・Scene 36-7・
「先輩、そろそろ落ち着きましたか?」
「アンタが居なくなれば落ち着くから、とっとと出てってくれない?」
「その意見には賛同したい所なんですけど、賛同したら後が怖いんでもう暫く勘弁してください」
「……賛同したいんだ」
「その口調は反則だと思うなぁ」
そこで会話が止まった。
言ってから失言だったかとも思ったが、予想―――期待?―――していたような罵詈雑言も訪れなかった。
背中の位置で、何かがむずがるように動く気配がしただけ。温度が少し、背中に感じる熱が少しだけ高まったような気がしたのは、気のせいだろう。
夕暮れ時。窓から差し込む赤い夕日が灯す僅かな明かりのみが照らす広い寝室。
予定調和のやり取り―――騒いだり、物を投げたり、平謝りをしてみたり―――そういうものを一通り演じきった後に待っていたのは、むずがゆいほどの焦燥を覚える沈黙だった。
身を隠すようにシーツに包まりベッドの上にペタリと座り込んだリチアと、何となく手持ち無沙汰で、何も考えずに彼女が座るベッドの縁に腰掛けてしまったアマギリ。
背中合わせで、ぽつり、ぽつりと言葉を交わしては、途切れ、そしてまた何かに追われるかのような義務感に駆られて言葉を交わし、途切れる。
「賛同したいってのは……嘘って事で」
「……嘘、なんだ」
「……多分」
「どっちよ」
「……じゃあ、嘘で」
―――何やってるんだろうな、僕は。
何時までたっても落ち着かない思考の中で、何故か冷静な部分が少しだけ残っているらしく、一々自分の言葉の滑稽さに泣きたくなってくる。
本当に、何をやっているのだろうか。
見舞い? いやむしろ、アマギリ自身こそが見舞われるべき精神状態だろう。
言葉が出てこない。真剣に、その事を実感したのは初めてだった。何時もの口先三寸は何処へ行ってしまったのか。何を話そうとしても―――そも、何を話せば良いのかが解らない。
部屋に入る前に考えていたじゃないか。
事情説明とか、友人たちの要らぬお節介とか、あとは当たり障りの無い見舞いの言葉とか、元気じゃないと調子が狂うとか、軽口を叩いてみようなんて、そんな風に。
それら全て、本人を目の前にした瞬間に、ゼロである。思考の片隅からも掻き消えた。
大体、薄い寝巻き姿で髪まで降ろして。気だるげで何時もと違う弱そうな姿で。
これで普段どおりの会話をしようなんて考えていた自分が馬鹿らしいと、アマギリはそれこそ馬鹿のようにそんな事を思った。
優しく。おんなのこには優しく。
―――姉さん、僕には無理みたいです。
泣き言くらいしか、思い浮かばなかった。
それでも逃げずに居られるだけ、成長していると言えば言えない事も無いかもしれない。大幅に譲歩すれば。
なんて、くだらない事を考えている場合じゃないだろう。
想像以上に茹っている自分の思考に、アマギリは思わず失笑してしまった。
「何、笑ってるのよ」
「いや、今の自分がどうしようもなくおかしくて」
「……アンタは普段から充分おかしいわよ」
「おかしいですか」
「……嘘よ」
嘘なのか。
問い返したかったが、問い返してどうしたいかが思い浮かばなかったので、出来なかった。
だからまた、少しの空白の時間が過ぎた。
「アンタさ、最近良く笑うようになったわよね」
ベッドの上で身じろぎをしながら、リチアがポツリと言った。何時かに聞いた言葉だったが、その時にはどう答えていたかを思い出せるほどに、余裕がなかった。
「先輩は、最近機嫌悪い日が多い、ですよね」
だから、そんな風に会話が広げられそうな言葉を返していた。
ピクリと、背中越しに何かが固まるような気配。それから、ややあって言葉が続いた。
「気付いてたの?」
「そりゃ……、まぁ」
むしろ気付いていない人は居ないんじゃないかと言うくらい、此処の所不機嫌なオーラを発していた事を、”近くに居た”アマギリは良く理解している。
傍に居ればわかるだろう。そんなの当たり前だ。そんな気分で頷いていた。
「気付いてたなら、何で何もしないの?」
「へ?」
返された言葉の意味がまるで理解できなかったがゆえに、アマギリは余りにも素直な態度で言葉を漏らしてしまっていた。
何故何もしないと問われれば―――単純だ、機嫌が悪い時はそっとしておく。”近くに居る人”が何とかするだろうからと、余り近寄らないように。そんなルーチンワークのような思考が直ぐに出来上がっていたから。
しかして実際、これまではそれで幾許かの時間を置けば解決していた問題だったから、今回もと―――それが拙かったのだろうか。いや、拙かったのだろう。どう考えても、この流れから考えるに。
「いや、その……」
「帰って」
「え?」
第一声すら口ごもるアマギリに、リチアの声は何処までも辛らつな響きを持っていた。
「いいからもう、帰りなさい。とっとと部屋から出てって」
「あの、先輩?」
「いいから早く! これ以上病人の気分悪くさせないでくれる!?」
最後の方は殆ど罵声のような勢いで、リチアは叫んでいた。くぐもっているように聞こえるのは、抱えた枕が口元に近いからだろう。
「そんな言われ方されて、このまま帰れる訳無いじゃないですか」
「何でよ!」
「何って……」
常識的に考えて。
答えずともその気持ちが伝わってしまったのだろうか。背中越しに伝わってくるリチアの怒りは、最早烈火の如き様相を示した。
「どうせアンタは妹とか姉とか、家族さえ居ればそれで満足なんでしょう!? 私の事なんか放っておいてくれたって良いじゃない!」
「んな……」
そこまで、言われるほど何かしたか?
落ち着いて考えれば”何もしていない”事が問題だと言う事にも気付きそうなものだが、場所も、状況も、落ち着いて考えられる空気には程遠かった。
それ故に、アマギリの口から出た言葉は、下の下とも言うべき、どうしようもないものだった。
第三者が聞いていれば、自ら進んで火中の栗に手を伸ばしているようにすら思えるだろう。
「そんな、別れ話中に泣き叫んでる恋人みたいな態度取られたら、放置して置ける訳、無いじゃないですか」
「恋―――っ、っっっ!」
歯軋りすらもなりそうな、リチアは途中で言葉を詰まらせていた。
怒りとも、羞恥とも、激情が思考を乱し精神を泡立たせる。
何を言えば良いのか、何が言いたいのか、頭の中から零れ落ちて―――零れ落ちて、それがそのまま言葉になった。
「こ、こいっ、―――こう、……なるまで放置してたのは何処の誰よ!」
「―――知ら、ないですよそんなの。……だいたい、貴女何時も、機嫌悪い時は、放っておいてって言ってたでしょう?」
「屁理屈こねるな馬鹿! アンタ一応男でしょう!? そう言う時こそ空気呼んで見せなさいよ!」
「馬鹿って……だから、空気呼んで席外してたんじゃないか! 大体、一応って何だよ、一応って!」
流石に一方的に怒鳴られ続ければ、返す言葉もきついものになってくる。アマギリも気付かぬうちに、激しい口調で反論していた。
「最近馬鹿みたいにガキっぽい口調になってるアンタなんて、一応で充分じゃない!!」
「が、……ガキって、そっちこそまるっきり子供の癇癪じゃないか!」
確かに最近、自分でも解るくらいに抜けた思考をしているなと思っていたところに、思い切り図星を突かれてしまい、アマギリは強い口調で言葉を放ってしまった。
「この、……私がっ!」
感情が高ぶりすぎると言葉が詰まる。リチアは、自身の言いたい言葉を自身ですら掴みきれぬまま、それでも押し被せるように言葉を続ける。
「私が、こんな無様に、こんなっ、男相手に泣き叫んで……こんなのっ、アンタ、アンタが……っ!!」
「―――あ? うぇっ!? ちょ、ちょっと、先輩!?」
「振り向くな、馬鹿ぁ!」
その声音に濡れたものが混じっている事に気付いてしまい、我に返って後ろを振り向いたアマギリは、シーツを丸め込み肩を振るわせるリチアの姿を目にしてしまった。
―――泣いている。肩を震わせて。泣かせたのは、僕だ。
驚くよりも先に、自分の馬鹿さ加減に腹が立った。
こうなるのが嫌だから、そう思って覚悟を決めて扉を潜ったのに―――結局、こうだ。
思い切り息を吸う。そのまま、自身を怒鳴りつけてやりたい衝動を、歯を食いしばって押さえ込む。膝の上に置いたまま固まっていた手を、解きほぐすように幾度か握り締める。
―――泣いている、だから。
出来る事は限られていたから、自身の知る僅かな経験則に頼る事にした。
そっと伸ばした手は、髪に触れるか触れないかのところで、一度は振り払われた。
もう一度、また振り払われて、次はむずがるように首を振られて、それから、今度はそうはならないように肩に手を置いて胡坐をかいた自身の胸のうちに身体ごと引き込むように、少女の体を抱きこんだ。
それから漸く、それでもまだもがき離れようとする少女の頭をゆっくりと撫でる事が出来た。
泣いている子供を慰める、これが、アマギリの精一杯だった。
「―――ごめん」
ゆっくりと髪を撫でる動作をやめぬまま、ポツリと、そんな風に呟いていた。
「何に謝っているのか、解ってるの?」
「正直、あんまり。―――でも、ごめん。正直、少し先輩……リチアさんに、甘えすぎてたかなって」
「何よそれ」
呆れるような声。何時ものような―――そんな訳が無い。何時も以上に、しっとりとした響き。
殆ど無意識のうちに撫でる手の動きが更に優しいものに変わっていたのが、自身呆れるほどおかしかった。
「こうあるのが当たり前だなんて―――いや、こうしてくれるのが当たり前だなんて考え方、それこそ、甘え以外の何でも無いじゃない。最近それで、失敗しかかったってのに」
「そこで妹の話に飛ぼうとする辺りが、如何にもアンタらしいわ」
「どうせ、妹に嫌われそうになっただけで大慌ての、甘ったれですから。それで、仲が良かった先輩にも愛想をつかされて―――知ってるでしょう?」
いっそ開き直ったような言葉に、リチアは小さく嘆息した。
「そうね。アンタは所詮甘ったれよね。―――それで、甘ったれなアマギリは、私にどうしてくれるの?」
「―――」
問いかけられて、返せずに、手の動きを止めてしまった。リチアの頭が小さく揺れた。
再び手を動かし、撫でるのを再開した。それからアマギリは、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「どう、しようか。―――どうすれば、良いかな。ごめん、本当にさ。僕、誰かに何かをしてあげたいと思っても、駄目なんだよ。苦手でさ」
「―――私に、何かをしてくれるつもりは、一応ある訳ね」
「あるさ、そうじゃないと」
こんな、一人で此処に来るなんて決心がつかないじゃないか。
言葉に乗せた自分自身が何よりも一番恥ずかしかったから、アマギリは反応が来る前に言葉を続けた。
「僕は、その―――僕はさ、せめて受け取った分の優しさくらい、周りの人に返せたらって、そう思ってる。……そう思えるように、なってる。それは、だから―――リチアさんにだって、変わらない」
幼い子供が、無理やりに自分の気持ちを纏めたような言葉だった。それがアマギリの限界であり、それ以上にはまだなれなかったから、あとは、せめてそれが真実だと伝わるように、より一層髪に触れる手の動きを、丁寧に、優しくするしかなかった。
「―――そ。優しく、してくれるんだ」
熱を持ったような吐息が、胸元をくすぐっている事に気付く。
「うん、そりゃあ、ね。精々、何でも頼みを聞いて見せるくらいしか出来ないけど、そのうち、ちゃんと―――まぁ、出来れば、だけど」
まるで自分に保障が出来なかったがゆえに口ごもるしかないアマギリの態度に、リチアは呆れたようにため息を吐いた。
「期待しないで待ってるわ。―――ところでそろそろ、頭から手をどけてくれないかしら」
「ん、ああ―――ゴメ、ん?」
言われるがままに手をどけてみたら、何故かリチアは、そのままアマギリに寄りかかったままの体勢で、身を捻ってきた。
必然、無理のある姿勢であるため、バランスを崩す。
倒れこんだ先がベッドの上ならそれなりに絵になる光景だっただろうが、如何せんアマギリはベッドの端に胡坐をかいていた訳だから、体重をかけられて倒れこめば、ベッドから落ちる事になる。
「―――っ、と、ぅおっ!」
軟らかいカーペットの上に背中から崩れ落ちる。
当然、彼に体重をかけてきた少女と共に。
手を後ろにやってバランスを取ろうとするよりも、少女を抱きとめるのを優先する事が出来た自分に、アマギリは少し感心していた。
この程度の気遣いは、どうやら自分にも出来るらしい。
打ち付けられた背中にもたいして痛みは無い。
背も、前も、軟らかいものがクッションになっていたから。
抱きとめた少女の柔らかさを、床に寝そべったまま、体全体で受け止める格好となった。
近い。顔が。おんなのこの顔が、とても近い位置にあった。
「―――あの?」
口を開いてみても何を言えばいいのやら、全く解らなかったがゆえに固まってしまったアマギリとは対照的に、リチアの瞳は信じられないほどに澄み渡り落ち着いたものだった。
「他の何も解らなくて良いから、一つだけ解りなさい」
言葉と、唇の動きが、全く別々のものに感じられる。不思議な感覚を覚えていた。
「私はアンタに愛想をつかせた事なんて一度も無い」
目を、見て。逸らす事すらも許されずに。
「ああ、うん」
肯定以外の言葉は許されなかった。
「―――解ったなら、黙って目を閉じる」
「あ、うん―――って、え?」
「―――黙って」
「……はい」
言葉に従うがままに目を閉じようとした瞬間、何故だか少し前の夜の事が思い浮かんだ。
何故も何も無いだろうと、最後に少しだけ残っていた冷静な部分が、呆れたような声を脳内に響かせていた。
静寂。
吐息の音と、それから。
衣擦れの音は、果して両者が身に纏った衣が擦れ合うが故のものだったのだろうか。
それとも、―――それとも?
その後については、語る必要もあるまい。
夕日の赤が夜の紫に変わる頃、アマギリは、リチアに言われるがままに従って、部屋を後にする事になった。
一人残された部屋の中で、ベッドの上でしどけない姿勢で座り込んだまま、リチアは、自身の唇をそっと指で撫でていた。
その、表情は―――。
・Scene 36:End・
※ このSSはコンシュマー仕様。と、言いつつラストの方微妙にオーバースケールに書き換えてたり。
後半戦前、最後のまったり編、くらいの軽い気持ちで進めたら、案外長くなりましたね、この章も。
次回は反省会。今度は耳の長い人と。