近衛木乃香誘拐事件がネギたちによって解決し、木乃香が魔法ついて知識を得たそのあとは、瀬流彦を交えながらの話し合いとなった。
千雨は部屋に戻り、そこで一悶着あったようだが、瀬流彦とネギたちの交渉は特に問題なく進んだといえる。
結果、近衛木乃香の護衛はこのまま刹那が務めることとなり、それは学園長じきじきの依頼という扱いなった。
また、魔法がばれた件に関しても、さすがの学園長も木乃香に全てを忘れろとは言わず、今後近衛木乃香は魔法に関わることとなる。
ああ、ちなみに瀬流彦はそのまま三年生全体の護衛と対して立場は変わらなかった。
そして、その他いくつかの重要な決定もなされたわけだが、長谷川千雨に関係する内容としてはそれくらいだ。
修学旅行一日目にして、はやくも残りの旅行の展望を予想させる内容だったと評されるべきだろう。
第23話
修学旅行二日目、お昼前の奈良公園。
鹿が闊歩し、時期が時期であるため修学旅行生の姿が多いその場に、麻帆良学園中等部第五班である神楽坂明日菜、宮崎のどか、綾瀬夕映、早乙女ハルナ、そしてもちろん近衛木乃香。そして彼女らに同行する長谷川千雨、絡繰茶々丸、ザジレイニーディ、相坂さよ、そして桜咲刹那の姿があった。
班別観光日ということで、5班と6班が一緒に奈良公園を回っている。
昨日の木乃香誘拐未遂に関してしゃべっている明日菜たち、純粋に観光する面々、魔法についていまだに興味を隠しきれていない木乃香など、班別行動の中でさらに小さなグループを作って会話を楽しんでいた。
「茶々丸さんも手伝ってくれるなら心強いわねー。そうそう、昨日もすごかったのよ。正直ビームを飛ばすよりも、千雨ちゃんの魔法のほうが魔法っぽいわね。割れたガラスとか階段直してたけど、なんだったのあれ? 千雨ちゃんはネギより駄目みたいなこと言ってたけど、空飛ぶよりよっぽどすごくない?」
「千雨さんの魔術は現象に干渉します。ガラスや金属は干渉しやすいそうですね。壊れてすぐのガラスなどの姿を取り戻させる技術は、魔術としては基礎だそうです」
「茶々丸さんは千雨さんの魔術にくわしいんですか?」
「機能として実装しているわけではありませんが、マスターと千雨さんの師であるかたとのお話に同席させていただいておりますので」
「へー。千雨ちゃんの先生? だれそれ」
「ルビー様とおっしゃる方です」
「ボクもなんどかお会いしたことがあります。あまりお話したことはありませんけど、すごい魔術師さんだそうですね。なんでもエヴァンジェリンさんと同じくらいだとか」
「ふーん、エヴァちゃんといっしょくらいか。それってどれくらいすごいの?」
「そういや、さよちゃん、昨日はなにしてたん?」
「ふふふ、あれはたいしたことじゃありませんよ」
「そうなん? 千雨ちゃんぶっ倒れてへんかった?」
「ああ、それはしょうがありません。千雨さんは反応はいいくせに、意外と体力ないですから。ネギ先生にばっかり独占されるのもずるいですし、約束を守ってもらっただけです」
「? まあええけど、うちらが帰ったあとも、何かしてたんやろ」
「……」
「もーザジさん、そんなこといわないでください! 恥ずかしいじゃないですか!」
「へえ、やっぱり魔術かあ。千雨ちゃんあんまり話してくれへんかったから、聞きたいとおもっとったんよ」
「……」
「まあそんな感じです」
「へえ、さよちゃんと千雨ちゃんはやっぱり仲がええんやねえ」
「命の恩人ですしね」
「……」
「へー、そうなん? さよちゃんが。はー、それはすごいなあ。それでどうなったん?」
「ええ、千雨さんとパスを結んでもらいました。えーっと、電話線みたいなものかな? 木乃香さんたちの話を聞いたあとにですね。契約自体はすぐ終わりますから。仮契約とはちょっと違うんですけど」
「じゃあせっちゃんの班の人はみんななんやね」
「……」
「そうですね。わたしもザジさんのことは千雨さんから聞きました。でも、わたしたちのクラスには、ほかにも結構いるみたいです。相手が黙ってるなら話すことではないって言って千雨さんはあんまり話してくれませんけど」
「ああ、やっぱりかあ。実はウチも昨日教えてもらったんよ。お爺ちゃんからも許してもらったしな。ウフフ、これでお仲間やね。これからもよろしゅうな」
「エヘヘ、ありがとうございます。わたしは友達いませんでしたから嬉しいです」
「……」
「もー二人とも照れるわあ。そんなんいわんといてって。もちろん、前から友達や思っとったって!」
「おやおや、なんでネギくんが一緒なのかにゃあ?」
「くっつくなっ! あのな、早乙女、邪推すんな。わたしじゃなくて先生は近衛についてきてるんだよ。昨日話してただろ。学園長の手伝いだ」
「でもそれでは千雨さんたちも同行している理由にはならないと思うのです」
「それは桜咲が近衛に付き合ってるんだよ。そんでわたしら六班は桜咲に付き添ってんだ」
「あー、朝騒いでたね。昨日も言ってたけど、桜咲さんと木乃香って幼馴染なんだっけ。なんで秘密だったの?」
「そういうのはわたしじゃなくてあいつらに聞け。近衛に聞けば、喜んで説明してくれるぞ」
「ネギ先生が手紙を届けるというのは?」
「今日は奈良だろ? 班別行動といっても一応うちらについてくるらしい。明日にでも行くんじゃないか」
「じゃあやっぱり今日は千雨ちゃんについてきてるんじゃない?」
「わたしもそうおもうのです」
「んなもんネギの勝手だろ。わたしに言うな」
「わーっ、ほんとに鹿が道にいるー」
「はしゃぐな。ほら、これ鹿センベイだとよ」
「うわーありがとうございます、千雨さん。あっ、あっちにいる鹿は大きいですねー」
「ほらほら、騒ぐなよ。ちょっと待てって」
「あはは、ネギくんはしゃいどるなあ」
「ガキねー、アイツ」
「もー、そういうこといっちゃあかんよ、アスナ」
「でも一応あいつらがまた襲ってくるかもしれないんでしょ」
「おそらく今日は大丈夫だと思いますが……。念のため各班には式神を放っておきました。なにかあればわかります。それに狙いはおそらく……」
「ウフフ、狙われとるのはウチやからね。せっちゃん、アスナ、もしものときはお願いな」
「はい、このかお嬢さま。お任せください。しかし、このかお嬢さまの身はわたしが必ずお守りいたします。アスナさんはお嬢さまと修学旅行を楽しんでください」
「もー、なんでそういうこというんかなあ、せっちゃんは。みんないるんやから大丈夫やって。せっちゃんも一緒に楽しもうやー」
「ひゃあっ!? お、お嬢さまっ!」
「なんでシカがザジのところに集まってんだ?」
「あっ、千雨さんにネギ先生。すごいんですよ。ザジさんが声をかけたら公園中のシカが集まってきてですね」
「さよ。それは感心するより突っ込みを入れるべきじゃないか?」
「……」
「あっ、ザジさんの合図でシカがジャンプしてますっ!」
「先生、驚く前にあいつをとめてこい」
「……」
「うわー、すごいですね。サーカスみたいです」
「流石ザジさん、すごいですねー」
「あのな、二人とも。拍手してないで……」
「……」
「あっ、おひねりが跳んでますよ。千雨さん」
「かっこいいですねー」
「…………ああ、そうだな。お前らもいくらか投げてきたらどうだ?」
「おー、ここが大仏殿かー。いやー、やっぱり立派だねえ。夕映吉、解説お願いー」
「東大寺金堂、正式には金光明四天王護国之寺金堂(こんこうみょうしてんのうごこくのてらこんどう)です。金光明四天王護国之寺はつまるところ国分寺のことですが、全国にある国分寺の中でも東大寺は総国分寺と呼ばれます。ここにはもちろん奈良の大仏が収められていますね。ちなみに大仏殿は二度の焼失を経ながらもそのつど再興され、現在も世界最大の木造建築物として、」
「へー。おっ、あれがその大仏か、やっぱでっかいなー、あれにもなんかネタあるの?」
「……奈良の大仏。正式には盧舎那仏挫像(るしゃなぶつざぞう)です。世界遺産にもなっているですね。作られたきっかけは智識寺の大仏に感激した聖武天皇の発案という説が一般的なのですが、それ以外にも当時の天皇家で起こっていた争いに連なる安積王や長屋王の怨霊の怨念を静めるために、」
「へー。おっ、あそこ人が多いなー。なにあれ?」
「…………奈良の大仏に向かって右、鬼門である北東に立っている柱に穴があけてあるのです。大仏様の鼻の穴と同じ大きさで、通ると無病息災のご利益があるといわれています。ちなみにこれは大仏の体のそれぞれの部位に、」
「へー。柱はパンフに載ってたかな。頭がよくなるご利益もあるらしいねー」
「………………ハルナは二、三十回くぐっておくべきだと思うのですよ」
「もー、怒んなって夕映ー。あ、でも夕映なら余裕そうだよね。胸がつっかえる心配もないし」
「ハルナではお尻がつっかえてしまうでしょうね」
「うわー、ハルナさんたち、なにをしていらっしゃるんでしょうか」
「早乙女が柱の穴に詰まって、綾瀬がそれを笑ってるように見えるな」
「身も蓋もないこというわね、千雨ちゃん」
「あれは大仏殿の柱の穴です。くぐるとご利益があるそうですので、早乙女さんが挑戦したのではないでしょうか? 光学観測値ですが縦が30センチ、横が37センチ。……さよさんならくぐれますね」
「うーん、髪まとめてませんから、ちょっと勇気がありませんね」
「ああ、早乙女が涙目になってるのは、それが理由か」
「アレはなにをしてらっしゃるんでしょう」
「綾瀬が後ろに回ってケツを蹴っ飛ばそうとしているように見えるな」
「…………柱に引っかかった髪をはずしてあげてるんじゃないでしょうか?」
「なあなあ、ザジさん。魔法についてなんやけど」
「……」
「あーん、あんまり話さんほうがええなんて、なんでそんなこというん?」
「……」
「へー、千雨ちゃんとせっちゃんに迷惑がかかるん? うーん、わかったわ。秘密にしといたほうがええってのはきいとるし」
「……」
「あっ!? ちょーまってー。もうちょっとお話しようやー」
「…………あの、桜咲さん。なにしていらっしゃるんですか?」
「あっ!? 宮崎さん……。いえ、その……」
「? ああ、このかさんですか。ザジさんと仲がいいんですね」
「ええ。そのようです」
「なにを話してるんでしょうね。ちょっと遠いから聞こえにくいかも。……えーっと、ほう? いや、まほ――――」
「あ、あの。宮崎さん! あまりこうやって人の話を聞くのは!」
「あっ、それはそうですね。ごめんなさい。そういえば桜咲さんはこのかさんと一緒に回らないんですか?」
「えっ!? いや、その……。わたしは陰ながら、いや……あの、宮崎さん、なぜそんなことを?」
「このかさんが朝にお話してくれましたよ。幼馴染でとても仲がよかったって。桜咲さんって少し怖い方だと思ってましたけど、そんなことないんですねー」
「えっ? い、いえ、そんな……」
「あー、痛かった。お尻がもぎ取れるかと思ったよ」
「それは惜しかったのです。無理やり引っこ抜けばよかったと後悔せざるを得ません」
「おいおいゆえゆえー、まだ怒ってんのー?」
「ふふん、まあそろそろ許してあげましょう。ちなみにスカートではやらないほうが良かったと思うのですよ。情けをかけてあげたわたしに感謝しても罰は当たらないでしょうね」
「…………えーっと……」
「ん? おや、先生。どうしたですか、きょろきょろとあたりを見渡して」
「あっ、ハルナさんに夕映さんですか、いえ、別にたいしたことでは」
「あーもしかして千雨ちゃん捜してんの? さっき外に歩いていったよ」
「い、いえ。あのそういうわけでは、ボクはその、怪しい人がいないかと……」
「なにいってんのよー。照れなくていいって」
「い、いえ、その本当にそういうわけでは……」
「もー、よしっ! じゃあわたしが相談に載ってあげる」
「えっ!? い、いえ、じゃあと言われても……」
「なになに、ネギくんと千雨ちゃんのことならウチも入れてー」
「どこから現れたのですか、このかさん……」
◆◆◆
東大寺を抜けて、少し開けた場所にでる。
茶屋を見かけた千雨が、騒がしいクラスメイトから離れ、一息つこうかと足を向けた。
宮崎や綾瀬、早乙女はいつもどおり楽しんでいるようだ。
昨日から魔法を知ってはしゃぎ続ける近衛も、アレはアレで楽しそうだ。強く出れない桜咲が胃を痛くしているようだが、まあ問題あるまい。
神楽坂も律儀に昨日のサル女を気にしているようだが、桜咲が手を打っているらしい。一応自分自身も捜索を行っているものの、索敵にはあまり才能のない千雨はここまで広範囲かつ雑多な場所では無力なので助かっている。
さよは言うに及ばず楽しんでいるし、ザジもアレはアレで楽しそうである。
そんなことを考えながら、千雨の視線が公園の中をぐるりと回る。
大勢の修学旅行生が闊歩するそんな中。
麻帆良中等部の第5班に第6班。
そしてあいつはいったいどこにいるのかと、千雨がきょろきょろとあたりを見渡して、
「ネギ先生はあちらですよ」
千雨がその声に振り向くと、その視線の先には宮崎のどかが立っていた。
「ハルナたちと一緒にあっちのほうに行ってしまったみたいです」
そういいながら、のどかがジュースの缶を手渡した。
千雨が礼を言いながら受け取る。
「……えっと。なんで……」
「先生を探していたのでは?」
「ん…………ん、まあ、そう」
うく、と千雨が一拍黙ったが、相手がのどかでは千雨は弱い。
虚勢を張ることもなく頷いた。
「……なあ、わたしってそんなにわかりやすいか?」
「意外と」
「……そうか」
言葉に詰まる千雨にのどかが笑う。
クールな女を装って、自覚もないままにネギを視線で追っていれば世話はない。
のどかの笑い顔に、千雨が顔を赤くした。
千雨はのどかから貰ったジュースをちびちびと飲みながら、顔の赤みが引くのを待つ。
のどかから追撃が来ることもない。
二人ともベンチに座りながら、黙ったままだ。
修学旅行時期の大仏殿。喧騒はやまないものの、二人の間にあるのは静寂だ。
耳を澄ませば、遠くからネギたちの声が聞こえてくる。なるほど、のどかの言うとおりハルナたちと一緒にいるようだ。
「……あいつらは元気だな」
「お疲れですね、千雨さんは」
「ここ数日、心労が絶えないよ。……自業自得だけど」
「ふふ、皆さん、ネギ先生と千雨さんのことに興味があるみたいです」
「……お前もだったりするのか?」
「エヘヘ、実は」
当たり前のようにのどかが頷いた。
否定してくれると思っていた千雨が言葉を詰まらせる。
そんな千雨に向かって、のどかが言葉を続けた。
「ハルナはきっと停電日からだって言ってましたけど」
「……アイツも大概おかしいやつだな」
なぜそこで正答するのだ。
早乙女ハルナのいつもの笑顔を思い出す。
直感派は苦手なのだ。
「でも、先生はもっと前からですよね」
「先生との騒動の話か? それに関しちゃ神楽坂も似たようなもんだったと思ったけど」
レオタード姿で抱きついていたりと、一時はかなり騒動になったのだ。
だが、その手のイベントに関しては、神楽坂だって負けてはいない。
まあ神楽坂は自分から風呂場に連れ込んだりしたらしいが、惚れ薬の一件や、服を消し飛ばされたネタなどに関してはネギが悪いということになるだろう。
だが、のどかは小さく微笑んだまま首を振った。
「違います。先生が千雨さんを好きになったときのことですよ。それは停電日よりもずっと前からです」
「よくそんなこと断言できるな」
「見てましたから。ずっと」
そんな千雨の戸惑い交じりの言葉にのどかが答える。
返事を返せない千雨に向かい、宮崎のどかが言葉を続ける。
「ラブレターをもらった夢を見たんです」
そんな言葉を口にする。
千雨の脳内で閃光が走るように思い出されるその光景。
長谷川千雨が除き見たその風景。
いつだったか、カモミールが来て早々に起こした一つの騒動。偽物のラブレターとそれに騙された女子生徒にその教師。
そう、あの出来事は、今この場で千雨と話す宮崎のどかに身に起こった出来事だった。
「先生にキスをしようとして断られるような、そんな夢でした。そう、夢です。わたしはもっと前から先生のことが好きでした。でも、そんな中で夢を見て、それがきっかけでわたしは先生をちゃんと見るようになって……そして、それでわかっちゃったんです」
「……わかったって、なにを?」
答えのわかった千雨の問い。
「――――もう、先生には好きな人がいるんだなあって」
その問いに、宮崎のどかが当たり前のようにそう答えた。
◆
ネギには好きな人がいた。
ネギが好意を寄せる人がいた。
でも、最初のそれはきっとまだまだ幼い、広くて浅いものだった。
だってネギはネカネ・スプリングフィールドが好きだったし、アンナ・ユーリエヴナ・ココロウァのことも好きだった。
神楽坂アスナに好意を感じていたし、それは近衛木乃香にだっておんなじだった。
でもそれは恋ではなく、愛ではなく、そしてネギはその違いにはまったく気づいていなかった。
さよに問われて、千雨を好きだと口にした。しかし、そこに照れは雑じっていても“そのままの意味”は伴っていなかった。
千雨をパートナーに誘ったとき、自分の本心が吸血鬼に対するところから来ているのか、それともまた別のところにあるのかすら分かってはいなかった。
あわてもので、押しに弱いネギ・スプリングフィールドが、告白するのどかに断りの文句を口にするほどに決心をしたのはいつなのか。
自分自身の持つ、本当の心の位置を自覚したのはいつなのか。
それはきっと、あの日、あのときの、あの瞬間。
仕掛けがどうとはいえ、きちんと相手の恋心を伝えられ、そうしてその回答をキスという形で迫られた。
エヴァンジェリンに襲われて、不安になっている現状で、それに流されそうになりながらもネギはそれを結局途中で止めた。
そう。ネギの意思で止めたのだ。
流されて事態をやり過ごし、それを千雨に咎められていたネギが自分で決めたその決断。
そのわずかな時間に起こった心の変化。自問自答のその結果。
宮崎のどかは夢だと思いながらも、そのネギの変化に対面し、その夢を彼の本質を読み取る鍵とした。
「……宮崎は、その……」
「はい。先生のことが好きですよ。もちろん」
のどかは好きでしたとは言わなかった。
千雨が口をつぐむ。
「大丈夫です。そういう意味ではないですから。わたしは先生のことを好きになりました。はじめてあったときからです。みんなが言うように子供っぽくて可愛いくて、でも、時々わたしたちより年上なんじゃないかなって思うくらい大人びてて、わたし達にはない目標を持っていて、それを目指していつも前を向いていて……ふふふ。そんな姿を遠くから眺めているだけで勇気をもらえました。わたしはそんな先生を好きになりました」
宮崎のどかのそんな独白。
千雨は無言でその言葉を聞いている。
返事はいらない。独り言のように語られるその言葉。
「わたしは夢を見て、わたしの好きという感情ではなく、先生の好きを気にかけるようになって、そして先生には本当に好きな人がいるんだってことに気づきました」
相手はわからずとも、のどかにはそれが理解できた。
きっとネギですら最初は曖昧なままだった、そんな小さな恋心。
「お前は、その……今も?」
「ええ、もちろんです」
おずおずと切り出される千雨の言葉に、当たり前のように宮崎のどかが頷いた。
「一度好きになったらその好意は消えません。好きという感情は一度生まれればもう減ったりはしないんですよ。好きでなくなったというのなら、それはきっと、別の感情に埋もれてしまうということです。それは無くなるということではありません」
千雨は口を挟めない。
あまりに当たり前のように語られるその言葉に、千雨は言葉を返せない。
そんな、沈黙したままの千雨に向かって、恥ずかしそうに、ほんの少しの悲しみを混ぜた表情でのどかが言った。
「だから、わたしはまだ先生のことが好きなままで、それを誰かに言っておきたかったんです。初恋ですから。…………千雨さんとネギ先生が分かり合っている姿を見て、胸がもやもやして、でもわたしは千雨さんの友達で。……千雨さんのことは好きです。でも、やっぱりそれは悲しくて、祝福すべきだと考えていましたけど、割り切るべきだと考えていましたけど、でもこんなの割り切れるものじゃありません」
のどかが言葉を詰まらせ、一瞬決心したように息を呑むと、その瞳を千雨に向けた。
いつもと違う髪を上げているその姿。
そんなのどかの瞳が千雨を貫く。まっすぐに見つめられる。
やはり思う。こいつが引っ込み思案で、消極的だなんて評価しているクラスメイトやわたしの目玉は節穴すぎる。
長谷川千雨は、宮崎のどかの精神を、その強さと高潔さを、本当の本気に尊敬した。
「わたしは先生が好きです。……でも、千雨さんと先生が別れてほしいとは絶対に思いません。だから千雨さんからちゃんと聞いておきたかったんです」
「……なんでも答えるよ」
まっすぐな瞳で見据えられる。
心のそこを見透かすようなその光。相手の深遠を覗くような夜湖の黒。
まるで心を読まれるような視線に千雨の動きが縫いとめられる。
「千雨さんは先生のこと好きなんですよね」
その問いかけ。
その言葉には、宮崎のどかはどう答えてほしいのか。
そんな当たり前に答えるべき質問に、なぜか千雨は言葉に詰まった。
長谷川千雨はその言葉を、あの日以外に口にしてはいなかった。
それは照れからだったが、それでもこうして問われて、改めて言えるようなものではなかったはずだった。
千雨はクラスメイトにからかわれ、近衛木乃香に引っ付かれ、相坂さよに問い詰められて、それでもずっと冗談めいた言葉で逃げていた。
そういう言葉を人前で口にすることを避けていた。人前どころか、ネギ・スプリングフィールドにすらあの日以来、そんな台詞は言ってはいない。
だが、千雨は周りにのどかしかいないことを確かめてから、ゆっくりと口を開く。
「ああ…………好きだよ。本気でさ」
その言葉にのどかが微笑む。
自分の初恋を奪った相手だ。
そんな人が彼女でよかったと思えるのなら、それは幸福なのかはわからなくても、きっと不幸ではないだろう。
ネギが千雨から簡単に心変わりするような人物なら、自分は戸惑い、むしろ悲しみさえするだろう。
だから、ネギが千雨を好きでいて、千雨がネギを好きならば、宮崎のどかの想いがこれから叶うことは、きっとない。
相手が幸せならばあきらめられるだなんて、そんな適当な恋ではなかった。
でも、相手を祝福すら出来ないなら、それはきっと宮崎のどかの恋ではない。
宮崎のどかは、単純な自分自身の嫉妬心にすら罪悪感をいだくほど純粋で、自分の恋心を諦めさせないままにしまっておけるほどに高潔だった。そんな彼女に見つめられる千雨は真っ赤なままだ。
宮崎のどかの前に立つその少女。恋敵のままだったら宣戦布告したってよかっただろう。
でももうネギの心は決まっている。千雨の心だっておんなじだ。
だからそれを確かめたかった。
こうして自分の心情を告白し、千雨の内情の告白を聞きたかった。
先を促すのどかの無言に、千雨がゆっくりと口を開く。
「…………宮崎」
「はい、なんですか?」
「…………いまから……ちょっと、のろけるぞ」
その宣言に、くすりと笑い「どうぞ」とのどかが頷いた。
スウ、と千雨が息を吸う。
赤くなったまま、改めて自分の心情を口にする。
「わたしはネギが好きだ。あいつの顔がいいと思ったし、頭がいいところだってすごいと思う。運動神経だって悪くない。でも、いまのわたしはアイツのバカみたいに素直なところに、まっすぐなところに惚れてるんだ」
千雨は真っ赤な顔のまま言葉を続ける。
誰にも言っていなかった感情を口にする。
「わたしは意外と独占欲は強くてな。アイツが赤くなるから今もなんとか自惚れていられるが、実は結構本気なんだ。好きだっていってもらえると本気で嬉しいし、触ってもらえるのも嬉しい。甘えるのも、甘えてもらうのも嬉しいよ。あいつの声が好きだし、ちっこいところも好きだ。頭がいいのに抜けてるところも大好きだ」
ずっと秘密にしていたその感情。一度口にしたそれが止まらない。
「年齢に差があって、アイツが教師でわたしが生徒で、アイツがイギリス生まれの有名人で、わたしは英語すらまともに喋れないただの凡人。それにわたしらはまだガキだ。
アイツにいつまで好きでいてもらえるかなんてわからない。ずっと一緒にいられるかなんてわからない。あいつと一緒に歩んでいきたいって思ってるけど、いつかアイツもわたしみたいなのに構ってなんていられなくなることはわかってる。でも――――」
いったいこれは誰から誰への相談であったのか。
誰にも言うことのなかったその不安。
木乃香にも、さよにも、ルビーにも、そしてネギにも漏らしたことのない、引きこもりのパソコンオタク、現実の自分に自信がなかったそういう少女の小さな言葉。
「でもさ――――わたしはあいつを知っている。あいつがどれだけ頑張ってるのかも、あいつがどれだけ自分の願いに心血を注いだのかを知っている。あいつがどれだけその願いに真剣なのかを知っている」
自分に自信がもてない長谷川千雨は、ネギの有能さを見るたびに、あいつの子供っぽさを見るたびに、それに小さな不安を感じていた。
だってあまりに真摯なその行動が、千雨にはあまりにも脆く見えるのだ。
「ネギがどれほどの重圧に耐えていたのかを知っている。ネギがどれほどの重荷を背負い続けているのかを知っている。わたしみたいな凡人が理解できるなんてとても言えるもんじゃないけれど、わたしはアイツが調子よく笑うその裏で、どれほどひたむきに頑張ってきたかを知っている」
千雨はネギからの好意に気づいているが、自分がネギの好意に値するとは思っていない。
千雨はそういう愚痴をもらさない。もらせない。
さよが聞けば笑っただろう。ネギが聞いたら怒っただろう。
千雨はネギに好きだといってもらうたびに、それがいつまで続くのかを不安に思っていたのだ、と。
「アイツのバカみたいに真っ直ぐなところを知っている。どれだけ間違った望みを持っているかを知っている。歪んでしまった理想を掲げていることを知っている。でもさ、だからこそ、わたしはあいつと一緒にいる意味があるんだって思うんだ。
わたしがいることで、いつかあいつがわたしがいて良かったと、それが間違いなんかじゃなかったんだと思えるように、最後にはあいつもわたしも笑えるように手伝えるなら、それだけで報われる。そう思うよ。ふふ、アイツにはとてもいえないけどな」
そんな言葉を始めて千雨は口にする。
長谷川千雨が誰にも言わずに心に決めていた小さな決意。
遠坂凛の夢を見て、間桐桜の夢を見て、衛宮士郎の夢を見たそんな少女の小さな誓い。
「だからさ、われながらバカすぎるけど、わたしはアイツを好きになって、あいつの歪んだまでにまっすぐなところを知って、あいつのために何かしてやりたい思ってる。あいつの努力が認められないなんて、そんなの許せないって思ってる。あいつががんばる姿を支えてやりたいって思ってる。…………ホントだぜ?」
恋は盲目、あばたもえくぼ。
魔術師の皮肉屋で、冷静さを失わないと評判の長谷川千雨は、最近ずっと開店休業中なのだ。
捲くし立てて、千雨はのどかの顔を見る。
自分とネギのことに関しての、自分の信念。
「わたしはすこしくらいはあいつに頼られていると思ってる。あいつはわたしを好きだといってくれている。うん。だからさ――――」
好きという感情はなくならない。
ネギとこれからどうなろうとも、自分はネギに力を貸そう。
わたしはネギが好きだから。いまこうして想ってるから。
どこが好きとか、どこが嫌いとか、そんなことは関係ない。
好きだといったそのときに、千雨はあいつの歪んだところもまとめて面倒を見ると決めたのだ。
だから、もちろん、
「――――あいつがわたしを好きでいてくれる限り、あいつは誰にも渡せない」
宮崎のどかは友達だけど、それでも先生は譲れない。
いくら先生のことが好きだろうと、先生が自分から離れるまでは先生は譲れない。
いくら友人だろうと、自分はわりと狭量なのだ。
パートナーなら笑ってられる。ただ仲がいいなら納得できる。
だってそれでも、ネギの好きという感情は自分自身に向いている。
魔術師として、ネギが仮契約しようが平気だとは答えたけれど、それは確固たる心の繋がりがあるからだ。
自分は人と恋を共有できない性質なのだ。
言うべきことを言った後、千雨は真っ赤な顔のまま俯いて、のどかから貰ったジュースの缶を握り締めながら、その歯を力の限りかみ締めていた。
こんな言葉をのどかにぶつける自分はいったい何様なのだろう。
だがのどかは口にした言葉を悔やむ千雨に首を振る。
「いえ、適当に答えられるよりよっぽどいいです。わたしから千雨さんの本心が聞きたがったのですから」
「でも。……だって……」
「気にされるほうがおかしいです。それに……」
「……それに?」
「お二人なら、そんな心配ないと思いますけど」
彼女はいっぺんの悲しみも読み取らせずに、たったいま恋人をのろけたばかり千雨の前で笑みを浮かべる。
宮崎のどかは笑ったまま微笑みを崩さない。
だってのどかは千雨の本心が聞きたかった。
自分の本音が知りたかった。
千雨の本心に対する、自分の本音。それを自覚したかった。
罪悪感と羞恥でつぶれそうな大人びた同級生。
そんな千雨を見ながら、のどかは一つため息を吐いて、どうにも自分とその恋人のことがわかっていないらしい彼女をじっと見つめる。
初恋だと告白した友人の前で、さんざんその彼氏を好きだと口にするその少女。
気難しげだけど単純で、
複雑そうでわかりやすい。
その無神経ともいえる素直さが、千雨が3-Aの皆から呆れられながらも祝福された理由だろう。
だってそれは、あの真っ直ぐだけどちょっととぼけた先生とあまりにもお似合いだ。
「フフ、わたしは一応初恋を告白したばっかりだったんですけどね」
「い、いや……それは……」
流石に千雨がうろたえた。
そりゃそうだ。今の千雨はビンタの一つを受けてもおかしくない。
しかしのどかは怒ったそぶりをまったく見せないままに口を開く。
「冗談ですよ。そういうこと、先生にもおっしゃったりするんですか?」
「……いわない。いえない。お前だから口にしたけど、こんなこと二度と絶対誰にもいわない」
「きっと先生は喜んでくれると思いますよ?」
「で、でも…………そんなの……や、やっぱり…………」
「やっぱり?」
千雨が顔を伏せたまま、周りの喧騒にかき消されるほど小さな声でつぶやいた。
「…………は………………恥ずかしい、……から」
目の前でおろおろとしたまま視線を揺らす長谷川千雨。
のどかはちょっと唖然として、千雨を見つめてしまった。
あまりに予想外の言葉だったからだ。
初対面ではとっつきにくく、友達になってからはしっかり物の皮肉屋で、でも今の彼女は恋愛初心者の気弱な少女。
俯く千雨が、ぎゅっとその手を握り締め、肩ひじを張ってそんなことをつぶやいた。
なんなんだろう、この人は。
いつもクールに決めているくせに、この人ちょっと乙女すぎるのではなかろうか。
これほど初対面からイメージがころころと変わる人も珍しい。
「なんだか、パルやこのかさんの気持ちが分かります」
宮崎のどかは呆れてしまう。
クラスメイトの前でネギとの関係をばらされて、それを赤い顔のまま肯定した長谷川千雨。
彼女は真っ赤になりながらも、誤魔化しながらも、それでもあのとき嘘をついたりはしなかった。
恥ずかしがりながらも、嘘をついたりはしなかった。口では嫌がりながらも、木乃香やハルナを邪険にしようとはしなかった。
のどかにはそれが分かってしまう。千雨の本心、千雨の本質。
口が悪くとも、彼女がクラスメイトを大切にしていることは明白で、素直じゃない彼女があまりに正直ものなことは明白なのだ。
その姿にのどかが怒りをぶつけるなんてありえない。嫉妬するなんてあるはずない。
のどかは人の本音を受け止められる。人の闇を抱える資格を与えられたその精神。
のどかは人の本音を許容できる。真実に触れる強さを、その資格を持つその心。
まったくなぜ、わたしが千雨さんにアドバイスをする羽目になっているのか。
のどかは、目の前の自信を持っていないおバカさんに向かって微笑んだ。
祝福の心を失わず、それでもやっぱり心に残る内心の小さな悲しみを一切出さずに宮崎のどかは笑って見せた。
「ふふふ、ありがとうございました。やっぱり千雨さんはいい人です」
お前よりいいやつはそういない。千雨はそう心のうちでつぶやいた。
千雨はもう反応を返せない。
謝っても、感謝しても、それは千雨の言うべき言葉ではないからだ。
そうして二人が黙っていると、遠くから早乙女ハルナたちが戻ってきた。
それに気づいたのどかが手を振った。
「おーい、のどかー。もうオッケーだよー。そろそろ次行かないー?」
遠くからベンチに隣り合って座っていた二人に向かう声がする。
二人の沈黙を破るその呼びかけ。
「うん、いま行くよー」
のどかがそう答えて、千雨も立つ。
ニヤニヤと笑う木乃香にハルナ。そして呆れ顔の明日菜たちと一緒にいるネギの姿。
そんなクラスメイトに微笑んで、のどかはどうにも歩みの遅い千雨をうながして歩き出す。
さて、ネギから相談を持ちかけられて、その対応をハルナたちに任せていたが、その相談事は終わったようだ。
渡りに船と、自分から千雨の足止めを志願したが、役目のほうも果たせたらしい。
そう考えながらのどかは微笑む。
そんなのどかの横を歩きながら、千雨はちらちらと横をうかがう。
隣り合って、二人で歩きながら千雨は思う。
非常識な3-A生徒。常識外れの麻帆良の地。
騒ぎが好きで、常識はずれで、自分とはまったく合わないと決め付けていた30名の同級生。
仲良くなることなどないと思っていた。
笑いあうことなんてないと考えていた。
いつの間に自分はこんなにも社交的になったのだろう。
同級生など、騒ぎ好きのアホばかりと決め付けて、自分は接触を絶っていた。
自分は今まで、どれほど同級生相手にうぬぼれていたのだろうか。
「あ、……あのさ、宮崎」
「はい?」
屈託なく返事をしてくるのどかの姿。
千雨は何とか声をかけようと思考をめぐらし、百の躊躇と千の逡巡を振り切って、思い切ったように口を開く。
「……………………ジュース、ありがと」
飲み終わったジュースの缶を手の中で持て余しながら、千雨がなんとか言葉を搾り出す。
のどかがおもわず吹き出した。
こらえきれない笑い声とともに、まなじりに涙が浮かぶ。
千雨が真っ赤な顔のまま悔しそうな顔をした。
どういたしましてと、のどかが口にし、千雨がその言葉に仏頂面のまま頷いた。
「千雨さん」
「……なんだよ」
「千雨さんって――――――」
照りつける日の光と喧騒の雰囲気を改めて感じながら、のどかは笑う。
心淀を溜めていたとは思っていないが、こうして千雨と話して視野が広がったことを感じられる。
今日の朝まで桜咲刹那を怖い人だと思っていたように、ずっと以前の自分は長谷川千雨をとっつきにくい人かと思っていた。
だけど刹那は、朝ごはんの最中に木乃香と追いかけっこをはじめるほどに面白い人だった。
千雨は、軽く突っつくだけでこんな反応をするくらいに素直でわかりやすい人だった。
自分のやることをまっすぐ見据え、それを真剣に考えるその姿。
人を導くことは出来るくせに、自分のこととなるとさっぱりで、
頑張っているくせに、それを表に出さなくて、
自分の信念に猛進し、他人に正されない限り間違いに気づかないほどに盲目的で、
でも、やるべきことは間違えない。
それは宮崎のどかが恋をした少年にとてもとても重なって、
「――――――なんだかすっごく先生にそっくりです」
宮崎のどかの初恋はどうやら実ることはないらしい。
わたしが割って入れることはないだろう。
でも、宮崎のどかは、自分の初恋に後悔なんてしてないし、千雨はとてもよい友人だ。
悲しいけれど、それを悪かったことだとは考えるのは、やっぱり間違いのようだった。
真っ赤になった千雨が支離滅裂な言葉を発するのを聞きながら、宮崎のどかはこちらに手を振るハルナの横に立つネギの姿に、やはりいつものように少し頬を染めながら微笑んだ。
◆◆◆
さて、奈良観光が終わり、そろそろ夕刻になるその時刻。
旅館の一室。長谷川千雨の属する第6班の部屋の中、
その部屋の中は、少しおかしな雰囲気となっていた。
「――――ッ!?」
「あ、あの……」
「――――――っ! っ!?」
「その……」
「――――――――っ!? !?!?? っ!!!!」
「ち、千雨さん……?」
もちろん、ごろごろと部屋の中を転がっている千雨の所為だ。
枕に押し付けた口からはくぐもったうめき声が漏れ続けている。
ごろごろ、ゴロゴロ、と転がりながら、時おりもれ聞こえる奇声が彼女の胸中を物語っていた。
「あのー、千雨さん、大丈夫ですか?」
「はー、はー……。さ、さよか…………いや……ハア。ハア……。フー、ああ、だ、大丈夫だ」
「す、すごく問題ありそうですけど」
「ハア、ハア……大丈夫。……問題ない」
そうだ。そのとおり。問題ない。
大丈夫大丈夫。宮崎のどかはいいやつだ。
友人との会話内容をもらすようなやつではない。
あの聖女のごとき友人の姿を思い出し、千雨は何とか心を落ち着けようと深呼吸。
あのあと、テンパった自分を怪しんだ早乙女が、宮崎に問いかけた時だって、あいつは誤魔化してくれたじゃないか。
「そ、そうですか。あの、わたしちょっと外を散歩してきますね」
「ああ……気をつけてな」
さよが空気を読んで退出する。
おそらくあと十分ほどして、千雨が落ち着いたころに帰ってくるだろう。
彼女による千雨に関する目算は正確で、さよはこういうときは懸命だ。
つまり千雨はまだまだ平静を取り戻せたとは言いがたい。
さよの目測どおり、一瞬平静を取り戻した千雨が再度フラッシュバックするつい半日前の情景に再度悶絶していた。
思い出したくもないのに、頭に浮かんでは消えていく。
わたしはいったいなにを語った?
わたしはいったいなに言った?
好きだとか、初恋だとか、そんなのもっと軽いものだろう。
女子中学生の軽い恋愛で済ませとけばいいものを。
あの場にいたのは、わたしと宮崎だけだ。誰かにもれることもない。
のどかがむやみに言いふらしたりしないことも承知している。
絶対に大丈夫。
だけど、それでも――――
――――わたしを好きでいてくれる限り、あいつは誰にも渡せない
「あぁっ!?!! アホかわたしはっ!! 何様だよっ!?!!」
どんなラブストーリーを展開してんだよ! しかも宮崎の目の前でっ!
ありゃなんだ!? プロポーズか? 小学生のガキをめぐってなにトチ狂ったこといってんだっ!
わざわざ先生が好きだったと告白して、わたしとそれでも友達でいてくれると笑ってくれたあいつに対して、わたしはなにを言ったんだっ!
独占欲丸出しの色ボケのバカじゃねえかっ!
千雨の叫びに、同じ部屋で千雨の姿を見ていた茶々丸とザジがビクリと震えた。
さよと違い、二人は以前部屋の中だ。千雨の意識からは外れているが、二人とも悶え狂う千雨を興味深そうに眺めている。
さて、そんな周りの評価など露知らずと、ごろごろと転がりつづける千雨の口から、グゥウウウゥなんてうなり声が漏れている。
歯を食いしばってもおさまらず、もだえる体を止めようにも止まらない。
顔から火が出るほど恥ずかしい。
冷静さを取り戻した瞬間から、千雨の頭はゆだりっぱなしだ。
恥ずかしくて、のどかの顔もネギの顔も直視できずにホテルに逃げ帰り、そしてずっともだえ続けるその姿。
ロビーに駆け込んだまま、ぶっ倒れて転がり始めそうだった千雨を部屋まで無理やり連れてきたさよに感謝するべきだろう。理性的とは程遠いその姿は、とてもじゃないがいつもの千雨からはほど遠い。
あまりに不振なその少女に茶々丸が声をかけようとして、放っておくべきだとザジに止められるそんな仕草を三度ほど。
だって、しょうがないだろう。
いや、むしろ、相手がのどかだからこの程度ですんでいるともいえるのだ。
こんなことがエヴァンジェリンやその他のクラスメイトにばれたら、……というか宮崎のどか以外に漏れたら自分は羞恥で死にかねない。
あとでもう一度宮崎には口止めをしておこうと、千雨は転がりながら考えた。
◆
転がり続ける千雨と、それを見る班員二名。
そんな姿がさよが去ってからさらに五分ともう少し。
いまだに千雨が悶え続けていると、ホテルの外を散策していたさよが帰ってきた。
「あー、やっぱりまだ恥ずかしがっているんですか?」
「あっ、さよさん、お帰りなさい。……ずいぶん汚れてますが?」
「実はもうすこしだってから帰ってくるつもりだったんですけど、ちょっといろいろありまして」
そう答えながら、さよは部屋に入ってくる。
座布団を受け取ると、礼を言いながらそれに座った。
当たり前のように座るその場所はいまだに身悶えている千雨の横である。
だが笑って答えるさよの体は傷だらけだった。
服がほつれて、肘や膝からは血がにじんでいる。
間違っても、花も恥らう女子中学生の姿ではない。
「…………その傷どうしたんだ?」
さすがにそれを無視して寝てもいられないので、丸まった布団から顔を出して千雨が問いかけた。
「あ、実はですね。朝倉さんとホテルの外を歩いてたら、ネコが自動車にひかれそうになってまして」
「……はあ、それで?」
「飛び出してネコを引っ張ったらわたしまで惹かれそうになって、転んじゃったんです」
あはは、とさよがわらった。
いまこうして笑っていられるということは大事にはならなかったのだろうが、千雨としては素直に頷けるものではない。
見捨てていたところで割り切ることは可能だっただろうが、流石に見捨てればよかったなどとはいえないので、仏頂面のままだ。
「……あのなあ相坂。一応気をつけろよ。いくらお前でも車に轢かれたら死ぬかもしれないんだからな」
「はい、朝倉さんにも言われました。危なかったって。一応身体強化の魔術は使いましたけど、わたしは魔術は未熟ですし、あんまり意味はありませんでしたけど」
「走ってる車に干渉するのはわたしでも難しいよ。それより、ほら傷を見せろ」
「あっ、はい」
素直によってくるさよに手当てをするため、千雨はもぞもぞと布団から這い出てきた。
「うー、ズキズキしますけど、これも生きている証って感じです」
「痛がりながら喜ぶな。ヘンタイっぽいから」
はあと千雨がため息を吐いた。
さよは自己治癒能力も高いし痕は残らないだろうが、浅慮すぎだ。
元幽霊だからなのだろうかと、首をかしげる。
「うーん、前にルビーさんから、大きな傷は痛みを感じさせないようになっているって言われてたんですけど」
「生き返らせたときの話か。体に魂を入れるときに痛みでショック死されると困るからな。お前の体はある程度以上になれば痛覚がカットされるんだ。ただ痛覚ってのは触覚の一角だから完全に失くすと動けなくなる。この辺はヒトガタの基本だな。絡繰だってそうなんじゃないのか?」
当たり前のように千雨が話を振った。
なぜか茶々丸が目を丸くするが、千雨はそれに気づかずさよの手当てを続ける。
「でも腕がもぎ取られるとか、足がちぎれるとかの場合だけだよ。あと、車に轢かれたり首がもげたら普通に死ぬぞ。気をつけろよな、もうちょっと」
「はい、ありがとうございます」
ぺこりとさよが頭を下げる。
本当にわかっているのかと、手当てを続ける。
傷の確認とその洗浄だけをして、最後にぺしりと腕を叩いた。
千雨は治癒の魔術は使えないし、さよも傷を和美に見られている以上、適当に治してしまうわけにもいかないだろう。
「はい終わり。たいした傷じゃあなかったな。ほっといても治るだろ。でも、この程度なら痛みとして認識されるぞ、たぶんお湯にもしみるだろうな」
「ああ、そういえば、そろそろわたしたちのお風呂の時間ですね」
「桜咲は帰ってきてないのか」
「まだネギ先生と一緒にこのかさんに捕まってると思います。今日もずっと魔法について質問してましたし。先に入りましょうよ、千雨さん」
「だからわたしは入れないんだよ。個人風呂のシャワーでいい」
怪我したばっかりのはずのさよに呆れながら、千雨が令呪をかざす。
「もー、あとでこっそり先生と入るとかは駄目ですよ」
「っ……入るわけねえだろ」
つい先ほどまでの痴態を思い出し、怒鳴り声を上げて反論しそうになるのをぎりぎりで抑える。
流石に完全な邪推だ。たとえネギがいようが、誰が入ってくるかすら分からない旅館の風呂に特攻するほどいかれていない。
たとえどんな目的があろうと、そんなまねをしたらもはや痴女だ。
令呪以上にやばい想像をする女である。
「じゃあ、ザジさんと茶々丸さんはどうしますか?」
「いえ、わたしも……」
茶々丸が首を振った。それではと、さよがザジのほうを向く。
ザジが無言で頷いたのを見ると、さよがその手を引っ張った。
「じゃーザジさん、一緒に行きましょう!」
「……」
ザジの手をとり、そのまま引きずるような勢いで引っ張っていく。
いまだに修学旅行のテンションを失わずはしゃぐさよと、されるがままに引きずられるザジがドアの向こうに消えていった。
「行かなくていいのか、絡繰?」
「わたしは葉加瀬に呼ばれておりますので」
そういいながら茶々丸も部屋をあとにした。
まあ何かしら用があるのだろう。自分にはきっと関係のないことだ。
そうして、ようやく人気も消えたので
千雨は布団にもぐり、再度先ほどの痴態を忘れるための儀式を続けることにした。
◆◆◆
そうして夕食も終わり、就寝時間が近づいていた。
そんな時分に、ようやく平静を取り戻した千雨がホテルの屋上に上がっていた。
千雨の横には久しぶりに姿を見るルビーの影がある。
「もう平気なの、千雨?」
「夕飯のときに普通に話しかけられて、逆に一人で気にしてるのがバカらしくなってな」
「いい子だもんねえ」
「ほどがあるよ。いいやつすぎて、わたしみたいなのにゃタマらんな」
やはり宮崎のどかはすごいやつだ。
あいつは敵に回さないようにしよう。
千雨はそう心に硬く決心した。
「ふーん。で、千雨はなんでこんなところにでてきてるのよ」
「あー、なんかまたウチのクラスのやつが、わたしとネギを探してるんだとさ」
どうやら昨日のリベンジらしい。
鬼ごっこというよりかくれんぼ。ネギは外に見回りに行っているだろうし、生け贄は実質わたしだけだ。
また新田先生が活躍するのを待つことにして逃げ出してきた。
こういうときに魔術を出し惜しみする気はないので、屋上に通じる階段への人払いの結界は万全である。
「それに、昨日のサル女のことをお前に聞きたいと思ってたしな」
「またネギくんとさよちゃんが怒っちゃうわよ」
「ネギとはさっき少し話したよ。あいつも気にしてたらしいが、昼も攻めてくる気配はなかったらしい。わたしの索敵や桜咲の探査にもひっかからなかったみたいだ」
そんなことを話しながら、千雨は空から降りてくる一羽の鳥を腕に止まらせた。
琥珀の鳥。先日見せられた呪術の式神とはまったく系統の異なる、魔術の式神である
「人目があったからかも知れないけど、準備をしているのか、夜動くのか、それとも明日まで待ってるのか。そこを判断しておきたい。動くことになったら頼るとするさ」
「誘拐は一回失敗したら普通諦めるものだけどね」
「まあな。でもこの沈黙が増援を呼んでいるからだとしたら少しやばいし、警戒を抜けるほど軽い状況でもないよ」
千雨の琥珀鳥は今日一日飛び回っていたが、彼女らの姿を見かけることはなかった。
べつだん捜索に特化していないし、当たり前としては当たり前だ。
ビデオカメラをつるしたバルーンを適当に街中に放つレベル。
使い魔を使う千雨の索敵技術は場当たり的な要素が強い。
子供のかくれんぼだろうと、見つけられないときは見つけられないのだ。
「このかちゃんのことが心配なの?」
「…………もちろんそれもあるけど」
千雨が言葉を濁した。
「もしかして、わたしのこと?」
ルビーの優しげな言葉に千雨がこくりと頷いた。
「ますます希薄になったよな」
「ここは世界樹のサポートも受けられないしねえ。……あっ、気にしないでいいわよ。千雨が修学旅行をサボったってたいして変わらなかっただろうし」
ビクリと震える千雨に、気にするなとルビーはあわてたように付け加えた。
たいして代わらない、とルビーは言う。
その意味は、もう“なにをしたって”気休め程度の効果しかないという意味だ。
それを二人とも知っている。
「……わたしはお前に魔術を教わった。お前に魔法について知らされて、お前にこっちの世界に引き込まれた。全部お前が原因で………………そんでもってお前のおかげだ」
「あらあら、殊勝なお言葉ね。千雨らしくもない」
「茶化すなよ。自覚してるんだ。さよのこともあるし後悔はしてない……でも、ネギたちを見るといつも思うよ。わたしは本当は魔法使いと合わないんだって。……わたしはたぶん自分の価値観で人を殺せる。でもネギはたぶん無理だ。さよはできちまうかもな。あいつはもう十分に魔術師だ。わたしを信じきってるみたいだし。悪い女に引っかかってるよ、ネギもさよもな」
「あなたはやりたいことをやりなさい。わたしは否定はしないわよ。文句は言うかもしれないけどね」
「そうかい……」
千雨が魔術回路に力を通す。
体の中の永久機関。
無限に沸く純魔力。魔力放出による魔力風が体の奥から立ち上り、千雨の髪が轟々と揺れた。
それに千雨が誰にも見せることのない悲しみの表情をみせる。
「なーに、沈んでんの。平気だって」
「ルビー」
「後悔するなら挑戦してから後悔するべきだけど、それと同じようにもう終わってしまったことに固執するのはよくないわ」
千雨が黙った。
「千雨。今あなたがやるべきことは、ここで沈んでいることじゃない」
「わかってる。わたしもウチのクラスメイトを巻き込みたくない。……わたしは、結構あいつらのことが好きみたいだ」
そんな言葉が千雨の口から漏れた。
友達がいなかった長谷川千雨。
クラスメイトと軽口を叩くことすらなく、ネットでストレスを発散していたそういう少女。
だけど、いまはこうして人と繋がりを持っている。
神楽坂は笑っていたが、近衛が誘拐されていれば、今もわらっていることは出来なかっただろう。
わたしが負けていれば、さよは泣いただろう。死ねばクラスメイトは悲しんでくれるだろう。
小さな繋がりから、わたしはクラスメイトと交流を持ち始め、今ではそれほどまでに大切な仲間もいる。
30人のクラスメイトとそれなりに会話を交わすようにすらなっている。
彼女たちのためならば、それなりに苦労をしてもよいと考えている。
きっと、あのクラスにいる大半の変人組も似たようなことを考えている気がするのだ。あの街は、あの学園は、あのクラスは異能に対してあまりに甘い。まるで麻薬かなにかのように。
「わたしは日常が好きだった。魔法なんて真っ平だと思ってた」
魔法が嫌いだった。わけのわからないものが嫌いだった。
というよりも平穏が好きだったのだ。
騒動はごめんだった。
騒ぎが嫌いで、常識外れのクラスメイトのことを当たり前のように避けていた。
人の繋がりを無視して、わたしはずっと一人で満足していた。
わけのわからない麻帆良が嫌いだった。
魔術が嫌いだった。魔法が嫌いだった。騒動が嫌いだった。
でも、
「――――でも、お前がいなかったほうがよかったとは思わない」
視線を地面に落としたまま言葉を搾り出す千雨の姿に、思わずルビーが噴き出した。
この娘はこの台詞を言いたいがためにあんなに長々と言い訳を述べたのだろうか。
真っ赤になった千雨にルビーが優しい声を出す。
「ククク、いや、ありがと千雨。わたしはあなたがそういってくれるのが何よりも嬉しいわ」
「……別に、お前を喜ばせるために言ったわけじゃない…………」
「照れるな照れるな。いやー、ネギくんは幸せものね」
「なんでネギが出てくんだよ……」
恥ずかしそうに千雨が黙った。
そうして無言になったあと、千雨は、手に止まらせた琥珀の鳥に目をやった。
朝から今まで京の街を俯瞰していた監視役。
それが千雨の視線を受けて形を変える。
ジジジ、と羽音を響かす蟲が13匹。
上空から俯瞰する視力はなくとも、その精密さは鳥より高い。
ホテルに皆が戻った以上、俯瞰調査用の鳥を飛ばす意味はないためだ。
クラスメイトが一箇所に集まった以上、必要なのは空から俯瞰する目ではなく、ホテル周りを飛ぶ索敵蟲である。
簡単な自動式の指示を与えてから、千雨はその蟲をホテルの周辺に放つ。
これで一応襲撃があったとしてもある程度は備えられるはずだろう。
仮契約程度の準備一つで、瞬間移動の真似事が出来る魔法使い相手にどこまで通用するかわからないが、やらないよりはましである。
千雨が蟲を放った腕前に、ぱちぱちと無音の拍手を鳴らす霊体に、手を上げて答えると千雨はさてどうしたものかと考えた。
戻ってクラスメイトの騒動に巻き込まれるのもなんである。
そうして千雨が考え込んで、そんな千雨をルビーが眺める。
そんな二人の静寂を切り裂く音がした。
ガチャリと屋上の扉が開く音に二人が振り向く。
人払いの魔術をかけてあったのだ。
魔法使いだろうと、おいそれとは入れないはずの、魔術の結界。
絡繰かさよくらいしか入れないはずのそこに、
「ヤア、千雨。ちょっとイイかネ」
そんな言葉を発しながら、いつものようにコナくさい笑みを浮かべる超鈴音が立っていた。
◆
千雨が超の姿に片眉を上げる。
魔術の結界を抜けてきたようだ。
ますます自分の腕前に自信がなくなってしまう。
エヴァンジェリンに襲われた夜以来、魔術関係の話はろくにしていなかった超鈴音。
大天才、麻帆良の頭脳。茶々丸の製作者。どうやらこいつもそんじょそこらの魔法関係者とはレベルが違うらしい。
エヴァンジェリンは超には事情を話していないといっていたが、当然自分の事情は知られていたようだ。
「……まあ、そりゃ知ってるよな。エヴァンジェリンから聞いてなくても、さよやネギがあんだけ騒いでれば」
「いやいや、わたしが千雨のことを知ったのは茶々丸からネ」
沈黙を破って、千雨が自分のことを棚に上げたことを言った。
笑いながら超が否定する。
「これでも製作者だからネ。茶々丸の見たものはある程度チェックできるんだヨ。定期メンテごとに報告も受けてるしネ」
「……マジかよ」
ということは茶々丸と情報を共有しているということだ。
自分の知られたくないことなど、茶々丸にはどれほど知られているかわからない。
絡繰茶々丸は信用できるが、超鈴音は信用できない。
「ああ、安心していい。わたしもハカセも口は堅いからネ」
「葉加瀬も……そうか………………そうだよなあ、あいつもかあ……」
会話を始めて一分でいい一撃を貰ってしまった。
交渉どころではない。すでに千雨は半泣きである。
なんなんだろう、この連日のイベントは。わたしを苛めるために行われているとしか思えない。
「エヴァンジェリンにはばれてるんだからいまさらネ」
「……くっそ。まあいい、割り切ることにする。それより超。それって絡繰のプライバシーはどうなってるんだ」
「さよさんと違て、茶々丸はガイノイドだしネ。彼女はすでに一個の人格を持ているが、成長はまだまだわたしたちの管轄ヨ」
「ふーん。まあ絡繰が納得してるならべつにいいけどさ」
茶々丸にはいろいろときわどいところを聞かれているが、今まで黙っていたのだから、超たちだってばらす気はないだろう。
ますます逆らえないクラスメイトが増えている気がするが、どうしようもない。
ちなみに千雨はさよのデータを取ってはいない。
だがこれはべつだん千雨の甘さというわけではなく、プラスアルファの力を搭載・更新し続けられる茶々丸と、作り終わってからの干渉は基本的に行われない魔術のヒトガタであるさよとの差である。
「で、なんの用なんだ?」
「ふむ。実は少し話がしたくてネ。ルビーさんと話せるかネ」
「ルビーとか?」
ちょいと驚く。
なるほど、色ボケしていたのはわたしのほうだったようだ。
茶々丸から流れた“情報”というのはそっちのほうか。
ボケた思考で恫喝でもされるのかと警戒したが、絡繰茶々丸と情報を共有するとはそういう意味らしい。
エヴァンジェリンは超たちにルビーのことは喋っていないなどといっていたが、これではほとんど意味がない。
べつだん本気で隠していたわけでもないが、ルビーのこともばれている。
「どうかネ?」
「ああ、まあな。ちょうどさっき起きたところだけど……まさか狙ったのか?」
「フフ。それはご想像にお任せするヨ。機会を待ていたのは本当ダガ、今のタイミングは偶然のようなものネ」
超が言葉をとめた。
にこりと笑う。見えないはずのルビーを見つめるかのようなその仕草。
「しかし、ここで話さなくては、きっとチャンスはなくなってしまうだろうからネ」
「へえ。流石ね、この子」
スッ、と千雨の横でルビーが本気になった気配がする。
今の今まで、空に陽炎として浮いていただけのルビーの姿。
拍手しても音がならないのと同様に、彼女が声を出しても、それは千雨にしか聞こえなかった。
ルビーの体に色が付き、重みが付き、存在としての意味を持つ。
正確には千雨の中から、千雨の視覚に投影されていただけのルビーが、千雨に一言断ってその体を具象化させた。
「いけるのか」
「ええ、まあなんとか」
ふわりと体重がないかのごとく屋上に降り立つルビーが千雨の言葉に頷いた。
魔力体であるため、顔色が悪いということはないが、その体は透けている。
だがそれでもその風格は英雄のそれである。
いつも千雨相手に軽口を叩いている姿と一転して、その威風はマスターである千雨すらたじろがせた。
「超鈴音ちゃんだったわね」
「エエ。はじめましてダネ。ぜひあなたとお話してみたいと思ていたヨ」
「あらあら、お話くらいいつでもよかったのに」
「わたしもそう考えていたのだがネ。どうにも慎重になりすぎていたみたいヨ」
にこりと二人とも微笑み会う。
氷のようなルビーの微笑。
ぞくりと走った寒気に千雨が思わずルビーを見る。
千雨の視線を受けるルビーが、まったくいつもとかわらぬ口調で言った。
「それで、なにが聞きたいのかしら、異なる流れから来たお嬢さん?」
どういう意味かと、千雨が首を傾げるその言葉。それに超が笑って見せた。
本気の英霊を前に怯まないその姿。
それは英雄の気質を持っているということだ。
エヴァンジェリンに図書館島の覆面男。おそらく学園長とタカミチも。麻帆良の街には意外と多いその素質。
特に、千雨のクラスはとんでもないのがそろっていた。
力ならばルビー以上のものすらいた。
魔法の才、武術の才、戦いの才。
魔道の娘に、得体の知れない異能の娘。
血の匂いを漂わせるものすらいる千雨が所属する中等部の一クラス。
だがそれと比較しても、ルビーはその覚悟において他の追随を許さない存在だった。
彼女は妹のためにと世界を天秤にかける生き物である。
たとえどれほどの力を持つものがいようとも、その決意と信念の量ではルビーには叶わない。
エヴァンジェリン・マクダウェルでさえ認めているルビーの決意。その意志力。
だが目の前に立つ超鈴音。
そのルビーがちょいと驚くほどの雷光を瞳に伴うその少女。
超鈴音の瞳の色に、ルビーは甘さを一切抜いた視線を向ける。その笑みだけは蕩けるほどに甘いのに、彼女から感じる風は極寒のそれである。
だが、それにまったく動じずに超鈴音は笑ったままだ。
麻帆良にすむ一級品ぞろいの数多の使い手。
だが、その中でもこの娘は特級だ。
ただ一人、あのクラスの中でルビーに匹敵するほどの強固な意志を持つその少女。
なんの用だと問いかける、ルビーの言葉。
それに超が口を開く。
「――――それはもちろん、わたしの願いについてダヨ。流れの外から来たお姉サン」
千雨は呆れるしかない。
こいつどこまでわかってるんだ。
超がとんでもないやつだということは知っていたが、本来の表情を隠していないルビーを前に一歩も引かないなんてのはエヴァンジェリンくらいかと思っていた。
麻帆良の頭脳。麻帆良一の大天才。
万能にしたって限度がある。
にこりと、凍るような笑みを浮かべたルビーと超が見詰め合う。
超鈴音はまったく動じていない。
そうして少し黙ってルビーは言った。
「千雨、あなたは同席しないほうがいいわ」
千雨が思わずルビーの顔を見る。
だがそこにあるのは本気の横顔。
自分が席をはずそうと、ルビーの身体維持がある以上、千雨はルビーに魔力を送り続けることになる。
ゆえに、聞こうと思えば席をはずしたって、聞くことは出来るのだが、ルビーが“そういう意味”でいっているわけではないことは明白だ。
別段ここに千雨がいるのが危ないからとかではなく、ただルビーはいま自分の目の前に立つ超鈴音を対等と認め、一対一の会話を望んでいるのである。
流石にこれに文句の言葉は挟めない。
千雨はルビーの言葉に一つ頷くと、後ろ手に手を振って、その場を退散することにした。
◆◆◆
そんなルビーと超の会談が始まって数十分。
屋上から降りてくる超の影に、踊り場に座っていた千雨が顔を上げた。
千雨の横にはいつのまにか葉加瀬聡美の姿がある。
「終わったのか?」
「ああ、万事解決したヨ。おや、葉加瀬もきていたのかネ」
「はい。茶々丸のところに行くつもりでしたし、わたしも千雨さんのお話を聞きたいと思っていましたから」
千雨が横で肩をすくめた。質問攻めというわけではないが、聡美は見た目どおりに好奇心旺盛だった。
「ホウ、何の話を?」
「さよさんの話を聞いてましたよー。魂の有無はかなり重要なテーマですから。千雨さん……というより魔術師さんからみると茶々丸はすでに魂を持つ存在らしいですけど」
「魂の創造は魔法じゃない。輪廻転生や魂の絶対量というのは否定された学問だ。子供を生んで、プラナリアを切断すればそれで出来る。脳なんてのはソフトウェアだろ。プログラムだって同じじゃないか? 電池と電球だろうと魂は生まれるだろうさ」
「フム。ダガ魂に干渉する魔法が履行されるかはかなり際どいところだと思うガネ」
「それはその契約法が間違ってんのさ。魂のあり方が一種類なわけじゃない。お前ら科学家の癖に魂のアナログ信仰でももってんのか」
「というより、複製化の問題ですね。創造はまだしも魂の設計は“魔法”の部類だと思っていました。茶々丸の思考ルーチンは完全に科学側ですから」
「ああ、コピーが出来るってか? その辺も同じだと思うがなあ。絡繰がもう一人出来るってのは駄目なのか? それはそれでそういうものだろ。在りえている以上否定する意味がない」
聡美と超が目を丸くし、ルビーが千雨の言葉に噴き出した。
さすが千雨だ。わかっていないようで、魔術師として必要なところだけはわかっている。
「己と完全に同一の人形を複製するというのは、人形師の頂点の、さらにもう一つ上に位置する技術の一つよ」
「ああ、やっぱり魔術にもあるのか」
「噂で聞いただけだけど、不老や不死ではなく復活に属する技術ね」
ルビーがなるほどと頷く千雨の姿に微笑んだ。
流石にさよの人形を数ヶ月で完成させただけのことはある。この娘は意外に人形師向きである。
さて、そんなことを話しながら珍しい交友を暖めていると、ルビーが改めて口を開いた。
「じゃ、わたしは消えるわね」
「ん、そうか……超のほうはもういいんだよな」
「まあね」
「ああ、もう十分ヨ」
ルビーと超が笑って答えた。その顔には、先ほどまでの剣呑さはない。千雨にはどうやらわりと気があっているようにも見えた。
いきなり意気投合でもしたのだろうか。
だが、その答えを千雨が得る前に、ルビーの姿が虚空に溶ける。
流石に長く現界しすぎたようだ。霊体の状態に戻ったわけではなく、千雨の中で眠りに付いた。
「ふふふ、面白いかただたネ」
「……何の話をしてたのか、聞いていいか?」
「望みの話ヨ」
超があっさりと答えるが、それはどうにも曖昧なものである。
それ以上は聞くべきでもないだろう。千雨が聞くべきものなら、後でルビーが伝達するはずだ。
千雨はそれ以上その件については聞くのをやめる。
代わりに昨日の騒動を思い出し、不機嫌そうに超と葉加瀬に向かって口を開いた。
「そういや、近衛の件手伝えよ、お前らも。しれっと傍観者気取りやがって」
「いやー、わたしは正式には魔法生徒ではないからネ。千雨たちを信じているヨ。変に手を貸すとこじれてしまう」
「なにかあったんですか?」
二人の台詞に千雨が息を吐いた。
「ハカセはまだ知らないのか? 誘拐事件だよ。近衛が魔法使いに浚われかけた」
「いやいや、誘拐未遂というべきだと思うヨ」
「お前が手伝えば、未遂にすらならなかったんじゃないのか?」
不機嫌そうに千雨が言う。
その横で、聡美が目を丸くしていた。本当に聞いていなかったようだ。
「ちなみにそれが原因で木乃香さんはもう魔法について知ってしまたというわけヨ」
「ふえー、そうなんですか。それはまた……いいんですか?」
「いいわけねえな。当然ごたごたがあったみたいだ」
「だがもう、千雨さんが解決してくれたと聞いてるヨ」
「誰から聞いてんだよ、うさんくせえなあ。……ちなみに解決したのはわたしじゃなくて、桜咲と先生たちだ。それに犯人は取り逃がした。また来るかもしれない」
謙遜抜きで千雨が答える。役立ったという自負はあるが、それ以上のものではない。
そもそも自分から動いたわけですらないのだ。
「もう一度来るとしたら、嫌がらせではなく目的があるとみるべきネ」
「どっちみち誘拐されなきゃいいだろ」
桜咲刹那も陰ながらなどといわなくなった以上再度誘拐されるようなミスは犯すまい。
「いい答えヨ。さすがネ、ルビーさんも千雨さんも。だが、もしもの可能性は考えておいたほうがいい。それに相手に目的があるなら、それは誘拐されても挽回できるということだからネ」
物騒なことを言う超だが、わからないでもない。
殺人と違い誘拐は取り返しが効く場合が多いからだ。
千雨は無言のまま肯定も反論もせずに、足を進めた。
部屋に向かって階段を下りていく。
そんな無言の背中に、返事をしない千雨に唇を尖らせたにっこりと悪い笑みを浮かべた。
「ちなみに、千雨」
「なんだよ」
「われわれは茶々丸のメンテナンスなども管理しているから、基本的に茶々丸に拒否権はないんだヨ。そのかわり守秘義務なんかはちゃんと心得ているから、茶々丸から情報が漏れてもあまり彼女を責めないであげてほしいネ」
「んなことはわかってるよ。もう割り切ったって言ったろ。なにがいいたいんだよ」
突然の言葉に千雨が超にいぶかしげな視線を送った。
魔術のことはこの際どうでもいいし、先生とのいろいろなことに関しても……まあ正直すでに結構な人数にばれている。
脅そうという雰囲気ではないようだし、茶々丸に文句を言う気に関しては端から欠片もない。
話半分に聞き流すのが正解だと思考して、千雨は超の言葉を背中に浴びながら歩みを戻す。
「ウム、それなんだがネ。茶々丸は常にある程度の警戒と索敵は怠らない、かなり優秀なガイノイドであるからして――――」
超の横にいる葉加瀬がなぜかあせったような、恥ずかしげな、気まずいようなそんな表情をのぞかせていた。
同じ天才でも葉加瀬聡美の表情は読みやすく、超の笑みはルビーと同類に読みにくい。
にっこり笑う超の笑み。それはいつもどおりに胡散臭い。
残念ながら、背を向ける千雨はその表情が見れなかった。
後ろから聞こえる声に耳を傾けながら、千雨は階段下に自分を探すクラスメイトの気配を捉えた。
まだ自分を探しているのだろう。
屋上の人払いにより気づかれてはいないようなので、このまますこしやり過ごそうかと、千雨は次の一歩を引き戻し、
「たとえば数百メートル先の茶屋で行われる話し声だろうと、彼女には範囲内の音は基本的に聞こえているヨ。エヴァンジェリンにからかわれないよう、麻帆良に戻るまえに茶々丸に口止めしておくことをお勧めするネ」
その言葉に、千雨は戻した足を踏み外し、階段から転がり落ちた。
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のどかさん失恋編。千雨さんはごちゃごちゃしたことははっきりさせておきたいタイプ。ついでに興奮すると周りが見えなくなるタイプでもあるので、のどかさん以外だったら泥沼化して引っぱたかれていたことでしょう。
あとのどかの精神力はかなり高純度でハイスペックです。覚りの能力は本来未来視と並んで術者の心が病む能力の筆頭ですしね。
そして後半は超たちのお話。ちなみに茶々丸の思考ルーチンは科学研の自作らしいのですが、アイロボットの陽電子頭脳というよりはターミネーターやロボコップの思考チップのイメージ。たぶん橙子さんの最終奥義を素で再現可能。