・Sceane 19-5・
久しぶりに浸かった王家専用の大浴場は、以前と変わらず何かの花のような香りの充満する―――率直に言えば、男性であるアマギリにとって、あまり長居したい場所ではなかった。
別段、年若い女性の侍従たちに浴事の世話をされる事それ自体に何かを結びつける事もない―――ないと、思うようにしているのだが、そういう気まずさとは別で、単純に一糸纏わぬ姿で気を抜いていたい場所でも人の目があると言うのは、気分として落ち着かないものだった。
そういう立場であるから仕方ない、と解っていても感情的には、別だという意味である。
それを踏まえると、人手不足だからという理由で一人で風呂に入る事ができた聖地での暮らしは非常に快適なものだったのだなと、アマギリは明かりを落とし始めた夜の廊下を歩きながら、そんな風に思っていた。
この王城で気を抜ける場所は、自室どころか、天蓋に覆われたベッドの中にしか存在しない。
それ以外の場所では常に一目が存在するから、アマギリも王族としてそれ相応の態度が求められるのだ。
普段であれば、意識せずともできるそういった態度も、今は気力を振り絞らねば難しかった。
長旅の疲れ―――と言うよりは、ハヴォニワに降り立った後での疲れが多すぎる。個性的な女性たちへの応対は、それだけで体力、精神力を疲弊させるのだ。
特に昼の気位の高い子猫の縄張り争い―――特に夕方のちょっとした予想外の出来事。
特に後者に関しては、あまり深く考えるのは精神衛生上良くない気がする。
ブンブンと思考を振り払うように首を振っていると、背後についていた侍従に、自室の扉を通り過ぎている事を告げられてしまった。
苦笑を浮かべてすまないと告げて、アマギリは侍従の開いた自室の扉をくぐった。
相当、疲れているようだ。―――早く、寝よう。
それだけを考えるようにしていたから、だから、室内に人の気配があることにも、初め気づかなかった。
開いているバルコニーへと続く窓。其処から運ばれてくる湿度の高い夏の夜風。
其処に混じる、花の香り。
揺れる栗色の髪、―――悪戯っ子のように、きらめく眼。
この目、夕方にも見たな。
誰と認識する前に、初めにアマギリが思った事はそれだった。その後で、どうやら相当夕方の一件が堪えているらしいと自分でも解った。晩餐の折にボロが出なくて本当に良かったと思う。
「お帰りなさいませ、お兄様」
窓際のリクライニングチェアに腰掛けていた少女が、やんわりとアマギリに向かって微笑んだ。
「よりによって寝室に入り込みますか、王女殿下」
どうりで、従者からお休みなさいませじゃなくて、ごゆっくりなんて言い方をされたと思ったと、アマギリは肩を落とした。
無視してベッドに入ってやろうかと思いつつ、そんな事をすれば後が恐ろしい事になりそうだったので、仕方なく窓際のテーブルに近づく。
「一番リラックスできる場所なら、アマギリさんの一番素の部分が見られるかと思いまして」
兄の寝室で我が物顔で寛いでいたマリア・ナナダンは、疲れた態度のアマギリに、優雅な態度でそう答えた。
「割と普段から、素のままで生きているつもりですが」
「そんな事はないでしょう。聖地では随分と、こちらでは考えられないほどアグレッシブに動いていたとお聞きしていますよ」
向かいに腰掛投げやりに言うアマギリに、マリアは手ずからティーポットからハーブティーを注ぐ。
アマギリは礼も言わずにそれを受け取り、ゆっくりと口に運ぼうとして―――マリアからの一言で、それを噴出しそうになった。
「それに、ユキネとは随分砕けた態度で接しているようですし」
「……何を言いたいのか解りかねますね。そういえば、ユキネ―――、あ―――……さんは?」
一瞬咽そうになるのを何とか堪えながら、アマギリは話を逸らそうと言った。
その態度はありありと、聞かれて困る事があるのだと証明しているようだった。
その姿を、マリアは意外なものを見るかのような目で見ていた。
自分で言っておいてなんだが、本当に素の部分の一端を見る事ができるとは考えていなかったらしい。
まるで年相応の少年のような慌てた態度で、かえってそれが、マリアのイメージの中にある浮世離れした感のあるアマギリと合致しなくて意外だった。
見ると聞くでは、やはり大違いだ。
昼に話したユキネのほうは殆ど何時もどおりだったのに、アマギリだけが、以前と違う。
もう少しこの部分を覗いてみたら面白そうかもしれないと、マリアは薄く笑って言ってみる事にした。
「別に私に気を使わずに普段どおりで構いませんわよ。―――っユキネは旅の疲れもあるかと思って先に休むように言っておいただけですから」
この内裏は警備体制も磐石ですからと続けるマリアに、アマギリは、きっと彼女はこの兄妹一対一の場面を用意するために、あえて席を外そうと思ったのだろうなと考えた。
彼女は、主の行動を正確に読む事が出来る、よく訓練された従者だったから。
「それはまた、従者の鏡のような話で」
「あげませんよ。―――私のものですから」
相も変わらずと言った親しげな態度が癇に障ったのだろうか、マリアは尖ったような声で言った。
少女らしい移ろいやすい気持ちは愛らしくもあるのだが、正直疲れているから今日はもう勘弁してもらえないかなぁと、アマギリは投げやりな思考で―――普段なら絶対にやらない、何も考えずに口を開くと言う行為を行ってしまった。
「それじゃ、欲しくなったら王女殿下ごと貰う事にします」
他意は無かった。
売り言葉に買い言葉で、まさか”要りません”等と言う訳にもいかず、脳から零れた言葉を適当に口に載せてみただけだったのだが。
―――サァと、レースのカーテンを揺らして夏の夜風が舞う。
言った方も、言われた方も―――不意の一言に思考を停止させてしまう。
この流れで、その返し方は無いだろう。
言った方も、言われた方も全く同じように、そう考えた。
だってその言葉はどう考えても、アマギリ・ナナダンが発した言葉に相応しくない。そういうキャラじゃないだろうと、二人して目を丸くしながら心を一つにしてしまう。
それは、自ら泥沼に嵌りにいくような、失言と言うにも失笑が必要な言葉だったから。
どう考えても失言だなこれはと思いつつも、しかし言ってしまった以上はどうにもならない。
アマギリは何食わぬ顔で―――態度で、冗談でしたで済まされるようにと祈りながら、ハーブティーを口に運んだ。カップは空だった。気付かないように、飲んだフリをしながらマリアの様子を伺う。
率直に言えば、マリアの表情の変化は見物だった。
赤くなったり青くなったり眉根を寄せたり失笑して見せたり頬を引きつらせたり、慌てて周囲を見渡したり。
どちらかと言えば、素の部分を見せているのはマリアの方じゃないのかと、アマギリは他人事のように思ってしまう。
以前は何度もこういう機会を持っていたが、そういえば歳相応の少女らしい仕草を見るのはこれが初めてかもしれない。
普段の聡明な、取り繕っているであろう態度の時の方がアマギリにとっては好みだし、歳相応の少女らしい態度で振り回されるのも御免だったりもするが、たまに見るなら、これはこれでありかなと思えてしまうのが不思議だった。
美人は得だという事だろうかと、アマギリがくだらない事を考えていると、マリアの百面相は漸く止まった。
俯き加減で口元に手を当てていたマリアがゆっくりと顔を上げて、ようやく口を開いた。
「ようするに、絶対にいらないの隠喩と捉えていいのかしら?」
「……こう言う時にお互いの信頼関係って問われますね」
ようやっと搾り出されたマリアの言葉に、アマギリは椅子からずり落ちそうになりつつぼやいた。
信頼感ゼロである。案外と無意識から出た言葉だったから、本音に近い部分もあったのにとアマギリは思うのだが、マリアにとっては冗談にもならない冗談に過ぎなかったらしい。
そんなアマギリの滑稽な姿をマリアは鼻で笑う。
「家を出たと思ったら三ヶ月間で一度も連絡をしなかった方に、信頼感など持てる筈がないでしょう」
「―――まぁ、ご尤も」
「そういう直ぐに迎合してみせる態度が、他人の信頼を損ねるんですよ」
ため息交じりのアマギリを、マリアは冷めた視線で切り捨てる。
どうやら相当に、一度も連絡を取ろうとしなかった事がマリアはお冠らしい。
謝罪すべきか、宥めるべきか。
生憎とアマギリの記憶の片隅にも、こういう時の解決方法と言うものは記されていなかった。
何でこんな、我侭を言う妹を宥めるような兄みたいな真似をしているんだろうかと、自分の表向きの立場も忘れてそんな風に思ってしまう。
やはり人間、素の部分をそのまま見せるよりは、適度に猫を被っていてくれた方が良いなと、そういう風に納得しつながら、当たり障りの無い言葉を口に載せてみた。
「こう言ってはなんですけど、そういう他人に直ぐに迎合する部分こそが僕の素みたいなものではないかと思うんですが」
「……だらしない、そして情けない部分を素だなどと、平気で言わないでください」
「―――まぁ、ご尤も」
しかし、一撃で切り捨てられた。
腕を組んで口を尖らせて、完全にむくれた少女そのままの態度に、アマギリはどうしろって言うんだと頭を抱えたくなった。
そも、何で疲れているときに限って厄介ごとが起こるんだろうかと、今更そんな事を考えている。
どう考えても、”嫌な事は後回し”のツケが回ってきただけなのだが、それに気づかないのがそれこそアマギリの素だった。
それに気づいているマリアとしては、駄目だなコイツとかばっさりと切り捨てた思考だったりする。
同時に、こういう駄目な人間になら、ユキネも確かに世話を焼きたがるだろうとも思っていた。
それである程度、この駄目な男をコントロール出来ているのだから、マリアとしてはユキネを賞賛する他ない。
自分は三ヶ月前に割りと一念発起して言葉を伝えてみたのに、くびきの一つにすらなれなかったのだから。
いや、くびきの一つになりたかったのかどうか、正直未だに解らないのだが。今日此処で話してみても、やはり解らない。
そもそもであった当初は、アマギリ・ナナダンは母であるフローラのものだと言う意識が、マリアの中には大きくあった。
それを前提とした付き合い。初めは本当にそれだけだった。どれだけ近づこうと、所詮は母のもの。自分のものにする事は、決して不可能。ならば、当たり障りが無い、ある程度の友好さがあれば充分。
だが、それなりに長い事会話を重ねていれば、それだけでは居られない自分にも気付く。
会話のリズムが合い、それなりに気を許せて絞しまった少年。
初めての同世代―――と言うには少し歳が離れているが―――で同じ立場、つまり、母フローラに完全に庇護される立場と言う意味での、気を置く必要の無い仲間意識。
そうであるが故に、勝手な同族意識で気を許してしまえているから、相手にも同様に思って気を許して欲しいと、そんな風に無意識のうちに考えている。
無意識から来る、少女らしい甘えた態度。
そんな”甘え”を、マリアは意識的に許容する事が出来なかったから―――彼女に出来る事は、兄と同様自分を見せずに相手だけが中身を見せる事を要求するという、情けない姿。それを、猫を被って誤魔化し通す。
母が見ればきっと、素直になれば楽になるのにとそう言うに違いない。
それが出来れば、苦労しないと。脳裏に浮かんだ、夕食時に見た幸せ絶頂といった顔をした母の幻影を追い払う。そういえば、何時に無く上機嫌だった。アマギリが帰って来たからか? いやいや、それだけでああはなるまい。つまり、ラシャラと離している間に、アマギリと何かあったか。そういえば目の前のコイツも随分疲れているように見える。食堂には二人で現れた、つまり二人は一緒に居た。一緒に、疲れるような、おいおい、何をしていた?
―――精神衛生上、宜しくない。これは後で、考えよう。
マリアは首を振って、思考を追い払う。
急いで考えるとろくな事になりそうが無かったので―――何が一番ろくでもないかって、ようするにそれが真実である可能性が高い事だ―――後でゆっくり落ち着いて考えようと、思考を改める。
そして、そう考えた後でマリアは自身の思考に苦笑するほか無かった。
嫌な事は後回しと―――やっている事は、兄と全く変わらない。
「―――ホントに、反省しましょうね?」
苦笑交じりに言われても、アマギリとしては目を丸くするしかない。
勝手に怒り出して、勝手に機嫌を直してしまう。少女らしい気分屋な態度。全く持って、自分の手には負えないなと、アマギリも苦笑する事しか出来ない。
「了解しました、王女殿下」
結局、こうして、何時ものように。
踏み込んでいるようで、実は全くそうでもないような、どこか上滑りする会話が、きっと三ヶ月前と同じように続いていく。
真実、お互いが何を考えているかは、決して解らないまま。
その事に、少しの居住まいの悪さを覚えつつも、これが、いまやハヴォニワの日常だなと―――きっと二人とも同じように考えていた。
※ 何だかんだで似たもの兄妹と言う、多分そんな話。