「父上! ただいま帰りました」
玄関を入れば、ファブレ公爵とセシル将軍が出迎えに出てきた。グレンはそれをあらかじめ知っていたので、頭辺りは彼らにとって死角になるように注意し、こそこそとジェイドの後ろあたりに隠れた。どうやらジェイドだけではなくガイもその色の危険さを理解してくれているようで、さり気無く隠すのに協力してくれている。
「悪いな」
「いいさ。俺も戦争が起こらなきゃいいって思ってる一人だしな」
ぼそぼそと会話を交わしている間、公爵はじっとルークを見ていたが、特に何かを言うではない。一度だけ瞬きをして、報告はセシル少将から受けた、無事で何よりだ、と言っただけだ。お帰りの言葉も無い。普段どおりだと受け止めているルークの心境を思って苦々しい気持ちにもなるが、公爵も公爵なりの苦悩があることを分かっているぶん、グレンは遣る瀬無かった。
そして、こっそりと体の位置をずらしてさらなる死角へ入る。丁度いいタイミングで、公爵がガイのほうを向き声をかけてくる。
「ガイもご苦労だったな」
「……はっ!」
「使者の方々もご一緒か。お疲れでしょう、どうぞごゆるりと」
「ありがとうございます」
イオンに目礼を返した後、再び公爵の目はルークに向く。
しかし今度こそ、と心のどこかで期待するルークへの言葉はない。
「……ところでルーク、ヴァン謡将は?」
「え……師匠? ケセドニアで分かれたよ。後から船で来るって……」
その言葉に公爵は傍らに控えていたセシル少将をちらりと見て、少将はそれだけで何を命じられたかが分かったようだ。
「ファブレ公爵、私は港に」
「うむ。ヴァンのことは任せた。私は登城する―――キミのおかげでルークが吹きとばされたのだったな」
「……ご迷惑をお掛けしました」
玄関から出る途中、ティアの脇を通り過ぎようとした公爵は確認するように彼女に声をかけた。その言葉に、ティアは申し訳なさそうな声で謝罪した。彼はティアの方を見ないまま、更に続く質問をする。
「ヴァンの妹だと聞いているが」
「はい」
「ヴァンを暗殺するつもりだったと報告を受けているが、本当はヴァンと共謀していたのではあるまいな」
「……共謀? 意味が分かりませんが……」
「そうか。まあよかろう。行くぞ、セシル少将」
それ以上はもう何も言わず、公爵は屋敷から出て行く。ルークは一瞬だけ表情を歪め、しかしすぐにいつものふてぶてしい顔に戻ってその背を見送り首を傾げた。
「なんか変だったな、旦那様」
「ヴァン師匠がどうかし……「ルーク!!」げぇ……」
背後から聞こえた声にルークは嫌そうに呻き、恐る恐る振り返る。そこにはきらきらとまぶしい金色の髪の、
「ナタリア……」
「まあ、何ですのその態度は! 私がどんなに心配していたか!」
駆け寄ってくる金髪の少女は、耳ざとくルークのうめき声を聞いていたらしく眉根を釣り上げてルークににじり寄ってくる。私、不機嫌ですと全力で主張する態度に微妙に及び腰になりながら、ルークは助けを求めるようにガイのほうを振り向いた。ガイー……と声なき訴えを聞いて、苦笑しながらフォローする。
「まあまあナタリア様……ルーク様は照れてるんですよ」
「ガイ!」
「へ」
「あなたもあなたですわ! ルークを捜しに行く前に、私のところへ寄るようにと伝えていたでしょう? どうして黙って一人で行ったのです!」
標的変更。かつかつとにじりよられてガイの顔色が悪くなっている。なんだか女性恐怖症がアニスのおかげで磨きがかかっているように見えるのは気のせいか? というか、もしかしなくてもガイがのこのこ報告して捜しに行こうとしたなら、ナタリアは問答無用でルーク探索について行く気だったのかもしれない。
……確実にガイの首が飛ぶんじゃなかろうか。うん、そりゃ行けないって色んな意味で。
ガイも一応ギリギリまで堪えていたようだが、あまりの近距離に一気に体が逃避行動を開始する。瞬きひとつの合間にばっとナタリアから離れて、近くの柱の影に隠れて怯えている。
「お、おおお俺みたいな使用人が、城にいけるわけないでしょう?!」
「あら、何故逃げるの」
「ご存知でしょう!」
「ルークが成人を迎えたら、お前は私の使用人にもなるのですよ? いい加減少しは慣れなさい」
「ムリです!」
ガイ・セシル21歳、年下の女の子に詰め寄られて涙目です。うわぁ、頑張れ。
他人事にグレンがそう思っていたらガイの壁がなくなって、ふとナタリアと目があう。条件反射、というか。グレンは思わずギクリと体を強張らせるのだが、ナタリアはそれには気づかない。ただ髪と目の色を見て、彼女の目が少し驚いたように丸くなった。
「ルーク……こちらの方は?」
「ああ、グレンっつーんだ。俺のダチ。ここまで護衛してくれたんだよ……あそーだ、ラムダス! おい、ラムダスいるか?」
「お呼びでしょうか、ルーク様」
「ああ、コイツさ、今までずーっと俺の護衛してくれてたんだ」
一度言葉を切り、しばらく視線をさまよわせた後ルークはおもむろにグレンの右腕をとる。その腕に未だに残る深い傷跡をみてその後遺症を思い出し表情を歪め、しかしはっきりとそれを執事に見せて言い切った。
「こいつの腕、この傷は俺をかばったやつで……コイツがいたから俺も助かったって言いきれる。だから、礼はしっかりしてくれって父上や母上にも言っといてくれ」
「おい、ルーク。だからそんなにお前が……」
「うっせー軽くじゃ俺の気がすまねーんだよ! ラムダス!」
「かしこまりました。では、旦那様がお帰りになられたら直ちに申しておきます」
「ああ、頼むぜ」
一礼して下がっていく執事にほっと息をついていれば、なんだか視線を感じてルークはいやいや振り返る。予想通りというかなんと言うか、そこにはじっとこちらを見つめるナタリアが。そしてその視線が、こう……熱いような気がしないでもないというかなんというか……いや、これはむしろグレンが喜ぶ時の感じの……
「ルーク……驚きましたわ。あなた、こちらに帰るまでに随分と成長なさっているようですわね」
「やっぱりお前もか! ったく、ティアもガイもなんでそう……だああ、畜生! わりーかよ?!」
「いいえ、とても喜ばしいと思いますわ……グレン、と仰られまして? ルークをここまで護衛してきてくれたこと、彼の婚約者として私からも深くお礼を申し上げます」
婚約者、と言う言葉にぼんやりナタリアを見ていた何人かがぴくりと表情を動かす。イオンとジェイドは何かを考えるような素振をして少し視線を落とし、アニスは露骨に舌打ちでもしそうな表情で、ティアは特段表情に動きはない……一見は。
ただ、なんとなーく、不機嫌というほどではないにしろ、なんとなーく、こう……いやよく解らないのだが、元ルークとしての贔屓目が入っているのかもしれないが。面白くなさそうな雰囲気に見えないこともない、かもしれない?
うーむ、分からん。フェイスコントロールできすぎだよこの16歳。ルーク、いろいろ頑張れ。
この空気を分かっていなさそうなルークを心中で他人事に応援しつつ、相手は王族今俺庶民、と念じながら言葉遣いに気をつける。
「いえ、彼の友として当然のことをしたまでですよ。こちらこそ、ナタリア姫から礼を授かるとは恐悦至極にございます」
「あら。ふふ、声はなんだかルークと似ていますのに、態度はぜんぜん違うのですね。ルークが礼儀正しくなってるみたいで面白いですわ」
「…………………………」
ナタリア。お前の天然は時々恐いよ。というか、天然で核心つくのはやめてくれないか。特にジェイドとかジェイドとかジェイドとかジェイドとかの前でそう言うことを言うのはやめてくれないかな本気でさぁ!!
「声は、背格好や体格、主に骨格のつくりが似ていたら似るそうですので……ははは、そういったところでしょう……ハハハハハハ」
「あー、俺とグレン? そんなに似てるか?」
「まあ自分の声を自分で聞くのとひとが聞くのとじゃ音が違うらしいからな……。似てるって言ってるなら似てるんだろ……世界には似た顔の人が三人いるっていうしな、声が似てる人は結構多いいんじゃないのか! うん、きっとそうだって! うんうん!」
「偶然ですか……随分気前の良い偶然の重なりですねぇ」
「うっせー大佐! それよりもですねナタリア姫! 何だかさっき公爵様がヴァン謡将がどうとか言ってたんですが、なにか分かりませんか?」
いくら嘘をつけるようになったとしても、心構えの無い突発的事態にはまだまだ弱い。顔がこれ以上引きつる前に何とか話を変えようと、やや強引にファブレ公爵の話を振った。この話をナタリアが知っているのは先刻承知だ。思ったとおりナタリアはすぐに思いついた様子で、グレンからルークへ視線を戻す。
「お父様から聞いていらっしゃらないのですね。ルーク、あなたの今回の出奔はヴァン謡将が仕組んだものだと疑われているの」
「はあ?! なんじゃそりゃ!」
「それで私と共謀だと……」
納得がいったように言葉を溢したティアを見てナタリアがふとティアの方を向き、すぐに厳しい表情をしてルークに詰め寄る。
「あら、そちらの方は……、ルーク! まさか使用人に手をつけたのではありませんわよね!」
「なっんでそーなるんだよ、お前の頭どーなってんだ?! コイツは家の使用人じゃねー、ヴァン師匠の妹だ! それよりもヴァン師匠はどうなっちまうんだ!」
「姫の話が本当なら、バチカルに到着次第捕らえられるでしょう」
「最悪処刑ってところじゃねーの?」
「はぅあ! イオン様、総長が大変ですよ!」
「そうですね。至急ダアトから抗議しましょう」
「ナタリア、師匠は関係ないんだ! だから伯父上にとりなしてくれよ、師匠を助けてくれ!」
「……分かりましたわ。ルークの頼みですもの」
必死に言い募り頼み込むルークをみてナタリアは一度ふぅと溜息をつき、その代わりに、と言葉を切る。その言葉の続きが簡単に想像できてしまって、ルークはどこかげんなりしたような顔になってしまう。
「あの約束、早く思い出してくださいませね」
「ガキのころのプロポーズの言葉なんて覚えてねーっつーの……」
「記憶障害のことはわかってます。でも最初に思い出す言葉が、あの約束だと運命的でしょう?」
ぎょっとした人約二名。どうやら親から決められた婚約と言う訳ではなく、記憶を失う前のルークからナタリアへプロポーズを送っていたらしい、ということに驚いたのだろうか。……まあ、確かに、今のルークから見てみればとてもではないが想像できないことではあるが。
笑いながら紡がれるかなり積極的な言葉に流石にルークも照れていて、顔を赤くしていた。その後照れていることを誤魔化そうとしたのか、やけにぶっきらぼうにナタリアに返す。
「いーから、とっとと帰って伯父上に師匠のとりなしして来いよ!」
「もう……いじわるですわね。分かりましたわ。それと、ルーク。シュザンヌ様は無事だと鳩が届いても、ずっとあなたのことを心配しておられました。早くお顔を見せてさしあげて」
「わーぁってるよ、言われなくても。すぐ行くっつーの」
ナタリアが出て行ったのを見送った後、ルークはくるりと体の向きを変え皆に振り向く。
「じゃあ適当に屋敷見てってくれ。俺ちょっと母上に顔見せてくる」
いささか焦っているような早口で言い切り、ルークはそのままばたばたと走って行った。ナタリアにはぞんざいに答えていたが、実は内心で結構心配していたようだ。グレンはちらりとティアの方を向く。そうすればやはり申し訳なさそうな顔をして沈んでいるティアがいて、ふぅと小さく溜息をつく。
「グランツ響長。そんなに気になるんだったらあんたも奥方に謝ってきたらどうだ?」
「え……」
「あんた生真面目そうだしな。そうでもしなきゃ気がすまねーんじゃねーの?」
「そうね……そうさせて貰うわ」
「あ、ティア! 奥様の部屋はそこの応接室から右手の廊下に出て真っ直ぐ……やれやれ、聞こえてたかな?」
「走ってくあたりよっぽど責任感じてたんだろうなぁ……ほんとに真面目だねー、どーも。ま、迷子になったらそこら中にいる使用人にでも道聞くだろ」
軽い感じで言いながらも、グレンは口元が緩みそうになるのを止められない。グレンの知っている彼女も、いつも彼の母親を気遣っていてくれていた。そんなことを思い返していると、顔は緩みそうになるのになんだか泣きそうになる。これはヤバイ。
物珍しそうに屋敷に飾られている品を見て回っているアニスへ、少しはなれたところから説明しているガイに中庭までの道を聞く。本当は聞かなくても分かっているのだが、こういうことは一応面倒くさくてもやらなければ。ガイに礼をいい、グレンは一人で中庭に出た。
ノックをすれば小さな応え。できるだけゆっくりと扉を開ける。
「母上、ただいま帰りました」
「……! ルーク……本当にルークなのね?」
「はい、母上」
ベッドの上で体を起こしている母の近くにまで歩いて、顔がよく見えるようにベッド脇に膝をつく。ほっとしたように伸ばしてくるやせた手をとって、軽く握った。ひんやりとした、やせた指。大きくてごつごつした力づよい師匠の手とも、温かな友人の手とも違う、弱弱しいてのひら。
けれど、ルークはこの手が決して嫌いではなかった。
「母は心配しておりました……おまえがまたよからぬ輩に攫われたのではないかと…」
「大丈夫だよ、ちゃんとこうして帰ってきたんだから」
目の前の母が記憶の中よりもいくらかやせてしまっているような気がして、どうにかして安心させようとできるだけ優しく笑う。ルークは優しく笑うというのはなかなか苦手だと自覚しているのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。あまり干渉しようともしない父、過保護なまでに心配してくれる病弱な母。
今回のことも、七年前の件を思い出さなかったわけがないのだ。ルークの無事を知らせる鳩が届いても、ずっと心配のし通しだったのだろう。
……父も、この母の半分くらい心配したり優しくしてくれればいいのに。なんて、埒の明かないことを考えても無意味だと知っている。笑う。けれど、シュザンヌはどこか表情がはれない。
「……母上?」
「ルーク、怪我などはしておりませんか?」
「ああ……大丈夫だよ。旅先で会った和平の使者とか、導師とか、あと友達になった護衛とかさ、鬼みたいに強いやつ等ばっかりなのにバチカルまで送ってもらったからな。それに母上だって知ってるだろ? 俺はオラクル騎士団総長のヴァン師匠の弟子なんだぜ?」
「……そうですね。怪我は無いのですね……安心しました」
この様子では、魔物相手では思い切り前線に出てました、なんて知られたら絶対心配するな、と。流石にそれくらいは分かっていて、いかにも安全そうに言う。……本当は、エンゲーブでは泥棒間違いされるわフーブラス川を徒歩で渡るわコーラル城では六神将に攫われるわ散々だったのだが。
再び強調して大丈夫だと言おうとしたのだが、不意にノックの音が響いてルークとシュザンヌは扉のほうを向く。どうぞ、とシュザンヌが言えば扉を開いて入ってきたのは、
「奥様、失礼します」
「……ティア?」
「ティア……ではあなたがヴァンの妹のティアさん?」
「はい」
静かに頷きながら、ティアはシュザンヌの側にまでやってきて膝をつき頭をたれる。
「奥様、お許しください。私が場所柄も弁えずわが兄を討ち倒さんとしたため、ご子息を巻き込んでしまいました」
「そう……では今回のことは、ルークの命を狙ったよからぬ者の仕業ではなかったのですね」
「ローレライとユリアに誓って違うと断言します」
「あー、母上。コイツ無愛想だけど悪いやつじゃないんだ……多分。巻き込んだからって家まで送るって言ってさ、本当に送り届けてさ、俺今ここにいるし。あー……だから、えーっと……うん、今回は七年前みたいな、やべぇヤツじゃなかったんだよ」
「そう、ルークをここまで……ありがとう」
真摯な少女の謝罪と、不器用ながらの息子の言葉にシュザンヌはやっとほっとして、小さく笑った。まさか、あの息子がこのようなことが言えるようになるとは。不器用なりに優しさを持っていたルークが拙くながらもそれを表現できるようになっていて、どうやら家に帰るまでの旅はそれなりに息子へ成長を促したようだ。
本当に、七年前とは違い悪いことばかりではなかったらしい。表情が緩めば、すぐ側にいたルークもほっとしたような気配がする。ティアをもう一度よく見る。綺麗で真っ直ぐな青い目をした―――彼女の息子のように不器用で、けれどきっととても優しい少女だ。
しかし、ならばどうして。
「……ティアさん、何があったかは私には分かりませんが、あなたも実の兄を討とうなどと考えるのはおやめなさい。血縁同士戦うのは、悲しいことです」
「お言葉……ありがたく承りました」
「ルーク。おまえが戻ってきてくれたんですもの、私は大丈夫。他の皆に顔を見せてきてらっしゃい」
「ああ、うん……じゃあ、失礼します、母上」
「失礼いたします、奥様」
ファブレ夫妻の寝室の扉を後に出たティアが閉めた後、ルークは「あんま気にすんなよ」とティアに声をかけていた。何が、とティアが問えば、ルークは途端にしかめっ面をしてがりがりと頭をかきながらそっぽを向く。
「母上が倒れたのは、元から体が弱いだけだからな」
「……ありがとう」
らしくないらしくないらしくないああ俺らしくないっつーの畜生! と散々心うちでは自分を罵倒しながら言った言葉に返ってきたのは、小さく笑いながら紡がれた礼で、ルークはなんだか妙に居た堪れない気持ちになる。
畜生、やっぱり慣れないことはするもんじゃねえ。
一人心中でぼやきながら彼女に何か言葉を返すでもなく、そのままずんずんと廊下を歩く。しばらくそのまま歩いていれば後ろから聞こえる軽い足音が少し小走りになったのを聞いて、小さく舌打ちをする。女性恐怖症の癖に女性に優しい天然軟派師から耳にタコができるくらいくどくどと言われたことがあるので、仕方なく歩調を緩めた。再び小さく笑うような気配がした気がするが、そんなの絶対幻覚だ。
冷血女がそう一日に何度も笑ってたら明日は空から槍が降るに違いない。ああそうだ、ジェイドが礼儀正しく優しくなって、ガイの女性恐怖症が一気に治るくらいありえない。ああそうだ、ありえないありえない。
そんなことをつらつらと思いながら、ふと廊下から中庭が見える窓をみて、そこでペールと話しているグレンの後ろ姿を見た。あの庭師とグレン。何を話しているのか想像もつかない。すぐ近くの中庭に続く扉を開けて、彼らに近付く。ペールにはグレンの背でルーク達の姿が見えないようだし、グレンは戦闘中でもないので気を張ってもいないのだろう、ルークの接近に近付いていない。
そして、声をかけようとしたときだった。
「セレニアの花がすきなんです、俺」
ひどく柔らかな声だった。愛しさをこめた優しい声。そのくせ、どこか泣き出しそうな。
「昼に閉じて夜に咲く。タタル渓谷に群生する景色が一番綺麗だ。夜になれば一面のセレニアが咲いて、記憶粒子がゆっくりと辺りを満たして、現実なのに夢の中にいるみたいでとても綺麗で」
どんな表情をしているのかは、ここからでは解らない。ただ、いつか―――あのエンゲーブで見たときの様に、泣き出しそうな顔で笑ってる、そんな気がした。
「だから、俺は―――」
「……グレン?」
その言葉の続きが聞きたくて、けれど何故か聞くのが恐く感じられて、ルークは思わず声を出していた。
中庭に続く扉を開ける。円をかたどったような中庭の中心にはバチカルの紋章が描かれている、光が降り注ぐ中庭。見慣れた景色のはずなのに、やたらに懐かしくてグレンは困ったような顔をした。辺りを見回す。ああ、やっぱり。そんな想いがあふれ出す。中庭に植えられた花を世話する、老人の背中。
―――ペールが気合を入れて俺の屋敷の庭に花植えててな。ジェイドの旦那も感心するくらいなんだぜ? さすがはペール、ってところか……お前も今度見にこいよ
耐え切れずに声をかけた。
「綺麗な花壇ですね」
「おや……これは、どなたでしょうか」
「ああすみません、自己紹介が遅れました。俺は今日帰ってきたルークに雇われてた護衛で、グレンと申します。本日はルークに屋敷に招かれまして、彼が奥方に顔を見せに入っている間好きにしていいといわれたのですが……周り中に高価なものがあるのに慣れていないもので、つい中庭に出てきてしまいました」
「そうですか。ルーク様を無事に送り届けていただきありがとうございます、とわしからも礼を言わせていただきます。わしはペールと申します、このファブレ公爵邸に雇われている庭師でございます」
「ペールさんですね。……はじめまして」
久しぶり、の代わりに交わすはじめましてはもう何度目だろうか。手を差し出せば、泥のついた手袋を取って握手をしてくれる。今なら分かる、剣を握り続けていた固い手の平。遠い戦場を知っているのだろう消えかかった剣ダコは、老齢の乾いた皮膚にそれでも未だに形を残して刻まれている。知っていなければ気づかなかっただろう。だから、そのまま知らない、気づかなかったふりをする。
……その気になっていれば、嘘をつくなんて大分慣れた。
「それにしても、綺麗な花ですね。俺、あんまり花とか詳しくないんですが……でも、花の名前は知らなくても、この花壇すごく好きです」
「さようですか。そう仰っていただければこの老いぼれもまだまだ捨てたものではないということですな」
柔らかに笑うペールに笑い返す。懐かしい声。結局彼がガイと一緒に出て行ってからは会っていなかったから、本当に久しぶりで。
会いたかったよと言いたかった。ペールはすげえなって言いたかった。飽き飽きだって言ってたけど、本当は結構嫌いじゃなかったんだぜ、って言いたかった。花を見に行きたかったよ。ガイの自慢のペールの庭を見に行ってみたかった。
……目の前に居るのは彼ではない彼で、もう言えやしないことだけど。
「昔、」
代わりのように今ここで懺悔する俺を、誰か叱ってくれないだろうか。
「昔、友達に……庭を見に来いって言われたことがあるんです」
「行かれたのですか?」
小さく笑って首を振る。向ける顔がなくて、もう行けないんです。
そう言って。それだけだ。後は何も言わない。ペールも詳しくは聞こうとしない。喧嘩でもなされたのですか、とも何も尋ねられなくて少しほっとして、けれど感じるどうしようもない罪悪感。
皆なら。あの時間を共に過ごした皆なら。はっきりと違うと思える。だって共に過ごした時間がない、記憶が無い、交わした約束も築いた信頼も。あの時とは違うはっきりとした距離感でその違いを思い知れるのに、遠過ぎず近過ぎずだった人のほうが厄介だ。中途半端な距離感に、馬鹿みたいに懐かしさを感じてしまう。
それとも、この懐かしさはペールだけだろうか? あの約束を交わした彼と自分とに馴染み深かったこのひとだからこそなのだろうか。だから守れなかった約束を思い出して、こんな気持ちになるのだろうか。
解らない。ただ、これからもこういう人がいるとしたら厄介だ。何の覚悟も無ければついうっかり泣いてしまいそうで。
「グレン様は」
「はい?」
「グレン様は、何かお好きな花がございますか」
「……どうして、そんなことを」
「さて……そうですねぇ、わしの作った花壇を綺麗だといってくださって、ルーク様を無事に送り届けてくださったグレン様に、少し恩返しがしたいと思いましてな」
「好きな花……」
「はい。……何かございますか」
そう言われても。
知っている花なんて、好きだと言える花なんてひとつしかない。
今でも鮮やかに思い出せる。光の少ない場所でも凜と咲く花の美しさを。
「セレニアの花がすきなんです、俺」
白い花。始めて見たのは夜の渓谷。
世界の外を見たとき足元一面に咲いていた。
「昼に閉じて夜に咲く。タタル渓谷に群生する景色が一番綺麗だ。夜になれば一面のセレニアが咲いて、記憶粒子がゆっくりと辺りを満たして、現実なのに夢の中にいるみたいでとても綺麗で」
始まりと決意と―――愛しいひとと。
俺にとっては色々な意味を持つ花だから。
「だから、俺は―――」
「グレン?」
呼ばれて、はっとして振り返る。己のものと同じ緑の瞳にはどこか不安そうな色が見えて、すぐにいつものへらりとした笑みを浮かべる。よう、とルークに軽く手を上げて、もう普段どおりの自分の顔でペールに聞く。
「と、言うわけです。俺の好きな花、ここの花壇でも育ちますかね?」
ルークに声をかけられるまでの表情がどんなものになっていたか自分では解らないが、精神状況的に普段とはかけ離れていたのではないかと、今更思う。けれどペールはやはりそのまま受け止めて、詳しくは聞かないままでいてくれた。
「むう……難しいですが、その分やり甲斐がありそうな花ですな。努力してみましょう……それはさておき、ご無事で何よりです、ルーク様」
「ああ、ペールも相変わらずそうだな。で、お前らさっきまで何の話してたんだ?」
「んー? ルークを護衛してくれたお礼に、俺の好きな花を育ててくれるってなー」
「なかなか難しい注文でしてな、今からどうしようかと考えているのです」
「へぇ……ペールにでも育て辛い花ってあるんだな」
感心したような響きに、ペールも私もまだまだですからな、と穏やかに笑って答える。辺りを見回して、中庭に出ているのがグレンだけだと気づいたらしい。首を傾げるルークに苦笑を返して、ペールに別れを伝える。
「では、ペールさん。縁があったらまた後日。ルーク、お前が帰ってきたなら戻ろうぜ。皆は多分玄関とか応接室に居るんじゃないか? 俺はただ単に装飾品の由来とか聞いてても詰らなさそうだったから、ふらふら中庭に出てきただけなんだし」
「ふーん」
「……あなたも、夜のタタル渓谷に行ったことがあるの?」
近くの廊下への扉の方へ歩いている最中に、なんだか咎めるような声が聞こえてちらりと振り返る。どうやら夜の渓谷は危険なのに、と注意せねばとでも思ったらしい。うん、だってきっとティアの頭の中ではグレンの精神年齢もルーク並みなのだろう、多分。分かっていたけれど本当に真面目だ。別に遊びに行ったわけでは無いのだが……下手すりゃ長くなりそうだ。
こうなったらこのシャイボーイあんどシャイガールが、なんとなく以降の話題に掘り返しにくい感じに答えねばなるまい。
「そうだよ、昔―――女とね」
にやりと口元にたちの悪い笑みを浮かべて言ってやった。嘘はついてない。ただ始まりのその時は雰囲気もへったくれもなかっただけで、それを言葉にしていないだけだ。そして言葉面だけを取れば微妙に自分たちとも当てはまるということに気づいたらしく、ティアは注意したくともできないような状況で、ルークはなんともいえない顔をしていた。
そんな二人にクツクツと笑いをかみ殺しつつ、廊下への扉を開ける。
「ほら、そこでぼーっとすんなよ二人とも。ルーク、タトリン奏長をあんまりほっぽってると装飾品が一つ無くなってるかもしれないぜ?」
「あ? ひとつくらいなくなってもいいんじゃねーの? どーせ予備だのなんだの倉庫にでもあるんだろうし」
「……それ、絶対あの子の前で言っちゃだめだぞ」
「大丈夫じゃない? 流石にアニスも公爵家から、なんて……そもそも何かを盗もうなんて真似はしないわよ」
「……本当にそう思うか、響長。あのアニス・タトリンだぞ」
「「…………」」
黙り込む二人に、ついにグレンは声をあげて笑った。