さて、そんな経緯を経て、千雨とネギがお付き合いを始めたわけだが――――
「あの、千雨さん千雨さん」
「なんですか、先生」
「今日、千雨さんの部屋に行ってもいいですか」
「……えっ……と、でも、まだルビーは出てこれないから魔術とかは見せれませんけど」
「あの。理由がなかったら行ってはいけませんか?」
「あ、いやゴメン。もちろん、いいけど……あの、先生の仕事とかは」
「ええ大丈夫です。もちろん全部終わってますから」
「そ、そう。さすがに優秀ですね。その、えーと…………じゃあ、神楽坂たちには?」
「はい。千雨さんはいままでも魔法のことで相談に乗ってもらってましたし、カモくんはまだ病院です。今日もお見舞いに行ったんですけど、まだちょっとかかるかもって」
「あ、ああ。そうですか……あの、でも、あんまり……」
「はい、わかってますよ」
「おいしいですね、この紅茶」
「まあエヴァンジェリンの御用達ですから」
「エヘヘ」
「? どうしたんです、先生」
「いえ、うれしかっただけです」
「……なにが?」
「こうしていることが、です。もちろん」
「…………そ、そう。それはよかったな……」
「あの……」
「いや、でもさ」
「……」
「うっ、でも……エヴァンジェリンにも言われたし、やっぱりその、あんまりそういうことばっかりやるのは……ほら……わたしたちも……まだ……あの」
「……は、はい。そうですか……」
「……」
「…………」
「……」
「…………」
「……」
「…………」
「……」
「………………だから、その……ちょっとだけですよ」
――――付き合うまでの経緯が経緯。それはあまり健全なお付き合いとはいっていないようだった。
幕話9
「こ、こっ、このっ……こっ、この……この……クソガキ……」
「あっ、起きたの? その……大丈夫、千雨?」
「……て、て……てめ、てめ……て、てめえ……て……が」
「あっ。その、すこしやりすぎちゃって……」
「……み、み、みっ、み、……っ……み…………を」
「水が飲みたいの? 持ってこようか?」
息も絶え絶えとした千雨がこくこくとうなずく。
ネギがあわててコップに水をくんでくる。
千雨はベッドの上でそれを受け取ると、水を飲んで一息ついた。
じろりとネギをにらんで、続いて大きくため息をつく。
ネギは千雨の様子に安心したように微笑んでいた。
その笑みで文句の一つもいえなくなっているのだから、自分のバカ差加減も大概である。
ここ数日、ものすごい勢いで堕落している気がする。きっと気のせいではあるまい。
千雨はコップをベッドの横に置く。
ネギはいつの間にかまったく自然にベッドの上で並んで座っていた。
千雨としては自分をこんなにしておいて、ホワホワ笑ってるバカを引っぱたいてやりたいが、腕にも腰にも力が入らない。
というか動けそうにない。報いはあとで受けさせよう。
窓から差し込む光が二人を照らす。
ネギも千雨もまだ生まれたときの姿のままだった。
もうそろそろ昼になる時間なのだ。しかも女子寮で生徒と教師。
どう考えても不健康かつ背徳的すぎる。
それなりに冷静さを取り戻してきた千雨が恥ずかしくなって毛布をかき抱く。
うー、とうなった。
自分は自制のきく人間だと思っていたのに、ここまでボケるとはしゃれにならない。
そしてなおのこと救えないのは、自分がそれを半ば以上自覚していることだ。
というかあれでは自分から誘ったようなものではないか。
いろいろと思い出してしまったのか、無駄に暴走した千雨が、カア、と顔を赤くして毛布に顔をうずめた。
あれか、これはやっぱりわたしが悪いのか?
こいつは一応十歳児で、曲がりなりにも自分はこいつに説教をかます立場なのだ。監督不行き届きというのなら、これはいったい誰の責になるのだろうか。
ぐう、と一人で勝手に悩んで勝手にうなる千雨に、ネギが不思議そうな視線を向けた。
千雨はそんな視線にも気づかず、一人で思考を回して、一人で悶絶している。
千雨は自分の駄目さ加減に絶望しながら、のろのろと起き上がる。
こうし続けるわけにもいくまい。
この辺の問題に関しては今度ルビーに相談でもしよう。
ちょっとばかり真剣に先人の意見がほしかった。
ルビーにきいてためになるのかはかなり怪しいが、事情を知っていて相談できそうなやつなどほかにはいない。
ネギが大丈夫ですかと声をかけてくるのに生返事をしながら、何度目になるか分からない反省をする。
もうそろそろ修学旅行だし、そもそもこの状況はおかしすぎるわけだ。
初めてが初めてだっただけに流されているが、そろそろどうにかする必要があるだろう。
毛布に丸まりながらうなだれている千雨にネギが心配そうな顔を向けている。
「すいませんでした、千雨さん……」
「お互い様で最悪だよな。堕落しすぎだ」
「う……そうですよね、やっぱり……」
反省したのか、口調を改めてネギがうなだれた。
千雨としては責任をおっかぶせて説教するわけにも行かないので、どうにも言葉のかけようがない。
なんでこの年でこんなことに頭を悩ませなくてはいけないのだろうか。
「シャレにならないことになる前にどうにかしないとな……」
「はあ……そうですか」
「当たり前だろ。先生もちょっとやりすぎなんだよ」
「やりすぎですか?」
ギロリと睨みつけるとなぜか平然とした顔で返された。
「いや、なんでわかってねえんだよ。あのなあ、ああいうのは……その、いやじゃないんだけど……あんまりハメをはずしすぎるのはだな……」
「はあ」
「わかってんのか、本当に?」
嘘くさいなあと思いながら、言葉を投げる。
ネギがニッコリと笑って顔を上げた。
「はい。次はもっと優しくしますね」
「おかしいよな、その台詞」
やっぱビタイチ反省してないんじゃないかこいつ?
なんでわたしだけが気を揉んでいるんだ。
やはり自分のことを棚上げしてでも説教しておこう、と千雨がネギに向き直る。
「? どうしたんですか、千雨さん」
「いや、あのな、先生。わたしが言えた台詞じゃないけど、日本では……というかそもそもお前は教師でわたしは生徒であってだなあ――――」
ため息を吐きながら、このどうにもいまだにこの状況の危険さがわかっていないらしい先生にいろいろと言ってやろうと千雨は大きく息を吐き、
そして、そんなタイミングをちょうど見計らったかのように
ピンポーン
とずいぶんと聞きなれた音が部屋の中に響いてきた。
◆
アホみたいに怠惰に流されていたツケがでた。
せめてあと一日、いや一時間でいいから待ってほしかった。
「あのー、千雨さんいますかー。お昼ご一緒しませんかー?」
来客は相坂さよだった。
ドアの向こう側から声がする。
さすがにこんなシーンを見られるのはまずすぎる。
本気でわかっていないのかどうなのかネギはいまだに自覚がないが、千雨はわかるわからないのレベルではなく、玄関の向こうに朝倉和美や雪広あやかがいたら、退学に免職。そのまま屋上から飛び降りてもおかしくない問題だと考えている。
ノブが回されて、トントンとノックされる。
今のさよはドアをすり抜けられないことだけが救いだ。
千雨は起き上がろうとして、上半身を持ち上げ、そのままへたり込んだ。
腰に力が入らない。
横でオロオロしているエロガッパの所為だ。
ちらりとベッドの横にある携帯電話を見れば、2件の不在着信がある。
時間からしてついさっきだった。
眠っていた、というより半ば意識を飛ばしていて気づかなかったのだろう。
「ああ、そういえばさっき鳴ってました」
「いえよっ!」
小声で怒鳴るという器用な真似をする千雨に、ネギが申し訳なさそうな顔を返した。。
「どうしましょう、千雨さん。少し恥ずかしいですけど、さよさんなら事情を説明して外でちょっと待っててもらいますか?」
「…………いや、あの。いや……マジでいってんのか?」
胡乱気な視線を向けながら、千雨が答えた。
大物を通り越してこの先生はどこかおかしくなっているのではなかろうかと、一週回って心配してしまう。
「どうしたんですか?」
「なんでもない。惚れ直したよ」
「えっ、そんな」
ネギが赤くなった。だが頭を引っ叩いて矯正している暇は無い。
「皮肉だ、あほたれ。居留守を使うぞ」
「居留守ですか?」
「ああ」
ガチャガチャとなるノブを見ながら千雨が言う。
今日はカギがかかっていたことに千雨がほっと息を吐く。
いつまでも懲りない千雨だが、今日はネギがカギをかけていたのだ。
だが、千雨も頭が回っていない。
千雨はネギとさよに渡しているものがあるはずだ。
「うー。じゃあ、中で待たせてもらおうっと。えーっと、合鍵を……どこにしまったっけ……」
そんな台詞に千雨の顔を引きつった。
いや、まあ普段の相坂と自分だったら当たり前の行為なわけだが、いまはちょっとまずすぎる。
「えっ、あの。千雨さん。さすがに入ってもらうのは……やっぱり説明していまは遠慮してもらいましょう」
「だからそれは世間知らずってレベルじゃねえだろっ!」
ネギの言葉に千雨が再度怒鳴った。もちろん小声で。
なんでこの年で昼ドラそのままな展開を体験しなくてはいけないのだ。
千雨にはネギの思考が読めていない。
つまるところ、簡単にいえば、ネギは千雨と付き合っているのは二人で愛の言葉を交わしたからだと真面目に思っている。
千雨だって似たようなものだが、そこからの考えに決定的な違いがあった。
ネギは一度恋人になった以上、その前提の上でこうしているのは、人としてはまったくおかしくないと考えているわけだ。
教師や生徒に関する倫理観も一応持ってはいるものの、いまこうして、このような状況になった以上、それを秘匿するべきではないと捉えている。
さすがに恥ずかしいという感情はあるが、そこに背徳感といったものはない。ある意味突き抜けている倫理観だ。
千雨が以前に言ったネギへの言葉。秘密にしていることがあり、それを誇りとしたいなら、それを釈明した上での許しを得る、そういう概念を基にしたネギの根幹。
だから当たり前のようにこういう台詞を吐いたりするのだが、元凶の千雨もさすがに応じられない。千雨は煽りはするが、基本はヘタレだ。
常識をよりどころに形成されてきた人格はそう簡単には裏切れない。
だって、どう好意的に解釈しても、生徒と教師はまずすぎる。この場所にネギがいるのがすでにぎりぎりなのだ。
変に生徒と同居させたりするから感覚が麻痺するんだ、と千雨は学園長を脳内で呪った。
だが、情操教育の薄いネギがこうなってしまったのは、半ば以上ルビーと千雨の所為である。わりと自業自得だ。
だからこそ、実際のところ、まだまだ人生経験の足らないネギにそういうことを教えるのは千雨の役目なのだが、いまのテンパった千雨は自分の非を棚上げして自分以外を呪っている。
「あ、あった。えーっと……」
ガチャリと鍵穴にカギを差し込まれる音がする。
うなっていた千雨がさすがにあせって体を上げる。
「っ!? 『閉じろ』! 『施錠の4番』!」
反射的に千雨がベッドの上から閉錠の魔術をほどこした。
ルビー仕込みの施錠の魔術。
十歩離れた距離からのツーワードからなるその魔術。ルビーの実家じゃあるまいし、無駄に怪しまれるだけだと一度も使ったことがなかったが、ぶっつけ本番で役立った。
ガチャリ、と音がして合鍵によってドアのカギが開くと同時に、扉に魔術のカンヌキがかけられる。
ルビーが見ればなかなかの技だと評価しただろう。
相坂さよが再度ノブを回すが、当然扉は開かない。
「……あれ?」
ガチャガチャと音が鳴る。
千雨はゼハゼハと息を吐く。ギリギリすぎるタイミングだった。
そんな千雨にネギが声をかける。
「あ、あの千雨さん」
「なんだよ。本気で自覚ないのか? あとでじっくりとその辺を……」
「いや、そうじゃなくてですね」
「ああっ? なんだよ」
間に合ったことに千雨が安堵のため息を漏らし――――
「あのー、いまのって千雨さんの声ですよねー。いらっしゃるんですかー」
――――ヒクリと千雨の頬がつる。
距離が離れた場所ならば、そこまで届く呪文がいる。
自己暗示に等しい呪文でも、十歩先の扉に魔術をかけたいのなら、十歩先まで届く程度の声がいるのが一般的だ。
例外もあるにはあるが、それが基本。
そして寮の扉は安物ではないが、別段防音性に特化してるわけじゃない。
つまり、
「そんな大声出したら聞こえちゃうと思いますけど」
「…………」
そんな当たり前のことだった。
◆
「そ、その今日はちょっと都合が悪いんだが……」
「なんでですか? いま起きたとことかなら、わたしは気にしませんけど」
「わたしは気にするけど……いや、そもそも来客中で、ちょっとなんだ……人に見られるとまずいんだよっ、ほら。あのさ」
玄関のドア越しに会話する。
いいわけめいた言葉を口にするが、それも当然。
毛布だけを羽織った姿で玄関の前に佇む千雨の姿は見せられまい。
部屋の中でまってろと言いつけたネギは、はらはらとした表情をしながらちゃっかり服を着替え終わっている。千雨はあとでネギを引っぱたこうと決意した。
「来客ですか? 誰ですか?」
「~っ!」
いえるはずない。千雨は迂闊に来客だなどといってしまった自分を呪った。
さよのほうも、持ち前のお気楽さと、幽霊出身の常識のなさで、いまいち事態を把握しないまま、千雨に声をかけている。
だがどうにも強行はよろしくないということだけは感じ取れる。
「あの、千雨さん? 都合が悪いようでしたら、わたしは……」
「い、いや。ゴメン。あのだな。…………その、来客ってのは」
さよが空気を読んだのか出直そうかと声をかけ、罪悪感から千雨は一瞬返答に詰まった。
相坂には黙っておくと決めているものの、やはり実際にこういう立場に立てば千雨は弱い。
根が善人の千雨にとって騙すというのは、決心していても実行には戸惑いがでる。
というより、ここで誤魔化してももはやどうにもならない気がしてならない。
いっそ相坂だったのは幸運だと割り切って、本当に話してしまうかと、無我の境地に達しようとしたその瞬間、
「おい、何をしている。相坂さよ」
「あっ、エヴァンジェリンさんに茶々丸さん」
おわった。
「相坂さんもこちらでしたか」
「はい。あの、エヴァンジェリンさんたちも?」
「ああ、ルビーの共振の魔術を利用したとか言う宝石についてちょっとな……、どうした、千雨はいないのか?」
「いえ。その、来客中とかで……」
「その手に持ってる鍵は何だ?」
「あっ、でも千雨さんが魔法で閉めちゃってて」
「…………ほう」
いやなアクセントの相槌だった。
部屋の奥にいるネギにはエヴァンジェリンの声までは聞こえていないようだ。いつもどおりポケッとした顔で、放心しかけた千雨のことを見守っている。
千雨が思考を飛ばしていると、外からエヴァンジェリンたちの声がする。
「あけろ、茶々丸」
「えっ!? いや、ですがマスター」
「かまわん。あのバカにはいい薬だろ」
「は、はあ。わかりました。あの、すいません。千雨さん」
もう言葉を発する元気もなくした千雨としては、むしろ茶々丸の気遣いがありがたい。
玄関からは封印結界の解除に特化したエヴァンジェリンの自慢の従者、絡繰茶々丸の解封システムの動作音が響きはじめる。
ルビーの協力で解呪だけは無駄に特化している絡繰茶々丸の最新システムである。
玄関先でそんなものを発動させるな、と千雨は思った。
誰か通りかかってこのちびっ子をしょっ引いてくれないだろうか。くれないだろうな。ああ見えて抜けているエヴァンジェリンだが、その分従者の絡繰茶々丸はそういうところに気が回る。周りの探知くらいは当然しているだろう。
「あの、いいんですか? エヴァンジェリンさん。そんな、勝手に……」
「あっ? ああ、まあ予想はつくからな。あのバカ、過剰にびびってるようだが……まあいいんじゃないか? お前ならかまわんだろう。長谷川千雨の親友を名乗るならな」
勝手に決めるな。いや親友という言葉に突っ込んだわけじゃない。相坂さよに秘密を知らせることに突っ込んだのだ。
というか、エヴァンジェリンは微妙に、そして決定的に勘違いしていると思う。
へたり込んだ千雨に、さすがに心配になったのか、ネギがどうしたのかと声をかける。
しかし千雨にはそれに答える元気はない。
ちゃくちゃくと堀が埋められていくのを感じるだけだ。
「は、はあ……あの、でもちょっと、千雨さん嫌がっていたような。あの、茶々丸さん」
「マスターの命は絶対ですので………………もうしわけありません。あの、開きます」
さよの不安げな声に、茶々丸がこたえる。
その言葉は果たして本当にエヴァンジェリンに告げられたものだったのか。わざわざ開く瞬間にそう告げる。
エヴァンジェリンと相坂さよと絡繰茶々丸の視線が長谷川千雨の部屋の扉に向けられる。
そして、
――――――――パリン、と扉の封印が破られて、
◆◆◆
「先生。どうぞ」
千雨がネギに声をかけ、テーブルに皿を並べる。
「わあ、おいしそうですね」
そうですか? と千雨が笑う。
午睡の時間。千雨の部屋の中、ネギの前に並べられたのは、クッキーなど彩り鮮やかなお茶請けだった。
「千雨さんは料理も得意なんですか?」
「いや、得意ってわけじゃない。どっちかっていうと苦手かな。クッキーとかは、その……」
「ああ、ちう関係ですか?」
臆面もなくネギが口にする。
千雨はその言葉にすこしだけ頬を染めてうなずいた。
「そういえばウェイトレスの姿をしているときに、お盆とクッキーを持ってましたね」
「そこまで見てるのか」
「はい」
頷きながらネギがクッキーをかじる。
無言でさくさくと食べるネギの表情を見て、千雨は微笑んだ。
なごむ姿だ。
「まあ、小道具だから見てくれだけなんだ。まずいとは思わないが、近衛には勝てないよ」
「でもとても美味しいです」
「そりゃどうも」
千雨が肩をすくめた。
まあ自分でも下手だとは思っていない。一人住まいをしていると、ある程度の料理は出来るようになるものだ。
そもそも料理なんてのはレシピどおり作っていればまずくなるはずがない。おいしく作るのが難しいだけで、平均点を取れないのは腕の問題ではない。
超や四葉、近衛などと一緒に住んでいれば必要ないだろうが、当番制だったりすればそこそこの腕にはなるわけだ。
ある程度の材料に、ある程度の完成品だし、木乃香や超などには比べるべくもないが、さすがにまずいとは思っていない。
「先生、ほっぺたに……」
「えっ?」
「ほらっ、ここに」
千雨はナプキンを手に取ると、ネギの頬をぬぐった。
手で取って食べるような選択は千雨にはない。
しかし、その仕草はやはり優しさとかわいらしさに溢れていた。
頬をぬぐわれたネギが顔を赤くする。
「そういうところはまだ子供だな」
「……もう、そんなことありません」
プイッとネギが膨れる。
それに千雨がすこし微笑んだ。
いつもの硬さと剣呑さがまったくないやさしい笑みだ。いつもは見せてくれないほんのわずかに一瞬だけ長谷川千雨が覗かせるそういう笑顔。
その笑顔は、千雨自身が評価する凡人並みの顔どころか、改めてネギが一瞬見ほれるほどに純粋で美しいものである。
そう、まるで現実逃避をし終わったばかりのような、悟りを開いた笑みだった。
厄介ごとを乗り越えて、面白半分のお説教から一週回って哀れみを抱きはじめた吸血鬼が、ごまかしごまかし友人を一時的に連れ去ってくれたあとのような、そんな微笑。
あとでエヴァンジェリンには感謝の言葉でも送るべきだろうか? いや、相坂をごまかしたのはエヴァンジェリンだが、元凶もあいつだ。やはり感謝の念を持つ必要は無い。千雨は笑顔を維持しながら意外と暗いことを考えた。
千雨は微笑みながら悪巧みも出来るのだ。
お昼をすぎた午睡の時間。
そんなこんなで一騒動を終えた千雨とネギは二人っきりで、手作りクッキーの乗ったテーブルを囲んでいた。
「先生のところは近衛がいるからな。料理好きの同居人ってのは素直にうらやましいよ」
「そうですね。とても料理がお上手です。四葉さんたちのサークルには入ってないみたいですけど」
「ああ、料理研究会だったか。あいつらも大概うまいよな。まああそこは超包子に直結してるところもあるし、近衛の趣味には会わないのかもな」
料理上手と料理好きは綿密に関係することが多いものの別物だ。前者はアビリティだが、料理好きはキャラクターである。
クッキーを自分で食べるためでなく小道具と言い切る千雨にとっては料理を作ってくれる同居人がいれば自分も精進しようなどとはせず、すべて任せていただろう。
だがこうして先生に手料理を振舞う機会があったことを考えれば、ある程度の料理を覚えていたのは無駄ではなかった。
「まあ、料理を作ってくれるやつがいるってのは幸福だよ。先生も近衛に恩返しでもしとくんだな。食費とかじゃ受けとらなそうだけど。ああ、もちろん神楽坂にもな」
「あっ、そうですね。ああ、そういえばもうすぐアスナさんの誕生日です」
「そうだっけか」
さすがに神楽坂の誕生日は覚えていない。というより千雨は同じクラスメイトで誕生日を把握しているもののほうがすくない。
「そういえば、先生は料理は?」
男でこの年齢では出来るほうがおかしいが、このガキほど見た目にだまされてはいけないやつはいない。
千雨の想像通り、ネギはその言葉にうなずいた。
「あっ、ボクこの学園にくるまでおじさんの家の離れを借りて一人暮らしをしてましたから。お姉ちゃんやアーニャに料理を作ってもらったりもしましたけど、作り方だけはそのとき覚えたんです。今度作ってさしあげますね」
そう言って新しいクッキーを手に取った。
ネギが一人暮らしをしていたというのははじめて聞いた。別段いじめられているようではなかったので千雨は流したが、普通の十歳児にやらせるようなことでもない。
千雨は魔法使いはこういうものなのかと、頭の中で考えているが、これは魔法使いとしても特殊である。
ネギは自分の特殊さを認識せず、千雨は魔法使いの性質をネギを規準に学んでいる。
「まっ、期待して待ってるよ」
だから大して驚くこともせず、新しいクッキーをかじりながら千雨は言った。
◆
「エヴァンジェリンさんが言うには京都に父さんが一時期住んでいた家があるそうなんです」
「へえ、よく知ってるなあいつ。ああ、だから今度の修学旅行は京都なのか?」
「あれはたまたまです。いいんちょさんがボクのために京都にしてくれたっていってましたけど」
「ああ、そういやいってたな。渡りに船ってことか」
二人っきりでお茶を飲む。話題はエヴァンジェリンとネギのことだ。
「いえ、京都に決まったのは、またべつに理由があるみたいでした。あの、学園長からの要務があって……」
「またかよ。先生も大概忙しいな」
「でも手紙を届けるだけだそうですから」
ふーんとうなずいてお茶でのどを潤した。
よくわからないが、魔法使い間にもいろいろとあるのだろう。魔法の国然りと、麻帆良だけで完結しているというわけではないわけだ。
というか、それはつまり、またもや先生側の都合で修学旅行先を決められたということなのだろうか?
委員長然り、別段不満を持っているものがいるわけではなさそうだからいいものの、千雨としては眉をしかめるしかない。
だが同時に文句も言えない。
別段危ないわけでもないなら、千雨が干渉することではないし、どのみち千雨がどうこうできる問題ではあるまい。
「そういえば、エヴァンジェリンさんはボクが父さんが生きていることを教えたらずいぶん驚いてました」
「あいつ知らなかったのか?」
「そうらしいです。千雨さんは知ってたんですね」
「ルビーに教えられてたな。あいつがどこで知ったのかは知らないけど。行方不明が常識なのかと思ってた。エヴァンジェリンもほれてる男のことだってのに調べてなかったのか」
「ぜんぜん知らないみたいでした。それに父さんが生きているって話はあんまり信じてもらえるようなものでもありません。千雨さんが知っていたことのほうが驚きです」
ネギはすこしつらそうに言った。
考えてみればまだ幼かった彼が父に助けられ、そして杖を託された出来事をずっと秘密にし続けられるはずがない。
そもそも実際に杖を受け取っているのだ。
周りの皆に話をして、だけどそれは疑問視し続けられた。ネギはどれほど否定されようとナギの生存を疑うことはなかったが、周りが半信半疑のままであるというのはさすがにつらかった。
エヴァンジェリンがあそこまで明け透けにネギの話を信じてくれたのは、ネギにとっては久方ぶりの経験だった。
「ああ、だからエヴァンジェリンのやつ機嫌がよかったのか」
「そうですか?」
「乙女チックににやついてただろ。てかそれ教えればあの騒ぎって起こらなかったんじゃないか?」
「えっ?」
「だって、エヴァンジェリンが先生を狙ったのはもう封印が解けないと思ったからだろ? ナギさんが生きてるって言うならそんなこと考えるはずがねえじゃん」
千雨が憂鬱そうに言った。
たしか、封印のかけ手であるナギが帰ってこないと思っていたからこそネギの血を狙ったのだ。ナギが生きているならその息子を殺してまで封印をとこうなどと思うはずがない。
「そしたらあれってすげえ無駄骨じゃねえか」
うわーと千雨が声を上げる。
魔弾の受け損だ。
エヴァンジェリンとの初戦といい、戦いそのものより情報やその場の判断の重要性がわかる。
回避可能な戦いをわざわざ戦っては、たとえ戦いを制したところですでに一敗しているようなものだ。
その姿を見てネギがうー、と目を潤ませた。両手を胸元に掻き抱いて行うその姿は、さすがに委員長から一目ぼれされるだけのことはある。簡単に言えばショタ受けしすぎる姿だ。
ネギにとってはあれは千雨とパートナーになる大きな分岐点だった。無駄といわれれば怒るのは当然である。
「でも千雨さんにパートナーにもなっていただけました」
「まあわたしもエヴァンジェリンに意趣返しできたけどさあ」
千雨がうなる。どうにも納得しがたい。
それにパートナーになったといってもネギの基準から言うところのパートナーになったわけではない。
「それに魔術師としてパスは結んだけど、本来の魔法使いのパートナーってのはなんか儀式がいるんだろ。このあいだ宮崎にやろうとしてたみたいなやつが。それに神楽坂とは先にパートナーになってたらしいしさ」
「知ってたんですかっ!?」
そういや言ってなかったな、と千雨が頬を掻く。
明日菜のことはまだしも、宮崎のことを知られているとは、ネギは微塵も考えていなかった。
だが、千雨は宮崎のどかの件は隠れて見ていたし、エヴァンジェリンの戦いに横槍入れた千雨が明日菜のことを知らないはずがない。
だがネギにとってはそこを千雨にふれられるのは罪悪感を刺激されるようだ。
申し訳なさそうな顔をした。
「わるいな。宮崎のはこっそり覗いてたんだ。知ってたよ。先生がばっちりキスしようとしてたところもな」
「あ、あれはまだしてませんでしたっ!」
千雨が笑った。ネギの反応は予想通りすぎる。
「じゃあ神楽坂はどうなるんだよ」
「あ、あれは千雨さんがパートナーになってくれないって言うから……それにしたというか奪われたというか。あっ、それにアスナさんもあれはカウントしないって言ってました!」
「……くくく」
「千雨さんっ!」
必死になるネギの姿に千雨が噴出す。このガキは乙女チックすぎだ。
ぷくーとネギが脹れた。
「そんなに怒るなよ。それで結局魔法のパートナーってのはなんだったんだ?」
「魔術とあんまり変わらない気もしますけど……この、パクティオーカードというのがもらえるんです。えっと……これです」
ネギが一枚のカードを取り出す。
神楽坂の絵が描いてあった。大剣を片手にたたずむ制服姿のパートナー。名前はローマ字。後は属性その他の情報だろう。
受け取ると、千雨は面白そうにそれを眺めた。
「魔術と変わらないねえ……そんなことないと思うけどな。それってなんか固有の特殊能力を持ったアイテムを使えるようになるんだろ?」
「えっ?」
驚いたような声をネギが上げた。
千雨はあきれた。
知らなかったのか、こいつ?
「アーティファクトとか言うのを具現化できるって聞いてるぞ。あとは念話とか、相手の召喚とかが可能だって」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。ルビーが言ってた。嘘ってことはないだろうから、これも神楽坂が使えば何かを具現化できるはずだ。結構多様性に富んでて、機能もかなりすごいらしいな。ルビーは相手を召喚させる擬似的な空間転移のほうに興奮してたけど……」
まだまだ魔術師見習いの千雨としては、空間移動の謎を解き明かすよりもお手軽にアーティファクトとやらに驚いていたい。
現実的に考えれば物理的なアイテムが貰えるというのは常識外れに破格である。
ネギはいまいちわかっていないが、魔術と変わらないどころではない。物質固有化と術的干渉能力を持つアイテムの具現ではまるで宝具だ。
適当に契約結びまくったらどうなるんだろう、と千雨はこっそり思った。
まあ、その場合はネギがずいぶんと活躍しなければいけないだろうが、魔術師として考えれば、それだけのことだ。
契約方法はキスらしい。もちろん魔術と同様に別の手もあるようだが、たかがキス一つでそんなトンでも契約が完遂するとは魔術よりよほど単純だ。
こういうところでも魔法は魔術を凌駕している。
「あの、千雨さん……」
「あーっ、わたしともってか?」
「は、はい」
ちょうどパクティオーカードの話をしていたからだろう。いい機会だとネギが話を切り出した。
千雨の言葉にネギがうなずく。
「うーん。いや、やめとく」
千雨としてもここでネギとパクティオーを行うという選択肢は十分ありえるが、その提案に首を振った。
「えっ……なんでですか?」
「契約についてわたしが無知すぎるからだ」
「は、はあ」
「それに、実際に契約をするときにあのオコジョの手を借りなきゃいけないってのも気に入らないな」
千雨が肩をすくめた。
言い訳のようだが、これは真理だ。
いまの千雨は魔術師である。力を貪欲に求める魔法使いとは異なり、魔術師はひとつの道を探求する職であり、わざわざ他流派の契約を結ぶことには意味がない。魔術とは己の流派の不都合をも利用する。効率を重視することが近道とは限らないのだ。
まだ未熟ないまの千雨が魔法を力として取り込めば、それは魔術の力を劣化させるだろう。
魔法使いと魔術師間で満足に魔力の伝達もできないような契約を結ぶ気はない。
固有の道具にテレポート、そして相手の生死の確認とできることはいろいろあるが、いまとなっては、本当に必要だという状況にでもならない限り結ぶことはないだろう。
そんな千雨の強引な論法にネギがあきれた顔をする。
しかしネギもべつだん仮契約にこだわったりはしなかった。
だって自分と千雨はいまさら絆を結びなおす必要もないからだ。
エヴァンジェリンももう襲ってこないだろうし、あせることはないだろう。
だが興味自体はあるのか、千雨は明日菜とネギのパクティオーカードを手に取った。
それをもてあそびながら、ぼうっと千雨がネギを見る。
その視線はネギの唇あたりをさまよっていた。
血色のよい赤い唇。自分はその感触を知っている。
「神楽坂ともしたんだよな、キス」
「ええっ!?」
ぼっ、とネギが赤くなった。
口に出す瞬間まで別段他意はなかったのに、そんな反応をされると逆に困る。浮気の証拠というわけでもあるまいに。
「え……でも、その」
「いや、別にいいんだけどさ」
魔術師として、恋人が契約に連なるキスをしようが他者と体を重ねようが、文句を言う資格は……たぶんない。
むしろキスくらいで済むなら、歓迎すべき温さな気がする。
千雨も最近自分の中の常識が信じられない。
怒るべきところなの怒れないことと、怒らなくてもいいところで怒ってしまうのは同一のベクトルに位置する常識の崩壊だ。
千雨だってべつにほかの誰かとキスする気など毛頭ないが、それをネギに強要できる立場ではない。
「ち、違います! あれは仮契約ですっ、キスとは違うものなんですっ!」
そんなことを考えていたらネギが叫んだ。
どんな理屈だ。
「いや、別に怒ってるわけじゃないよ。……べつにいいんじゃないか? 宮崎や神楽坂の件はしょうがなかったと思うぞ。それにわたしも魔術師だ。必要に駆られる契約なら文句を言う筋合いもないだろうし」
ぼけっとして千雨が言った。
「うっ……そ、そうなんでしょうか」
「まあ、そりゃそうだろ」
「で、でも。ボクは千雨さんにほかの人とキスをしてほしくはありません」
「うえっ!?」
動揺で手からカードが落ちた。
うかつにも動揺したためだ。
忘れていた。
こいつはキスと仮契約は別物だといったさきから、ぬけぬけとこういうことを言うやつなのだ。
一回天罰が下るべきだろう。
「い、いや。その……ありがと……」
「いえ……」
なんだこのやり取りは。
ネギはその反応に満足したのかエヘヘと笑い、照れた二人がそろってカアと赤くなる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
熱くなる二人の頬とは対象に、紅茶はだんだんと冷めていく。
そんないつもの一幕だった。
◆◆◆
「さて、じゃあはじめるぞ、先生、相坂」
「はい、わかりました」
「お願いします、千雨さん」
千雨に向かいネギたちが姿勢を正した。
すでに日も落ちた千雨の部屋。その場には、エヴァンジェリンに連れ去られていた相坂さよが戻ってきている。
千雨は二人の前で、ルビー印の古びたランプを手に取った。
「正直、ルビーがいないのにやっても意味ないと思うんだけど……えーっとまず【強化】を」
そういいながらランプを固め、
「次に【着火】を」
ランプに火をつけ、
「でもって【動け】と」
躁炎の魔術を持って、ランプの炎を躍らせて、
「あとは【割れろ】と【直れ】と【火よ 消えよ】って感じか」
ランプが割れて火が飛び出し、それを制御しながら、ランプを直す。直したランプに炎を戻してそれを消す。
黙々とワンワードの魔術を続けるその姿。
流れるような技だった。
毎日延々と繰り返している作業なだけのことはあるが、それにしても瞠目すべきレベルの力だ。
千雨は比べるべきものがルビーしかいないので自覚していないが、速度だけに限らず、ルビーの世界でも最速・最高レベルである。
技術ではなく、能力を受け継いだとはいえ異能すぎる。
ルビーの力をそのまま取り込んだことがどれほど強い影響を与えているかを証明するような行為だ。
「と、まあこんな感じだな。最近ルビーもほめてくれる程度にはなったけど……」
「キャー、すごいです千雨さん。さすがですっ。すてきっ!」
「す、すごいですね。魔力発動体もないのに……」
相坂から黄色い声援が、ネギからは感嘆の声が上がる。
千雨はすこし照れながら答えた。
「発動体か。あったほうがいいってのは聞くけど……そうだな、魔術では必須じゃない」
正確には魔術回路がネギの言うところの杖や指輪などの魔法発動体に、杖は増幅器になるのだろうが、そこらへんは千雨もよくわかっていない。今度ルビーに聞いてみようと思いながら千雨はランプを机に置いた。
まあこの場で重要なのは、千雨に杖は必要ないということだ。
ネギはしげしげと見つめながらランプを手に取る。
始動キーを使わない制御系の魔法。
格闘に属する魔法ならまだしも、炎の操作や物質の修復を一言で行うのはかなりのレベルだ。
また、発動体を使用しない魔法などは、そもそも人外であるエヴァンジェリンでもない限り普通は使えない。
改めて、先日知った魔術のすごさを確認する。
「で、だ。これを教えてほしいって話だけど」
「はいっ」
「わたしもですっ」
ネギと相坂がそろって声を上げた。
千雨はぽりぽりと頬をかく。
かつては考えもしなかった光景だ。
あの超常嫌いの長谷川千雨が、魔法先生と元幽霊相手に魔術の講義を始めようとしている。
この世界の運命とやらに苦笑いをしながら、千雨はいった。
「んー、まあ適当にはじめるか」
◆
「千雨ちゃん、いるー?」
インターホンがなって、明日菜の声が玄関から響いた。
ガチャリとドアが開いて、千雨が顔を出す。その顔はつかれきっていた。
「あっ、千雨ちゃん。ネギ来てない?」
「んーっ。ああ、神楽坂か。先生なら来てるよ」
「そろそろ夕食にしようと思ってるんだけど、木乃香がネギはどうするかって」
「ああ、そうか。じゃあもう帰したほうがいいな」
きょろきょろと明日菜の背後をうかがってから千雨が答えた。
入るように促す。
お邪魔します、という声とともに明日菜が千雨に続く。
部屋の奥では異様な雰囲気をまとったネギとさよがランプ片手に座り込んでいる。
「えっと、なにやってんの?」
「あっ、アスナさん。実は千雨さんに魔術を習っていたんです」
「わたしもですっ!」
明日菜がきたことに驚きながらネギとさよが答える。
さよは元気な返事をするものの視線はランプに固定されたままだ。どれほど熱心なのかが伺える。
そもそもさよが魔術を習いたいという話は以前から提案していたのだ。
ルビーはほとんど出てこれないうえに、千雨に教えるほどの技量と熱意がなく、さらにはネギとエヴァンジェリンの問題などといろいろな要素が重なって延期していたに過ぎない。
今回ネギも魔術が見たいといったから、いい機会だと見せてはいるが、本来千雨は魔術の運用はまだしも、理解については人に教えを授けるほどではない。
「教えるっていうか見せてただけだけどな。本当は教えるほど達者じゃないし、見せるだけってのもどうかと思ってたんだけど」
言い訳のように千雨が口にした。自分をまだまだ未熟だと感じている千雨にとって、人に魔術の講義を開くというのをはっきり口にするのはなかなか恥ずかしい。身の程知らずだ。
明日菜はふーんと頷いた。
千雨の魔術を彼女は目にしていない。停電の日は茶々丸に捉えられて気絶していた。
あとからネギから話を聞いただけだ。
たしか相手を病気にさせる魔法を使うとか言っていたか。
「このランプは?」
「これに火をつける練習をしていました。魔法の応用で出来ないかなと思って」
「よくわかんないけど、あんた空飛んだりビームを撃ったり出来るじゃない。火くらいつけられないの?」
「始動キーや杖がないとやっぱり難しいです。いろいろと考えるところがありました」
そういってネギはランプを置いた。
顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。千雨は腕組みをしたままその光景を見ていた。
しょぼい魔術だったが無駄にはならなかったらしい。
こいつはかなり理論派だ。魔術と相性がいいのだろう。
「ふーん、よくわからないけど、あんたも頑張ってるってことね」
感心したように明日菜が言った。
「でも夕食前には帰ってきなさいよ。木乃香が困ってたわよ」
「あっ、もうそんな時間ですか。すいません」
ネギの熱心さを知っている明日菜がため息混じりにいった。
ネギが頭を下げる。
「千雨さん。わたしたちも夕食にしますか?」
「だな。まあこのくらいでいいだろ。今度ルビーに見せておくよ」
さよとネギのいじっていたランプを手に取ると千雨は答えた。
ひび割れたガラスに、燻れた火種。かすかな魔術の痕跡が残る古ランプ。
かつての千雨も似たようなものだった。
このランプは魔力の通りやすい細工がしてあるからこうしてある程度の成果も見れるが、それでも所詮このレベル。
失敗しようが成功しようが、非常に地味だ。相坂はまだしも空を自由に飛べる魔法使いが、よくもまあこんなことをやる気になる。
千雨もルビーの意思を継いでいるという状況がなければ、こんな魔術よりも箒で空を飛んでみたかった。修復や炎の制御はうまくなったが、空はいまだに飛べない千雨は思う。
最近だんだんと魔法に関わるのに慣れている今の千雨だからこその思考だ。昔なら空に憧れようと箒で空を飛んでみたいなどとは絶対に考えなかっただろう。
「そういや相坂はエヴァンジェリンには弟子入りしないのか? 一緒に住んでるのに」
「わたしは魔法使いじゃなくて、魔術師になりますっ! 人形師としてルビーさんと千雨さんの後を継ぐという野望がありますからっ!」
無駄に燃えながらさよが答えた。
ちなみにルビーも千雨も本業は人形師ではない。
「魔術はまだしも人形はエヴァンジェリンな気もするけどな」
絡繰茶々丸を従えるあのちびっ子は大層な二つ名のうちの一つに人形遣いを冠するものを持っていたはずだ。そして現在は魔術についても知識を得ている。
あきれたように千雨が言ったが、相坂は意に返さない。
しかし千雨も相坂さよがルビーと自分にこれ以上ないほどの恩を感じているのを知っているだけにそれほど突っ込みもしない。
自惚れまじりかもしれないが、自分とルビーに習いたいのだろう。
「魔術師?」
「ああ、神楽坂には説明してなかったか。そうだな、中華と洋食みたいなもんだと思ってくれ。わたしが使うのは先生の魔法とはちょっと違うんだ。魔法じゃなくて魔術っていってな」
「へー。いろいろあんのねえ」
「まあな」
二人して軽く笑いあう。苦労人同士なにかわかりあうものがあったのだろう。
それじゃあ、と玄関に向かおうとする明日菜に、ふと思い出したことがあった千雨が口を開き、
「そういや、神楽坂、おまえ魔法のカードをもらったんだろ。今度ちょっとアーティファクトってやつを見せてくれないか。えーっとたしか――――」
「――――パクティオーカードっす!」
「えっ」とネギと千雨とさよと明日菜が、四人そろって声を上げ、
「おれっちのサポートによって生まれた魔法使いの必殺アイテム。汎用万能のミラクルアイテムっすよっ、姐さんがたっ!」
玄関先から飛び出るカモミールがそう叫ぶ。
「ちょっと、勝手に入らないのっ!」
オコジョはぴょんぴょんと跳ねながら明日菜の肩に飛び乗った。
ついに表れたその生き物の姿に、ヒクリと千雨が頬を引きつらせた。
人の好嫌を計るトラブルメーカー。
エヴァンジェリンとの騒動の後、動物病院に連れていかれ、そこで治療を受けていたオコジョ妖精のカモミール。一体いつの間に出てきたのか。
今までの平穏を思い出して、千雨は深く息を吐く。
平和はなくなってありがたみを感じるものだなんて、そんな陳腐な格言を理解した。
早速オコジョからちらちらとニヤケ面を向けられる千雨は胃がきりきりと痛むのを感じていた。
◆◆◆
「そういうわけで、ひどいんすよ、兄貴―。あの医者ったら嫌がるオレっちにぶすぶすと注射をっすねえ」
「でもカモくんすごい熱だったしね。しょうがないよ。それに治ってよかったね」
「よくばれなかったな」
「ありゃ、絶対にただの風邪じゃないっすよっ。兄貴たちがやりあったときに、いきなり変な魔法撃たれて、気づいたら病院だったんすよっ! わけわかんねえっス! あの吸血鬼がなにかしたにきまってまさあっ!」
「ああ、そりゃ確実にあいつの仕業だな。ひどいやつだ。今度文句でもいいに行くといいぞ」
「…………ま、まあそれは別にいいとしてさ、なんで出て来てんのよあんた。誰も引き取りにいってないのに……」
明日菜の言葉にカモミールが胸を張る。
「風邪さえ治っちまえばこっちのもんすよ。俺っちの技術でちょいちょいっとすねえ」
「脱走してきたってことかよ……」
「カモさん、そんなことも出来るんですかあ。すごいですね」
「それリアクション間違ってないか?」
絶対に動物病院のほうで一騒動起こっていると感じているのは千雨だけだ。
この後こっそりとフォローしに行くべきだろうか?
くそっ、もう数日は余裕があると思ってた。あと一年くらい寝ていればよかったものを。
だが予想外にも、カモは帰ろうとする明日菜を呼び止めるでもなく、ネギの肩に飛び乗った。
もともと明日菜はネギを呼びにきたのだ。
部屋では近衛木乃香が待っている。そうそう長居もしていられない。
すこしざわついたものの、すぐに彼らは帰ることになった。
「じゃあ、そろそろ失礼しますね」
「そうね。ほら、あんたも来なさい。もう勝手に出てきて……」
「わかってますって姐さん」
去っていく二人と一匹の姿に千雨がつかれきって手を振った。
正直なところ関わりたくはないが、そうもいくまい。
はやめに手を打っておかないとこのオコジョは致命的な騒ぎを起こす気がする。
と、そんなことを長谷川千雨は考える。
だが、うっかりもののカレイドルビーの現マスター。そいつはちょっと甘すぎる。
はやめに、なんて考えはたいていいつも遅すぎるのだ。
大概にしてこういうことはどれほど早く動いても手遅れだ。
そもそもこのオコジョ妖精は簡単に言っているが、彼のもつ人の恋心や情感を数値化できる能力など馬鹿げているにもほどがある力である。
父親と母親を前にして、どちらが好きかと問われる少年が、饅頭を二つに割ってどちらがうまいかと返す話は落語では定番だが、この小動物はそれを数値化して表せる。そう考えると、並みの魔法の百倍は恐ろしい。
そしてそんなにも恐ろしい存在を、いくら日常がごたごたしていたからといって思考放棄して放っておいた千雨がその報いを受けないわけがない。
吸血鬼と渡り合い、魔法使いの力を受け継いだ千雨でさえも恐ろしいと評価するオコジョ妖精のカモミール。
そいつが帰り際ににやりと笑う。
件の騒動からずっと舞台から離れていた災厄レベルのトラブルメーカー。騒動作りの主役級。
そいつがこの場ですごすごと帰るわけがない。
扉が閉まり、千雨とさよがきびすを返そうとしたその瞬間。
「いやー、それにしても」
あまりに薄い玄関の扉の向こうから、カモミール・アルベールの声がする。
カモはあろうことか、
「姉さんと兄貴がこんなに早くくっつくたあ、このオレっちも予想できやせんでしたぜ」
ぬけぬけとネギと明日菜の前でそんなことを口にした。
動きの止まった千雨は、扉の向こうで騒ぎはじめる明日菜とネギの声を聞く。
どうやら千雨ではなくネギに向かって言ったらしいが、タイミングが狡猾すぎる。
扉のこちらで言わなかったのは計算か。
このタイミングではこぶしを振り下ろす先がない。
扉の向こうで驚きの声を上げる神楽坂と、照れた声を出しながら平然と言葉を返すネギの声。
やっぱりこのドアは薄すぎる。
目を丸くする相坂を横目に見ながら、千雨はどう言い訳するべきかを考えた。
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二人のパワーバランス的な話と、結局二人はどうなったのかと、周りの人はどうしているのか的な幕話にして、千雨さんが現状と内情の差に苦労する話。千雨さんが主導権を取り戻すのはもう少し先。内容はエヴァのフォローを無視して、カモが明日菜とさよにばらす話でした。
ネギと千雨がかなりだめな子みたいになってるのは次回フォローされる予定。本当にフォローされるかは不明。
日常編の書きづらさに驚きました。長さも内容も予定の1.5倍くらいとちょっと暴走気味です。
あと、あんまり次回の更新日をえらそうに言うのは控えたいとおもいます。なので目安として、次回は来週か再来週だと考えておいてください。それでは。