・Scene 35-3・
「馬鹿ですか貴方は」
ハヴォニワ王家城館。その中庭で。
月明かりを即席の舞台に、春風の囀りにリズムを合わせ。
望まれるがままに一曲を踊り終えたマリアが、渋るアマギリから事情を全て吐かせた上で言った言葉がそれだった。
「何となーくそんな風に言われると思ったんだけど、実際言われてみると、きっついなぁ」
「言われると解っているんならこんな馬鹿な行動取らないで下さい」
吐息すら感じられるほどの至近距離。両者身を寄せ合ったままに、何処か上滑りな言葉を紡ぎ返す。
風に乗って鼻腔をくすぐる甘い香りは、咲き誇る花壇からのものか、それとも。
「何を空気に浸って自分を誤魔化してるんですか」
「いやさ、今更だけどもうちょっと方法を考えておくべきだったなぁと、流石の僕も反省しない訳には行かないし。―――今頃ダグマイア君が泣いているような気がして」
「どちらかと言えば、まず謝るべきはリチア様に対してだと思いますが」
「なんで? ―――痛っ!? 何で踏むのさ!?」
素で首を傾げる兄の姿に、改めて駄目だこの男とマリアは思った。一番駄目なのは、それでも身を寄せたままの自分なのかもしれないと思わないでもなかったが。
半眼で睨みつける妹の視線をどう解釈したのだろうか、兄は浮かせていた手をマリアの後ろ頭に寄せて、髪を梳いてきた。
「―――いい加減、そろそろもう宜しいのではないですか?」
「やだ」
「やだって、貴方幾つですか」
「だってさ、これ以上ないくらい確実に後でからかわれる種を振りまいちゃったんだから、今のうちに元を取っておかないと損じゃないか」
妙に子供らしい口調で、兄はそんな風に言った。腰に寄せていた手に、少し力が入ったのにマリアは気付いた。
その力に逆らう事無く、マリアは体の力を抜き兄の胸元に頬を寄せた。開いた口から洩れたと息は、妙に湿ったものだった。
「身を寄せる、髪を撫でる―――手を繋ぐ。いえ、指に触れる。たかがそれだけのために学院どころか国家間の謀略まで利用するのは、後にも先にも貴方くらいでしょうね」
常識として呆れるべきなのか、それとも女として光栄だと思うべきか、実に悩みどころだった。
これが恋に溺れて胸を焦がしての行動であったなら、圧倒的に後者の想いが勝つだろう。
だがこの兄は、あろう事か自分のせいで妹が気分を害している、程度の事でこの行動に走ったのだ。
呆れるべきだ。―――それが出来ない自分に、呆れていた。
この兄が、果たして自分にそれだけの事をすると言う価値を認めてくれているという事実が、結局のところ、歓喜を覚えてしまった事が否定できないのだから。
誰に対しての嘆息だったのか、それに合わせてマリアは言葉を継げた。
「正直な話、以外だったんです。貴方が、その―――」
「過去への切符が目の前に落ちてきたのに、拾おうとしなかった事?」
その通り。
あの異世界人。一目見た時から気付いていた。
アレは、兄と同じ空気を纏っている。深く、静かに佇む大樹の気配。
マリアでさえ気付いていたのだから、兄も当然解っていた事だろう。態度がそれを示していた。
そしてマリアは、この兄が自身の過去を酷く大切にしている事を知っていた。
過去に見たもの、聞いた話、出会った人々。覚えていないと嘯くそれら全てを、兄は思い出したように語る時があるが、その時は普段無いような誇らしげな顔をしていた。
―――その顔が、好きなのだと気付いたのは、最近だ。
心底から嬉しそうな顔をしている兄と言うのは、そう言う時しかないのだと解ったからだ。
普段もたまには嬉しそうにしている時も―――当たり前だが―――あるが、それらは全て、何処か表面的なものを積み重ねて”作っている”ような雰囲気がある。
喜ぶべきだから喜び、楽しむべきだから楽しむ。そんな風に一度考えて整理してから行動している、とでも言うべきか。
湧き上がってくるような衝動的な歓喜の念と言うものを見せる事は、この兄は滅多に無いのだ。
その滅多に無い機会と言うのが、ほぼ全て過去への回想で占められる。
―――なのに。
それを目の前にして足踏みしている兄を見て―――本来、歓喜に震えている筈だったのに。
あろう事か、時が来れば終わるはずの関係に未練をみせていたのだ。
そうさせてしまったのが間違いなく自分―――自分達―――で、それを申し訳ないと思い、それ故に、マリアは此処暫く兄とまともに顔を合わせることが出来なかった。
他人の歓喜を邪魔しておいて、自身はそれに少しの喜びを感じてしまった事実など、マリアはそんな風に思ってしまった自身を許せなかった。
―――その結果が、これか。
絵に描いたような月明かりの元、兄にその身を委ねている。
どうやらこの事態を嗾けたのは母の讒言だったらしい。
だが、あの母ですら兄が此処まで酷い事をやってしまうとは予想しなかっただろう。
いや、普通―――普通じゃなくても、機嫌を損ねた妹の手を取るためだけにこんな事をするやつは居ない。
「過去の事が大切なのは、きっと何時までも変わらない」
兄がポツリと言葉を漏らした。
マリアは顔を上げようとして、抑えるように力を込められた髪を撫で付ける兄の掌に、それを止められた。
「欲しい物があったから。知りたい事があったから。知りたいものは全部―――全部、樹雷にあった。だから、たとえどんな理由であろうと樹雷へ行く事が出来たのは幸運だと思っていたし、神木様のお屋敷での日々は辛かったし、とてもしんどかったけど、それ以上に幸福だったと思う。あの場所で触れられる全てのもののためならば、自分の命を削っても構わないと思っている事だって、今も何も変わらない。帰りたい。帰るべきだ。帰ろうと―――……それを」
吐かれた息が髪をくすぐるのをマリアは感じた。何も言わず、兄の背に回した手に力を込めた。
兄が髪を梳く手が、より一層優しい手付きになる。
「”いつか”帰れれば”いいや”、何てそんな風に考えるようになってしまった僕は―――」
弱くなったのか。
その一つのためだというのなら、検体として自らの体を差し出すことすら厭わなかったというのに。
今、もう一度それをやれといわれた時は、きっと無理だと答えてしまうだろう。
成長したのか。
初めて出来た自分より幼い家族。
まがい物で、暇つぶしの課程で出来た―――それに未練を感じる程度には。
一つの事しか見る事が出来なかった過去に比べれば、こうである方が人としては正しいだろう。
その代わり、体が重く感じるようになった。煩わしいほどに。重くて、何かをなそうとする度に―――。
あの、泣きそうな顔が目に焼きついて離れない。
見ていないと、あの時は言われた。
だから見るようにした。二年間。
狭い視野の中で何とか視界に収めようと思えば、それこそ真ん中に置くしか無いのだから、二年間も見続けていれば、嫌でも未練が沸くだろう。
色々な表情を覚えて―――それで結局、あの泣き顔だけが、どうしても好きになれなかった。
「なぁ、僕にどうして欲しい? 誰かに望まれた何かになるのは、得意なんだ。処世術として、幾らでも身に着ける機会があったから」
場の雰囲気の中で選ぶ言葉としては最低の、冗談のようなその言葉が、何処か縋るような響きを持っている事にマリアは気付いた。
で、あるならば答える言葉は一つしかない。
―――貴方の、思うままに。
それが、喉の奥から出てこない。
だって思うままに、また何処か遠くを見続けて、日々を漫然と過すだけの人に戻っていくのを見るのは、耐えられそうに無いから。
じゃあ、言うのか?
此処に、私の前に、兄として。
―――それで、その先は?
その先の全てを共に居る存在で在れると言いきれるほどには、マリアはまだ大人ではなかった。
即断、即決。直感だけを信じて行動していた母を、今ほど尊敬した事は無い。
「じゃあ、何時もどおりに―――」
「―――嫌な事は、後回しか」
「仕方の無い人ですこと」
「君がそうしろって言ったんじゃないか」
子供たちは、膨大にある選択肢のどれも選ぶ事が出来なかった。
それ故に、稚気めいた気分で、言葉を合わせていた。
「僕は今日の目的は全て果たした。たまにはこういう時間―――いや、こうならないようにするための時間が必要だって事も解った」
「私は貴方の情けなさ以上に自分の情けなさが身に沁みました。言いたいことの一つも言えない弱さ。その挙句がこんな―――ですけど、すいません。一つだけ、良いですか? きっと貴方を更に惑わせると解っているのですが」
服越しに心音すらも聞こえそうなほどに顔を強く胸に押し付けながら、マリアはそんな懇願をしていた。
「良いさ。自分で望んで惑っているような部分があるのも確かだから。―――遅めの反抗期とでも言うのかな。実際、帰りたいのは事実だけど、此処へ着てからは距離を置きたい気分も覚え始めているんだ」
「そういう時は、只一言”良い”といってくれれば良いです。その内側くらい、勝手に自分で判断します」
「それだと雰囲気作りすぎかなぁって思って」
「こう言う時こそ、その無駄に空気を読むスキルを最大限に発揮してください―――」
ぎゅっと、甘えるように背に回した手をきつく握るマリアに、兄はごめんと微笑と共に呟いた。
マリアは、少しの緊張を抑えるように一つだけ深く息を吸った後で、言った。
「嬉しい、ですし―――幸せだと思います。今、此処でこうしている事が」
「何だか、兄妹の間でと言うよりは、深い仲の男女の間で交わされる類の言葉じゃないかな、これは」
惑った、日和った、逃げた―――そんな雰囲気を肌で伝えてくる兄に、マリアは少しだけ、怒った。
此処で呆れてしまえば、後は何時もの空気。最近の上滑りしたものとは違う、今までの。
だけど。そんなのばかりだから。
「深い仲の、男女ですか」
「はい?」
私が、こんな風に思いつめたんじゃないか。
「そう言うのは、これくらいの事をした時に初めて出来る例え何じゃないですか?」
「それは、何―――っ」
ふっと背に回した腕の力を緩め、身を離す様に体を捻る。
突然の妹の行動に、戸惑う兄の顔と正面から向き合えるだけの隙間を作り出す。
頭一つ以上高い位置にあるそれに、踵を伸ばし、それでも届かず―――自由になった両の手を首にかけて引き寄せる。
―――さぁ、どうする?
選択権は断然こちらにある。悪戯で済ませる事だって。それとも、勿論。
決まっている。
刹那の間際に日和見な態度で誤魔化そうとする自分を叱咤して、マリアは瞳を閉じる間も与えず―――自らがそうする暇もなく―――兄と自らの、唇を触れ合わせた。
微かなアルコールの香り。舞踏会の会場で飲んでいたのかもしれない。
その瞬間にマリアが理解できたものはそれが全てだった。
目を丸く見開いた兄の顔すら、近すぎて視界に収まる筈も無いから。
それと当然、勢いで行動しすぎた自分に混乱しているという理由が過半を占める。
触れ合ったのが一瞬ならば、離れるのも一瞬だ。
首に回された腕の力が抜けて、蹈鞴を踏んで数歩下がる兄。
嫌がっている様子も無いし、拒絶もされなかった。拒絶されていたら多分本気で泣いただろうし。
その事がおかしくて、その事が嬉しくて、マリアはステップを踏むように弾むような足取りでターンを決めて、少し離れた位置で兄と向かい合った。
兄の全身が視界に収まる位置。
朴訥な、これと言って特徴の無い顔立ち。
でも、中身は色々複雑だし、肌の触れ合う暖かさだって、私は知っているのだ。私だけは、少なくとも。
「母ほど器用に生きられませんし、貴方のように機を待つ忍耐強さも私はありませんから。これからはもう少しだけ、もう少しだけ鈍感なフリをして、貴方を困らせるようにします」
―――貴方の望みどおりに。
言外に付け加えられた言葉は、果たしてちゃんと兄に届いたらしい。
「昔の事に思いを馳せる暇すら与えないように、か―――うん。そうしてくれると嬉しいよ。僕はもう、君のお陰で一人で上手く生きていくやり方も忘れちゃったみたいだから。だってもう、二年半―――思えば、長いよね」
そんな風に困ったように笑う。マリアも、笑っていた。
「何時かの時が来ても、きっと困らせますよ?」
「良いよ、そうしてくれないと逆に、嫌だな」
答えて一歩、兄が踏み出す。
じゃあ、そのときを楽しみに。
差し出された手を受け取って、終曲までのその刹那。
「それまで暫しの、お付き合いを―――」
・Scene 35:End・
※ 『完』とか言いそうなノリだけどまぁ、何時もの如くまだ続きます。
次回から第五部くらいになるのかなぁ。原作編始まってからかなり曖昧ですが。
因みに次回は反省会。