近衛木乃香の誘拐からすでに一時間と少し。
ようやく、ホテルが見えるあたりまでたどり着いた千雨たちは、やれやれと疲れのこもったため息を吐いた。
幕話
「じゃあ、ネギ先生。瀬流彦先生と話しておいてください。わたしはさよのところいって、明日のことを伝えておきますので」
「はい、わかりました」
ホテルの手前で千雨がいった。
頷く先生に手をひらひらと振り返しながら、自動ドアをくぐる。
刹那の張った式神返しの結界に、千雨がいまさらながらにこっそりと感心していた。
いまだに正常に機能しているようだ。
そしてホテルのロビーに足を踏み入れ、一歩目で千雨はその足を止めていた。
彼女の目の前に、なぜかロビーに正座しているクラスメイトが目に入る。
「あー千雨ちゃんっ!」
「……なにやってんだ、明石」
「それはこっちの台詞だよー、どこ行ってたの!?」
ぷんぷんと怒っている明石に賛同して、鳴滝その他の面々が声を上げる。
全員3-Aの生徒だった。ぱっと見でクラスの4分の1程度。
「……えーっと、いいんちょ?」
「ええ、実は先生のところへお邪魔した早乙女さんたちが、その……」
「ネギくんと千雨ちゃんがいなくなってたからさー、千雨ちゃんとネギくん探して、質問攻めにしてあそぼうってことになってね、なんていうの、ほらまあ、先生捜索大作戦みたいな?」
「……正座は?」
引きつりながら千雨が言葉を続ける。
「なんか、見回りが厳しくてね。各班からメンバー持ち寄って、探索してたら、新田に見つかっちゃったんだよ。朝まで正座とかいわれてさー、信じらんないよね」
「……お前らのほうが信じられねえよ」
「もーそんなに怒らないでよ」
一周回って怒る気力さえ失うというものだ。
「まあ頑張ってくれ」
あきれながらため息を一つ吐いた。
「ちょと、千雨ちゃんっ。ネギ先生とデートしてたくせに裏切る気ッ!?」
「いやー、あはは、ちうちゃんゴメンねー。デートしてたの?」
「友人同行させてデートするほどボケてねえよ」
朝倉和美に誤解されたままだとまずそうなので、千雨はくいとあごでネギたちを示して見せた。
千雨の後ろから、明日菜たちが顔を出す。
「へっ?」
裕奈たちが驚いたような声を上げた。
「うわー、なにやってんのあんたら?」
「ひゃーみんな大変そうやなあ。なにがあったん?」
明日菜と木乃香が正座するいつもどおりのクラスメイトに苦笑を浮かべながら声をかける。
「それはこっちの台詞ですわっ! 道理で見かけないと思いましたっ! アスナさんたちまで、なにしていらっしゃったのです!」
「えっ!? えーっと」
「京都は近衛の実家があるんだよ。それですこし、あーまあいろいろとあって、連絡を取りに行っていたみたいな感じだ。先生は学園長から近衛の父親宛に手紙を預かってて、桜咲は近衛の幼馴染だから、同行してもらった。……わたしと神楽坂は、その付き添い……みたいな?」
嘘が苦手な明日菜が口ごもった横で、かわりに千雨が言い訳を述べる。
親書という単語は出さなかったが、ぎりぎりまで本当のことを千雨は話した。
嘘をつきたくなかったわけではなく、嘘だとばれない様にである。千雨の性根は意外とうそつきだ。
「へー、なにそれ! 木乃香の実家? こっちにあるの?」
「桜咲さんって木乃香の幼馴染だったのー?」
「へえ、木乃香さん、本当なんですの?」
自分の台詞ながらうそ臭いと感じていた千雨だったが、すんなりと受け入れられたようで、正座しているクラスメイトから驚きの声をあがる。
「うん、まあちょい違うけど、そんな感じやね。お爺ちゃんから、父様宛てにネギくんが手紙あずかっとるらしいんよ」
「手紙ってなんで? このかのお父さんってなにしてる人なの?」
「んー、こっちのほうの大きな組合の会長さんみたいな感じらしいなあ。手紙はその関係らしいわ」
さすがに近衛の台詞を疑うことはないのか、皆がその言葉に頷いた。
口裏を合わせておいた甲斐があったというものだ。ここまで大々的に聞かれることは予想していなかったが、いい機会だったのだろう。
「木乃香の実家かー、おっきいの、やっぱり?」
「お邪魔するっていつ行くのー?」
「なにそれー。ボクも行きたいー」
「てか夜にいくことないじゃん、わたしたちすごいとばっちりだよー」
「とばっちりもなにも、自業自得だろ。わたしらは瀬流彦先生にちゃんと許可を取ってるんだよ。そこで朝まで反省してろ。わたしらはさっさと退散させてもらうぞ」
手をひらひらと振って千雨が逃げ出した。
猫は一応かぶっているが、いまは遠慮する意味はない。
後ろからは文句が聞こえてくるが千雨は無視した。
「あの、千雨さん、いいんですか?」
「せいぜいあと2,30分だよ。平気だろ」
千雨を追いかけながらネギが問いかけた。
千雨があきれたように答える。
本当に朝まで正座させることはないだろう。あと数十分もして、皆が反省しているとわかれば、新田も開放するはずだ。
つまりここに長くいると自分たちまで巻き込まれる。
早々に見捨てて退散するのが最善なのだ。
◆
さて、その後、木乃香の件やパクティオー関係、それに明日以降の行動などを瀬流彦と話すため、ネギたちは教員用の部屋に向かったが、千雨はネギたちに瀬流彦との交渉を任せ班室に戻ってきていた。
千雨も千雨で茶々丸やさよに話を通しておかなくてはいけない。
数時間前のザマを見る限り、茶々丸は瀬流彦先生との相談ごとには同席しないだろう。
玄関で正座をしていた中にはさよも茶々丸もザジもいなかった。
もちろん部屋にいるのだろう。
そう考えながらガチャリと千雨が扉を開けて、部屋の中に足を踏み入れ――――
「――――というわけで、それはチョット苦めのダージリンの味でした。生前のことはほとんど覚えていませんが……ふふふ、やっぱりこういうのはロマンですから。まあなかなかにそれらしいものだったと思います」
「はあ、なるほど」
「……続きは?」
室内では、さよと茶々丸とザジが盛り上がっていた。
こくこくと頷いている茶々丸と、続きを促すザジ・レイニーディ。
この二人はこんなに社交的だったのだろうか?
とても珍しい光景に千雨が止まった。
「あっ、千雨さん。ずいぶん遅かったですね。刹那さんたちはどうしたんですか?」
「おかえりですか、千雨さん。……同行せず申し訳ありませんでした」
「おかえり、千雨」
ドアが開く音に視線を向けた三人が会話を中断して、千雨に向かって声を上げる。
どうやらさよは今の今まで、千雨たちが瀬流彦先生と話をしていたと思っていたようだ。
茶々丸は茶々丸で実は木乃香のことに気づいていたのだろうかと首を傾げてしまうような台詞だ。
「全員部屋にいたのか。絡繰とザジはわからないでもないけど、さよも騒いでなかったのな」
「騒ぐってなんですか? ああ、そういえば外がなんか騒がしかったみたいですけど」
「先生を探して騒いでたらしいぞ。その挙句新田に見つかって、今はロビーで反省させられてる」
「ああ、この部屋にも千雨さんを探して美砂さんたちがいらっしゃいましたよ。居ないって答えたらすぐに出て行ってしまいましたけど」
「玄関で正座してたよ。それでだな、さよ。実はさっきまでさ――――」
どうやら、本格的に話し込んでいたらしいさよに、ため息をひとつ吐いて、千雨は木乃香の誘拐劇の顛末を説明することにした。
近衛木乃香が誘拐されかけ、それがさよが知る前に、全て解決してしまったなんていうことを。
◆
「なんで呼んでくれなかったんですかっ!」
「いや、本当に悪い」
ぺこぺこと千雨が頭を下げる。
「一声かけてくれてもいいじゃないですかっ!」
「いや、ホントわざとじゃなくてな」
「もう、気づいたら全部終わってるなんて、エヴァンジェリンさんのとき同じですよ。すぐ上ですよ。ほんの数分ですよ。というか声かけてくださいよ。電話でもいいじゃないですか。また帰ってきて部屋で話をきくだなんて!」
もっともすぎるのでなんともいえない。
「なんでも埋め合わせはするから」
「当たり前ですっ! もう、ほんとにあのときにパスを結んでおいてもらえばよかったです。千雨さんからキスしてくれるから満足しちゃいましたけど……」
「あ、あのな、さよ。そういうのはあんまり大声で言うことじゃないからな。誤解されると困るだろ……」
「わたしは困りません!」
ぷくーと膨れるさよの暴言に千雨が引きつる。
ビクビクとしながら残りの班員二人を見る千雨は、その二人がまったく驚いていないことに、逆に顔を引きつらせていた。
ちなみに今いるのはザジと茶々丸だけなので、さよも遠慮なく魔法について口にしている。
「あの日に、わたしの体を千雨さんの物だって言ったのは、千雨さんじゃないですかっ!」
「ありゃ、お前の体に責任を持つって意味だからな……。それとほんとに声が大きいからさ。ちょっと落ち着いてくれ。いやマジで……」
「落ち着いてます!」
「いや、そんな自信満々で言われても困るんだけど、たぶんお前は落ち着いてないぞ。ほら、お茶入れたから……」
ヘコヘコと頭を下げながら、千雨がお茶を差し出した。
さよが礼を言いながら受け取り、一気にあおる。
そんな二人を、すごい会話をしているなあ、と平然とした顔で眺めていた茶々丸が、ザジにクイと袖を引かれた。
首をかしげるザジに茶々丸がああ、と頷いて口を開く。
「あれはですね、さよさんの魂をヒトガタに入れたときに千雨さんが言ったそうです。一生面倒を見るとか何とか」
「まて絡繰。あのな、ザジ。アレはもともと人間を作る技術だったし、さよの魂を入れて不具合が起こる可能性を考えていたからだ。体がわたしの作ったものって意味だし、別におかしな意味じゃないぞ」
茶々丸がザジにおかしなことを吹き込んでいるのに気づいた千雨が口を挟んだ。
放っておくとなにを吹聴されるか分からない。
「そうなのですか。人間を作るというのは? それはわたしも初耳なのですが」
「子供を生んだりするのと一緒だ。同一人物を作るのは自然に反する奥義だが、人を作るのは魔術どころか当たり前の人の業だからな」
「ハア、子供ですか? さよさんが? 千雨さんの?」
「……いや、なんか間違ったこと考えてないか、絡繰」
茶々丸が興味深そうに言葉を繋げる。
千雨としてはさっさと会話を打ち切りたいのだが、さよやザジまで続きを促す視線を向けていた。
「ちっ、あのな、さよの体を生前と完全に同じものにするのは不可能だったんだ。責任云々の話は、最善は尽くしたが何があるかわからんから、その責任を取るって意味だぞ。さよに何か起こったらその責任がわたしのものって意味であって、さよの体をわたしのものとして扱うってことじゃない」
「そんなの気にしなくてもいいんですけど。……ちなみに子供ってわたしも生めるんですか?」
「説明してなかったか? さよの体は子供を生むことは出来ない。本当に最高峰の人形遣いだったら出来たのかもしれないけど、わたしの腕の問題でな…………悪い」
少しだけ口にしづらそうに千雨が言った。
さよの体はやはり人ではない。話に聞くルビーの世界の人形師の頂点とやらは、本当の意味で“人”を作製できたらしいが、千雨が作ったのはあくまで“器”だ。
「かまいませんよ」
「……でもだな」
「大丈夫です。生き返らせてもらっただけで十分すぎるんですから」
さよは特に気にした様子も見せずにそういった。
まだ実感がわいていないのか、それとも本当に達観した上で言っているのか。
千雨としては、いつか好きな男でも出来たら、きっと達観してもいられなくなるだろうと推測しているが、まあその辺はさよ次第だ。
千雨は意外とその辺にはこだわりがあるのだが、別にさよから話題にしない限り口には出さない。
ただ、千雨はいまもある程度の修練を積んでいるし、この件に関してはもしさよが望めば無条件で力になってやろうと思っている。
そんな千雨を見ながらさよが微笑む。
「それに、千雨さんとの間にはもともと子供は授かれませんし。先生と千雨さんのお子さんが出来たら、その子を抱かせてくれればわたしはそれで十分ですよ」
「ほら、お茶の御代わりいれたからさ、それ飲んでいつものさよに戻ってくれ」
聞かなかったことにして千雨がお茶を差し出した。
「はいはい。もー、千雨さんは照れ屋なんですから」
「……あのさ、いくらなんでも中学生の会話じゃないよな」
「まあ60年前でもちょっと聞きませんでしたね」
「源氏物語までさかのぼらないと無理だろ、んなもん……」
「それは遡ればありえたってことですけど、まあ気をつけたほうがいいでしょうね」
変なところだけ魔術師の思考を受け継いでいるさよに引きつりながら千雨が口をつぐむ。
千雨としては流すしかない会話だ。
魔術師のわけわからなさを考えればありでも、この世界の魔法では流石に素直には論じられない話題である。
というわけで、千雨は一口お茶をすすり、話を先ほどの近衛の件に戻すことにした。
◆
「じゃあ、いま瀬流彦先生と皆さんがお話をしてるんですね?」
「まあな。さすがに誘拐されかけたわけだし、学園長に連絡してるんだろ」
「そうなんですか……はあ、また仲間はずれにされた気分です」
「まっ、そうはいってもな。わたしも足手まといになっちまったよ。神楽坂はそこそこいけてたが、桜咲にはほんとに助けられた。本業はやっぱりすごい」
肩を落とすさよに千雨が笑う。
正直なところ戦力的に見れば、さよが参加してもたいして役には立たなかっただろう。
魔術回路が存在するとはいえ、彼女の技術はまだまだ未熟。リラクゼーションミュージックとライター代わりが精々なのだ。
といっても、厄介ごとの話は聞いていたわけで、一応さよにだって道具はある。
「わたしもちゃんとこれを持ち歩いているんですよ」
千雨の視線を受けて、さよは懐から宝石を取り出した。
ルビーが調達し千雨が加工した、魔力のこもる宝石である。
分類は千雨が木乃香に渡したものにちかいが、これはそれとは比べ物にならない魔力がこもっている。
本当の意味で、握って願えば願いが叶う祈祷型の魔法具だ。
千雨の魔術と当然のことながら相性のいいさよには特に扱いやすい。
これを使えば、さよにもルビー級の魔術使えるのだ。上手く使えば、それなりに戦闘に介入することはできただろう。
簡易型の令呪のようなものである。
数もちょうど三つだった。
「それは、万が一のために渡したんであって、騒動を期待されても困るんだけどな」
「うー……」
さよが膨れる。
そういわれると文句を言いにくいのだ。
頼られたいとは感じていたし、巻き込まれたいとも思っていた。だけどさすがに足手まといになることが確定しているのに、首を突っ込むほどバカではない。
そんな二人を無言で茶々丸とザジが眺めている。
「ま、まあ、じゃあ、パスは結んどくか? 回路同士のパスならさよにも有益だろうし、たしかに念話は出来たほうがいいだろ」
膨れているさよに恐る恐る千雨が切り出した。
「う……そ、それは魅力的ですけど、いいんですか?」
「まあ、一応魔術だしな。ほら、お前を置いてった埋め合わせもするって言ったし」
機嫌が直りそうな気配を感じて、千雨が畳み掛ける。
さよとパスを結ぶことに関しては特に躊躇する理由もないのだ。
「埋め合わせですか」
しかし、千雨の言葉にさよは即答しなかった。
喜ぶかと思われたさよが意外に渋る。
千雨はさよへの言い訳でテンパっていて気づいていないが、茶々丸とザジが不思議そうな顔をした。
彼女たちはつい先ほどまでさよから千雨との話を聞いていたのだ。
「さよ?」
「う……ザジさん。いえ、いやなわけではないんです。パスですか……パスを結ぶのはべつにいいんですけど……キスを埋め合わせでするというのは……。千雨さんもあんまりよくないんじゃありませんか? 埋め合わせでキスするのもバカらしいですし、そうそう女同士でキスばっかりしているのはあんまり健全じゃありません」
「いや、埋め合わせでキスするって言ってるわけじゃないんだけど……」
なるほどと、ザジと茶々丸が頷き、千雨が引きつった顔をした。
なんでこの娘は一応魔術師の癖にパス=キスと考えているのだろう。
先ほどまでの近衛たちもそうだが、俗ボケしすぎだろ。
「べつにキスを無理やりしたいわけでもありませんし、わたしは一度で十分ですよ。というわけで、契約はキスじゃなくて、きちんと儀式で結びましょう」
「あ、ああ。やっぱりパスは結ぶのか」
笑顔のままさよがぽんと手を叩く。
いままでの問答はなんだったんだよ、と千雨がため息を吐いた。
突っ込み役がいないのが悔やまれるところだ。
「というわけで、埋め合わせは別のものにしてほしいです」
「そ、そうか。意外とちゃっかりしてんのな。まあお前がいいなら、それでいいけど。じゃあ他に何かあるのか? わたしにできることならなんでもいいぞ。宝石でもなんでも。修行にでも付き合おうか?」
さよが結構理性的だったので、調子に乗った千雨が気前のいいことを口にする。
そんな千雨の言葉を聞いてさよがすこし黙った。
「うーん、そうですね。以前なら発動用の宝石がほしかったところですけど、この旅行に行くときにもう頂いてますし、今度こういうことがあったらきちんと呼んでくだされば、それで十分だと………………あ、いや。そういえば……」
何か思いついたらしくさよが言葉を濁す。
「なにかあるのか?」
「えっ!? そ、その。いいです。やっぱり。あんまりこういう風に言うべきことでもないので」
「あのなあ、今遠慮する意味あることなのか? さっきの話みたいなのじゃなきゃ、言っておけよ。わたしにできることならなんでもいいぞ」
あわてたように手を横に振るさよに千雨が呆れ顔で言った。
千雨としては、また変な方向に暴走していないのなら十分だと、先を促した。
キスしたがっているわけでもなさそうなので、一応は安心して千雨が問いかける。
どのみち千雨の中では、この誘拐事件はもう半分以上学園側に任せる気でいるのだ。次もなにも、さよを呼ぶ機会があるとは考えていなかった。
さよが仲間はずれにされたことに寂しがったというのなら、それを埋め合わせる対価はいまのうちに払っておきたい。
借りを後々に残すのは趣味ではない。
「うー、でもわたしの我が侭でそんな……」
「キスは自重しておいて、その台詞はどうなんだ? べつにいいって」
「それはまあ……さすがにキスを強要したらそれはもう犯罪ですから」
「それがわかってりゃあ十分だろ。手間の一つや二つかまわないよ」
「うー、本当ですか?」
「本当だって」
今日の昼に同じような問答をした挙句、頬をいやというほどつねられたさよがおびえていた。
そんなさよに千雨がにこりと笑顔を向ける。
こいつはちょっとおびえすぎである。
「その、でも……」
「遠慮すんなって。今回はわたしが悪かったんだ。怒ったりしないよ」
笑顔の千雨にさよの顔が赤くなった。
いつもこれで騙されるのだ。なんて女たらしな人だろう。
俯きながらさよが唸る。
「じゃあ、あの……ちょっと言いづらいんですけど」
「ああ、なんでもいっていいぞ」
どうにも躊躇するさよに千雨が息を吐きながら頷いた。
大胆なときはぶっとぶくせに、こいつは変なところで臆病すぎる。
以前の言葉を忘れているようだ。千雨はさよと一緒にいるし、こいつのわがままを許容する。
正直なところ、千雨はここでさよにキスをしたいといわれたって、文句の一つを口にするくらいで了解したはずなのだ。
以前の言葉に嘘はない。パスを結びたかっていたさよに共感したのは本当だ。
千雨はさよを許容する。
千雨は相坂さよからはなれない。
長谷川千雨は、さよの好意と依存に責任を持つと誓っている。
それは一度契約として結ばれた事柄だ。
だから千雨は、どうにも渋るさよに笑いながら続きを促す。
言葉を濁すさよに、言ってしまえと言葉を向ける。
我が侭を溜め込む癖のある少女に、遠慮するなと笑いかける。
なにが原因なのか、口を濁し続けるさよ。
そんなさよに、これまで同じような状況で墓穴を掘り続けている千雨が、遠慮するなと水を向ける。
そう、これまで同じような状況で、さよ相手に同じような醜態をさらし続けた長谷川千雨。
どうにもまったく反省の色のないその少女。
意外と抜けてる魔術師見習いのその少女。
そんな彼女の言葉に相坂さよが顔を上げる。
じゃあ、と相坂が口を開き、千雨を見た。
にっこりと千雨が微笑み返す。
なんでも言えと千雨が言う。
なんでも言えといわれたから、さよは一応言ってみようかと口を開く。
長谷川千雨は相坂さよの願いを許容する。
逃げるなんてあるはずない。
相坂さよの願いに、千雨が無条件で背を向けるなんてことはありえない。
新しい宝石だろうが、特訓だろうが、たとえどんな無理難題だろうと自分が叶えられることなら責任を持つと決めている。
だから、どんな望みや悩みだろうと、さよから述べられるなら、千雨は決して逃げずに向き合うと――――
「じゃあおっぱいを揉ませてください」
千雨はさっさと逃げることにした。
◆
「あっ、逃げたっ! ザジさん、茶々丸さんっ!」
すかさずさよの指示が飛ぶ。
逃げる千雨が二歩と歩かずに、ザジ・レイニーディと絡繰茶々丸が動いていた。
かすむような動きでザジの手が動き、飛んだ枕が千雨の足を絡めとる。
「うぎゃっ!? て、テメエ、ピエロ! いつのまにさよとつるんでやがったっ!」
たたらをふんだ千雨の動きが一瞬止まる。
足を取られた隙に、今度は茶々丸に捕えられた。
「あの、申し訳ありません、千雨さん」
「ロボ子もかよ! って、おまえらふざけんなよ。いや、ちょっとっ! っ! ……!? ぐえっ! テメエら、あとで覚えていやがれっ!」
暴れる千雨の体がふわりと浮いた。目を丸くしたまま千雨が布団の上に転がされる。
こんなところですごさを見せ付けるな、と千雨が騒いだ。
力をこめられているわけでもないようなのに、茶々丸に手を添えられただけの体が動かない。
こいつらの体術も大概常軌を逸している。
木乃香救出の際には働かなかったくせに、こんなときにだけ人外っぷりを発揮されてはたまったものではない。
「言えっていうから言ったんじゃないですかっ! 逃げないでくださいっ!」
「予想できねえだろ! なんでそうなるんだよ! 無理やりは駄目だってお前が言ったんだろうがっ!」
「だからことわったんじゃないですかっ! というか、なんでわたしが怒られてるんですかっ!」
「いや、待てって! だからってお前が怒るのもおかしいだろっ!」
予想できるはずがない。
茶々丸からバトンタッチしたさよに馬乗りにされた千雨がばたばたと暴れていた。
「だから一応遠慮してたんじゃないですか! でもいったからには責任をとってもらいますよ!」
「ちょ、ちょっと待てって!?」
叫ぶさよに千雨が引きつる。
ムウとうなるさよと千雨が見詰め合う。
「もう、さっさと観念してください!」
「キスは遠慮してたじゃんっ!?」
「キスは繋がりを確認するものですが、おっぱいを揉むのはわたしが楽しむためだからいいんですっ!」
「おまっ!?」
すごいことぶっちゃけたぞ、この娘。
ものすごい悟りを開いているらしいさよの姿に千雨があせる。
助けを求めるようにおろおろと視線を揺らしていた。
「ぐっ!? い、いや、でも、そういうのをいたずらには、ほら、まずいだろ!」
「…………くっ!」
赤くなりながら、もじもじと千雨がさよをとめる。
さすがにそんな千雨の姿にさよが悔しそうな声を出して動きを止めた。
さよからすれば黙るに決まっている。軽い軽い茶目っ気にそこまで本気で照れられたら、こちらはどう対応すればいいというのか。
ここから強行できるものがいたら、その人物は警察に行くべきだ。
感触を楽しんで、千雨が恥ずかしがる姿を見れれば自分は十分なのだから、素直に胸の一つくらい揉ませてくれればいいものを。
あんだけ人を誘ったくせに、いざ攻めてみればこうして本気で照れてくるのだから、性質が悪い。
くそう。問答無用で、無理やり揉んでやろうか、こんにゃろう。
「? あ、あの、さよ?」
すわ、ここからまたおかしな展開が起こるのかと、千雨が身構えているが、さよは特になにも言うわけでもなく黙ったままだ。
千雨もさよの雰囲気に口を挟めない。
そのまま少し黙って、まずさよが動いた。
「くっ。……もーっ! あのですね、千雨さん! 千雨さんも大概迂闊なんです!」
「あ? ああ。それはなんというか……」
「本当に千雨さんは安請け合いをしすぎですよ! 人を誑かしてばっかりなんですから! そんなことばっかりやってると地獄いきですよ! あんまりよくありません、もう少し自覚を持ってください!」
「えっ……あっ、と……ごめんなさい……」
なんでわたしが怒られているんだろう。
大きなため息と、騒動を払拭するそんな気配。
千雨があまりに意外なそれに目を丸くする。
なんかしらんが助かったらしい。
あまりにあっさりとさよが矛を収めていた。
「千雨さんはちょっと安請け合いをしすぎです」
さよが千雨の体を抑えていた手を放した。
ぽかんとする千雨の前で、当たり前のようにさよが肩をすくめる。
「はあ、まあそうですよね。いえ、わたしもわかっていたんです。ちょっと千雨さんをからかってみただけですよ」
「さ、さよ?」
「ごめんなさい、千雨さん。おっぱいを揉むのはちょっと興味があっただけで、さすがに嫌がってる千雨さんに無理やりはしませんよ」
なんなんだこのシュールな会話は。わたしはどう返事をすればいいのだろうか。
そんな千雨の前で、エヘヘとさよが笑う。
その言葉に嘘はないのだろう。別段悲しみを隠しているというわけでもない。千雨にだってそれはわかる。
だがその話の運び方が問題だ。
さよの姿に千雨が逆に引きつる。
千雨は無理やりなら反発できるが、相手に引かれるとどうしても世話を焼いてしまうタイプの人間なのだ。
最近まではルビーとエヴァンジェリンくらいしか気づいていなかった千雨の長所で弱点である。
高速で演算式を回せば、胸を揉ませるのだって、貞操観念が邪魔をしただけで、別段本当に無理難題というわけでもない。
考えにくいがさよにとっては胸を揉むことに何か深い意味があったのかもしれないし、何か事情があったのかもしれない。
魔法を覚えたいとか聖杯を手に入れたいとかそういうことを頼まれるよりはよほど楽だ。
千雨がうなる。
いつもながらなんとまあ非道なやつだ。
「ぐっ……い、いや。別に、お前がいやだって言ってるわけじゃ……じゃあ……ちょっとだけなら……」
きらりとさよの瞳が光り、ザジと茶々丸からあきれたような気配がもれる。
茶々丸が旅行前日に己の主人とその友人から言われた言葉を思い出した。
さよと千雨の目付けになれ、と。
ですがマスター、わたしがいても正直あんまり抑止力にはならないようですよ。
千雨はさよの行動に文句を言っていたようだが、これは自業自得ではないだろうか?
なるほど、さよから地獄行きだといわれるわけだ。
「ほんとですかっ! じゃあ上を脱いでください!」
「直かよっ!」
墓穴を掘ったことに気づいた千雨が再度逃げようとして、さよと布団の上でもみあいはじめる。
よくある修学旅行の一コマのように見えなくもない。
それを見ながらザジと茶々丸は先ほどまで交わしていたさよとの会話を思い出す。
さよは千雨に弱く、千雨もさよに弱い。そして千雨はさよに強く、さよも千雨に強い。
なるほど、これがこの二人の関係らしい。
ザジと茶々丸がお互いに視線を合わせ、笑い合う。その非常に珍しい光景を残念ながら千雨が目にすることは出来なかった。
だってそんな余裕がなかったからだ。
この後、この騒動は、瀬流彦との話し合いの顛末を伝えに来た木乃香たちが部屋を訪れるまで続けられたわけだが
その辺の話は割愛しよう。千雨のためにも。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
悪いのは8:2くらいでたぶん千雨。
さよはあやかに対する千鶴さん的な無敵ポジを限定的に発揮できます。
ちなみに、このあと血を使った儀式によりさよと千雨がパスを結ぶ伏線的に一番重要な場面と、ネギたちが学園長との相談結果を話しに来るストーリー的に一番重要なシーンはカットしました。