「お前は――――」
エヴァンジェリンの呆然としたその言葉。
「――――はい? どうかしたんですか、エヴァンジェリンさん」
それに、当たり前のようにネギ・スプリングフィールドが言葉を返す。
第17話
驚愕したままのエヴァンジェリンと、主が何に驚いているのかわかっていない茶々丸の前に、ぽかんとした顔のネギ・スプリングフィールドが立っている。
教師の立つ場所に立つ教師の姿。当たり前すぎるほどに当たり前のその光景。
なにも驚くことはない。
事実、茶々丸は己のマスターが何に驚いたのか分からず、思案顔だ。
教室に入り“一度”その中を見渡して、再度教卓に目をやって、動きを止めたエヴァンジェリン。
一度目は見逃したが、二度見ればさすがに気づく。
「……いや、なんでもない」
「は、はあ」
なんでもないわけがないだろうが、ネギは追求しなかった。
きょろきょろともう一度周りを見渡したあと、エヴァンジェリンは再度ネギに問いかけた。
「千雨は休みだな?」
「は、はい……風邪だそうです。お部屋に。その、停電の日から……」
「なるほど“停電の日”からか。なるほどな」
エヴァンジェリンが頬をゆがめる。笑いをこらえているようにも見えた。
エヴァンジェリンは停電の日は早々に別荘にこもっていたのだ。
あの後どうなったかは知らなかった。
事実としてあるのは、千雨の撃った魔弾に自分が殺されかけ、治癒に数日かけたこと。
知っているのは、千雨が自分をかばって呪詛を浴びて、ネギとルビーが千雨と一緒に消えたこと。
その情報といま目の前に立つネギを見れば、何があったかを推測するのは簡単だった。
あまりに予想外だから戸惑ったが、まあ“ありえない話”ではない。
エヴァンジェリンはこぼれ出るにやつきを抑えられない。
こんな面白い話は久方ぶりだ。
「マスター。千雨さんは?」
「知らん。だが問題ないだろう」
「問題ない、……ですか」
「ああ。まったく完全に何一つ問題ない。怪我ひとつないだろうよ。風邪で休んでいるというのも仮病だろうな」
「えっ!?」
その断定にさすがにネギも驚く。
「なんだ、坊や。お前も知らなかったのか?」
「マスター。それは一体どういうことでしょうか」
「疑問は晴れた。坊やのことも千雨のこともな。あの日なにがあったのか、もはやそれについての疑問はない」
ネギと茶々丸が意味がわからないという顔をする。
だがエヴァンジェリンはネギの疑問に答える気はないようだった。
「情報と能力の差だよ。茶々丸やお前ではわからんだろうな。いや、わたししかわからんというべきか」
クックックッとエヴァンジェリンが笑う。
吸血鬼にふさわしく意地悪さと狡猾さを含んだ笑みだった。
「ヒントをやろう。わたしは血を嗜好品程度にしかたしなまないとはいえ真祖の鬼、吸血鬼なわけだが――――」
「マ、マスター!?」
当たり前のように吸血鬼という言葉を使用したエヴァンジェリンに茶々丸があわてて辺りに目を走らせる。
麻帆良の中とはいえ、さすがに迂闊すぎると感じたためだ。
だがエヴァンジェリンの返答は肩をすくめただけだった。
茶々丸が周りを見渡す。
確かに3-Aの人間の耳には届いていないようだった。
茶々丸の魔法系のセンサーでもいま防音などの結界が張られているようには感じない。魔法ではない技術だということか?
エヴァンジェリンは力を封じられていてさえ、時々こうして茶々丸の予想よりも芸達者なところを見せるのだが、今回はさすがに驚いた。
だが、茶々丸の驚きにはたいした反応を返さず、エヴァンジェリンは言葉を続ける。
「続けるぞ。そして、吸血鬼の伝承はいくつかあるが、眉唾物も多い中ある程度正しいものも伝わっている。鏡に映らないというのは相手の視線に直接投影する場合、蝙蝠になるのは変化だが、犬になるのは一般的には使い魔だ。吸血鬼は呼ばれなければ部屋に入れないというのは子供の躾用の戯言だな。吸血鬼に限らずあらゆる呪術は相手に受け入れられれば効果が増大する。受諾の有無は吸血鬼に限定する必要のないすべての呪術の真髄だ。ニンニクは、まああんなもん誰だって苦手だろうし、まあそんな瑣末なことはどうでもよい」
はあ、とうなずくネギと、何を話し始めるのかと首をかしげる絡繰茶々丸にかまわず、エヴァンジェリンは話を続ける。
「さて、それでは本題だ。もっとも有名な吸血鬼の逸話とはなんだ? 答えてみろ」
「……血を吸って仲間を増やすことでしょうか」
「正解というには少し言葉が足りないが、まああながち関係なくもない」
「えっ……?」
「どうした坊や。よくわからないといった顔だな。まあすべてを教える義理はない。よく考えてみることだ」
そういって、エヴァンジェリンは身を翻した。
「あ、あの。エヴァンジェリンさん」
「今日は帰る。体調がまだ芳しくなくてな」
先ほど教室に入ったときよりも百倍ははしゃいだ口調でぬけぬけとそう口にする。
こぼれ出る笑みが隠しきれていなかった。
絶対に嘘だということがネギですらわかった。
「そ、そんな。待ってください。授業に……」
「なぜわたしがお前の願いを聞かねばならん。安心しろ。明日はちゃんと来てやるよ。今日はもっと大事な用事があるからな」
そういって、一瞥も残さずエヴァンジェリンは教室を出ていった。
◆◆◆
「千雨、いるかっ!」
ばたんと寮の一室が空けられる。
インターホンどころか、カギを開ける音すらさせずに進入したエヴァンジェリンたちを迎えたのは、のそのそと奥から這い出る千雨だった。
ドヨンと湿気った空気をまといながら、毛布に包まる千雨が口を開く。
「うるせえな。体調悪いんだから黙ってろよ」
「ああ、風邪は本当だったのか。おい茶々丸。茶を入れてやれ」
「……いや、帰れよ」
「了解しました。たしか先日購入したシーヨックのダージリンをあそこの棚に……」
「……いや、了解するなよ。あとわたしの部屋にお前らが使うものをそろえすぎだ。ちょっとは持って帰れ」
げんなりとした千雨が言った。
当たり前のようにエヴァンジェリンは千雨の言葉を無視すると、毛布に隠れたまま半分だけのぞく彼女の顔を覗き込む。
風邪気味という言葉に嘘はないのだろう。隙間から除き見える体は寝巻きのままだった。
「ふむ」
「……な、なんだよ。じろじろ見て」
「いやいや、思ったとおりだな」
エヴァンジェリンはそのまま千雨を舐めるように見ると、ニマニマと笑った。
千雨も何を言っているのかわからない。
だが彼女はこういう展開には鼻がきく。
一瞬体を震わせた。いやな予感がしたからだ。
「……なんでそんなに上機嫌なんだ?」
おそるおそる千雨がきく。
「なんだなんだ。言わなくてもわかってるだろう。お前は坊やよりもこういうことには詳しいはずだ」
「……」
「まあ安心しろ。なにがあったかは理解している。わたしは吸血鬼だからな」
「……なんだ、それ?」
「お前も吸血鬼のことがよくわかっていないな。吸血鬼は人の魂を確認できるんだよ。下らん大道芸だが、今回はいい具合だったな。前に言わなかったか? わたしに“これ”が出来なければ血を吸うときに困るだろうが」
「…………っ! ――――じゃ、じゃあ」
真っ赤になった千雨が言葉を切る。
なんとなくエヴァンジェリンの笑みの意味が理解できた。
今起こっている現実を信じたくない。千雨は泣きそうになった。
「察しがいいな。そういうやつは嫌いじゃないぞ。まあ、つまりそういうことだ」
そんな千雨に向かってエヴァンジェリンがにやりと笑い、
「それでは説明しろ、長谷川千雨。あの日、何があったかを」
そんな言葉を口にする。
◆◆◆
――――ぱしり、とネギの体を貫こうとしたルビーの腕が受け止められる。
ネギには見えない。霊体化したルビーが見えるのは千雨だけ。
誰もいない。この山荘にいるのは千雨とルビーとネギだけだ。
誰もこれない。この場に干渉できるのは彼らだけ。
そうして、ネギを貫くべく放たれたルビーの腕が、誰かに止められたというのなら、その答えは明白すぎるほどに明白だ。
その結果起こった現象の解答は単純で、一体誰がルビーを止められるのかと問うならば、
「ルビー、お前もちょっと短絡すぎだな……わたしのこと言えないんじゃないか?」
その答えは長谷川千雨ということになるだろう。
◆
深夜の山荘。
ハアハアと荒い息を吐きながら、千雨はルビーの腕を握り締める。
こいつがなにをやろうとしていたのかなど考えるまでもない。
なにせ、ゆっくり寝ていたはずなのに、その思考が頭に流れ込んできたほどだ。たたき起こされてしまった。
ルビーは少し物騒過ぎる。
「千雨っ! 意識が戻ったの!? 大丈夫?」
「千雨さんっ!」
「グッ、ハッ……まあちょっと体調が悪いな」
大丈夫なはずがない。
血を吐きながら千雨がいった。
「なにいってんのよ。いったでしょうが。あなたの一撃はあなたを殺せる。このままじゃ死ぬわよ、千雨」
ルビーが叫ぶ。
もともと千雨を生かすために、それしか道がないと思ったからネギを殺そうとしたのだ。
意識が戻っても病魔が晴れたわけではない。
「ガハッ!? ゴホ、ゴハッ!」
「千雨さん! うごかないでください!」
答えようとした千雨が血を吐く。
ネギがあわてて体を支えた。
そのままサポートをスタート。ネギだって簡易な治癒ならば扱える。
接触する手から心臓を通して、千雨の体に魔力を送る。
だが、ネギは力の限り魔力を送っているのに、それは千雨の体に入った瞬間に霧散する。
破れた袋に空気を送るほどの気休めだ。だが、破れた袋だって膨らまないわけではない。
かすかに千雨の顔に血の気が戻り、ヒューヒューとかすれていた息がわずかに整う。
「サンキュ、先生。ルビー。三つ目の令呪で何とかならないのか?」
「無理よ。わたしならまだしもあなたに作用する令呪は即効性すぎる。重病者に劇薬投与するようなものだわ。ゆるめに活力を願うくらいじゃ治らないし、最後の令呪がなくなれば、わたしがその後のサポートを行えない……」
令呪? と千雨の胸に手を当てながら首をかしげるネギ。
ネギにも案があるわけじゃない。彼には千雨の撃った魔術を正確に理解することすら出来ていないのだ。
ルビーの言に従ってついてきたに過ぎない。
「あの、学園長に相談するべきだと思います」
「……それも無理よ」
「なんでですか」
「無理だからよ。それにどの道、いまからじゃあ間に合わないわ」
魔力を送りながらネギが問う。しかしその問いにルビーが首を振った。
学園への連絡と、援助の嘆願。
わずかな可能性としてそれはありえた。
本当に切羽詰っていたら、完全に何一つ手がなければルビーもそれを選択しただろう。
だがルビーにはまだ自分だけで何とかできるという驕りがあった。
ネギを殺し、そして千雨を治す。他のものなど無理やりどうにかすればいい。
だってそうだろう? 学園長だろうと、なんだろうと、彼らは魔法使いなのだ。
至高の魔術師であるルビーですら戦慄する千雨の呪詛を彼らは本当に治せるのか?
治せるかどうかさえ不確定で、もし治せなかったら、ネギを殺すことで力を奪うチャンスなど、その場で完全になくなってしまう。
ネギを殺す道は確実性があったのだ。
将来どんなことになろうとも、ネギの力をルビーが吸い取る道には確実な点がひとつあった。
それは千雨を治癒できるということだ。
それに力を吸ってネギが死なないかもしれない。
ネギが死なないというわずかな可能性と、千雨が治るという確実な結果。それを両立する案をそうそう簡単に破棄などできるはずがない。
学園にすがり、もしそれが失敗したら、その後千雨を治す手が見つかるか?
魔法で? アーティファクトで? ルビーも知らない特殊な力で?
馬鹿らしい。願いとは己の手でかなえるものだ。
それが本当に出来るのかなんてわからない。
助けを求めて、それが適うかなんてわからない。
自分の望みに他人の力量を当てにするほど間の抜けたことはない。
人に頼って選択を狭められるわけには行かないのだ。
千雨は夜明けまで持たないことは確実だ。
学園に服従したとして、ルビーの身の証をたて、ルビーに魔力を提供させるなんてことが出来るのか?
ルビーにはそれが不可能だとわかっていた。彼らは関東魔法協会の人間だ。個ではなく群なのだ。
交渉抜きでは動きは取れまい。そして千雨の体は長くはもたない。
千雨を救うためにネギを殺すというこの思考。
それは、ネギを殺すわけにはいかないからときっと最終的には千雨よりネギの命を優先するであろう学園側の思考と何が違う?
ルビーはそう考える。
今こうして千雨にばれたが、それでもうネギを殺せないというわけではない。
事情を話したっていいのだ。千雨を助けるためにお前の血を使わせてくれと。
ネギは必ず了承する。
その上で事故死してもそれはルビーの罪であって、千雨が責められることはない。
まるっきりエヴァンジェリンの焼き直し。
だけど、それしか手がないのだ。
「……まいったな。死にたくないんだけど……」
千雨がぽつりと言った。
ネギをどう殺すかという思考に流れていたルビーがはっとして千雨を見る。
そこには弱々しく泣く少女の姿があった。
哀れなほど死に怯える少女の姿。
エヴァンジェリンが言っていた。衝動的に命をかけた千雨の行為に意味はないと。
衝動的に行い、加速度的に死が迫ったからこそ耐えられた死の恐怖。それが今はひたひたと迫ってくる。
口調だけは強がっているが、所詮素人だ。やせ我慢にも限界がある。
千雨が胸に当てられるネギの手をすがるように握っていた。
半ばあきらめの混じった口調に、ルビーが唇をかみ締める。
強さの象徴のはずであった千雨の姿に、ネギがやはりとまなじりを湿らせる。
分かりきっていたことだ。
当たり前なのだ。
千雨は急造の魔術師で、そして強制的に生死の概念を学んだだけの中学生。
ネギに説教をしたって、吸血鬼と対峙したって、それはやっぱり状況に流された末の行動で、彼女にはそれに対して腰をすえて耐えるだけの精神力は当然ない。
歯を食いしばって、恐怖に泣き叫ばないだけで十分に驚嘆に値する精神力だが、その震えは隠せていない。
まずいとルビーが思考する。だんだんと千雨が己の生に絶望し始めていた。それは死を受け入れ始めているということだ。
順応性が高すぎる。
しかしそれでいて、この娘は自分の生を他者に欲したりはしないのだ。
千雨が目を覚ましたのは千雨の治療の障害になるとルビーはここでやっと気がついた。
説得せずにネギを殺せば、この娘がどう行動するかは明白だ。
彼女の目の前でネギの命を奪い千雨を生かせば、彼女は絶対に許さない。
ルビーを許さないならばどうでもいい。だが彼女は彼女自身を許さない。
それがその後の生を拒絶することにつながるならば、強行すらできない。
ルビーは自分の考えの甘さを呪う。
抜けているなんてレベルじゃない。たった一つの手が千雨自身の手で封じられたも同然だ。
「な、何か。方法はないんですかっ」
「……ネギくん、ちょっと」
「ルビー。……それは、だめだ」
先ほどまで弱音を吐こうかとしていたはずの千雨がルビーを制する。
口調は弱々しく、それでいてその決心だけは譲れないと意思だけが強調される誇りの言葉。
ルビーが詰まった。
たとえ弱々しく見えても、この娘は一度自らの命を、己の誇りと天秤にかけた存在だ。
ネギは説得できても、助けられるべき千雨を説得できない。
「でもそれ以外手がないわ」
「百戦錬磨の魔法使いなんだろ……なんかないのかよ」
無いからいっているのだ。ルビーだってネギを殺したいわけじゃない。だけど、他に道がない。
苦渋の選択の末なのだ。
最善を選ぶのと、最善しか選べないのは別物だ。
だがそんな言葉で千雨を説得できるはずがない。
ルビーは言葉に詰まる。
桜のために千の世界を渡り、万の戦いを経験した。その記憶を洗い出す。
だが治癒が必要になったことはあっても、ルビー自身がここまで消耗していることはなかった。
手はないか?
なにか、そう。こういう場面に。
一瞬の情景。過去の記憶。思い出の残滓。
ルビーは、かつて遠坂凛という名の少女だった。
百戦錬磨でも、魔法使いでもない少女だった。
彼女が一度このようなピンチを経験していた。
そうだそうだ。そういえば――――
――――磨耗する万の経験の中、たしか、こんな状況が、
「手っ、手ってなんですか? なにか方法があるんですか!?」
「先生。あんたがきくと人身御供に志願しそうだしな。いえないよ……」
血を流しながら千雨が言った。
「千雨さんっ! ボクに出来ることなら何でもしますっ、だからそんなことを言わないで下さい」
「バカだな……。意地張ってかっこつけてんだよ。もうちょっとかっこつけさせろ」
「ボクは、なんにもできないんですか? そんなの、そんなのいやです……」
「そうかい? わたしは、いまここに先生がいるだけで、すごい助けられてるけどな……」
かすかに千雨が微笑んだ。
「千雨さんっ! ボクはあなたを助けると、あの日に約束したんですっ!」
強くつむがれる言葉に千雨が怯む。その言葉には先ほどまでまだ形を成していなかった信念があった。
「なんでもするのね」
「っ、ルビー! やめろ。先生を傷つけるのは無しだ」
「えっ?」
口を挟むルビーを反射的に千雨が制する。
「わたしにはルビーの意識が流れるんだよ。わたしかルビーが傷を負うとな。だからわかる。お前さっき先生の血を奪おうとしただろう? そういうのは無しだ。もともとエヴァンジェリンを止めにきといてそのざまじゃあ無様すぎる。わたしが生き残っても先生が死ぬってんなら、ぐッ!? ――――ゴホッ。ガホッ」
「千雨さんっ、血がでてますっ! あまり喋らないでっ! でもそれしか手がないんなら」
「ゴホ、ゴホッ。……だから先生が死ぬってか? だから言いたくなかったんだ。1引く1じゃ意味がねえだろ」
千雨が半死半生の体で断言する。彼女はエヴァンジェリンを否定した以上、ここでネギの施しは受けられない。そういう信念。
だがネギはそれにうなずけない。
だって、逆だ。最初にエヴァンジェリンを救おうとして、死に掛けているのは千雨のほうなのだから。
長谷川千雨は大ばか者だ。
ネギを怒った口で、まったく矛盾する行為に身を投じ、そしてこうして倒れている。
ネギのサポートを受けていながらも、顔色は真っ青だ。
手の先は冷たく、一つ咳き込むごとに口元から流れる血はぬぐいきれずに胸元を汚している。
そんな光景をネギ・スプリングフィールドは見せ付けられる。
ネギはもう気づいているのだ。
だからもう間違えない。
自分を助けると千雨は言った。
自分は子供で、助けられてばかりの存在で、その無力さに涙した。
でも千雨だってまだ子供。
千雨だって強がってばかりの意地っ張り。
そんな当たり前の解答を、彼はもう知っている。
彼女が自分を助けるといったように、千雨を助けると自分も言った。
そう、だから。
そんな長谷川千雨は、きっとネギ・スプリングフィールドの――――
◆
ネギの魔力が体からあふれ、その体に風が舞う。
くしゃみの拍子に魔力をもらしていた未熟者。
そんな彼が、自分の絶対的な意思の元、己に宿る血筋から、天を揺るがす魔力を搾り出す。
破れた風船が、爆発的な魔力で活力を取り戻す。
わずかに千雨の頬に赤みが戻った。
考え込んでいたルビーはそれを見る。
ネギの魔力は強大だ。その魔力をここまで使えるならば千雨を癒せると考えた。
でもそれには血で吸うしか方法が無いと考えた。
だってネギは未熟で、その身に宿る魔力を引き出せていなかった。
だから外から引き出すには直接奪うしかなかったのだ。
魔法の契約に束縛されない、魔術回路を満たす純魔力。
だけど、それは魔術にそった契約ならば問題なく、いまこうして千雨を抱きしめる少年がいる。
その身には魔力が満ちて、そのものの心には相手に対して存在を捧げられるだけの愛がある。
ああ、とルビーが千雨をかきだく英雄の姿に息を吐く。
英霊として磨耗した記憶の中、閃光が走るように思い返されるかつての光景。
思い返すのは遠坂凛としての過去の記憶。そういえば魔力の切れた少女を癒すために、色々と奮闘したことがあったじゃないか。
それはサーヴァントとして戦った少女と、魔術使いとして生きた少年だった。
そうだそうだ、そうだった。そういえばそんなことが、こんなシチュエーションが、似たような出来事があったじゃないか。
忘れていた忘れていた忘れていた。こんな単純な解決法を忘れてた。
完全無欠な解答がいまこうして目の前に。
なんて、愚か。
千雨の意識が戻っていないから自分が強行するしかないと考えた。
だが、いま千雨に意識が戻っていて、こうしてネギがいるのなら、そこには最善の道がある。
「いい手があるわ。誰も人死にを出さなくてすむ」
「本当か?」
「本当ですかっ!?」
千雨とネギの顔に光がともる。
千雨だって死にたくない。本当は泣き叫んでも助かりたい。
生き残れるならたいていのことは許容できる。
ただそこに、ネギを殺すという選択肢がなかっただけだ。
方法があるとルビーは言う。それならばその方法を試したい。
苦しくとも、つらくとも、生きていられるなら、許容する。
ネギにだけは迷惑をかけたくないと望んだけれど、それ以外の方法ならば、
そう、たとえどんな方法だって、生き残れるというのなら――――
「ネギくん。何でもするといったわね?」
「はい。何でもいってください」
ルビーが再度念をおす。
早く言えと千雨は思い、何でもするとネギは言う。
何でも言えといわれたからルビーは言った。
「じゃあネギくん。いまから千雨を抱きなさい」
そんな解答を口にした。
◆◆◆
「千雨。パスの通し方はもちろん覚えているわよね。まあ失敗するとマズいからわたしも混ざってあげるけど」
「……」
「…………」
魔術の基礎だ。ルビーから教わっていないはずがないが、千雨は今思考が止まっている。
返事はなかった。
「なに固まってるの? ああ、ネギくんには意味がわからなかったかしら? セックスしろってことなんだけど」
「……」
「…………」
それくらい意味はわかる。ただ意味がわからなかっただけだ。
矛盾したことを思ってネギと千雨が沈黙する。というか直球すぎである。
「抱き合って寝てたくらいなんだから、べつに問題ないでしょ。ああ、安心して。まだっていうなら無理やり通してあげるから」
「……」
「…………」
あれは誤解だ。
返事を待たずにルビーの服が虚空に消えた。
ルビーは魔力体だ。つまり服も魔力から出来ている。その思念に沿って一瞬にして服が消え、裸体をさらす。
その姿は窓から差し込む満月の光によって照らされる。人として極限まで磨かれたその肢体。
その姿のままベッドに横たわる千雨の横に体を添える。
するりと撫でるように手が動き、千雨の上着を剥ぎ取った。
千雨に魔力を送っていたネギは心臓部、つまり胸元に当てていた手をあわててどける。
それによって反射的に苦痛の声を発した千雨の姿に、再度魔力を送ろうとするが、そこはすでに素肌の胸だ。
しかしこのままほうっておくわけには行かないわけで、ネギは赤い顔のまま手を胸に当てた。
ムニュというあまりに直接的な感触とその行為にネギがさらに赤くなった。
背中から心臓に魔力を送れよ、と突っ込んでくれるはずの千雨は、なにが起こっているのかいまだ脳が理解していない。なすがままだ。
なんだなんだ、これは一体どういうことだ?
千雨は自分の下の服まで脱がせていくルビーの腕を止めることも出来ない。
続けてルビーがメガネを奪い取る。
長谷川千雨が自分を隠すそういうアイテム。本当は必要のない度の無いメガネ。
ああ、わたしはなんで視力がいいのか。
メガネがなくても周りの景色が良く見える。
自分の姿が見えてしまうのが、こんなに恥ずかしいなんて知らなかった。
ああ、いまのわたしってばハダカだよ……。
「ほら、ネギくん。君もはやく服くらい脱ぎなさいよ。時間がないってわかってんの? あんたは男の子でしょうが。千雨とわたしに恥かかせる気?」
「バ、バカか。ルビー、てめえ」
「バカはあなたよ、千雨。一時の羞恥で命を捨てる気?」
ぐっ、と詰まる。千雨は聡明だ。どんな言葉にもある程度の理解を示してしまう。
なんでも言えと言ったのは自分だがこれは予想外すぎる。
というか暴走していたルビーにそんなこといわれる筋合いはない。
すでにこれを良策中の良策と信じて疑っていないルビーはすでに千雨の反対には聞く耳をもっていない。彼女は決断した後はそれをためらわない直情型の女なのだ。
いまも昔も。いい意味でも、そしてもちろん悪い意味でも。
「せ、先生」
「あ、は、はっ、はいっ!」
千雨がネギに助けを求めるような声を上げる。
パニックに陥っていたネギが答えた。
「い、いや、お前もなんか言えよっ!」
「あ、あの……」
ネギの言葉が一瞬止まる。
ネギは顔を赤くしているものの、その思考を鈍らせてはいない。
このままでは千雨がどうなるかを知っている。
一度目を瞑りネギは大きく息を吐く。
エヴァンジェリンに立ち向かう決心をしたときに自覚した長谷川千雨に対するその思い。
そういうものを心に留めて彼は言う。
「千雨さん」
その真剣な瞳に、千雨は戸惑う。真っ白だった顔に朱が混じる。
たまに見せるこのような仕草があるからネギを邪険に扱い続けることが出来なかった。
そんな千雨の顔を見て、ネギは思う。前から何度も見たこの表情。
悪態をつかれ、見捨てるといわれ、それでもずっと千雨を頼り、千雨とコンタクトを取り続けたその理由。
ネギが真剣な顔を千雨に向ける。
ルビーは驚いた顔をしてそのまま黙った。
魔力が多いただの子供だと思っていたが、この子はとんでもないほどに掘り出し物だ。
千雨と一緒に寝ていたことは誤解だと聞いていた。
ただ手のかかる少年で、ただの事故からかかわりの出来た知り合いで、
ほんの少し仲が良く、ほんの少し親密で、
そんな、なんでもない関係なのだと千雨はずっと言っていた。
でも、そんなのはやっぱり嘘だった。
だってほら、
「――――ボクは千雨さんのことが好きです」
男の子にこんな台詞を言わせておいて、事故も誤解もないだろう?
「バ、バカをいってんじゃねえ……」
「へえ、いい男じゃない」
直球なルビーの台詞に千雨の顔がさらに赤くそまる。
ちうは言われ慣れているが、千雨はそんなこといわれたことがない。
わたしはキレイどころのクラスメートに囲まれた、十人前の凡人なのだ。
「千雨さんはボクのことが嫌いですか? こんなことをされるのはいやですか?」
ネギは無言で千雨を見つめ続ける。
うすうすと勘付いてはいたのだ。千雨だってバカじゃない。
だけどそれに気づかない振りをして、
ずっとそれだけは避けていて、本気にならないと決めていて、
だけどもう、この場で、この瞬間、こんな風に迫られて、
もう、そんな意地を張り続けられるはずなくて。
だから、ネギの瞳に見つめられ、嫌いですかなんてそんな問い。
千雨の答えは決まってる。
「っ、そ…………そんなこと……ない。……かも」
それだけいって千雨はカア、と赤く染まって口を閉じた。
もう頬どころか顔中が真っ赤だった。
心臓が破裂しそうなほど高鳴っている千雨は、もう一度血を吐いてもいいから自分の緊張を如実に表す胸元から、ネギに手を離してほしくなった。
ドクドクとなる心臓の音があまりにうるさくて、もう先生の声しか聞こえない。
震える手を動かして、顔を隠そうとするが、千雨の体はもうほとんど動かない。
涙目になった顔がネギとルビーの前にさらされている。病ではなく羞恥で死にそうだった。
ろくに抵抗も出来ない千雨は裸のまま、その姿をネギとルビーの前にさらしている。
ネギの視線が体を走る。
肩から黒く染まる病魔の痕と二の腕に走る令呪の光。
ネットアイドルとして普段からレオタードや水着姿までさらしているだけあって、手入れもばっちり出来てしまっているところに千雨は安堵し、そしてそんな安堵を覚えてしまうということが、耐えられないほどに恥ずかしい。
「綺麗です」
さすが紳士の国の出身というべきか。千雨の言葉にすぐ赤くなっていたくせに、おかしなところでは照れることのないネギが平然と言う。
火がついたように赤くなっている千雨はもう何も言葉が出ない。
こんな言葉で真っ白だった体に生気を取り戻せるのだから人間というのは単純だ。
スイ、と千雨のまなじりから涙をぬぐい、ネギが顔を寄せた。
時間だってたいしてあるわけじゃないのだ。
「キスをしてもいいですか?」
そんな先生の言葉をいつものように年上ぶりながら偉そうにあしらって、鼻で笑って対応できればどれだけ楽か。
千雨はだんだん状況を飲み込めてきたものの冷静とは程遠い。
「あ、あ……い、いや、その……」
攻めてる間は強気でも、攻められていると基本へたれの千雨はこんなもんだ。
テンパリすぎて、文句の一つも出てこない。
そして、ネギの真剣な顔と、その目から視線をはずせないのは、きっといかれちまったからに違いない。
「千雨さん」
「ひぅっ!?」
ネギにおとがいをつかまれて、首をツイと上げられる。
反射的に千雨はかわいらしい悲鳴を上げて縮こまる。
そんな反応をあげてしまったことに千雨は戸惑う。
ネギの顔が迫ってくる。
「あ、あの……ちょ、ちょっと……、ちょっとまって」
彼女に限らず、思春期の女の子はこういうシチュエーションによわいのだ。
頬に添えられたネギの手が、千雨の口元から流れる血をふき取った。
羞恥に染まる千雨の表情。
ネギはその美しさに微笑んで、
「待ちません」
ネギは千雨にキスをした。
横たわる千雨にかぶさるようにネギが唇をふさぎ、舌でその口をこじ開ける。
「あっ…………ん」
千雨の体から力がぬける。
ファーストキスのお相手は、年下で魔法使いの少年だった。
◆◆◆
「つまりだな。吸血鬼にかまれてその後きちんとした吸血鬼になるには条件がいるんだ。実際はそこまで絶対的な基準でもないんだが、まあよく言われるやつだな、童貞と処女であることが重要だ。ちなみに、吸血鬼にとっての処女や童貞というのは女同士や男同士でも破られるものだから、吸血鬼の判断とお前らの判断とは差が出ることもある。ちなみに一番問題になるのは妊娠しているかどうかの差なんだが、妊婦が吸血鬼に血を吸われる悲惨さはお前も想像できるだろう?」
「……」
「以前も言ったが、そういうわけで吸血鬼にそのへんを判断できる能力があるのは当たり前なんだ。処女や童貞、そのほか妊娠の有無なんかは感覚的に理解できるんだよ。でなかったら誰が餌かもわからない。魂というか人の存在場というか、まあ名称はいろいろあるが、人が交わればその魂に架け橋が結ばれる。一色で染められた精神を重視する巫女が処女を保つことが多いのもこの辺が理由だな。神なんてやからは狭量だから浮気を許さんわけだ。相手の魂に干渉する吸血行為も、相手が他人の魂と繋がりを持っていると染めにくい。そういう相手に未熟な吸血鬼が干渉するとどっちつかずのまま制御が外れてゾンビ化してしまうわけだな」
「……」
「まっ、わたしだって常に見ているわけじゃないが、匂いをかげば違和感を感じられるし、二度見て気づかないなんてこともない。気にするな千雨、ばれたのは必然だよ、必然。坊やで気づかなくともお前を見れば気づいていたさ。それに安心していいぞ。わたしは神などと呼ばれる口だけのやからと違って心が広いからシモベの浮気くらい許してやる」
「……」
「それにしてもまさか本当にお前と坊やがくっつくとはな。いやはや、正直かなり驚いているよ。今度正式に祝福でもさずけてやろうか? しょぼい神社で神に誓うよりよっぽどの加護を約束してやるぞ。――ん? おいおい茶々丸、紅茶が全部こぼれているぞ。お前にしては珍しいな、動揺したか?」
「っ!? も、申し訳ありません、マスター」
目隠ししたまま二階から目薬をさせるほどの空間把握能力と精密動作性能を誇る茶々丸がお茶をフローリングの上に注いでいた。
あわててティーポットを上げる姿を見てエヴァンジェリンが愉快そうに笑った。
「で、では、マスター。朝の件は?」
「坊やが童貞じゃなくなっていたからな。ちなみにいまこうして毛布をかぶってる女も、もう処女じゃないぞ」
びくり、とエヴァンジェリンが話を始めてから毛布にこもりつづけていた千雨が震えた。
「まあ生き残れたのは僥倖だな。坊やの器量に救われたということか。ルビーも助言者気取っておいて肝心なところが抜けていたようだし、貴様も貴様でまったく懲りていないようだったからな」
この吸血鬼だけには言われたくない台詞だったが、やぶへびもゴメンなので千雨は無視した。
「しかしあの坊やも人気者だな。これから大変なんじゃないのか、千雨」
「……」
「宮崎のどかに雪広あやか、あとは次点で佐々木まき絵といったところか。神楽坂明日菜や近衛木乃香も気に入っていたようだし、あいつらもそこまで自覚があるわけじゃないだろうが、早めにツバをつけておけてよかったなあ、おい」
ぽんぽん、と毛布の上から体を叩かれた。
「……あんたも先生を殺したくなかったみたいだしな」
さすがにうざったくなってきたのか、丸まった毛布が返事をした。
「っ! ほ、ほう。いうじゃあないか」
「なにいってんだよ、手をぬいた末、わたしが来るのを待ってたらしいじゃねえか」
「ば、馬鹿もの! わたしが坊やを見逃したのは、あいつの血を吸わずとも、お前とルビーがわたしの呪いを解くことを期待しているからだ。別にあいつに情を感じたわけではない!」
「ああそう」
「おいっ! 真面目に聞かんか!」
「これ以上ないほど真剣に聞いてるよ。ジョークだよ、ジョーク。笑っとけ。あんたが惚れてるのは先生じゃなく、先生の親父さんだもんな」
「き、きさまっ。そんなこと誰からっ!」
「ルビーが前に嬉々として話してくれたぞ」
「くっ、あの女狐めっ! だれからそんなことをっ」
「知らない」
まったく覇気のない千雨の声が答える。
「なあ、もういいだろ。早く帰ってくれよ……というかもう一生来なくていいぞ」
「ちっ、まあいい。面白い話も聞けたし、今日はもう勘弁してやろう。…………ちなみに千雨――――」
「なんだよ」
「――――あっちの相性はどうだったんだ?」
最低のジョークをすばらしい笑顔で飛ばされた。
この吸血鬼は腐っている。
「なにいいやがるっ、このボケ!」
千雨はシモネタを飛ばすエヴァンジェリンに枕を投げつけた。
ボフンと、エヴァンジェリンの手前で枕は茶々丸に受け止められる。
「はっはっは。ではお望みどおり帰ってやろう。しかしあのガキはまだ十だろう? よく出来たな」
「うるさい」
「ああ、年齢詐称薬か? だが、あれは基本的に幻術だぞ。そりゃわたしやルビーが使えばどうとでもなるだろうが……」
「黙れ」
「分かった分かった、そう怒るな。ではまたな。それとあまりがっつくなよ。避妊具一つ買うのも手間だろうし、いくら裏技使っても、体が出来てないうちにやりすぎるのはよくないからな」
「二度とくるな」
「学園にはばれないようにな。いや、もう遅いか。まあ、ばれたときはわたしを頼っていいぞ。面白そうだし」
「ありえないから安心しろ」
「すいません千雨さん。床は拭いておきました。あとこの枕はこちらにおいておきますね。紅茶はご自由にお使いください。あの……それでは、その……お大事に」
エヴァンジェリンが高笑いを響かせながら玄関から消え、茶々丸が千雨に枕を返すと、申し訳なさそうな顔のまま一礼を残して去っていく。
二人が出て行くのを見送ると、千雨はもう一度毛布をかぶって不貞寝した。
人はこれを現実逃避という。
◆
そうしてのその数時間後。千雨の部屋にはエヴァンジェリンと茶々丸の代わりにネギとルビーがいた。
ものすごく不機嫌そうな千雨はベッドの上でむくれており、緊張気味のネギはルビーと千雨との会話を戦々恐々と聞いている。
ちなみにルビーは少々無理をおして千雨の事後観察のため、ネギは千雨のお見舞いだ。
千雨とネギのパスが通り、千雨とルビーの体に魔力が流れたことで病は癒されたが、病魔というのは予想以上に後に引くもの。
体調はほぼ良くなっているが、ルビーが学校を休ませたのだ。
ネギは朝のエヴァンジェリンとの一件で触発されたのか、千雨にお見舞いに来たところをルビーにつかまっていた。
「いいじゃない。すこし早かったけど、いつかは経験することでしょう。それに避妊は大丈夫よ。魔術は性行為に綿密に関係するからそこらへんの対策は万全なの。あのときはわたしがほどこしたけど、千雨も当然使えるわよ。これも基礎だからね」
あけすけな言葉に二人して顔を赤くする。
こいつには慎み深さという言葉は無いのだろうか。
「あの……じゃあ、千雨さんは経験が?」
「なんでだよ! ねえよ! 初めてだったに決まってんだろ! お前以外の男となんざ手をつないだこともねえっての! しっ、知ってるだろうが、お前はっ!」
「あ。そういえば、そうでしたね。……でも普通初めての女性は痛がるものだって――――」
「ぶちのめすぞてめえ! てめえこそなんであんなに詳しかったんだよ!」
「えっ、あの。千雨さんの魔術を勉強するときに、借りた本からですけど……」
自業自得だった。
「ぐっ!? ……で、でも、それだけじゃすまねえだろ! テレながら恐ろしいこといってんじゃねえ、このマセガキ!」
「す、すいません」
素直に返事をするネギ。
「……千雨があんなに悦んでたのは魔力の伝達があったからだと思うわよ。あれって充実感って意味で快楽に密接だし。あっ、あとパスをつなげる行為って言うのは、相手の意識が把握しやすいから、そっちのテクニックの面でも……」
「だまれっ! 死ねっ! 色ボケっ! 変態っ!」
気を利かせたつもりなのか、沈黙する二人に向かってルビーがいらないことを言う。
直後、半透明体のルビーの体をすり抜けて、千雨の投げた枕が壁に当たった。今日は投げられてばかりの枕がぼとりと地面に落ちる。
ちなみにまだ夕暮れ時だ。猥談を始めるには早すぎる時間帯である。
「でも魔術においては、そっちの腕も重要よ。それにネギくん若いし、貴方たち一山超えてからもずっとやってたじゃない。千雨なんて朝にはもーグズグズだったし。それにほら、わたしもほらっ、こうして気を利かせて――――いや、うん。ゴメン。そんなに怒らないでよ」
「……」
涙目の千雨から本気の殺意を感じ始めたのでルビーが言葉をとめた。
「だから、ジョークだってば」
「だったら笑えることをいってくれ」
「笑えるじゃない。若人をからかう年長者からのお言葉よ」
ぬけぬけと口にするルビーに言葉も出ない。
「まあ、エヴァンジェリンの言葉じゃないけど、どうにかなってよかったわよ。大丈夫だろうから放っておいたのに、千雨ったらまた死に掛けちゃうんだもん」
「死ななかったからいいってもんじゃねえだろ。お前が先生を殺そうとしたってことには変わりないだろうが」
「ち、千雨さん、ボクはあんまり気にしていませんから……」
千雨の剣呑な口調にネギがあわてて声をかけた。ルビーは肩をすくめただけだ。
その後、きわどくはあるものの、あの時と比べればバカらしくなるほど平和に会話を続けている最中、ルビーがふと思い出したように口を開いた。
「ときに千雨にネギくん。このことってどうするの? エヴァンジェリンに知られたのはまあしょうがないとして、学校に通達するようなものでもないでしょうし」
「当たり前だろ。ばれたら先生が辞めさせられちまうよ」
「そ、そうなんですか!?」
ネギが驚く。
「そりゃそうだろ。お前だって分かってんじゃないのか?」
「そ、そういえば、たしかに、お姉ちゃんも生徒と教師が恋人同士になるのはいけないことだって言ってましたけど……」
いまさら気づいたように言うネギ。本気で考えていなかったようだ。
千雨としてはジト目を向けるしかない。
「わかったんなら――――」
「はい、任せてください。お姉ちゃんならちゃんと説明すれば分かってもらえると思いますからっ」
わかってないらしいネギから、なぜか笑顔を向けられた。
きりきりと胃が痛む。隠す努力をしろといっているのだ。
「べつに大丈夫なんじゃないの? もともとネギくん、他の女の子と同居してたくらいなんだしさ。おおらかなんじゃない?」
あっけらかんとルビーが言った。
「むしろ、わたしが言ってるのは、明日菜ちゃんと木乃香ちゃんには事情を話して、ネギくんをこっちに移したほうがいいんじゃないかってことなんだけど。千雨だって、恋人が他の女と同じ部屋に過ごしているのは嫌なんじゃない?」
「お前ほんとにアホだな。なんでそうなるんだよ」
「えっ……」
「だからなんでお前はそこで寂しそうなリアクションとってんだっ!」
一緒に心労で苦しんでくれるはずのネギの反応に千雨が憤る。
「でもさよちゃんにも黙っておくと怒るんじゃない? ばれたら怒られることは、どうやって隠すかじゃなく、どうやってばらすかを考えたほうが建設的よ」
「またそれかよ。お前ほんとに楽観的だな」
「そう? これは結構真面目な考察なんだけど」
あっけらかんとルビーが言う。考えたくもなかった。
「相坂はいいやつだが、秘密は共有したくない」
こういうところはかなりドライな千雨が言い切る。
「もう魔法を知られてるじゃない。それにエヴァンジェリンが話しちゃうかもよ」
「あの、なんでさよさんにまで秘密なんですか?」
「…………」
二人の言葉を聴いて、わたしおかしくないよな? 間違ってないよな。と自問する千雨。
頭を抱えて、ベッドに倒れこんだ。
もう怒鳴る元気もなくなっている。
「まあエヴァンジェリンを抜けば、あとは危なくはないだろうから、そこらへんは千雨が考えるとして、ほかに問題がないなら今日はもう消えるわね。連日でてるから疲れちゃったし」
好き放題に二人をからかって満足したのか、ルビーがよろよろになった千雨を前にそんな言葉を口にした。
そんなルビーに千雨がジト目を向けた。ネギや相坂以上に、こいつが現れたことによる問題が多い気がする。
しかもほかの二人と違ってその問題も深刻だ。実は一番疫病神なんじゃないのか、こいつは?
「問題がないって……お前人の話聞いてなかったのか」
「もちろん聞いた上で言ってるわよ。二人をからかうのは楽しいけど、こうして出ていられる時間が有り余ってるわけじゃないし」
「あっ? わたしとネギのパスがつながったから魔力は足りてるんじゃないのか?」
「魔力は問題ないけど、もともとわたしがこうなってるのは、わたしが存在を維持する基盤を失ったことが原因だからね。令呪があるからなんとかなってるけど、二画目もなくなっちゃったしさ。潤滑な魔力は力の行使には役立っても存在の維持にはそれほど影響がないのよ」
「基盤?」
「どうでもいいことよ。千雨は気にする必要なし」
千雨は首をかしげ、ネギは黙った。
そんな二人にルビーが微笑む。
娘に理解を示す母の顔。
妹の幸福を願う姉の顔。
若人の幸せを願う先人の表情で、ルビーは二人に言葉を送る。
「――――それじゃ、二人ともよい夜を。あとはゆっくりと二人の時間を楽しみなさい」
まだ日も沈んでいない、とそんな文句を言う間もなく、ルビーは手を振りながら姿を消した。
最後の台詞にびくりと二人が反応して、反応してしまったことを後悔しながら二人そろって平静を装う。
ルビーは戻った。千雨の中で休眠状態にはいったのだ。
これについては確実だ。千雨にはルビーの休眠を感じ取れる。だからデバガメということはない。
だが、それは同時にいまは二人きりということをこれ以上ないほど明確に千雨に示している。
残るのは無言になった千雨とネギ。
ルビーの所為で、ネギに帰れというタイミングを失ってしまった。
ベッドにそろって座っている二人は無言のままちらりとお互いをうかがった。
二人とも無言でいる中、千雨が、はっと何かに気づく。
ずりっ、とベッドに座りながらネギからすこしだけ遠ざかった。
「あの、千雨さん?」
「い、いや、別に……」
「……」
「いや……あの。そのさ、体調悪かったし、昨日お風呂にはいってなかったから」
悲しそうな顔をしたネギに負けて、恥ずかしそうに千雨が答えた。
カア、と赤くなり千雨が顔を伏せる。
無意識のうちに握り締めたシーツにシワがよった。
「それがどうかしたんですか?」
「…………い、いや。……シャワーとかも浴びてないし……その、あ、汗がさ……」
「汗?」
「だ、だからさ……その、ちょっと臭いかなって……」
この男は乙女に何を言わせるのか。
千雨は蚊の鳴くような声でつぶやく。
しどろもどろになったその言葉にネギが顔を上げて微笑んだ。
ちらりと上目遣いでネギをうかがっていた千雨が、結構余裕があるその仕草にうろたえる。
平然とネギが千雨の傍にもう一度寄り添った。
「ぜんぜんそんなことはありませんよ。千雨さんのいい匂いです」
「そ、それもどうかと思うけど……あ、あの? その……」
「そばにいっちゃダメですか?」
「ダ、ダメってことはないけど……」
突っ込みもままならない。
二人で無言のまま隣り合う。
肩が触れ合わんばかりの距離だ。
「……あ」
「……っ!?」
ちらりとお互いがお互いをうかがって視線が合った。
ネギが声を上げ、千雨が過剰に反応する。
そらすことも出来ず、二人きりになった千雨とネギが見つめあう。
「…………あの」
「な、なんだよ」
「ち……」
「ち?」
「……千雨。って呼んでもいいですか?」
「あ、ああ。べつに、いいけど……」
千雨の言葉を聞き、安堵したようにネギが息を吐いた。
ネギの手が千雨の手に重ねられた。
千雨はもじもじとあたりを見渡す。
やばい。これはすごくやばい。
だんだん逃げ道をふさがれているような感覚だ。
自分は心臓が破裂しそうなほど緊張しているのに、なぜこのガキは平然とこんなことを口に出来るのか。
あと少しベクトルがずれれば、千雨はなりふり構わず、この雰囲気を壊そうとしただろう。
だが、その前にネギが口を開いた。この少年は空気を読まないようで、こういうタイミングははずさない。
「よかったです。あのときはそんなこと聞く暇がありませんでしたから」
「……そ、そうか」
「はい、そうです」
そりゃあ、言う暇などあるはずない。
あの日彼らはパートナーになり、だけどそれを実感する暇も与えられなかった。
翌日、実感もわかないままに、二人は朝を迎えてそのままわかれた。
一眠りしたあと、われに返って混乱のあまりいままで千雨はずっと引きこもり、ネギは夜中放置された明日菜とカモのフォローで奔走し、いまこうしてやっと二人きりになるまで会えなかった。
そんな彼女が二人っきりのこの場で会話の主導権など握れるはずがない。
ネギはうろたえる千雨といつもの千雨のギャップに微笑んで、千雨は落ち着くネギの姿を見て、いつもとのギャップで顔が真っ赤だ。
「……じゃあ。その、…………千雨」
ネギが思い切ったように口にする。
いつも聞いているはずのその声に改めて名を呼ばれ、千雨の背筋にゾクリとした感覚がはしった。
ネギは名を呼んだまま言葉をとめて、千雨の顔を覗き込む。
「あっ、あの。……本当に、その、ボクが千雨の恋人になっても……」
「…………あのなあ、そんなことをいちいちきいてんじゃねえよ」
「じゃ、じゃあ……」
千雨があまりにいまさらなネギの言葉をさえぎった。
千雨は自分の顔の赤さを隠すように、隣に座るネギの肩口に顔をうずめる。
こいつは強気なのか弱気なのかわからない。
メガネもはずし、髪もまとめていない、いつもと印象の異なるその姿。
まとめていない千雨の髪がふわりと揺れて、ネギの頬をくすぐった。
千雨はそのまま耳元で、大きく大きく息を吸い、そのくせ世界のただ一人にしか届かないくらいの小さな小さな声で呟いた。
「好きだよ、先生」
ネギがその答えに息を吐き、千雨の背に手を回す。
そのままぎゅっと抱きしめられた。
万感の想いが詰まったその抱擁。
「――――はい。ボクも」
その言葉とともに千雨はゆっくりとベッドの上に押し倒された。
ちょっとだけ驚いた千雨が、自分の上に覆いかぶさる少年の顔を見る。
体の芯が火照るような感覚の中、冷静さを保とうと、千雨はこの現状を再確認。
静まる部屋に、男と二人。
ベッドの上で、相手はつい先日愛を囁きあったばかりの男の子。
あのさ、勢いに任せちまったが、これって、いろいろとまずいんじゃ、
「い、いや。その……………………するの?」
呟くようなそんな声。
見詰め合ったまま、身じろぎも出来ないそんな瞬間。
ついさっきと同様に、沈黙に耐え切れない千雨が墓穴を掘るような台詞を口にして、
ネギはその言葉にいつものように微笑んだ。
「――――目を瞑ってくれますか?」
千雨は黙る。ネギも黙る。
それ以上何も言うことはない。
彼は目を瞑った千雨にキスをして、その体をゆっくりと――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
というわけで正解はぼーやじゃないネギくんでした。
板変えろよ、と突っ込まれるぎりぎりのラインのお話。
無駄に長いし、内容もぐだぐだだしどうなんだって感じですが、思っていたよりはマイルドな展開でおさまった気がしないでもないです。ちなみに前話の本来のラストはエヴァが千雨の部屋にきて、説明を求めるシーンまで入る予定でした。
あと今後も呼び方は基本的に「千雨さん」です。千雨からは基本的に「先生」呼び。こっちはまあ千雨的必然でです。
ちなみに仮契約はしてません。ああ本契約ってことですねとか思った人は腹を切ってください。キス=パクティオーと考える必要はない、みたいな意味です。
次は修学旅行編ですが、そっちに入る前に幕話が入ります。カモや明日菜や千雨たちの周りですね。たぶん3話くらいです。次の更新は最短で来週、最長でも3週後くらいを目安でお願いします。
それでは。