「ではあとは運を天に任せ。残りの8時間は休息と復習に使うヨロシ」
「はいっ! 老師!」
今日も朝からぶっ続けで行われた特訓後の土曜日十六時、古菲とネギの声が響き渡った。
古菲の言葉にネギが礼を返す。
詰め込める技術については詰め込み終わった。
反復は十分したから、少し休んで復習を行うべきだろう。
傍らにはネギの特訓に付き合っていたまき絵と、こちらもこちらで剣術の訓練をしていた刹那と明日菜の二人。
そんな5人を、いつの間にか加わっていたさよと和美が木陰で涼みながら眺めている。
「いやー、張り切ってるね-。ネギくんは」
「はい。すごい頑張り屋さんですね」
和美の言葉にさよが頷く。
「あとは夜まで休憩かあ。千雨ちゃん、結局来なかったね-」
「今日もまだ少し忙しいみたいです。最後のまとめで……えーっとこの間の用事がまだ終わっていないということでした。本当はわたしも付き合うつもりだったんですけど、千雨さんがこちらはいいからネギ先生の様子を見てくるようにって言われたんです」
「へー、千雨ちゃんがねえ。なるほど。なんか寂しいと思ったけど、なんだかんだいってもやっぱり心配してるんだねえ」
にやにやと和美が笑った。
そんな雑談の中、遠くから聞こえた声に和美が顔を上げる。
「おーい。ネギ君今夜なんか試合するんだってー?」
「差し入れに豪華特製夕ごはん弁当作ってきたわー」
大河内アキラ、明石裕奈、和泉亜子の三人が大きな竹編みのバスケットを持って現れた。
「おー、こっちこっち」
和美が手を降って、そんな三人を招き入れる。
皆で彼女たちが持参してくれたお弁当を有りがたく囲むことになった。
「ほんで、その試合には勝てそーなん?」
裕奈がネギにお弁当を振る舞いながら古菲に尋ねた。
「それがこのネギ坊主反則気味に飲み込みがいいアルよ。全くどーなっとるかねこのガキは」
「へぇーっ」
「でも、それくらいじゃないと10歳で先生なんてできないかも」
「そっかー。さすが天才少年。じゃ、楽勝だねー」
「そ、そう簡単には行かないとは思いますが…………」
ネギが弁当を食べながら答えた。
「ふーん、でさあ、ネギくん。千雨ちゃんは来てないの?」
「今回の件で千雨さんからの助言は禁止されていて」
「えーっ! だめだよー、もっと一緒にいなきゃー!」
不満そうな顔で裕奈が言った。
この問答は何度目だろうかとネギが内心で首をひねる。
どうも最近、自分と千雨があまり会っていないように思われているらしい。
別段今回の古菲との特訓やエヴァンジェリンとの弟子入り試験に千雨が直接関わっていないだけで、会うことは会っているのだ。
「千雨ちゃんがアドバイスするの? 応援じゃなくて?」
その横でアキラが首を傾げた。
「は、はい。ちょっと説明しにくいのですが、千雨さんは格闘技をするときの理論のようなものを習得されているので……」
「でも見学にくらい来ればいーじゃん。応援は別にいいんでしょ? ネギ君の一大決心なんだし、心配じゃないの千雨ちゃんは! これで茶々丸さんに負けちゃったらどーすんのよ」
先ほど楽勝だと笑っていた裕奈が怒る。
適当というよりはノリで発言しているだけなのだろうが、古菲がそんな裕奈の言葉に頷きを返した。
「そうアルねえ。たしかに茶々丸に勝つのはかなりの難事アルよ」
「ネギ先生が絶対合格するって信じてるのかなー?」
「いえ、そういうわけでもないと思います。あっ、でも今日出かけるときにも頑張るようにと言ってくださいましたし、心配してくださっているとは思うのですが……」
若干照れながらネギが言った。
「へー、千雨ちゃんがねえ。なんか想像できないな-」
「仲が良くて結構なことアル」
「でもまあ、そういうことなら、千雨ちゃんのためにも頑張らないとね、ネギくん!」
「は、はい」
ばしりと裕奈に背中を叩かれる。
お茶を飲んでいたネギが咳き込みながら頷いた。
ごめんごめんと、悪びれないままに裕奈が差し入れに持ってきていた濡れタオルでお茶を拭く。
「しっかし随分汗かいてるわねー、あんた」
そんな様を見ていた明日菜が思いついたように、ネギに顔を寄せるとくんくんと鼻を鳴らす。
「明日菜。なにやってんの?」
「ん、あー、こいつ、風呂嫌いだからね。ちょっと気になって」
「そういえばネギくん汗だくだねー。わたしも夜になっちゃう前にシャワー浴びてきたいなあ」
まき絵が上着の裾をつまみながら言った。
「そういや前にネギ君と一緒にお風呂入ってたよね、アスナー」
「ああ、そういえばそうでしたね」
そんなまき絵の姿を見て思い出したのか、以前の騒動について話を振った祐奈にさよが頷く。
ずっと以前にそんな話を千雨にリークしたのはさよである。もちろん覚えていた。
「あんときは、こいつが風呂に入ってなかったから仕方なくだっての」
「たしかおっぱいの大きい子がネギくんと付き合うって話だったよね。なんか有耶無耶になっちゃったけど!」
「付き合うんじゃなくて、部屋割りじゃなかった? でも千雨ちゃんじゃあ朝倉やいいんちょたちには勝てないねー」
「私はちうちゃんの邪魔をする気はないけど、いいんちょうはどうかねー。まだ諦めてないよね、きっと」
けらけらと和美が笑う。
「うーん、私は千雨ちゃんよりちっちゃいからなあ。ていうか、ゆーなは最近いきなり大きくなってない?」
「あっ、わかるー? いやー、運動部としては困っちゃうよねえ、参ったなー」
全く困ってなさそうに裕奈が言った。その横でまき絵が祐奈の胸を羨ましそうに眺めている。
会話があっちこっちに跳ねまわるさまは歳相応といったところだろう。
「そういえばそんなことあったね」
騒ぐ明日菜たちから離れて、年の割にはずいぶんと落ち着いているアキラが、以前の騒動を思い返しながら淡々と言った。
「わたしが復学する前の話ですね。千雨さんは立ち会わなかったそうですが」
情報は千雨以上に知っているが、さよは参加したわけではない。
幽霊時分に又聞きで情報を集めただけだ。
「そういえばいなかったかな。たしか刹那さんはいたよね?」
「ええ、まあ……」
騒ぎに巻き込まれたくないらしく、刹那が困った顔をしながら答えた。
鳴滝姉妹やエヴァンジェリンと一緒に風呂場の端っこで騒動を眺めているしかなかった身としては答えも鈍る。
それにプロポーションの話題は若干苦手だ。いや、格闘を嗜む者にとっては胸などない方がいいに決まっている。
目の前で騒ぐ同じ四天王の一員ならきっと同意してくれるだろう。
残りの二名については考えないことにしたらしい刹那が一人で頷く。
「でも、明日菜はやっぱりネギくんにはなーんか甘いんだよねー。なんだかんだと世話焼いてるじゃん」
この面々ではスタイルについてはダントツトップの和美が笑いながら言った。
「別にこんなガキを風呂に入れたってどうもないってだけよ。同じ部屋にお風呂に入ってない奴がいるほうがいやじゃない。それに、千雨ちゃんだってそんなことで怒る子じゃないでしょ」
明日菜がさらりと答える。
千雨とネギの二人が付き合っているという認識がかなり本気であると改めているものの、彼女は未だにネギの立ち位置を子どもとして捉えたままだ。
「そうかねー? 明日菜はちょっとネギくんを子供扱いしすぎなんだって! 先生だよ、先生!それにネギくんだってこうして頑張ってるんだから、子供扱いしちゃダメだよ。ねっ、ネギくん!」
「あっ、えっと……」
がしっとネギの首に腕を回して和美が言った。
ネギはいきなり話をふられて目を回すだけだ。
「ついでに明日菜はちうちゃんをまじめに見過ぎじゃない? ちうちゃんだって普通に嫉妬するかもよー?」
「ん、そう? 千雨ちゃんってそういうのしないイメージがあるけど……」
「いやいや、そもそもウチラはちうちゃんがネギくんと付き合うイメージだってなかったわけでしょ。偏見は捨てないとね」
つい、と指を振りながら和美が言った。
「そうだよ、明日菜! そんなつんけんしてばっかじゃなくて、もっと仲良くなれるように手伝ってあげなよー。せっかくネギくんと一緒に住んでるんだからさ!」
「そういうのは木乃香がやってくれてんのよ!」
「でも前は一緒に寝てたんでしょ-? お風呂も一緒に入ってたし、実際どうなの! 三角関係とかしちゃったりさっ!」
うりうりと肘で突かれた。
「わたしはガキには興味ないし、お風呂だってこいつが風呂嫌いで、同じ部屋に汗臭いのがいたら嫌だったからよ! つーかあんた今は入っているんでしょうねー? 昨日も今日もずいぶん汗かいてるけど!」
劣勢を嗅ぎとって明日菜がネギに話題を振った。
注目を押し付けたとも言える。
「は、はい。シャワーだけでしたけど」
「えー、アスナの時みたいに千雨ちゃんと一緒に入ればいいじゃーん。あっ、もしかして一緒に入っちゃったとかー?」
「い、いえ。千雨さんとは別々に入りましたが……」
「そっかー、そりゃそうだよねー」
「なーんだ、つまんないなー」
ケラケラと笑うまき絵と祐奈に目を回しながらネギが答える。
「あんたらねえ……」
煽るときだけはチームワーク抜群の同級生に明日菜が呆れとともに引きつった顔をしている。ネギに話を押し付けたのはやぶ蛇だったらしい。
正直なところ明日菜としては、ネギに対して異性めいた感情よりも、非保護者的な見方のほうがどうしても強いので、別段ネギが未だに風呂を避け続けているようなら、自分で入れてやっても別段どうとも思わない。
ただ周りがうるさいので自重しているだけだ。
本当に風呂に入っていないようなら自分が風呂に叩き込んでいただろうが、今回はどうやら大丈夫そうだ。
そんなことを考えながら、一人で安心している明日菜だが、そんな彼女とは裏腹にクラスメイトたちはネギを囲んだまま騒いでいる。
未だに父親とお風呂に入っていると噂の裕奈も、クラスメイトに追従してケタケタと笑っていた。
アキラが笑うべきか祐奈に突っ込むべきかを悩んでいる。
それに適当に合いの手を入れながらまき絵も笑い、刹那や古菲もそんなよくある光景を呆れながらも微笑みつつ眺め、少し離れてなんとも言えない表情のままさよと和美が座っている。
皆でほのぼのと鍛錬の疲れを癒やしながら、そんなありきたりな何の変哲もない会話を続ける光景だった。
そうしてそんなのどかな雰囲気のまま、彼女たちはエヴァンジェリンの試験までを和気藹々と過ごすことになる。
余計に疲れるような騒ぎが起こらなかったのは、きっと幸運だったに違いない。
もちろん、誰が幸運だったのかを、わざわざ語る必要はないだろう。
◆
夜になり日も落ちると、さすがにネギ達の真剣味も増してくる。
途中で千雨が合流し、さらに大所帯となった彼女らの元、ちょうど日付の変わる夜の12時に、時計台の前の広間にエヴァンジェリンが現れた。
お供に茶々丸、そして茶々丸の腕の中にはチャチャゼロが収まっている。
「オイ御主人。コレジャ試合ガ見エネーゾ。モットイイ位置ニ座ラセロヤ」
「役立たずのくせに口うるさいやつだ」
椅子に放り投げたチャチャゼロから文句が飛んだ。
ハラハラとそれを見ている茶々丸とはうらはらにエヴァンジェリンは面倒くさそうな顔をしたままだ。
ついでに随分とギャラリーが多いさまをみて、エヴァンジェリンがネギに向かって呆れた視線を送った。
「おい、そいつらはどういうつもりだ」
「す、すいません。エヴァンジェリンさん……」
「いいじゃーん、見学させてよエヴァちゃん!」
「まあちょっと責任も感じてるし、応援したいんだよねー」
まき絵が笑いながら言う。
「ったく、呆れたやつだ。テストの意味を勘違いしてるんじゃないだろうな……」
渋い顔でエヴァンジェリンがつぶやく。
「しかし良いのですか、マスター」
「なにがだ?」
「この試験ですが、ネギ先生が私に一撃を与える確率は戦闘における不確定要素の変動誤差を割っています。ネギ先生が合格できなければマスターとしても不本意なのでは?」
ネギは未だにその辺りをきちんとわかっていないが、今の茶々丸は古菲とだって五分で戦えるのだ。
エヴァンジェリンが意外性を見たいといった言葉通り、順当にいけば順当にネギが負けるだろう。
「オイ勘違するなよ茶々丸。私はほんとに弟子などいらんのだ。それに一撃当てれば合格などとは破格の条件だろう。これでダメならぼーやが悪い。いいな、お前も手を抜いたりするなよ」
「……はい、了解しました」
そこまで言われればこれ以上どうこういえる立場ではない。
茶々丸は素直に頷いている。
その横で、そんな茶々丸の姿を見てチャチャゼロがニヤリと笑う。
今の問答。茶々丸は気づかなかったが、チャチャゼロは気づいた。
つまり今の対話の本当のところは、もしネギが茶々丸に“手を抜かせられれば”それはそれで技術として評価するという意味だ。
茶々丸にこっそりと賄賂を渡して勝ちを見せたって、もしそれを茶々丸に了解させられるのなら良しとする、なんでもありとはそういうことだ。
エヴァンジェリンが意外性を見たいといった言葉に嘘はない。
千雨や自分はまだしも、ネギやこの生真面目な妹はその辺りの考えは思いつかないのだろう。
順当に戦いを出発点として思考しているはずだ。
「さて、それではさっさと始めるか」
「はい、よろしくおねがいします。茶々丸さん。エヴァンジェリンさん」
ぺこりと、ネギの言葉に茶々丸が頭を下げる。
そのスポーツマンシップに則った行為が気に食わないのか、ふんと鼻をひとつ鳴らしてエヴァンジェリンが口を開く。
「ルールはいいな? 不意打ちを企んでいるようでもなさそうだし、合図ではじめだ」
その言葉に、ゆらりとネギが重心を変え、茶々丸が戦闘用に思考リソースを振り直す。
古菲がじっと二人を見つめる。
チャチャゼロがそんな全員を視界に入れつつ、興味なさげな素振りを擬態する千雨を眺めていた。
そしてエヴァンジェリンはそんな全員を意識の端で捉えつつ息を吸い
開始
と、一言口にして、ようやくネギ・スプリングフィールドの試験が始まった。
◆
さて、ここですこし格闘を始めた二人から焦点をずらし、ネギと茶々丸の戦いを眺める長谷川千雨について考えよう。
長谷川千雨。魔術師見習い、ネットアイドル、現役女子中学生、と現状いろいろと肩書を背負っているが、それは彼女を取り巻く環境や、その才覚から生まれた立場であって、彼女の本質を象徴するものではない。
ルビーが旅し、千雨が関わる無限に広がる平行世界。
そこでは千雨はほんとうの意味で魔術師であったり、契約に依存した魔法使いだったり、電子の世界を駆けまわる電賊の少女だったりするが、それと同様に、外から窺える彼女のステータスは彼女の要素であって骨子ではない。
それらは世界の変動に影響された個人の資質からの発現、彼女の可能性と呼ばれるものだ。
その変化の原因は人間性であったり、才能であったり、環境であったりする。
そして、今こうしている千雨の“それ”は平行世界からの旅人であるルビーであったということになる。
対して個人の骨子とは、絶対的に決定される人の本質というべきものである。
無限の世界が無限の可能性を内包しないことからわかるように、人の可能性は無数ではあるが無限ではない。
以前に相坂さよの体を作る際に、人形師に特化した平行世界へリンクして、ルビーは千雨の体を操った。
だが同様に、千雨がゼロからさよの肉体を創造する世界があるかといえば、そんなことはありえない。そういう概念。
そういうところを、千雨もさよもきちんと認識し、その上でさよは千雨を慕い、千雨は自分の力を過信せずに自重する。
そして、ありえない選択肢が多くあり、変化しようのない性質が点在する曖昧なもののなか、以前にエヴァンジェリンが千雨を評価した行為があった。
吸血鬼に襲われて、それに逆らったその意地っ張りな反骨心。
それはどういう意味なのかといえば、つまり、彼女は自分で自分の選択を選びとったということだ。
人から与えられ、他人から与えられ、環境から与えられる、そういう選択からではなく、自分の行動を選びとる、そんな本質。
選択肢を与えられ、それに対して好転を願ってただひたすらに待ち続ける道を選ぶことがある。
それはべつだん悪いことではない。べつだんおかしなことでもない。
だがあの時の長谷川千雨は死への逃亡を決断し、それをエヴァンジェリンは評価した。
エヴァンジェリンが評価した点は簡単なことだ。
生か死かを行動で示されたわけじゃなく、ただ逃げ続けたり抵抗し続けたり諦めて無気になったりせずに、自分の命に見切りをつけた。
生を諦めるのと、死へと向かって行動するのは全く別で、あの時の彼女は、逃げ続けて奇跡が起こるかもしれないという考えを破却した。
下世話な表現をするならば、命のチップがかかった場で、なけなしの矜持と誇りのもとに、損切りを決行してみせた。
命乞いを続けて、エヴァンジェリンが矛を収めるという考えにとらわれなかった。
これは意外に難しい。
爆弾に括りつけられたわけじゃない。死病に侵されていたわけじゃない。
損を許容し好転の可能性を破棄する。そういう行為を自分の責任で行うことができるのは、本当にまれな人間なのだ。
遥か遠くに存在する魔法世界。
そこであってそこでない、未来であって未来でない平行世界、今ではもはや千雨くらいしか実感できないある場所で、この長谷川千雨ではない別の千雨がとある出来事に巻き込まれた。
長谷川千雨に安全弁をもたせ、暗く深い闇の修行に潜ったものがいた。
闇の魔術の習得に、ネギ・スプリングフィールドが魔法のスクロールに潜るそんなお話。
その結末は何だったのか。広義で見れば修行の完遂。しかし、千雨個人に焦点を絞るならば、彼女はその修業を失敗してでも次にかけるべきだと考えた末の“失敗の許容”である。
彼女は待ち続けようとしながらも、最後には半衝動的に、手に持ったナイフをスクロールに振り下ろした。
謝罪の言葉を口にしながらも、その場は諦めるべきだと考えた。
結果として修行は間に合ったが、彼女はその時、修行で得られる力よりもその場の出来事を完結させることを優先した。
たとえ衝動だとしても、いや、衝動的だからこそ、彼女はあの場で取れと言われていた責任を、希望的観測よりも優先できた。
そういう考え。
それはとても希少なものだ。その衝動を生み出せる基質や、その考えを行動に転化できる力は、千雨の持つ美点の一つに違いなく――――
――――その一方で、それは当然ながら美点だけで語られるものではありえない。
だってそれは彼女が信じて待ち続けることができなかったということだ。
信じていると言いながら、本当にすべてを委ねることができないということだ。
後を託すと言いながら、その決断を完全に肯定することができないということだ。
エヴァンジェリンに襲われた長谷川千雨は、自分が死徒になって取り返しがつかなくなるくらいなら、と本来死ぬ必要のない場所で、自分の犬死にを選択した。
遥か遠く、別の世界の長谷川千雨は、成功の可能性が残っているその場所で、闇の魔法に対する資格を失う方がましなのだという衝動に身を任せた。
彼女が決断をもう一歩踏みこませていたのなら、彼女はエヴァンジェリンの前で死体になっていただろう。
彼女の決断がもう一瞬早ければ、ネギ・スプリングフィールドは闇の魔法の習得を諦めることになっただろう。
その失態は、たまたま周りの者に助けられ、たまたま周りの人間の才覚に救われた。
それは時に美点であり、そして時に欠点となる。
彼女は、失敗にさえその価値を計算せずにはいられないから。
彼女は、常に決断の利点と欠点を思考してしまうから。
彼女は、自分の目の前にあるものから自分の視線を外すことができないから。
平行世界の魔女の弟子は、この世に完全な成功も、完全な失敗も存在しないことをしっている。
そして、今この場にいる長谷川千雨。
ネギ・スプリングフィールドの試験を見る長谷川千雨も、同じようなことを考えた。
ここは失敗を糧にしたっていいと考えた。
それは自分の進む道を常に一本道で思考する英雄の卵や、一度のミスが永遠の封印を意味していた、かつて弱き生物として世界を歩いた吸血鬼にはない思考だ。
だけど千雨はまだ未熟で半人前で、当たり前のことを当たり前に考えた。
身体強化の魔法も切れて、痛みに顔を歪ませて、転んで投げ飛ばされて吹き飛んで、明確な勝ち目も見えないまま、ボロボロの体を引きずるネギの姿を見て考えた。
勝ち目もなく無意味に足掻くくらいなら、
――――もうこの試験は諦めるべきなのだ、と
具体性のない奇跡を信じるよりも、自分が介入して無理やり事態を好転させようとするよりも、ここからネギが頑張るだろうなんて楽観よりも優先し、そんな当たり前のことを、当たり前のように考えた。
◆
「う、あ、あれ。ぼ、ぼく? テストは?」
そんなことを呟きながら意識を失っていたネギが目を開ける。
自分が気絶していたことすらも理解しないままに、まずテストの結果を問いかけるその精神。
強くはあるが、それは痛ましさを内包する身についた条件反射。
ネギの後頭部にあるのはやわらかなヒザの感触だ。
そして、顔を覗きこんでいるのは、安堵した表情の“佐々木まき絵”だった。
ヒザをかしていたまき絵が、未だ血の滲むネギの顔に痛ましそうな視線を向けながら、ネギの問いかけに答える。
「――――大丈夫。ネギくんは合格だって」
そんな言葉を口にする。
まき絵の言葉に、若干の安堵をしながら、ネギが状況を知ろうと顔を上げた。
きょろきょろと誰かを探すように視線を動かし、そして、その視線が固定される。
誰を探していたかなど明白だ。
そんなもの長谷川千雨に決まっている。
だがそんなネギの姿を目端に入れながらも、千雨はそれに答えることはできなかった。
なぜかネギたちとは離れ、千雨はエヴァンジェリンの横に立っていたためだ。
いや、正確に言うならば、
「もういいだろ。放せよ、エヴァンジェリン」
千雨の周りに鋼糸が巻き付き、その体をエヴァンジェリンの横に縫いつけられていたためだ。
ニヤリと笑うエヴァンジェリン。
ゆらりと空気がかすみ、千雨が支えを失ったかのように、二三歩とたたらを踏んで解放された。
一つ舌打ちをして、千雨がエヴァンジェリンから離れてネギのところに歩み寄る。
ネギもまき絵も和美もさよも亜子もアキラも明日菜も、それを不思議そうにみるだけだ。
なぜネギのところに来てあげないのかと頬をふくらませていたまき絵は気づかない。
なぜ、試験の最中からエヴァンジェリンのそばに移動したのかを疑問に思っていた明日菜も気づかない。
アキラも亜子も祐奈も和美も当然気づかず、そして傍観者の中でただ一人、エヴァンジェリンがとった行為を認識できてはいた相坂さよも、エヴァンジェリンが長谷川千雨の影を縫い止めていたその理由はわからない。
そしてエヴァンジェリンから解放された千雨は ネギに駆け寄るべきか、それともそこにとどまるべきかを思考して、結局どっちつかずにのろのろとネギに歩み寄って、結局みんなの輪の中に入ることなく、試験が合格したことについての祝いを述べる。
それで堰が切られたのか、他の者達もネギの奮闘をたたえだし、騒ぐ皆にその違和は埋没し、そしてその場は終わってしまった。
そう、だって別段そんな疑問は別に重要ではないからだ。
いまは、ネギが試験に受かったことを喜ぶべきだ。
受かりそうもなく、茶々丸に負けそうだったネギが逆転勝利を収めたことを喜ぶべきだ。
そう、ボロボロだったネギの姿。
それに我慢できず飛び出そうとした明日菜とそれをとめたまき絵の行動。
それに驚いた茶々丸の隙を突いてのネギの一撃と、それをもって終了としたこの試験。
それをまずは喜ぶべきだ。
なぜ、あんなところで千雨がポツリと立ち止まっているのかはわからなくても、まずは応援していた身としてネギのことを喜ぼう。
この試験の顛末を見ていたものたちは、そんなふうに考えた。
◆
舞台裏がどうであろうと、結果としてネギ・スプリングフィールドはエヴァンジェリンの試験に合格した。
ボロボロになって、その上で、ひたすらもがき続け、絡繰茶々丸が外野の騒動に気を取られた隙に一撃を与えた。
それを許可証としてエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに認められた。
ネギは合格し、そしてその横でそれを見学していた者たちがいて、喜ぶ者達の中、長谷川千雨は頬をポリポリとかきながらどうにも所在なさ気な顔をしたままだ。
そう、千雨は試験の停止を議論しにエヴァンジェリンに歩み寄り、そこで影を縫いとめられて、すべてを傍観することを強要された。
彼女は結局ネギの試験に横槍を入れず、そして、妨害にも好転にも関与せず、もちろん合格の切っ掛けにすらならなかった。
合格のきっかけは、明日菜が飛び出そうとしてまき絵に止められたことだった。
実際には千雨だって行動した。
思考の揺れが行動の停滞を引き起こさないように訓練された魔術師見習い。
千雨は、暴力が嫌いな大河内アキラが耐え切れなくなるより早く、明日菜が同居人のガキがぼろぼろになるのに耐えられなくなったその時よりも更に早く、エヴァンジェリンがガキの意地っぱりに呆れから制止を入れるよりもよほど早くに、エヴァンジェリンに対して口を挟もうと行動した。
だが、それは衝動ではなく、理性によって制御された行動だった。
衝動とは限界を超えて起こるものだが、洞察から導く行動は思考を経てからのものである。
魔術師である彼女は衝動に突き動かされても、衝動から動くようなことはしなかった。
単純に、冷静に、試験の進行を判断して、ネギのざまを見て、もう終わりだと考えて、なぜ止めないのかをエヴァンジェリンに問いただしに向かっていた。
他の者達がネギと茶々丸の戦いに気を取られていた合間に、千雨はそんなことを行っていた。
だって試験が始まり、ネギがカウンターの一撃をかわされて、三度の攻防を繰り返したあとは、ネギはただ絡繰茶々丸になぶられるだけになっていた。
それを見た千雨はエヴァンジェリンにもうやめさせるべきだと進言し、エヴァンジェリンは、こちらからやめさせればそれはエヴァンジェリンたちの敗北であると回答して、千雨の動きを封じてしまった。
そして、そんな問答を千雨とエヴァンジェリンが行っている横で、事態は動き、千雨をおいて終了してしまったわけだ。
◆
目の前で騒ぐクラスメート。
はあ、と千雨が息を吐く。
千雨は、さっさとあきらめるべきだと考えた。
だってもう無理だったのだ。頑張ってそれに結果がついてくるのは努力を評価するやつが裁定しているときだけだ。
エヴァンジェリンが勝利か敗北かで線引きをしていた以上、あそこで意地を張っても意味はないはずだったのだ。
どれだけ意地を張ろうとも、それはあきらめを嫌って敗北から逃げているだけで勝利に近づこうとしているわけじゃない。
殺し合いならいいだろう。
だが、ゼロか1かを判断する試験で怪我をして何になる。そんなの無駄だ。意味がない。
だって、エヴァンジェリン・マクダウェルが努力賞を与えることはありえない。
もう望みがなくなった以上、ここで意地を張ることに意味は無い。
そりゃあ最初の一撃でさっさと諦めてそれで終わりとしたのなら、それは不甲斐ないと言われるだろう。
エヴァンジェリンの心象を悪くすることだろう。
でも、そんな動機を持ったままにあがいてみれば、やはりそれは不快な印象を受けずにはいられない。
そんなくだらない思考を混ぜずに、自分の目的を諦めずに邁進できるネギの愚かな頑固さは、千雨の小賢しい聡明さよりもよほど良いものということか?
それは自分の師匠だろうと解答できない問いだろう。
だけどまあ、と再度のため息。
いくらなんでもあいつらまとめて純粋すぎる。
別段今までおかしいと思っていなかったはずなのに、相対価で言えば今の自分はクズすぎだ。
いや、たとえそうだとしても、こんな煩悶など、ただの潔癖症とでも流せればよかったのだ。
そして、結果としてネギが失敗でもしていれば、こうして試験が終わったあとに、千雨がここまで苦々しい顔をすることはなかっただろう。
しかし、結果として、まき絵がネギを信じ続けたことで“奇跡”が起こった。
ルビーの弟子が前提とする思考を、真っ向から否定するその結末。
最悪を考慮して最善を選択肢から省くような、千雨の考え方を覆すこの結果。
苦々しい顔をゆるめ、忸怩たる思いを飲み込んで、なんとまあなさけない、と千雨はまたひとつため息を吐く。
さきほどからのぐるぐる回る自分の思考とその答え。
どうやら自分は、この結果を導いた明日菜とまき絵に、身の程知らずにも“嫉妬”をしてしまったらしい。
そんなことを考えてから、千雨は自分の思考にあらためて呆れ返った。
さすがにちょいとばかり無様すぎたためである。
◆
「ふん、茶々丸の負けだな。ぼーや、約束通り稽古はつけてやる。いつでも小屋にきな」
自己嫌悪と自分のアホさに自爆して凹んでいた千雨が、その評定を横目で見る。
面白いものを見たといった顔をわずかに覗かせるエヴァンジェリン。
以前に見たことがある顔だ。あれはいつだっただろうか。
「ああ、それとな、格闘に関しての都合は私のほうが合わせてやるから、そのカンフーの修行は続けておけ。どのみち体術は必要だしな」
そんな言葉を聞いているのか、いないのか。喜びの声を上げるネギに群がるクラスメイト。
ネギもそれに囲まれていた。
ボロボロの体を休ませたいところだろうが、希望がかなって単純に喜んでいるのだろう。
そして、すこし離れた場所にいる千雨には、かわりにエヴァンジェリンが近づいてきた。
無言でいる長谷川千雨。
彼女が考えているのは、自分の間抜けさだ。
ネギを信じた佐々木まき絵。その優しさから奇跡を引き起こした神楽坂。
ここまではっきりと示されるとは思わなかった。でも自分はダメなのだ。絶対的にだめならば足掻くよりも、さっさと事後策に思考が回る。回ってしまう。
合理性とはそういうことだ。
だけど人は数式では思考しない。
未来は計算じゃ測れない。
自分では絶対に導けなかったであろうこの結末。
グルグルと思考を回しながら、だんだん本気で凹み始めた千雨に向かってエヴァンジェリンが口を開く。
「拗ねるなよ、みっともない」
「うるさいな。自覚してるよ」
反射的に言い返して、千雨がネギをちらりと見る。
クラスメイトと喜び合っているその姿。
それに素直に混じれないあたり、自分の愚かさも底なしだ。
「ここで憎まれ口が返せるなら、まだ大丈夫か。まあ、お前のような思考が良い結果を生む場合だってあるだろう」
「慰めかよ、似合わねえな」
「そうだな。だが、へたれた女へのくだらん慰めではあるが、嘘でもないさ。坊やが合格したサービスだ。わたしから軽く教導をしてやろう」
普通に沈んでいる千雨を慮ったのか、エヴァンジェリンが言葉を続ける。
ルビーと同格の吸血鬼。
必要ないと一蹴するにはこの女の肩書はごつすぎだ。
無言でいる千雨に構わずエヴァンジェリンは言葉を続ける。
「以前の戦いで、坊やはお前の力で私に対して立ち向かったが、あれはお前だけの力で戦ったわけでもない。ネギ・スプリングフィールドはお前が思っているより優秀で、お前はお前が思っているより坊やに対して依存している」
「…………」
ますます落ち込んでいく千雨に気遣ったのか、エヴァンジェリンがポリポリと頬を掻いた。
「まあ、これはお前だけの責任でもないだろうが、共依存は二人分の力を一人にまとめてしまうものであって、互いを高め合うものではない。あのガキは浮かれて気づいていないようだがな。だからお前に忠告しただろう。耽溺して溺れるとろくな事にならないと」
ちらりと視線をワイワイと騒いでいる輩に向ける。
千雨は以前の忠告を思い出していた。
忠告なんてのは間に合わなくなってから実感するものではあるが、それにしたって適当に聞き流しすぎていたようだ。
「マギステル・マギを象徴する二人組の石像は背中合わせであって、お互いに抱き合っている姿では決してない。その理由をいう必要はもちろんあるまい?」
そういってエヴァンジェリンがかすかに笑った。
「互いを窺えない背中合わせで相手を信じることこそが、本当のパートナーだというつまらん話だ。だがお前と坊やでは、そのつまらん話さえ、まだ先は長そうだな」
そう。つまりただそういうことなのだ。
お互いに好きあって、お互いに補いあった。だが、ネギは千雨を失うようなことがあれば、現実を受け止めきれないだろう。千雨はネギが離れれば、現状よりさらに深く魔術の闇に埋没して生きることになるだろう。
それはそれで構わない。だが、それを理解していないのはやはり問題なのだ。
千雨がへこむのは、単純に、ネギに対して自分の立ち位置を若干見失い気味だったためである。
ぐうの音も出ないほどやり込められた千雨が、ネギたちから声をかけられ、その場を取り繕って合流する。
ここまでへこんでいながら、表面上とはいえ取り繕うおうと行動できることこそが、ルビーが千雨に見た彼女の困りごとなのだが、これは治せるものでもないだろう。
そんなクラスメイトを尻目に、もうできることはないだろうと帰ることにしたエヴァンジェリンが、輪に混ざる千雨の後ろ姿を見て嘆息した。
「……すこし危うい」
そうつぶやく。
どうしたら良いのわからないような顔のまま、ネギの周りに集まるクラスメイトに混じった千雨の姿。
やり過ぎたとは思わんが、あの娘は頑固で意地を張るくせに危なっかしい。
どうにも危なっかしく見える割に、要所の判断を間違えないネギがいるからこそ、気づかれないその特性。
なるほど、と呆れながらエヴァンジェリンが、意識朦朧ではあるが微笑みながら治療を受けるネギを見る。
自分の試験に合格した魔法使いの見習いであるその姿。
やつは思ったよりも根性を見せ、そしてテストにはきちんと合格した。
スパンと一撃を決めて合格するよりよほど好みであるし、最終的に合格をもぎ取っているのだから文句のつけようもないだろう。
「…………ふん、あいつらには一度確かめさせてやるべきだろうな、これは」
「マスター?」
「なんでもないよ。どのみち説教で治るものじゃないしな。さて、一体どうしたものか……」
長谷川千雨とネギ・スプリングフィールド。
探求者の末裔と、英雄を父に持つ青二才。
見習い魔術師と偉大なる魔法使いの候補生。
この二人。表面だけ見て判断していたが、メッキが剥がれて魂の地金が見えた時、それがいまだ未熟なのは千雨の方だ。
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千雨自己嫌悪編。
原作の闇の修行編は完全にヒロインだったと思います。
次回は日常編になる予定です。