・Scene 34-1・
「それでは、お先に失礼します」
屋敷の中央塔、共用部分にある食堂で夕食で済ませた妹は、一息入れる間もなく手短にそう宣言して、席を立った。
その言葉を受ける、テーブルを囲む他の三人の人間は様々だ。
一人は無関心に見えて、一人は気まずそうな顔。最後の一人は―――今日も、時間切れ。
何かを思おうとする前に、妹は既に食堂を後にしていた。
取り残される。
安心したような疲れたような、隣に座る少女が息を吐く音が、狭いながらも上品な丁度で誂えられた食堂内にむなしく響く。
カチャリと、対面、席一つとなりに座っていた少女がティーカップを手に取る音が響いた。
そして彼は―――やはり未だに、動くべきを見つけられなかった。
この後の展開は簡単だ。
隣に腰掛けた少女が工房に戻ると席を外し、対面の少女がカップを空にした後で席を立つ。
彼は独り取り残されて、何となく自嘲気味に笑った後で天井を見上げて―――そんな風に、もう一週間以上。
「いい加減、何とかした方が良いんじゃないですかぁ?」
だからその日も何時もどおりと思っていたのに、耳にその言葉が届いた時、彼は心底驚いていた。
いずれはそういう言葉を貰う日も来るだろうと思っていたが、それは彼の予想では、対面の席に腰掛けた少女からもたらされるものだと思っていたから。
「―――何かすっごい馬鹿にされてるような空気を感じるんですけど」
目を丸くして居た彼の態度をどう受け取ったのやら、少女は恨みがましい視線でそんな風に言うから、彼は思わず苦笑してしまった。
「それは、被害妄想ってヤツだろう」
感心していたんだけどなと、素直な言葉を口にしてみると、やはり少女はその言葉すらも疑うような目を向けてきた。
日頃の行いのせいだと、視線も合わさず紅茶を口に含んでいた対面の少女が纏う空気だけでそう語っていた。
「ホラ、ユキネさんもそう言ってますし」
それに調子付いたのか、隣に座る少女が大げさな口調で言ってくるのが些か面白くなくて、彼は鼻を鳴らして応じていた。
「何時からキミは空気で会話できるようになったんだ」
「あたし結構昔から空気読める子だったと思うんですけど……え? ユキネさんその驚愕の瞳はなに?」
「気のせい」
なるほど、一転して場の空気が停滞気味なものからにぎやかしい物に変わった事を思えば、自分で言うとおりに空気が読めているかもなと、彼は思った。
時に意図的に、この少女はあえて道化役を演じてくれている事を、彼はよく理解していた。
だから、だろう。
その情に縋って、彼はポツリと洩らしてしまっていた。
「ほんっと、どうするべきなのかねぇ」
呟いた瞬間、空気が再び淀んできた。
隣に座る少女は微妙な、何とも曖昧な表情で視線を逸らし、対面の少女が纏う空気はどこか呆れを含んだものに変わった。
―――空気を、読めよ。
室内に充満するその空気が彼には痛かった。
なんとも、上手くない。自分は空気を読むセンスには長けていたと思うのに、今のこの無様な状況は何だろうか。
自分は何時もどおりやっているつもりなのに、何処で歯車が狂ってしまったのか。
想像の自分と、実際の自分に、いつの間にか随分とズレが発生している気がする。
自身が認識し、そして他者が望み、恐れ、嫌悪する自分と言う人間から、今の自分はどんどんと離れてきている気がする。
”たかが”人間関係一つに手間取り、ろくな解決策を見つけられないまま放置してしまうなど、彼らしくないだろう。
―――それも、当然。なぜなら、僕は。
そうしてそこまで考えて思い出すのだ。毎度の如く、毎夜の如く。
不安そうに手を差し出す妹の顔を。
それを煩わしいものだと思い、そしてそう思う自分に嫌悪し、嫌悪した自分に戸惑い、結局彼は、現実の妹を前にしたときに何も出来なくなる。
どうにかすべきだと解っているのに。どうしてこうなったかも、解っているのに。
本当に、何時ぞや何処かの姫君にぼやいた時に思ったように、こういうときに対応できる知識を知っておきたかった。
政治的な対外折衝や、宇宙空間における船舶等の航行技術等の知識など、妹との微妙になってしまった関係を解消する手段の一つにもなりはしない。
全く持って、彼にはどうにも動きようの無い状況だった。
どうしてこうなってしまったかと言えば単純な話で、人が一人、増えたからと言うだけの問題である。
二年ほど続いて、それなりに確立していた人間関係の中に新たに投げ込まれた要素。
柾木剣士と言う名の、異世界人の少年。
一目見ただけで彼には解った。
ああ、あれが”そう”なのだと。
靄の掛かったように判然としない過去の全てを呼び覚ます触媒となるべき物が、あれなんだと。
纏う空気も、立ち居振る舞いもそれを連想させる何ひとつ無い只の少年に過ぎぬものなのに、だが柾木剣士の姿を見て彼が連想するものは故郷の姿だ。
今も食堂の窓の向こうに見える、星海のむこうで輝いている筈の、故郷の姿。
彼は故郷を愛していた。故郷に居る人々を敬愛していた。そこに在るものに、執着とも言える感情を抱いていた。
今でも、正しく形を思い出せなくても、それは変わらない。
変わらず愛し、敬い、焦がれている。
だから、再びそこへと至れるべき鍵の一片でも見えたのであれば、他の全てを投げ打って、それのみに執着できる自分になれると思っていたのに。
―――思っていたのに、今の自分は。
「姉さんなら、こういう時どうします?」
「―――?」
不意に黙考から立ち直った彼の呟きを受けて、対面に座る少女は少しの瞬きで答えた。
それを聞く態度を取ったと受け取って、彼は言葉を続けた。
「例えば昔から欲しかったものが目の前にあって。例えば、暇つぶしの最中に作ったその場限りの関係が脳裏を過ぎる。僕だったら、昔から欲しかったものを間違いなく選ぶと思うんですよね」
この場に居る人間であれば、その例えが何を意味するか、その選択がどういう意味を含むかも簡単に予想がつく。隣に腰掛ける少女ですら空気を堅いものに換えた。
で、あれば対面の少女が取る態度も想像するのは容易い。少なくとも、彼の理解の中では。
「たまに、私のことを”姉さん”って呼ぶようになったよね」
しかし、たっぷり一呼吸分の間をおいた後で少女から返された言葉は、彼を戸惑わせるのに充分な内容だった。
怒られる。
どう考えても、どんな言葉であっても怒気をはらんでいて然るべき―――そう、少女の立場からいって、そうあるべきだ―――と思っていたのに、しかしその声音は、何処までも穏やかで、慈しみに溢れているように思えた。
「へ? ああ―――うん」
「どうして?」
怒られて、その後の展開を想像していた彼は、慌てて少女の言葉の意味を考える。
姉さんと、確かに。
意図的に、無意識に、彼は対面に座る年上の少女の事をそう呼ぶ事がある。
理由は、色々。記憶に無い筈の本物の姉に、少女が何処か似ているからとか、自然お互いの立ち位置から、そんな風に思うようになったからとか。
それなりの頻度でそう呼びかけていたのだが、ひょっとして嫌だったのだろうか。
「まぁ、自分でも甘ったれてるかなぁとか思うけど、嫌だった?」
結局彼は、少女の思惑を理解しきれずに、当たり障りの無い言葉を用いて会話を広げると言う何時ものやり方を選んでいた。
その答えに、少女は特別怒るでも呆れるでもなく、当然と受け入れて首を横に振った。
「お姉ちゃんだから。―――弟を甘やかすのは、当然」
ニコリと微笑まれてそんな言葉を言われてしまえば、大抵の人間は参ってしまうだろう。事実、自分が言われた訳でも無いのに隣に座っていた少女は、うわぁと一言感嘆したような声を上げて頬を赤らめていた。
彼も自覚はしていないが、きっと似たようなものだろう。
そんな彼の無様がおかしかったのか、少女はもう一度微笑んだ後で、こう言った。
「だから、お兄ちゃんも、妹には優しくしてあげてね」
「―――」
言葉を返す余裕も無く。
ただ、席を立ち食堂を後にする少女の後姿を見送る事しか出来なかった。
取り残された―――文字通りの意味で。少年は力が抜け崩れ落ちるように背もたれに体を預けて、呟く。
「―――割と何時も、気を使っているつもりなんだけど」
不足なのだろうか。
「気を使うのと甘やかすってのは、別の意味だと思いますよ」
答えなど期待していない呟きに、反応したのは隣に座る少女だった。首を傾け視線を向ける彼のほうを見ようともせず、少女は更に言葉を続ける。
やってられないと、面倒くさそうに。
「尊重して丁寧に扱うって言うのは、そうしている自分は楽しいかもしれませんけど、相手からするとそれほど嬉しくも思えないんですよね。―――でも、殿下とマリア様の場合はそうでもないのかな。今のマリア様はどちらかと言えば―――」
「―――言えば?」
思わず問い返してしまっていた彼に、此処で少女は初めて顔を向けた。
ニコリと、微笑む。
「自分で考えてください」
常ならありえぬきっぱりとした口調で言葉を残した後、少女もまた食堂を後にした。
そうして結局、何時ものように。彼は独り取り残された。
天井を見上げて、呟く。
「自分で考えても解らないから、聞いているんじゃないか―――」
そんな拗ねた口調を聞き届けるものは此処には居ない。
妹の気持ちは解らず、姉の言葉が理解できず、従者は忌々しくも謎かけを残していった。
さてどうしようかと、彼が選んだ答えは―――きっと、他の誰が聞いても呆れるようなものだった。
※ と言うわけで、原作の時間軸に乗りつつ微妙にズレた展開に突入と言うか。
別名シスコン編。……いや、ブラコン編?