烏巣
曹操軍の方針は定まった。
呉を滅ぼして、自分達の糧を得る。
袁紹軍の猛攻は半数の兵で凌ぎきる。
青州兵約30万と兌州の曹操に元から仕えている兵5万、合わせて35万のうち、20万を呉攻めに、15万を防衛に向ける。
兌州の兵は元は10万いたが、袁紹軍に減らされてしまった
濮陽で一気に三万も減らされたのが痛い。
こんなことだったら、最初から全軍で袁紹・袁術を攻めたほうが良かったのかも、と思うが、袁術は兎も角、袁紹は多分叩くことは出来なかったから、結局はこうなったのだろうと思う曹操である。
攻め込む先の呉は、つい先ごろ仲の袁術が倒されて孫策が皇帝になったところ。
やはり、以前感じたとおり彼女は大陸を統べる気概のある女だった。
でも、あなたが皇帝になったのは時期が悪かった。
国の土台は袁術にがたがたにされていて、そのうえ食料がなくなってしまった私が攻め込む準備を始めている。
孫策、皇帝在位期間が短かったのは運が悪かったと諦めなさい、と孫策に同情する曹操だ。
もう、曹操の中では呉は自分に滅ぼされてしまうことが確定事項となってしまっている。
今、呉にいる兵は約10万。
袁術の兵5万の大部分は孫策に仕える事を良しとせず、農民に戻ってしまったので、呉の兵は、孫堅時代から孫家に仕えていた兵に加えて、孫策の方針に賛同して後から加わった兵。
袁術と孫策では方針が大きくことなるから、孫策に鞍替えしないと言うのは分かる気がする。
それでも10万とはよく集めたものだ。
それに対し、攻め込む曹操は20万。
篭城されたら攻め手が不利ではあるが、袁紹軍のアイデアの衝車や雲梯車、新型弓(複合弓)、諸葛亮の考えた霹靂車や元戎を用いれば、同数の兵でも攻めきれるだろうと読んでいる。
下丕でも、曹操軍が新型の兵器を用いて、10倍の敵を防いでいたことから見ても、新兵器の威力は伊達ではない。
濮陽を陥落させた長距離射程の弩は、現物を見たこともなく、これだけはまだ曹操軍で真似できていない。
慢心は禁物だが、着実に事を運べば問題なく落とせると判断している。
曹操軍、新型兵器の組立など、呉侵攻の準備を着々と進めている。
そんな風に準備を進めている曹操を訪ねる者がある。
「華琳、会いたかったわ」
「美杏、美杏じゃないの?!どうしてここに?」
臣下がいるというのに、抱きあってキスを始める曹操と許攸。
それを見て憤慨しているのは荀彧と夏侯惇。
だが、曹操の様子から二人の関係はただならぬもののようで、とても荀彧や夏侯惇が口出しできる雰囲気にない。
仕方なく、許攸を睨みつけるだけで我慢する二人である。
「それで、どうしてここに来たの?」
再会の長いキスも終わり、再度同じ質問をする曹操だ。
「華琳が食料も無いのに、一人で頑張っていると思うと、もういてもたってもいられなくて、袁紹様のところを飛び出して華琳の応援に来たの」
「ありがとう、美杏。
辛いときに心の支えになってくれるあなたは真の友だわ。
もう、一人でもやっていけると思うけど、美杏がいてくれたほうが私も心強いわ」
「ええ、これからはずっと華琳を助けるわ」
そして、その晩、曹操は久しぶりに燃え上がった。
体の奥底から満たされたのだった。
許攸は、参謀としては荀彧や程昱に遅れをとるが、やはり長年の付き合いである、傍にいてくれるだけで嬉しいのだ。
さて、少し経って。
「桂花」
「はい」
「兵を千名ほど用意なさい」
「は?それは何故ですか?」
「烏巣を攻めるわ」
「烏巣をですか?それは何故でしょうか?」
「あそこには袁紹軍の兵糧が山のようにあるらしいの。
それを奪うわ。
戦略的な拠点でもないから守備兵も数十しかいないらしいわ。
すぐに行って烏巣を落とすことにしたの」
「お、お待ちください。
それは、先日の許攸とかいう女から得た情報でしょうか?」
「そうよ」
「そんなつい先日まで袁紹のところにいた者の発言、信じるわけにはいきません」
「私もそう思います。
罠に違いありません」
程昱も、荀彧に賛同している。
「この情報には間違いはないわ。
私の命令よ、早く支度なさい!!」
曹操は許攸の齎した情報が真実であると言う確信があった。
だって、閨で喘いでいる最中に聞きだした情報なのだから、嘘が混じるはずがない、という曹操の確信の根拠である。
真実だと思う理由が理由なので、荀彧や程昱に詳細を説明することは出来ないが、過去の経験からそれが真実だと分かる。
荀彧も程昱もしぶしぶ曹操の言葉に従うしかないのである。
人数は少ないが、陣容は夏侯惇、夏侯淵を始め、一線級の将が揃えられている。
関羽も一緒だ。
関羽は、実は密かに許攸に感謝をしている。
だって、曹操が関羽を求めることがなくなるから。
許攸が来てから、一度も曹操に呼ばれていない。
さて、そんな一行が烏巣に向かってみると……
城壁の上では見張りの兵らしい兵が二人、向かい合って座って、下の方を見ている。
時々、手を動かしている。
将棋でもしているのだろうか?
見張りだと言うのに随分と緊張感がない兵たちである。
「袁紹軍も、全員が緊張感に溢れているわけでもないのね。
秋蘭、あの兵の槍を弓で射なさい」
「はっ」
夏侯淵の放った矢は、見張り兵の槍に突き刺さり、見張り兵の手から零れ落ちる。
ようやく、曹操らに気がついた見張り兵であった。
「命まではとろうとは思わないわ。
速やかに城門を開けて、この曹操に降伏なさい!!」
曹操の声に、守備兵は慌てて城壁から降りていき、城門を開ける。
烏巣を守っていたと思われる数十名の守備兵は武器を捨て、土下座して曹操に命乞いをしている。
「冀州にでもとっとと戻りなさい。
今すぐここを立ち去れば命は助けるわ」
という曹操の言葉に、守備兵たちは大急ぎで烏巣を逃げ出したのである。
さて、曹操軍、烏巣に入り中の様子を確認する。
烏巣の中は、以前曹操が支配していた様子とは大きく異なり、もう街全体が倉庫の様相を呈していた。
曹操が、その一つの蔵に入ってみると、床から天井高くまで堆く(うずたかく)麻の袋が詰まれている。
兵に命じて、その中身を確認してみると、びっしり詰まった小麦。
いくつかの蔵を見てみたが、どれも山のような小麦で埋め尽くされていた。
しかも、実が自分の領地のものよりしっかりしている感じがする。
「すごいわ……」
蝗に穀物を壊滅させられたのと、同じくらいの強さの衝撃が曹操を襲う。
前回は絶望100%で。
今回は希望50%、絶望50%で。
希望50%はもちろん食料を得たことに対する喜び。
絶望50%は袁紹はこれだけの食料を兵糧専用に供出することが可能だと言うことを認識し、国力の違いを見せ付けられたことによる絶望。
「でしょ?袁紹軍、烏巣なんか襲われるはずがないと思って、まるで注意を払っていなかったのよ。
だから、私が華琳のところにきた手土産にこれをあげるわ。
千万石はあるはずよ。
これで、食料に困ることはないでしょう。
呉を攻めても、どうせあそこも食料が潤沢にあるわけじゃないから、足らなかったと思うわ。
有効に使ってね」
1石=約26.7kg (後漢時代)
千万石=26.7万t
一人一月10kg消費するとして、200万人12ヶ月で必要な量は24万t。
何と、曹操領全員が1年食って、まだ余る量である!
「ありがとう、美杏。
本当に助かったわ。
呉に攻め込むにも、兵糧が十分にあったほうが都合がいいから」
「でしょ?それじゃあ、早速袁紹軍が烏巣を奪取しに来る前に、兵糧を運び出してね。
でも、その前に伝えておくことと、やってもらいたいことがあるの」
「え?何なの?それは」
曹操、ここにきて始めて怪訝な表情を許攸に向ける。
「まず、陛下のお言葉を伝えるわ。
『朕の臣下に戻ってはくれないとの事ですが、やはり同じ漢民族が近々飢えるのが分かっているのに、それを放っておくわけには参りません。
袁紹に無理を言って食料を供出してもらいました。
役に立ててください』
だそうよ」
曹操、どう反応したものかわからず、言葉を失っている。
「それから、麗羽様からの伝言も伝えるわ」
「麗羽の?」
「ん゛、ん゛~。ちょっと難しいけど……
………
『オーッホッホッホ。
華琳も50万の袁紹軍をたった千人で撃退するとは大したものですわね。
戦利品として食料を提供することにいたしますわ』
ですって」
「……どういう意味よ?
50万の袁紹軍って何よ?」
そこに、曹操軍の兵が走ってやってくる。
「申し上げます!
袁紹軍と見られる兵が見渡す限りの土地を埋め尽くして、烏巣を目指して進軍しております!」
許攸はそれを聞いてにっこり笑い、
「というわけだから、この軍を撃退して頂戴。
まあ、軍と言っても茶番で来ている兵、というより大部分が農民が観光気分で来ているだけだから、華琳が倒されることはないけど、あまり時間をかけるといつまでも烏巣に留まって、食料を減らしていってしまうわよ。
だから、速やかにこの群集をどうにかしてね。
ああ、兵士じゃないから殺さないようにしてね。
みんな華琳のために食料を運んでくれたのよ。
みんなね、河水を見るのも越すのも初めてなんですって。
荷物を運んでくれたら河水を越させてあげるっていったら、みんな協力してくれたの。
喜んでたわ。
観光に来て殺されたら不憫だしね。
船を準備するのが大変だったのよ。
ああ、そうそう、元は黄巾党の人間が多いから、多少は武芸の心得もあるの。
だから、死人が出たら華琳たちに襲い掛かることになっているのよ。
それは注意してね。
いくらなんでも、この人数では対抗できないでしょ?」
曹操、許攸を睨みつけながら、
「騙したのね?」
と、相手を糾弾する。
「まさか。陛下のお言葉も聞いたでしょ?
食料を無償であげるというのは本当。
でも、ただでもらうのは華琳の面目が許さないでしょ?
だから、華琳が袁紹軍を撃退したと言う状況を作ってあげることにしたの」
「騙したのでなければ馬鹿にしているのね!」
「華琳、あなたがそう好き勝手言っているのは自由だけど、これだけは聞いて。
私があなたのことを大切に思っているのは本当。
そして、陛下が民を大切に思っているのも本当。
だから、今は陛下と私の心を汲んで、民を助けて頂戴。
それから後に、華琳がもう一度麗羽様や陛下に楯突くのは勝手だけど、今はそれをすべき時でないということはあなたが一番よく知っているのでしょ?
私達の純粋な厚意を無下にしないで。
まずは今を乗り切って。
そしてまた、覇気に満ちた華琳と愛し合う日が来るのを楽しみにしているわ」
許攸はそれだけ言って堂々と城門から去り、群集に溶け込んでいった。
曹操はその後姿を何時までも憎らしそうに睨みつけていた。
そして、その目には悔しさでうっすらと涙が滲んでいるのであった。
「桂花」
「はい、華琳様」
「これほど馬鹿にされたことは初めて……いえ2度目よ」
一度目は一刀の件か?
「はい、私もです」
「できることなら、この食料を全部焼き払ってしまいたいわよ」
「はい。この借りは何倍にもして袁紹に叩き返しましょう。
袁紹も自分の行いが災厄を齎したと知るでしょう」
「ええ、そうね」
答える荀彧や程昱の目にも悔し涙が滲んでいるのであった。
あとがき
許攸と言えば、袁紹軍の兵糧のありかをリークしたことで有名になった人らしいので、そういう行為をするように設定しました。