フーブラス川を越えて更に数日。やっとのことで、国境線の町カイツールにたどり着く。その検問所を遠目に見やって、ティアがふと思い出したように溢す。
「アニス、無事だといいのだけど……」
「ん? ああ……そういやあいつ、結構な高さから落ちたよな」
「しかも走行中のタルタロスから、だぜ。俺なら三日は動けない自信あるなー」
ティアの言葉にルークもグレンも心配するような声をあげるのだが、対してマルクトの大佐殿とローレライ教団の導師様は何の憂いもなく小さく笑いすら浮かべている。
「大丈夫だと思いますよ? アニスですからね」
「アニスですから。きっと無事でいてくれます」
「信用にしてもすごい言われようだな、その子……一体どんな子だよ」
「ははは、元気いっぱいの女の子ですよ~」
「はい、とても頼りになるんです」
「へ、へえ……しかし、そのアニスって子は一人でフーブラス川を渡ることになるんだろ? ここにいなかったら、ちょっと戻って様子を見るくらいは……」
「いえ、それは心配しなくていいでしょう。アニスですから」
「はい、アニスですからね」
アニスと直接面識のないガイはつい思ってしまう。アニスって何者。イオンもそうだが、あのジェイドにここまで言い切られるほど信頼されている、ということを考えればきっと大丈夫なのだろう。しかしそれにしてもとんでもない言われようだ。想像する。元気いっぱいに剣か槍か薙刀か弓かもしくは拳で魔物を倒して進む、頼りになる女の子の図を。
「…………女ってこえぇ」
「ガイ? おい、お前なんで急に遠い目してんだよ」
いやあ別にー、とガイは力の抜けた声でルークに返して、ふと目視できるようになった検問所をみておや、と目を丸くする。
「どうやら先客がいるようだな。このご時勢に国境を越えるなんてなんて物好きな……って、あー、なんか小さい女の子みたいだが、もしかして」
「あれってアニスじゃねーか?」
「え、やっぱアレが?」
「うーん、ピンクにツインテール、背中に人形。どこをどう見ても、ルークの言ったとおりタトリン奏長だろうな」
「そうね……彼女が背負ってる人形は、アニスの人形だわ」
「あんなに小さい子が……?!」
「……ガイ、お前どんな絵面想像してたんだ?」
「いやぁ……よくあんなに小さいのにフーブラス川を一人で渡れたな、と」
「ああ、まあ、そりゃたしかにそーだな」
ついこの間渡りきったフーブラス川を思い出してルークは納得した。いくら流れが緩いとは言え大きな川だったのだ、水を吸い込んだ靴は重くなって、気を抜けば簡単に転げてしまう程度の流れの速さはあった。そんな川の中でも魔物は襲ってくるし、そんな中で一人であの川を進んだアニスは実は結構戦闘技能に秀でているのかもしれない。
しかし。それにつけても不思議なのだが。
「アニス……タルタロスから落ちたんだよな」
「私達の目の前でね」
「で、俺らはセントビナーから徒歩だったけど、そこまではタルタロスで行ったんだよな」
「ええ」
「…………なんでアニスのほうが先にここにいるんだ……?」
「すまん、ルーク……これは流石に俺もわかんねぇ」
心底不思議そうにぼやかれたルークの言葉に、こちらも心底わからなそうにグレンも答えた。それに対してジェイドとイオンは「まあアニスですからねー」「アニスですから」と、また同じことを笑いながら答えている。
アニス、何者? ガイだけではなくルークもグレンもティアも、一斉にそう思わずにいられようか。
そして声をかければ届く距離になって、後姿だけでも間違いなくアニスだと確認できる。マルクト兵となにやら問答しているようだ。少しはなれたところからでもその内容が聞こえてくる。
「証明書も旅券もなくしちゃたんですぅ。通してください、お願いしますぅ」
「残念ですが、お通しできません」
甘えた声で『お願い』するアニスの言葉に、きっぱりと硬い声で拒絶するマルクト兵。やがてアニスは頭を抱えて「ふみゅ~」と可愛らしく言った後、くるりと体の向きを反転し、
「―――月夜ばかりと思うなよ」
低い、ドスの聞いた声で平坦に呟いていた。思わず固まる一同だったが、この中では彼女の本性を一番知っているのだろう。導師イオンはくすりと小さく笑いさえして、やっと合流できた自身の導師守護役に声をかけた。
「アニス、ルークに聞こえちゃいますよ?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、アニスは「ん?」と顔をあげた。その時の声も今までの不機嫌が混ざった低いものだったのだが、ポカンとした目をしてこちらを眺めている赤い髪の青年を見て取って、あっと言う間に笑顔を浮かべて声までも変えてしまう。
「きゃわ~ん、アニスの王子様~」と可愛らしく作った声をあげて、大喜びしながらルークの腰辺りに抱きついて、皆が無言でアニスを見る中、そのアニスの落差にガイは頬を引きつらせながらこっそりあさっての方向を向いていた。
「……女って、こえー」
ああそうだ、だから女性陣は絶対に怒らせたらいけないんだぜガイ。その呟きを聞きながらグレンは心中でぼやき、ぼんやりと蘇る思い出を眺めながらふっと小さく息を吐く。
これからの流れを思い返す。何があるか、どう対応すべきか。あまりヴァンの注意を引くわけにはいかない。いや、逆か。不確定要素としてヴァンにわざと注意させて監視させ、マルクトで妙な動きをしているように見えるエミヤの隠れ蓑になったほうがいいか……?
グレンが一人黙考している横で繋がる会話は、多少誤差はあるがいつか聞き覚えのあるものだ。
「ルーク様、ご無事で何よりでしたー! もう心配してました~」
「こっちも心配してたんだぜ? でもよくあの高さから落ちて無事だったな」
「はい、アニスちょっと恐かった……。……てへへ」
「ところでアニス、よく私達より先にここにこれましたね」
「大佐ぁ~、大佐はアニスちゃんのこと心配してくれてなかったんですか~?」
「いえいえいえ、アニスのことを信用してたからこそですよ?」
眼鏡を直しながら語尾に音譜マークでもつきそうな語調で言い切られて、アニスは半眼になる。大佐って意地悪ですぅーとぼやいた後、カイツールまで戻っていた商人と一緒に行動していたのだと答えた。その道中の魔物に対する護衛としてフーブラス川まで馬車、川は流石に徒歩だったが、川を越えた後も乗り継ぎの馬車に同行していたとのこと。
なるほど、それなら確かに先に着くこともあるだろうが……本当に行動力のある女の子だ。
皆がなんとなく改めてアニスの行動力に感心していたが、ふと懸案事項を思い出したティアが困ったような顔をする。
「ところで、どうやって検問所を越えますか? 私もルークも旅券がありません」
「―――――ここで死ぬ奴にそんなものいらねえよ!」
そんな声が聞こえてきた。
皆がはっとしてその声の主を探そうとするのだが、それよりも先にどこか高いところからその影は飛び降りてきて、いまだ状況をつかめないルークを切りつけようとする。うだうだ考えるまでもなく、体が動く。
「ルーク、伏せろ!」
ルークが吹きとばされる寸前で、二人の間にグレンが割り込む。伏せろといいながらも間に合いそうになかったので、ルークを思い切りひっつかんで後ろに突き飛ばしてしまったのだが。後ろのほうで「ぐお!」とか潰れたような声が聞こえてくるが……許せルーク、お前のためだ。
ついでにすまん、エミヤ。俺、これから目立つわ。隠れ蓑になるからブラウニーよろしく。遠い空の下にいるであろう相棒に軽く謝りつつ、ちらりと視線を巡らせて周りの状況を確認する。
アニスは何だかんだ言いながらも、正体不明の襲撃者が出てきた時点でイオンを護れるように彼の前へと出ている。ジェイドはすぐに動けるようにしているがこちらに手を出そうとはしていない。ガイとティアは助けるためとは言え、グレンに思い切り突き飛ばされてしまったルークに駆け寄っている。
そして割って入ってきた人物の顔を見て、襲撃者のアッシュはちっと舌打ちをする勢いで顔を顰めた。
「またてめえか!」
「うっさい、お前教団の団服着ていきなり白昼堂々道なかで人を斬りつけるとか本気かよ? そんなにひとを殺したいならまずどこの所属か解らないように姿隠してから闇討ちするんだな、この直情径行!」
「んだと、この野郎!」
力で押し合って、ぎいんと刃の音を立てて離れる。体の位置を入れ替えてアッシュの背がみんなに向くように注意して、これなら多分ルークにこいつの顔は見えないだろう。
それにしても、自分の世界のアッシュもいつも短気な男だったが……どこの世界でも変わらないらしい。こんな風に言い合いできるとは思ってもみなかったので、また小さく笑いそうになるがそれは抑える。
数秒の間に激しく何度か打ち合い、ふとアッシュがいっそう深く眉間にしわを寄せる。やれやれ、こいつにばれたということは、皆にもばれたか。せっかく「人ならともかく魔物の時は俺が出る!」と言い張るルークに従って大人しくイオンの護衛に回っていたというのに。
「てめえ……なんでお前が」
「べっつにー。使い手が世界にただ一人ってわけでもないだろ?」
「はぐらかすな!」
「アッシュ!」
アッシュが苛々と怒鳴り散らしたと同時、アッシュの背後から叱責するような声が飛んだ。グレンの肩はぴくりと揺れるが、恐らくヴァンの登場に舌打ちしたアッシュにはばれてはいないだろう。「師匠!」とルークの嬉しそうな声と、「ヴァン!」と警戒するようなティアの声が聞こえる。その二人をすっと片手で抑えて、彼は一歩一歩こちらに近付いてくる。
「どういうことだ。私はお前にこんな命令を下した覚えは無い、退け!」
「ちっ!」
大きく後ろに跳び退り、アッシュは渋々剣を納めてどこかへと消えていく。その姿を見てほっと息をつき、剣を消す。グレンのその動作を見てヴァンは驚いたように目を丸くするが、すぐに穏やかに笑う。穏やかに笑ってはいるけれど、目が笑っていない。それが分かるようになった自分を、ここでは誉めるべきだろうか。
「このたびは弟子を助けてくれたこと、私から礼を言う。貴公は?」
「あんたの弟子を気に入って一緒に旅してる、ただの護衛だよ。天下の謡将閣下に名乗るほど偉い名なんて、ないですよ」
軽く流して、ルークのほうへと駆け寄る。突き飛ばした時にうっかり力を入れすぎたのか、微妙に頭を抑えながらじと目で見られる。
「グーレーンー」
「うわあ、ルーク。人がせっかく格好よーくヴァン謡将に対して名前を隠してみたというのに、いきなりチャラかよ」
「あん? なんでそんなことしてんだよ」
「っふ、覚えとけ。今から大事なことを言うぞ。男にしろ女にしろ、秘密が一つ二つあったほうが格好良いからに決まってるだろ!」
「………………」
なんだか色んなほうこうから微妙な目でみられてる気がするけど気にしないことにした。だって本当のことなんて話せるわけがない。
「なあルーク、お前襲ってきたやつの顔見たか?」
「ん? いや……背中しかよく見えなかったけど。っつーかさ、グレン。お前の剣ってもしかして俺と同じ剣術、なのか?」
「あれ、ばれたか」
「ばれたか、じゃねーよ! 何で今まで言わなかったんだよ!」
「えー、だって言ったらルークは腕試しだの鍛錬だのって言って、チャンバラ挑まれそうだったしさ。木刀持ってないし、危ないだろ」
「ぐっ」
言葉に詰まったということは自分ならそう言っていたかもと自分で納得してしまったということだ。むむむと眉間に皺を寄せるルークをみて、おお、流石に似てるなと思ったことは内緒だ。まあ似ていても目つきが違って雰囲気は大分違うのだが。
「まあ俺の剣のことはどうでもいいことさ。それよりも……そこで険悪な雰囲気出してるご兄妹どうにかしないと」
「え……って、おい! 何でお前師匠に武器抜いてんだよ!」
「……ティア、武器を納めなさい。お前は誤解しているのだ」
「誤解……?」
「頭を冷やせ。私の話を落ち着いて聞く気になったら宿まで来るといい」
そう言って宿のほうへと歩いていく背中に、ルークは慌てて声をかける。そうだ、グレンも言っていたことだ、と思って。
「ヴァン師匠! あの……ガイに聞いたんだ。探しに来てくれて…………ありがとう」
そのルークの礼を聞いて、ヴァンは小さく笑ったようだ。声が柔らかになる。
「苦労したようだな、ルーク。しかしよく頑張った。流石は我が弟子だ」
「へ……へへ!」
嬉しそうに笑うルークと立ち去るヴァンをみて、グレンの胸中にはほろ苦い何かが広がる。ああ、そうだ。大好きだった。本当に尊敬していて、世界の誰より信頼していた。けれど、先ほどルークにかけたヴァンの柔らかい声の中には。
……今ではその声に何が潜んでいるのか、分かってしまうのが悲しい。
呆然としているティアにイオンが話しかけている。ルークが何事かを言って、それに冷めた声でティアも返している。これから宿屋に話を聞きに行くのだろう。
さて、ヴァンにはどの程度として自分が映ったのか。己の知らない、アルバート流を使う者。それだけでも興味を引くだろうが……過去を探られると厄介だ。なんせ、どれだけ探ろうとしても過去自体がないのだから。
しかし、興味を引いて気をそらせるにはやはり都合はいいのだろうか。どれだけ悩んでもはっきりとした答えは出ない。頭を振る。
そして嘘をついているわけではないが、随分と白々しいヴァンの話しの内容を聞いている間、グレンはカイツールの軍港のことについてずっと考えていたのだった。
カイツールの軍港に入ると、港のほうから獣の鳴き声のような音が聞こえる。それと共に聞こえるのは―――ひどく小さな人の悲鳴。舌打ちをして、グレンは一気に走り出す。
「グレン? おい、どーしたんだ? ……行っちまった」
「魔物の鳴き声……」
ティアが呟いたと同時、ふわりと大きな影がさす。思わず空を仰いだ彼らの目には飛行する魔物の姿。
「ん? アレって……根暗ッタのペットだよ」
「根暗ッタって……?」
「アリエッタ、六神将妖獣のアリエッタのこと!」
「ひぃっ! わ、わわわ分かったから、分かったから触るな、触らないでくれえええぇぇぇ!」
説明ついでに物分りの悪いガイをアニスがぽかぽかと叩いているのだが、女性恐怖症のガイは奇声を上げて、震えながら動けないまま固まっている。
「これは……悲鳴?」
「おい、グレンが港のほうへ走って行ったってことは……」
「行きましょう!」
大慌てで走り出すティアとルークを見送り、ジェイドは溜息を一つついて未だにぽかぽかとやられているガイを見る。そして人の悪そうな顔をして、
「ほらガイ、喜んでないで行きますよ」
とだけ言い置いて二人を放って追いかけていく。喜んでるんじゃなくて嫌がってるんだー! と叫べば今度は不機嫌そうになるのはアニスだった。
なあに、アニスちゃんじゃ不満ってことぉ?
違う、アニスがどうこうじゃなくてというかとにかく離れてくれえええ!
女好きだが女性恐怖症という男の悲鳴は、イオンがアニスをいさめるまでしばらくやむことがなかったそうだ。
港に着けば、そこは何かが燃える匂いと血の匂いが充満していた。船のことごとくから煙が上がって、倒れた人たちがそこら中に転がっている。ただ、辛うじて聞こえるうめき声から生きているのだということは分かるが……それでもルークはむせるような血の匂いに気持ちが悪くなりそうだった。
「響長! 幸いここにいる人たちはまだ皆死んでない、治癒譜術を頼む!」
「分かったわ」
聞こえた声に顔を向けると、血まみれになって気を失った人間を担いだグレンの姿。自分を見るルークの姿に気づいて、背負っていた人を壁に寄りかからせてティアに任せると小走りになってルークに近付いてくる。
「ルーク、大丈夫か。顔色が悪いぞ。……血の匂いがダメなら引いておいたほうがいい」
「……うっせ、だいじょぶだってーの…」
返る声には覇気が無い。そんなルークに苦笑をこぼしつつ、グレンは彼の頭をぐしゃりと撫ぜる。
「そうか。なら、色男と大佐に止血を頼もう。俺は止血の仕方なんてあんまりしらねーし、怪我人をここに集めるだけだけど……お前も手伝ってくれるか? 服が少し血で汚れるかもだけどな」
「いくら俺でも人が死ぬかどうかで服を気にするわけ無いだろ……ここにつれてくれば良いんだな」
「ああ、頼んだぜ」
ぽんと背中を叩かれる。そのままガイとジェイドに話をしている。イオンも手伝うといっているようだが、襲撃者がまだいるかもしれないならアニスと一緒にいたほうが良いと却下されていた。とりあえず近くに居る人に駆け寄り顔を覗き込む。息はある、まだ生きている。腕を肩に回して怪我人をガイのほうへと運んでいると、港の奥のほうから叱責するような声が聞こえた。
「アリエッタ、誰の許しを得てこのようなことをしている!」
その声に、頭に血が昇った。血まみれで呻いている人たち。赤い血だまり。燃える匂い。ぜんぶが胸糞悪い。こんなわけわからねえことをしやがったヤツに一言でも文句を言ってやろうと、ルークは怪我人をガイに任せると港の奥のほうへと走り出す。
「お、おい! ルーク?!」
「アニス、僕はここに皆さんといます。ルークが無茶をしないように見てきてくれませんか?」
「え……あ、はい。分かりました! でもイオン様、くれぐれも皆から離れないでくださいね!」
港の奥。停泊している船のどれからも煙が上がっている。
そこにいるのは彼の師匠と、その部下だと言う少女だ。少女。あのフーブラス川で、大きすぎる力を持っていることを自分で理解していない、とグレンに評された少女だった。
追いかけてきた軽い足音がルークに追いつき、そしてヴァンが剣を突きつけている先を見て大きな声をあげた。
「あーーー! やっぱり根暗ッタ! 人にメイワクかけちゃ駄目なんだよ!」
「アリエッタ、根暗じゃないもん! アニスのイジワルー!」
「ヴァン師匠! 何があったんだよ一体!」
「ルークか……アリエッタが、魔物に船を襲わせていた」
ヴァンは剣を納める。が、それは見逃したと言う訳ではない。すぐにアリエッタをきびしく詰問する。
「アリエッタ、誰の命令でこのようなことをした」
「総長……ごめん、なさい……。……アッシュにどうしてもって、頼まれて」
「アッシュだと……?」
ヴァンは驚き目を見張る。その一瞬の隙をついて、アリエッタは手を上げた。その手を掴むように大きなフレスベルグが彼女を引き上る。そして彼女がその背に登ったかと思えば、不意にルークの後方から他の魔物が急降下して、ルークを掴んで空に連れて行ってしまった。
「うおわ?! 放せ!」
「ルーク!」「ルーク様?!」
怪我人をティアの側において、ふと何か羽音のようなはばたきが聞こえた気がして空を見上げた。青い魔物の背に乗った少女が、こちらを見ている。そして彼女の乗るフレスベルグの後ろに続く、魔物の足に捕まっているのは。
グレンの背筋に氷塊が滑り落ちる。
「ルーク!」
「っの、やろ! 放せっつーの! うわぁ!」
暴れようとして、しかし魔物に落とされかけてルークは慌てて大人しくなる。何だこれは。何だこれは。こんなこと、俺は知らない。こんな出来事、俺は知らない。油断していたのか、心のどこかで安心していたのか。あの時助けられなかった人たちを、今助けられていたから。
行き先はきっとコーラル城。そしてきっとこれはアッシュの命令。ならばルークを連れて行ってなすことは一つ。
完全同位体。レプリカとオリジナルの大爆発。コンタミネーション。ああ、これだけはどうあっても止めなければならないことだったのに。
「アリエッタ、今すぐルークを放せ」
「聞けません……。アッシュに、どうしても……って、お願いされたから」
「もう一度言うぞ。今すぐ、ルークを、放せ」
「ルークと、船を整備できる整備士さんはアリエッタが連れて行きます」
「……最終通告だ。今すぐルークを放せ」
「返して欲しければイオン様がコーラル城にこい、です!」
「アリエッタ!」
激昂したグレンの声に振り返ることもなく、アリエッタはルークをつれ去ってしまう。
「ルーク!」
「ルーク?! クソ、待てっ!」
「これは困りましたね」
ティアとガイとジェイドがそれぞれ何かを言っている。何を言っているのか考える暇など無い。
考えろ、考えろ、考えろ。覚悟を決めろ。願うのは、天下無敵のハッピーエンド。それは今でも願っている。そうあってほしいと心の底から願っている。けれど。
叶わなかった世界から、叶う夢の形を見たくてここにいる。全てを救いたかった。皆を護りたかった。手に届く限りの人たちを。けれど。
俺の手の平はちっぽけで、小さくて、どれだけ必死になって手を伸ばしても、叶えたかった願いは簡単にすり抜けて零れ落ちていってしまうなら。
『届きもしないものにまで手を伸ばしていては、届くはずだったものにまで手が届かなくなるかもしれんのだぞ』
だからつけるべきは優先順位。
何よりも叶えたい願いの大筋は。
『ルーク』が消えずにみんなの隣で生きること。続く明日を何の疑いもなく信じて生きていけること。当たり前のように未来を誰かと約束できるような、そんな世界を。
俺の世界では叶わなかったけど、せめてそんな夢のような世界がどこかにはあるのだと。
覚悟を決めろ。
「――――俺の願いに立ち塞がるなら」
俺は、■を切り捨てでも押し通る。
「グレン……?」
低い声でなされた静かな宣誓の言葉に、全てが聞き取れずとも不穏な響きを感じたのだろう、イオンが心細げにこちらを見ている。そんなイオンに顔を向ける。できるだけいつもの笑顔を心がけて笑いかける。
「ということでイオン、俺はすぐルーク追いかけるわ。ヴァン謡将に怪我人と舟の手配頼んでお前らもなるべく早く来い、って言っといて」
「グレン!」
止めようとする言葉を置き去りにして、グレンはコーラル城へと駆けていく。