突き出された腕、握られた刃、噴き出した血だまり。
「さ……刺した……」
呆然と目を見開くルークに気づいているはイオンとグレンだけだ。おびえたような目で見るルークを見て、グレンは曖昧な表情をしていた。他の者は気づいているのかいないのか、それとも気づいていて知らないふりをしているのだろうか。次になすべきことを話しながらそれぞれの役割を決めている。
「さて、我々もブリッジの応援に行きましょう」
「ですが大佐は封印術(アンチフォンスロット)で譜術を封じられたんじゃ……」
「ええ。コレを完全に解くには数ヶ月以上はかかるでしょうね。ですが全く使えないと言う訳ではありません。……しかし、私以外にもコンタミネーションができる人がいたとは……グレン、あなたは戦闘は可能ですか?」
「あー、期待させて悪いけど無理。触覚は残ってるから剣握れるし歩けるみたいだけど、思い切り腕を振るとかすばやい動きはまだ無理っぽいな。気配の察知もどうにもにぶい。明日の朝ならもう動かせそうだけど、しばらくは戦力に数えないでくれ」
「そうですか……」
「なら、導師イオンとグレンとついでに小僧の護衛は私に任せておけ。貴様はそこの彼女とブリッジの応援にいけばいい……なに、まだ戦っている兵はいるだろうから、前衛はあればうれしいだろうが差し迫って必要というまででもあるまい?」
「……っ、ちょっと待てよ! 護衛って何だよ、俺だって戦える!」
「いや、お前は俺とイオンと護衛されとけ」
はっとしたように顔をあげて噛み付くルークをおし留めたのは、噛み付かれたアーチャーではなくグレンだった。
「なんでだよ! 俺だって、」
「お前は守られる側の王族で、それを抜きにしても一般市民だ。タルタロスの兵が全滅してて、どうしても前衛が必要ってわけでもない。……だから、わざわざお前がひとを殺す必要はない」
殺す、と言う言葉にルークの肩がぎくりと強張る。
「お、俺は……」
「ルーク、いいか。必要と在れば殺す、組織の為に殺す、国のために殺す、命令があれば殺す。それは軍人のあり方だ。殺し殺される覚悟を持って、人は軍人になる。でも、お前は軍人じゃないんだから……ひとなんて殺せなくていい。だから、今回は大人しく守られとけ」
「俺は、」
「それになぁ、マルクトにとっちゃお前も重要な護衛対象なんだぜ? なんせキムラスカの王族だからな。怪我でもされれば困るのはマルクトだ。ただでさえ険悪なのに余計な火種なんて持ち込まなくていい。それで和平がうまくいかなかったら、それこそ冗談じゃないだろ。なあ、そうだろうが大佐」
「そうですねぇ……本音を言えば前衛も欲しいところですが、確かに困りますからね。どうしても必要と言うわけでもないなら、ここはグレンの言うとおりに護衛されておいたほうがいいでしょう。……戦場で戦力にならない戦力はむしろ害悪だ」
「んだとぉ?!」
「おいおい大佐、人の神経逆なでするような言い方に気をつけろって。それとルークも抑えろ。ここで大丈夫だなんていったら、タルタロスを奪おうとしている『人間』を殺すための戦場に出ることになるんだぞ」
ルークの体が見てわかるくらいに強張った。震える手の平をぎりりと握り締めている。お荷物になりたくないという思いと、自分も戦えるという思いと、ひとを殺したくないという思いと。
グレンとて、この手を血まみれに染めた今でもひとを殺すことに恐怖がないわけではない。でも、今より余程ひどかったあのころの恐怖を思い出して苦く笑った。
「俺は、例えばお前を臆病だと詰る人がいたとしても、人を殺したくないってその気持ちはとても尊いものだと思う。俺にはもうそんなことを思える資格はないんだけど、だからこそ尚更そう思う」
「……グレン」
アクゼリュスでは、ただそこにいただけの何の罪のない人たちを。
レムの塔では、行き場を喪ったレプリカの命をくらって障気を消した。
旅の途中では山賊や野党に襲われそうになったら殺したし、立ちふさがるオラクル兵を殺したりもした。
生きるために殺して、進む為に殺して、誰かの嘆きを思いながら立ちふさがるものを砕いて進んだ。それが例えどれだけ世界から正しいとされることであっても、誰かにとって大切な人を殺し続けてきたのだということには変わりない。
殺して殺して随分殺してきた。はじめは覚悟も無いままに殺して、いつからか覚悟を決めてひとを殺した。
今更嫌だなんて、俺はもう言えない。
「俺の手はもう血まみれだからさ。でも、お前はまだ人を殺していないだろう。だから、ルークには人を殺して欲しくない。コレは俺のエゴだな。戦場では甘っちょろい考えだって分かってる。殺されなきゃ殺される場所だ。どれだけ尊い考えでも、それは戦場では通じない。でも、それでも俺はお前に人を殺させたくないんだ。……だからさ、守られといてくれよ、頼むから」
もう少し背が高かったら格好が付くんだけどな。そんなことを思いながら、ほとんどが同じ目線の頭をぐしゃぐしゃに撫ぜた。そして口をへの字に曲げて黙り込むルークに溜息をついて、こちらを眺めている軍人二人にもういけと手で合図をする。
ちらりとこちらを見ながらもこれ以上時間を潰すわけにもいかないと思ったのか、頷きながら駆け出していく。
「ではイオン様、また後ほど」
「はい、あなたも気をつけてください、ジェイド」
そしてジェイドに続いて部屋から出て行く直前、ティアは振り返って、黙り込んで俯いているルークのほうに視線を向けた。
「こんなことに巻き込んでしまったのは私の責任だわ。だから、私が必ずあなたを家まで送り届けます」
「………………」
「……だから、あなたはそこにいて。戦場は軍人が出る場所で―――殺す覚悟がなければ簡単に殺されることになるのは、真実だから」
「っ!」
ルークは顔をあげてティアを睨みつけるが、やがてその瞳も力をなくし視線は床の上をさまよう。それを見送って、彼女は駆け出した。遠ざかる足音を聞きながらルークが力なくポツリと呟く。
「……どうして、そう当たり前みたいに殺すだなんて言えるんだ」
「当たり前、なんかじゃないとおもいます。ティアも好きで殺してるわけじゃない。……きっと、彼女は優しい人だから」
「そうだな、イオンの言うとおりだ。ただ、軍人になると決めたときから覚悟してたんだろう。もう覚悟を決めてしまっているから、お前のようにはいられないんだ」
ルークの視界に入る、ラルゴからこぼれた赤い血だまり。さびた鉄のような匂いを感じて、吐きそうになる。バクバクと嫌な音を立てる心臓を服の上から握り、ルークは小さな声で尋ねるしかできない。
「……グレンは、ひとを殺すのは、恐くないのか?」
いつかの夜営の時。ガイに今と同じように尋ねたことがあった。
それに対する答えはあのときの彼とは少し違うけど、それでもグレンの心をそのまま表した言葉だ。
「……恐いさ。でも、俺は死にたくない。死にたくないんだ。生きていたい。ここにいたい。殺さずに止められるほど強くないから、殺してしまう。例え誰かを殺してしまっても、俺は生きていたいから」
「お、俺だって死にたいわけじゃない!」
「……そうだな。誰だってそうさ。でも、俺は欲張りだから。自分も、俺にとって大切な誰かも、何も喪いたくないから戦うんだ。……それが誰かの大切な人を奪うことになってしまっても」
殺したくない、殺されたくない、死なせたくない。混ざる感情はどれも本当で、けれどどれもが何も損なわずに成立することは決してない。この中の何かを優先させれば生まれるのはどれかの犠牲。
ぐずぐずと回り続ける思考はいつまでも結論を出してくれない。それでも必死になって苦手なりに考えていたら、ぬくもりの薄い冷酷とも取れる平坦な声が聞こえた。
「……小僧。考えるのは後でもできる。そんなことは今は捨て置け、グダグダ考えるな。マスター、ここは敵に位置を知られている。いい加減にここから移動するぞ」
「お、おい、エミヤ!」
「一つ言っておくぞ、小僧。私の主はコレで案外とんでもない夢見小僧だからそう言っているがな。お前は、自分の身が危なくなったら何の容赦も遠慮もせずに、敵を殺せ。相手が魔物であっても人間であっても人間によく似た何かであっても、だ」
「……っ」
「エミヤ!」
「―――後悔は、生きている限りいつでもできる。反省も、自己嫌悪もだ。だが、死んでしまってはもう何もできん」
平坦なのに、どこかで揺れているような声だった。ルークははっとして顔をあげる。鋭い鷹の目と刃色の瞳。背の高いグレンの従者からはまるで見下ろされているようで、どうしようもなくルークの体は強張る。表情らしい表情は浮かんでいない。ただ無表情だ。
なのに。それなのに、吐き出す言葉はどこか願いをこめた祈りのように聞こえた。
「生きている限り死にたくないと願うのは、生きているもの全てに平等に与えられた権利だ。例えそれが人間だろうが植物だろうが動物だろうが魔物だろうが偽者だろうが、誰にも何者にも妨げることも詰ることもできん。それでも互いにゆずれないものがあり誰かとぶつかり命を狙われてしまったとしたら、迷わず躊躇わず相手を殺してでも生き延びろ。……見知らぬ誰かの泣き顔を作ってでも、自分を大切にしてくれている人の泣き顔を作らぬように―――何が何でも、生き延びろ」
「エ、ミヤ……」
「忘れるな、小僧。命は自分だけのものではない。例えそれが自分自身のものであってもだ。殺したくない? 大いに結構。ただし己の命の危機には、どんなに恐ろしくても生き延びることから眼をそらすな」
それだけを言い切ったあと、ルークの反応を見ることもなくアーチャーは彼の脇をすり抜け廊下へと一人進む。迷いのないしっかりとした足取り、真っ直ぐと前に向けられた視線。揺らぐことのない背中はとても大きくて、そしてどこか遠い。
「……ったく。悪いな、ルーク。アレでも一応エミヤなりの激励っつーか、そんなのなんだ。でも、たぶん……俺の願いよりも余程現実的なことなんだろう。流すんじゃなくて、受け止めてやってくれ」
「……行きましょう、ルーク」
「あ、ああ…………」
こんなときでも穏やかな声音に促されて、のろのろと歩を進める。脳裏を駆け巡るのはグレンの願いとエミヤの呟き。
分かっている。泣きたくなるほど大切にしてくれていると自分でも分かるようなグレンの言葉も、いっそ冷血なまでのエミヤ言葉も、どちらもルークのことを思ってのことなのだと。
それでもまだ迷っている自分が情けなくて、小さく口元を歪めた。
「ちっくしょう……カッコワリい…」
ジェイドの放った下級譜術がライガルに当たり、仰け反ったそのライガルにマルクト兵が殺到し、彼らの背後に飛びかかろうとしたグリフィンの翼にティアのナイフが突き刺さる。そしてすぐに歌われる譜歌に目に見えて動きがにぶくなる魔物をジェイドの槍が貫く。
初期の襲撃にくらべれば随分と減ったとは言え、まだまだ大量に魔物たちがいる。それを倒しながら、ジェイドは先ほどから感じる不可解さに眉をしかめた。
「おかしい……」
思わず、と言った風にこぼれたジェイドの呟きをティアは拾い上げ、怪訝そうな顔をする。
「大佐、どうかしましたか」
「ティア、あなたは今まででオラクル兵の姿を見ましたか?」
「いいえ、そういわれると……アリエッタとラルゴしか見ていません」
「やはり。あの爆撃で士気が落ちたとしても、こうまでオラクル兵の姿が見えないとは……まさか」
「……大佐?」
「いや、しかし我々がここを離れてはブリッジが……これならルークはこちらに連れてきておいたほうがよかったかもしれませんね」
溜息をつく。溜息をつきながらも、後方から飛びかかろうとしていたグリフィンの頭を振り返りもせずに突いて軽く眼鏡を直した。
「あの人外がついているならめったなことにはならないでしょうが……イオン様が心配です。とにかくこちらも早く片付けねばなりませんね」
「やられたぞ、グレン。囲まれている。魔物ではないな……コレは人間、オラクル兵の気配だ」
「うへえ、なんだよそれ。前後?」
「ああ……そうだな、敵兵力の厚いブリッジや甲板上層に魔物だけを投入する。万が一生き残りがいたとしても、『オラクル兵』の姿を確認していないのであればいくらでも逃げ切れる。だからそちらに主力を誘導しておいて、オラクル兵達はこっそりと後方から侵入、と。そういった感じだろう」
「……なるほど。てことは、エミヤ」
「ああ……オラクル兵の姿を目撃してしまった兵達は……皆殺しにされているだろうな」
「そんな!」
「目撃者を残していてはマルクトと教団との紛争になる……敵も軍人だ、甘さなど残してはいないだろう」
思わず声をあげたルークに、アーチャーはいたって冷静にそれだけを返した。
「甲板に出たいところだが、そちらには魔物がいるのだろうな……まったく、またこの狭い場所で戦わねばならんとは……マスター?」
「ムリ。ラルゴのは不意打ちで辛うじてどうにかなったけど、まだ戦闘はムリ。一回受けたら腕しびれそう」
「やれやれ、難儀なことだ。では、包囲が完成される前に分断兵力を各個撃破するしかないな」
「どっちから行くんだ」
「まずは前方を突破する。導師イオンは任せたぞ、マスター。ある程度距離を空けて、しかし離れすぎない程度に追ってきてくれ。……おい、小僧」
「……あんだよ」
「これから私は『敵』という名の人間を殺しつくす。……よく見ておけよ、小なりとは言えそれが『戦場』という地獄だ」
そう言って、彼は双剣を改めて握りなおし陸艦の狭い廊下をかけていく。そしていくらか走った後、徐にすぐ側の部屋へと押し入り―――悲鳴が聞こえた。金属同士がかち合う音。すぐにやむ。そしてその部屋からでて、その悲鳴を聞いて駆けつけたオラクル兵を片っ端から切り捨てていっていた。
その様子を、少しはなれたところから物陰に隠れてルークたちは見ていた。
「……イオン。多分、見ないほうがいいぞ」
「いいえ…これは僕の無力が招いた結果です。……僕が、この景色を見ていなければ」
剣戟の音。悲鳴、悲鳴。廊下に流れる水たまり。フォニム灯の反射で赤みがやけに濃く映る。剣戟、悲鳴、剣戟、悲鳴。剣戟の音。悲鳴。
――――――ああ、そうだ。剣は誰かを殺すための技術だった。
単純に、鍛えるだとか趣味だとかそう言う意味のものも在るけれど。それでも、剣術は人を殺すための技術からはじまっているのだ。彼が夢中になって打ち込んでいたものは、誰かを殺すためを目的に鍛え上げられた技術だったのだ。
そんな、当たり前のことを今更になって思い出す。
吐き気がしそうになってそれでも視線はそらせない。本当はそらしてしまいたかった。見たくない。それでも、グレンもイオンまでもがじっと見つめているものから一人だけ視線をそらす、ということが嫌だった。自分がとんでもなく弱虫で情けない気がして、それだけはできなかった。
奥歯をかみ締める。拳が震える。悲鳴ばかりが耳の奥に焼きつく。自分が殺している訳でもないのに、心臓がずきずきと嫌な音を立てながら鼓動する。
悲鳴がやんだ。あたりを伺っていたらしいアーチャーが少しだけこちらに振り向いて片手を挙げる。それにグレンは手を上げることで返して、それを見たアーチャーはまた走っていった。
「よし、じゃあ行くぞ。イオン、ルーク」
「…はい」
「……ルーク、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「っ、ああ、行くんだろ」
走って、廊下に拡がる赤い水たまりを飛び越えることもできなくて踏み越えていく。パシャン、と普通の水音のように跳ねた音と、足もとで擦れながらもついてくる赤い靴裏の跡に更に気分が悪くなった。