁ、もう!」
最後の階段を駆けてそうして三階に辿り着き爆音が響いた場所を二人は見た。壁がボロボロに崩れ去っており、所々焦げている個所もある。
パラパラと粉塵が舞っており、まるでテロが起きたみたいだとアイシアはそう思った。それ程までにその場所は寛大な被害に覆われている。
煙が段々と収まってきて視界がクリアになっていく。積み重なった瓦礫が壁となり向こう側がまるで見えない。完全に通行止めになってしまっている。
「あぁ、もう! 迂回して行きますよ音姫さん」
「は、はい!」
急に慌ただしくなる状況に翻弄される二人。アイシアと音姫は息を切らせながらも、回れる道を探す様にまた階下へ降りていった。
「天枷さん、大丈夫?」
「沢井か・・・」
「なんだか元気無いみたいだけど・・・何かあった?」
「・・・うむ」
要領を得ない様な曖昧な返事をし、美夏は窓を開け放った。
冷たい風が吹きこんできて二人を包み込む。トレードマークともいえる赤いマフラーがふわりと浮かんだ。
「よかったらでいいんだけど、聞かせて貰えるかしら? 何があったのかを」
「――――上手くは言えない」
「え?」
「ハードもチップも何も影響は無い、なのに違和感が身体から纏わりついて離れないでいる」
「それって・・・」
「沢井は聞いた事があるか? 『義之』という名前を」
「義之? さぁ、聞いた事が無いけど・・・それがどうかしたの?」
「・・・・いや、なんでも」
「んん?」
義之、確かに自分はそう呟いたと美夏はその時の様子を思い出す。
知らない男子だった、話をした事も無ければ見た事さえない。ああやって話しかけたのも偶々目に付いたからだった。
なのに――――美夏は目を閉じて寒空の下、芯まで凍える様な風を顔に浴びて思いを巡らせる。傍に居た麻耶は寒そうに身を抱きしめた。
知らない筈の名前を呟いた自分。それなのに記憶媒体には何も記憶されていない。だが、とても恋しいと思ったのは何故なのか。
「ちょっと探してくるかな。見れば思い出すだろう。都合良くその時の記録は取ってあるし、顔をもう一回見ればなんとかなるか」
「その人を探しに行くの? というかそういった機能があるんならテストとか満点取れるわよ、天枷さん」
「はは、ズルはしたくないのだ。一応いつもは基本的にそういったものはオフにしてある。今日は偶々オンにしていて助かった」
美夏は笑いながら麻耶に手を振って別れを告げ――――突然に響き渡る爆音に足を滑らそうになった。
「な、なんのだっ!?」
「あ、いたた・・・」
「沢井っ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫、ちょっとよろめいてこけただけだから・・・しょっと」
腰を抑えながら立ち上がる麻耶に、ホッと胸を撫で下ろす美夏。
周囲を見ると周りの女性陣も虚を突かれた様に面喰らっているのが見て取れた。
「な、なに今の音っ?」
「ちょ、ちょっと! タダ事じゃないわよ」
「・・・音楽室前の渡り廊下から聞こえて来たわね」
杏は何やら危機を察したのか顔を強張らせながら音楽室の入口に足を歩かせていく。
周りもそんな杏に触発されてか、一歩一歩恐れをなすようにその後ろに着きながら向かって行った。
美夏と麻耶も目を合わせ足の行く先をそちらに向かわせる。日を跨いでさほど時間は経っていないというのに学校は喧騒に包まれていた。
「なにこの爆発が起きた様な跡・・・・まるでテロみたいな――――」
「ぐ、うぅ・・・」
「え―――あ、あなたはっ!?」
「うそっ!? ちょ、ちょっと杏ちゃんっ」
先頭に居た杏は、考えてもいなかった人物がそこに居た事に絶句するように言葉を詰まらせた。
芳乃さくら―――自分達にとって敵であり、恐ろしい程までに畏怖の感情を湧きあがらせる存在の女の子。
その人物が両手を地面に付け這い蹲っている。あまりにも意外な光景に一同は騒然となり足を一歩後ろに後退させた。
何が起きたのか、今の爆発は芳乃さくらが原因なのか。そう杏達が考えていると、またもや体と頭が硬直するような人間が現れた。
「いやいや、吹き飛ばされ過ぎでしょ。リアクションが大きすぎるね、キミ」
「な―――――」
「ふ、ふざけないでよ・・・なんなんだよ、その力は・・・」
「毎日コラーゲンゼリーとサプリ、適度な運動をしてたらこれぐらいは当然の話。運動してないでしょ? これからも一人で生きて
いかなきゃいけないんだから身は鍛えて置こうね」
息苦しく付いていた両手に水平にケリを入れるショートカットヘアーの芳乃さくら。いきなり支えを失った体は当然の様に地に打ち付けられた。
ヒュっと息が詰まる相手の体にそのまま上から打ち下ろす様に蹴りを何度も振り落とす。だが全力では無い。弱った猫をいたぶるような嗜虐性があった。
「ほらほら。早く立たないとそのうち丸まったティッシュみたいにぐちゃぐちゃになっちゃうよ? そうなりたいの?」
「あ・・・ぐっ、や、やめ――――」
「ああ、自分を蹴るのって凄く楽しいね。凄く優越感に浸れて悪くない気分・・・・癖になったらどうしようか」
一同が引き攣る様な歪んだ笑顔を浮かべる芳乃さくら―――最後に腹を蹴り上げると、相手の体が一瞬浮き、反転して杏達の方に転がった。
痛みで息が出来ないのか途切れ途切れの掠れた呻き声を出し、蹴られた腹を抑える。こんな筈ではと意識を朦朧とさせながらこの時代のさくらは歯を噛む。
全てが順調とは言えないが、それでも最後の仕上げさえ上手くいけばすぐに幸せになった。なのに今は幸せとは程遠い位置にいる・・・・吐き気を催した。
よろよろと立ち上がりながら口元を抑えながら辺りに視線を巡らし――――見つけた。
まだ残っている体力を動員して偶々近くに居た杏の腕を取っ掴み、羽交い締めにして視線を鋭くさせる。場が緊張した様に凍りついた。
「あ、杏っ!?」
「ちょっ、雪村さんっ!」
「あっ、く・・・しまっ・・・」
「はは」
乾いた声を出しながら顔を笑み作るさくら。吐き気は収まらないが、すんでの所で掴んだ蜘蛛の糸に感謝したい気持ちで一杯になった。
まだ運はこちらに向いている。確かに力は相手の方が圧倒的に上だが、調子に乗って学校に飛ばしてきたのが運の尽き。ここには人質が沢山いる。
本来の自分の記憶ではこの子達の事をまるで自分の娘の様に可愛がっていた。それは相手も同じだろう。このままこの子を盾にして吹き飛ばしてやる。
さくらはにやついた笑みを浮かべ、ローブ姿の自分に声高らかに問いかけた。
「さぁ! この子の事が大事なら大人しく――――」
ゴッという音が響く―――同時に意識が一瞬だけ途切れた。
「そんな悪役みたいな奴の言いなりになると思ったのかな。本当にボクなの、キミは?」
「え・・・えっ?」
杏が茫然とした呟き声を上げ、何が起きたのか分からないのか棒立ちとなったままキョトンとした声を上げる。
さくらは意識を失った事でそのまま地に倒れ伏せ、その衝撃で失った意識を取り戻しくぐもった声を上げる。痛みと混乱で前後不覚なのかぼーっと
した目を、半目で呆れているもう一人のさくらに送った。
まるでハンマーで殴り付けられた様な衝撃、だが魔法を行使した様子が全く見受けられない。一体何をしたのか全く見当がつかなく血が流れている
コメカミ部分を手で押さえながら背中を壁に預けた。
「・・・ッ! な、なにをしたんだよっ」
「ん、そこら辺に転がっている瓦礫の小石を蹴っ飛ばしただけ。得意なんだこういうの」
「まるで・・・・くっ、あの子みたいな事をやるんだね、本当に憎たらしい親子だよっ。頭に来る」
「当然。だってあの子に投石とか教えたのボクだしね」
ツカツカと歩み寄ってくる相手―――流れる血をそのままに体全体を弾かせてその場を逃げる様にさくらは背を向けた。今の状況は圧倒的な不利だと
考えたさくらはその場を離脱する様に足を階段の行く先に向ける。
逃がしてなるものか、とローブをはためかせさくら手を伸ばすが一瞬まばゆい光が場を包み込み目を瞑ってしまう。それを振り払う様に手を目の前で払う
ショートのさくら。その時にはもう姿を消した後で、残っているのは杏達と短い髪をなびかせているさくらだけだった。
上げ掛けたゆっくりと手を下げ、ローブ姿のさくらは軽く目を見開き、軽くため息をついた。どうやら逃げ足だけは早い様だと雑感を抱き、目をついと杏
達に向ける。ちょうど目が合った由夢はびくっと体を震わせ、おどおどするように視線を左右に走らせた。
「あ、あわわっ」
「大丈夫だよ。取って食いやしない。ボクは普通に女より男が好きだしね。まぁ、最近は良い男が中々居ないけどさ」
「あ、貴方は一体・・・学園長、芳乃さくらじゃないの?」
「近からず遠からずだね。詳しくは違うんだけど言っても分からないから言いやしないよ、花咲茜ちゃん」
「え、私の名前を知ってるって事はやっぱり学園――――」
「義之くんが誰も家に人を呼ばないからキミとは接点なんか無かったけど・・・どうやらかなりウチの馬鹿息子が世話になってるみたいだね」
笑みを携えながら堂々とした歩みで茜に近づいて行くさくら。その悠然とした姿に思わず茜は棒立ちになってしまう。
そしてその頭の上から足のつま先まで観察するようにジロジロと見詰め、何か納得するようにうんうんと頷き茜の手を取りぶんぶん上下に揺らした。
「中々芯のある子だ。容姿も色気があるし器量も良い。よくあんな女にだらしない男に我慢しながら黙って待ち続けていられるよ。昔の大和撫子
みたいに奥ゆかしいのかな? 偶には皆の事なんて考えないで責めてみたら?」
「え、え?」
「それでそっちの子が天枷美夏ちゃんか。確かロボットだっけ? 一番に義之くんに大きい影響を与えた子、一度会ってみたかった」
「う、うむ?」
今度は茜から離れて美夏に握手を求めるさくら。美夏は一瞬躊躇う様な仕草を見せたが、それに構わずさくらは美夏の手を取りまた振り回す
様な豪快な握手をした。周囲は面喰らった様に唖然とした顔付きでそんなさくらを凝視していた。
姿形は芳乃さくらで髪型がショートカットなだけ。ただその振舞いがいつもの学園長―――いや、それよりも快活な動きと言動をしていたの
でどう判断したものかと、ある意味おっかなびっくりに棒立ちになったままその様子を見守る事しか出来なかった。
「キミは人間よりも人間らしくてとても純情な女の子だね。だから優しくていつも周りに気を遣って口をつぐんじゃう。そこが義之くんの気
を引いちゃうんだよねぇ。あの子が嫌う人の汚い部分が無いからさ、つい目がいっちゃうし気になる。あの子の保護欲を駆り立てるなんて
大したものだよ。ボクはそんなもの持ってないと思ってたからね」
「な、なんの事なのだ?」
「―――こっちの話、だよ。この件が解決すればすぐに思い出せる。キミが気になってる愛しい男の存在をね」
「・・・・」
さくらの言葉に先程から気になっていた例の男についてふと考える美夏。
自分にそんな存在の人間が居たなんて信じられない話だが、思わず信じてしまいそうな力を持った言葉だった。
「な、なにっ? どういう状況なの、これ」
「あ、ムラサキさん・・・」
「ん―――ああ、キミがエリカ・ムラサキちゃんか。なるほど、綺麗な顔立ちをしてるね」
「え」
先の爆発音を聞いて駆けて戻って来たエリカに対し、またも笑みを浮かべながら漂々とした動きでジロジロ見詰める。
いきなり表れた芳乃さくらに似ている芳乃さくらに対し、狼狽する様に足を一歩下がらせたエリカだったが、即座にムッとした顔付きを作る。
あまりそういう目を向けられるのは好きじゃない。エリカはいつもの物怖じしない毅然とした様子で腕を組み、逆にさくらを睨むように見据えた。
一体何者なのかしら、この人―――そうエリカが考えていると、さくらはにまにましながら腰に手を当てた。
「こりゃまぁ、随分義之くんの影響を受けちゃってるねー可愛いことに。本当は気の小さい性格なのにね」
「な、なんですってっ!?」
「でも気品はあるし高潔っぽい雰囲気はまぁまぁ出てる。中々折れそうにない心も持ってるし義之くんが好きになる訳だ」
「・・・義之?」
「でも、どっちかっていうと恋愛感情よりも憧れている気持ちの方が強いのかな、義之くんは。キミみたいな子って義之くんからすればかなり劣等感
を刺激するしね。彼は自分は野良犬みたいな人間だと思ってるし」
「義之ってだれ――――」
「だからあまり強く言えないで押されっ放しになる。桜の木の中で色々様子を観察してたけど、いやぁ、情けなかったよ。まさか女の子に対して
タジタジになっちゃうなんて・・・まさかでしょ。あともうひと押しすればもしかしたら義之くんを取れちゃうかもね、にゃはは」
「――――ッ! いい加減に私の話を聞きなさい!」
「桜内義之。後でこの名前は思い出す筈だから、その時は忘れたちゃった事を後悔して泣かないでね?」
困惑した様子を見せるエリカに対し、さくらは逃げたこの世界の自分の行った方向に目を向ける。
全く面倒臭い――――だが、自分の息子が受けた仕打ちの百倍は返してやると言った。ボクは言葉を誇張したりして言ったりはしない。
有言実行。まだまだやり足りない、もっともっと泣かせて這いつくばらせなければ。さくらはそう考え、その場にいる一同に対して両手を広げた。
「あとの子達は少し可能性が低いかな? もっと頑張らないと義之くんのハートはキャッチ出来ないよ? あんな性格だし追いかけるのはしんどい
けど、それでもいいのなら頑張ってね。私にしてみればもっと世の中には良い男なんてごまんといると思うけどさ」
「・・・さっきから何を言ってのか、詳しく話をして貰えないかしら?」
「そんな時間は無いよ。じゃあね、雪村杏さんに他の皆さん。御機嫌よう」
「まっ―――――」
背を向け手を振りながらあっという間に身を翻して駆けていくさくらに、手を伸ばしたまま杏達はその場に棒立ちになってしまう。
知らない内に表れ、暴れていったと思ったら好き放題言って立ち去っていく。台風みたいな人間だった。思わず放心して静寂の空気が場を包む込んだ。
その中でいち早く復帰したのはやはり杏。いの一番に後を追いかける様にその場からダッシュする様に駆けていく。その背中に小恋は慌てながら声を掛けた。
「ど、どこ行くの杏っ?」
「決まってるでしょっ、後を追うのよ。何だか私達の知らない所で事態が動いているみたいだし除け者はごめんだわ」
「それは・・・確かにそうですけどっ、危ないですよ! この爆発の跡みたいにまだ同じ事が起きるかもしれませんし・・・」
「なら私だけでも行くわ」
「雪村先輩!」
「何も知らないままステージの舞台になんか立っていらないし――――少なくとも私は我慢出来ない」
由夢の制止の言葉を振り切る杏。一同は戸惑う様に杏の背中を見詰めた。
確かに気にはなる。そろそろタイムリミットが迫ってさてどうしようかという時に起きた先の一連の出来事。
自分達を取り巻く状況が変化していってるのは分かる・・・・のだが、落ちて散らばっている瓦礫の欠片を見ているとどうしてもニの足を踏んでしまう。
「――――ッ!」
「あ、エリカさん!?」
「美夏も行くぞ、ムラサキ!」
「ここにいても仕方ないし、私も行くわ。どっちみちドコにいたって危険な訳だしね」
「つ、月島も行くよっ」
「そんな、皆・・・」
ニの足を踏む―――そう思っていたのはどうやら私だけだったのだと、由夢は茫然としながら各人の走る後ろ姿を見送ってしまった。
自分は臆病者じゃ無いと思っていただけに、今のこの状況はとても決まりが悪い。どうしていいか分からず視線を辺りに思わず送ってしまい・・・。
「・・・・」
「なに、由夢さん。そのホッとした様な私だけじゃないんだみたいな顔は」
「い、いえ別に・・・おほほ」
「――――まぁ、普通だったら追いかけていくわよね。行ってもどうしようもないのは事実だけど、ここに留まるってのは外観的にカッコ悪いし」
「うぅ・・・」
「でもいいんじゃない? 無理して怪我でもしたら目が当てられないわ。どっちが正解なんか分からない訳だし」
「・・・・・」
「今行った人達は反射的に駆け出して行った。その姿を見てその後ろに付いて行くって事は座りが悪かったからとか格好つけたいって事でしょ。
なら行かない方がいいわね。私はここで待っている事が正解だと思った訳だし」
「・・・・そうかもしれない、ですね」
「ここは大人しく部屋で待ってましょう。それに朝倉先輩とアイシアさんが来るかもしれないしね」
そう言って足の踏み場を作る様に近くに散らばっている目立った瓦礫をどけ始める麻耶。
由夢はその姿を見て、彼女も慌てて邪魔な瓦礫を片付けようと腕の袖を捲った。
階下に出て長い廊下を見渡す。まだ残っている生徒達がザワザワと騒ぎ、実行委員会やら風紀委員が忙しなく走り回っていた。
久しぶりに見るその姿に感慨深いものを感じるが、感傷に浸っている場合ではない。今は先程逃げ出したもう一人のボクを探さなくては。
「ドコに行ったのかなぁ。気配を上手く消してるみたいだし逃げた形跡も無い。自分ながら面倒臭いよ、全く」
そう愚痴て首をコキッと鳴らし悠然と歩く。ローブ姿に珍しい金髪姿の女の子が堂々と歩いている姿に周囲の生徒達が目を向けるが、見知った
顔なのですぐに視線を逸らし先程の爆発騒ぎの話題に戻っていった。
芳乃さくらといえばこの学校ではかなりの有名人。見た目が幼いのに飛び級する程の頭脳の持ち主、それなのに子供っぽく無邪気に走り回るその
姿は目立つものがあった。もう誰も知らない者はいないぐらいにその存在は認知されているぐらいに。
そんな人の目を知ってか知らずかさくらは各教室を覗きながらこの時代のさくら―――自分を探す。何の冗談だと思う行為に自分ながら嗤って
しまうと口元を歪めた。これもそれも全部あの子の本体である『芳乃さくら』の所為だと思うと、呆れて息が漏れた。
義之くんを安心して任せたつもりなのに・・・木綿豆腐みたいなメンタルの弱さだよ、全くもう。起きたらチョップを喰らわせないと。
「あれ・・・さ、さくらっ!?」
「んー? おお、若かりし日の音夢ちゃんじゃないか。おひさ」
「おひさって・・・・あのさくらじゃないの?」
「あのさくらがどのさくらか知らないけど、少なくともツインテールをしているさくらじゃないね。キミの知っているさくらじゃない事は確かかな?」
「・・・あれ? 言われてみれば雰囲気が全然違うかも。何だか髪が短いし、それに『変なマント』を付けてるし・・・」
「あぁん!? なんだってこの腹黒仮病泥棒偽妹が!」
「ひっ・・・!」
「あ―――ごめんね、音夢ちゃん。冗談だよ、冗談! にゃははっ」
気に入っている物を悪く言われると誰だって腹が立つものだ。思わずドスを利かせて睨んでしまった。反省、反省っと。
にこっと笑って誤魔化しに掛かるボクに、音夢ちゃんは怯えながら疑いの目を向けてくる。むむっ、こんな品行方正なボクに向かってなんて態度だ。
だから腹いせにとりあえずスカートをガバッと捲ってみた。目を瞬かせて『きゃあっ!?』と叫ぶ音夢ちゃん。相変わらず子供っぽいパンツだ、うんうん。
「な、なんて事をするのさくらっ!?」
「久しぶりに会う幼馴染の下着をチェックしただけだよ。そんなに怒る事ないじゃん、もう」
「何のチェックですか!」
「好きな男に対してどこまで本気かを、だよ。女は下着にまで気を遣ってこそ女だからね。別に派手なのを着けろって言う訳じゃない、ちゃんと清潔感
があってお洒落なのを着けろって事だよ」
「いきなり訳の分からない事を・・・・というか話はまだ終わってません! もう一度聞くけど貴方は、その、あの悪いさくらじゃないの?」
「んーボクも結構悪い人間の分類に入るからなぁ。『あの悪いさくら』ってどっちの事を言ってるか分からないや」
「またそうやってはぐらす。何か言えない訳でもあるの?」
「そういう訳じゃないけど・・・うん、ただ言えるのはボクはこの時代の芳乃さくらじゃないって事。それ以上の説明は面倒臭いから省略で・・・OK?」
「え、それって未来から来たってこと――――」
「OK?」
「・・・・・」
目の前で人差し指を左右に振って指差す。それ以上は聞くなと示してやった。
理由は魔法の事を説明するのも自分の存在を示すのも本当に面倒臭い、ただそれだけだった。
物事は何でもスマートの方が良い。特に今回みたいな魔法が関係する一連の出来事はまさにそうだ。
「・・・はぁ。色々言いたい事はあるけど、不思議な事が起きたり信じられない様な事実を突き付けられるのは今に始まった事じゃありません。
貴方があのさくらじゃないって分かっただけでも良しとします」
「えっらそー。お兄ちゃんもなんで音夢ちゃんをあんなに可愛がってたんだろうなぁ~・・・あ、近親相姦が好きなのかも」
「なっ――――」
「周囲の目を気付かず堂々と恋人繋ぎして帰る兄妹―――そうとしか考えられないね。ボクはどっちかっていうとロリータ系だから好みの性癖
から外れちゃったのかな?」
「さくらっ! 言って良い事と悪い事がありますよ!? 大体兄さんとそんな事をした覚えはありませんっ」
「ん、ちょっと待って。確かあの暦先生でさえ君達二人が付き合う事に何も言わなかった。もしかしたら枯れない桜の木の功徳でお兄ちゃんと
音夢ちゃんは上手く付き合えたのかもしれないね。にゃはは」
「~~~~~っ!」
「ま、これも冗談なんだけどね」
少しの嫌味はいいだろう、いつの時代いつの時間だってボク達は友達であり恋敵であり・・・犬猿の仲なのだから。フッと笑って目を瞑る。
顔を真っ赤にして怒っている音夢ちゃんを放って勝手にそう考えながら踵を返す――――と、見知った顔が向こうの角からかったるそうに歩いてきた。
「おや」
「ん、何やってんだ音夢に・・・ってさくら、どうしたんだよその髪っ? えらいばっさり切っちまって」
「に、兄さんっ。聞いて下さいよ~、さくらが酷いんです!」
「・・・なんなんだ」
鳴き真似をしながらお兄ちゃん―――朝倉純一に縋りつく音夢ちゃん。対してお兄ちゃんは困った様に頭を掻いている。
いつもの見慣れた光景だ。兄ちゃんは昔から音夢ちゃんには甘い所があるからなぁお。優しいじゃなくて甘いね、ここ重要。
手の平を重ね合わせて親指同士をポキポキと手持無沙汰に鳴らしているボクに、お兄ちゃんはため息を吐きながらそれこそかったるそうに口を開いた。
「何があったか知らないけど、あんまり音夢を苛めないでやってくれ。後で面倒なんだから」
「なっ、それってどういう意味なんですか!」
「別に苛めてないよー。ただのコミュニケ―ション、触れ合いってやつだよ。音夢ちゃん友達あんまりいないし仲良くやっていきたいんだ」
「・・・なんか、今日のお前は毒舌だな。いつもどこか辛口だけど」
「色々人生経験を積んできたからね。それもアンラッキーな出来事が多くて、そりゃ口も悪くなるさね」
「うん?」
首を傾げて眉を潜めるお兄ちゃん。分かられても困るし別に理解して欲しいとは思わないのでボクはにこっと笑い場を濁した。
さて、そろそろ行くかな。早くしないと何かしらの対抗策を思い付かれるかもしれない。相手は自分なので気を抜いたら足元が滑ってしまう。
音夢ちゃんも顔を真っ赤にするどころか段々無表情になってきているし、そろそろ潮時かもしれない。弄るのは楽しいんだけど程度は弁えるべきだ。
「じゃあ、まったねーお二人さん」
「・・・何が何だか分からないけど、気を付けて行けよさくら」
「うん、気を付けるー」
「ま、待ちなさいさくらっ! 私、言いたい事があるんですよ」
「どうせ小言とか怒りが籠った文句でしょ、ボク聞きたくなーい」
「分かってるなら言わないでください! 私の事馬鹿にしてるでしょっ、そうに違いないです!」
おお、ここまで怒った音夢ちゃんを見るのは久しぶりだ。少し危険かもしれない。
だから駆け足でその場を駆けようとして―――そういえばやり残したことがあったな、と思いだした。たたらを踏んでその場に留まる。
「おおっと、思わず用を済ませないで行くところだったよ。危ない危ない」
「ん、忘れ物か?」
「――――そう、忘れ物だよ。あと忠告だけど口を閉じた方がいいんじゃないの、お・に・い・ちゃ・ん?」
「え」
「口、切っちゃうよ」
ローブを目の前ではためかせ視界を奪う。
その隙に思いっきり相手の足元を掬う様に水面からなぞる様な蹴りを放った。
「ぅあっ」
「きゃあっ!?」
一瞬ふわりと浮き―――ゴッと音を立てて廊下に横っ面から落ちた。
まるで地面に叩きつけられた蛙みたいな声を上げるその姿に、思わず噴き出しそうになってしまい口元を抑える。
音夢ちゃんが悲鳴を上げて慌てて駆け寄ろうとしたのでそれを無理矢理除けて、相手の頭を踏みつける様に足を振り落とす。
「あっ、ぐっ!?」
「あんまり馴染み過ぎちゃって思わず普通に話しちゃったよ。こういうのを天然ていうのかな? 魔法使いで見た目が子供、でも本当は
何年も生きててそのうえ天然て・・・属性詰め込みじゃん、ボク」
「さ、さくらぁっ! 何をやってるんですか!?」
「見ての通り頭を踏みつけてる。このまま思いっきり踏み抜いてそこら辺に脳漿をぶちまけちゃおうかな、面白そうだし」
「グッ、な、なにするんだ・・・さくら」
「―――いい加減芝居は終わりだよ。ボクの芝居も、キミの芝居も」
足を上げると相手が立とうとしたので、その横っ腹を蹴り上げる様に打ち抜く。
悲痛な声を漏らしながらお兄ちゃんの『姿をした』相手は転がりながら壁に体を打ちつけた。
わぁ、痛そうだな。何かガツンて音がしたし頭でもぶつけたのかもしれない。目を剥いて掴みに掛かってきた音夢ちゃんの手を掴みながら
そう感想を心の内で漏らし、とりあえず脇でお猿さんみたいに暴れている子の腕を捻って動きを制した。
「きゃっ、は、離して!」
「よーく見てみな、音夢ちゃん。あれが君のお兄ちゃんなのかな? それにしては随分性格が悪そうな顔をしてると思うけど」
「え?」
苦しそうに呻き声を漏らすお兄ちゃん。その姿がまるで砂漠で見える蜃気楼の様にゆっくり薄らいでいく。
隣で唖然と口を開ける音夢ちゃん。それはそうか、猫みたいに甘えて抱きついていた人が全くの別人であり、自分の見知った顔なのだから。
掴んでいた腕を離し、ツカツカとこちらを睨みつけている女――――芳乃さくらに歩み寄っていく。もう魔法の効果は切れその本当の姿が露わになった。
「やっほー。随分怖い顔をしてるねぇ、そんなに額に皺を寄せると本当にばあさんになるよ。ウチのお祖母ちゃんみたいに」
「・・・いつから、気付いていたの」
「最初から。大体気を付けて行けよとか言ってる時点で自分は偽者だってバラしているのと同じだし。おかしいと思わない? 何も知らないお兄ちゃん
がそんな事言うなんて・・・何に気を付ければいいのやら、だね」
「くっ・・・じゃあ、何で今のさっきまで普通に話してたのかな」
「どこまで演技力があるか興味が引かれたからかな。いやーでも大した演技力だよ? 思わず会話を楽しんじゃった。そこだけは自信を持っていいと
思うよ、いや、本当の話で」
「・・・・!」
「それ以外は赤点以下だけどね。魔法も下手糞、頭も弱い、腕っ節は貧弱・・・ああ、これじゃ自分が幸せになれるなんていう世界を欲しがる訳―――」
「う―――うわぁああああーーーーーーーーーっ!」
頭から飛び込むようにこちらに向かって弾け飛んでくる相手。
思わず躱せないままにその衝撃を受け止めてしまう。顔が苦痛に少し歪んだ。
それだけでは終わらずにそのまま連続で顔面に拳を叩きこんできたので、一瞬目の前で火花が散った様な錯覚に囚われる。
「ぐっ」
「何が、何が分かるんだよキミなんかにさっ!」
その拳を引っ込めることはせず、二回、三回と頬っ面を殴られた。
喉の奥から絞り出す様な強い声と、瞳孔が開いた目。正真正銘にプッツンと切れている証拠だ。
「こ、こっちはね! 今まで散々耐えてきたんだよ!? お兄ちゃんと音夢ちゃんが一緒になって、諦めて一生魔女でいる事になって、それでも
一人は孤独で寂しくて冷たくて・・・・涙が出て!」
「ぁ」
力の制御なんてしていない小さな握り拳、皮が裂けて出血しているのにまだ殴打は止まらなかった。
鼻を殴られて骨の硬い音が聞こえたと思ったら、生温かい感触が鼻孔から顎下まで流れたのが感覚的に伝わって来た。
「だから義之くんという存在を作ったし学園長にもなった! それで分身のボクでさえ思ったよ、そんな世界は要らない、自分だけが幸せ
になれる世界を作ればいいなって!」
「・・・あぁ、鼻血か。久しぶりに出したよ、血なんて」
「別にそれが間違ってるとボクは思わないっ。ボクが間違っているというのなら、じゃああの世界が正しいって事になる! ボクが一人童話の中に
出てくる魔女みたいに一人ぼっちのあの世界がね」
「・・・・・」
「だから!」
「あんまり調子に乗らないで、この糞餓鬼」
「え」
また飛んできた拳を捕まえて、お返しに鳩尾に膝をめり込ませた。
ヒュっと息を吸い込む音、唾液を撒き散らして後ろに下がろうとしたが・・・させない。
そのボクにはもう無い長い髪を引っ捕まえて、握り拳を今度は反対に人中辺りに打ち付けた。
「ぎっ―――」
「そんなの全部自分の所為でしょ、自分の。勝手に恋して、勝手に傷付いて、勝手に海外に行って逃げた癖に」
「ぐ・・・っ、うぁ」
「そういう悲劇のお姫様ぶっている女の子って見てると殴りたくなってくるよね。自分の欠点を棚の上に置いて周囲が悪いんだと
泣き叫んで、当たり散らす。本当にキミがボクと同じ人間なのか疑いたくなるよ」
襟を掴んで壁に叩きつける。反抗を許さず一回、二回、三回、四回、五回と何回も叩きつけた。
ぐったりとなる身体に虚ろな目、意識が途絶えそうになっているのが見て取れた。なので膝を腹にめり込ませて強制的に起こす。
「どこかの誰かさんにも言われたと思うけどさ、どうせ誰かに分かって欲しくて中途半端に魔法を使ったんだよね。私はいつも笑ってますけど
本当は寂しいんですよ、孤独なんですよって」
「・・・っ」
「そしてそもそもの話として、本当にキミが幸せを願っているのか疑わしいもんだよ」
「なに、をバカな――――」
「誰にも理解されないまま一人自分だけの箱庭に閉じこもる。それは凄く寂しい事だ。キミみたいな臆病者がその事に気付かない筈が無い」
「・・・・くっ」
「宙を舞っているガスが抜けかけている風船――――それがキミが今持ち合わせている『覚悟』の程度だよ。情けない」
あまりにも腹が立つので思いっきり両腕に力を込め窓の外にその身体を放り投げてやった。
驚きと恐怖が混ぜ合わせとなった悲鳴を上げながら落ちて行く自分の姿をした女の子、いい気味だと鼻にハンカチを当てた。
こりゃ、死んだかな。あの状況で魔法を行使する集中力は持っていない筈。きっと頭から落ちてグロ画像みたいな事になっているに違いない。
「さて、どうなってるかな。スイカみたいに弾け飛んでるかな」
「・・・・」
「って、ありゃま」
ウキウキしながら窓から下の風景を見下ろすと、そこには弾けた脳漿も首の折れた少女の姿も見当たらなかった
暗闇の空間を照らしている月明かりを頼りに周辺に視線を配るがそれでも見つからない。見えるのは変哲もない中庭だった。
「あの状況下で逃げるなんて・・・さすが腐ってもボク、と言えばいいのか。ちょっとこれは予想外だったなぁ」
「・・・・」
「そんな所に座ってると下着が汚れちゃうよ? 音夢ちゃん」
「ひっ!」
ボクの顔を見て引き攣った様な声を絞り出す。さっきの顔へのパンチが効いたのか鼻血が止まらずボタボタと流れている。そんなボクの顔を見て
恐怖でも感じたのだろう。温室育ちだし、仕方ないか。
鼻を思いっきり啜って軽く魔法を掛け止血をした。痛みは無くならないがこれぐらいで十分。一回義之くんと殴り合いになるぐらいの喧嘩をした
事があるが、それに比べればまだマシな方だ。あの時は確か義之くんの腕を折って決着を着けたんだっけ・・・懐かしい。
喧嘩をした理由は些細な事、家事の当番をボクが忘れた事だった気がする。こっちは謝ってるのにネチネチと女々しく嫌味を言ってたから頭を軽く
殴ってやって、それから段々お互い激しくなり――――しばらくはりまおが帰ってこないぐらい酷い有様になった。
「こんな小さい殴り合いで腰を抜かして地べたに座るなんて、誰にか弱い女の子アピールしてるの? そんなタマじゃないでしょ」
「な、何が小さい殴り合いですかっ!? お互いに顔に拳を思いっきりぶつけ合って血だらけになって、それで」
「顔は少し傷付いただけで血が流れやすい。皮膚が薄いからね。皮膚の下には硬い骨が密集してるし神様は顔に厚い皮膚は必要無しだとでも
思ったのかな? だとしたら使えない神様だよね、顔の皮膚が薄いと化粧品に負けちゃうっていうのに・・・ホント、デリカシーが無くて慈愛が無い
困っちゃう神様だと思わない?」
「・・・・なんでそんなに平気でいられるんですか?」
「ん、そんなの決まってるじゃないか」
胸に手を置きながら音夢ちゃんの疑問の声に、当り前の様に答えを返す。
窓の外を目を細めて見通すと枯れない桜の木を目指して歩く一人の女の子が見えた。
恐らくそこに行けばなんとかなるとなると思ったのだろうが・・・甘い、そうやって逃げ続けている限りボクには――――。
「自分の息子がやられてかなり頭に来てるからだよ。理屈じゃない。キミにはまだ分からない感情だろうけど、これほど相手を怒らせる
術は他にないだろうね」
頭を掻きながら空を見上げた。枯れない桜の木の花弁がうざったいくらいに舞い落ちていて、月明かりに反射されて幻想的な風景を
醸し出している。やっぱりうざったいが。
「ここに来るのは・・・数えるのも面倒くさいな」
声を発して自分の存在を確認する。次に両手、両足を眺め自分が確かにここに居るという事を実感した。
存在が消えていくという感触を実感したのはこれで二回目。最悪な気分だ。自分の全てを否定されるという事がこれ程辛いとは。
次からは少しこの悪口も直した方がいいかもしれない。気持ちを入れ変えて少しは周囲の人達に優しく接してやろうと心に決めて歩き出した。
「大体絡んで来なきゃこっちは何もしないってんだよ。人を薬でもキメてるみたいに裏で言い合いしやがって」
愚痴るように木の根元に近づいて背を預けた。
これから何をしようかと考えるが、何が出来るのか全く思い付かない。
魔法というものはほんの触り程度しか使えず、知識もまた無い。完全にここから脱出する手段は持ち合わせていなかった。
「と、するとだ。ウチの母ちゃん次第になっちまうな。まぁ、何とかしてくれる事を祈るしかないな」
ゴロンとその場に寝転がり月とその光に反射された夜空を見上げてぼーっとする。
夢の中の世界の筈なのに桜の花の匂いが鼻孔をくすぐり気持ちのいい風が吹いている。
そういえばこんな風にゆっくりしたのはい何時以来か・・・。随分前の事の様な気がした。
「それだけ疲れていたって事か。皆が学校から消えてアイシアと会って・・・と、そこからノンストップだもんなぁ」
常に動きっ放しの暴れっぱなし。自分の事でイザコザを起こすのは別にいいが、他人の為となるとこれまた疲れる。
攻めるより守る事の方が難しいと言ったのはどこの誰だったか。少しここでゆっくりしていっても別に罰は――――。
「誰だ」
ザッと背を起こし、転がる様にしてその場を離れ立ち上がる。
人の気配――――この場所は魔法使いやオレみたいな人間しか入れない空間の筈だ。
それなのに何故・・・・・身体を弛緩させすぐさま何が起きても対応できるように身を取り繕う。
「・・・・・」
「あ――――なんだ、お前か」
緊張して損をした。そりゃここに入れる訳か。オレが居るという事はそういう事だ。
また木の峰に背を預け息を吐いた。まさかと言えばまさかの出会いだが、納得出来る理屈だ。
一瞬あの芳乃さくらが来たと思ったぜ。そしたらオレに逃げ場なんか無い。ここで死ぬって事は完璧な消滅っぽいから結構身が竦んだ。
「・・・えぇと」
更に腰を深くして座り直し片目を開けると、頭を掻いてどうしたらいいか分からないといった呈で目をキョロキョロさせている相手。
少し意外なそぶり。てっきりキレられると思ったんだけどそうではないみたいだ。オレはかったるそうに手を上げこっちに来いと合図した。
「おら、脇に座れよ」
「え、あ、ああ」
「折角の機会だ、もう次は無いこの場限りの出会い。少し話でもしよう――――桜内義之」
「はぁ・・・はぁ・・・」
息を絶え絶えにしながらも、足を無理矢理動かして枯れない桜の木を目指す。
何回も土で足を取られそうになりながら歯を食いしばり、前へ進んできた。身体の痛みに顔を歪めながらも懸命に。
「全てが・・・くっ、全てが裏目に出た」
途中までは滞りなく進んできた計画が全て台無しだ。時間を掛け、あらゆる不安要素に対処してきたのに途中で何人もの乱入者
が現れた所為で自分の幸せは遠のいてしまった。
最初はなんてこと無い輩だと思って油断したのがそもそもの始まりかもしれない。花咲茜、桜内義之・・・片方は一般人でもう
片方も限り無く一般人に近い人物。
魔法使いの音姫、アイシアといった相手ならまだしもその二人にしてやられる形となった事に、驚きと口惜しさの感情が入れ混ぜ
合ってまたも歯をギリッと鳴らした。
「・・・・」
やっと着いた。枯れない桜の木の元へ。
随分長い間歩いてきた気がした。それ程までに精神と体力を消耗したという事だ。
よたよたと木の峰の所に近づき、途中で滑って転んでしまう。もう歩く気がしなかったのでそのまま大の字に寝っ転がった。
「・・・はは、まさかこんなざまになるなんてね。全く予想しなかったよ」
「・・・・・すぅ」
「そして脇で寝ている事の張本人は幸せそうに眠ってる、か」
その背中目掛けて残り少ない力で蹴りを入れる。ドンッと鈍い音がして相手は顔を歪めた、ほんの少しだけ。
しかしそれでも気が収まらず何回も足蹴りにして荒く息をついた。蹴られて泥だらけになる本体の自分。
だが、寝顔はまだ幸せそうな顔付きを―――――。
「う、うわぁあぁああああぁあああああーーー!」
苛付きと怒り、どうしようもない不安感が混ぜり合って声を張り上げて吠えた。
何故こんなにも自分は頑張ってるというのに・・・という報われない気持ちで心が溢れて零れそうになる。
『自分の為』にやっている事が『自分の為』ではない。その妙な存在として生まれた自分。しかし自分が存在している理由は自分の為。
「なんだよ! なんなんだよコレは! こんな凄く痛い思いをして、魔女みたいに非道的に振舞っているのに何一つ良い事がなくて・・・!」
まだ誰かの為だったらある程度線引きは出来た。諦めと続けるタイミングと気持ちの整理が出来た。だがここまで―――この状況になってまで
頑張る意味とは。果たしてこれが『自分の為』といえるのだろうか。
今まで持たなかった疑問がムクリと背を起こす。いくら分身とはいえ独立したボクは自我を持っている。元々は芳乃さくらに作られたとはいえ
この世界の住人だったのだから当然だ。それが芳乃さくらの未来の結末を知る事なり今まで協力もしてきた。
しかし、それにしたってあんまりじゃないか。辛い事、痛い事は全部自分が引きうけて元々のボクはただ眠ってるだけで良い。この世界を作ったら
後は放りっぱなし、この世界の自分に任せているだけ。ただの僕としてせっせと働いているボクはもしかしたら・・・。
「――――なんて、虚しいんだろう」
「今更気付くなんてちょっと鈍いんじゃないの? キミ」
「・・・!」
背後から聞こえてきた自分の声に反応してバッと飛び上がる―――急な脇腹の激痛、もんどり打つようにまた地に伏せてしまった。
相手はそんな自分を冷やかな目で見詰め、ゆっくりと足を歩ませてくる。その姿に思わず怯えてしまったボクは立つ事さえ忘れて身体を震わせた。
「あまり面倒な事はさせないで。かったるいから」
「・・・その口調、お兄ちゃんの真似? 女々しいよ」
「これは義之くんの癖の真似かな。あの子いつの間にかそんな言葉を覚えて帰って来たんだよ。やっぱり似るもんだね、父親とさ」
「父親・・・でもそれは芳乃さくらの結末には無い事象、ボク達には無い未来図。だからボクはその図が欲しくてこうして閉じた世界に―――」
「そんなの関係無いんだけどね」
スッとした動作で腹に蹴りを叩きこまれたさくら。急な攻撃にロクに防ぐ事も出来ず、ただそれをマトモに喰らい目を驚きで見開いた。
「っ・・・ぁあ!」
「何油断してんの。余程甘い性格をしてるのは分かってたけれど、ここまでとはね」
また地を転がり服を土色に変えるさくら。それを見て呆れる様に片眉毛を上げて息を小さく吐き捨てるローブ姿のさくら。
上と下、成功と失敗、勝者と敗者・・・それが色濃く示される形となってしまった今の状況。佇まいを正して短髪の先を弄りながらさくら
は見下ろす様に言葉を紡いだ。
「キミが何しようが別に興味は無いし、関わりたくも無い。だってボクの関係しない所でやってるんだもん。好きにやってという感じかな」
「だったら・・・ごほっ、なぜ邪魔をするのかな?」
「あ?」
襟首を掴まれ無理矢理立ち上げさせられる。短く悲鳴を上げてさくらは為されるがままとなった。
なにを――――そう思っていると、枯れない桜の木叩きつけられ肺の中に溜まっていた空気を吐き出す。
しかし、それでも満足しないのかギリギリと服が破れるぐらいに押しつけ捻りを入れるもう一人のさくら。
「か・・・く、やめ・・・」
「だったら―――それをキミが聞くのかなぁ? 散々ウチの息子を苛めぬいてくれてたよね~? 桜の木の中で一部始終は見てきてたんだよ、ボクは」
「・・・・・・息、が」
「もう両手両足をバラバラにしないと気が済まないよコレは。にそこで転がっている芳乃さくらも同罪だね。なんなら生きたまま火を着けてあげようか
なぁ、もしくは木の中に閉じ込めて強制的に餓死とか―――色々思い付いて楽しくなってきたよ、なんだか」
熱を帯びた様に顔を朱色に染めて、目をウットリさせる別の世界の自分にさくらはサッと顔を青く染め上げた。
冗談でも無い、脅しでも無い、この人は・・・本当にやる。そう思わせる凄味があった。懸命にここから逃げ出そうと必死に身体を悶えさせる。
しかし重点をきっちりと決められている所為か少し動いただけで終わってしまった。綺麗で品のある短い金髪の髪がふわりと浮く様な笑みを見せるさくら。
「なんにせよキミ達は殺すよ。生かしてなんか置けない。枯れない桜の木の魔法の力を借りる事が出来ないキミにとっては残酷な事実だよね」
「――――ッ! 気付いてたのっ」
「ここまで必死になって走って来たキミが大の字になって寝てるんだから、誰でも気付くでしょ。ちなみに桜の木の権限はボクが奪い取ったから
使えないのは当り前なんだけどね」
「なっ・・・」
「キミ達二人がボクに敵う訳無いでしょ。積み上げてきた修羅場の数と頭の回転の良さ、何もかもがボクが上なんだからこんな事は朝飯前。
あとね、ちょっと調べたら義之くんを復活させる手段が見つかったよ。さすが臆病者の芳乃さくら。そういう手段を予め桜の木に仕込んで
おいたみたいだ。自分を助けに来てくれた人がもし消えちゃったら悲しいもんねー」
「だったら」
「自分を痛めつける理由は無い。だから許して欲しい――――か、本当にキミはオツムが足りないね」
「ぁぐ!?」
乱暴に襟元を掴んでいた腕を振るわせて地面を滑らせる。
たまたま地面の硬い所に身体を打ったのか、さくらは悲痛な声を上げた。
「それでキミが義之くんにした事の罪は消えないんだよ? 徹底的に嬲り上げ、本当の『孤独』を味わせた。義之君を復活
させるのはキミを殺してからだね」
「・・・殺す、なんてそんな」
「出来ないと思ってるんだ? へぇ、ここにはボク達しかいないのに? 魔法で何でも出来る世界なのに? どうして?」
「・・・・・」
やはり気持ちにブレは生じていない。このままでは本当に自分はこのもう一人の自分自身によって殺される。
そんな事はさせるか。自分にだって意地はある。ここまでやってきたという意地が。ぬかるんだ地面から体を起こし体制を整えた。
再び魔法を行使しようと意識を集中させ――――今まで感じた事なの無いざわめきが体を襲った。思わず自分の体を抱きしめるが震えは止まらない。
「あれ・・・あれ?」
「――――随分鈍い感性をしてるんだね。今更怯えるなんて」
「怯え・・・て」
「弱い者が強い者と相対した時に感じる感情、別に恥じる事じゃないよ?」
「そんな、ボクが怯えるなんて」
「本当に?」
「あ、う」
一歩距離を縮められ、反射的に後ろに下がってしまった。自分の意思ではなく体が勝手に動いた。まるで紐糸で引っ張られたみたいに。
気持ちが恐怖によって支配されていくのが分かる。段々と目の前が白くなるぐらいの精神的圧迫、血の気が失せて顔色が青白くなっていった。
痛みなど感じない程に混雑する自分の意識。さくらはきょろきょろと視線を彷徨わせた。何か、何か対抗出来る術は無いのかと必死になって・・・。
「もう終わりだねキミ。恐怖で何も出来なくなってアテもなく目を忙しなく動かすだけ。ただの子供になっちゃった」
「まだ、まだ終わりじゃない。こんな所で終わってたまるもんか・・・ボクは、私は絶対に貴方を倒してこの世界を・・・」
「桜の木の魔力で心をフラフラさせられている癖に良く言う。大体にしてさ、ロクに自分の感情を制御出来ない人間が何かを成し遂げようとする事自体
おかしいんだよ。いくら魔法だからって人の根本にある『芯』は変えられないんだから。分かるでしょ、今までの経験で」
「対抗しなきゃ・・・ボクは、ボクは・・・」
「―――――ふぅ」
目の辺りを揉みながら息を吐く。この状況になってもまだそんな藁に縋る様にアテ無くきょろきょろしていては結果は見えたものだ。
勿論油断はしないが心が既に折れて口先だけで格好を付ける相手、脅威には成り得ない。精神がもう負けの領域に入ってる負け犬だ。
いや、犬なら本能的に逃げるだろう。本当に人って面倒な生き物だと黒服のさくらは思いを巡らせた。妙な自信が返って足を縛らせてしまう。
そろそろ決着を着けてやろう。そう思っ矢先、相手はふと何か思い浮かんだ様に目を見開かせ罵る様に口を開いた。
「ま、魔法はねっ、みんなが幸せになる為に使わなくちゃいけないんだ! 絶対に相手を傷付ける為に使ってはいけないんだよ」
「・・・・なんだって?」
「キミみたいな悪い魔法使いは居ちゃいけない、自分でもおかしいと思わないのっ? こんな事に魔法を使うなんて」
「――――うわぁ」
開いた口が塞がらない、とはこういう事を言うのか。
今まで色々な人間を見てきたつもりだがここまで自分を棚に上げる人間は見た事が無い。
それほどまでに追い詰められているという事なのだろうが・・・・呆れた様にさくらは頭の後ろを掻く。
「自分でソレを言うか。私利私欲で魔法を行使し、自分だけの世界を作ろうとしたキミがねぇ」
「だってそれは仕方ないんだもんっ! このまま無意味に過ごして行くよりは断然こっちの方が良いに決まってるじゃないか!」
「だからさっきも言った通り、それなら完全に外部との接触を絶ってさ――――」
「大体私利私欲を言うならキミだって同じじゃないか! 家族が欲しくて、義之という男の子を誕生させて、結局島の皆が危険だと分かったら
仕方なく自分を犠牲にして人柱になって幸せから遠のいた」
「・・・ん?」
「そういうキミがボクの事を―――」
「ちょっと待ちなさいな」
「ッ! なにさっ」
「初音島の住人が危険に晒されようとしたからボクが犠牲になった・・・そういう風に今聞こえたんだけど?」
「間違っていないじゃん、キミが枯れない桜の木に閉じ込められてたのは結局そういう事なんでしょ?」
「・・・・・」
桜内義之という人間を誕生させる為に枯れない桜の木を復活させた『芳乃さくら』。長年一人で生きてきた彼女にとって家族というものは
何より欲しがっていたものであり、尊いモノだった。
外国から帰国して初音島に住むと決めた時、まず最初にした事は枯れない桜の再生。結果は成功で朝倉純一と自分の息子を上手く呼び寄せ
る事が出来たのが十年以上前の話。それからは仲睦まじく暮らしてきて幸せを実感していた。
だがその幸せも長くは続かなかった。枯れない桜の木は暴走して誰の願い事でも叶える歪んだ物に変貌して、多くの災いを引き起こそうと
していた。今幸せに木の峰で眠っているさくらもそんな状況に頭を痛ませ、自分を犠牲にする事も厭わない覚悟を決めていた。
服と顔を泥だらけにしながらさくらは息を荒くし、責め立てる様にもう一人の、桜内義之の母と名乗る自分を罵る。
結局お前も自分の幸せの為に魔法を使ったじゃないか、危険だと分かっていたのに初音島の人間を巻き込んだではないか、と。
「自分の為に魔法を行使して他人を不幸にする魔女、それがキミなんだよ。ボクを責める程義理がある訳じゃない」
「・・・まぁ、テンパって自分の事は置いておくその性格に目を瞑る事して・・・一つ言いたい事がある」
「なに?」
「ボクさ、別に初音島の人間がどうなろうと別にいいんだよね。元々好きじゃないし」
「・・・・は」
今、信じられない様な言葉を聞いた。そんな茫然とした顔を向けるさくら。
それはおかしい、芳乃さくらは初音島を愛している。だからこそ島に住む事を決めて皆の為に自分を犠牲にしたんじゃないのか?
「だってお兄ちゃんと音夢ちゃんが付き合った時の皆の反応って祝福ムードだったんだよ? あり得なくない? 義理とはいえ自分の
妹と付き合う事に賛成するなんて・・・頭のネジが吹っ飛んでるとしか思えない」
「でも、みんな二人は本当に愛し合ってるって分かってたから妹とか抜きで考えて・・・」
「抜いちゃダメでしょ、一人の女の子の前に一人の家族なんだから」
「・・・・」
「それで思ったんだよね、『ああ、付いて行けないなコレは』ってさ。どこか封鎖的な島だとは思ってたけどまさかそこまでとは思わなくてね。
呆れて外国に行ったんだけど――――まさか、サポート部隊とかいうカキタレを囲んでるとはさすがのボクも泡を吹いたね。帰って来て最初
に思わず殴っちゃったよ、二回ほど」
「か、カキタレって・・・」
「似た様なもんでしょ。後は悠々と外国に帰って暮らそうと思ったんだけど、とりあえず息子欲しいなぁと思ってお兄ちゃんとの息子である義之
君を自分の世界に連れてきちゃったんだよねぇ。一応初恋の人と結ばれてたらどんな息子が出来るかなって感じで」
当時の事を思い出す様に首を鳴らしながら遠い目を向けた。さすがのボクも寂しくて誕生させた義之と名付けた男の子。
最初見た時、全部を投げ打ってまで守りたいという感情に囚われた。とても愛おしく、目に入れても痛くない程にかわいい自分の息子。
初恋の相手なんかもうどうでもよくなり、当時心に傷を負っていた自分にとってまるで天使みたいに思えた。今じゃチンピラみたくなってるけど。
「ハッキリ言うとね、ボクは義之君以外はどうでもいいんだ。全世界の人間と義之君を天秤に掛けたら義之君に傾く。初音島がどうなろうと
まるでボクには関係無い。ただ環境が良いから住んでただけの話、特に愛着なんか持ち合わせてはいない」
「じゃあ、自分を人柱にしたのは・・・」
「――――はぁ、あのバカ息子が死んだから仕方なくだよ。義之くんを生き永らえるにはボクが桜の木と融合して魔法を使わなくちゃいけなかっ
たからね。結果的に皆を守る事になったけど、特に誰が死んでもよかったよ。桜の木が暴走するなんて始めから分かっていた事だし」
「まさか、そんなっ」
「ボクは最初から覚悟を決めていた。何を犠牲にしても自分の家族を手に入れ、その結果他人を見殺しにして恨まれて殺されても良いと腹を括って
たんだ。桜の木が暴走して慌てて尻拭いの為に自分を犠牲にする・・・そんな覚悟ならね、最初からやるなって話だとボクは考えている」
「・・・そんな風に考えられる強い心なんて、誰もが持てる訳じゃない。人なんて弱い生き物だから何事も無いように祈る事しか出来ない。それは
芳乃さくらという魔法使いも同じで、出来る事と出来ない事なんて世の中にいくらでもあるんだ」
「それはやろうとしていないだけでしょうが。それに同一人物であるボクが持てたんだ、君達に持てない訳がない。言い訳する暇があったら、そうだ
まずは今からボクに殺されない様に自分の身を守ったら?」
軽く撫でられる様に手を振られた――――瞬間、体が吹き飛んで木に叩きつけられるさくら。
元々力に差があったのに今の自分は精神と共に肉体もボロボロ。満足に動ける体力なんて最早残ってはいない。
「・・・グッ、本当にボクを殺す気なんだ」
「当り前じゃ無い。そうしないとボクの気が収まらないもの」
「このっ、狂人が」
「まずは両手両足の腱を切ってあげる。逃げられたら追うのかったるいしね」
人差し指を向けられ、さくらは観念したかの様に目を反射的に瞑った。
どう足掻いても対抗出来る術など残っていない。やることはやった。そんな諦観した気持ちが心を浸食していく。
氷の様に冷たい冷やかな目、もう彼女の頭の中では自分を処断する段取りが組まれている。それが分かりもう逃げようとはしなかった。
脇を見るともう一人の自分が寝ている光景が見え、思わず場違いながら笑みが漏れた。
自分が大変な時だというのに・・・我関せずで本当に最初から最後までこの子は――――。
「じゃ、まずは右足から」
目を瞑る。痛みなど慣れるものではない。今でも花咲茜にやられた傷が疼いている気がした。
そうして間が空きシーンとした静寂な空気が場を包み、一秒、二秒、三秒と時間が過ぎていった。
いつやられるのか、焦らされた上で甚振られるのかと待ち続け・・・・・十秒が経った所で初めて違和感に囚われた。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・?」
「・・・ふぅ」
そっと目を開けると、頭に手をやって困った様に顔を歪ませてガシガシと髪を掻いている相手の姿が見えた。
挙げていた手は下がりさっきまでの殺気だった雰囲気が消え、もうボクを責苛もうとする気さえ見えない。その急な変化に思わず困惑してしまった。
「なに、が・・・」
「――――参ったねぇ」
「え?」
「ボクの行動を予測していたのか・・・いや、ただ単純に保険を掛けていたのかなこれは。長い事お互い一緒に生活してると色々行動パターン
が読まれちゃうもんだしね。こんな手を打つとは思って無かったけど・・・随分かったるい事してくれるじゃないの、あの子は」
「どういう事?」
「――――ふんっ。要は予めストッパーを掛けてたという事だよ。ボクを上手く呼び出した前提でやり過ぎない様に策を打ってたんだね義之くんは。
何故手加減をしなくちゃいけないのかボクは疑問だけど・・・根が甘い子だし、情でも移ったんだろうか」
「意味が分からない・・・。一体何の心変わりで手を止めたの?」
「さてね――――出てきなよ、お兄ちゃん」
「は?」
思いがけず木の抜いた声を発してしまう。
バッと声を掛けた方向によろよろと目を向ける。
「あ・・・」
「覗きなんて悪趣味だね、音夢ちゃんに怒られるよ。あの子嫉妬深いし」
「・・・・まぁ、そうだな」
そうしてバツが悪そうに木の陰から現れたのは朝倉純一。芳乃さくらの幼馴染でもあり初恋の相手。
その人物が何故ここにいるのか―――足腰に力を入れてヨロヨロ立ち上がるさくらに、純一はハッとした顔で駆けつける。
「お、おい大丈夫かさくら」
「別にこれぐらい・・・くっ」
「バカ、無理すんなって」
「おうおう、見せつけてくれるじゃないの。お兄ちゃん」
「・・・何で、こんな事をしたんだ」
「うわっ、なんだか面倒臭そうな展開になりそう」
瞳に険を宿らせる純一に、さくらは芝居掛かった仕草で口に手を当て驚いた様に目を見開く。
恐らく自分の知り合いが傷付けられた事に怒りを伴っているのだろうが、部外者は引っ込んでいて欲しい―――さくらは半目で純一を見据えた。
純一はさくら似た誰かが冷たい視線を向けてくる事に動揺を隠せないのか、落ち着きの無い様子で目を走らせている。場に緊張が張り詰められていく。
「で、義之くんに何て言われてきたのかな。お兄ちゃんは」
「え、なんでその事を知って・・・」
「今までその脇にいるさくらに干渉しなかったのに、今このタイミングで現れるなんておかしいでしょ。他の人物がお兄ちゃんをこの場に寄こす筈が
無いし、義之くんの思考回路だとこういう事をするなって思った。それで、何て言われてきたの?」
「・・・行けば、分かるっていう風に言われた」
「全部放り投げたなあの女たらし」
思わず引き攣った笑みを浮かべてしまった。面倒臭がりな性格だとは知っていたが全部ボクに任せるなんて良い度胸じゃないか・・・。
頭を引っ叩き衝動に駆られるが生憎その本人はこの世界から消えてしまっている。いや、雲隠れか。ボクの怖さを知っているしその可能性は大いにある。
「詳しく言うと出会い頭に名前を名乗られて、アンタの幼馴染が多分殺されようとしているって言われたんだ。それでまさかと思ったけど・・・」
「実際に殺そうとしていた、と」
「・・・・」
「そんなに睨まないでくれる? ボクはちゃんとルールに乗っ取って行動してるつもりなんだけどなぁ」
「一応聞いておくけど、誰が決めたルールなんだそれは」
「勿論ボクの中のルール。意外と大変なんだよ? 自分の中のルールを押し通すのって力が無いと潰されるし」
「聞いたオレがバカだったよ。それでさくらを殺そうとしたのか?」
「ボクもさくらなんだけどなぁー。でもそうだね、殺すか手足もぎ取るかどっちかを実行するつもだったけど・・・どっちもやっちゃてたと思う。
それ程までに頭に来てたし口先だけで終わるつもりは無かった」
「何故?」
「言う必要な無いと思うよ。言っておくけどそっちの芳乃さくらちゃんも結構酷い事したんだからね。確実に一人この世から消してるし」
「・・・本当なのか、さくら?」
「・・・ッ!」
ビクッと体を振るわせる。飼い主に怒られた猫みたいだと首を鳴らしながらさくらは感慨を受けた。
そりゃあ好きな人に責められるかと思うとそうなるか。ボクは全然平気だけどこの子は経験値がまるで低い。
黙っている事が肯定になり、何を言って良いか分からない様に顔を歪めるお兄ちゃんと黙り込むもう一人のボク。
はぁ・・・よくこんな面倒な状況を作ってくれたよ。この場に変に正義感がある人はいらないんだけどなぁ。
「はいはい、そこまでにしておきなさい。世の中弱肉強食なんだから殺し殺されは当り前、戦国時代なんてまさにそれだよ」
「なんで、さくらはそんな事をしたんだ」
「お兄ちゃんが近親相姦したからじゃないの~。義理とはいえね」
「なっ」
「自分を振った相手が妹と付き合い始めたら誰だって捻くれるって。大体―――――」
「さ、さくらぁ~~~~ん!」
「義之のお母さんのさくらー! ちょっと待ったぁああーーーーっ!」
「・・・・また正義感の塊のうさぎさん達が来ちゃったよ、もう」
聞きおぼえのある声にゲンナリしながら入口の方を振り向くと、音姫とアイシアの姿が見え頭をガクンと下げるさくら。焦っている声なのにまる
でその様子を感じさせない可愛い女の子声に、はぁとため息をつく。
彼女の記憶の仲では一位、二位を争うほどに正義感を持ち合わせている両者。ますます厄介な状況に陥ってしまったと同時に、場に詰めた緊張感
が薄らいでいくのを感じた。そして何気に自分の中の殺気だった感情も落ち着いていくのが分かる。
義之くんがお兄ちゃんをこの場に寄こした時点でもう半分ぐらい気を削がれたが、今はそれ以下の状態だ。何とも不完全燃焼だが下がった気力を
取り戻すのもかったるい。先程までの自分がどこかに行ったみたいだ。
「あれ? 沢井さんと由夢ちゃんに聞いた話じゃ雪村さん達が先に着いている筈なんだけど・・・」
「ダメですよ義之のお母さんのさくらっ! 人を安易に殺そうとそんな風に考えてはいけません、心が死んでしまいますよっ」
「・・・あー。久しぶりだね、アイシア。ウチの義之くんがお世話になってる様で感謝してるよ」
「あ、お久しぶりです。かえってこちらがお世話に・・・じゃなくて! それ以上はもうやる必要はないですっ、血が出てるじゃないですか」
小さな身体を弾かせて飛びついて来るアイシア。さくらは思わず顔に手を当て天を見上げた。
まるで保育園に来たが如く賑やかになる場に別な意味で頭が痛くなった。これ以上争いを続けるのは無理がありそうだ。
いくらボクでも魔法使い三人を相手取るのは中々にしんどい。負けない自信はあるが、この頭痛が痛くなるのは必至。アイシアの頭をぱしんと叩いた。
「あいた」
「離れなさい。もう白けちゃったよ。完全に戦意喪失」
「ほ、ほんとですかっ?」
「これ以上暴れるとかったるい事になりそうなんでね。やるなら次の機会かな」
「あ、諦めて下さいってばっ」
「息子が受けた借りは母親が返すのが普通でしょ。まぁ、どうなるかな」
しかし義之くんを助ける手立てはっもう見つかっている。自分が制御していた桜の木とあまり変わらないのが幸いした。
傷付いて息を吐いているもう一人のボクを忙しなく労わっているお兄ちゃんと、物珍しさな目でボクの様子を窺っている音姫ちゃん。
あとはこっちを訝っているアイシアと大体の面子は揃っている。この状況でさすがにこの子も暴れないでしょう。弱点であるお兄ちゃんがいるし。
「ほら、傷口見せてみろよ」
「だ、だから別に大丈夫だって」
「見えて貰えばぁ? こういう機会もしかしたら二度は無いかもしれないんだし」
「・・・あんたはいいのか? 怪我してるみたいだから、一応ついでに何か持ってくるけど」
「ボクの傷は心の傷だからねぇ。一生付き合っていくものだから別にいらないなぁ。あと義之くんが居れば何もいらないし」
「一つ聞いていいか?」
「ダメ」
「・・・何でだよ」
「ボクの正体を知っても仕方ないから。ただの芳乃さくらに似た別人って所でいいさ」
「それで納得出来るかよ。全く持って何が何だか分からねーし、それにさっき義之っていう男の母親だとか言って――――」
「二度は言わないよ、朝倉純一くん」
「・・・勝手にしてくれ」
「いつでもボクは自分勝手に動いてるけどね」
まぁ・・・ボクの弱点でもあるんだけどさ。当時のあの姿のままのお兄ちゃんを見ていると、中々気を荒げるのは難しい。
義之くんもいやらしい手を使うもんだ。しっかり色々教え過ぎたかも知れない。人の弱い部分を突くのは常套手段だが、まさかボクに使うなんて。
「とりあえず、一区切りか」
そっとその場を移動し枯れない桜の木の下へ。皆が注目しているが気にしないで意識を集中する。
さて――――ウチの子を呼び戻そうか。魔法の力を木へ通し内面の世界へ・・・そうして義之くんの存在を探り当て、更に力を浸透させていった。